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世界、伝説上の英雄教えろください

世界、伝説上の英雄教えろください


1 :2013/11/06 〜 最終レス :2019/05/31
アーサーとかジークフリートとかそんな感じのお願いします

2 :
('仄')パイパイ

3 :
概要
治世期間はたったの4年と短く、頼朝時代の老臣に掣肘されて大した業績を挙げられなかったものの、鎌倉幕府二代目将軍という立場と後述するあまりに凄惨な最期で一応歴史にそこそこの認知度を残すことが出来た。
御家人達を纏め上げ、幕府を盛り立ててゆこうという気概こそあったが、北条氏の政敵であった比企能員の娘(若狭局)に惚れ込み、
ついには彼女を妾にしてしまい、比企氏と緊密な関係になってしまったため実家の北条家との関係が悪化、その後ヤンデレママ政子に若狭局を殺されたことで激昂、
北条氏を皆殺しにしてやると息巻いたためご乱心として将軍の座から引き摺り下ろされて幽閉され、1年後変死した。
死因については暗殺説が濃厚で、しかも風呂場で刺客に襲われ、金玉を握りつぶされ、ペニスを切断されて悶死という大変ショッキングな死に様であったらしい。
愚昧で思慮分別が欠落した、典型的な親父の遺産を食い潰す駄目な二代目(例えるとしたら劉禅)としての印象が定着しているが、
親父の頼朝からは跡継ぎの器量無しの烙印を押されなかったので、辛うじて廃嫡された人物にカテゴライズされることを免れている。
ふぐり切断伝説の真贋
金玉を握りつぶされ挙句ペニスを斬りおとされて死んだというのは慈円の悪ふざけによる捏造ではないかという疑惑もあるが、
頼家の死から30年後、頼家の金玉を握りつぶしてペニスを斬りおとした刺客張本人を名乗る人物が、
鶴岡八幡宮に切断した頼家のペニス(らしきもの)を慰霊、供養のために奉納したという話が複数の史料に記述されており、
また面白がった口さがない野次馬達が脚色を加えて全国に喧伝したこともあって、
今では金玉を握りつぶされて死んだというのが半ば史実として定着している。
ちなみに、自称頼家のペニスを切断した刺客が奉納したと言われる頼家のペニス(本当に頼家のペニスかどうかは不明だが)は
今尚安置されており、閲覧料7165(ナウい息子)円を支払う事で誰でも閲覧する事が出来る。
閲覧した人の証言によれば「大根と見間違うほどの」サイズだったらしい。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/niberunku/hagene/1.htm

4 :
亜細亜大学の田中双葉は人格障害

5 :
サラディン 《Saladin》  出身地:イラク
 アラビア語での名はサラーフ・アッディーンで、イラクのクルド族の出身。サラディンはラテン語名。
エジプトの遠征に参加した後にファティマ朝の宰相となり、1171年には新王朝アイユーブを開いた。
アッバス朝の承認を得て「スルタン(イスラム世界で支配者の意)」の称号を戴く。
 その後、シリア、イラク北部、イエメン、北アフリカにまで領土を広げ、
87年には十字軍が築いたエルサレム王国を滅ぼしてエルサレムを奪回。
92年に第三次十字軍と休戦条約を結んで、キリスト教徒のエルサレム巡回を許した。
十字軍との交渉で見せた寛大な精神と開明さは、後のイスラム教徒の間で英雄視されるようになった。

6 :
ガイウス・カシウスと言う名の、ローマ軍の盲目の兵士。
十字架にかけられたキリストを槍で貫いた事で知られる。
伝説では、キリストを刺した時に血がしたたり落ちて彼の目に入り、目が見えるようになったという。
その後、改心した彼は洗礼を受け、聖人になったとされる。
ロンギヌスは後に呼ばれるようになった名である。
 また、このロンギヌスの槍を手に入れたものは世界の王として君臨するが、失ったときに破滅するとも言われる。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3

7 :
ヘクトル  紀元前7〜8世紀
トロイア戦争の英雄。
ギリシア伝説で,トロイア戦争におけるトロイア軍の総大将。その名は〈支え手〉の意。
トロイア王プリアモスとヘカベの長子。アンドロマケの夫。アステュアナクスの父。
彼はたんに勇敢なばかりか,情理をもわきまえた名将としてよく祖国防衛の任にあたったが,戦争の10年目に,ギリシア軍最大の英雄アキレウスの身代りに出陣したパトロクロスPatroklos を討ち取ったため,
親友の死に奮起したアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死した。その死体は戦車に引きずられてアキレウスの陣屋に運ばれ,10日余も野ざらしにされたあと,莫大な身代金でプリアモスに贖(あがな)われた。
その後まもなくトロイアが陥落したとき,幼いアステュアナクスはアキレウスの遺子ネオプトレモスに殺され,アンドロマケの身柄は褒賞として同じネオプトレモスに引き渡されたという。
ヘクトルの活躍はホメロスの叙事詩《イーリアス》によってよく知られる
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%95%E3%83%AB%E5%90%8C%E7%9B%9F

8 :
アキレウス(アキレス) 紀元前7〜8世紀
トロイア戦争におけるギリシャ軍最大の英雄。
テッサリア地方のフティア王ペレウスと海の女神テティス との子。
赤子のころ,わが子を不死身にしようと願ったテティスによって冥界の川に浸されたが,
母親の手がつかんでいたかかと(踵)だけは生身のままに残った(←アキレス腱の名の由来である)。
成人後,出征すれば早世する運命にあるとの母親の警告をふりきってトロイアに渡り,
めざましい働きを示したものの,戦争の10年目に,捕虜の女奴隷をめぐる総大将アガメムノンとの争いがもとで戦闘を放棄,
味方を敗北寸前にまで追い込んだ。しかし親友パトロクロスの戦死を機に再び武器をとり,敵の総大将ヘクトルを討って友の仇を報じた。
彼はさらにアマゾン族の女王ペンテシレイア,曙の女神エオスの子メムノン等を討ったが,トロイア王子パリスに矢をかかとに射かけられて落命したという。
アガメムノンとの争いの一部始終はホメロスの《イーリアス》で有名。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm

9 :
ソロン 前640ころ‐前560ころ
アテナイの政治家,詩人。「ソロンの改革」をおこなった。
王家から出た名門に属したが,富裕とはいえない家に生まれ,若くして海上貿易に従事した。前600年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を激励して名声を得,前594年アルコンに選ばれた。
当時のアテナイでは,平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財し,それを返済できない場合には土地を債権者である貴族に引き渡し,
収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する,ヘクテモロイと呼ばれる隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族もろとも債務奴隷となった。
そこで平民は負債の帳消しと土地の再分配を要求し,貴族との間に激しい党争を続けた。ソロンはアルコンの地位につくと,調停者としての全権を委任され,
危機克服のための大改革を断行したが,市民は貴族,平民ともそれに満足しなかった。ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。
党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。
一説にキプロス島で死んだという。
彼はまたアテナイ最古の詩人であり,その抒情詩には快楽や富を肯定するものもあるが,多くは富者の貪欲と民衆の過大な要求を戒め,独裁政に反対し,
正義と中庸にかなった秩序と繁栄という彼のポリス理念を表現している。また彼はギリシア七賢人の一人に数えられ,〈やりすぎるな〉をモットーにしたと言われる。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm

10 :
>>3
「二代目暗愚説」ってあまり信じていない。
特に鎌倉幕府なんて綱渡りにつぐ綱渡りで出来た複雑な事情を持つ産物で、あれを血筋で維持するなんて不可能に近いと思う。
おそらく頼朝本人が二代目に生まれて来ても維持するのは無理。

11 :
>>3
劉禅って、元々蜀漢国力的にオワタに近いじゃん
それに40年国を持たせてるし。まぁ孔明とかのおかげもあるけど
親父の遺産を食い潰すって感じとは違うだろ

12 :
アッティラ

13 :
>>12
アッー!!

