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1 :2017/12/16 〜 最終レス :2017/12/17
夏の暑さと冬の寒さが混在する富士山。>>3-のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。

【!】荒らしにご注意ください。
(ワイエディ [123.255.128.*]) 栗城ハンター主回線
(ワッチョイ [175.177.5.17]) 埋立荒らし
(アウアウカー [182.251.242.*]) 埋立荒らし
(アウアウウー [106.133.56.*]) 埋立荒らし
※他にも回線あり


■ ご覧の皆さまへ
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1-
悪質転載ブログ「wi1d28jp」は踏まずにNG登録を。
 
■ 普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


【栗城史多まとめ @ ウィキ】
富士登山やエベレスト他のまとめはこちら。
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版]
【知恵袋のベストアンサー】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496
【オクサマファイル】
的確な指摘です。ご一読を。
http://baby01.net/blog/364
当板の栗城スレや「海彦山彦/栗城下山劇場」もおすすめです。


※前スレ
145m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/

2 :
 
※過去スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/
143m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513137620/
144m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513231450/
 

3 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。

初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

4 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
 

5 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

6 :
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
 

7 :
 
■富士山の天気

・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;ba=kk
 

8 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

9 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物

◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
 

10 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
 

11 :
 
■高山病の予防と対策

高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

12 :
 
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/
143m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513137620/
144m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513231450/
145m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/
 

13 :
 
■ 異常者による荒らし予告

SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

■ 連投荒らしの抽出
(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

14 :
 

■ 異常者の埋立荒らし
 
たまりかねたのか、ついにIPスレを荒らし始めました。

 ・Tnx6epSX0(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1gw.html
 (ワッチョイ 9b0c-oF0E [175.177.5.17])
  Tnx6epSXは富士山スレでも連投
  ↑
・Tnx6epSX(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1g.html
 12/13(水) 15:55〜 78レス


・qQ7C0sQZa(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/cVE3QzBzUVph.html
 (アウアウカー Sa11-cUpN [182.251.242.15])
 12/13(水) 23:30〜 5レス
  ↓
・koSDLj0ha(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/a29TRExqMGhh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.15])
 12/14(木) 00:01〜 11レス
  ↓
・9gdrDp+Da(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/OWdkckRwK0Rh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.7])
 12/14(木) 04:05〜 現在継続中


・vbny93KSa(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/dmJueTkzS1Nh.html
 (アウアウウー Sa89-HfL4 [106.133.56.192])
 12/13(水) 23:31〜 5レス
  ↓
・FdgDSmA3a(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/RmRnRFNtQTNh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.192])
 12/14(木) 00:01〜01:09 12レス
  ↓
・RcU6+V3Ha(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/UmNVNitWM0hh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.163])
 12/14(木) 01:21〜 現在継続中


【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【自演マルポ】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1-

 

15 :
 

■ 異常者のIPの一つ
 
【175.177.5.17】
 
'175.177.0.0 - 175.177.255.255'に対する不正行為の連絡先は'hostmaster@nic.ad.jp です

inetnum:175.177.0.0 - 175.177.255.255 netname
:iTSCOM
descr:その通信会社
descr:541-1 Ichigao-tyou Aoba-ku横浜神奈川225-0024日本
国:JP
admin-c:JNIC1-AP
tech-c: JNIC1-AP
ステータス:ALLOCATED PORTABLE
発言:スパムや虐待の苦情のための電子メールアドレス:abuse@itscom.jp
MNT-IRT:IRT-JPNIC-JP
MNT-によって:MAINT-JPNIC
MNT-下:MAINT-JPNIC
最終更新:2011-02- 17T08:16:02Z

 

16 :
またキチガイが転載してるw

と思ったら、スレタイから転載禁止を消す姑息なことをしてるしwwww

17 :
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で
ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し
た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ
て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周
辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置
づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹
本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する
人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい
く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は
山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の
大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退
と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には
多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により

18 :
使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世紀末から
19世紀初頭にかけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東か
らの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年
の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀
前半まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営
した。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B
6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅間神社を中心とし
た河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた
。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師
の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰
退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接
に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口
浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)
2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士
御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(
もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初と
され、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。
富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室
浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂
が整備されたようである。また、社記によると958年、二合目
は冬季における参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里
宮が建立されたという。江戸時代以降

19 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅

20 :
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴

21 :
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士

22 :
側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2
,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いてい
る。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されて
いる。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火
詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1
千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の

23 :
合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(
返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の
補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理
1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化
財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修
理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育
委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本
殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
り境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理
計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。
池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万?(20
08年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m前後
ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社
の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山と
して崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。
この湧水には灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神
・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には、
地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊たま(神霊)との
説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池
の名称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し
、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用さ

24 :
吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに
増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退す
る。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年

25 :
   ∧__∧
   ( ´∀`)
   ( O┬O
≡◎-ヽJ┴◎

26 :
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境

27 :
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約
8,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3
,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部から
の最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から
の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散
発的に発生している。延暦19年−21年(800年−802
年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出
した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(17
07年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では
約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって
富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や
噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述
されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があった
くだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富
士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述があ
る。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況
が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には
、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。宝永大噴火に
ついての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめ
とした文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙
や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ
小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3
00年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990
年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。し
かし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており
、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現
在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技
術総合研究所は、1999年から約15年分の踏

28 :
富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。こ
の絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が
見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒
例行事に形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利用す
る人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南
端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作られた石
碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社
の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その
起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の
英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳
だが、文献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の
建物施設を持たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分され
た遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この形態は古代からの
富士山祭祀の形を止めていると推定されており、遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。発掘調査では12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破
砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付けている。
また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀
式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅
間神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田
の神として里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた
。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横よ
り発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲が

29 :
里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった様々な富士
信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神
としての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士
御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本
宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)
1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定
1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直し
ほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本
殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士
山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿
や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指
導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北
東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路
を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている
。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。
最古の部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に
建てられ富士講最盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉
田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によ
って成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の
屋敷地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、
塩廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、
下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿
屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。ま
た、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認
される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、19
62年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取
り壊す意向であったが、富士吉田市が

30 :
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照富士山と

31 :
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)と
して発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶
岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にと
もなう山体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確な
ものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計1
2回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている
活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊
も懸念されている。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流)
:東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生
し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺
を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331
年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災
害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表す
ることはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時
開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加し
た際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎
データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法な
どが集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(
内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザード
マップの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直
轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で
滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘ
リで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたこ
とを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関

32 :
神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士

33 :
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県
指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文
化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講
によって大きく発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区に
あって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として
、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を
避けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿
って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家住宅は
、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大
な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わ
せて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号
を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野
大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が
建築されており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している
。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯197
6年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設
備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵
の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画
」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する
内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりの
ある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士
山の頂上付近に日の入りが重なる様子

34 :
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂

35 :
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言

36 :
ばれていた。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている。そ
の起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の
建立にあるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記
録も残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験
道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259年には、現存す
る大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み
富士山で修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考
えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再
興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大
日如来の銘(1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である
聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村
山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士
峯修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間
に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村
を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本
の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−
ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印と
する伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢力は
地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ
以降衰退しつつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の
大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年

37 :
れ、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士
山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する
。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、こ
の河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有
名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかり
のある芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中
この河口湖が最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も
、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真表
法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地
が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然
公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−
34−2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)201
1年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八
海富士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つ
の湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池
、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に
関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢
れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ
、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写真忍
野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護、修理
・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景
観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事業により忍野
八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011年「天然記念物
忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎内樹型16
17年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津
胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規
模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀っ
た。1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発
見され、開祖が祀った焼入の地の浅間

38 :
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43

39 :
。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きてい
る(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境
富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹
海」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3
月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1
929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静
岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として
地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から

40 :
在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定される。
また、浅間神社は1913年改築されたものを基本としている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、1906年
の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は19
40年代まで継続された。現在は1970年代より活発になった地域住民による伝
統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間神
社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町等では現在でも富士
垢離の行事が継続されている。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山
の南東麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦夷征伐の
際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興し
たとある。記録上神社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅く
ともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿
は1823年の再建である。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害
を受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,40
0人の登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心
的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田
家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする等して権威を高
めているが、山頂部で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一
環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設され、189
9年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者
を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍演習場

41 :
神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に
御子を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付け
た。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとと
もに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫な
どが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・
整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物と
して指定2010年「山梨県南都留郡

42 :
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基

43 :
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われるよう

44 :
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかったため、須
山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真須山
浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花
開花姫命を主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古
来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事を行い
、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地であるとされる現在の地に
お礼のために社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるの
は、1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け
、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須
走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳
)の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の
権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、
須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、こ
れらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場
合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の
残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲
葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝永噴火では3m以
上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の部材
を使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水
路があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が隆
盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数
は1800年の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には
神社神官や御師が発行した木版印刷による神影や神符

45 :
然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半

46 :
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月1

47 :
に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサ
クヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。
浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(
浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂に
ある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰
」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が
普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」
(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富
士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良
香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐
の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共
有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イ
エズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「
富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河
国という関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上
人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初
の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立
したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村
山口、須山口、須走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外
ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特
別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(125
9年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(
村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』に
は神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称
が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」
と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−12
75年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」と
ある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの
造営や内院散銭取得における優先権を得たことを

48 :
真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間
神社(山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山
を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅
間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発

49 :
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧が

50 :
より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より
上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになって
いたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と
同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」とい
い、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」
とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい
、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永
禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(
1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形
態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は
人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼
び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山
道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。富
士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財であ
る「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産か
ら構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は
静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田
市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。このとき富士山八
合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。
その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各
登山道が追加指定された。登山史富士登山の伝承においては伝
説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。富士山の
登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時代の甲斐
の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の

51 :
おける富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落とし
ての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富
士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7
冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と
、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。また、社記によると958年、二合目は冬季における参詣が難儀であること
から河口湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にと
もない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの
開通等もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激
減する。また、富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理
が困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転
することとなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる
二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社であ
る。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本
殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)1985年本宮本殿・
文化財保護法の下に重要文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995
年外部の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010

52 :
写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀
念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市
により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市によ
り保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の
南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂
嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外
海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年と
いわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好
まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知られ
ている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形と
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたと
えたという説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万
葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松
原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝
地として認識され、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と
足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で
渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半
島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌
等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞
台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した
。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場
面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見ら
れる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山
の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェー
ツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとともに
、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山
を左に配する構図が描かれ、この構図

53 :
玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河な

54 :
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載

55 :
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財

56 :
、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定さ

57 :
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)

58 :
記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて
いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富
士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ
火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際
に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、
または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年
前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久
安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を
繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、
登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士
講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。
特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口
だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182
8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬
の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸
と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い
始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、
これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても
寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」
と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より
も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという
所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内
緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り

59 :
て指定小佐野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉田市
上吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避けるため、1572
年に旧地である古吉田地区から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅か
ら北東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家
住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大な屋敷地に
建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わせて現在地に移転してきたと
伝えられる。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱
岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が建築されており、
小佐野家住宅には所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定197
7年消防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を
行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い2010年
「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行
する内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから
景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられたほか、別荘
地としても整備された。ゆかりのある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が
散見する。富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ
、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火山活動により
形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地
として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが

60 :
による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでいるため
、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真
三保松原(現在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−
写真三保松原の写真表法的保護、修理・整備の経緯1922年史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定1976年名勝「三保
松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除1
989年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝
地内の一部が追加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」
保存管理計画書を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的
価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕
著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な
普遍的価値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3
776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、そ
の自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰
の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる
顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を
育んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い
関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間
と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本
計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕
著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成
する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝地帯に
おける「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整
理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のもの
C富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構成要素A富士
山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮奥宮・東北奥宮(
久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内
院・小内院・馬の背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割
石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田

61 :
内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い
の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に
委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛
けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院
散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走
が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され
た。安永の争論安永元年(1772年)に、須走

62 :
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は

63 :
配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争
論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済
も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確
定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と
須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わ
る大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されるこ
ととなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉して
いたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行
のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より
上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山
頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に
定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士
山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に
指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山
梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・
中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中
道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山
道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の
眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が
得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定し
た。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通
過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをするこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行
される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月

64 :
術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛
飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を描いている。
写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の
静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域で
の動力船の使用が規制される−34−2011年文化

65 :
村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山
口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・
須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A
5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・
西宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9
本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)
・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・
桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡
(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流
地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉
垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水
源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神
社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総
鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道
)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・
手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野
家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池、
御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B
12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13
吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬

66 :
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間

67 :
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも

68 :
予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御
釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八
大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み
てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に
よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図
表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に
指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14
年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎
内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹
型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと
考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ
り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅
間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し
たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際
に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け
が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など
が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡
富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定
B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御
胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって

69 :
叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼
窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・
音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三
保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第
2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・
宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの
噴出物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然
記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然
林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理等保
護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公
開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総
合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱
、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる
諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的
要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内
、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地
、市街地、道路、その他人工物)上表において分類した諸要素に
ついて、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸
要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1
500m以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望
地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面に
おける比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点
からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している
。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ
」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあっ
た。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と
「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画な
どの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには
、現在も石碑が一部残存している。ル

70 :
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ

71 :
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加

72 :
神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を
祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が
天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である
。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に
登山した。−35−本穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。
写真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀
念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物吉田胎内樹型保存管理
計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿
いに位置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士
講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長さ約83m
の人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したも
のである。1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在が知られて
いた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお告
げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとし
ている。角行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19
世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を
行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定される。また、塔頭
の碑文から村山三坊との関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明
確ではないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世日
珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があり、19世
紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1868年の神仏分離令により
20世紀までには大日堂が人穴村の氏神としての浅間

73 :
て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高
約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布
図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝
世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日

74 :
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。

75 :
活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大
波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌
川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士
三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実
地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』
でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らは
これらの連作により、それまで富士見の好スポッ

76 :
付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境
内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を
望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登
拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講
毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔
で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(
1781から1850年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より2
0世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写
真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅
約120〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸
溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は湧水
の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられた。湧水のメカニ
ズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界
に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き
出しているものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不
二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関
連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地
と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場
となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達の記録
で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」と
している。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。
そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わりを通
して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・
絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保

77 :
た」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、
明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、
大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[
奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ
18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が
、もう一方には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−3
4)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×
幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」
と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹によ
り建碑された。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1
967)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口
登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳
(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古く
は山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀
釈により破却され、久須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真
・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御
霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組み
や木製の柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水と
おなじく、富士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。
『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはな
い」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)
石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「
大正五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑した
ものと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑
B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石
碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳
、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約8
00mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住むとさ
れた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集註釈
』には「いたゞきに八葉の嶺あり」と

78 :
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖

79 :
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の

80 :
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の

81 :
期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。
江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「ソノ名一定
ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾヘバ、十二
バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈
により仏教色を払拭したものに変更された。以下、平成20年度
の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報告書で示された
9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回り方である
時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の
8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(
標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた
。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているためにこの
名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多く
は登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、
採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行わ
れていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白
山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。
現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また
二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]か
つては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。
他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か
ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」
の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標
高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥
居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約
3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅
間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻
の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」と
ある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733
m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされ
る。頂上に鳥居は存在しない。石積み

82 :
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては

83 :
っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見
上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札
、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙
幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ
インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5
0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、
精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北
斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(
2005年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌
の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には
、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.
318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、
この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・3
19・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、
(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時
の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今
和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙
の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都
人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学で
は都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『
竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや
姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じ
て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか
らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の

84 :
中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山
と砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地とし
て知られている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと
考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である
。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた
和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保
松原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識さ
れ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島と対岸(現静
岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川
家康が三保半島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の
詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡曲(能)「
羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れ
を描いたこの話の最終場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写
が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の噴煙が天
上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この作品は、19
世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響
を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山を左に配する構図
が描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が
「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸
幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが
、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定された
。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシ

85 :
。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,
722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現
在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をとっ
たという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が
岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)]−43
−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳
」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳の石仏群とし
て、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺に
あったものが集められたと考えられる。いずれも頭部を欠損して
いる。・大内院山頂の火口中央に存在する穴で、ここより雲が生
じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央にある大きな
火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神
や仏の居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた
拝所あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。
現在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内
院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えら
れる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫
と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾斜
しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかっ
たといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀
な広い平坦部である。かつては現世と来世の境である「賽の河原
」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。ま
た「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込まれた場
所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に
下りた付近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行
く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸
に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうずくまる姿に似ている
ことから名付けられた。・割石かつて

86 :
殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画にお
いては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多く
の文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を
題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画な

87 :
比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現
存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言
及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない
。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては
駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』で
は甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲瓏」
という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見て
も整った美しい形を表している。中世から近世には富士北麓地
域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛
んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観
光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的など
で富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學ら
が富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀
行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり、
武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の
記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託
の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ
激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を
記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の
中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ
作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも
務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」
はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建
っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務
していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を
描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の
富士にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮
市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅
前にはその歌碑が建てられている。「とある停車

88 :
た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
る岩で、この方角から強い雷雲がくる

89 :
している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがい
る。富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く
流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られて
いた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオースト
リア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。
いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと
呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでも
っとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ
。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴とし
て位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本
のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を
描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向
も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工
を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、
その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日
本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆
粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨
画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなっ
た本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いら
れている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある
。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの
富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札
は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔から
の富士山である。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成1
1年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグ
サ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富

90 :
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、
山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題
、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等
、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の

91 :
る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に

92 :
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多

93 :
している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経
験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開き
から9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場
所は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士
山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の
乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶
えない。また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富
士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ
富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上
流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す
非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共
に日本の滝百選に指定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士
山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な
土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている
。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきりと拝め
る田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を
目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバルライン
や富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで
上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり
、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13
年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。
2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県
の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年(平
成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決
。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」
の空気のような存在である。そのため「富士山の

94 :
型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規

95 :
雷岩、割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院
に沿って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関
わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登
山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約
3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に
、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自分の
院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んで
あった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(
1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写真札
打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口登山道跡と富士
山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一
段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり、上−45
−段には小さな祠が建てられている。また下段には、南東から北
西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼ばれ、駒立
小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登るこ
とを許されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと
考えられる。下段平坦面の南側には溝が東西方向に延び、西側の
森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性
が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡よ
り北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神
の祠が並んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月
日」、八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれてい
る。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843
)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、
安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘
ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸
」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられている。
井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくする

96 :
、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記
録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地
質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の
時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や
戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太
宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の
一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨
県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家
である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、
富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力
伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆し
ている。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美し
い富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている
。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ
花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登
山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しか
し、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出してい
ない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重
視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、
山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相
違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の
山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。
期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。
とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所
は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士山が
望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の

97 :
治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せ
て富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したい
との期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に
対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休
業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があ
るなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日
とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業
日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる
場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請し
ている。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通
信「NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォー
ラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で
発表した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨
運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社
・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検
定協会の5者により行われている。地域間交流富士山頂の湧水
を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年
以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている
。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になっ
た」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐこ
とを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを
「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中華民
国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されて
いる。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他

98 :
川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出物
による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、
鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の
植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的
とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とそ
の他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素
と密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要
素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成す
る諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表
において分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構
成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重
なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山
体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観
点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富
士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり
「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑が一部残
存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山体を一周する。15〜16世
紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4
1−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1500
m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布

99 :
の中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5
年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石
像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究
所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地
面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えら
れる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘が
ある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口
南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
ると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。
廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物
跡7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平場中央
部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つ
の北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石
組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載って
おり、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた
「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂
は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土
記』にあり、また末代上人が建てた往生寺があったところだとも
いわれている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山
道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m
)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。
東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建
物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道
跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれ

100 :
が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。
また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富
士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀
行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せ
ず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成
をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指
定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポッ
トとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に

101 :
山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であ
った。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代
は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,19
3メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メ
ートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示でき
ない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれています
。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文
字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI
」として富士山も含まれている。続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝
説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返
し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という[82][83]。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新
高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952メートル
。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番
目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で
2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)
−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世界最高
峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unico
de6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU
nicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字
も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士
山も含まれている。富士山世界文化遺産平成22

102 :
のである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面
図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,4
40m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径
は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜けること
ができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしで
あった。かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災によ
り天井部分が崩落し、現在の長さになった。崩落した部分は、長
さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形

103 :
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年1

104 :
岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士
山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、
日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦す
る資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から
成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については
以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座標計
測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢

105 :
に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。
年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保
3年(1083)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年
に実施した測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高
1,485m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩
流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写
真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置
されている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道
復興後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御
胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられてい
る。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」
と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置され
ている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、
石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の
境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和
54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規模であ
る。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥居がある
。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
ていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間
神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建てられてい
る。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に
薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄16
年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に
「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降には
すでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香
を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎久須
志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は
登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側
を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御
前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を

106 :
日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にま
たがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検定実行
委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商
工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、
NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。地域間交
流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流
が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ
ことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結され
ている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山
(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高
山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ
ートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル
。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベ
レスト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には
、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Uni
code6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りそ
の穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山
頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2014
年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉
山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メー
トルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本

107 :
湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地
帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯
面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(
ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、
標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増
すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈し、類まれ
な優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山である
。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的
な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中
央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北
アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその下に
東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に
存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御
岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の
火口はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリ
ピン海プレートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から
押し続けているため割れ目が発生することによって、山頂を通
って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以
降も火山活動を行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩など
の火山噴出物は、適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の
山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜20km(最
大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴・溶
岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の末端部では富士山の中腹以
上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450〜680万
t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見られる
。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とす

108 :
。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『
浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成
就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない
。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発し
ていたとされる。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他
の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高

109 :
時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富
士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ
御子石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之
神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(
登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目
、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されて
いる。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。
この場所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石
碑7合目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっ
と標高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に
転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している
。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山
道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂
を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓か
ら頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する
要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等
信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂となり馬
が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。
富士山有料道路が開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾
配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがいったん休憩
を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋が営業され
、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木
山と焼山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも
言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等がおかれていた。
ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所
である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、江戸
後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に
「中宮之室」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設
けられ−48−ていたことがわかる。

110 :
峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−
日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,
952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ
、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北
岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(
仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世
界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、
一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn
icode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追
加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術
日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東
アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、日本の東海地
方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は17個
の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政
区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりで
ある。構成資産所在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡
県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富
士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富士山
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、

111 :
している。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然
物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の
念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象と
された。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体
及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自然
物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山
信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに
、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(
森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯
は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活の
ために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られ
る湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代に
おいても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われてい
る。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた
姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代
を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的
な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が
重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い
。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「
馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の
境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵

112 :
奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石か

113 :
たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三
日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レ
ヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地
として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間
神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅間神
社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の指導者
である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行わ
れ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士
信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道
の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥
居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で
、入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆
塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を
展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝を
つける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとよ
り西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い
建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替
わる本殿として建立されたが、161

114 :
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先

115 :
とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、
日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や
御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作
品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される。富士山
体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれて
いる。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は
、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間と
の精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに、芸術
的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分
類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2
大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、
記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺
跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B
15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮
浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走
浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素
忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅
間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富士山
体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を
始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋
といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在
する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領
域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も
高い。特に本栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用され
た写真の撮影地や富士山を描く典型的な構図に含まれる景勝地
であり、主要な展望を供する展望地点である。また推薦範囲は
、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標
高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世
界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮

116 :
れた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あった
が、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄
がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合
五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また、文化年間の
初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の石室に走り入った。これを
石室に居合わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の
雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪解け
水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、
強い風が吹き付ける富士山頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投
げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場
所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を
臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山スタンプが押された写真
では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録
』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細図』は、
このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道
に沿って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1
543)、寛永元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、
剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真
・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が

117 :
により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一
間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。
西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞で
きる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿
の図・大塚山社誌では、日本武尊が富

118 :
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教
の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず
、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化
するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・
湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設け
られ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステ
ムが作られた。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士
講(富士山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域では
さらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山
」(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「
草山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は
神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のため
に利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水
は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代においても
柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。

119 :
内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A
富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(
写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神
社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀
前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになっ
たと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目か

120 :
て下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まっ
た経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10
巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタ
イルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物
の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣
ヶ峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経
て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水に至る道が内
浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近
年崩落が著しく、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道
に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の
西南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10mの平場があ
る。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、
自分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んであった頃、
山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打
ちつけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山
口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面
に所在している。平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼
ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登ることを許
されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面
の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる
。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂
跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻ま

121 :
富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖
や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多くの
人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き
立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺
の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸
術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体
の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的
にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲と
ほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を
指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲とみ
なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくな
り「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲
線を描き絵画などの対象とされることが多い範囲である。2)資
産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と
、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住

122 :
ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに
、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社
として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状
の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てられている。
写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際
の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され
、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏
訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西
湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡っ
て修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写
真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在している平面図
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(
湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わら
ず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の北
側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山本宮
浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流に分類
される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で
−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内
の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される。また、当該
地区は風致地区・保安林にも指定され

123 :
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登
山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最
も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用され
た。また、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の
外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べ
られている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、
随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システム
を語る上で、登山道は欠かすことのできない構成要素である。
A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A
5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古
くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山
活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発
化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神
社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社
や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅
間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間
神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利用され
た吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案
内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されてい
る。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神
社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)A6北
口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御
室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地とな
った風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけで
なく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水
地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講

124 :
建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ5

125 :
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前

126 :
は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は

127 :
る長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を
始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。
また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてら
し)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間
明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎
内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となってい
る資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A
9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹
型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に
点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能
してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や
展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m
以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えら
れた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごと
に異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づく
ほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、こ
の理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び
宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座すると
の信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ
、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼ
この境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16
世紀ごろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたと
され(1561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩
れ」という危険箇所を通るため富士講信者により

128 :
跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5
号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による調査で
は、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県
埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に
地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1体
の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻ま
れており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹
垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏
毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する
施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m(標
高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建
物跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の平場は
東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西には
石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室
有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる
。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』に
あり、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い
位置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。
東西約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直径
約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物

129 :
士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講に

130 :
る。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1
間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続し
ている。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲
を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含め
たより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間
に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間一戸
、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついてい
る。楼門の左右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財と
して保護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼
門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加された
ものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれ
の灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に
石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたも
のである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱
塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執
り行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始まる
と言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたとの記
録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられてい
る。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下り
るための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の
神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。春秋の大祭に
はこの橋を通って山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(
1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋
)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛
文10年の絵図には既に描かれているが、大正4年(1915)
に石造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文
10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出さ
れた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。
また、石垣で正方形に囲繞された敷地

131 :
て利用された。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道と
いった、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担
う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士
山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連
施設が所在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院
(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかある
ピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お
鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般
的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代
により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、
経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・
懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302
年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への
散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山口
山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。18
74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって
撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記
の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富
士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口
登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経
て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、
修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に
開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山
が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山
三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社

132 :
えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が
設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置したもの
である。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶
岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶
岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜
けることができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしであった。
かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在
の長さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として
須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている
。年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083
)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められており、須山口登山
道がこの溶岩流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・
石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住
の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居
須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標柱
鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須
山口登山道保存会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の境外末社で、5合
目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本

133 :
れた。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えら
れる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石
川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作
」と記され、市指定有形文化財として

