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1 :2017/12/06 〜 最終レス :2017/12/07
【アフィサイトへの転載・誘導禁止】

富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。
>>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。


■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1
「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/

2 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。
  
初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

3 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
 

4 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1。  
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

5 :
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI 
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
 

6 :
 
■富士山の天気
 
・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;amp;amp;ba=kk
 

7 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。 
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

8 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物
 
◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
 

9 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
 

10 :
 
■高山病の予防と対策
 
高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

11 :
 
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/

・異常者による荒らし予告
SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

・連投荒らしの抽出(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

12 :
 
ちなみに異常者はIP表示スレは荒らせないようです。
 
こちら。
 ↓
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131m
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505904686/
 

13 :
富士宮市
富士山の画像・動画 無料でウェブ公開
https://mainichi.jp/articles/20171206/k00/00e/040/254000c

静岡県富士宮市は、市富士山情報局「MI9(エム・アイ・キュー)」の取材班が富士山で今夏撮影した画像や動画のデータをウェブサイトで公開し、無料提供を始めた。個人の楽しみ、企業などの商用を問わない。担当者は「年賀状や新年の広告などに活用を」と呼びかけている。

14 :
MI9は、マウントフジ・インフォメーション・9合目の略。9合目の山小屋を拠点に7月に初めて開設。情報発信課の職員がシティープロモーションに生かすため、取材活動と情報発信を行った。

15 :
公開しているのは5日現在、写真35枚と動画15本。
写真は、山頂の景色や御来光、登山風景など。
動画は市役所屋上からの景色も加えた。
適時、新しい素材を追加する。

16 :
利用の際、申請や届け出は必要なく、色調の変更やイラストを重ねるなど加工も可。
「富士宮市提供」などのクレジットも不要としている。

17 :
ダウンロードは、トップページから「ダウンロード素材集」。問い合わせは、同課(0544・22・1119)。

18 :
今日もライブカメラよく見えてるな

19 :
初霜、初氷、初雪 便り続々...
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00378477.html

6日朝、北海道・陸別町では、最低気温氷点下21度を記録した。また、西日本でも今シーズン一番の強い寒気が入り、初霜や初氷、初雪の便りが続々と届いた。

20 :
6日朝は、全国的に冷え込みが強まり、北海道・陸別町では、最低気温が氷点下21.0度と、富士山以外では、全国で今シーズン初めて氷点下20度台まで下がった。

21 :
最低気温が0度未満の「冬日」は、全国のアメダスのおよそ6割と、今シーズン最も多くなり、東京都心でも最低気温が2.8度と、今シーズン一番の冷え込みになった。

22 :
また、愛知・名古屋市と京都市、香川・高松市、高知市で初氷、岡山市と徳島市で初霜と初氷が観測されたほか、愛媛・松山市で平年より15日早い初雪、広島地方気象台では極楽寺山の初冠雪を観測している。

23 :
全国的に気温の低い状態は、来週にかけても続く見込みで、体調管理に注意が必要となる。

24 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、
山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られて
いる。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を
与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成
され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特

25 :
に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅
間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士
上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝
が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化
し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、
富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富
士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日
本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11
年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1
952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年
)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関
連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」
の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては1
3件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」と
いう呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみ
すやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い
記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると
言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不
尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転
じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説とし
ては、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味す
るアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。
しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフ
チカムイ」からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源
説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等があ
る。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富
士郡に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富
士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」と
ある。富士山に因む命名富士山が日本を代表する名峰であるこ
とから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している

26 :
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した

27 :
側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2
,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いてい
る。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されて
いる。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火
詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1
千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に

28 :
ふむふむ

29 :
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)と
して発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶
岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にと
もなう山体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確な
ものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計1
2回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている
活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊
も懸念されている。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流)
:東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生
し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺
を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331
年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災
害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表す
ることはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時
開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加し
た際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎
データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法な
どが集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(
内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザード
マップの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直
轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で
滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘ
リで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたこ
とを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技

30 :
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある

31 :
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。特

32 :
に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサ
クヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。
浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(
浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂に
ある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰
」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が
普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」
(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富
士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良
香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐
の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共
有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イ
エズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「
富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河
国という関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上
人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初
の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立
したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村
山口、須山口、須走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外
ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特
別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(125
9年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(
村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』に
は神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称
が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」
と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−12
75年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」と
ある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの
造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府

33 :
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、

34 :
記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて
いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富
士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ
火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際
に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、
または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年
前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久
安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を
繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、
登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士
講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。
特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口
だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182
8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬
の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸
と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い
始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、
これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても
寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」
と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より
も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという
所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内
緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎ

35 :
などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな
るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分
だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ
れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら
れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「
須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文
2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取
得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田
氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取
得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳
川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位
権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を
利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建
てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」
は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし
、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って
いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士
浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富
士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった
。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ
とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「
富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走
の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取
得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると
し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに
対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地

36 :
内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い
の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に
委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛
けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院
散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走
が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され
た。安永の争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支