14 :
ペイシストラトス  Peisistratos  (前600年ころ〜前528年か前527年)
前6世紀アテナイの僭主。
ピュロスのネレイダイの子孫として、名門貴族の家系を誇った。40歳のころに僭主制を樹立。
その後5年間で敵対者を打ち破って、以後30年ぐらいペイシストラトスによるアテナイ支配が続いた。
彼の時代にアッティカ産の黒絵の壷がギリシャ全土で流通し始め、またアッティカ赤絵の製法も開発され、アテナイの商工業は盛んになった。
また中小農民に対する優遇政策を推し進め、彼らからの税収入がペイシストラトスの権勢を支えた。
『村の裁判官』を任命して巡回裁判をさせるとともに、自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ、彼の政治は後世『クロノスの時代』と呼ばれるほどに善政として知られた。
彼はまた、ホメロスの叙事詩をはじめて編纂した人物ともいわれている。
http://www.meigennavi.net/tb/word/038/038627.htm

15 :
クレイステネス Kleisthenes (前570年?〜前507年)
前6世紀後半のアテネの政治家。アテナイに民主政を導入したことで知られる。
クレイステネスは民主派の支持をえてアテネの政治体制を根本的に変えた。
血縁にもとづくアテネ古来の4部族を廃し、都市部・内陸部・海岸部の3つの地区の住民から構成される10部族に再編成した。
さらに従来の四百人評議会は、各部族50人の代表からなる五百人評議会にかわった。この新しい制度のもとで民衆の国政参加の度合いは飛躍的に増大し、民主政の基礎がきずかれた。
オストラキスモス(陶片追放)の制度も、彼が創始したとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9#.E3.83.81.E3.83.BC.E3.83.A0THE.E8.93.AE

16 :
テミストクレス Themistokles (前527年?〜前460年?、前462年?)
古代アテネの軍人・政治家。
前480〜479年の第2次ペルシア戦争の中で活躍、とりわけサラミスの海戦でアテネ艦隊の指揮し、ペルシャ軍を破る。
しかし勝利の8年後、陶片追放にあってアテナイから追い出され、遠いペルシアで客死。
http://blogs.dion.ne.jp/dear_you/archives/10206218.html

17 :
ペリクレス (前495ごろ〜前429)
アテネの黄金時代を築いた古代ギリシャの軍人・政治家。演説の達人。
失脚の多いアテネの社会で、指導者としての地位を守り続ける。
彼の治世は決して成功ばかりではないが、彼はその失敗さえも良い方向に変えてしまう能力を持ち合わせていた。
33歳の頃にクーデター的に民主的改革を断行してアテナイの政権を握った。
支配権を握ってからは、徹底した民主政への施策を行い、スパルタとペルシアの両方に対抗する姿勢を強めた。
さらに前451?年にアテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ、アテナイ国家の結束力を高めることに尽力した。市民団としての封鎖性を具体化させた。パルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
 前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵のトゥキディデスを陶片追放で国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。
パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。
しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。
アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。
http://www40.atwiki.jp/genesis-ticket/pages/208.html

18 :
アルキビアデス (前450ごろ〜前404)
古代ギリシャ・アテネの将軍・政治家。栄光と流転の人生。
アテナイの名家の出で、父はクレイニアス、母はデイノマケ。
父が前447年にコロネイアの戦いで戦死したので、幼い彼はペリクレスの家で育てられるようになった。
巨額な父の遺産を相続し、アテナイ随一の人物(ペリクレス)を後見人に持ち、しかも類い稀な美貌を持つとあって、彼はわがまま気まぐれに育ち、傍若無人な性格となったという。 
学問について、彼はソクラテスの弟子となり、師の親しい友ともなった。ポティダイアの戦い(前432年)では師のソクラテスに命を救われたが、前424年のデリオンの戦いでのアテナイの敗走のときには、逆にアルキビデアスが徒歩のソクラテスを馬上から守ったという。
 しかしソクラテス以外にも、プロタゴラスやプロディコスなど、他のアテネ在住のソフィスト(哲学者)たちから受けた影響も大きい。
戦場でのアルキビアデスは非常に勇敢だったので、それをみこんだ有力者ヒッポニコスは莫大な持参金を付け娘のヒッポレテを彼に与えた。
http://auto2ch.doorblog.jp/archives/27303250.html

19 :
ペロピダス  前410ころ〜前364
テーバイの政治家,将軍。民主派に属し,前382年,スパルタ軍がカドメイアを占領したときアテナイに亡命したが,
前379年,帰国してスパルタ軍を駆逐した。前371年のレウクトラの戦,続くペロポネソス半島への侵入でエパメイノンダスとともに活躍し,
前369年以後はテッサリアのRイの僭主アレクサンドロスと戦い,キュノスケファライで勝利したが,自身は戦死した。
http://dic.pixiv.net/a/LBX#h3_2

20 :
エパミノンダス(エパメイノンダス) Epameinondas  ?〜前362
テーバイ(テーベ)の軍人,政治家。友人のペロピダスと協力してテーバイの勃興に貢献した。
前371年にスパルタとテーバイの友好が決裂すると、レウクトラの戦いで強豪スパルタを撃退した。
この戦いで彼は、従来の重装歩兵密集隊に改良を加えて,左翼を厚くした斜線陣形を導入し、これはギリシャ戦争史の革命といわれた。
前370〜前369年にペロポネソス半島に侵入し、スパルタを破ってメッセニア人を解放、スパルタに対抗する独立国家を樹立させた。
アテナイの海上支配にも対抗し、船隊を率いてエーゲ海を航行した。
前362年,4度めのペロポネソス半島侵入を行うが,マンティネイアの戦でスパルタ・アテナイ連合軍と交戦,戦死。
彼の死後テーバイの勢力は急速に衰えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E8%80%85%E7%8E%8B%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E3%83%A1%E3%82%AB#.E3.82.AB.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.81.AE.E9.81.BA.E7.94.A3

21 :
マーメルクス・アエミリウス   (前5世紀)
ローマの独裁官。
紀元前426年に彼は三度目の独裁官となると、以前撃破してその王を戦死せしめていたフィディーナにとどめを刺すために軍を起こした。
 フィディーナ側はローマ軍の肝をつぶすためにフィディーナ市の城門から無数の投げ槍に火をつけたものを打ち出したが、
アエミリウスは少しも驚かず、騎馬隊をいったん丘の上に退かせ、炎の中で敵軍と乱戦状態にあった自分の歩兵隊の一隊に鋭く下知して敵軍のかがり火を奪わせた。
 一方で、丘の上に集結した騎馬隊に、すべての乗馬の装備をはずさせ、その裸馬の群れを敵勢の真ん中になだれ込ませた。 
ローマ軍の火攻めと馬をつかった反撃に、フィーディナ軍は大混乱をきたし、とうとうローマ側は大勝利を得た。
『敵勢にむかって攻めかかろうとて、火災に驚いて蜜蜂のごとくに逃げ奔るは末代までの恥辱、なんとしても取って返して敵にかかるは武士のつとめぞ。
フィーディーナを其の火で焼きはらへ、情け容赦は戰には禁物ぢゃ』
                   〜Suis flammis delete Fidenas, quas vestris beneficiis placare non potuistis〜
                                     ティツス・リーウィウス『ローマ史』
http://ja.wikipedia.org/wiki/BASTARD!!_-%E6%9A%97%E9%BB%92%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E7%A5%9E-

22 :
フィリッポス2世  (前382〜前336)
ギリシャ北方のマケドニアの王。 デルフォイ神殿をめぐるギリシア都市国家間の争いに介入し、勢力を伸ばした。
  前338年、デモステネスの主導するアテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。
  同年、スパルタを除く全ギリシア都市にコリント同盟を結ばせ、フィリッポスをその盟主としてペルシア遠征を計画したのだが、私怨により暗殺された。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC

23 :
アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世) (前356〜前323)
ギリシャを征服した父フィリッポスの後を継ぎ、ギリシャ諸国を平定。
 その後東方遠征の事業を開始、ペルシャに進撃してダレイオス3世の大軍を撃破。 さらに東方に遠征して中央アジア、北西インドにまたがる世界帝国を実現した。
 征服地ではその制度・慣行を尊重し、東方民族主体の新帝国軍を編成、ギリシア傭兵の植民地定住策などにより東西の融合を目指した。
 前323年にバビロンで急死したため、さらなる遠征の計画は実現されなかったが、東西交流は活発化し、ヘレニズムと呼ばれる豊かな世界文化が開花した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%88%A6%E8%A8%98

24 :
デイビー・クロケット

25 :
バレンタインの季節です。
吉川裕(東北大学大学院)による贋ラブレターの計に注意しましょう!
身も心もズタズタにされます。
--------------------------------------------------------------------------
発信者 よしかわゆたか
SUB RE:RE:RE:RE:百合とは何か
2/11 23:24
スカイプはつかってなけりゃあ、そもそもパソコンが今手元に無い。
研究室に置きっぱなし。そして私は今から寝る。「あーもーいいや、寝ちゃお寝ちゃお寝ちゃおーそう寝ちゃおー」と、
「ふわふわ時間」的に言いながら。ああ神様お願い。ドリームタイムください。
じゃあまた。

26 :
ダレイオス3世   (在位;前336〜前330)
アケメネス朝ペルシア帝国最後の王。  アレクサンドロス率いるギリシャ軍に前333年のイッソスの戦い、前331年のガウガメラの戦いで敗退したあと、逃亡している途中に部下に殺害された。

スキッピオ、アフリカヌス  (前236〜前183)
     プブリウス・コルネリウス・スキッピオ 大スキピオ
    カルタゴを破ったローマの将軍。
ローマの将軍だった同名の人物の息子。
17歳のとき、父に従って初めてハンニバルの軍隊と戦うが、敗走。 カンネーの戦いでも敗北。
前208年、スペインのバエクラで、カルタゴのハンニバルの弟ハスドルバル将軍を打ち破り、ローマによるスペイン支配を確立した。
前202年、ザマの戦いでハンニバルを破る。
ミトリダテス大王、ミトリダテス6世、エウパトール・ディオニソス(前132〜前64,位;前111〜)
小アジアのポントス王国の8代目の王。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3

27 :
スッラ、ルキウス・コルネリウス・スラ・フェリクス (前138〜78年)
共和制ローマ時代の高名な政治家。 
「執政官」。 マリウスと争い、 小アジア方面で功績を挙げる。
『味方にとってはスッラ以上に良きことをした者はなく、敵にとってはスッラ以上に悪しきことをした者は無し』 
しかし彼が前79年に隠退し翌年没してから10年を経ずして,彼の体制はくつがえされた。
カティリーナ、ルキウス・セルギウス  (前100or102〜前62)
ローマの秩序に大きな影響力を与えた人物として、ルネッサンス時代の著述家によく引き合いに出される人物。
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。
プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。
その直後,政権担当者暗殺,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗死した。
陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%98%E5%8D%B4%E3%81%AE%E6%97%8B%E5%BE%8B#.E4.B8.BB.E9.A1.8C.E6.AD.8C

28 :
カティリーナ、ルキウス・セルギウス  (前100or102〜前62)
ローマの秩序に大きな影響力を与えた人物として、ルネッサンス時代の著述家によく引き合いに出される人物。
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。
その直後,政権担当者暗殺,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗死した。
陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。
ローマの名家の出身。 若いころから素行は良くない。
スッラの流浪生活中に、彼の名代となって働く。 そのころ、妹の夫、自分の妻子、ウェスタの神殿の童貞ガビアを殺害したという罪で、クラウディウス・プルケルに糾弾された。
統領職への就任を2度も、当時の統領衆であったマンリウス・トルクアーツスとアウレリアス・コッタに妨害されたため、彼らを殺害しようと図ったものの失敗、しかしその後、判官と検事を買収したので、罪に問われずに済んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A0_%28%E6%BC%AB%E7%94%BB%29

29 :
ポンペイウス 前106‐前48   Gnaeus Pompeius Magnus
共和政末期ローマの政治家,将軍。いわゆる三頭政治家の一人。
ローマを長年にわたって悩ませた外敵との戦いに終止符を打ち,東方を平定した将軍としての業績は,高く評価される。
またクリエンテス関係のもつ役割を十分に見抜き,積極的に利用したばかりか,ある種の世界帝国理念をも保有した政治家であり,とりわけ組織の才に恵まれていたといえる。
若い頃には無冠にして大権を授けられるなど,法を超える形で権力を伸張したにもかかわらず,晩年には元老院の保守派いわゆる秩序護持派にかつがれて,カエサルに相対さざるをえなかった。
将軍・政治家として同時代人を抜きんでるみごとな才能を有していたとはいえ,カエサルとの対立・抗争を通して明らかになるのは,両者の政治家としてのスケールの差であり,また人間性の差でもある。
http://anchor.doorblog.jp/archives/27834739.html

30 :
カエサル、ガイウス・ユリウス  (前100or102〜前44 /56歳)
古代史の中でアレクサンドロス大王と並び称される古代ローマ最大の英雄、最大の武人。
政治家であると共に西洋史上、もっとも大きな影響を残した人物。 英語読みではシーザー。
ガリアを平定してローマ文化がヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き,内乱の勝利者として単独支配者となり,世界帝国的視野に基づく変革を行ったが,共和政ローマの伝統を破るものとみなされて暗殺された。
ギリシア・ローマの歴史の流れを決定的に変えた大政治家。
常に運命の女神と共にあることを確信したばかりか,世人に〈運命の寵児〉とみなされた一方,政敵を心から受けいれてゆく仁慈の人としても知られる。
実戦の雄であったばかりか,軍略をめぐらす将軍としても卓抜しており,一方,人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家として,社会改革を遂行したが,業なかばにして倒れたといえよう。
彼の窮極の狙いが,王政であったか否か,という問いは同時代人にまでさかのぼるが,共和政の破壊者とみなす説,逆に帝政の礎石をすえた人物とする説というように,政治家としての評価も定まらない。
しかし世界帝国ローマを統御するには1人の力によるしかないという認識は,養子のオクタウィアヌス(アウグストゥス)によるいわゆる帝政の成立により現実のものとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E6%83%B3%E6%B0%B4%E6%BB%B8%E4%BC%9D
政治家としてのスケールの大きさ,つまり世界帝国的視野を一応認める説が有力であるが,異論もないではない。豊かな人間性,また最期の悲劇性など,その人間像についても,文学者,芸術家の手でさまざまの角度から幾度もとりあげられてきた。

31 :
ウェルキンゲトリクス  (前82頃〜前46)
前52年のガリア人の大反乱の指揮者。アルウェルニ族の有力者の子。父は王位を望んだという嫌疑で殺された。
前52年にカルヌテス族が反乱をおこしたのに呼応して,自己の部族の者ばかりではなくガリア全体に反乱を呼びかけて同盟軍を組織,その指揮者となった。
数々の合戦で一時はカエサルを窮地に追い込んだが,アレシアの戦で攻囲されて大敗した。
降伏後ローマで投獄され,6年後の前46年にカエサルの凱旋式のあと処刑された。
ロマン主義時代にガリアの愛国主義者と賛美され,19世紀末にはフランス国民の英雄,20世紀初頭にはフランス史における最初の抵抗運動家という評価が与えられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E6%92%83!%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%A9%E9%9A%8A%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9