134 :
大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地と

135 :
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年

136 :
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、

137 :
道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ
への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され
たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山
道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定
は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点
まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推
薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富士山南東
麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道である
。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にそ
の存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されて
いた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究
が進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由
来する60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840
年代前半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約
3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年
、東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの
道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用
不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在
に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂
東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目
からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資料で
は1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも17
世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂
部の権利については富士山本宮浅間大社と争いに

138 :
という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などが

139 :
像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿

140 :
行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高205

141 :
は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、
権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、
これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅し
たが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道
者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされた参詣の
流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,
間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の
荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山

142 :
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が
開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり
、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼
山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)

143 :
浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾立
石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿っ
た鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であ
り、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2
つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登る
ための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしくは戦後に
改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方
が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶
岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築さ
れている。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土
しているため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もし
くは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の
玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられたものと考
えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付けられてい
る。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目的として
築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約
7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等に
よって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に
向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所
が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝所
の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建て
られている。昭和6年(1931)に建立されたものである。・
参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山浅間神社図
以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩流村山浅間神
社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付
の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区
は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に
位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ば
れる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流

144 :
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている

145 :
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料と
して役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、
江戸後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」
という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわ
かる。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏
帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富
士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定
した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋ア
リ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身
禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地として重要
な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年
代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行
われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と
密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起
点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって
建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前面
に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃
山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の
創建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄

146 :
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成され
た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述
の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景

147 :
ら大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因
の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−5
4−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定され
た。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根
が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以
前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀
でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念
物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。
境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東
西17.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ
8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢とされ
るが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境
内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本
、スダジイ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹
されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境
内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左
座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照
大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2
年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化した
ため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられてい
る。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の
文保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物と
して現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊と
する。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸
時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられ
ている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出
入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。
写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離

148 :
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士

149 :
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造
の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿
中最も古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は
、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立され
たが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿
の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつけ
る。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪華な本
社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49
−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝
した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、
788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分
祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を
祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火
祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が
行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。
写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平面図富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり
、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自
然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在し
ている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によっ
て行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕

150 :
り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本
の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、
重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか
でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1
935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と
いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された
五千円札及び2004年に採用された千円札の図

151 :
、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.
5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底
に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水
垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋
で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行の
ときの主尊とされる不動明王の石像が

152 :
要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に
示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多く
の富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
ている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示
す要素が点在している平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称さ
れる。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶
岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50
−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出
し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋
沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅
間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳や
護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の
「湧玉池」は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨
や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端で
湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池
のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心
身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富
士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細
平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が
生育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環
境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀
・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806

153 :
国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
ながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境
内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組
をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神
社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており
、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社
殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯19
07年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定さ
れた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた
。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財
とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に
重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事
が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行わ
れた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工
事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行
われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文

154 :
離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明王の石像
が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5.3mの丸
い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時
安政四年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられ
る。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見
られ、造成時期が異なっているものと思われる。写真護摩壇の写
真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一段高くなっ
たところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しか
し、神仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日
堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社を遷し「富士大神
社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在は「高根総鎮守」と
呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五月十
七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の
社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登
る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和28年(195
3)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守
社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年
の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村
山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置されている
。明治16年(1883)に設置されたものである。・石段(参
道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ続くも
のの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された
狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超えるス
ギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7m
を超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として保
護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれ
ば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと
の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは
、大永4年(1524)と記された修築時の棟札による。現在の
社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真
社殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山

155 :
された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している
本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ
同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整備の経緯
文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山
本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により近い
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを
起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心的神社であ
った。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、
広く信仰されている。創建当初は遥拝のための施設であったが
、15世紀ごろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大
社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の基
点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士
山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(
約150年間の戦乱期をおさめ統一政権である江戸幕府を開い
た人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間造り」と呼ばれ
る独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年
山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社
は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府に
よる裁判によりこの八合目以上の支配権が認められた。明治政
府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に
基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社
境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は
、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる
水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である
。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源と
する池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が
身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記
でその様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代ま
で行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多く
いる。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺
保存法の下に特別保護建造物に指定された。19

156 :
ての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として崇められて
いる。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜06)に徳川家康が造営したも
のである。写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財であ
る。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。1階下
層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で
共に桧皮葺である。明治40年(1907)5月27

157 :
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
も、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、193
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写
真は有名である。この写真は、1984年に採用された五千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山
体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの
展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現
在も残している。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「
浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これ
を基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、177
9年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認

158 :
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す
べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの
みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい
る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ
れたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では
1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577
年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が
開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間
大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4
月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸
道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡
に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興
法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる

159 :
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が

160 :
おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し
、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と
大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と
も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ
れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ
の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2
001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発
掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと
もに史跡富士山として指定される予定。B4.須山浅間神社説
明須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在して
いた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も
含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建された
ものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わ
りを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が
行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に
社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社であ
る。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火
で崩壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使
用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから
富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、8
64〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、

161 :
高い。現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、
歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのでき
ない資産である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富
士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。
・社殿、鳥居河口浅間神社創建は、平安時代の865年に遡る可
能性がある。建立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時
の富士山及び噴火ということに対する当時の考え方を理解するこ
とができる。鳥居は1697年に谷村

162 :
める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた
。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保
護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存法の下に特
別保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼
門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本
殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1
936年に袖廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定
に伴い、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、197
0年、1988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜
70年に本殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本
殿の屋根の修理等が行われた(部分補修)。2005年に本殿の
屋根の修理等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説
明富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、
拝殿・本殿等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥
拝所が設置されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀
の形を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山
方向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、
文献上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも
1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる
儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、
浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が
4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行わ
れていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と
いう。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少なくとも
四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない。法的
保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定され
る。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀前半から

163 :
神社が建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖
の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く
官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半
から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士
講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師
集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし
、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びつ

164 :
の修行僧末代の活動が創建の起源とされており、1868年の神
仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺
院である大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中心地で
あり、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制作
とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年
、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の
登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、修験者の活動
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的保護
、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市
教育委員会により発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B4.
須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くとも1524年
には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿
は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再
建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者と
も関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈
祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社
殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。
16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭
取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し
1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、20
09年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達
成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文
化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定さ

165 :
が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図では西側にのみ架けられてい
る。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が
点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至
るまでの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵
は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子山)溶岩
流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺に
は、籠屋付近の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることに
なる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火によって
流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区域と比べて植生の回復
は遅れていたと考えられる。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂
まで見渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写
真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3mを超
える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形成しており、富士宮市の
保存樹林に指定されている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復す
る祭儀「山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した
場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」
で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であり、籠
屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石
段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現在あるもの
は戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m
四方が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上
げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用
いられたと思われる土師器が出土しているため、それ

166 :
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経
緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社
は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが
最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件
の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1
475、1525年と加修され、1564には地元領主による
大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら
れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。
1973−74年には里宮の地にそのままの形で移設された。
里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた
めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々
な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地
の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山
道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に
宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝
の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的
なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北
西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田
の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し
て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建
物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が
設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に

167 :
の扁額に記された「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆と
される。写真社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以
下に示す要素が点在している平面図−58−冨士御室浅間神社は
、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初
とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある
。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、95
8年、河口湖畔に現在の里宮が建立されたという。現在は二合目
にあった社殿も里宮の広い境内に敷地内に移設されている。修行
や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合
目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能して
きた。顕著な普遍的価値を構成する諸要素としては、信仰拠点で
ある二合目や本殿などがある。・吉田口二合目吉田口登山道二合
目に御室浅間名字(本宮)が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶
姫を祭神とし、創立年代は詳らかでないが、社殿には和銅元年(
708)に祭場をしつらえたのが最初とされる。冨士山中最初の
社という。なお、平安末期には浅間神の信仰に修験道が習合して
、富士山が霊験所の一として広く知られていた。冨士修験の信仰
拠点は南口の村山であるが、北口の二合目、御室の地にも山内の
信仰拠点として行者堂が設置されていた。・本殿本殿は、161
2年に当時の甲斐国都留郡領主であった鳥居土佐守成次によって
桃山時代建築様式の神社建物に再建されたことが棟札から明らか
にされている。大規模な入母屋造りの一間社で棟の高さは9.3
m、屋根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇股や軒唐破風妻などにも
彫刻を飾るなど、桃山建築様式の特色が見られる。内部の色彩も
当初のものを良く残しており、建築年代の確実なこの時期の遺構
としては大変貴重な建造物である。写真本殿の写真図本殿の図面
B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は、富士講徒の案内を
し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿坊である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷
地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普遍的価値を構成する
諸要素として、最古の部類に入る旧外川家住宅などがある。・旧
外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入

168 :
15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図石
塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されてい
る。戦中もしくは戦後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製
の門扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目
的として築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約7.6m
の長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等

169 :
であり、棟札から1768年に建設されたものであることが判明
している。また、主屋は「平面座敷型」をとっており、近世にな
って御師住宅の様式が確立される以前の御師住宅として最古の部
類の建築物である。離座敷は、富士講が盛んになるととともに主
屋だけでは収容人数に限りがあるなどの理由から主屋の東側に増
設されたとみられる。ただし、御神殿が上段・下段の続きの手前
に配置され、上吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構成を有
している。写真主屋等の写真図旧外川家住宅現状平面図等・小佐
野家主屋、蔵主屋は一部二階、切妻造、妻入の居室及び座敷部の
前面北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式になる
。居室及び座敷部は間口11.8m、奥行き15.5m、正面南
寄りに式台、背面北寄りに庇、北側面には下屋を設ける。蔵は主
屋台所の前方に建つ。土蔵造りであるが、東西に庇を付けた切妻
造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この住宅は、部分的な
改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅として
の形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。全国でも比較的
少ない社家の一遺例として重要である。写真主屋外観写真図小佐
野家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している
平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象とし
て数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と
ゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然
地形(湖水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下
に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代
も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地で
もあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構
成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖
の写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍
野八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八
大竜王を祀る冨士信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な
普遍的価値を構成する諸要素として、

170 :
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた
のが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文
献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし
て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下
に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475
、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が
行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後
も1698年、1867年に修復が行われていた。1973−7
4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目
の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建
てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と
して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮
が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備
の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が
文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。

171 :
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。

172 :
山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公
文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝
所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭
和6年(1931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続
いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩
流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間
は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高く、他の集
落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東
側に「竜頭ヶ池」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき
た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側から大沢川と
なる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因の一つである。・御神木(イ
チョウ、大スギ)[イチョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然
記念物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根が数多く垂下する
。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性
の信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現
在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念物に指
定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で
最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南北31m、樹高47mも
ある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢と
されるが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸高直
径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ1本などの大樹も見
られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林
に指定されている。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿

173 :
御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路

174 :
B12船津胎内樹型図以下に示す要素が点在している平面図船津
胎内樹型は、1673年に富士講の指導者である村上光清により
発見され、富士講の開祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明
神が遷宮された溶岩樹型である。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素には、宗教的な意義付けがされている地形空間(溶岩樹型)
などがある。・胎内樹型船津胎内樹型は、承平噴火(937)で
流出した剣丸尾第1溶岩流の西縁に所在する。本穴自体も大小様
々な樹型が複雑に交叉して形作られている。本穴の側面では垂れ
下がった溶岩が肋骨のように見え、そのうえ溶岩は鉄分のため赤
色を帯び、あたかも内臓を摘出したあとの胸控の如く見える。胎
内の名称はこれに基づくものであり、極めて貴重な形態と言える
。・無戸室浅間神社・石造物群1673年、富士講道者村上光清
により現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間
明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつ
むろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号
を無戸室浅間神社と名付けた。−60−B13吉田胎内樹型図以
下に示す要素が点在している平面図吉田胎内樹型は、1892年
に富士道者によって整備された「お胎内」(溶岩樹型)である。
顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意義付けがさ
れている地形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型吉田胎内
樹型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾第1溶岩流の東縁
に所在する。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のように見
え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩(木花開耶姫)出世の
御胎内として信仰の対象となった。・洞内の石祠、石造物群吉田
胎内の本穴の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭
神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面
には、食行身禄を祀る石祠がある。B14人穴富士講遺跡(人穴
浅間神社)図以下に示す要素が点在している平面図・犬涼み溶岩
流人穴付近は、新富士火山旧期溶岩(約11,000年前から約
5,000年前)に属する犬涼み溶岩流の末端部近くに位置して
いる。犬涼み溶岩流は、標高1,206mの犬涼み山から噴出し
、西方に約5q、標高差にして約70

175 :
に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的
保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。
富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを
し、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山
北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯19
29年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定さ
れた。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原
)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による
約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探
検の様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたと
されている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩
薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。
富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ
、長谷川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神
とする)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。ま
た、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人
穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。
また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記
念碑などを建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の
浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在
地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみら
れるものの1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的
保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定
される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする
数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えること
をその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の

176 :
住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講
の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた。
旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定
。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形
成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行か
らいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前述の
3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について
、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどの
ルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少なく
とも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化
財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名
勝として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水
による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関
わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御
手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、
1843年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護
、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明16
17年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指
定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられ

177 :
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌

178 :
社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、彦火
々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀って
いる。現在の社殿は大正2年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老
朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真
社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜13
18)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開いたと伝えられている。
その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊
とする。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造
と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間7間、入
母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡
らしている。写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富
士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの
長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みとなってい
る。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段
から樋で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊
とされる不動明王の石像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東
側にあり、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ
一辺5.3mの丸い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時
安政四年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられる。周囲の正方形
の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているもの
と思われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一
段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しかし、神
仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登った
ところに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大己

179 :
流である。写真溶岩流の写真図溶岩流の詳細図・溶岩洞穴人穴溶
岩洞穴は、天正年間に富士講の開祖、長谷川角行が千日の行を行
ったとされる洞穴である。犬涼み溶岩流の中に存在する19箇所
の溶岩洞穴のうち、西端部の最も低い位置にあり、溶岩が流れ下
るとき溶岩表面が冷やされて固化した後、内部の溶けた溶岩が抜
けて空洞ができたものである。洞穴の

180 :
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見える

181 :
品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである
。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発展山容の
形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山とともに
活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆う
ように標高約2500mの小御岳火山が形成された。さらに約
10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、爆発的噴火、
火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山をほ
ぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1
万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火
山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5600〜35
00年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流出によ
って何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体へ
の降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各
所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。ま
た、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山
頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴
火を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802
年、864〜866年、937年、999年、1033年、1
083年、1435〜1436年、1511年、1707年の
九つの時期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」
このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ
神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった
が、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀
後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのものある
いは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るようにもなり、各
地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一
端に位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀
麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ

182 :
在は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五
月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成
15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建て
られている。昭和28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神
社(高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年の
再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村山浅間神社へと続く
参道入口の左側に、手水舎が設置されている。明治16年(1883)に設置され
たものである。・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂
へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された狛犬2体
が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図・社叢樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、
目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として
保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(
961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の記録とし
て社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524)と記された修築時の棟札に
よる。現在の社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社殿
の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を納めた神輿
殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内には、社殿前と石段手前の参道脇
に計二対の狛犬が設置されている。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は
平成13年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている。
登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは、それぞれ寛保2
年(1742)、文政6年に奉納されたものである。・手水舎石段に至る参道の脇
と、社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−
56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居

183 :
洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約30mの屈曲
部手前中央には、直径約5mの溶岩柱がある。全体として幅広く
、奥に入ると広々として平坦な空間となっている。最奥部までは
約80mで、そのまま閉塞していると考えられる。写真溶岩洞穴
の写真図洞穴の図面・社叢(周辺の植生)人穴集落では主に製炭
と農業を中心とした生活が営まれたため、薪炭材のコナラ・クヌ
ギ等を中心に育林していた。しかし、昭和30年代に薪炭の消費
が減少し、境内地とその周辺は建材としてのヒノキ・スギに改植
された。御神木に相当する大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅
間神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存
在する。そのうち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみ
ると、一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。
建立目的によって大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した
墓碑・供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願
する「祈願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する
「顕彰記念碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」
が最も多い。−61−写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道
洞穴入口や浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南
から北へ伸びている。現在はコンクリートで覆われている。・建
物跡大小2つの建物跡が人穴洞穴直上の平場で検出されている。
西側に規模の大きな1棟と、その東側にやや小規模の1棟があり
、大規模なものの方がより古い遺構とみられる。また建物跡の周
辺には石積みが施されている。・参道跡建物跡へ向かう参道跡が
、建物跡南側の平場から斜面を下り、井戸跡の所在する平地まで
約34m続いている。溶岩角礫や露出している溶岩を利用して2
1段の石段が構築されている。・道跡2本の道跡と思われる石列
が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔
群などを結ぶ機能を有していたと考えられる。・炭焼窯跡指定地
の北側を通る林道に沿って、5箇所の炭焼窯跡が検出されている
。昭和初期まで使用されていたものであるが、富士講に関わる遺
構は検出されていない。・井戸跡参道跡の南側に位置する。内部
が溶岩角礫や土砂によって埋没し、涸

184 :
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802年、
864〜866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」この

185 :
れ、その後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製の階段が続いている。
・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート製の鳥居が建てられている。昭和41
年(1966)に奉納されたものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を
受けていたことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神、愛鷹
大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中にあり、旧本殿と推測
される建物である。B5冨士浅間神社図以下に示す要

186 :
5白糸ノ滝図以下に示す要素が点在している平面図・古富士泥流
堆積物山体が崩壊した際に崩れた土砂が堆積した地層であり、古
富士火山の一部を形成するものである。この地層は、塊状礫岩と
平行層理を持つ砂岩が不規則に互層しているものである。写真写
真・白糸溶岩流新富士火山の土台となっている溶岩流のひとつで
あり、白糸ノ滝付近0.3平方キロメートル程度にある。白糸溶
岩流は4枚の溶岩流層からなると考えられており、白糸ノ滝では
2枚の溶岩流層が確認できる。溶岩流層の境目にはマグマの急冷
時に形成された粉砕部(クリンカー)が発達している。また、溶
岩流内部には、マグマが冷え固まった際の収縮により形成された
縦方向の割れ目(柱状節理)が存在する。白糸ノ滝は、地質の特
徴上、次のようなメカニズムで崩落を繰り返していると考えられ
ている。白糸の滝は、最近10年間の平均で日量約15.6万ト
ンの湧水量が見積もられており、この多量の水の落下は、白糸溶
岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を次第に浸食する。やがて
、下部が抉り取られることで上部の溶岩流はオーバーハング状態
となり、自重に耐えられなくなった時点で自然崩落する。この作
用が繰り返され、崖線が後退し続けていると考えられる。また、
白糸溶岩流内の柱状節理は浸食に弱く、滝の後退を早める一因と
指摘されている。白糸ノ滝は、1年に約2センチメートルの割合
で北側に後退しているという計算もある。音止の滝も、白糸ノ滝
と同様の地質であり、同様のメカニズムで崩落−62−を繰り返
していると考えられている。写真溶岩流の写真図溶岩流の拡散図
・白糸ノ滝白糸の滝は、高さ約20メートル、長さ約120メー
トルに渡り馬蹄状に広がる崖面の各所から湧出した水が、数多の
白い糸を垂らしたように流れ落ち、滝となったものである。白糸
ノ滝周辺の地質は、下部に不透水層である古富士泥流堆積物があ
り、上部に透水性のある白糸溶岩流があると考えられている。富
士山麓に降った雨水は、上部の溶岩流を透過し、下部の不透水層
との境目を流れ下っていると考えられている。白糸の滝は、両層
が崖面として露出しており、両層の境目や上部の溶岩流の間から
水が湧出している様子が確認できる。

187 :
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『

188 :
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期
的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに
、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一
つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア
イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一
有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代
国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日
本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1
9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西
欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道
禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀
釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、
1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり
富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道
・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南
麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前
後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道としては、1

189 :
叢(浅間の杜)社殿周囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部
分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育している。・
ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然記念物に指定された。
根回り約6m、目通り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北23
.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少
なく当社以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生育して
いる。・エゾヤマザクラ昭和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。
樹齢約130年で、根回り2.08m、目通り1.75m、樹高約10m、枝張東
西13.8m、南北9.5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型
で、静岡県が南限である。県内ではまれな樹種である。・根上がりモミ平成3年5
月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約300年で、根回り4.61m
、目通り3.07m、樹高27m。この根上り群は約150年生のモミの根本にブ
ナ、イヌシデの種子が生え、宝永噴火の火山灰土が、降雨により流亡しながらモミ
が成長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考えられる。
縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財(建
造物)に指定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが、享保3年(1718
)に再建された。その後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(1
716〜36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結し
た権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の遺構を残し
た流造りとなっている。−57−構造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で
、向拝1間、正面千鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社
流造、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真図社殿の図面
・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付きの縁を巡らしている。北の櫛岩
窓神、南の豊岩窓神が随神として配神されている。宝

190 :
同時に掲載)・音止の滝音止の滝は、「音無の滝」とも呼ばれ、
白糸の滝と台地を隔てた東側に位置する。主瀑は落差約25メー
トルを流れ落ちる芝川の本流であり、轟音を轟かせている。崖面
では、白糸の滝同様の地層が観察され、湧水が見られるが、白糸
の滝に比して水量は少ない。・鬢撫水鬢撫水は、「お鬢水」とも
呼ばれ、白糸の滝の崖上にある。鬢撫水は、湧水が池となったも
のであり、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちている。また
、ここには「駒繋石」、「弁当(行厨)石」、「杓子石」等の名
前のついた石があったとされるが、現在は不詳である。・植物白
糸の滝の両岸の崖上には樹木が生い茂っている。また指定地内に
は、メヤブソテツ、ユリワサビ等特色ある植物相がある。・富士
講「白糸ノ滝」には、江戸時代中期以降江戸で隆盛した富士講の
祖長谷川角行にまつわる伝承がある。角行は白糸の滝で垢離をと
り修行を行ったとされ、富士講の信者の中には白糸の滝を訪れる
者や、白糸の滝で修行を行う者がいたことが知られている。幕末
の資料には、白糸の滝で垢離をとり修行を行った富士講の信者の
記録がある。指定地内には富士講の信者が建てた石碑があり、「
仙元大神」と記されたもの(市道沿い)や、「食行身禄」と記さ
れたもの(白糸の滝滝つぼ右岸)等がある。・白糸の滝の勝景白
糸の滝の、数多の白い糸を垂らしたように落ちる優美な勝景があ
る。写真景勝の写真・音止の勝景音止の滝の、轟音をたてて落ち
る雄大な勝景がある。写真景勝の写真・富士山の展望指定地では
、白糸の滝と音止の滝の勝景とともに、見事な富士山が望まれる
。写真展望の写真・富士の巻狩の伝承「白糸ノ滝」には、建久4
年(1193)に源頼朝が行ったいわゆる富士の巻狩にまつわる
伝承がある。音止の滝の名前は、富士の巻狩に関係する曽我兄弟
の仇討ち伝承に由来するもので、兄弟が仇討ちの相−63−談を
している間は水音を止めたことから名づけられたという。また、
鬢撫水には、富士の巻狩の折に源頼朝がここで鬢のほつれを直し
たという伝承がある。・歌碑「白糸ノ滝」の勝景は古くから詩歌
に詠まれてきており、白糸の滝滝つぼ右岸には白糸の滝の勝景を
詠んだ歌碑がある。・標識名勝及び天

191 :
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え

192 :
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(
標高2300〜2400m)を起点とした登山が

193 :
破しており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時に再建され
たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。
軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道
入口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束には「不二山」と刻
まれている。明治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から
本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼門前参道の両
側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれている。・富士講講碑群明治より昭
和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数
多く富士登山が成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも
ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられている。写真富士講
講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B6河口浅間神社図以下に示す要素が点在し
ている平面図河口浅間神社は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、
北麓でも浅間神社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い。現
在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産である。顕著な普遍的価値を構成す
る諸要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある
。・社殿、鳥居河口浅間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある。建
立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び噴火ということに対
する当時の考え方を理解することができる。鳥居は1697年に谷村藩主秋本喬知
の再建。銅製の扁額に記された「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされ
る。写真社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点在し
ている平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭
場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦

194 :
する標識がある。B眺望C三保松原図以下に示す要素が点在して
いる平面図三保松原は、静岡市清水区南東部に位置する三保半島
にあり、半島の東岸真崎から海岸線に沿い、南北に約4キロメー
トルに及ぶ松林と内陸部に散在する松林が主体をなしている。真
崎から海岸線に沿う松林は、国有地又は市有地が大半を占めてい
るが、内陸部の松林と松林の景観を維持している背後地について
は、ほとんどが民有地となっている。松林には、300年を経た
老木から幼令木が約54,000本、

195 :
。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万
人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山へ
の信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信
仰の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との
関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな
がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財
としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は
、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指定さ
れ、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、
特別名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大し
た。山梨県は1978年(のち、1999年及び2006年に
改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理
計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神
社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたと
ころだが、それらを含めた富士山に関わる記念工作物・建造物
群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897年〜1
929年)、(国宝保存法(1929年〜1950年))、史
蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1950年)、文化財
保護法(1950年〜現在)により、名勝、特別天然記念物又
は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、文化財ご
とに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよ
く表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が払われてい
る。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括的保存管
理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管理が行
われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式に
よるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代)
説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。

196 :
保松原の地区区分図表地区区分詳細表地区境界@特別規制A地区
真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境界は、隣接する特別規
制B地区と第2種規制地区との境界(松が途切れる所)の延長線
上とする。A特別規制B地区特別規制A地区との境界は防潮堤外
側とし、その他の規制地区との境界は、羽衣参道は道路外側、そ
れ以外は平成元年4月1日現在において松原を形成している地区
、ただし、真崎先端の境界は真崎灯台と建設省財産、運輸省財産
及び民地側の境界を結んだ線とする。B第1種規制地区真崎付近
の第2種規制地区及び第3種規制地区との境界は、都市計画道路
の中心線とし、字広道の第2種規制地区との境界、字羽衣脇の三
保第一小学校を中心とする第2種規制地区との境界及び大字折戸
地区における第2種規制地区との境界は、隣接する道路の中心を
境界とする。ただし、羽衣参道西側の第2種規制地区との境界は
、羽衣参道中心より25mの位置とする。C第2種規制地区真崎
付近第3種規制地区との境界は、市道本村海岸58号線の中心の
延長を境界とする。その他の地区との境界は、@ABを参照。D
第3種規制地区各地区との境界はABCを参照。(2)顕著な普
遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形構成
資産の土地には、山並み、湧水や富士山及び側火山の噴火等の火
山活動によって形成された溶岩樹型などの自然地形が見られ、構
成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものもある
。ア富士山山体及び登山道A富士山−64−・テフラ噴火の際、
山頂火口から粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多
量に噴出したため、山頂付近はテフラに覆われている。・大沢崩
れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で最も大きなもので
、富士山西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直下から標高
2,200m付近まで延長2.1q、最大幅約500m、最大深
さ約150mに渡る。崩壊は現在も進行中で年平均約15万?の
岩石・土砂を流出し、大沢川流域に扇状地を形成している。写真
大沢崩れの写真図大沢崩れの図面A1山頂信仰遺跡なしA2大宮
・村山口登山道・日沢(浸食谷)日沢は富士山の浸食谷の1つで
、村山口登山道跡とほぼ並行に山腹を