37 :
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した記述

38 :
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を

39 :
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こず

40 :
っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見
上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札
、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙
幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ
インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5
0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、
精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北
斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(
2005年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌
の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には
、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.
318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、
この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・3
19・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、
(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時
の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今
和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙
の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都
人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学で
は都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『
竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや
姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じ
て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか
らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市

41 :
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、
山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題
、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等
、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化

42 :
している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経
験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開き
から9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場
所は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士
山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の
乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶
えない。また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富
士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ
富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上
流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す
非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共
に日本の滝百選に指定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士
山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な
土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている
。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきりと拝め
る田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を
目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバルライン
や富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで
上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり
、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13
年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。
2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県
の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年(平
成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決
。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」
の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自

43 :
山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であ
った。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代
は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,19
3メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メ
ートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示でき
ない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれています
。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文
字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI
」として富士山も含まれている。続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝
説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返
し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という[82][83]。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新
高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952メートル
。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番
目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で
2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)
−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世界最高
峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unico
de6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU
nicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字
も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士
山も含まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静

44 :
岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士
山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、
日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦す
る資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から
成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については
以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座標計
測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口

45 :
している。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然
物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の
念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象と
された。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体
及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自然
物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山
信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに
、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(
森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯
は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活の
ために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られ
る湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代に
おいても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われてい
る。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた
姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代
を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的
な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が
重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い
。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「
馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の
境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象

46 :
とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、
日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や
御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作
品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される。富士山
体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれて
いる。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は
、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間と
の精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに、芸術
的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分
類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2
大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、
記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺
跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B
15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮
浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走
浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素
忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅
間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富士山
体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を
始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋
といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在
する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領
域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も
高い。特に本栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用され
た写真の撮影地や富士山を描く典型的な構図に含まれる景勝地
であり、主要な展望を供する展望地点である。また推薦範囲は
、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標
高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世
界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境

47 :
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登
山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最
も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用され
た。また、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の
外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べ
られている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、
随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システム
を語る上で、登山道は欠かすことのできない構成要素である。
A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A
5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古
くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山
活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発
化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神
社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社
や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅
間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間
神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利用され
た吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案
内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されてい
る。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神
社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)A6北
口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御
室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地とな
った風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけで
なく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水
地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされ

48 :
る長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を
始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。
また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてら
し)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間
明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎
内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となってい
る資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A
9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹
型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に
点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能
してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や
展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m
以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えら
れた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごと
に異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づく
ほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、
1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、こ
の理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び
宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座すると
の信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ
、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼ
この境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16
世紀ごろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたと
され(1561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩
れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道とし

49 :
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年、鉄道(東海

50 :
道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ
への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され
たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山
道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定
は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点
まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推
薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富士山南東
麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道である
。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にそ
の存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されて
いた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究
が進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由
来する60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840
年代前半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約
3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年
、東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの
道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用
不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在
に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂
東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目
からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資料で
は1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも17
世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂
部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村

51 :
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成され
た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述
の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあ

52 :
り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本
の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、
重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか
でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1
935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と
いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された
五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用

53 :
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す
べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの
みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい
る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ
れたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では
1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577
年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が
開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間
大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4
月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸
道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡
に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興
法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山に

54 :
おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し
、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と
大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と
も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ
れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ
の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2
001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発
掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと
もに史跡富士山として指定される予定。B4.須山浅間神社説
明須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在して
いた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も
含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建された
ものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わ
りを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が
行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に
社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社であ
る。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火
で崩壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使
用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから
富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、8
64〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間

55 :
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経
緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社
は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが
最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件
の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1
475、1525年と加修され、1564には地元領主による
大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら
れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。
1973−74年には里宮の地にそのままの形で移設された。
里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた
めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々
な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地
の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山
道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に
宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝
の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的
なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北
西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田
の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し
て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建
物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が
設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士

56 :
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際

57 :
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作

58 :
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期
的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに
、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一
つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア
イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一
有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代
国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日
本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1
9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西
欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道
禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀
釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、
1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり
富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道
・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南
麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前
後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北

59 :
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(
標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった

60 :
寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入
水する往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁
起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を
越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢
物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の
主人が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち
小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富
士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼
羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風
景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵
野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の
一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物
語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室
町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時代(年代)説明
東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水
墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる
。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、
建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な
日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作
。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中
心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作
品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺
の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪
を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山
指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清
東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する
。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし

61 :
て京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良
・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に
著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画
派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(
南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、
三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤
美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀
州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まっ
た富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描
いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三
保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境
を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田
県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西洋画
を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司
馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図1804平賀源内らと
蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第
一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図
(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥画を学び
、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・
自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍
歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎
山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世
絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響し
た。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十
三次など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい
。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕
末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂
之図など多くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家