32 :
アウグストゥス、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス (前63〜後14) 在位;前27〜後14年
ローマ帝国の初代皇帝。
ウェリトラエの富裕な騎士身分のガイウス・オクタウィウス GaiusOctavius とカエサルの姪アティア Atia の間に生まれ,初め父と同じガイウス・オクタウィウスの名を称する。
父は法務官・マケドニアの支配者として力を振るったが、前58年に死去。母によって学芸をたしなみ祖先の遺風を重んじるべく教育された。
12歳のとき、慣例に従って祖母ユリア(=カエサルの妹)の頌辞を述べたのが、公の場への初登場である。
男子に恵まれなかったカエサルに愛され、前46年のアフリカ凱旋や、スペイン遠征にも同伴。 
18歳のとき、生涯の友アグリッパとルフスと共にイリュス地方のアポロニアに送られたが、その地で遊学中にカエサルの暗殺されたことと、カエサルの遺言が、自分がカエサルの養子となり、カエサルの資産の相続人に指名されていることを伝え聞き、すぐにイタリアに上陸。
名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス Gaius Julius Caesar Octavianus と名のった。
カエサル死後の資産相続の正当性を巡り、まずカエサル派の実力者マルクス・アントニウスとは不和となる。アントニウスもカエサルの遺言とその効果を自分のために使おうとし、最初はオクタウィアヌスを若輩者として軽視していた。
しかし、アントニウスとカエサルの暗殺者デキムス・ブルートゥスの勢力(共和派)との戦いの中で、和解が成立し、オクタウィアヌスは元老院から元老院議員および前法務官の地位を与えられ、ムティナの戦いでも勝利をおさめた。
(しかしこの勝利に対して、元老院はオクタウィアヌスに正当な名誉を与えなかったので、軍隊は彼を統領にすることを要求する運動を起こした) 前43年、アントニウスを支持するレピドゥスを加えて「国家再建三人委員」を結成。
元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。前42年,フィリッピの戦で共和派の残党を一掃した際には,頭目ブルトゥスの首をカエサルの彫像の前にささげたといわれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%BE1/2%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9

33 :
マルクス・アウレリウス・アントニヌス、  (121〜180)
   ”ローマの五賢帝”の最後のひとり。  ”哲人皇帝”としても知られる。
    しかしローマ帝国の最盛期であったその治世は、問題が山積みで、彼も異民族との戦いの中で、生涯を
    閉じた。  彼の死と共にローマ帝国の衰退も始まった。
スペインの名家の家系だが、ローマで生まれた。幼い頃から勉学に励むと共に「ギリシャ的訓練」によって肉体の鍛錬に励み、時の皇帝ハドリアヌス(五賢帝の3人目)に認められ、まもなく皇帝の養子となるコンモドゥスの娘と婚約した。
これがマルクスが出世するきっかけとなった。  若い頃の彼は多くの学者に学び、とくにストア派の哲学に強く傾倒した。
皇帝ハドリアヌスが死んだとき、その遺言でハドリアヌスの後継者アントニヌス・ピウス(五賢帝の4人目)の養子となった。
  このとき17歳。  アントニヌスには他にも養子がいたが、マルクスただひとりだけが後継者として指名され、カエサルの称号を与えられ、翌年に18歳の若さで執政官となり、 また皇帝の娘を嫁に与えられた。  (コンモドゥスの娘との婚約は破棄) 
マルクスはこの養父をとても敬愛し、それは23年間の彼との生活(``)のなかで彼と離れたのはたった2晩で、そのときマルクスは病気になった、といわれるほどである。
マルクスはアントニヌスの養子たちの中でもっとも養父に愛されたが、アントニヌスが死に、元老院から次期皇帝への就任の打診があったとき、同じく前皇帝の養子であったルキウスと共に次の皇帝となることを要請した。
 これが皇帝の共同統治の先例となった。   このルキウスという人物は怠惰で享楽的でマルクスとは正反対の性格の人物で、皇帝となってもその自覚も責任も持たない人物だったが、マルクスに対しては常に尊敬と親愛を持って接し、2人の仲はとても良かった。
http://senki.kusakage.com/index.htm 

34 :
勝又祥R

35 :
コンモドゥス帝、ルキウス・アリウス・アウレリウス (161〜193 位;180〜193)
ローマ皇帝。五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝の長子。
父帝の晩年に共同統治者となり、父帝の死後徐々に元老院と敵対していった。側近や親衛隊の意向に左右される性格で、自ら闘技場に出て剣闘士(グラディアトル)として格闘することを好んだといわれ、
自分をヘラクレスの化身と見なすほどの狂信者ぶりを示したため,周囲の反感を買い最後に暗殺された。
マルクス・アウレリアス帝の10番目の子供。母の名は父帝の2番目の妃ファディラ。成年まで達した兄弟は、異母姉のルッキラとファウスティナ、同母姉のコルニフィキアしかいない。
父帝の片腕だった共治帝ルキウス・ウェルスの実父だったコンモドゥスにちなんで命名されたが、ルキウス・ウェルスはコンモドゥスが8歳の時に脳卒中で死去したため、マルクス・アウレリアスの後継者として帝王教育を受けて育った。
19歳のとき改名して「マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニウス」と名乗る。
その翌年と翌々年の(ドナウ方面の)ゲルマン遠征にも父に従い、ゲルマン人、サルマタイ人と戦ったが、180年に父が遠征先で病死すると、周囲の意見を無視して父帝がおこなっていたゲルマン人との戦争を打ち切ることを布告し、
すぐにローマに帰って単独支配者となったことを宣言した。 (※この“戦争中止”に関しては正しかったと判断する評者が多い) ローマに戻ったコンモドゥス帝は180年10月22日に凱旋式を行った。
コンモドゥスの代になって、帝政初期の頃の専制政治とドミニティアヌス帝流の武断政治が復活され、ふたたび陰謀と流血の悲惨な時代が始まる。
そののち彼は政務・軍務をおこたるようになり、剣闘などの遊興に耽り、身辺を近衛兵で固め、とくに近衛都督ペレンニス、クレアンデルらを重用し、
その行政を避難する者には厳罰をもって応じたので、国外からの諸民族の侵入や、国内では財政の窮迫、貨幣の悪質化、物価の騰貴などのたくさんの問題が巻き起こり、帝国に癒すことの難しい傷を与えた。
http://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%81%E6%9C%AC%E5%88%80

36 :
チンギス・ハン
蒙古の王で蒼き狼(ポルテ・チノ)の子孫とされる。
源義経と同一、野獣の神を脅したなど、伝説・逸話は多い

37 :
そういやハーンネタで何かあったな、なんだっけ?
モンゴル人は狼以外にも猪とか他の動物神を信仰してたとか
そういう話だったかな?

38 :
ガウェイン
「円卓の騎士」の1人であり、「忠義の騎士」として名高い。
アーサー王の甥に当たり、オークニー王ロトとアーサーの異父姉モルゴースの子。
弟にガヘリス、ガレス、アグラヴェイン、モルドレッド(異父弟)がおり、息子にはフローレンス卿、ロヴェル卿、ガングラン卿がいる。
初期の伝説によれば、アーサー王の甥として最も優秀な騎士として活躍した。朝から正午までは力が3倍になるという特性をもち、円卓の騎士中ランスロットに並び立つ存在。
強情で勇猛果敢ゆえの失敗も少なくないが、アーサー王の片腕として分別を働かせることもある。
「ガウェイン卿と緑の騎士」、「ガウェインの結婚」など、逸話が多い。
ガラティーン(Gallatin)という銘の剣を愛用していたとされる。この剣はアーサー王のエクスカリバーの姉妹剣とも言われているが、劇中での出番はほとんど無く、資料も乏しいため形状や性能、入手経路など不明な点が多い。
http://phoenix-wind.com/ranking/vote/vote_gintama.php