197 :
況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
、新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年
〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1
950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保

198 :
寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入
水する往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁
起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を
越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢
物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の
主人が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち
小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富
士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼
羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風
景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵
野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の
一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物
語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室
町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時代(年代)説明
東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水
墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる
。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、
建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な
日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作
。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中
心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作
品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺
の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪
を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山
指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清
東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する
。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山

199 :
道跡とは、中宮八幡堂跡の東側(標高1,280m付近)及び、
6号建物跡と7号建物跡の間(標高2,015m付近)で交差す
る。2,015m付近には、日沢の上に巨石があり、自然の橋の
ような地形になっており、横渡と呼ばれる。登山道はここで日沢
の左岸から右岸に渡る。写真日沢の写真A3須山口登山道起伏に
富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を
繰り返し多量に噴出したため、テフラに覆われている。A4須走
口登山道起伏に富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質の
テフラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、テフラに覆われて
いる。A5吉田口登山道二合目から三合目にかけて見られる古富
士火山からの泥流堆積物、二合目付近で見られる玄武岩溶岩の滑
床及び縄状溶岩など様々な地質・地形が火山活動により形成され
ている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖
湖地質学的にみると湖の北側、西側、南側は御坂基盤層により構
成されているが、東側新富士火山の旧期の溶岩、さらにそれらを
覆う形で青木ヶ原溶岩が分布している。この溶岩流については水
中に流入して形成された水底溶岩の可能性も指摘されている。(
久野久(1968)水中自破砕溶岩)また本栖湖畔のボーリング
調査において43mより上位は新富士火山の特徴が示され、それ
より深いところは古富士火山の特徴を示している。その時期は概
ね30,000年前以降の溶岩主体の富士山起源の火山活動が確
認−65−されている。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・鏡池楼
門前の池で一名眼鏡池とも言われる。参道を挟んで両側に丸く池
が広がっている。寛文10年(1670)の絵図では、ここから
流れる水が御手洗川に流れ込んでいる。写真鏡池の写真B2山宮
浅間神社構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ
、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものが
ある。B3村山浅間神社構成資産の土地には丘陵や河川などの自
然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在
しているものがある。B4須山浅間神社構成資産の土地には丘陵
や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要
素となって存在しているものがある。

200 :
りであるが、東西に庇を付けた切妻造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この
住宅は、部分的な改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅として
の形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。全国でも比較的少ない社家の一遺
例として重要である。写真主屋外観写真図小佐野家住宅現状平面図B9山中湖図以
下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真山中湖の写
真B10河口湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがあ
る。写真河口湖の写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野
八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士信
仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、
自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹型図以下に示す要素が点在している平
面図船津胎内樹型は、1673年に富士講の指導者である村上光清により発見され
、富士講の開祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神が遷宮された溶岩樹型で
ある。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意義付けがされている地
形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型船津胎内樹型は、承平噴火(937)
で流出した剣丸尾第1溶岩流の西縁に所在する。本穴自体も大小様々な樹型が複雑
に交叉して形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のように見え
、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘出したあとの胸控の如
く見える。胎内の名称はこれに基づくものであり、極

201 :
の滝(清めの滝)境内地の池で汲み上げた水が、石鳥居南側の「
信しげの滝」まで流れている。B6河口浅間神社B7冨士御室浅
間神社B8御師住宅中門をくぐると川(水路)が流れており、か
つては当家に宿泊する富士講の禊ぎの場となっていた。B9山中
湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・構成岩石質
、地質学的形状(平面的、立体的)等B13吉田胎内樹型溶岩流
の流出時の表面の状態がほぼ保たれている。地域を覆う玄武岩溶
岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出物が顕著に見
られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−66−構成資
産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成
立させる重要な要素となって存在しているものがある。B15白
糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、
構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがあ
る。ウ眺望C三保松原なしA森林、植栽樹木構成資産の土地には
、富士山の景観を構成している天然林、富士山原始林及び青木ヶ
原樹海、人工林などからなる森林が存在しているほか、社叢林・
境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A富士山標
高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育して
いる。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部分
の植物村山浅間神社から中宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の
垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。戦後、スギ・ヒノキ
・モミなどの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林であるが
、天照教社から富士山麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿い
には、ブナ・ミズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残っ
ている。林の下にはササ(スズタケ)が視界を遮るほど生い茂っ
ている。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新5合目の森林
限界(2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、
山地帯から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエ
デなどの広葉樹からウラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わ
り、標高1,600m付近で落葉樹とササがなくなる。・焼山部
分の植物森林限界である標高2,400m付近から上で、植物の
垂直分布では高山帯にあたる。この付

202 :
と富士山文化勲章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代
)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図
1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作
品。明治初期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の
富士1881父芳柳と共に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一
人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富
士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者
の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山

203 :
月上旬にかけていっせいに花を咲かせる。オンタデ、ムラサキモ
メンヅル、ミヤマオトコヨモギなどが見られる。A3須山口登山
道・木山部分の植物植物の垂直分布では、須山御胎内(標高1,
440m付近)付近は夏緑樹林帯(ブナ・ミズナラ・カエデ類)
にあたり、林床にはササ類が密生している。幕岩上部(標高1,
680m付近)付近は、針葉樹のシラ

204 :
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立

205 :
ソ・コメツガなどが多くなるが、森林限界(標高1,700〜1
,750m)に近くなるにつれて樹高が低くまばらになる。宝永
噴火の際に噴出したスコリアが厚く堆積しているため、須山口登
山道付近の森林限界は、他の登山道よりもかなり低い。・焼山部
分の植物須山口登山道2合8勺(標高2,050m付近)から頂
上までは、植物の垂直分布で高山帯にあたる。オンタデ、イタド
リ、フジハタザオ、フジアザミなどが、まばらに分布する。A4
須走口登山道・木山部分の植物植物の垂直分布では、須走口登山
道5合目(標高2,000m)付近は、亜高山針葉樹林帯でシラ
ビソ・オオシラビソ・コメツガなどが分布する。須走口登山道の
森林限界は約2,700mで、他の登山道よりも高い。・焼山部
分の植物森林限界を過ぎると高山帯となり、オンタデ、イタドリ
、フジハタザオ、フジアザミなどが、まばらに分布する。A5吉
田口登山道標高1600m付近より下方の区域は、山地帯に属す
る。自然林はごく少なく、ほとんどがアカマツ・カラマツなどの
植林地である。わずかに残る自然林では、ミズナラ・ウラジロモ
ミや自生のアカマツ等が生えている。天然記念物「躑躅原のレン
ゲツツジ及びフジザクラ群落」が存在するのもこの地域である。
標高1600mから2500m付近までの区域が亜高山帯にあた
り、コメツガ・シラベ・オオシラビソの森林を形成している。火
山礫の露出した日当たりの良いところには、ダケカンバが生えて
いる。・焼山部分の植物標高2500m付近から上の区域は高山
帯に当たり、森林は形成されない。植物はほとんどみられない地
域であることから、かつては「焼山」と呼ばれた。植物の遷移の
過程を見ることが出来る場所としても、学術的価値が高い。ここ
には、カラマツが匍匐状に生育し、乾燥に強いミヤマハンノキ・
オンタデ・メゲツソウ・フジアザミ・ムラサキモメンズルなどが
生育する。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本
栖湖水辺植物群、沈水植物群にそれぞれ特徴が挙げられる。イ信
仰B1富士山本宮浅間大社構成資産の土地には、丘陵を構成する
社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木等が
存在している。−68−B2山宮浅間

206 :
に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃
和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近
代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。
〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、
日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔と
も言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975
日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然
景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次
大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。
膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図
屏風1898最後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に
登り、その神聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国
立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共
に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマ
に富士山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図
屏風1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝
統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激
しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の
丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本
画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京都国立近
代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の
新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24
〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画
壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対
比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士1982第二次大戦後の
日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大自然に
魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年
前に没したが、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は
女史のライフワーク面構シリーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁
三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当時の技術を駆使し
た大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅

207 :
富士1926本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点
からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書「六りっ国史こく
し」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続日本しょく
にほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほん
ちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記
りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉
)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴょう」(
江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のく
に風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記
りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集もの
がたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之
きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上む
らかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院
してんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫
木和歌抄ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明
あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25
記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(
鎌倉)「東関紀行とうかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ
(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧
らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこく
きこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき
」道興どうこう(室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そう
ぼく(室町)「東国とうごく紀行きこう」紹巴じょうは(室町
)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅう(
江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょ
うい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐い
わさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記」松尾まつお芭蕉ば
しょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわ

208 :
成するものである。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互層し
ているものである。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土台となっている溶岩流の
ひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キロメートル程度にある。白糸溶岩流は4
枚の溶岩流層からなると考えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認でき
る。溶岩流層の境目にはマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー)が発達
している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固ま

209 :
丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽
された樹木等が存在している。B3村山浅間神社構成資産の土地
には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内におい
て植栽された樹木等が存在している。B4須山浅間神社構成資産
の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内
において植栽された樹木等が存在している。B5須走浅間神社構
成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、
敷地内において植栽された樹木等が存在している。B6河口浅間
神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖
B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)構成資産の土地には、丘陵を構成
する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木
等が存在している。B15白糸の滝イロハカエデ、ヤブツバキ等
の自然林や植栽等の植物がある。ウ眺望C三保松原松の生立木が
植栽及び自然植生している。B保存管理又は公開活用を目的とし
た建造物構成資産の土地には、保存管理、公開活用のための各種
展示施設・管理棟・防災施設のほか、解説板・誘導案内板等が存
在している。ア富士山山体及び登山道A富士山−69−富士山に
おける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案
内標識等の整備が進められている。A1山頂信仰遺跡富士山にお
ける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内
標識等の整備が進められている。A2大宮・村山口登山道富士山
における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された
案内標識等の整備が進められている。A3須山口登山道なしA4
須走口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデ
ザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A5吉
田口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザ
インで統一された案内標識等の整備が進められている。A6北口
本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖・2006年3
月22日より、自然環境や適切な利用環境の保全を図るため、本
栖湖水面は動力船の乗り入れ禁止区域に指定された。こうした規
制内容を説明するための説明板や水上

210 :
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真
家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英
雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する
木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史
書「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみち
のり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶
桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづ

211 :
)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とう
ゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい
にっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう
(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡
部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−昭和)「
大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安
)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わ
かむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太
子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平
安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語もの
がたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉
)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未
詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い
「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室
町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽
草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作
者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じっぺんし
ゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざく
りげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門
えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三
好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)
「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや
小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山
」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想
・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの
記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富士を望む」小島
烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富士の古道」、
「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治

212 :
た縦方向の割れ目(柱状節理)が存在する。白糸ノ滝は、地質の特徴上、次のよう
なメカニズムで崩落を繰り返していると考えられている。白糸の滝は、最近10年
間の平均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もられており、この多量の水の落
下は、白糸溶岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を次第に浸食する。やがて、下
部が抉り取られることで上部の溶岩流はオーバーハング状態となり、自重に耐えら
れなくなった時点で自然崩落する。この作用が繰り返され、崖線が後退し続けてい
ると考えられる。また、白糸溶岩流内の柱状節理は浸食に弱く、滝の後退を早める
一因と指摘されている。白糸ノ滝は、1年に約2センチメートルの割合で北側に後
退しているという計算もある。音止の滝も、白糸ノ滝と同様の地質であり、同様の
メカニズムで崩落−62−を繰り返していると考えられている。写真溶岩流の写真
図溶岩流の拡散図・白糸ノ滝白糸の滝は、高さ約20メートル、長さ約120メー
トルに渡り馬蹄状に広がる崖面の各所から湧出した水が、数多の白い糸を垂らした
ように流れ落ち、滝となったものである。白糸ノ滝周辺の地質は、下部に不透水層
である古富士泥流堆積物があり、上部に透水性のある白糸溶岩流があると考えられ
ている。富士山麓に降った雨水は、上部の溶岩流を透過し、下部の不透水層との境
目を流れ下っていると考えられている。白糸の滝は、両層が崖面として露出してお
り、両層の境目や上部の溶岩流の間から水が湧出している様子が確認できる。写真
滝の写真(音止の滝も同時に掲載)・音止の滝音止の滝は、「音無の滝」とも呼ば
れ、白糸の滝と台地を隔てた東側に位置する。主瀑は落差約25メートルを流れ落
ちる芝川の本流であり、轟音を轟かせている。崖面では、白糸の滝同様の地層が観
察され、湧水が見られるが、白糸の滝に比して水量は少ない。・鬢撫水鬢撫水は、
「お鬢水」とも呼ばれ、白糸の滝の崖上にある。鬢撫水は、湧水が池となったもの
であり、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちている。また、ここには「駒繋石
」、「弁当(行厨)石」、「杓子石」等の名前のつい

213 :
止看板が湖畔の川尻地区などに設置されている。・中之倉トンネ
ル脇の山腹は旧五千円札(現千円札)の裏面に使用されている富
士山と本栖湖のイラストのモデルとなった岡田紅陽の写真の撮影
地である。国道300号線沿いの中之倉トンネル脇には四阿を有
する展望地がある。自然公園法の第2種特別地域として、観光施
設等も景観に配慮されている。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・
渋沢用水(横溝川)神立山の北側部を流れる渋沢用水(横溝川)
は、淀師地区渋沢の湧水地に源を発し、神立山の北半部を蛇行し
ながら南東方向へ流れ、富士宮市中心部を灌漑する用水路である
。開削時期は不明であるが水田開発を目的として開削されたと考
えられ、開発が進むにつれ生活用水や防火用水として使われるよ
うになった。現在は水質悪化により生活用水としては利用されな
くなっている。・社務所−70−楼門から続く東廻廊の東側に、
神社を管理し神社の社務を取り扱う社務所が建てられている。・
祈祷殿楼門から続く西廻廊の西側に、各種祈祷や御祓いを行うた
めの祈祷殿が建てられている。・浅間大社参集所現在の参集所は
昭和53年(1978)に建てられたもので、直会や各種会合に
利用されている。・神田川ふれあい広場施設昭和39年に富士宮
市が浅間大社境内地の一部を児童公園として整備され、さらに平
成6年から7年にかけて親水広場を備えた「神田川ふれあい広場
」として再整備された。現在は、同時期に改修された神田川護岸
も含め、中心市街地の親水空間として市民の憩いの場となってい
る。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ、時計、水飲み場等
の施設・設備が設置されている。・御手洗橋神田川ふれあい広場
の南東側には、長さ7.3m、幅11.5mの御手洗橋が架けら
れている。『大宮町誌』には、明治26年(1893)に架けら
れたとの記述がある。・弓道場第1駐車場西側に、弓道場が整備
されている。・消防団詰所鉄骨2階立ての富士宮市消防団第1方
面隊第3分団の詰所が、神立山南西の端に建てられている。・案
内板・説明板本殿や湧玉池などが、文化財に指定されていること
を案内・説明する高札が建てられている。・古神札納所拝殿東側
に、古い神札を納めるための屋根付き

214 :
み」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴ
ょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち
国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊
異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集も
のがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之き
のつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらか
み天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽
ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(
鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院してんのう
いん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼ
くわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺
和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良
香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(
鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじ
きこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)
「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国
かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行
きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小
堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこ
う」浅井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいど
うめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記
」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹か
がわかげき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江
戸)「東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「
東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−

215 :
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さん

216 :
在は不詳である。・植物白糸の滝の両岸の崖上には樹木が生い茂っている。また指
定地内には、メヤブソテツ、ユリワサビ等特色ある植物相がある。・富士講「白糸
ノ滝」には、江戸時代中期以降江戸で隆盛した富士講の祖長谷川角行にまつわる伝
承がある。角行は白糸の滝で垢離をとり修行を行ったとされ、富士講の信者の中に
は白糸の滝を訪れる者や、白糸の滝で修行を行う者がいたことが知られている。幕
末の資料には、白糸の滝で垢離をとり修行を行った富士講の信者の記録がある。指
定地内には富士講の信者が建てた石碑があり、「仙元大神」と記されたもの(市道
沿い)や、「食行身禄」と記されたもの(白糸の滝滝つぼ右岸)等がある。・白糸
の滝の勝景白糸の滝の、数多の白い糸を垂らしたように落ちる優美な勝景がある。
写真景勝の写真・音止の勝景音止の滝の、轟音をたてて落ちる雄大な勝景がある。
写真景勝の写真・富士山の展望指定地では、白糸の滝と音止の滝の勝景とともに、
見事な富士山が望まれる。写真展望の写真・富士の巻狩の伝承「白糸ノ滝」には、
建久4年(1193)に源頼朝が行ったいわゆる富士の巻狩にまつわる伝承がある
。音止の滝の名前は、富士の巻狩に関係する曽我兄弟の仇討ち伝承に由来するもの
で、兄弟が仇討ちの相−63−談をしている間は水音を止めたことから名づけられ
たという。また、鬢撫水には、富士の巻狩の折に源頼朝がここで鬢のほつれを直し
たという伝承がある。・歌碑「白糸ノ滝」の勝景は古くから詩歌に詠まれてきてお
り、白糸の滝滝つぼ右岸には白糸の滝の勝景を詠んだ歌碑がある。・標識名勝及び
天然記念物であることを明示する標識がある。B眺望C三保松原図以下に示す要素
が点在している平面図三保松原は、静岡市清水区南東部に位置する三保半島にあり
、半島の東岸真崎から海岸線に沿い、南北に約4キロメートルに及ぶ松林と内陸部
に散在する松林が主体をなしている。真崎から海岸線に沿う松林は、国有地又は市
有地が大半を占めているが、内陸部の松林と松林の景観を維持している背後地につ
いては、ほとんどが民有地となっている。松林には、

217 :
金剛杖古神札納所西側に、大金剛杖が置かれている。開山祭に使
用されていた。・藤棚水屋神社の南側に、藤棚が設けられている
。・駐車場指定地の南西部分には、自動発券機(料金収受機)を
設置した第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神社・案内
板・説明板籠屋の南側に、案内板等が建てられている。山宮浅間
神社の由緒を記したもの、山宮浅間神社の概要と、市指定文化財
であることを記したもの、山宮浅間神社の概要と、富士宮市「歩
く博物館」のコースであることを示す

218 :
「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)
紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむ
らさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦
しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平
中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり」(
鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳
「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょ
うきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い「東海道名所記」
(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさ
ん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひと
あな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ち
くさい」滑稽本十返舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道
中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろ
ぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠
璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記
」竹田たけだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳
なみきせんりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうし
んぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふ
じさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「
背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折
おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和)「富
士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すたれ行く富
士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和
)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明
治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和
)「少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)
「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直
文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石
なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞

219 :
木が約54,000本、幅広く分布している。図三保松原の地区区分図表地区区分
詳細表地区境界@特別規制A地区真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境界は、
隣接する特別規制B地区と第2種規制地区との境界(松が途切れる所)の延長線上
とする。A特別規制B地区特別規制A地区との境界は防潮堤外側とし、その他の規
制地区との境界は、羽衣参道は道路外側、それ以外は平成元年4月1日現在におい
て松原を形成している地区、ただし、真崎先端の境界は真崎灯台と建設省財産、運
輸省財産及び民地側の境界を結んだ線とする。B第1種規制地区真崎付近の第2種
規制地区及び第3種規制地区との境界は、都市計画道路の中心線とし、字広道の第
2種規制地区との境界、字羽衣脇の三保第一小学校を中心とする第2種規制地区と
の境界及び大字折戸地区における第2種規制地区との境界は、隣接する道路の中心
を境界とする。ただし、羽衣参道西側の第2種規制地区との境界は、羽衣参道中心
より25mの位置とする。C第2種規制地区真崎付近第3種規制地区との境界は、
市道本村海岸58号線の中心の延長を境界とする。その他の地区との境界は、@A
Bを参照。D第3種規制地区各地区との境界はABCを参照。(2)顕著な普遍的
価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形構成資産の土地には、山並
み、湧水や富士山及び側火山の噴火等の火山活動によって形成された溶岩樹型など
の自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているもの
もある。ア富士山山体及び登山道A富士山−64−・テフラ噴火の際、山頂火口か
ら粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、山頂付近
はテフラに覆われている。・大沢崩れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で
最も大きなもので、富士山西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直下から標高
2,200m付近まで延長2.1q、最大幅約500m、最大深さ約150mに渡
る。崩壊は現在も進行中で年平均約15万?の岩石・土砂を流出し、大沢川流域に
扇状地を形成している。写真大沢崩れの写真図大沢崩

220 :
り籠屋から遥拝所へ向かう石段の脇に、手すりが設置されている
。・鉄柱籠屋から遥拝所へ向かう参道と石段の両脇に、祭祀で利
用する鉄柱が設置されている。・トイレ籠屋西側に、水洗トイレ
が設置されている。・水道籠屋南側に、コンクリート製の水道施
設が設置されている。−71−・水飲み場水道施設の南側に、コ
ンクリート製の水飲み場が設置されている。・ベンチ休憩用のベ
ンチが設置されている。・鳥居駐車場横の参道に、コンクリート
製の鳥居が建てられている。・燈篭コンクリート製の鳥居から籠
屋へ至る参道の両側に氏子等が奉納した燈篭が並んで設置されて
いる。また、籠屋北側鉾立石の左右にも1基ずつ設置されている
。・駐車場乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道から入って
境内地を横切る道沿いに設けられている。・石碑山宮浅間神社の
由緒を記した石碑が、駐車場の北側に設置されている。・石造物
参道沿いには、道祖神、青面金剛、観音等の石造物が置かれてい
る。B3村山浅間神社・社務所境内西側に、社務所が建てられて
いる。・宝物殿社殿の南西側に、宝物殿が建てられている。・村
山公会堂社務所の西側には、元村山地区の住民が、会合等で利用
する公会堂が建てられている。・トイレ社務所北側に、トイレが
設置されている。・参道手すり氏神社へと登る参道脇には、アル
ミ製の手すりが設置されている。・御神木柵県指定天然記念物の
イチョウの周囲には、樹木保護のための柵が設置されている。・
御神木指定証県天然記念物に指定されているイチョウと大スギが
、御神木に指定された旨を示す札が、イチョウ周囲の柵と大スギ
の幹に掲げられている。・石柱村山浅間神社が、大正14年(1
925)に縣社に昇格したことを示す石柱が、参道入口左側に設
置されている。また、昭和62年(1987)に寄贈された「富
士根本宮村山浅間神社」と刻まれた石柱が、参道入口右側に設置
されている。・児童公園六道坂入り口付近に、すべり台等の遊具
を備え、またプールを併設した児童公園が整備されている。・駐
車場境内地西端に、参詣者用の駐車場が整備されている。−72
−・村山水道完成記念碑社務所裏側に、村山水道の完成を記念す
る碑が建てられている。昭和33年に

221 :
ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「
春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じん
せい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者
日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふじ
さんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描が
くろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記ふ
じにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ごうり
きでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士ふ
じに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治−
昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明
治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつも
と清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せり
ざわこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人
間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「
崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−
奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集ま
んようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫
麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平
安)「清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「
業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集
」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(
平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし
成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大
臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣
家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(
鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとの
さねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏

222 :
朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅ
う」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条
しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(
室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水
無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)「水無瀬殿富士百
首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ
(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙
辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝
かとうえ直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものまぶち
(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「
石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(
江戸)「詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴
後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治−大正)土井ど
い晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉
もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆう
ぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい
(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治
−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治
−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治
−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治−平成
)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう
(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こばや
し一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(
明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集
」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜
子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう
(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治
−昭和)「旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和
)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)
評価基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「

223 :
しA2大宮・村山口登山道・日沢(浸食谷)日沢は富士山の浸食谷の1つで、村山
口登山道跡とほぼ並行に山腹を南下していく。村山口登山道跡とは、中宮八幡堂跡
の東側(標高1,280m付近)及び、6号建物跡と7号建物跡の間(標高2,0
15m付近)で交差する。2,015m付近には、日沢の上に巨石があり、自然の
橋のような地形になっており、横渡と呼ばれる。登山道はここで日沢の左岸から右
岸に渡る。写真日沢の写真A3須山口登山道起伏に富

224 :
士山表口真面之図)麓の吉原から山頂へ至る登山道と、途中のポ
イントとなる地名、集落を繋ぐ道等を示した地図が、村山公会堂
の北側に設置されている。B4須山浅間神社・御胎内説明板須山
口御胎内の由緒等についての説明版が、富士山須山口登山道保存
会により、鳥居脇に設置されている。・洞窟内説明板「須山胎内
」と書かれた金属板が、洞穴内部壁面に設置されている。・梯子
須山御胎内の北西側入口に、ジュラルミン製の梯子が架けられて
いる。・ベンチ・テーブル須山御胎内から登山道を80mほど進
んだ場所に、木製のベンチ2脚とテーブル1台が設置されている
。・蝋燭台須山御胎内の南東側入口に、木製の蝋燭台が設けられ
ている。・標識須山御胎内から幕岩までの登山道脇に、須山口登
山道及び須山御胎内を示す標識が設置されている。木製と金属製
のものがある。御殿場口との合流点より上部については、茶色と
緑色の地に白い文字で統一された登山道案内標識が設置されてい
る。この標識は富士山における標識類総合ガイドライン(仮称)
に沿ったデザイン案で統一されている。B5須走浅間神社・神馬
舎楼門の西側に神馬舎が建てられている。・神輿庫恵比寿大黒社
の東側には、例大祭で使用される神輿の格納庫が建てられている
。・あずまや祖霊社の北側には、あずま屋が建てられている。・
神橋(太鼓橋)県道138号線から、川を渡って参道へと通じる
橋が架けられている。・説明板・案内板浅間神社の由緒、天然記
念物の樹木の概要等を記した説明板、参拝路を表示した案内板等
が立てられている。・駐車場社務所東側には、参拝者用の駐車場
乗用車6台分が設けられている。・トイレ神輿庫の東側には、参
拝者用のトイレが建てられている。・ベンチ−73−浅間の杜内
には、散策する際に休憩するためのベンチが、6基置かれている
。・社務所・記念資料館参道入口脇に、神社を管理し社務を取り
扱う社務所と、冨士浅間神社や須走地区の歴史的な資料を保管す
る記念資料館が併設されている。・須走護国神社西南の役から太
平洋戦争に至る間の、須走の戦没者24名が祀られている。B6
河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅旧外川家住宅は
、主屋や離座敷などに旧外川家が有す

225 :
尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ご
ひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵
」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじな
り(安土桃山−江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはま
おみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草
」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん紀行」石川