62 :
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六

63 :
富士1926本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点
からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書「六りっ国史こく
し」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みちら「続日本しょく
にほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほん
ちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記
りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉
)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴょう」(
江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のく
に風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記
りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集もの
がたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之
きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上む
らかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院
してんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫
木和歌抄ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明
あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25
記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(
鎌倉)「東関紀行とうかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ
(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧
らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこく
きこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき
」道興どうこう(室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そう
ぼく(室町)「東国とうごく紀行きこう」紹巴じょうは(室町
)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅう(
江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょ
うい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐い
わさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記」松尾まつお芭蕉ば
しょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき(江戸

64 :
あげあげ

65 :
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞

66 :
美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系図け
いず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜ
んと人生じんせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治−昭
和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和
)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−
平成)「岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじ
ゅん(大正−昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大
正−昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大
正−昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙
蓉ふようの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう
」「冬山ふゆやまの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川
端康成かわばたやすなり(明治−昭和)「東海道とうかいどう
」白井喬二しらいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ
影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城
しんしゅうこうけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明
治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう
(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命
うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27
詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本
集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんようしゅ
う」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「
清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平
集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)
右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守
為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さ
いぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実

67 :
麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある
神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」な
どと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識
が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さ
らに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼
ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、1
8世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の
神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この認識は近
代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間
との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富
士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏
教における世界の中心である「須弥山」に見立てられた。また
、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識を立体化し
た「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登
拝ができない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者
には登山口の浅間神社や御師の発行する富士山の信仰上の景観
認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起の良いものと
して富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右
「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著
な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信
仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ま
しい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が
醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対
する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂へ
の遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著で
ある山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼
山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、これらの

68 :
富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、「万
葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは
海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えて
きた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた
伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある
景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的
・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を
持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙
思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場と
した。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ
、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝
などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山のみならず
日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なると
はいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数
多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を
持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・
顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立
峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優
れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品
を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作
品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともに
その構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日
本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭

69 :
対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に
様々な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と
富士山やその景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山
が一つの国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認
知されるに至っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保
松原からの富士山c)比較検討による証明1)比較軸の特定富
士山の顕著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺産
がそれらの要素に該当するか否かを検討することによって比較
を行う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整
理できる。(1)山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす
物証として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特徴を
持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、山体とその周
辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴・湧
水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されてい
る。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、
類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本における
自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も著目
なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義を
持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」
である。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開
催された国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文
化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」とい
う)において、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマ
と問題が討議された。ここで、信仰の山の遺産としての価値は
、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れるとされた。ま
た、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信
仰の山会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価
値を表す要素を勘案して、自然的要素としては、「形状・標高
」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か)、「岩盤や岩

70 :
立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーカオ山チャン
パサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群
ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オトゴン・
テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン・カ
ルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマラヤ山脈
サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウルホ
エ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中
国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国
13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)
施設中国15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国
17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山
−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20
漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21ア
ダムスピークピーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園
、ナックレス山脈−スリランカ22アパラチア山脈グレート・
スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワイ火山
国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山
脈自然公園群、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシ
ャー国際平和自然公園、イエローストーン国立公園カナダ・ア
メリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26サント・
ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連
する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山
スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ29オリン
ポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊ドロミテ
イタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワ
スカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・ア
ルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・太平洋地域以
外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア3
7表2:信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有

71 :
飛び飛びで糞ワロw

72 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神

73 :
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖

74 :
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域

75 :
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大

76 :
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あ

77 :
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指

78 :
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がって

79 :
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」と

80 :
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた

81 :
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日

82 :
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂

83 :
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に

84 :
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり

85 :
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4

86 :
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳

87 :
産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本
州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資
産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政区分に
基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所在地N
o.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富
士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲
を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、
資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構
成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積
(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと
日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい
懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山で
ある。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的
にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート
、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにそ
の下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に存在する。富
士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更
新世に造り上げられた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富
士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口はおよ
そ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プレートが北進しユーラ
シアプレートを南南東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって
、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火

88 :
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富

89 :
建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本
栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典
型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500
m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界よ

90 :
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の

91 :
、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖とされる長
谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され
た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的
価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信
仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所
在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において
寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化
されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ
ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ
れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教
的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸
仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀
には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教
的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、

92 :
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)

93 :
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清

94 :
長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された
写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は
、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ
たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から
撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体
の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春
」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大
社説明社記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心
的神社であった。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んに
なるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山
口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中で
の諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間
造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年山頂
部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を
行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認
められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基
づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士山の湧

95 :
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた
のが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文
献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし
て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下
に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475
、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が
行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後
も1698年、1867年に修復が行われていた。1973−7
4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目
の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建
てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と
して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮
が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備
の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が
文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.

96 :
受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊
し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理も
含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20
世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80
基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化財
となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財保護法の下に他の文

97 :
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えることを

98 :
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これ

99 :
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設

100 :
東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には少なくとも80
0〜802年、864〜866年、937年、999年、1033年、1083年
、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認され
ている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は
恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日
本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るよ
うにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に
位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境
が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば
)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多く
の和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになっ
た(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士山
の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山
岳信仰と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士
山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道場と
もなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化して
いった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重
要な意味を持つようになった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般
に広く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。
登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開かれ


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