39 :
フランスの一地方を治めていたバンという王(通称:ベンウィックのバン王、w:en:King Ban)の息子で両親は共に早くに他界している。
彼は湖の乙女という妖精に育てられたため、「湖の騎士(Lancelot du Lac)」とも呼ばれる。
その後、成人になった彼は武者修行のためブリタンニア(ブリテン島)に渡り、そこでアーサーと運命的に出会った。
そして彼に惚れ、のちに円卓の騎士として名を馳せることになる。馬上槍試合では、槍、剣術、乗馬のどれも彼の右に出るものはいなかった。
騎士としての行動や振る舞いもまた素晴らしいものだった。
アロンダイトは、ランスロットの愛用する剣である。ただ、アーサー王伝説には登場せず、
14世紀初頭の中英語詩『ハンプトンのビーヴェス卿(ビーヴィス卿)(英語版)』の異本(ケンブリッジ大学キーズ学寮蔵 175 写本など)が初出である。
アロンダイトはこの詩の中でビーヴェス卿の息子ガイ卿の剣として登場するが、同時に「元々はランスロットの剣であった」という故事が語られている[1]。
アロンダイトは刃毀れしにくい剣と言われている。ランスロットは、同じ円卓の騎士のガウェインの3人の弟(ガレス、ガヘリス、アグラヴェイン)をこの剣で斬殺してしまっている。
さらに、アーサー王の妃グィネヴィアに通じていた(愛人)と言う説もあり、主君アーサー王に密告されるのを恐れてガウェインの弟たちを殺したとも言われている。
また、ランスロットは、トランプのクラブのジャックのモデルにもなっている。
生い立ち
ランスロットの父ベンウィックのバン王は、即位したばかりのアーサー王の後ろ盾となってイングランド統一戦に兵を送ったフランスの領主である。
そのためにフランスを長期間留守にしてしまい、そこをクラウダス(w:en:Claudas)に攻められて、弟のボールス王ともどもに領地を失った。
その時二人は憤死したとも、戦死したとも伝えられる。
落城の折、バン王の王妃エレインは赤子のランスロットを抱いて逃亡するが、湖の畔で休んでいるうちに、湖の精ニミュエによってランスロットはさらわれてしまう。
このニミュエに育てられたため、ランスロットは「湖のランスロ(Lancelot Du Lac)」とも呼ばれる。
http://may.2chanlog.net/b/res/254209556.htm

40 :
グィネヴィアとの恋
ランスロットは長じて立派な騎士となり、アーサー王の宮殿を訪れて円卓の騎士に列せられることになった。ランスロットは武勇でも騎士道を守る心でも、円卓の騎士の中で並ぶ者がなかった。
トマス・マロリーのキャクストン版では、トリストラムと並ぶ最高の騎士とされる。 しかし、アーサー王の王妃グィネヴィアと恋に落ち、騎士道と不義の恋との板挟みに苦しむことになる。
荷車の騎士
ある時、ブラデメイガス王の子マリアガンスはグィネヴィア王妃に横恋慕し、彼女と護衛のケイ卿をさらう。それを知ったランスロットは救出に向かうが、マリアガンスの部下の待ち伏せを受けて馬を射殺されてしまう。
乗馬を失ったランスロットは重い鎧に難儀するが、森で荷車を見つけた。
当時は罪人か不浄な者しか荷車に乗ることはなかったが、王妃を救うために動き回るための乗り物は必要であり、ランスロットはこれに乗ることにする。
荷車に乗って国中を走り回るランスロットの姿は噂となり、幽囚の王妃やケイ卿の知るところとなる。
王妃らはランスロットが騎士道に背く行いをしたために、罰として荷車に乗っているのだと誤解する。
いくつもの冒険を超えてランスロットはマリアガンスを破り、王妃らを救出するが、グィネヴィアは荷車の一件でランスロットをなじる。
半狂乱となったランスロットは三日三晩森を彷徨うが、気を取り直して王宮に帰り、王妃に事情を説明して誤解を解く。
円卓の騎士の身代わり
ランスロットは円卓の騎士の身代わりを務め、その窮地を救ったことが一再ならずある。
ケイ卿が遍歴騎士としての旅に出ている時、多くの騎士に挑戦されて負傷する。そこを通りがかったランスロットは、ケイの武具を身に着ける。
ケイだと思って挑戦するサグラマー、ガウェイン、ヘクター・ド・マリス、ユーウェインはいずれも相手をケイだと侮って敗れる。
http://ameblo.jp/punk1shxxx/entry-10934604706.html

41 :
ステンカラージン

42 :
二人のエレインとの出会い
優れた武勇や騎士道精神をもつランスロットを慕う女性は多かった。
アストラット(シャロット)のエレイン姫はランスロットに愛を拒絶され、衰弱して命を落とす。彼女の亡骸は小船に乗せられ、アストラット王の悲しみとランスロットへの非難を綴った文書と共に流されてキャメロットに流れ着いた。
そしてもう一人、ペレス王の娘、カーボネックのエレインは、魔法の薬の幻覚と、家臣らの演技を使って、ランスロットにグィネヴィア王妃と誤認させて、彼と一夜を共にする。このとき身篭った子がガラハドである。
ランスロットの母の名もエレインであり、彼の人生には何人ものエレインが登場することになる。
アーサー王との決裂
ある日、ランスロットとグィネヴィアは、不義密通の現場を、円卓の騎士でありガウェインの弟であるアグラヴェインと12人の円卓の騎士に踏み込まれてしまう。この時ランスロットはアグラヴェインと12人の騎士たちを殺害してしまった。
王妃グィネヴィアは不義の罪で火刑に処せられるべく、刑場に引き出される。そこをランスロットは急襲し、警護に当たっていた多数の円卓の騎士たちを殺してグィネヴィアを救出する。この際に、ガウェインの弟ガヘリス(とガレス)を殺してしまう。
ランスロットを敬愛する二人は、グィネヴィアを救出しにやって来る彼を傷つけないよう、丸腰であった。(正確には、グィネヴィアの処刑に反対だったガレスとガヘリスは、
アーサー王の命令に仕方なく従ったことを周囲に示すために平時の服装で丸腰のまま王妃の処刑に立ち会った)三人の弟を失ったガウェインはランスロット討伐を強硬に主張するようになる。
ランスロットとグィネヴィアを追討するために、アーサー王は国中に触れを出すが、人望あるランスロットを助けるべく、円卓の騎士の半ばまでがアーサー王の命に従わなかった。こうしてランスロットとアーサー王を巡って円卓の騎士は二つに割れてしまう。
結局、アーサー王はランスロットとグィネヴィアの篭る城「幸福の護り」を落とすことが出来ず、ランスロットも自らが原因で円卓の騎士が二分してしまったことを後ろめたく思っていた。ランスロットは、アーサー王が一騎討ちを挑んできても、それに応じなかった。
http://may.2chan.net/b/res/274845320.htm

43 :
アーサー王との決裂

ある日、ランスロットとグィネヴィアは、不義密通の現場を、円卓の騎士でありガウェインの弟であるアグラヴェインと12人の円卓の騎士に踏み込まれてしまう。
この時ランスロットはアグラヴェインと12人の騎士たちを殺害してしまった。

王妃グィネヴィアは不義の罪で火刑に処せられるべく、刑場に引き出される。そこをランスロットは急襲し、警護に当たっていた多数の円卓の騎士たちを殺してグィネヴィアを救出する。
この際に、ガウェインの弟ガヘリス(とガレス)を殺してしまう。ランスロットを敬愛する二人は、グィネヴィアを救出しにやって来る彼を傷つけないよう、丸腰であった。
(正確には、グィネヴィアの処刑に反対だったガレスとガヘリスは、アーサー王の命令に仕方なく従ったことを周囲に示すために平時の服装で丸腰のまま王妃の処刑に立ち会った)
三人の弟を失ったガウェインはランスロット討伐を強硬に主張するようになる。

ランスロットとグィネヴィアを追討するために、アーサー王は国中に触れを出すが、人望あるランスロットを助けるべく、円卓の騎士の半ばまでがアーサー王の命に従わなかった。
こうしてランスロットとアーサー王を巡って円卓の騎士は二つに割れてしまう。

結局、アーサー王はランスロットとグィネヴィアの篭る城「幸福の護り」を落とすことが出来ず、ランスロットも自らが原因で円卓の騎士が二分してしまったことを後ろめたく思っていた。
ランスロットは、アーサー王が一騎討ちを挑んできても、それに応じなかった。
また、ある時はランスロット側についた円卓の騎士ボールスがアーサー王を打ち倒した。
ボゥホートは剣を抜いてアーサー王の首を掻こうとしたが、ランスロットはそれを止めて王の命を助けた。

ロチェスター僧正の仲裁でグィネヴィアはアーサー王のもとに返され、一年間の休戦となった。
ランスロットとランスロット派の円卓の騎士たちはフランスへと渡る。
そこでランスロットはエクター・ド・マリス、ブレモア、ボールス、ライオネル、ラヴェインといった味方する円卓の騎士たちに、
自らと同じだけの広さの領地を与えて報いた。


http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%81%8C%E6%96%AC%E3%82%8B!