226 :
世界遺産条約第1条及び『世界遺産条約履行のための作業指針
』(以下、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記
念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価
基準への適合性証明以下に示す理由に基づき、「富士山」には
、世界遺産一覧表への記載のための評価基準のうち(B)、(
C)、(E)が適用できる。評価基準(B)現存するか消滅し
ているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承
する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
評価基準(B)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自
然環境を背景とし、山頂への参詣などの特徴を持った山に対す
る宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけて大規
模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその
周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、
登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊地・巡礼地と
なった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼
や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心
が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴
する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である
。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、
時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における
山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂
部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10
世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あ
るいは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富
士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動と
ともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)
に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参
詣する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山
活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹
型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行することで治病・除
災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して

227 :
小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、テフラに覆われて
いる。A4須走口登山道起伏に富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテ
フラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、テフラに覆われている。A5吉田口登
山道二合目から三合目にかけて見られる古富士火山からの泥流堆積物、二合目付近
で見られる玄武岩溶岩の滑床及び縄状溶岩など様々な地質・地形が火山活動により
形成されている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖地質学
的にみると湖の北側、西側、南側は御坂基盤層により構成されているが、東側新富
士火山の旧期の溶岩、さらにそれらを覆う形で青木ヶ原溶岩が分布している。この
溶岩流については水中に流入して形成された水底溶岩の可能性も指摘されている。
(久野久(1968)水中自破砕溶岩)また本栖湖畔のボーリング調査において4
3mより上位は新富士火山の特徴が示され、それより深いところは古富士火山の特
徴を示している。その時期は概ね30,000年前以降の溶岩主体の富士山起源の
火山活動が確認−65−されている。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・鏡池楼門前
の池で一名眼鏡池とも言われる。参道を挟んで両側に丸く池が広がっている。寛文
10年(1670)の絵図では、ここから流れる水が御手洗川に流れ込んでいる。
写真鏡池の写真B2山宮浅間神社構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が
見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある。B3
村山浅間神社構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を
成立させる重要な要素となって存在しているものがある。B4須山浅間神社構成資
産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要
素となって存在しているものがある。B5須走浅間神社・信しげの滝(清めの滝)
境内地の池で汲み上げた水が、石鳥居南側の「信しげの滝」まで流れている。B6
河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅中門をくぐると川(水路)が流れ
ており、かつては当家に宿泊する富士講の禊ぎの場と

228 :
期的に入れ替えながら御師や御師住宅、富士講などに関する理解
を深めるよう活用されている。B9山中湖B10河口湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型船津胎内樹型の管理を行う施設として
河口湖フィールドセンターがある。溶岩樹型に関わる資料や自然
、生物等の展示施設をもち自然共生室という研究機関も兼ね備え
、洞穴や周辺環境の価値の普及、洞内環境の保護、入洞者の安全
確保に寄与している。B13吉田胎内樹型吉田胎内樹型に関する
解説板が山梨県・富士吉田市教育委員会により設置されている。
B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・説明板、案内板洞穴の
入口に、人穴の由緒や市指定文化財であることを記した説明板、
碑塔群や洞穴内の危険に対して注意を促す旨の案内板が4本建て
られている。B15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしC道路と
その他人工物構成資産の土地には、日常生活を営む地域住民が使
用する生活道路や、富士スバルラインや富士山スカイラインなど
の観光道路をはじめてとして、電柱、看板、誘導標識などをはじ
めとする各種の建築物及び工作物が存在している−74−ア富士
山山体及び登山道A富士山・救急搬送・荷物搬送区域救急用・緊
急避難道としての役割を持つ道路等の施設である。搬送には、ブ
ルドーザーが使われる。歩道との交差部には、進入禁止柵・注意
表示板が設置されている。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山
口登山道6合目以上では、登山者の安全確保のため、登山道に沿
って鉄杭、ロープ等が設置されている。A3須山口登山道須山御
胎内から幕岩までの登山道脇に、須山口登山道及び須山御胎内を
示す標識が設置されている。木製と金属製のものがある。御殿場
口との合流点より上部については、茶色と緑色の地に白い文字で
統一された登山道案内標識が設置されている。この標識は富士山
における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一されて
いる。A4須走口登山道登山者の安全確保のため、登山道に沿っ
て鉄杭、ロープ等が設置されている。須走口登山道は、茶色地に
赤色の帯が入り、白い文字で統一された登山道案内標識が設置さ
れている。この標識は富士山における標識類総合ガイドラインに
沿ったデザインで統一されている。吉

229 :
わ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣も
とおりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すず
のや集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むら
た春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ
(明治−大正)土井どい晩翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫る
」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路」前
田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」若山わかや
ま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら白秋はく
しゅう(明治−昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつ
はる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺ
い(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治
−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばし
ょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こば
やし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明
治−昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治−昭和)「山りょ集」富
安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅ
うおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−
昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「
旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加
藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵
抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合
性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条
及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群
」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証明以下に
示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への記載の
ための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用できる。評
価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化
的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なく
とも希有な存在)である。評価基準(B)の適用富士山で

230 :
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為
(儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけて富士山は体
系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大衆による
宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然への
畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏
季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とと

231 :
0河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・構成岩石質、地質学的形状(平面的
、立体的)等B13吉田胎内樹型溶岩流の流出時の表面の状態がほぼ保たれている
。地域を覆う玄武岩溶岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出物が顕著
に見られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−66−構成資産の土地には
丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存
在しているものがある。B15白糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然
地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある
。ウ眺望C三保松原なしA森林、植栽樹木構成資産の土地には、富士山の景観を構
成している天然林、富士山原始林及び青木ヶ原樹海、人工林などからなる森林が存
在しているほか、社叢林・境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A
富士山標高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育している。A
1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部分の植物村山浅間神社から中
宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。
戦後、スギ・ヒノキ・モミなどの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林である
が、天照教社から富士山麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿いには、ブナ・ミ
ズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残っている。林の下にはササ(スズタ
ケ)が視界を遮るほど生い茂っている。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新
5合目の森林限界(2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、山地
帯から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエデなどの広葉樹からウ
ラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わり、標高1,600m付近で落葉樹とサ
サがなくなる。・焼山部分の植物森林限界である標高2,400m付近から上で、
植物の垂直分布では高山帯にあたる。この付近の植物は7月下旬から9月上旬にか
けていっせいに花を咲かせる。オンタデ、ムラサキモメンヅル、ミヤマオトコヨモ
ギなどが見られる。A3須山口登山道・木山部分の植

232 :
目より上部は、さらに黄色の帯が加わる。A5吉田口登山道富士
山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一され
た案内標識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神
社A7西湖A8精進湖A9本栖湖湖西側に位置する水力発電用取
水口は、(株)日本軽金属蒲原製造所の工場群に電力を供給する
自家用水力発電所の一つ、本栖発電所

233 :
なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの
特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜1
9世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場
となった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山
に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一
帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃
まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他
界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(
※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下
の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に示されたよう
に、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を
中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成さ
れ神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地
などを巡礼し、修行することで治病・除災などの超自然的力を獲
得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富
士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、1
8〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施
設も含め、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっ
ていた。このような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基
盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日
本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日で
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山
客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分
は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼

234 :
の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社
に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継
がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知られている。
(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影
響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神
に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持
ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅定」
とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状態
、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行する
ことも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」
(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16
世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物
、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕
著な見本である。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信
仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂
に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀にかけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山
により生み出された芸術活動を背景として、富士山の宗教施設
、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教
的な意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表
現されることにより、多くの人々に富士山が神聖な山であると
の認識がより強固に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水
垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。
したがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士
山の景観認識は近代工業社会以前の段階における山と人間との
精神的関係を表す景観の顕著な見本である。・山と人間との精
神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜1
6世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆に
も拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在で

235 :
御胎内(標高1,440m付近)付近は夏緑樹林帯(ブナ・ミズナラ・カエデ類)
にあたり、林床にはササ類が密生している。幕岩上部(標高1,680m付近)付
近は、針葉樹のシラビソ・−67−オオシラビソ・コメツガなどが多くなるが、森
林限界(標高1,700〜1,750m)に近くなるにつれて樹高が低くまばらに
なる。宝永噴火の際に噴出したスコリアが厚く堆積しているため、須山口登山道付
近の森林限界は、他の登山道よりもかなり低い。・焼山部分の植物須山口登山道2
合8勺(標高2,050m付近)から頂上までは、植物の垂直分布で高山帯にあた
る。オンタデ、イタドリ、フジハタザオ、フジアザミなどが、まばらに分布する。
A4須走口登山道・木山部分の植物植物の垂直分布では、須走口登山道5合目(標
高2,000m)付近は、亜高山針葉樹林帯でシラビソ・オオシラビソ・コメツガ
などが分布する。須走口登山道の森林限界は約2,700mで、他の登山道よりも
高い。・焼山部分の植物森林限界を過ぎると高山帯となり、オンタデ、イタドリ、
フジハタザオ、フジアザミなどが、まばらに分布する。A5吉田口登山道標高16
00m付近より下方の区域は、山地帯に属する。自然林はごく少なく、ほとんどが
アカマツ・カラマツなどの植林地である。わずかに残る自然林では、ミズナラ・ウ
ラジロモミや自生のアカマツ等が生えている。天然記念物「躑躅原のレンゲツツジ
及びフジザクラ群落」が存在するのもこの地域である。標高1600mから250
0m付近までの区域が亜高山帯にあたり、コメツガ・シラベ・オオシラビソの森林
を形成している。火山礫の露出した日当たりの良いところには、ダケカンバが生え
ている。・焼山部分の植物標高2500m付近から上の区域は高山帯に当たり、森
林は形成されない。植物はほとんどみられない地域であることから、かつては「焼
山」と呼ばれた。植物の遷移の過程を見ることが出来る場所としても、学術的価値
が高い。ここには、カラマツが匍匐状に生育し、乾燥に強いミヤマハンノキ・オン
タデ・メゲツソウ・フジアザミ・ムラサキモメンズル

236 :
富士山本宮浅間大社指定地の南西部分には、自動発券機(料金収
受機)を設置した第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神
社乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道から入って境内地を
横切る道沿いに設けられている。−75−B3村山浅間神社境内
地西端に、参詣者用の駐車場が整備されている。B4須山浅間神
社裾野市と須山振興会によって、須山口からの登山道の案内図が
設置されている。B5須走浅間神社社務所東側には、参拝者用の
駐車場乗用車6台分が設けられている。B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社B8御師住宅国道139号に面した敷地入口には
、御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)の内容を示す解説板
が設置されている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B1
2船津胎内樹型河口湖フィールドセンターの開設に伴い整備され
たトレイル(遊歩道)が設けられている。遊歩道には石造物の分
布が確認でき、自然散策路としての要素以外に歴史散策路的要素
も兼ね備えている。B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山道の
「中ノ茶屋」から、吉田胎内本穴に向かうものである。古くから
富士講の信者等に利用され、「甲斐国誌」には「胎内道」として
記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)2本の
道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する。
建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有していたと考えられる
。B15白糸ノ滝市道・私道等の道路、階段、曽我橋、滝見橋等
がある。また、それらの付属施設がある。危険を伴う区域には、
護岸や落石防護ネットが整備され、また、立入禁止の札が立てら
れている。県道沿い及び芝川本流左岸等には駐車場があり、管理
小屋等の付帯施設がある。また、県道沿いの駐車場には公衆トイ
レがある。ウ眺望C三保松原−76−なし(3)周辺環境を構成
する諸要素@自然的要素構成資産の周辺には、山並み、河川をは
じめとする各種自然地形が存在している。また、統一感のある山
並み景観を構成している天然林及び施業林からなる森林が存在し
ている。ア富士山山体及び登山道A富士山・宝永火口静岡県側か
らの富士山の景観を特色付ける噴火口で山頂信仰遺跡の南東側に
ある。宝永4年(1707)に発生し

237 :
によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知
られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神
仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は
一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名
称を持ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅
定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状
態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行するこ
とも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部
分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ご
ろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本で
ある。評価基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中
で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系
化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて発達し、1
8〜19世紀にかけて完成された。この過程において、日本にお
ける山に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸
術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は
富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持つ景観として
認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多くの
人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日
本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な
関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信仰の形成
過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社会以前の段
階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本であ
る。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山
では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開
始され、15〜16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式
が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在で
ある人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれ
た)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「
深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経なが

238 :
宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖水辺植物群、沈水植物群にそれぞれ
特徴が挙げられる。イ信仰B1富士山本宮浅間大社構成資産の土地には、丘陵を構
成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在してい
る。−68−B2山宮浅間神社構成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内
林などのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在している。B3村山浅間神
社構成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内

239 :
り、白い灰のデイサイト質軽石・黒曜石(烏石)・凝灰石など新
第三紀の基盤岩類、斑レイ岩、黒い玄武岩質スコリアなどを降ら
せた。記録によれば約100q離れた江戸にまで火山灰が到達し
たが、溶岩の流下はなかった。活火山であり、今後も噴火活動の
可能性がある。・富士山特定地理等保護林8合目から標高約2,
400m付近にかけて展開する約927haの保護林である。富
士山の国有林においては第3次国有林野施業実施計画、自然環境
の維持、動植物の保護が図られ、あわせて遺伝資源の保存を図る
ことを目的として設定されている。富士山独特の地形・地質を持
つ区域の植生として貴重な区域である。・富士箱根伊豆国立公園
富士山管理計画区自然公園法の特別保護地区あたる概ね5合目以
上の火山高原を主体とした山頂部までの区域である。富士山の火
山景観の核心部を呈する区域であり、富士山の秀麗な山容、植物
の遷移過程等が保全の対象となっている。A1山頂信仰遺跡なし
A2大宮・村山口登山道・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約
160種である。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山
域には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息する。その中に
は、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカや天然記念
物に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生
息するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生
息数は少ない。A3須山口登山道・幕岩登山道の東側50m、標
高1,650m付近にあり、新富士火山の中期溶岩の切り立った
岩壁で、比高は15mを超える。岩肌には樹木が生い茂り、崖の
下には直径1〜2cmのスコリアが一面に堆積している。その存
在は宝永噴火前の古絵図にも記録されている。古絵図には「まこ
岩」「孫岩」の名で記述されることもある。役行者が7世紀後半
に伊豆に流された折、この地で修行したという言い伝えが残って
いる−77−(日本霊異記)。登山道から幕岩の直下に降りる道
がある。・側火山登山道沿いには宝永山(標高2,698m)、
二ツ塚(標高1,926m、1,804m)、アザミ塚(1,6
26m)などの側火山が見られる。宝永4年(1707)の宝永
の噴火により須山口旧登山道は崩壊し

240 :
礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵
画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が
成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに
多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる
富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後
半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖

241 :
富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、「万
葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは
海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えて
きた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた
伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある
景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的
・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を
持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙
思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場と
した。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ
、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝
などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山のみならず
日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なると
はいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数
多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を
持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・
顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立
峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優
れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品
を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作
品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともに
その構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日
本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半から

242 :
て植栽された樹木等が存在している。B4須山浅間神社構成資産の土地には、丘陵
を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在し
ている。B5須走浅間神社構成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林な
どのほか、敷地内において植栽された樹木等が存在している。B6河口浅間神社B
7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船
津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)構成資産の
土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された
樹木等が存在している。B15白糸の滝イロハカエデ、ヤブツバキ等の自然林や植
栽等の植物がある。ウ眺望C三保松原松の生立木が植栽及び自然植生している。B
保存管理又は公開活用を目的とした建造物構成資産の土地には、保存管理、公開活
用のための各種展示施設・管理棟・防災施設のほか、解説板・誘導案内板等が存在
している。ア富士山山体及び登山道A富士山−69−富士山における標識類総合ガ
イドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A
1山頂信仰遺跡富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一さ
れた案内標識等の整備が進められている。A2大宮・村山口登山道富士山における
標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進めら
れている。A3須山口登山道なしA4須走口登山道富士山における標識類総合ガイ
ドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進められている。A5
吉田口登山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一され
た案内標識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精
進湖A9本栖湖・2006年3月22日より、自然環境や適切な利用環境の保全を
図るため、本栖湖水面は動力船の乗り入れ禁止区域に指定された。こうした規制内
容を説明するための説明板や水上バイク等動力船乗り入れ禁止看板が湖畔の川尻地
区などに設置されている。・中之倉トンネル脇の山腹

243 :
回する形で復興した。・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約1
60種である。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山域
には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息する。その中には
、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカや天然記念物
に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生息
するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生息
数は少ない。A4須走口登山道・御胎内(溶岩洞穴)須走口登山
道6合目の北側(標高2,630m付近)にある溶岩洞穴。開口
部は腰をかがめなければ進めないほど狭いが、内部は数名が立つ
ことのできる空間が広がっている。・小富士標高1,959mの
側火山で、須走口登山道5合目からほぼ北に600mほど離れた
場所にある。延暦19年(800)とそれに続く噴火により形成
されたとされている。須走口5合目から高低差の少ない小富士遊
歩道が整備され、気軽に訪れることができる。周辺は針葉樹林(
シラビソ・コメツガ・トウヒ)に覆われているが、頂上部分はス
コリアに覆われて樹木がなく、山中湖・箱根など東の眺望が楽し
める。小山町観光協会によるコンクリート製の標識と、大正13
年(1924)に扶桑教によって建立された祠がある。祠内部に
仏像が三体あったというが、現在は残っていない。・鳥類相富士
山域で観察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない
。・陸生哺乳類富士山の山域には、6目14科35種程の陸生哺
乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されている
ニホンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる
。また、ツキノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生
息できる環境が限られ、生息数は少ない。A5吉田口登山道A6
北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖北側・西側
・南側の山は御坂層基盤により構成されている。北側から西側に
かけては、標高1100m〜1300m前後の山が連なっている
。また南側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰
B1富士山本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源と
する神田川が、約1,000mを流れ潤井川に注いでいる。かつ
ては禊所より下流(下池)の部分も含

244 :
しての景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の
自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神
的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙思想に
おける不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中
心である「須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よ
り富士山の信仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中
心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての
代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布され
るとともに、縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり
、眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九
尊図」評価基準(E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)
、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用
いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺
の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、
日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承され
ている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地
域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有している。写
真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、こ
れらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、
「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句
、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた
。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、
芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観であ
る。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関
連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の
空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と
結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝
統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の

245 :
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を
題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸
出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山
からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現な
どとともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区
別される富士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学
では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句
などによってその崇高さや美しさが称えられ、近

246 :
裏面に使用されている富士山と本栖湖のイラストのモデルとなった岡田紅陽の写真
の撮影地である。国道300号線沿いの中之倉トンネル脇には四阿を有する展望地
がある。自然公園法の第2種特別地域として、観光施設等も景観に配慮されている
。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・渋沢用水(横溝川)神立山の北側部を流れる渋
沢用水(横溝川)は、淀師地区渋沢の湧水地に源を発し、神立山の北半部を蛇行し
ながら南東方向へ流れ、富士宮市中心部を灌漑する用水路である。開削時期は不明
であるが水田開発を目的として開削されたと考えられ、開発が進むにつれ生活用水
や防火用水として使われるようになった。現在は水質悪化により生活用水としては
利用されなくなっている。・社務所−70−楼門から続く東廻廊の東側に、神社を
管理し神社の社務を取り扱う社務所が建てられている。・祈祷殿楼門から続く西廻
廊の西側に、各種祈祷や御祓いを行うための祈祷殿が建てられている。・浅間大社
参集所現在の参集所は昭和53年(1978)に建てられたもので、直会や各種会
合に利用されている。・神田川ふれあい広場施設昭和39年に富士宮市が浅間大社
境内地の一部を児童公園として整備され、さらに平成6年から7年にかけて親水広
場を備えた「神田川ふれあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改修さ
れた神田川護岸も含め、中心市街地の親水空間として市民の憩いの場となっている
。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ、時計、水飲み場等の施設・設備が設置
されている。・御手洗橋神田川ふれあい広場の南東側には、長さ7.3m、幅11
.5mの御手洗橋が架けられている。『大宮町誌』には、明治26年(1893)
に架けられたとの記述がある。・弓道場第1駐車場西側に、弓道場が整備されてい
る。・消防団詰所鉄骨2階立ての富士宮市消防団第1方面隊第3分団の詰所が、神
立山南西の端に建てられている。・案内板・説明板本殿や湧玉池などが、文化財に
指定されていることを案内・説明する高札が建てられている。・古神札納所拝殿東
側に、古い神札を納めるための屋根付きの箱が置かれ

247 :
た。現在、護岸の一部は、神田川ふれあい広場から下りる親水護
岸として整備されている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神
社なしB4須山浅間神社なしB5須走浅間神社なしB6河口浅間
神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅なしB9山中湖B10河
口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・溶岩洞穴等の主体とな
る地形・溶岩洞穴等を構成する地質(剣丸尾溶岩流と火砕物によ
り構成)B13吉田胎内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶
岩洞穴等を構成する地質(剣丸尾溶岩

248 :
仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士山に
おいてはこれらの信仰の核心部分が登拝などの形態や儀式に伝え
られている。また、富士山のみならず日本各地の山岳やアジア地
域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することを
その根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって
、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的
に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ芸術作品と
の直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や海と組
み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至
るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を
題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半に作成され
たこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮
世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋
における日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の
画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となっ
た。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説を
モチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに
影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭
にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を題
材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富
士山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良
く知られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句などによってそ
の崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学
者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるも
のをはじめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左
「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨嶽三十六景」より
(1831〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕
著な普遍的価値の証明a)において証明した評価基準への

249 :
にも知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百
景」など)によるものをはじめ富士山を舞台とした作品が生み
出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北
斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)33写真ゴッホ
「タンギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の証明a)において
証明した評価基準への適合性の証明の結果として、「富士山」
は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持つ。顕著な普遍的
価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高
3776m)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり
、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対す
る信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重な
どによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独特の
芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信
仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の
諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であ
るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観
の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的
価値を持つ山である。富士山の山体とその周辺の地域には、宗
教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこで
の儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰
の核心が継承されている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢
・湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された神社等の建築
群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活
動が成立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山
は大規模な大衆による宗教的登山及びその体系の典型的存在と
なり、この体系の核心は現代の登山に継承されている。現在で
も、富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問
わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴
的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉
えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎となり、
「万葉集」をはじめとする日本固有の和歌や俳句

250 :
所西側に、大金剛杖が置かれている。開山祭に使用されていた。・藤棚水屋神社の
南側に、藤棚が設けられている。・駐車場指定地の南西部分には、自動発券機(料
金収受機)を設置した第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神社・案内板・
説明板籠屋の南側に、案内板等が建てられている。山宮浅間神社の由緒を記したも
の、山宮浅間神社の概要と、市指定文化財であることを記したもの、山宮浅間神社
の概要と、富士宮市「歩く博物館」のコースであることを示すものの3本である。
・手すり籠屋から遥拝所へ向かう石段の脇に、手すりが設置されている。・鉄柱籠
屋から遥拝所へ向かう参道と石段の両脇に、祭祀で利用する鉄柱が設置されている
。・トイレ籠屋西側に、水洗トイレが設置されている。・水道籠屋南側に、コンク
リート製の水道施設が設置されている。−71−・水飲み場水道施設の南側に、コ
ンクリート製の水飲み場が設置されている。・ベンチ休憩用のベンチが設置されて
いる。・鳥居駐車場横の参道に、コンクリート製の鳥居が建てられている。・燈篭
コンクリート製の鳥居から籠屋へ至る参道の両側に氏子等が奉納した燈篭が並んで
設置されている。また、籠屋北側鉾立石の左右にも1基ずつ設置されている。・駐
車場乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道から入って境内地を横切る道沿いに
設けられている。・石碑山宮浅間神社の由緒を記した石碑が、駐車場の北側に設置
されている。・石造物参道沿いには、道祖神、青面金剛、観音等の石造物が置かれ
ている。B3村山浅間神社・社務所境内西側に、社務所が建てられている。・宝物
殿社殿の南西側に、宝物殿が建てられている。・村山公会堂社務所の西側には、元
村山地区の住民が、会合等で利用する公会堂が建てられている。・トイレ社務所北
側に、トイレが設置されている。・参道手すり氏神社へと登る参道脇には、アルミ
製の手すりが設置されている。・御神木柵県指定天然記念物のイチョウの周囲には
、樹木保護のための柵が設置されている。・御神木指定証県天然記念物に指定され
ているイチョウと大スギが、御神木に指定された旨を

251 :
14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)なしB15白糸ノ滝なしウ
眺望C三保松原なしA歴史的要素構成資産の周辺地域の地下には
、関連の遺構、遺物が良好に残されている区域があり、それらは
文化財保護法に基づき埋蔵文化財包蔵地として周知されている。
また、かつて登山者に利用された御師の家並みなど、文献史料に
記載された多数の伝承地や名所等が存在している。ア富士山山体
及び登山道−79−A富士山なしA1山頂信仰遺跡なしA2大宮
・村山口登山道・馬頭観音1村山浅間神社脇の舗装された道を登
って南西から北東に進んでいくと、舗装道が大きく北西方向にそ
れていく。村山口登山道跡はここを北西に行かずに、直進し北東
方向へ進む。その交差点に馬頭観音の碑が建っている(標高約5
90m)。昭和8年(1933)に上原伸郎によって建てられた
ものである。・馬頭観音2静岡県立富士山麓山の村を抜けた場所
にある。ここはやや道幅が広い、比較的直伸している経路と、屈
曲した経路の2つが存在する。前者については明治以降に木材の
切り出し・運搬に使われた木馬道であると推測される。ここで以
前に馬が死んだので、供養のために馬頭観音を建てたと伝えられ
ている。・2号建物跡平成5年の富士宮市の調査では、中宮八幡
堂跡手前で日沢を渡り、50mほど登ったところに2号建物跡が
あるとされる。『富士山村山口登山道遺跡調査報告書』では、「
道の南側に12m×8mの平坦面があり、道の北側にも平らな場
所がある」と報告している。平成20年の調査では平場らしき地
形を確認したが、平成5年当時の景観と著しく異なっており、両
者が同一のものか判断できない。写真建物跡の写真図建物跡の図
面・3号建物跡登山道跡と県道富士宮富士公園線が交差する地点
から約60m南に下りた位置にある。周囲はなだらかな傾斜の天
然林で、地面は落葉に覆われている。むき出しになった岩石には
一面に苔がむしている。東西4m弱・南北6m弱の方形の石列が
あり、その北東側に小さなくぼみを確認した。『富士山村山口登
山道遺跡調査報告書』は、このくぼみを便所跡としている。写真
建物跡の写真図建物跡の図面・4号建物跡富士山スカイラインと
村山登山道が交差する地点から北北東