44 :
ガウェインとアーサー王の死

休戦の一年が過ぎると、アーサー王の軍勢は海を渡ってフランスへ攻め込んできた。
円卓の騎士同士の戦いに嫌気が差したランスロットは使者を送って和議を申し出る。
しかし、三人の弟を殺されたガウェインはこの申し出を受け入れないようアーサー王に迫り、
可否を巡ってランスロットはガウェインと一騎打ちを行う。この一騎打ちでガウェインは重傷を負う。

一月が経ってもまだアーサー王とランスロットはフランスで対峙していた。
その間にアーサー王の息子モードレッドがブリテンで反乱を起こしてしまう。

ようやく和議を受け入れたガウェインは、先発隊としてブリテンに渡るが、ランスロットとの一騎打ちで受けた傷によって満足に戦えず、
傷の上を一撃されてモードレッドに殺されてしまう。

アーサー王もまた、ガウェインの霊が枕元に立って「ランスロットと合流してから会戦に挑め」と忠告したにも関わらず、
和議に失敗して単独でモードレッドに挑んでしまう。
結局、二人は相討ちとなり、アーサー王に従った円卓の騎士の大半も、ここキャムランの丘で討ち死にしてしまう。

円卓の騎士の中でランスロットに従った半数を除けば、生き残ったのはベディヴィアだけであった。
無二の親友であったガウェインや主君のアーサー王、そして多くの円卓の騎士の死に責任を感じたランスロットは出家を決意する。

余生
アーサー王の死の後、王妃グィネヴィアは出家し、迎えに来たランスロットも拒絶する。
ランスロットもまた出家し、二人は二度と生きて逢うことはなかったという。
グィネヴィアの死が伝えられると、ランスロットは自ら食を絶って生を終えた。

http://www.madan-anime.jp/character.html?c=z1

45 :
ケイ卿(Sir Kay, Ceiとも)は、アーサー王伝説等に登場する伝説の人物で、円卓の騎士の一人。エクトル卿の子でアーサー王の義理の兄(乳兄弟)にあたる。
他にカイ、カイウス、カ、クーとも。

『マビノギオン』ではベディヴィアと共に超人ばりな特技を披露し
(九日九晩水の中にいても息が続く、九日九晩寝ずに働ける、人に傷を負わさせればその傷は絶対に治らない、
機嫌のいいときは背が伸びる、手から出る熱で洗濯物もすぐ乾かしてしまうなど)、
「キルッフとオルウェン」では、巨人ウルナッハのもとに単身乗り込み、機知でもってウルナッハを討ち取った。
最後はグウヴィザグに殺されるが、アーサー王が仇を撃つ。

トーマス・マロリーのアーサー王の死においては、アーサー王の義兄にして忠臣として描かれている。
この物語においてケイ卿はアーサーの乳兄弟として育ち、万聖節の日(11月1日)に騎士となる。
ある日の馬上槍試合においてケイ卿は剣を折ってしまい、代わりの剣を弟であるアーサーに取りに行かせる。
アーサーは家に戻り剣を探すが見つからなかったため、代わりに大聖堂前の石に刺さっていた剣(カリバーン)を抜いて持ってくる。
この出来事がきっかけでアーサーは自身がユーサー・ペンドラゴンの息子であるということを証明し、新王の資格を有することを知る。
アーサー王が即位した後、ケイ卿は司厨長に任命される。
その後、アーサー王にベディヴィアと伴われてモン・サン・ミッシェルの巨人を討伐するなどの活躍を見せる。
ケイ卿の最期には諸説あり、ローマ軍との戦いで戦死したりするものがあるが、カムランの戦いで果てたのが通説となっている。

後世の文献では、ケイ卿の性格には道化的で愉快な性格がみられるようになる。たとえば、ハルトマン・フォン・アウエの『イーヴェイン』では、
ケイはケノンに話を求め、ケノンが自分の体験した泉での不思議な出来事を語る。その話を聞いたケイは「そんな話はウソだろう。」と嫌味を言うが、
そのあまりの口の悪さに王妃ギネヴィアはケイを叱責する。

一方で、フランスの「聖杯」の散文物語『ペルレスヴォ』では、アーサーの息子ロホルト(『アーサー王の死』に登場するボーレと同一人物とも)を殺害し、
島々のブリアンと共にアーサーに反旗を翻す不義の臣として描かれている。

http://koujouchou.naturum.ne.jp/e690083.html

46 :
エクター・ド・マリス卿(Hector de Maris)は、アーサー王伝説に登場する、円卓の騎士の一人。
ベンウィクのバン王の息子であり、円卓の騎士の筆頭であるランスロット卿の弟。
アーサー王の養父である「エクター卿」と同名なので、区別するために出身地をつけて「エクター・ド・マリス」と呼ばれる。
彼の名がフランス語表記なのは、エクター・ド・マリス自身がフランス人であるのと、
アーサー王物語がフランスで発展し、イギリスに逆輸入されたさい、フランス語表記がもてはやされたことによる。

アーサー王の物語の中では、行方不明になるランスロット卿を捜索するエピソードにしばしば登場する。
また、聖杯探求中にお互いそれとは知らずパーシヴァル卿と槍試合を行い、自身も重傷を負ったものの、パーシヴァル卿にも瀕死の負傷をさせている。
このときは突如現れた聖杯により、たちまちのうち怪我が治癒された。
漁夫王・ランスロット卿とともに、聖杯の恩恵を受けた数少ない人物である。
その後はガウェイン卿としばらく旅を続けるが、結局聖杯を見つけることがかなわず、キャメロットに帰還した。

物語の終盤、円卓の騎士の間で内乱が起きると、ランスロット卿の味方となり、ボールス卿・ライオネル卿らとともにアーサー王と戦った。
アーサー王とランスロット卿の間に和議がなると、ランスロット卿からベンウィクとギエンヌの王に封じられる。
アーサー王の死後、ランスロット卿が行方不明になると、彼を探しにイングランドやウェールズを7年間探し回った。
ようやく居場所を探り当てたときには、すでにランスロット卿は死亡しており、その死に目に会うことはできなかった。
その後は、ランスロット卿の遺言で聖地回復のため、トルコ人との戦いに出発したボールス卿らに同行。聖金曜日に死亡した。

a.wikipedia.org/wiki/ロードス島伝説

47 :
ジークフリート 《Siegfried》  出身地:北欧
 ゲルマン民族の伝説中の英雄。北欧ではシグルド《Sigurd》と呼ばれる。
叙事詩「ニーベルンゲンの歌」では第1部の主人公として登場する。
 悪竜ファフニールを退治して不死の体とニーベルンゲンの宝物を手に入れた
ニーダーラントの王子ジークフリートは、ブルグント国の姫クリームヒルトを妻とする。
だが、その妻とブグルント国王妃ブリュンヒルトの争いに巻き込まれ、命を狙われる。
ブルグント国の重臣ハゲネの奸計により、背中にある唯一の急所を刺し貫かれ、息絶えた。