252 :
の証明の結果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普
遍的価値を持つ。顕著な普遍的価値の言明富士山は、日本を代表
し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山
として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤と
して日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた
葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵
」などの日本独特の芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は
、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超え
て一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝
統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係
を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著
な普遍的価値を持つ山である。富士山の山体とその周辺の地域に
は、宗教的な儀礼・活動の場となった神社、登山道と関連遺跡群
、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残され、そこ
での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰
の核心が継承されている。また、富士山信仰の中で山体・樹叢・
湖沼などの自然環境を基盤とし、体系化された神社等の建築群・
登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成
立した。これが発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模
な大衆による宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この
体系の核心は現代の登山に継承されている。現在でも、富士山は
日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ
「名山」である。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成す
る美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでなく
、古くから様々な芸術活動の母胎となり、「万葉集」をはじめと
する日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人に良く
知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海外に
も広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきたもの
である。さらに、これらの芸術と富士山やその景観美を紹介した
外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の文化を代表する「名
山」であることは国際的に認知されるに至っている。34写真写
真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山c)比較検討

253 :
と大スギの幹に掲げられている。・石柱村山浅間神社が、大正14年(1925)
に縣社に昇格したことを示す石柱が、参道入口左側に設置されている。また、昭和
62年(1987)に寄贈された「富士根本宮村山浅間神社」と刻まれた石柱が、
参道入口右側に設置されている。・児童公園六道坂入り口付近に、すべり台等の遊
具を備え、またプールを併設した児童公園が整備されている。・駐車場境内地西端
に、参詣者用の駐車場が整備されている。−72−・

254 :
にある。登山道の西側には日沢が南北に走っており、北側と東側
には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタケが生い茂って
いる。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の縁には一部石
組が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士山村
山口登山道遺跡調査報告書』はここを「矢立・新小屋」にあたる
としているが、後世まで木の切り出しなどの休憩小屋として使わ
れていた可能性をも指摘している。・6号建物跡5号建物跡から
北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲
は西向きに傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢
に向けて急激に落ち込んでいる。登山道の東側には、東西約12
m、南北約10mの平場がある。平場の南縁には石組が見られ、
登山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側の
斜面にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者から
の伝法で村山三坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う
富士峯修行の修行所の1つであった。江戸時代の絵図には、高所
にある洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−80−ること
が多い。洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年
(1602)に書かれた「富士山持場之事」に記述があるが、宝
永4年(1707)の宝永噴火で堂室が消失したと言われている
。また、文化13年(1816)〜天保5年(1834)に執筆
された『修訂駿河国新風土記』には、岩屋不動に、家のような板
葺きの建物があり、登山者の休憩所であったことが記されている
が、嘉永7年(1854)の「富士山室小屋建立古帳面写」では
「堂室無之」と記載され、この時点では再び堂室が消失している
と推測される。その後、岩屋不動の所在は不明となっていたが、
平成19年に候補地たりうる洞穴の存在を確認した。不動沢を標
高約1,820mの地点まで登りつめ、地上から7mほどの高さ
の場所にある。洞穴の内部は、高さ2m、幅6.4m(最奥)、
奥行9mを測る。洞穴内は人が立つことのできる程度の高さがあ
り、内壁は全体的に赤みがかっている。中央部向かって右側から
入口付近に向けて崩落した大岩が多く転がり、入口は半ば塞がれ
たような状態である。最奥の向かって

255 :
(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であることに由来する
特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがあるか)、有形的価値とし
ては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道」「神社」「寺院
」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかどうか、無形的価値
としては、「継続性」(崇拝儀礼などが今も行われているか)
、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登拝、遙拝
を行っているか)、「アイデンティティ」(山自体が国、民族
の象徴となっているか)、「知名度」(富士山と同程度(山頂
までの登山者が30万人、山麓が4,000万人)の訪問者が
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、
顕著な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性については、山
の景観美が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、またそ
れらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響を3
5与えたかどうか、といった観点から、評価することとする。
2)海外同種資産の特定同種資産の特定にあたっては、評価基
準に関するものとしては、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹
介されている山岳、評価基準に関するものとしては、A世界遺
産リストの概要で芸術への明確な関連性が示されている山岳、
B海外の専門家による研究書等で芸術の山として紹介されてい
る山岳等を抽出した。また、両方の基準に関するものとしては
、Cイコモスによる研究書「FillingtheGaps」
の類型別分析・テーマ別分析、D文化的景観に関する研究書の
分析を行った。具体的には、Bでは、の三つの文献を対象とし
て資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」
、「聖なる山」、「アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する
山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センターから刊
行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中で、
山が特徴として挙げられている資産のうち、「美的資質」、「
集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地、神聖性」の特徴を
持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外
の同種資産は表1の34件となる。その中では富士山との共通
性のあるものに、共通性の大きいものにがしてあ

256 :
口登山道に合流する。合流地点は古くから「大行合」と呼ばれた
。ここから上は頂上奥宮の神域で、小屋を建てることが許されな
かったことから、登山道最後の小屋場として多くの小屋が建てら
れていた。写真小屋の写真A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A
8精進湖A9本栖湖・中道往還と関連遺跡中道往還は甲斐と駿河
との交通路のうち、若彦路と河内路の

257 :
、登山道に沿って鉄杭、ロープ等が設置されている。須走口登山道は、茶色地に赤
色の帯が入り、白い文字で統一された登山道案内標識が設置されている。この標識
は富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一されている。吉
田口登山道が合流する八合目より上部は、さらに黄色の帯が加わる。A5吉田口登
山道富士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標
識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9
本栖湖湖西側に位置する水力発電用取水口は、(株)日本軽金属蒲原製造所の工場
群に電力を供給する自家用水力発電所の一つ、本栖発電所のものである。イ信仰B
1富士山本宮浅間大社指定地の南西部分には、自動発券機(料金収受機)を設置し
た第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神社乗用車3台程を駐車できる駐車
場が、県道から入って境内地を横切る道沿いに設けられている。−75−B3村山
浅間神社境内地西端に、参詣者用の駐車場が整備されている。B4須山浅間神社裾
野市と須山振興会によって、須山口からの登山道の案内図が設置されている。B5
須走浅間神社社務所東側には、参拝者用の駐車場乗用車6台分が設けられている。
B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅国道139号に面した敷地入
口には、御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)の内容を示す解説板が設置され
ている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型河口湖フィー
ルドセンターの開設に伴い整備されたトレイル(遊歩道)が設けられている。遊歩
道には石造物の分布が確認でき、自然散策路としての要素以外に歴史散策路的要素
も兼ね備えている。B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山道の「中ノ茶屋」から
、吉田胎内本穴に向かうものである。古くから富士講の信者等に利用され、「甲斐
国誌」には「胎内道」として記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する。建物跡
と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有していたと考えら

258 :
」と呼ばた。甲府市から国道358号線を経て精進湖赤池交差点
より国道139号に入り、静岡県の富士宮市・富士市に至る道で
ある。こうした交通の要地であることから本栖湖周辺には中道往
還に関連する遺跡が複数確認できる。イ信仰B1富士山本宮浅間
大社・浅間大社遺跡(埋蔵文化財包蔵地)浅間大社周辺の南北5
00m・東西200mの範囲は、縄文時代から近世にかけての複
合遺跡として埋蔵文化財包蔵地となっており、遺構や遺物等が発
見されている。写真出土遺物の写真・大宮城跡浅間神社大宮司の
居館としての大宮城が、現在の県道富士宮富士公園線の東側に位
置していた。・神田宮第2駐車場から100mほど南にある水田
を備えた神社である。五穀豊穣を祈願して米を作り奉納する「御
田植祭」が毎年7月7日に行われる。・大鳥居昭和30年(19
55)に寄進された大鳥居が、第2駐車場に設置されている。・
大灯籠昭和35年(1960)に奉納された大灯籠2基が、第2
駐車場南側入口に設置されている。B2山宮浅間神社なしB3村
山浅間神社なしB4須山浅間神社なしB5須走浅間神社・須走護
国神社−82−西南の役から太平洋戦争に至る期間の、須走地区
の戦没者24名が祀られている。・鎌倉往還指定地南側には、相
模から駿河、甲斐への連絡路であった鎌倉往還が通っていた。中
世の幕府所在地鎌倉から放射状に存在した複数のルートの一つで
、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道である。ま
た、生活必需品を運ぶ商人や各国々に旅する人も多く、須走地区
が、古くから富士北麓地域と静岡県駿東部を結ぶ交通の要衝とし
て利用されていたことがわかる。写真鎌倉往還の写真B6河口浅
間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅なしB9山中湖B10
河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・社寺等溶岩洞穴等に
ついては、洞穴本体あるいは富士山の関連として信仰の対象と位
置づけられたものが多く見られ、周辺には社寺等の宗教的施設が
みられ、船津胎内樹型に伴う無戸室浅間神社などの設置形態は、
洞穴と一体になって信仰が行われている事例である。・信仰的意
味を付された地形・空間B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山
道の「中ノ茶屋」から、吉田胎内本穴

259 :
私道等の道路、階段、曽我橋、滝見橋等がある。また、それらの付属施設がある。
危険を伴う区域には、護岸や落石防護ネットが整備され、また、立入禁止の札が立
てられている。県道沿い及び芝川本流左岸等には駐車場があり、管理小屋等の付帯
施設がある。また、県道沿いの駐車場には公衆トイレがある。ウ眺望C三保松原−
76−なし(3)周辺環境を構成する諸要素@自然的要素構成資産の周辺には、山
並み、河川をはじめとする各種自然地形が存在してい

260 :
から富士講の信者等に利用され、「甲斐国誌」には「胎内道」と
して記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・
中道往還かつて甲斐と駿河を結んだ街道のひとつである。富士講
信者は、富士参詣に合わせて人穴参拝をする習慣があり、富士山
北口の吉田と人穴を結ぶ巡礼道として中道往還を通っていた。写
真中道往還の写真・赤池家跡境内地から南へ下ったところに、人
穴で修行する行者の食事や宿泊の世話、洞穴や周辺の碑塔の建立
や管理等を代々行ってきた赤池家の跡地がある。・石鳥居県道脇
の参道への入口に石鳥居が建てられている。額束には「富士人穴
」と刻まれている。・参道参道は、県道清水富士宮線から石鳥居
をくぐって進み、浄土門と刻まれた石碑を右折して、境内地内の
参道へ続いている。石碑から階段までの参道はかつての中道往還
と重複する。−83−B15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なし
B人文的要素富士山山体においては、登山道沿いに登下山者の緊
急避難や遭難者の救助、応急処置の機能を兼ね備えた山小屋が立
地している。富士山麓における構成資産の周辺については、山林
、農耕地のほか市街地となっており、日常生活に関連する各種施
設等をはじめとして、道路、橋、線路、電柱、看板等の各種人工
物が存在している。また、構成資産の公開活用を目的した資料館
等の施設が存在している。ア富士山山体及び登山道A富士山なし
A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・岩屋不動山小屋
とその関連施設標高の低い地点から順に、表富士宮5合目、雲海
荘(6合目)、宝永山荘(6合目)、御来光山荘(新7合目)、
山口山荘(元祖7合目)、池田館(8合目)、万年雪山荘(9合
目)、胸突山荘(9合5勺)がある。山小屋周辺にはバイオトイ
レ、自動販売機、ベンチ、テーブル等が設置されている。・緊急
・救急施設富士山は、高山であり気候も急変することから、登山
客の安全確保を目的として、富士山登山指導センター(山頂、富
士宮口登山道新5合目)と富士山衛生センター(富士宮口登山道
8合目)が設けられている。写真救急施設の写真・救急搬送・荷
物搬送区域登山道にほぼ並行して、救急用・緊急用避難道として
の役割を持つ道路等の施設が設けられ

261 :
み景観を構成している天然林及び施業林からなる森林が存在している。ア富士山山
体及び登山道A富士山・宝永火口静岡県側からの富士山の景観を特色付ける噴火口
で山頂信仰遺跡の南東側にある。宝永4年(1707)に発生したテフラの爆発的
噴火により、白い灰のデイサイト質軽石・黒曜石(烏石)・凝灰石など新第三紀の
基盤岩類、斑レイ岩、黒い玄武岩質スコリアなどを降らせた。記録によれば約10
0q離れた江戸にまで火山灰が到達したが、溶岩の流下はなかった。活火山であり
、今後も噴火活動の可能性がある。・富士山特定地理等保護林8合目から標高約2
,400m付近にかけて展開する約927haの保護林である。富士山の国有林に
おいては第3次国有林野施業実施計画、自然環境の維持、動植物の保護が図られ、
あわせて遺伝資源の保存を図ることを目的として設定されている。富士山独特の地
形・地質を持つ区域の植生として貴重な区域である。・富士箱根伊豆国立公園富士
山管理計画区自然公園法の特別保護地区あたる概ね5合目以上の火山高原を主体と
した山頂部までの区域である。富士山の火山景観の核心部を呈する区域であり、富
士山の秀麗な山容、植物の遷移過程等が保全の対象となっている。A1山頂信仰遺
跡なしA2大宮・村山口登山道・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約160種で
ある。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山域には、6目14科35種程
の陸生哺乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されているニホンカ
モシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生
息するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生息数は少ない。A
3須山口登山道・幕岩登山道の東側50m、標高1,650m付近にあり、新富士
火山の中期溶岩の切り立った岩壁で、比高は15mを超える。岩肌には樹木が生い
茂り、崖の下には直径1〜2cmのスコリアが一面に堆積している。その存在は宝
永噴火前の古絵図にも記録されている。古絵図には「まこ岩」「孫岩」の名で記述
されることもある。役行者が7世紀後半に伊豆に流さ

262 :
いう言い伝えが残っている−77−(日本霊異記)。登山道から幕岩の直下に降り
る道がある。・側火山登山道沿いには宝永山(標高2,698m)、二ツ塚(標高
1,926m、1,804m)、アザミ塚(1,626m)などの側火山が見られ
る。宝永4年(1707)の宝永の噴火により須山口旧登山道は崩壊し、その後、
宝永山を東に迂回する形で復興した。・鳥類相富士山域で観察された鳥類は約16
0種である。固有種は存在しない。・陸生哺乳類富士山の山域には、6目14科3
5種程の陸生哺乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されているニ
ホンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる。また、ツキノワグ
マも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が限られ、生息数は少な
い。A4須走口登山道・御胎内(溶岩洞穴)須走口登山道6合目の北側(標高2,
630m付近)にある溶岩洞穴。開口部は腰をかがめなければ進めないほど狭いが
、内部は数名が立つことのできる空間が広がっている。・小富士標高1,959m
の側火山で、須走口登山道5合目からほぼ北に600mほど離れた場所にある。延
暦19年(800)とそれに続く噴火により形成されたとされている。須走口5合
目から高低差の少ない小富士遊歩道が整備され、気軽に訪れることができる。周辺
は針葉樹林(シラビソ・コメツガ・トウヒ)に覆われているが、頂上部分はスコリ
アに覆われて樹木がなく、山中湖・箱根など東の眺望が楽しめる。小山町観光協会
によるコンクリート製の標識と、大正13年(1924)に扶桑教によって建立さ
れた祠がある。祠内部に仏像が三体あったというが、現在は残っていない。・鳥類
相富士山域で観察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない。・陸生哺
乳類富士山の山域には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息する。その中には
、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカや天然記念物に指定されている
ヤマネが含まれる。また、ツキノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生
息できる環境が限られ、生息数は少ない。A5吉田口

263 :
場口登山道明治5年(1872)に女性の富士登山が許可された
後、手軽に登れる登山道をめざし、御殿場在住の伴野佐吉らが中
心となって明治16年(1883)に完成した。同地の浅間神社
から滝ヶ原、馬返、太郎坊を経て、須山口登山道2合8勺に接続
する経路であった。明治22年、東海道線(現JR御殿場線)が
開通し御殿場駅が設置されたことにより、登山道が富士山東表口
新道本社浅間神社を通る現在の経路に変更された。御殿場口登山
道は須山口よりも距離が短い上に道も

264 :
神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖北側・西側・南側の山は御坂層基盤により構成
されている。北側から西側にかけては、標高1100m〜1300m前後の山が連
なっている。また南側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰B1富
士山本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源とする神田川が、約1,0
00mを流れ潤井川に注いでいる。かつては禊所より下流(下池)の部分も含めて
御手洗川と呼ばれていた。現在、護岸の一部は、神田川ふれあい広場から下りる親
水護岸として整備されている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須
山浅間神社なしB5須走浅間神社なしB6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8
御師住宅なしB9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・溶岩洞
穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により
構成)B13吉田胎内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する
地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)
なしB15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしA歴史的要素構成資産の周辺地域の
地下には、関連の遺構、遺物が良好に残されている区域があり、それらは文化財保
護法に基づき埋蔵文化財包蔵地として周知されている。また、かつて登山者に利用
された御師の家並みなど、文献史料に記載された多数の伝承地や名所等が存在して
いる。ア富士山山体及び登山道−79−A富士山なしA1山頂信仰遺跡なしA2大
宮・村山口登山道・馬頭観音1村山浅間神社脇の舗装された道を登って南西から北
東に進んでいくと、舗装道が大きく北西方向にそれていく。村山口登山道跡はここ
を北西に行かずに、直進し北東方向へ進む。その交差点に馬頭観音の碑が建ってい
る(標高約590m)。昭和8年(1933)に上原伸郎によって建てられたもの
である。・馬頭観音2静岡県立富士山麓山の村を抜けた場所にある。ここはやや道
幅が広い、比較的直伸している経路と、屈曲した経路の2つが存在する。前者につ
いては明治以降に木材の切り出し・運搬に使われた木

265 :
客の多くが同登山道を利用し、須山口登山道衰退の契機となった
。現在は、須山口登山道と接続する2合8勺から頂上までの部分
も、御殿場口登山道と呼ばれている。写真御殿場口登山道の写真
・須山口登山歩道須山浅間神社を起点とし、弁当場、水ヶ塚水源
地、水ヶ塚駐車場、御殿庭を通り、宝永火口の西側火口壁を抜け
て富士宮口登山道六合目に通じる登山道である。平成9年に富士
山須山口登山歩道保存会が中心となって復興した。道筋の一部は
裾野市と御殿場市の市境に沿っている。宝永噴火後から明治時代
までの須山口登山道とはルートが異なるため、区別する意味で須
山口登山歩道と呼ばれる。・須山口下山歩道須山口2合8勺から
二ツ塚の西側を下り、四辻分岐、幕岩上部、須山御胎内上部を通
り、水ヶ塚駐車場に至る道で、平成11年に富士山須山口登山歩
道保存会が中心となって復興した。道筋の一部(幕岩上部〜須山
御胎内上部)は宝永噴火後〜明治時代の須山口登山道と一致する
。−85−写真須山口登山歩道の写真A4須走口登山道・山小屋
とその関連施設登山道沿いに、山小屋が建てられている。上から
順に、御来光館(8合5勺)、胸突江戸屋(本8合目)、江戸屋
(8合目)、見晴館(本7合目)、大陽館(7合目)、瀬戸館(
本6合目)、長田山荘(6合目)、東富士山荘(5合目)、菊屋
(5合目)、吉野屋(砂払い5合目)がある。山小屋周辺にはト
イレ、自動販売機、ベンチ、テーブル等が設置されている。山小
屋周辺にはバイオトイレ、自動販売機、ベンチ、テーブル等が設
置されている。・避難小屋下山道からブルドーザー道に入った2
,120m付近に地元山岳会による避難小屋が設けられている。
・救急搬送・荷物搬送区域登山道とほぼ並行して、救急用・緊急
用避難道としての役割を持つ道路等の施設が設けられている。昭
和40年(1965)の開通で、搬送にはブルドーザーが使われ
る。歩道との交差部には、進入禁止柵・注意看板等が設置されて
いる。須走口登山道は、特に吉田口登山道と合流する8合目から
上部の混雑が激しいため、頂上部から8合目までのブルドーザー
道が下山道として利用されている。写真ブルドーザー道の写真・
駐車場・附属施設200台収容の駐車

266 :
こで以前に馬が死んだので、供養のために馬頭観音を建てたと伝えられている。・
2号建物跡平成5年の富士宮市の調査では、中宮八幡堂跡手前で日沢を渡り、50
mほど登ったところに2号建物跡があるとされる。『富士山村山口登山道遺跡調査
報告書』では、「道の南側に12m×8mの平坦面があり、道の北側にも平らな場
所がある」と報告している。平成20年の調査では平場らしき地形を確認したが、
平成5年当時の景観と著しく異なっており、両者が同

267 :
る。付属施設として、登山シーズンの夏季のみ在番の交番と観光
案内所、小山町により設置・管理されている公衆トイレがある。
写真駐車場(交番・観光案内所)の写真A5吉田口登山道A6北
口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖・建築物及び
工作物本栖地区集落の人口は156人(2008年4月1日現在
)国道139号線と300号線が分岐する本栖交差点周辺を中心
に集落が形成されている。その他湖畔にキャンプ場などの観光施
設及び管理施設が存在する。自然公園法第2種特別地域に指定さ
れていることから、建築物等の高さ規制を受けているので、景観
上良好な状況が保たれている。湖南東側にある本栖青少年スポー
ツセンターやキャンプ場などの管理施設等も同様である。その他
の工作物として、電柱やアンテナなどが存在する。イ信仰B1富
士山本宮浅間大社・駐車場神田川ふれあい広場の南側には第2駐
車場が整備されている。南北に仕切られ、北側が普通車用、南側
がバス専用となっている。トイレも併設されている。・宮町交番
−86−第2駐車場バス専用入口の東側に宮町交番が建てられて
いる。・売店協同組合富士山特産品振興会」が、第2駐車場内に
、富士宮の特産品を取り扱う販売所「ここずらよ」を設置し営業
している。・富士山せせらぎ広場第2駐車場から200mほど南
に富士山せせらぎ広場がある。入口には大鳥居が建てられており
、神田川に沿って散策できる遊歩道をはじめ、トイレ、無料駐車
場などの施設が整備されている。写真広場の写真・道路神田川東
側には、浅間大社前交差点を起点とし神田川に沿って北へ向かう
県道180号富士宮富士公園線が通っている。この道路は富士山
スカイライン、富士宮口登山道を経て富士山山頂まで続いている
。また、湧玉橋から約130m北上する区間が、山宮御神幸の経
路である「御神幸道」と重複している。第2駐車場南側には、県
道76号富士富士宮由比線が東西に伸びている。この道路はかつ
て「甲州街道(中道往還)」と呼ばれ、駿河と甲斐を結ぶ主要街
道であった。B2山宮浅間神社・御神幸道御神幸道は、祭儀「山
宮御神幸」で浅間大社と山宮浅間神社を往来した道である。石鳥
居から南方向へと伸びていたが、区画

268 :
ウルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、
(泰山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるよう
な)多様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、
そのいずれも失うことなく現在に至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設
や石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣す

269 :
ではなく、17世紀以降の江戸(現在の東京)を中心に数多く
組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。こ
のことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承
され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老
若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示している。
また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山者が
多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むた
めであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎
(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来光(
日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然現象に宗
教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には
見あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究で
ある「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一般の人々
が一様に認めている火山の多くが含まれていないことは興味深
いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを
挙げている。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年
間の観光客が地球上のどの火山よりも多い点で重要とされてい
る。こうしたギャップを埋めるために、知名度、科学的重要性
、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべきとして
いる。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり
、高い標高を持つ富士山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺
めることができ、古くから芸術活動の対象となった。これら富
士山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作
品は、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の
作品は、ジャポニスムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行
を生み、モネ、ドガなどの西欧の印象派の画家達は浮世絵から
、構図、デフォルメ、平面的な表現技法を学んでいる。また、
アールヌーボーが発生する一因ともなった。芸術的作品との関
連性では、比較対象資産の関連する多くの芸術作品が、周囲の
山々や景観を合わせて描いたものである。また、そうした芸術
作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々のように芸術史の
上で一つの流派を形成したものもあるが、その作

270 :
真建物跡の写真図建物跡の図面・3号建物跡登山道跡と県道富士宮富士公園線が交
差する地点から約60m南に下りた位置にある。周囲はなだらかな傾斜の天然林で
、地面は落葉に覆われている。むき出しになった岩石には一面に苔がむしている。
東西4m弱・南北6m弱の方形の石列があり、その北東側に小さなくぼみを確認し
た。『富士山村山口登山道遺跡調査報告書』は、このくぼみを便所跡としている。
写真建物跡の写真図建物跡の図面・4号建物跡富士山スカイラインと村山登山道が
交差する地点から北北東の方角に約600mの位置にある。登山道の西側には日沢
が南北に走っており、北側と東側には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタ
ケが生い茂っている。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の縁には一部石組
が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士山村山口登山道遺跡調査
報告書』はここを「矢立・新小屋」にあたるとしているが、後世まで木の切り出し
などの休憩小屋として使われていた可能性をも指摘している。・6号建物跡5号建
物跡から北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲は西向き
に傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢に向けて急激に落ち込んで
いる。登山道の東側には、東西約12m、南北約10mの平場がある。平場の南縁
には石組が見られ、登山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側
の斜面にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者からの伝法で村山三
坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う富士峯修行の修行所の1つであっ
た。江戸時代の絵図には、高所にある洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−
80−ることが多い。洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年(1
602)に書かれた「富士山持場之事」に記述があるが、宝永4年(1707)の
宝永噴火で堂室が消失したと言われている。また、文化13年(1816)〜天保
5年(1834)に執筆された『修訂駿河国新風土記』には、岩屋不動に、家のよ
うな板葺きの建物があり、登山者の休憩所であったこ

271 :
当時の道はところどころ途絶え、正確にたどる事はできない。・
御神幸道標石御神幸道沿いに、一丁(約109m)毎に標石が建
てられていた。現在ではそのほとんどが失われたが、山宮浅間神
社周辺には四十七丁目石、四十九丁目石が残っている。写真道標
石の写真・東山宮二区区民館山宮二区の住民が、会合等で利用す
る区民館が建てられている。・県道180号富士宮富士公園線山
宮浅間神社東南側には、浅間大社前交差点を起点とし、富士山山
頂が終点の「県道180号富士宮富士公園線」が通っている。B
3村山浅間神社・宿坊跡(大鏡坊、池西坊、辻之坊)江戸時代に
は、村山三坊のうち「辻之坊」は東屋敷跡が現在の児童公園付近
に、西屋敷跡が北西に300m離れた酪農用牛舎付近に、「大鏡
坊」は辻之坊東屋敷のさらに西側に、「池西坊」は現在の児童公
園の南側にあったとされる。児童公園から西へ道沿いに宿坊跡の
ものとされる石垣が残り、大鏡坊の入口跡と考えられる痕跡を見
ることができる。写真宿坊跡の写真・見付跡(東見付、西見付)
集落の出入り口となる東西のはずれに「東見付」「西見付」と呼
ばれる、村山に入る不審者を取り締まる関所があった。−87−
西見付跡は村山浅間神社門前から西へ約550m、東見付跡は神
社門前より南に約200mのところにある。B4須山浅間神社・
浅間橋朱塗りの欄干を持つ橋が境内地の南側に架けられている。
B5冨士浅間神社・駐車場(トイレ)境内地の南西側、裏参道を
出たところに、参拝者用の駐車場が設けられている。また駐車場
東端には、トイレも建てられている。・国道138号線及び県道
150号線足柄停車場富士公園線境内地の西側には、国道138
号線が、また東側には県道150号線足柄停車場富士公園線が通
っている。県道の終点は富士山頂となっている。B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅来訪者のための駐車場とし
て、また緊急時や災害時の緊急車両の配置ができるよう駐車場敷
地が整備されている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B
12船津胎内樹型・産業関連施設・その他の人工物B13吉田胎
内樹型富士スバルライン料金所付近から、吉田胎内本穴方面に向
かう、林業施業のための物資搬出路が