     ハゲネ 《Hergene》  出身地:北欧
 ドイツ叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に登場する武将。
ブングルト国王グンテルに仕えた重臣で、その忠誠の厚さをもって知られる。ハーゲンとも。
 ジークフリートと結婚したグンテルの妹クリームヒルトに嫉妬したグンテルの妃ブリュンヒルトは、
ハゲネにジークフリートの殺害を命じる。無敵のジークフリートの背にある唯一の急所を、
泉の水を飲んでいる隙をついて槍で刺し、ハゲネは暗殺に成功する。
クリームヒルトは復讐を誓ってフン族の王エッツェルと結婚し、グンテル一族を宴に招き、同行していたハゲネも首を刎ねられた。
クリームヒルトもその場で生涯を閉じた。

http://batspi.com/index.php?%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%88

48 :
オグン
Ogun
 アフリカにおける文化英雄神。ナイジェリアのヨルバ族をはじめとして、遠くカリブのハイチまでの広範囲で信仰されている(ハイチのヴードゥー教では「Ogoun」と発音する)。
火と金属の神であり、戦士の神であり、また酩酊の神、文化の神でもある。オグンは古い神々の一人であり、大地がまだ固まらずに水浸しだった時代に、至高神オロルンに命じられて地上の人々の生活を助けるために大地に降臨した。
青銅しか知らなかった人たちに鉄器の作り方を教え、畑と町を築くために密林を切り開いてやった。そうして各地を回って人々に文化を伝えていたオグンは、あるときイレという町で盛大に歓迎を受け王になるように人々に懇願された。
しかしオグンはこれを断り、山にこもって狩猟と農耕にいそしんだ。しかしイレの長老らの度重なる懇願に根負けし、後にイレの王となった。彼は国をよく治め、外国との戦争に勝ちつづけた。しかしあるとき、
戦いのさなかにのどが渇いたオグンは、トリックスターエシュ神のヤシ酒を飲み干して酔い、敵味方問わずの大虐殺を犯してしまう。これに恥じたオグンは天空へと戻っていった。

http://futalog.com/index.php?mode=ttl&s_word=%83%8D%83%7B%83K

49 :
ワイナミョイネンが文献に初めて登場するのは1551年にミカエル・アグリコラが作成したハメ(Häme)の神々の一覧である。
アグリコラや他の作家はワイナミョイネンを魔法と歌と詩の神と記述している。多くの伝承の中でワイナミョンネンは世界誕生にまつわる中心人物とされていた。
彼が海に漂う間に1羽の鳥がやってきて彼の膝の上に卵を産んだ。卵は波に打たれて壊れてしまったが、その破片が世界を構築した。天上を覆うものが空になり、黄身が太陽になった。

18世紀にクリストフリード・ガナンデルが民間伝承をまとめたが、ワイナミョイネンはカレウィ(en:Kalevi)の息子でイルマリネン(en:Ilmarinen)の兄弟とされている。

http://q.hatena.ne.jp/1307715855

50 :
パーシヴァル卿(Sir Perceval / Percival) はアーサー王伝説に登場する円卓の騎士の一人。聖杯探索の関連で最も有名な人物の一人。多くの国で長い時代に亘り語り継がれたため、
言語によってはパルジファル、パルツィファルなどの呼び方もある。語源としては、 perce(貫く)+val(谷)、すなわち「谷を駆け抜ける者」が有力である。『アーサー王の死』によれば、投げ槍が得意とされている。
物語によりパーシヴァルの出生には様々な設定があるが、ほとんどの場合に高貴な出生で、父はペリノア王という設定。母は名前が出てこない場合が多いが物語において重要な役割を担う。
また家族として様々な人物が登場する。彼の姉は無名であったり物語によりディンドランとも呼ばれ、聖杯を運搬する役で登場する。
彼がペリノアの息子の話ではトー卿、アグロヴァル卿、ラモラック卿、ダーナー卿という兄弟が登場する。 また、息子に白鳥の騎士のローエングリンが登場する場合もある[1]。
母親のもと15歳まで騎士とは無関係に育つが、父の死後、彼は母にウェールズの森に連れて行かれ、そこで騎士たちと出会うことになる。
彼はそこで見た騎士に憧れ、騎士になるべくアーサー王の下へ向かう。そして、彼は自らを素晴らしい騎士であると証明でき、
アーサーに騎士爵を授けられると円卓の騎士の会合に誘われ参加し、それによりパーシヴァルは円卓の騎士の一員となる事となった。
彼はその後、聖杯探索の任務に就き、一度失敗するが、最後にはガラハド卿と共に聖杯探索を成功させた三人の騎士のうちの一人となる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%BC%BE%E3%81%AE%E7%8E%8B%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%A7%AB

51 :
*底の国:人麻呂の伝承「水を潜って海神の国。地を通って根の国、底の国に抜けると出雲の国へ出る。」
底の国をパソコンでみると。「西中国・にしなかくに」再度パソコンでみると。
「細戈千足国=サホコチタル・ホソホコチタル・ソコチタル」パソコンの解説を記すと。
もともとサホコチタル国は根国の一部であったようで、根国との区別があまり明確でない。
「ホソホコチタル」の意味は精巧な武器(戈や鏃・やじり)をつくる人たちがいた地。
「川本町誌」歴史編p31.32 p46.47で「瑞穂町・長尾原遺跡」内容が書かれているが、大集落となる「たたら製鉄」の遺跡とおもわれる。
そこの住人が激減したとき、川本地区の人口が激増している。
江津市大字後地に「波来浜遺跡」がある。墓のよせ集めで、その1つB二号墳第一、第二、第三、第四、第五の主体が収められているが、副葬物がバラエティー。
・第一主体、八個の土器と1本の鉄鏃。
・第二主体、二個の土器。
・第三主体、土器三個、鉄鏃銅鏃各二本。
・第四主体、土器一個、銅鏃二本。
・第五主体、土器一個。
8世紀の初めに海(江津)〜川本(江川沿い)までの国・底の国が存在した。

52 :
「古事記」「稲羽の兎」
話は2部構成で 1. 兎の海を渡る話。
地名=「氣多前」・ketamae = 出雲勢力の土地 =火山灰の降る怪しく変な地形が多い国のひとつの前まで。
「和邇(わに)」= 鯨くじら・和邇族(第三の海人の作った)軍船。
どこに、上陸しようとしたか。 島根半島・中部の北で「鬼島」・鬼(おに)刀禰(とね)族・たたら製鉄の民。
「大黒島」=大黒天(だいこくてん)=インドの攻撃の神。
上陸の寸前に「八」=出雲勢力のことで、人麻呂・得意の略字、八を書き。中に縦に棒線を引き、
次ぎに二の字を書くと「出」、雲なんてめんどうだったのだろう。
鬼刀禰なんてとんでもない。
兎=兵 は日焼けした肌を切られてしまった。
2. 人麻呂・不比等・行基と小野族・鬼刀禰族・忌部族・関東の蝦夷人で、出雲王朝を倒した話。
大黒天が言った。水門(境水道)から真水へむかい(宍道湖から斐伊川の)蒲(ほ)黄(おう)<葉や花粉を乾燥させると傷薬となる。
がまの三種のひとつ>をのぼりそこ(物部の本拠・一大率・大社)を倒しなさい。
「稲羽」は季節のことで、(昔は平野いっぱいに米の実りがあったが、三瓶噴火により灰が降り注ぎ、日照不足で取れない。
そこで物部たちは、東へ東へと勢力を延ばし、あるものは南へと、「氣(け)多(た)」とか「八氣(やぎ)」あやしげな土地名)米の収穫に行った為、守りが手薄と知っていた。
人麻呂も行基もこの地は初めてでない。 境水道入口付近。松江市美保関町に三保神社(昔鯨が群れをなして現れその1頭が固まって島となったそうだ。
また毎年正月に神社に鯨が参拝するそうだ)これが(水道・海中)鯨島である=人麻呂のうわさ・昔話のたぐい。
かつて行基が、年上の人麻呂に漢字や物事を教え。人麻呂は文字や言葉を操り、神様となった。
唐の進駐軍が来たとき、ケツの穴の毛まで抜かれる事を知っていた。そこで、三者は、分担を決め動いた。
不比等の担当は、九州以外の古墳の石や岩に書いてあったであろう文字を
消し去ること。
文字のすべて。もし唐に攻められ敗れても墓とわからぬように。