272 :
の道が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設が
あるため、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為
自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダム
ス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる
足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類似す
るものであり、富士山とは異なると考える。また、一部の山岳は
その聖なるがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝とい
う信仰形態しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である
標高については、自然遺産を中心に富士山よりも高い山も存在す
るが、その標高に比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例
がなく、山頂部への道路や軌道によるアクセスがないことから、
登頂者は徒歩6時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こ
うした登山形態は、日本では20世紀前半に開花する近代アルピ
ニズムに起源するものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東
京)を中心に数多く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展し
たものである。このことは、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最
高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示
している。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す
登山者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を
拝むためであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において「御
来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来光
(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然現象に宗
教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山以外には見
あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ別研究である
「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一般の人々が一様
に認めている火山の多くが含まれていないことは興味深いとし、
その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げている
。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が
地球上のどの火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギ
ャップを埋めるために、知名度、科学的重要性、文化及び教育的
価値を基準に個々の長所を検討すべきとしている。41(

273 :
内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大きな影響を与え
たが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品を生み出す
母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との密接な関
連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワール山
があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も著名な山
とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出自であ
る印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そうし
た浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺る

274 :
年(1854)の「富士山室小屋建立古帳面写」では「堂室無之」と記載され、こ
の時点では再び堂室が消失していると推測される。その後、岩屋不動の所在は不明
となっていたが、平成19年に候補地たりうる洞穴の存在を確認した。不動沢を標
高約1,820mの地点まで登りつめ、地上から7mほどの高さの場所にある。洞
穴の内部は、高さ2m、幅6.4m(最奥)、奥行9mを測る。洞穴内は人が立つ
ことのできる程度の高さがあり、内壁は全体的に赤みがかっている。中央部向かっ
て右側から入口付近に向けて崩落した大岩が多く転がり、入口は半ば塞がれたよう
な状態である。最奥の向かって左側については人工的に開削された可能性が残る。
写真岩屋不動の写真図岩屋不動の図面A3須山口登山道なしA4須走口登山道・御
室浅間神社跡ふじあざみライン沿いの標高1,830m付近にある。冨士浅間神社
の末社で、かつては中宮小室社と呼ばれた。女人禁制の時代には、須走口登山道で
女性が登山できるのはこの場所までであった。祭神は瓊々杵命と木花開耶姫命であ
る。昭和54年に古御岳神社に合祀された。国土地理院の地形図に記載があるもの
の、社殿は昭和50年代に倒壊し、廃屋となっている。鳥居、灯籠等、神社に関連
する工作物はなく、かつては石仏が多くあったが、現在は1体も残っていない。写
真神社跡の写真・大日堂(野中神社)冨士浅間神社の末社で、富士あざみラインか
ら南側の脇道を入った自衛隊東富士演習場内の標高1050m付近にある。演習場
内のため、許可なく立ち入ることはできない。明治7年に野中神社と改名されたが
、それ以前は大日堂と呼ばれ、水源地に祀られていることから雨乞いの神として地
元の信仰を集めた。元禄3年(1690)の冨士浅間神社の古文書に記述が見られ
、成立年代は江戸時代前期まで遡る。宝永4年(1707)の噴火によって被害を
受けたが、宝暦14年(1764)に再建された。祭神は大日要命(大日如来)で
、建物は本殿・拝殿合わせて間口二間、奥行き二間三尺、それに四間と二間の籠舎
が付いていたとされる。古絵図(小山町史)では、須

275 :
跡(人穴浅間神社)・県道75号清水富士宮線指定地に隣接する
西側に、県道75号線清水富士宮線が通っている。B15白糸ノ
滝なしウ眺望C三保松原なし2保存管理計画の基本方針−88−
山梨県・静岡県に分布する構成資産について、将来にわたり確実
に保存管理していくために、各構成資産の保存管理計画の調整事
項や、資産全体として考慮すべき周辺

276 :
外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標高を持つ富士
山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から眺めることができ、古くか
ら芸術活動の対象となった。これら富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれ
た西洋における日本芸術の流行を生み、モネ、ドガなどの西欧の
印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現
技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発生する一因ともな
った。芸術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する多く
の芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせて描いたものである。
また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、アメリカの山々
のように芸術史の上で一つの流派を形成したものもあるが、その
作品の影響は国内に留まる。また、中国の山水画は日本にも大き
な影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもたらす芸術作品
を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸術作品との
密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・ビクトワ
ール山があり、これはその作品の多さからも西洋美術で最も著名
な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌの出自で
ある印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、そうし
た浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(3)
国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産では
、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展し、
山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として山
々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期に
おいてはこうした修験者による登山が中心であったが、富士山に
ついては、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと
発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による富士山
の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人々に継承
されている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品
との関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の
空間との関連性で用いられており、関連する芸術作品等も

277 :
)国内同種資産との比較信仰との関連性では、比較対象の資産
では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発
展し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場
として山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でも
その初期においてはこうした修験者による登山が中心であった
が、富士山については、その後、修験者に導かれた一般人の登
拝が増加し、18世紀後半より東京を中心に流行した富士講に
よる大衆登山へと発展していった。現在も夏を中心に30万人
が徒歩による富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核
心が多くの人々に継承されている点において富士山の優位性は
明らかである。芸術作品との関連性では、比較対象の資産では
、評価基準(E)は信仰の空間との関連性で用いられており、
関連する芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山
は、和歌や俳句、絵画、文学の多くの分野においても、数多く
の作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景
」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。そ
の多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山
の優位性は明らかである。(4)結語このように、富士山にお
いては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの人たちに受
け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古
代から現代まで影響を与えている唯一の山であり、世界的にも
類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d)真
実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化的伝
統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視され
、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見本」
として認知された富士山の範囲が適切に確保されているととも
に、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品と
の直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々
の顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範
囲に相当しており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全
に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面

278 :
存管理の目標を踏まえ、保存管理計画の基本方針を以下の5項目
とする。(1)構成資産の適切な保存管理各構成資産が、現在も
人々と関わり続けている点や、構成資産総体が、生きた文化的伝
統の物証であり、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観
の傑出した類型であることに十分配慮し、山梨県・静岡県に分布
する具体的な構成要素の規模・性質・立地条件等に応じて、以下
の視点により適切な保存管理をおこなう。@各構成要素の歴史的
・文化的価値の継承と自然的要素の維持A構成資産により形成さ
れる文化的景観の保全B地域住民の生活、生業への配慮C登山客
、観光客等の来訪者への配慮D防災面における安全確保への配慮
(2)緩衝地帯等の適切な保存管理構成資産保護のための適切な
範囲の緩衝地帯等(保全管理区域)を定めるとともに、その保全
の方策を講ずる。緩衝地帯等(保全管理区域)に存在する諸要素
の規模・性質・立地条件などを把握し保存管理の基礎とする。(
3)経過観察の実施顕著な普遍的価値に対して与える負の影響の
可能性について、様々な角度から検討を行い、その原因となる可
能性のある諸要素について確実に把握するとともに、それらに対
する監視及び適切な対応を行う。(4)整備・公開・活用推進資
産の顕著な普遍的価値を確実に保存するとともに、総合的な理解
を深めることができるよう、適切な整備・公開・活用の施策を推
進する。@多様な構成資産からなる富士山総体としての価値の理
解が深められるように、山梨県・静岡県の関係市町村が一体とな
った適切な整備活用をおこなう。a富士山の価値の持続的な利用
b適切な公開範囲の設定A都市計画、観光計画、防災計画等との
調整を図り、資産の価値の保存と来訪者の安全に配慮した施策を
推進する。B適切な整備活用を推進する。(5)保存管理体制の
整備と運営確実な保存管理を推進するために、各々の構成資産を
管理する山梨県・静岡県や関係市町村、所有者や環境省、林野庁
、国道交通省などの関係諸機関を中心として組織体制を整備する
。その際には、地域住民が資産の資産の適切な保存管理と整備活
用の施策に積極的に参加できるよう配慮するとともに、関係諸機
関との連携を強化し保存管理の運営に

279 :
な題材とする作品が多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、文学の
多くの分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾
北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影
響を与えた作品もある。その多様性や生み出した芸術作品の影響
の大きさの面でも富士山の優位性は明らかである。(4)結語こ
のように、富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代
の多くの人たちに受け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西
欧芸術史に大きな影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸
術の両面で、古代から現代まで影響を与えている唯一の山であり
、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。
42d)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある
文化的伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖
視され、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著な見
本」として認知された富士山の範囲が適切に確保されているとと
もに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学的作品と
の直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲も、数々の
顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描かれた最大の範囲に
相当しており、資産の重要性を伝える諸要素・過程を完全に表す
上で適切な範囲が確保されている。(図面挿入:主要な展望地点
から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神社並びに富
士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望線を確保した
主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表すのに必要な全
ての要素を包含している。登山道は、信仰登山が盛んに行われて
いた18〜19世紀に認識されていた登山道を全て含み、登山道
の起点となる浅間神社も不足なく資産に含まれている。その他、
御室浅間神社や河口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠か
すことの出来ない重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝の世話
を行った御師の住宅、富士講がオプショナル・ツアー的に巡礼・
修行を行った地として代表的な湖沼、滝、風穴・溶岩樹型も全て
資産を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周
辺に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与え
る可能性の行為に対して適切な法的規制を行うとともに、

280 :
展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また、登山道、神
社並びに富士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や、適切な展望
線を確保した主要な展望地点といった、顕著な普遍的価値を表
すのに必要な全ての要素を包含している。登山道は、信仰登山
が盛んに行われていた18〜19世紀に認識されていた登山道
を全て含み、登山道の起点となる浅間神社も不足なく資産に含
まれている。その他、御室浅間神社や河口浅間神社といった富
士山信仰を語る上で欠かすことの出来ない重要な浅間神社や、
富士講を迎えて登拝の世話を行った御師の住宅、富士講がオプ
ショナル・ツアー的に巡礼・修行を行った地として代表的な湖
沼、滝、風穴・溶岩樹型も全て資産を構成する要素として推薦
範囲に含めている。それらは、周辺に必要十分な範囲の緩衝地
帯を設定しており、負の影響を与える可能性の行為に対して適
切な法的規制を行うとともに、包括的保存管理計画の下に保全
又は改善のための対策を明示している。したがって、資産の周
辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはない。2)真実性推薦
資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団体によって適切な
維持管理が行われ、文化資産としての価値を失することなく良
好な状態を保っている。以下に、『世界遺産条約履行のための
作業指針』第82項に示された文化遺産の評価に適用される真
実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を示す。(
1)富士山体(遺跡(site))富士山は、1707年を最
後に噴火しておらず、以降、形態に変更はない。また、今後噴
火によって形態上の変化が起こったとしても、富士山の荒ぶる
姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超
えて、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持されてい
る。神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる区
域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その
周辺地域や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国
内法により展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観と
の調和を図る景観保全が行われており、景観全体

281 :
0)に奉納された大灯籠2基が、第2駐車場南側入口に設置されている。B2山宮
浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須山浅間神社なしB5須走浅間神社・須走
護国神社−82−西南の役から太平洋戦争に至る期間の、須走地区の戦没者24名
が祀られている。・鎌倉往還指定地南側には、相模から駿河、甲斐への連絡路であ
った鎌倉往還が通っていた。中世の幕府所在地鎌倉から放射状に存在した複数のル
ートの一つで、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還

282 :
保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明示している。
したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはな
い。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団
体によって適切な維持管理が行われ、文化資産としての価値を失
することなく良好な状態を保っている。以下に、『世界遺産条約
履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評価に適
用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を
示す。(1)富士山体(遺跡(site))富士山は、1

283 :
図る。−89−第4章構成資産の保存管理1現状の把握(1)富
士山山体及び登山道A富士山登録範囲における自然的環境につい
ては、おおむね良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護
法(特別名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び第1種〜2種
特別地域)により厳密に保全され、下部(標高1600〜200
0m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1
〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、山梨県及び
静岡県有林管理計画により重層的に保護されているため、資産に
影響を及ぼす行為は基本的に発生しない。ただし、山体西側には
山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ
が約1000年前より継続して発生し、これは「大沢崩れ」と呼
称されている。この土砂崩れのため山体西側の一部でかつての信
仰に関わる道である「御中道」の通行等が禁止されている区域が
ある。山頂部付近では登山者に起因する廃棄物・し尿が発生する
が、山小屋組合などによりバイオトイレが設置され、適切に管理
・除去されている。一部過去の廃棄物が堆積している箇所がある
が、将来的に撤去が予定されている。なお、山腹において、急病
人の搬送や山小屋の維持・廃棄物の撤去のために必要最小限使用
されるブルドーザーが通行する道路がある。アお鉢巡り八葉及び
大内院の現時点における保全状況は良好である。ただし、降雪・
強風等に常時さらされ、年々増加する登山者の影響により、土砂
の崩落が一部で認められる。また、トイレやゴミの問題なども年
々改善されているが、一部有識者にさらなる改善を指摘されてい
る。イ御中道巡り御中道は大沢崩れ部分の通行止めの他に、通行
量の減少と表土の流失に伴い道の存在が不明になった箇所がある
が、その他の保全状況は良好である。A1山頂信仰遺跡現時点に
おける保全状態は良好である。その他の山頂信仰遺跡の現時点に
おける保全状態は良好である。A2大宮・村山口登山道現在登山
道として利用されていない大宮・村山口の一部については、国有
林の範囲であり林業関係者以外の立ち入りは許可制となっている
ことにより、現状維持の観点からの現時点における保全状態は良
好である。A3須山口登山道現時点に

284 :
実に保証される。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの
諸要素が総体的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺
存している。登山道は、人為による現状の変更には厳しい規制
がかけられており、地下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性
の伝達については、将来にわたり確実に保証されている。また
、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レク
リエーションのために登43山を行う人々にとっても、脈々と
継承してきた富士山に対する信仰の核心の証左として、それら
は機能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物・建造物
群・遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表
す平面形式、構造様式、内外の立面意匠は顕著な普遍的価値を
表す時代のままである。近代以降の保存修理事業においては、
建立後に修理又は改変された後補部分について、後補材の撤去
・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実性が追究さ
れてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築の修理に関する
伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても確実に継承さ
れている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最もよく表現さ
れる時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環境も
良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能を何百年も
維持してきた。レクリエーションのために登山を行う人々にと
っても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核心の証左
として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡
(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海においては、文献
や石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が
行われていたことがわかっている。人々の信仰心を駆り立てた
湖沼の水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継
承されている。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景
観法に基づく景観計画などにより風致景観との調和を図る景観
保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証されてい
る。白糸ノ滝においては、長谷川角行の修行地がどこであった
かを明確に示す文献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したこ
とは講徒の記録及びその挿図で確認できる。船津

285 :
生活必需品を運ぶ商人や各国々に旅する人も多く、須走地区が、古くから富士北麓
地域と静岡県駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかる。写真鎌
倉往還の写真B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅なしB9山中湖
B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・社寺等溶岩洞穴等については、
洞穴本体あるいは富士山の関連として信仰の対象と位置づけられたものが多く見ら
れ、周辺には社寺等の宗教的施設がみられ、船津胎内樹型に伴う無戸室浅間神社な
どの設置形態は、洞穴と一体になって信仰が行われている事例である。・信仰的意
味を付された地形・空間B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登山道の「中ノ茶屋」
から、吉田胎内本穴に向かうものである。古くから富士講の信者等に利用され、「
甲斐国誌」には「胎内道」として記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅
間神社)・中道往還かつて甲斐と駿河を結んだ街道のひとつである。富士講信者は
、富士参詣に合わせて人穴参拝をする習慣があり、富士山北口の吉田と人穴を結ぶ
巡礼道として中道往還を通っていた。写真中道往還の写真・赤池家跡境内地から南
へ下ったところに、人穴で修行する行者の食事や宿泊の世話、洞穴や周辺の碑塔の
建立や管理等を代々行ってきた赤池家の跡地がある。・石鳥居県道脇の参道への入
口に石鳥居が建てられている。額束には「富士人穴」と刻まれている。・参道参道
は、県道清水富士宮線から石鳥居をくぐって進み、浄土門と刻まれた石碑を右折し
て、境内地内の参道へ続いている。石碑から階段までの参道はかつての中道往還と
重複する。−83−B15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしB人文的要素富士山
山体においては、登山道沿いに登下山者の緊急避難や遭難者の救助、応急処置の機
能を兼ね備えた山小屋が立地している。富士山麓における構成資産の周辺について
は、山林、農耕地のほか市街地となっており、日常生活に関連する各種施設等をは
じめとして、道路、橋、線路、電柱、看板等の各種人工物が存在している。また、
構成資産の公開活用を目的した資料館等の施設が存在

286 :
る。A4須走口登山道現時点における保全状態は良好である。−
90−A5吉田口登山道登山道は、土砂崩れによる浸食などによ
り登山道の一部に変更がみられるものの、人為による現状の変更
には厳しい制限がかけられている。また、道路管理者である山梨
県により日常的に維持管理が行われており、保全状態は良好であ
る。A6北口本宮冨士浅間神社定期的な維持修理等が行われてお
り、現時点における保全状態は良好である。ただし、拝殿・幣殿
については、建物全体に歪みが生じていて、今後、修復・修繕の
検討が必要であると想定される。祈願のため多くの参詣者が訪れ
るとともに、宗教行事が行われている。A7西湖文化財保護法(
名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に保護されており
、現時点における保全状態は良好である。A8精進湖文化財保護
法(名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に保護されて
おり、現時点における保全状態は良好である。A9本栖湖文化財
保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に保護さ
れており、現時点における保全状態は良好である。(2)信仰B
1富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われており、現時点
における保全状態は良好である。湧玉池に関しては、全般的には
良好な状態であるが、「上池」「下池」の二つの池の内「上池」
では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため、「湧玉池保全
再生会議」が設置され、対策が検討されている。B2山宮浅間神
社現時点における保全状態は良好である。地元からは参道・遥拝
所等の整備が今後必要であるとの要望が出されている。B3村山
浅間神社現時点における歴史的価値を示す建造物の保全状態は良
好である。今後、トタン作りの大日堂覆堂の修理が必要とされて
いる。また、地元からは参道・遥拝所等の整備が今後必要との要
望が出されている。B4須山浅間神社現時点における保全状態は
良好である。B5冨士浅間神社現時点における保全状態は良好で
ある。−91−B6河口浅間神社現時点における保全状態は良好
である。B7冨士御室浅間神社現時点における保全状態は良好で
ある。ただし、近年、向拝柱、登高欄及び木階の漆塗装の摩耗退
色が著しく、木目が露出している場所

287 :
年を最後に噴火しておらず、以降、形態に変更はない。また、今
後噴火によって形態上の変化が起こったとしても、富士山の荒ぶ
る姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、
真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超え
て、精神・機能の観点からみた真実性は確実に維持されている。
神聖性が最も高いとされる、山体中腹以上の核心となる区域には
、文化財保護法により厳格に保護されているほか、その周辺地域
や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により
展望・眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る
景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証される
。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体的な
登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登山道
は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地
下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来
にわたり確実に保証されている。また、宗教空間としての用途・
機能を何百年も維持してきた。レクリエーションのために登43
山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信
仰の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御
師住宅(記念工作物・建造物群・遺跡(site))神社につい
て、建築の歴史的価値を表す平面形式、構造様式、内外の立面意
匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以降の保存
修理事業においては、建立後に修理又は改変された後補部分につ
いて、後補材の撤去・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高
い真実性が追究されてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築
の修理に関する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても
確実に継承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最も
よく表現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺
の環境も良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能を何
百年も維持してきた。レクリエーションのために登山を行う人々
にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核心の証
左として、それらは機能している。(3)その他の信仰関連遺跡
(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海においては、

288 :
吉田胎内樹型の中には祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精
神、宗教空間としての機能は現在も受け継がれている。入洞者
の安全のため、船津胎内樹型の入り口部分は改変が加えられて
いるが、それ以外の形状・位置の真実性は、自然崩落の場合を
除き、確実に継承されている。人穴富士講遺跡においては、碑
塔のほとんどに建立者、講の名称や年号(創建年号や関係者の
死亡年号)などが記載されており、真実性に疑いの余地はない
。444.保全状況と資産に与える影響a)現在

289 :
石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御手洗元八湖が行わ
れていたことがわかっている。人々の信仰心を駆り立てた湖沼の
水そのものは、顕著な普遍的価値の核心として現在に継承されて
いる。さらに、周辺環境においても、自然公園法や景観法に基づ
く景観計画などにより風致景観との調和を図る景観保全が行われ
ており、景観全体の真実性は確実に保証されている。白糸ノ滝に
おいては、長谷川角行の修行地がどこであったかを明確に示す文
献はないが、富士講講徒が滝壺で修行したことは講徒の記録及び
その挿図で確認できる。船津胎内樹型及び吉田胎内樹型の中には
祠などが祀られ、穴自体を神聖視する精神、宗教空間としての機
能は現在も受け継がれている。入洞者の安全のため、船津胎内樹
型の入り口部分は改変が加えられているが、それ以外の形状・位
置の真実性は、自然崩落の場合を除き、確実に継承されている。
人穴富士講遺跡においては、碑塔のほとんどに建立者、講の名称
や年号(創建年号や関係者の死亡年号)などが記載されており、
真実性に疑いの余地はない。444.保全状況と資産に与える影
響a)現在の保全状況「富士山」の17個の構成資産については
、すでに多くの修理や整備の事業が適切に行われており、自然的
な要因に基づく一部の資産を除き構成資産の保存状況も良好であ
る。特に神社の建造物及び境内については、所有者である宗教法
人により適切な維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は
良好である。1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展
望としての構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそ
こから展望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の
場合構成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体
まで距離の距離が約45qと遠方であり、かつ、その間のかなり
の部分が海面及び人口密集地(富士市市街地)であるため、展望
点より山体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状におい
てこれらの資産範囲及び展望面は三保松原の一部を除き良好な状
態を保っている。これらの資産範囲については、信仰の核心であ
る御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳

290 :
登山道A富士山なしA1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・岩屋不動山小
屋とその関連施設標高の低い地点から順に、表富士宮5合目、雲海荘(6合目)、
宝永山荘(6合目)、御来光山荘(新7合目)、山口山荘(元祖7合目)、池田館
(8合目)、万年雪山荘(9合目)、胸突山荘(9合5勺)がある。山小屋周辺に
はバイオトイレ、自動販売機、ベンチ、テーブル等が設置されている。・緊急・救
急施設富士山は、高山であり気候も急変することから、登山客の安全確保を目的と
して、富士山登山指導センター(山頂、富士宮口登山道新5合目)と富士山衛生セ
ンター(富士宮口登山道8合目)が設けられている。写真救急施設の写真・救急搬
送・荷物搬送区域登山道にほぼ並行して、救急用・緊急用避難道としての役割を持
つ道路等の施設が設けられている。搬送にはブルドーザーが使われる。歩道との交
差部には、進入禁止柵・注意看板等が設置されている。・県道180号線富士宮富
士公園線浅間大社前交差点を起点とする「県道180号富士宮富士公園線」が、村
山口登山道跡と2箇所で交差している。交差する地点は、西臼塚駐車場から山頂方
面へ約1.5q進んだ地点と、高鉢山駐車場から約700m下った地点であるが、
道路沿いには特別な表示等はない。また、この道路は富士山スカイライン、富士宮
口登山道を経て6合目から旧村山口登山道と合流し、富士山山頂まで続いている。
・宝永遊歩道富士宮口新5合目駐車場の東端から宝永第二火口の西縁までほぼ等高
線に沿って東西に通じる遊歩道で、旧村山口登山道と11号建物付近で交差する。
写真遊歩道の写真−84−・駐車場・附属施設450台収容の駐車場が5合目に設
置されている。付属施設として、レストハウス、宿舎、トイレ、バス乗車券販売所
、登山シーズンの夏季のみ在番の交番がある。工作物としての広告物、広告旗、バ
ス停留所などがある。・林道富士山麓には多くの林道があり、そのうち、大渕林道
・吉原林道が、旧村山口登山道と交差する。A3須山口登山道・山小屋登山道沿い
に、山小屋が建てられている。標高の高い地点から順

291 :
富士山」の17個の構成資産については、すでに多くの修理や
整備の事業が適切に行われており、自然的な要因に基づく一部
の資産を除き構成資産の保存状況も良好である。特に神社の建
造物及び境内については、所有者である宗教法人により適切な
維持的措置が恒常的に行われており、保存状況は良好である。
1)資産全体の保全状況(1)主要な展望主要な展望としての
構成資産は、本栖湖と三保松原であり、展望点及びそこから展
望した山体の大部分である。展望面に関しては本栖湖の場合構
成資産に含まれており、三保松原の場合は展望点より山体まで
。これらの構成資産については、真実性及び完全性が担保でき
る部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特別
名勝に指定されている。これらの構成資産につい

292 :
は富士山二合目本宮所在時に毀損にあっており、今後、修復・修
繕の検討が想定される。B8御師住宅旧外川家住宅は、2007
年〜2008年にかけて所有者である富士吉田市が大規模な保全
修理を行ったため、現時点における保全状態は良好である。現在
、富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として、2008年4月
から敷地及び主屋内部を一般公開しており、外川家協力会員が交
代で勤務し、来場者に直接解説を行っている。小佐野住宅は、所
有者らによって日常的な維持管理が行

293 :
全され、下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外
)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通地域
)及び森林法(保安林)により重層的に保護されている。また、
展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3
種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく
景観条例、景観計画により保護されている。これらの法令の許可
制に基づく保護により、景観面に関して資産に影響のある開発は
厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含まれて
いない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行
為は起りえず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観
計画により保護されているため、特に問題は生じない。(2)登
山道(遺跡(site))これらの構成資産は富士山体及びそこ
に所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性
及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その
大部分の範囲が特別名勝に指定されている。これらの構成資産に
ついては、県が、各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策
定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存管理に当た
っている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと
一体をなす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指
定地内で行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、
「現状変更等」という。)については、文化財保護法の下に許可
制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置について
は次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社
殿などの木造建造物を中心としている。それら内のいくつかは、
富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化財に指定されてお
り(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は史跡の構
成要素として保護されている。これらの木造建築物については、
これまで損傷の程度に応じた適切な修理が行われてきた。したが
って、それらはすべて45良好な状態を保っている。具体的には
、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸組を残したまま壁
や屋根などの修理を行う半解体修理を実施しているほか、

294 :
各史跡及び特別名勝としての保存管理計画を策定し、構成資産
の所在する市町村とともに確実な保存管理に当たっている。し
たがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす
周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で
行われる現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状
変更等」という。)については、文化財保護法の下に許可制に
基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置については
次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物
・建造物群・遺跡(site))これらの構成資産はいずれも
社殿などの木造建造物を中心としている。それら内のいくつか
は、富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化財に指定さ
れており(御師住宅は指定予定)、その他の建築物や境内地は
史跡の構成要素として保護されている。これらの木造建築物に
ついては、これまで損傷の程度に応じた適切な修理が行われて
きた。したがって、それらはすべて45良好な状態を保ってい
る。具体的には、建造物の全体を解体して行う全解体修理、軸
組を残したまま壁や屋根などの修理を行う半解体修理を実施し
ているほか、部分的な修理として屋根葺替修理や塗装修理など
を定期的に実施してきた。建造物は自然災害等により幾度かの
損傷を被ってきたが、そのつど旧態に復旧され、その歴史上の
価値は確実に継承されている。さらに、指定地内で行われる現
状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重
に規制されている。また、重要文化財である建造物のみならず
、史跡等に指定された神社境内に存在する個々の歴史的建造物
の保存修理事業を行うに当たっては、文化財保護法の下に、そ
れらの歴史に関する調査、伝統技法に関する調査、地下遺構に
関する発掘調査、破損状況及びその原因に関する調査など、事
前の学術調査を周到に行い、その結果に基づいて、所有者・学
識経験者・行政経験者等から成る修理及び整備委員会における
保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基づき実施してい
る。また、それらの修理完了後には、修理に係る記録をまとめ
た修理工事報告書を刊行している。さらに、重要

295 :
、砂走館(7合5勺)、わらじ館(7合4勺)、日ノ出館(7合目)、(※休館:
見晴館(8合目)6合目小屋)がある。山小屋周辺にはトイレ、自動販売機、ベン
チ、椅子等が設置されている。・避難小屋登山道沿いの2箇所(7合8勺、2合8
勺)に、気象庁の避難小屋が建てられている。富士山頂測候所に勤務する職員用の
施設であったが、測候所廃止に伴い現在は使用されていない。・救急搬送・荷物搬
送区域登山道の南西側に、救急用・緊急用避難道としての役割を持つ道路等の施設
が設けられている。搬送にはブルドーザーが使われる。歩道との交差部には、進入
禁止柵・注意看板等が設置されている。・下山道(大砂走)登山道の南西側に、下
山道(大砂走り)がある。標高約3,000mの日の出館(7合目)付近で登山道
と分岐する。宝永山脇のスコリアで覆われた斜面を一気に下り、御殿場口新5合目
(標高1,450m付近)に至る。写真下山道の写真・御殿場口登山道明治5年(
1872)に女性の富士登山が許可された後、手軽に登れる登山道をめざし、御殿
場在住の伴野佐吉らが中心となって明治16年(1883)に完成した。同地の浅
間神社から滝ヶ原、馬返、太郎坊を経て、須山口登山道2合8勺に接続する経路で
あった。明治22年、東海道線(現JR御殿場線)が開通し御殿場駅が設置された
ことにより、登山道が富士山東表口新道本社浅間神社を通る現在の経路に変更され
た。御殿場口登山道は須山口よりも距離が短い上に道も良く、関東方面からの登山
客の多くが同登山道を利用し、須山口登山道衰退の契機となった。現在は、須山口
登山道と接続する2合8勺から頂上までの部分も、御殿場口登山道と呼ばれている
。写真御殿場口登山道の写真・須山口登山歩道須山浅間神社を起点とし、弁当場、
水ヶ塚水源地、水ヶ塚駐車場、御殿庭を通り、宝永火口の西側火口壁を抜けて富士
宮口登山道六合目に通じる登山道である。平成9年に富士山須山口登山歩道保存会
が中心となって復興した。道筋の一部は裾野市と御殿場市の市境に沿っている。宝
永噴火後から明治時代までの須山口登山道とはルート

296 :
などによって文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が行
われており、現時点における保全状態は良好である。ただし、建
物に関する専門的な調査はほとんど行われたことがないため、基
礎や構造物の状況など現状把握を早急に行う必要がある。現在、
居住の用に供しており、敷地内部及び建物は一般公開されていな
い。B9山中湖文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域
)により適切に保護されており、現時点における保全状態は良好
である。B10河口湖文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特
別地域)により適切に保護されており、現時点における保全状態
は良好である。B11忍野八海天然記念物として指定されている
範囲は水面に限られており、私有地が隣接しているため、周辺環
境を含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景観計画を
策定し、周辺環境を含めた保全を行っている。また、水位が低下
して、文化財指定当時の状態を維持していない池があり、今後の
調査によって原因の究明が求められる。忍野村では、平成20年
(2008年)に地下水資源保全対策基礎調査を実施している。
B12船津胎内樹型富士河口湖町により、日常的な維持管理が行
われており、現時点における保全状態は良好である。船津胎内樹
型はその狭小な断面形状の特性から、入洞の順路が設定されてお
り、入洞口と出洞口が分化している。入洞口には無戸室浅間神社
の社殿(拝殿)が建てられており、神社と入洞口が一体化してい
る。B13吉田胎内樹型−92−富士吉田市及び冨士山北口御師
団により、日常的な維持管理が行われており、現時点における保
全状況は良好である。内部の溶岩の盗掘や人の進入による破壊を
防ぐため吉田胎内本穴入口には、扉が設置され、施錠されている
。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)碑塔群はおおむね良好
な状態であるが、一部の碑塔に修理が必要とされる。B15白糸
の滝現状では、滝つぼ周辺に売店があるなど景観面において課題
がある。このため、富士宮市が中心となり保存管理計画の改訂お
よび整備計画の策定を行い、今後適切な整備がなされる予定であ
る。(3)眺望C1三保松原現状では1960〜80年代に進行
した海岸浸食の影響からの回復を図る

297 :
な修理として屋根葺替修理や塗装修理などを定期的に実施してき
た。建造物は自然災害等により幾度かの損傷を被ってきたが、そ
のつど旧態に復旧され、その歴史上の価値は確実に継承されてい
る。さらに、指定地内で行われる現状変更等については、文化財
保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。また、重要
文化財である建造物のみならず、史跡等に指定された神社

298 :
建造物については、火災による焼損防止のために自動火災報知
設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消火に関
する組織の運営についても万全を期している。また、建造物の
所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村が
策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理につい
ては、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施さ
れている。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))こ
れらの構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工
作物(人穴の碑塔)である。これらの構成資産については、そ
の自然的価値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝
及び天然記念物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍
野八海が天然記念物に指定されているとともに、その一部が史
跡に指定されている。これらの構成資産については、県及び市
町村が、各史跡等の規模・形態・性質・立地・環境等に応じて
保存管理計画を策定し、確実な保存管理に当たっている。した
がって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体をなす周
辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行
われる現状変更等については、文化財保護法の下に許可制に基
づき厳重に規制されている。2)構成資産の保全状況(A)山
体(眺望の対象である富士山、ある文化的伝統を伝承する物証
である、連続性のある資産としての富士山)登録範囲における
自然的環境については、おおむね良好な状態である。資産範囲
の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園法(特別保護
地区及び第1種特別地域、第2種特別地域)により厳密に保全
され、下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外
)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通地
域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されているため
、景観および文化的価値のどちらの点においても資産に影響を
及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には山頂部付
近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ(以下
、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前よ

299 :
で須山口登山歩道と呼ばれる。・須山口下山歩道須山口2合8勺から二ツ塚の西側
を下り、四辻分岐、幕岩上部、須山御胎内上部を通り、水ヶ塚駐車場に至る道で、
平成11年に富士山須山口登山歩道保存会が中心となって復興した。道筋の一部(
幕岩上部〜須山御胎内上部)は宝永噴火後〜明治時代の須山口登山道と一致する。
−85−写真須山口登山歩道の写真A4須走口登山道・山小屋とその関連施設登山
道沿いに、山小屋が建てられている。上から順に、御

300 :
ッドランドなどが仮設され、景観に影響を与えている。また、松
原においてもマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)による松枯
れがみられるため、薬剤注入・散布による予防措置及び植林、枯
れた松の除去が実施されている。現在これらの対策により、資産
の現状を保ち、将来においてはより良好な保全状態となることは
確実である。また、保存管理計画についてが静岡市がる改訂を行
っている。管理団体である静岡市は、シロアリ防除・駆除・シロ
アリ被害状況調査、松くい虫防除、松林の下草刈り、育苗、松苗
定植等の保護及び充実対策を行っている。また、地元自治体、三
保名勝保存会等とも連携し、官民一体となって保全充実を積極的
に推進している。静岡市教育委員会は、文化財を保護・育成する
立場を堅持し、予想される開発計画との適切な調整を図るため、
文化庁及び静岡県教育委員会と協議の上、『名勝「三保松原」保
存管理計画書』及び『名勝「三保松原」保存管理計画書解説』を
平成元年4月15日に改訂し(解説:平成4年10月29日一部
改訂)、現状変更申請等に対応している。名勝三保松原地内にお
ける文化財保護法以外の法令・条例による規制は、静岡県立自然
公園条例、静岡県風致地区条例等がある。2保存管理の基本的な
考え方資産全体を適切に保存管理していくための方向性としては
、まず、顕著な普遍的価値を理解することが必要であるとともに
、地域住民及び行政など資産に直接的に関わる者がその知識を向
上させ、連携しつつ保護していくことが重要である。また、顕著
な普遍的価値に与える負の影響を考慮しつつ、その特質に応じた
適切な保存管理の考え方及び取扱の方針が必要となる。負の影響
とその対応の方法については、第6章に記載している。富士山の
構成資産については、文化財保護法の下、国指定文化財に指定さ
れている。これらの現状変更及び保存に影響を及ぼす行為(以下
、「現状変更」という。)については、同法の下に許可制に基づ
き厳重に規制されている。なお、山体や富士五湖については文化
財保護法により、確実な保存管理が行われており、指定された文
化財保護法周辺においても、自然公園法と森林法及びその他所法
令により確実な保存管理が行われてい

301 :
存在する個々の歴史的建造物の保存修理事業を行うに当たっては
、文化財保護法の下に、それらの歴史に関する調査、伝統技法に
関する調査、地下遺構に関する発掘調査、破損状況及びその原因
に関する調査など、事前の学術調査を周到に行い、その結果に基
づいて、所有者・学識経験者・行政経験者等から成る修理及び整
備委員会における保存修理や環境整備の方針の決定及び指導に基
づき実施している。また、それらの修理完了後には、修理に係る
記録をまとめた修理工事報告書を刊行している。さらに、重要文
化財である建造物については、火災による焼損防止のために自動
火災報知設備及び各種の消火施設・避雷施設を設置し、防火・消
火に関する組織の運営についても万全を期している。また、建造
物の所有者である宗教法人及び市並びに個人は、県又は各市町村
が策定した保存活用計画に基づいて、それらの確実な保存管理に
当たっている。また、建造物の軽微な補修等の日常管理について
は、所有者の依頼により、専門の建築技術者によって実施されて
いる。(4)その他信仰関連遺跡(遺跡(site))これらの
構成資産は、湖沼、風穴・溶岩樹型、滝・湧水、石造工作物(人
穴の碑塔)である。これらの構成資産については、その自然的価
値から湧玉池が特別天然記念物に、白糸ノ滝が名勝及び天然記念
物に、富士五湖が名勝に、風穴・溶岩樹型及び忍野八海が天然記
念物に指定されているとともに、その一部が史跡に指定されてい
る。これらの構成資産については、県及び市町村が、各史跡等の
規模・形態・性質・立地・環境等に応じて保存管理計画を策定し
、確実な保存管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成
する諸要素及びそれらと一体をなす周辺の地域は、良好な状態を
保っている。さらに、指定地内で行われる現状変更等については
、文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2
)構成資産の保全状況(A)山体(眺望の対象である富士山、あ
る文化的伝統を伝承する物証である、連続性のある資産としての
富士山)登録範囲における自然的環境については、おおむね良好
な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び
自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特

302 :
生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる
道(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び
登山道周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因
する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に
管理・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・
廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、
使用は必要最小限にとどめられている。山頂部周辺の文化的環
境についても、現時点における保全状態は良好で

303 :
戸屋(本8合目)、江戸屋(8合目)、見晴館(本7合目)、大陽館(7合目)、
瀬戸館(本6合目)、長田山荘(6合目)、東富士山荘(5合目)、菊屋(5合目
)、吉野屋(砂払い5合目)がある。山小屋周辺にはトイレ、自動販売機、ベンチ
、テーブル等が設置されている。山小屋周辺にはバイオトイレ、自動販売機、ベン
チ、テーブル等が設置されている。・避難小屋下山道からブルドーザー道に入った
2,120m付近に地元山岳会による避難小屋が設けられている。・救急搬送・荷
物搬送区域登山道とほぼ並行して、救急用・緊急用避難道としての役割を持つ道路
等の施設が設けられている。昭和40年(1965)の開通で、搬送にはブルドー
ザーが使われる。歩道との交差部には、進入禁止柵・注意看板等が設置されている
。須走口登山道は、特に吉田口登山道と合流する8合目から上部の混雑が激しいた
め、頂上部から8合目までのブルドーザー道が下山道として利用されている。写真
ブルドーザー道の写真・駐車場・附属施設200台収容の駐車場が5合目に設けら
れている。付属施設として、登山シーズンの夏季のみ在番の交番と観光案内所、小
山町により設置・管理されている公衆トイレがある。写真駐車場(交番・観光案内
所)の写真A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本
栖湖・建築物及び工作物本栖地区集落の人口は156人(2008年4月1日現在
)国道139号線と300号線が分岐する本栖交差点周辺を中心に集落が形成され
ている。その他湖畔にキャンプ場などの観光施設及び管理施設が存在する。自然公
園法第2種特別地域に指定されていることから、建築物等の高さ規制を受けている
ので、景観上良好な状況が保たれている。湖南東側にある本栖青少年スポーツセン
ターやキャンプ場などの管理施設等も同様である。その他の工作物として、電柱や
アンテナなどが存在する。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・駐車場神田川ふれあい
広場の南側には第2駐車場が整備されている。南北に仕切られ、北側が普通車用、
南側がバス専用となっている。トイレも併設されてい

304 :
信仰に関する建造物については、酸性雨などの気候変動、大雨な
どの自然災害及び観光客増加によるき損などの影響を受けること
が想定される。したがって、これら負の影響について、具体的な
指標を用いて監視する必要がある。また、これらは木造建造物で
あることから、部材の交換などによる修理によって全体の枠組み
を維持しつつ、顕著な普遍的価値が損なわれることのないよう、
適切に保存管理する必要がある。(1)現状変更の制限について
の考え方本来、文化財保護法は文化財を保存し、かつ、その活用
を図り、もって国民の文化的向上に資することを目的としたもの
であり、文化財の保存が適切になされることを原則としている。
また、自然保護法は、優れた風景地を保護するとともに、その利
用の増進を図り、もって国民の保健、休養及び教化にしすること
を目的としたものであり、風致景観が適切に管理されるとともに
適切な利用を促進することを原則としている。しかしながら、一
方ではそこを所有し生活している住民が存在することも事実であ
り、住民生活もまた尊重されなければならない。したがって構成
資産の諸要素の現状に変更が生じる場合には、構成資産の保存と
住民生活との調整を図りつつ、適切に行われる必要がある。その
ため、構成資産のうち特別名勝地だけでなく、史跡や遺跡、眺望
地点などは文化財保護法や自然公園法、景観法などにより保護措
置を講じる必要がある。世界遺産としての地区区分として、「文
化財保護法を基本に保存管理する地域(第1種保護地区)」及び
「自然公園法を基本に保存管理する地域(第2種保護地区)」と
いう2つの地域に区分し、それぞれ現状変更の取扱いを定め、住
民生活との調整を図りつつ構成資産の保存管理を行っている。そ
の概要については以下に示すとおりである。(2)地区区分につ
いての考え方各構成資産における保護に関する基本的な考え方と
しての地域区分並びに想定される現状変更等の行為とその具体的
取扱方針の概要は、以下に示すとおりである。なお、構成資産ご
との詳細な情報は、個別の保存管理計画に示している。図富士山
地区区分図−94−表保存管理のための地区区分(富士山北側)
第1種保護地区第2種保護地区1−1

305 :
)により厳密に保全され、下部(標高1500〜2000m以下
、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特
別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護さ
れているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資
産に影響を及ぼす行為は発生しない。た46だし、山体西側には
山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れ
(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年前より継続し
て発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わ
る道(御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び
登山道周辺では、多くの人々によって行われる登山行為に起因す
る廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組合などにより適切に管理
・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・廃棄物
の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必
要最小限にとどめられている。山頂部周辺の文化的環境について
も、現時点における保全状態は良好である。ただし、降雪・強風
等に常時さらされるため、小規模な変更は常時行われてきた。(
A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A
2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・
強風等に常時さらされるため、登山の開始以降登山道小規模な経
路の変更は常時行われていた。したがって、継続的な観点におけ
る保全状態について明確に述べることはできない。しかし、現在
も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県
、地元保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適
切な状態に保たれている。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本
宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行われており、現時点にお
ける保全状態は良好である。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖
すべての湖とも現時点における保全状態は良好である。中でも本
栖湖は、訪問者の体験を損ねないように、展望地点から富士山を
見た展望線と展望地点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保
存管理が行われており、現時点における保全状態は特に良好であ
る。(B1)富士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われてお
り、現時点における保全状態は良好である。湧玉池は全般

306 :
、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な変更は常時行
われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は
良好である。(A2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であ
るとともに、雪崩・強風等に常時さらされるため、登山の開始
以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた。したがっ
て、継続的な観点における保全状態について明確に述べること
はできない。しかし、現在も登山道として使用されている部分
については毎年登山期前に県、地元保存会(須山口)又は山小
屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれている。(A
6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期的な維
持修理が行われており、現時点における保全状態は良好である
。(A7〜9)西湖・精進湖・本栖湖すべての湖とも現時点に
おける保全状態は良好である。中でも本栖湖は、訪問者の体験
を損ねないように、展望地点から富士山を見た展望線と展望地
点区域の周辺環境の維持に配慮した良好な保存管理が行われて
おり、現時点における保全状態は特に良好である。(B1)富
士山本宮浅間大社定期的な維持修理が行われており、現時点に
おける保全状態は良好である。湧玉池は全般的には良好な状態
であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減少し、藻
類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置され、
対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社
)現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神
社現時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御
室浅間神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆
塗装の磨耗退色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子
版は富士山二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修
繕の検討が予想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は20
06−2007年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点に
おける保全状態は良好である。小佐野家住宅は、

307 :
1−4地区2−1地区2−2地区2−3地区2−4地区特別名勝
御中道下500m〜頂上まで富士山有料道路五合目終点施設習合
区域以外富士山有料道路五合目終点施設習合区域A富士山(富士
山体)(御中道含む)天然記念物青木ヶ原樹海地区精進口登山道
地区道路地区大室山周辺概ね標高2000m以上富士山原始林及
び青木ヶ原樹海周辺富士五湖周辺地域

308 :
良好な状態であるが、二つの池のうち「上池」では、湧水量が減
少し、藻類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置
され、対策が検討されている。(B2)山宮浅間神社現時点にお
ける保全状態は良好である。(B3)村山浅間神社現時点におけ
る保全状態は良好である。(B4)須山浅間神社現時点における
保全状態は良好である。(B5)富士浅間神社(須走浅間神社)
現時点における保全状態は良好である。(B6)河口浅間神社現
時点における保全状態は良好である。47(B7)冨士御室浅間
神社現時点における保全状態は良好である。ただし、漆塗装の磨
耗退色が著しい部分がある。また、本宮本殿の脇障子版は富士山
二合目所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕の検討が予
想される。(B8)御師住宅旧外川家住宅は2006−2007
年に大規模な修繕工事を行ったため、現時点における保全状態は
良好である。小佐野家住宅は、所有者らによって日常的な維持管
理が行われているほか、補助事業などによって文化財としての保
護に必要な修繕や設備の整備が進められてきた。(B9〜10)
山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点における保全状態は良好で
ある。(B11)忍野八海天然記念物として指定されている範囲
は水面に限られており、私有地が隣接しているため、周辺環境を
含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景観計画を策定
し、周辺環境を含めた保全を行っている。(B12)船津胎内樹
型現時点における保全状態は良好である。(B13)吉田胎内樹
型内部の溶岩の盗掘や人の侵入による破壊を防ぐために本穴入り
口は施錠されており、現時点における保全状態は良好である。(
B14)人穴富士講遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、
一部の碑塔に修理が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝
壺周辺に売店があるなど景観面において課題がある。このため、
富士宮市が中心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定
を行い、今後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊に
ついては特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1
960〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図るた
め、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観

309 :
って日常的な維持管理が行われているほか、補助事業などによ
って文化財としての保護に必要な修繕や設備の整備が進められ
てきた。(B9〜10)山中湖、河口湖どちらの湖とも現時点
における保全状態は良好である。(B11)忍野八海天然記念
物として指定されている範囲は水面に限られており、私有地が
隣接しているため、周辺環境を含めた保全状態に課題がある。
しかし、忍野村が景観計画を策定し、周辺環境を含めた保全を
行っている。(B12)船津胎内樹型現時点における保全状態
は良好である。(B13)吉田胎内樹型内部の溶岩の盗掘や人
の侵入による破壊を防ぐために本穴入り口は施錠されており、
現時点における保全状態は良好である。(B14)人穴富士講
遺跡碑塔群はおおむね良好な状態であるが、一部の碑塔に修理
が必要である。(B15)白糸ノ滝現状では滝壺周辺に売店が
あるなど景観面において課題がある。このため、富士宮市が中
心となり保存管理計画の改訂および整備計画の策定を行い、今
後適切な整備がなされる予定である。滝の自然崩壊については
特に対策は採られていない。(C)三保松原現状では1960
〜80年代に進行した海岸浸食の影響からの回復を図るため、
資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観に影響を
与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布に
よる予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現
在これらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはよ
り良好な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の
象徴的存在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後
の地震により初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢
約650年)を指定した。しかし、この松も台風による幹の損
傷で樹勢が衰え、2010年10月にその交代が行われる(三
代目は樹齢約300〜400年と推定されている)。また、現
在静岡市が保存管理計画の改訂を行っている。なお、資産範囲
・緩衝地帯範囲には含まれないが、三保松原の富士山方向の対
岸に当たる富士市の工業地帯においては、現在使

310 :
を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイ
センチュウ)による松枯れがみられるため、薬剤注入・散布によ
る予防措置及び植林、枯れた松の除去が実施されている。現在こ
れらの対策により、資産の現状を保ち、将来においてはより良好
な保全状態となることは確実である。なお、三保松原の象徴的存
在である羽衣の松は1707年の宝永噴火とその前後の地震によ
り初代とされる松が失われたため、現在の松(樹齢約650年)
を指定した。しかし、この松も台風による幹の損傷で樹勢

311 :
高煙突の撤去が静岡県の政策(富士地域煙突ゼロ作戦)として
実施されている。48b)資産に与える影響の要因1)開発の
圧力資産及びその緩衝地帯において、建築物又は工作物の建設
、土地の形質変更、木竹の伐採等の等の行為を行う場合には、
文化財保護法、自然公園法、都市計画法、森林法、河川法、海
岸法及び関係市町村が定める条例(景観法に基づき策定された
景観条例等)の下に、それらの規模、形態・構造に関する規制
(建築物又は工作物に関しては、それらの高さ・色彩・意匠等
の規制を含む)が行われるため、資産の価値を著しく低下させ
るような開発は起り得ない。「富士山世界遺産両県協議会」(
設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許認
可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コン
トロールのあり方について検討を行う予定である。開発計画の
うち、現在北麓(山梨県)においては都市計画区域用途地域ま
たは都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地域外
)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織である
「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の
同意が必要とされている。その同意を得た後で、個別法令の許
認可を担当する部署での手続きを行うことになっており、一元
化した組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われ
ている。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定
規模以上の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会
」へ報告がなされ、必要に応じて個別法令の許認可を担当する
部署に対して助言等がなされる予定である。また、各市町村の
景観計画の下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努めること
としているほか、世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一
覧表への記載の可能性のある文化資産に相応しい周辺市街地を
創出するために適切な景観の保全・改善の施策を実施すること
としている。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては
、いずれにおいても資産への影響を最小限に留めるよう関係機
関・団体と調整を行うことし、実施する場合にも事前に十分な
協議を行うこととしている。(1)観光開発(ホ

312 :
をおこなう。@各構成要素の歴史的・文化的価値の継承と自然的要素の維持A構成
資産により形成される文化的景観の保全B地域住民の生活、生業への配慮C登山客
、観光客等の来訪者への配慮D防災面における安全確保への配慮(2)緩衝地帯等
の適切な保存管理構成資産保護のための適切な範囲の緩衝地帯等(保全管理区域)
を定めるとともに、その保全の方策を講ずる。緩衝地帯等(保全管理区域)に存在
する諸要素の規模・性質・立地条件などを把握し保存

313 :
合目から山頂までの山頂信仰遺跡に含まれる範囲(神社)古御岳
神社、迎久須志神社須走口5合目から8合目までの範囲国有林B
1富士山本宮浅間大社ふれあい広場と駐車場を除く境内地、神立
山(社叢?)神田川ふれあい広場、第2駐車場第1駐車場周辺市
街地B2山宮浅間神社籠屋から遥拝所までの境内地籠屋より下部
の神社境内地周辺住宅地、森林B3村山浅間神社六道坂以東の境
内地六道坂以西の境内地宿坊跡、見付跡周辺住宅地、森林−97
−B4須山浅間神社境内地全域境内地周辺の社叢周辺住宅地、森
林B5冨士浅間神社境内地全域─西側駐車場、周辺住宅街、西側
森林B14人穴富士講遺跡境内地全域、地下洞穴─森林B15白
糸ノ滝本体〜滝つぼ、両岸の崖音止の滝市街化調整区域C三保松
原特別規制A地区及び特別規制B地区第1種規制地区第2種規制
地区第3種規制地区@第1種保護地区この地区は、富士山の本質
的価値を構成する宗教的な建造物、信仰の対象となった自然物等
、史跡及び眺望地点として重要な要素を含む区域とする。登山道
においては、歴史上使用された登山道跡と断定できる道跡、及び
登山道跡に存在する石碑や建物跡等を含む区域である。神社等に
おいては、社殿・遺構・石碑等歴史的な価値のある要素が存在し
、指定地の中核を成す区域である。歴史的に価値のある社殿・石
碑・遺構等史跡として重要な要素が存在し、指定地の中核部をな
す地区であるため、特に厳格な保存管理を行う。そのため、本地
区では、土地の形状、建築物・工作物に関し現状の維持に努め、
それらがき損した場合には適切に復旧・整備する。また、建築物
・工作物等の更新等についても、遺構破壊及び景観阻害を防ぐた
め厳しく規制する。また、地面掘削を伴う場合には、必要に応じ
て発掘調査等を実施するなど、遺構・遺物の適切な保存・整備に
努めることとする。本質的価値を構成する要素ごとの考え方ア自
然的要素となるもの(ア)土地の形状・土壌の性質を変える行為
、及び植生に影響を与える行為については、安全確保の措置及び
学術研究を目的とするもの以外は厳しく規制する。(イ)土壌・
岩石の採取については、安全確保の措置及び学術研究を目的とす
るもの以外は厳しく規制する。(ウ)

314 :
、2010年10月にその交代が行われる(三代目は樹齢約30
0〜400年と推定されている)。また、現在静岡市が保存管理
計画の改訂を行っている。なお、資産範囲・緩衝地帯範囲には含
まれないが、三保松原の富士山方向の対岸に当たる富士市の工業
地帯においては、現在使用していない高煙突の撤去が静岡県の政
策(富士地域煙突ゼロ作戦)として実施されている。48b)資
産に与える影響の要因1)開発の圧力資産及びその緩衝地帯にお
いて、建築物又は工作物の建設、土地の形質変更、木竹の伐採等
の等の行為を行う場合には、文化財保護法、自然公園法、都市計
画法、森林法、河川法、海岸法及び関係市町村が定める条例(景
観法に基づき策定された景観条例等)の下に、それらの規模、形
態・構造に関する規制(建築物又は工作物に関しては、それらの
高さ・色彩・意匠等の規制を含む)が行われるため、資産の価値
を著しく低下させるような開発は起り得ない。「富士山世界遺産
両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を
中心に、許認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把
握し、コントロールのあり方について検討を行う予定である。開
発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては都市計画区域用途
地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地
域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織であ
る「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の
同意が必要とされている。その同意を得た後で、個別法令の許認
可を担当する部署での手続きを行うことになっており、一元化し
た組織かつ統一した基準での開発のコントロールが行われている
。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる一定規模以上
の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会」へ報告が
なされ、必要に応じて個別法令の許認可を担当する部署に対して
助言等がなされる予定である。また、各市町村の景観計画の下に
、各市町村は景観阻害要因の排除に努めることとしているほか、
世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産一覧表への記載の可能
性のある文化資産に相応しい周辺市街地を創出するために適切な
景観の保全・改善の施策を実施することとしている。なお

315 :
場・スキー場)緩衝地帯に位置するホテル等については、自然
公園法に基づき、高さ・色彩・意匠等の規制が行われており、
既存施設の改築についても同様である。特に山体の五合目以上
、本栖湖からの展望線の核心部は自然公園法の特別保護地区、
第1種特別地域となっており、新規の構造物の建築は禁止され
ている。また、富士山北麓(山梨県)では新規の10ha以上
のゴルフ場開発については凍結されている。(2)廃棄物処分
場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内

316 :
過観察の実施顕著な普遍的価値に対して与える負の影響の可能性について、様々な
角度から検討を行い、その原因となる可能性のある諸要素について確実に把握する
とともに、それらに対する監視及び適切な対応を行う。(4)整備・公開・活用推
進資産の顕著な普遍的価値を確実に保存するとともに、総合的な理解を深めること
ができるよう、適切な整備・公開・活用の施策を推進する。@多様な構成資産から
なる富士山総体としての価値の理解が深められるように、山梨県・静岡県の関係市
町村が一体となった適切な整備活用をおこなう。a富士山の価値の持続的な利用b
適切な公開範囲の設定A都市計画、観光計画、防災計画等との調整を図り、資産の
価値の保存と来訪者の安全に配慮した施策を推進する。B適切な整備活用を推進す
る。(5)保存管理体制の整備と運営確実な保存管理を推進するために、各々の構
成資産を管理する山梨県・静岡県や関係市町村、所有者や環境省、林野庁、国道交
通省などの関係諸機関を中心として組織体制を整備する。その際には、地域住民が
資産の資産の適切な保存管理と整備活用の施策に積極的に参加できるよう配慮する
とともに、関係諸機関との連携を強化し保存管理の運営に関する方法・体制の整備
を図る。−89−第4章構成資産の保存管理1現状の把握(1)富士山山体及び登
山道A富士山登録範囲における自然的環境については、おおむね良好な状態である
。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園法(特別保護地区及び
第1種〜2種特別地域)により厳密に保全され、下部(標高1600〜2000m
以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特別地域、普通
地域)及び森林法(保安林)、山梨県及び静岡県有林管理計画により重層的に保護
されているため、資産に影響を及ぼす行為は基本的に発生しない。ただし、山体西
側には山頂部付近から標高2200m付近までを源頭部とする土砂崩れが約100
0年前より継続して発生し、これは「大沢崩れ」と呼称されている。この土砂崩れ
のため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道であ

317 :
教的な意義が付与された自然物については、現状維持に努め、き
損した場合には適切に復旧・整備する。(エ)境内地・社叢内の
植物の採取、動物の捕獲、木竹の伐採・植栽については、景観の
保全に関わるもの、安全確保の措置及び学術研究を目的とするも
の以外は厳しく規制する。イ歴史的要素となるもの(ア)社殿等
の建築物や鳥居・石碑等の工作物、遺構等については、現状維持
に努め、き損した場合には適切に復旧・整備する。(イ)お鉢巡
り、登山道については現状維持に努め、き損した場合には適切に
復旧・整備する。(ウ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘
削を伴う場合には、必要に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺
物の適切な保存・整理に努める。−98−ウ社会的要素となるも
の(ア)山小屋等の建築物、橋等の工作物については、現状の規
模の維持に努める。また、景観を現に阻害しているものについて
は、除却するか更新時に改良を行い、景観との調和に十分配慮す
ることとする。(イ)安全確保等に関わる地形の形質変更、建築
物及び工作物の設置に当たっては、景観との調和に十分配慮する
。本質的価値を構成する諸要素と密接に関わる要素ごとの考え方
ア自然的要素となるもの(ア)土地の形状・土壌の性質を変える
行為、及び植生に影響を与える行為については、安全確保の措置
及び学術研究を目的とするもの以外は厳しく規制する。(イ)土
壌・岩石の採取については、安全確保の措置及び学術研究を目的
とするもの以外は厳しく規制する。(ウ)歴史的な意義を持つ自
然物については、現状維持に努め、き損した場合には適切に復旧
・整備する。(エ)植物の採取、木竹の伐採・植栽については、
景観の保全に関わるもの、安全確保の措置及び学術研究を目的と
するもの、森林施業に関わるもの以外は厳しく規制する。イ歴史
的要素となるもの(ア)境内社・末社等の建築物や鳥居・石碑等
の工作物については、現状維持に努め、き損した場合には適切に
復旧・整備する。(イ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘
削を伴う場合には、必要に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺
物の適切な保存・整理に努める。ウ社会的要素となるもの(ア)
社務所、公会堂等の建築物、案内板等

318 :
掲げる開発計画等の立案に当たっては、いずれにおいても資産へ
の影響を最小限に留めるよう関係機関・団体と調整を行うことし
、実施する場合にも事前に十分な協議を行うこととしている。(
1)観光開発(ホテル・ゴルフ場・スキー場)緩衝地帯に位置す
るホテル等については、自然公園法に基づき、高さ・色彩・意匠
等の規制が行われており、既存施設の改築についても同様である
。特に山体の五合目以上、本栖湖からの展望線の核心部は自然公
園法の特別保護地区、第1種特別地域となっており、新規の構造
物の建築は禁止されている。また、富士山北麓(山梨県)では新
規の10ha以上のゴルフ場開発については凍結されている。(
2)廃棄物処分場又は清掃工場現時点で計画なし。(※演習場内
の解放地に御殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の
計画あり。)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口
本宮冨士浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり。
)(4)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と
御師住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当
該道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者からな
る「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案の検
討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路の意
匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に影響は
ない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは、河口湖
畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。河口湖湖畔
の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的としており、
当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路改良事業として
、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上を図ることを目的
とした事業が行われ、景観に配慮した内容とするよう調整してい
る。2)環境の圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的
環境の変化として、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う
噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降
灰後の降雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷
が予測される。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在
その幅は年1.6mの割合で拡大している(富士砂防・S

319 :
殿場市・小山町広域行政組合によるゴミ処理施設の計画あり。
)(3)工場又は工業団地現時点で計画なし。(北口本宮冨士
浅間神社の南600mの地域に、工場進出の計画あり。)(4
)道路整備緩衝地帯においては、北口本宮冨士浅間神社と御師
住宅との間を走る国道138号の拡幅が計画されている。当該
道路計画においては、市、県、国等の関係機関と有識者からな
る「富士北麓地域交通円滑化対策検討会」において、計画案の
検討を行うなど、当該神社の社叢や周囲の景観に調和した道路
の意匠・構造とすることとしており、当該資産の価値の保護に
影響はない。49県道山中湖忍野富士吉田線の新倉トンネルは
、河口湖畔と富士吉田市中心部をトンネルで結ぶ計画である。
河口湖湖畔の渋滞解消、火山防災のバイパスとすることを目的
としており、当該資産の価値の保護に影響はない。また、道路
改良事業として、線形改良、歩道設置など来訪者の安全性向上
を図ることを目的とした事業が行われ、景観に配慮した内容と
するよう調整している。2)環境の圧力資産の価値を著しく低
下させるような自然的環境の変化として、山体の形状を変化さ
せる噴火及びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、
融雪型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流などによる
登山道及び周辺の資産の損傷が予測される。「大沢崩れ」が約
1000年前より始まり、現在その幅は年1.6mの割合で拡
大している(富士砂防・S45〜H20の38年間で約60m
・3400メートル地点・523万?・年13.8?の土砂が
流出)。ただし、噴火・地震等がなければ少なくとも200年
後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測されている(
「富士火山」P407〜)。酸性雨を含む大気汚染が引き起こ
す被害については、現段階では確認されていない。白糸ノ滝で
は、滝自体の浸食により年2cmの割合で後退しており、10
年程度の間隔で自然崩壊が発生する。砂嘴である三保松原では
20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活発になり、堆
積活動が減少したことで海流による海岸浸食が進んでいたが、
現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復

320 :
されている区域がある。山頂部付近では登山者に起因する廃棄物・し尿が発生する
が、山小屋組合などによりバイオトイレが設置され、適切に管理・除去されている
。一部過去の廃棄物が堆積している箇所があるが、将来的に撤去が予定されている
。なお、山腹において、急病人の搬送や山小屋の維持・廃棄物の撤去のために必要
最小限使用されるブルドーザーが通行する道路がある。アお鉢巡り八葉及び大内院
の現時点における保全状況は良好である。ただし、降雪・強風等に常時さらされ、
年々増加する登山者の影響により、土砂の崩落が一部で認められる。また、トイレ
やゴミの問題なども年々改善されているが、一部有識者にさらなる改善を指摘され
ている。イ御中道巡り御中道は大沢崩れ部分の通行止めの他に、通行量の減少と表
土の流失に伴い道の存在が不明になった箇所があるが、その他の保全状況は良好で
ある。A1山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。その他の山頂信仰
遺跡の現時点における保全状態は良好である。A2大宮・村山口登山道現在登山道
として利用されていない大宮・村山口の一部については、国有林の範囲であり林業
関係者以外の立ち入りは許可制となっていることにより、現状維持の観点からの現
時点における保全状態は良好である。A3須山口登山道現時点における保全状態は
良好である。A4須走口登山道現時点における保全状態は良好である。−90−A
5吉田口登山道登山道は、土砂崩れによる浸食などにより登山道の一部に変更がみ
られるものの、人為による現状の変更には厳しい制限がかけられている。また、道
路管理者である山梨県により日常的に維持管理が行われており、保全状態は良好で
ある。A6北口本宮冨士浅間神社定期的な維持修理等が行われており、現時点にお
ける保全状態は良好である。ただし、拝殿・幣殿については、建物全体に歪みが生
じていて、今後、修復・修繕の検討が必要であると想定される。祈願のため多くの
参詣者が訪れるとともに、宗教行事が行われている。A7西湖文化財保護法(名勝
)及び自然公園法(特別地域)により適切に保護され

321 :
た、三保松原における松にはマツクイムシ(マツノザイセンチ
ュウ)による被害が見られる。これに対しては、薬剤注入・散
布による予防措置及び植林、枯れた松の除去を資産の所在する
静岡市とNPO法人が行っており、被害の拡大を防止している
。3)自然災害と危機管理資産の所在地域における自然災害と
しては、第一に富士山特有のものとして山体及び側火山からの
噴火及びそれに伴う噴石、火砕流・火砕サージ、溶岩流、融雪
型火山泥流、降灰、降灰後の降雨による土石流などが予想され
るとともに、数年単位で発生する山体における雪崩(特に大量
の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴
う土石流、強風、雨水による浸食などが考えられる。また、富
士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラスの海洋プレート内地
震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側におけ
る一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測
されている。第三に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮な
どの被害がある。これらについてそれぞれ以下のような防災対
策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気象庁
をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国
の富士山ハザードマップ検討委員会報告書(2004年)に基
づき県及び市町村において火山防災計画(ハザードマップ・避
難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口登山道
では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩
壊を防いでいる。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)について
は国が中心となり、源頭部における水分と土砂の分離、山麓に
おける土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置などを行って
いる。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し、落石の
落下先をコントロールしている。これらの災害は発生自体を防
止することは困難であるため、その被害を最小限にとどめるこ
とを対策の骨子としている。50地震に関する対策としては、
大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知を目
的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施
設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(

322 :
の規模の維持に努める。また、景観を阻害しているものについて
は、除却するか更新時に改良を行い、景観との調和に十分配慮す
る。(イ)安全確保等に関わる地形の形質変更、危険防止及び安
全管理のための工作物の設置に当たっては、景観との調和に十分
配慮する。(ウ)指導標の設置については富士山標識関係者連絡
協議会が策定する「富士山における標識類総合ガイドライン(仮
称)」に沿ったものとする。(エ)測候所等については、富士山
独特の自然を生かして設置された意義

323 :
大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部における水分と土
砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設
置などを行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設
置し、落石の落下先をコントロールしている。これらの災害は発
生自体を防止することは困難であるため、その被害を最小限にと
どめることを対策の骨子としている。50地震に関する対

324 :
基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。また、今
後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は19
96年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害
(標高1100〜1200m中心、計1125ha、富士山で
は約935haうち国有林620ha)をもたらしたことがあ
るため、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して
自生種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実
施している。また、風倒による被害を防ぐため人工林における
下刈を実施している。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂
防堰堤の建設や河川の改修などにより、大雨時の洪水に対する
防止策を講じている。山火事に対しては、国、県、市町村の連
絡・協力体制を確立し、草原地帯においては防火帯を設け、大
規模な火災に対して最大限の対応を可能としている。建造物の
火災に対しては自動火災報知設備・ドレンチャー設備・消火栓
、放水銃などを設置しているほか、自主防火組織も整備するな
ど、万全を期しているので問題ない。万一、上記の災害が発生
した場合においても、速やかに現状復旧の対策を講じるための
制度及び体制を完備しており、資産の価値が減じることはない
。三保松原においては、高潮対策事業として安倍川(土砂供給
源)下流部での砂利採取を1968年より海岸浸食の原因の一
因と考え禁止するとともに、1989年より34年計画(20
34年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や養浜による海岸
保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年250mの割
合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッドランドの一部が景
観に影響を与えているが、砂浜の回復後に撤去する計画が進ん
でいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、「富士
山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富士山
安全指導センター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センター
(富士宮口八合目)」が設けられている。また、富士宮口のす
べて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋にはAEDが設置
されている。(御殿場口はなし、須走口は1軒・東富士山荘)
4)来訪者及び観光の圧力富士山の構成資産のう

325 :
状態は良好である。A8精進湖文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域)
により適切に保護されており、現時点における保全状態は良好である。A9本栖湖
文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に保護されており、
現時点における保全状態は良好である。(2)信仰B1富士山本宮浅間大社定期的
な維持修理が行われており、現時点における保全状態は良好である。湧玉池に関し
ては、全般的には良好な状態であるが、「上池」「下池」の二つの池の内「上池」
では、湧水量が減少し、藻類が繁殖しているため、「湧玉池保全再生会議」が設置
され、対策が検討されている。B2山宮浅間神社現時点における保全状態は良好で
ある。地元からは参道・遥拝所等の整備が今後必要であるとの要望が出されている
。B3村山浅間神社現時点における歴史的価値を示す建造物の保全状態は良好であ
る。今後、トタン作りの大日堂覆堂の修理が必要とされている。また、地元からは
参道・遥拝所等の整備が今後必要との要望が出されている。B4須山浅間神社現時
点における保全状態は良好である。B5冨士浅間神社現時点における保全状態は良
好である。−91−B6河口浅間神社現時点における保全状態は良好である。B7
冨士御室浅間神社現時点における保全状態は良好である。ただし、近年、向拝柱、
登高欄及び木階の漆塗装の摩耗退色が著しく、木目が露出している場所がある。脇
障子版においては富士山二合目本宮所在時に毀損にあっており、今後、修復・修繕
の検討が想定される。B8御師住宅旧外川家住宅は、2007年〜2008年にか
けて所有者である富士吉田市が大規模な保全修理を行ったため、現時点における保
全状態は良好である。現在、富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として、200
8年4月から敷地及び主屋内部を一般公開しており、外川家協力会員が交代で勤務
し、来場者に直接解説を行っている。小佐野住宅は、所有者らによって日常的な維
持管理が行われているほか、補助事業などによって文化財としての保護に必要な修
繕や設備の整備が行われており、現時点における保全

326 :
、その維持又は活用を前提に取り扱うこととする。(オ)登山者
の指導や安全確保の役割を担う富士山衛生センター(富士宮登山
道8合目)については、景観との調和を図りつつ、適切に整備す
る。(カ)8合目以上の下山道、救急搬送・荷物搬送区域につい
ては、現状の維持に努める。A第2種保護地区この地区は、第1
種保護地区に隣接し密接に関わる区域とする。登山道においては
、現在登山道として実際に利用されている範囲のうち、山頂信仰
遺跡に含まれる8合目以上を除く範囲である。−99−また神社
においては、境内地における公園等社会的な活用が進む区域や古
絵図に描かれている区域、社叢と連続する森林等の区域である。
民有林や市民生活の中で活用される区域等を含むが、境内地とし
て史跡の構成要素の一部が存在し、また社叢等の森林が境内地や
登山道の景観及び周辺の風致を考える上で重要な地区であるため
、厳格な保存管理を行うこととする。この地区では、土地の形状
、土壌の性質、建築物・工作物に関して現状の維持に努め、き損
した場合には適切に復旧・整備する。特に建築物・工作物等の更
新等に当たり、遺構破壊及び景観阻害が発生しないよう厳しく規
制する。また、地面の掘削を伴う施設の更新にあたっては、必要
に応じて発掘調査等を実施し、遺構・遺物の適切な保存・整理を
行う。本質的価値を構成する要素ごとの考え方ア自然的要素とな
るもの(ア)木竹の伐採・植栽以外の行為については、第1種保
護地区と同様に厳しく規制する。対象となるのは、土地の形状・
土壌の性質を変更する行為、土壌・岩石の採取、植生に影響を与
える行為、植物の採取、動物の捕獲の行為などである。(イ)木
竹の伐採・植栽については、安全確保の措置、学術研究、森林施
業に関わるもの以外は規制する。イ歴史的要素となるもの(ア)
鳥居や祠等の工作物については、現状の維持に努める。(イ)登
山道については、現状維持に努め、き損した場合には適切に復旧
・整備する。(ウ)建築物・工作物等の復旧・整備に地面掘削を
伴う場合には、必要な範囲内に応じて発掘調査等を実施し、遺構
・遺物の適切な保存・整理を行う。ウ社会的要素となるもの(ア
)登山道の各山小屋については、第1

327 :
建物に関する専門的な調査はほとんど行われたことがないため、基礎や構造物の状
況など現状把握を早急に行う必要がある。現在、居住の用に供しており、敷地内部
及び建物は一般公開されていない。B9山中湖文化財保護法(名勝)及び自然公園
法(特別地域)により適切に保護されており、現時点における保全状態は良好であ
る。B10河口湖文化財保護法(名勝)及び自然公園法(特別地域)により適切に
保護されており、現時点における保全状態は良好であ

328 :
基づいて保存管理する。本質的価値を構成する諸要素と密接に関
わる要素ごとの考え方ア自然的要素となるもの第1種保護地区と
同じ考え方に基づいて保存管理する。対象となるのは、自然的要
素の維持に関し、危険防止及び安全管理のための工作物や計測機
器の設置、森林施業に係る行為、砂防工事、登山道(歩道)整備
等である。イ歴史的要素となるもの石碑等については、第1種保
護地区と同じ考え方に基づいて保存管理する。ウ社会的要素とな
るもの(ア)登山道における安全確保のために行う道路関連の工
作物の新設・更新については、周辺植生への影響、土壌の性質へ
の影響を精査し、景観との調和を図ることとする。(イ)登山者
向けの指導標の設置、危険防止及び安全管理のための工作物の設
置については、第1種保護地区と同じ考え方に基づくこととする
。(ウ)公園施設等における、建築物・工作物等の扱いについて
は、景観との調和を図りつつ、適切に維−100−持管理を行う
こととする。ウ周辺地区良好な自然景観が残される周辺区域現に
ある良好な景観を保全し、かつ良好な景観の形成に貢献するよう
、以下の方針に基づいて適切に保全を図ることが望ましい。ア建
築物・工作物の新設・更新については、眺望の著しい妨げになら
ない規模とし、また眺望に著しい支障を及ぼすものでないものと
する。イ建築物・工作物の新設・更新については、屋根及び壁面
の色彩並びに形態が指定地の景観と著しく不調和でないものとす
る。ウ建築物・工作物の撤去については、跡地の整地を適切に行
うこととする。エ登山道周辺の森林管理については、国有林野施
業実施計画に基づき適切に施業し、森林の適正な整備及び保全を
図る。開発の進んだ周辺区域ア富士山と一体となった良好な景観
や指定地の景観を阻害することのないよう、景観法や条例に基づ
く施策に沿って、周辺地域の景観の保全に努める。イ景観を阻害
している建築物・工作物等は、更新時に規模・形態・色彩・材質
等において改良し、周囲の景観の保全に努めることが望ましい。
B三保松原ア現状変更の制限文化財保護法に基づき、名勝「三保
松原」の海浜と松原の保護並びに景観の維持を図るため、特別規
制A地区、特別規制B地区、第1種規

329 :
ては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知
を目的とした観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災
施設整備が行われるとともに、東海地震対策大綱(2003)に
基づき国・県・市町村の防災計画が策定されている。また、今後
各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996
年9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高
1100〜1200m中心、計1125ha、富士山では約93
5haうち国有林620ha)をもたらしたことがあるため、1
997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生種(ブナ
・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。ま
た、風倒による被害を防ぐため人工林における下刈を実施してい
る。大雨・洪水に関しては堤防・遊水地・砂防堰堤の建設や河川
の改修などにより、大雨時の洪水に対する防止策を講じている。
山火事に対しては、国、県、市町村の連絡・協力体制を確立し、
草原地帯においては防火帯を設け、大規模な火災に対して最大限
の対応を可能としている。建造物の火災に対しては自動火災報知
設備・ドレンチャー設備・消火栓、放水銃などを設置しているほ
か、自主防火組織も整備するなど、万全を期しているので問題な
い。万一、上記の災害が発生した場合においても、速やかに現状
復旧の対策を講じるための制度及び体制を完備しており、資産の
価値が減じることはない。三保松原においては、高潮対策事業と
して安倍川(土砂供給源)下流部での砂利採取を1968年より
海岸浸食の原因の一因と考え禁止するとともに、1989年より
34年計画(2034年まで)でヘッドランド・離岸堤の設置や
養浜による海岸保全対策を行い、現在、海岸と平行した方向に年
250mの割合で砂浜の回復が進行している。現在ヘッドランド
の一部が景観に影響を与えているが、砂浜の回復後に撤去する計
画が進んでいる。登山者の安全に関しては、気候の急変に備え、
「富士山登山指導センター(山頂と富士宮口新五合目)」、「富
士山安全指導センター(吉田口六合目)」と「富士山衛生センタ
ー(富士宮口八合目)」が設けられている。また、富士宮口のす
べて、吉田口七合目以上のほとんどの山小屋にはAEDが

330 :
ある小佐野家住宅(御師住宅)を除いた資産はすべて公開され
ている。ただし山体資産範囲については登山道及び山頂部以外
は土地所有者(国、県、富士山本宮浅間大社)の了解が必要で
あり、安全上の観点からも県が登山道からの逸脱を好ましくな
い行為として事実上立入を制限している。山体以外の資産につ
いては、き損・悪戯・盗難等の被害から建造物等の構成資産を
護るために、防犯警備施設を設置するとともに巡視及び監視の
体制を整備し(山宮・村山・人穴等では防犯シス

331 :2017/12/17
物として指定されている範囲は水面に限られており、私有地が隣接しているため、
周辺環境を含めた保全状態に課題がある。しかし、忍野村が景観計画を策定し、周
辺環境を含めた保全を行っている。また、水位が低下して、文化財指定当時の状態
を維持していない池があり、今後の調査によって原因の究明が求められる。忍野村
では、平成20年(2008年)に地下水資源保全対策基礎調査を実施している。
B12船津胎内樹型富士河口湖町により、日常的な維持管理が行われており、現時
点における保全状態は良好である。船津胎内樹型はその狭小な断面形状の特性から
、入洞の順路が設定されており、入洞口と出洞口が分化している。入洞口には無戸
室浅間神社の社殿(拝殿)が建てられており、神社と入洞口が一体化している。B
13吉田胎内樹型−92−富士吉田市及び冨士山北口御師団により、日常的な維持
管理が行われており、現時点における保全状況は良好である。内部の溶岩の盗掘や
人の進入による破壊を防ぐため吉田胎内本穴入口には、扉が設置され、施錠されて
いる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)碑塔群はおおむね良好な状態である
が、一部の碑塔に修理が必要とされる。B15白糸の滝現状では、滝つぼ周辺に売
店があるなど景観面において課題がある。このため、富士宮市が中心となり保存管
理計画の改訂および整備計画の策定を行い、今後適切な整備がなされる予定である
。(3)眺望C1三保松原現状では1960〜80年代に進行した海岸浸食の影響
からの回復を図るため、資産内及び周辺にヘッドランドなどが仮設され、景観に影
響を与えている。また、松原においてもマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)に
よる松枯れがみられるため、薬剤注入・散布による予防措置及び植林、枯れた松の
除去が実施されている。現在これらの対策により、資産の現状を保ち、将来におい
てはより良好な保全状態となることは確実である。また、保存管理計画についてが
静岡市がる改訂を行っている。管理団体である静岡市は、シロアリ防除・駆除・シ
ロアリ被害状況調査、松くい虫防除、松林の下草刈り

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