53 :
人麻呂の8世紀はじめ、根の国=鬼刀禰族=たたら製鉄の人たち。
 紙のない時代だから、周布の歴史を書いた偉人と想像するしかないが。
国分寺が浜田市国分寺町にできる以前の古代より、石見(現在の島根県西部)中心の位置にあった。
また、古代の舟が浮かぶ頃より「津摩・つま」の港は古代より存在したのであろう。
古墳時代が日本の黄金時代で。第一の海人=鬼刀禰族・九州王朝。第二の海人=出雲勢力・物部族・蘇我族。第三の海人和邇族。
ともに、シケの時の避難港、休憩港、商い品の積み出し港として。大貿易、唐・洛陽からベトナムやボルネオまで。
 私がおもうこと。2点。
*昼は「大麻山」や「たかしま」がめじるし。
夜は物部が支配した「大麻山」「どびん山」「大山」「高山」に火が灯され、シケのとき(唐音の蛇岩・源田山と大山境の大穴)、火による合図もあったのでしょう。もうひとつの避難港は萩市・田万川町「江崎港」・竜神崎、山は須佐町「高山」、めじるし。

*「古事記」で須佐之男命や津摩がでてくるが、古事記の話で、「津摩」は実在し、スサノウは架空の人で、藤原不比等あたりをモデルにかきあげたのでは?誰の子か不明。
「和邇族で京都の田辺氏に育てられた」。わかっているのはここだけ。ここも想像。
成人し和邇族の地、三隅・田ノ浦にゆき後に津摩港より朝鮮に渡り、朝鮮・Ulleung島より苗木を持ち帰り斐伊川に植林し洪水を防いだ。
この功績により出雲の一大率に召し抱えられ、唐への使いに抜擢された。
そこで、人麻呂や行基との出会いがあった。

「鉄は赤土から採る」ソロモン王の言葉(紀元前11世紀のイスラエル王)。
ヒッタイト人やフェニキア人も同じ技法。
斐伊川―――>赤色に染まる(スサノウの大蛇退治・植林の後)。
石州瓦―――>赤土。江川の両岸。
たたら製鉄跡―――>三隅町・井野や岡見。

54 :
1300年前、石見の国で人麻呂は、対 物部族戦略。
石見地方のむかし話で、巨人の伝説;柿本人麻呂・作で行基(ぎょうき)の協力でできたもの。
わかった事。
@巨人=物部族=出雲一大率(将軍)勢=敵。
Aどこらへんか・場所=山名で、しめす・名付け地の人に教える。
B物部・出雲勢力=「キーワード」をしめす・名付け地の人に教える。
C物部族の神 大山祇 神・命・尊・金子神 大山津見神 を祭る神社が近くに存在。

*@浜田市「折居海岸」 A「大糞山おおぐそやま」(三隅町井野)「 B「大神山(おおやま)」=大麻山 *井野にたたら製鉄の跡(大穴)があった。今在住の人に聞いたが分からない。
C873 八幡宮 境内神社の一つ、三島神社 (井野村蛇山)・大山祇命


*@益田市「土田海岸」A「大神山(おおやま)」ふもと たたら製鉄跡の大きな穴・三隅町岡見) B「唐音の蛇岩」C1066三剣神社(鎌手村金山)・大山祇命
「大穴」= 海に向いていてシケるまえに音が鳴る。風向きでなる。石見の国の海の関係者に感謝されたらしい。現存しない。*中山鈩(イロリ)遺跡.・たたら製鉄の跡。

*@江津市「浅利海岸」 A「どびん山」=宝神山または浅利富士(上津井の上畑神社〜井田の大人おおひと・(江津市松川町) 南に江の川。 B「八神やかみ」・地名。C735上畑神社(松川村上津井)・大山祇尊


注・日本の黄金時代とは、古墳時代。この頃人口の2割は渡来人で、占めていた。たたら製鉄の人(鬼(おに)刀禰(とね)族)第一の海人で日本人のルーツ、(地中海エルサレム〜モンゴル〜バイカル湖・神武〜蘇我族・物部族)第二の海人、人麻呂や僧・行基(和邇(わに)族)は第三の海人。

55 :
 中学の頃、歴史の時間に昔話を聞いた。おおおとこが大麻山と高城山をまたぎ糞をした。
 「大糞山」の位置=大麻山と漁山と高城山でどこからでも2つの山が見えるから、その間のやま=「大糞山」・・・・と人麻呂が話してまわつた。
名付けたのは、学者の行基。玄武岩の山で、よく肥えた土地。動物の糞は肥料として使えることを8世紀初めに知る人。表示出来る人はこの人しかいない。
それなのに浜田市は「野山岳」と変更している。
「那賀郡史」大島幾太郎 昭和15年1940完成とある地図にも「大糞山」とある。
地質学の先生の本で「−石見・畳ヶ浦と黄長石霞石―」桑田龍三 昭和63年1988下記に・「この山だけが玄武岩でできている。この辺の他の山はほとんど花崗岩。
・・・玄武岩の大きな露頭がみられる。ここと他に3ヶ所・萩の明神池・出雲の大根島・浜田の長浜台地が霞石(玄武岩)である」。という事は、物部族はすべてを知っている。
大根島の「土」をひと握り持たせ探させ、入埴している。1300年前・地図ない。紙ない。字しらない。物事しらない。驚きだ!

〇花崗岩・かこうがん・・・たたら製鉄の材料。

56 :
人麻呂伝承。「江津市の歴史」編著 山本熊太郎1970 P3〜6
狭姫とオカミの会話
オカミ 「我は国つ神大山祇巨人(おおやまぎおおひと)の子、雲を呼び霧を立て雨を降せるから諸人は我をおかみと申す。
我はここに千代(ちよ)、出雲に八千代(やちよ)住み、”万代(よろずよ)は海神の国、終わりには天つ国”に行くものだ。
この山は大山といい我が父大山祇巨人の休み場である。
父はこの大山に腰かけてあの須津の海で足をすすぐ時、爪先の土を投げたのがあの大島で、脛(すね)についた土を投げたのがあの高島である。
父はまたこの山に腰かけながらおならをしたからこの大穴をあけた。
穴の底の岩根からは水を潜って”海神の国”、地を通っては根の国、底の国に抜けると出雲の国へ出る。
今見える東の涯(がい)煙立つ山(*三瓶山)がそれである」
 上記中 ”万代・・・・・終わりには天つ国” = 7世紀末に終 焉した鬼刀禰族の東表国
= 古田説・九州王朝の終焉。
 穴の底・・・・”海神の国”・・・・・= 人麻呂や僧侶・行基の第三の海人 = 和邇族。

57 :
日本の最古の地図が行基図と言われ、現存しないが、江戸時代まで使われたという。
 地図ができたのが、8世紀前半、1000年使われたことになる。
人麻呂と試行錯誤した、地名が、たくさん入っていたことでしょう。
 キーワードの1つ、「唐音の蛇岩」・・・本人は「トウオンノジャイワ」しかし、1300年後の人々は、「からおと の じゃいわ」となってしまった。
 島根半島の「菅浦・すげうら」の海上に浮かぶ島。「鬼島」と「大黒島」は、「オニジマ」と「ダイコクジマ」が、「おにじま」と「おおぐしま」となってしまった。
 山名が完全に変えられているのが、「大神山・おおやま」と「大糞山」は、「大麻山・たいまさん」と「野山岳・のやまだけ」。
 読みが同じで、字が変わったもの。「神山・こうやま」から、「高山・こうやま」、「大神山・おおやま」から「大山・おおやま」。「鷹島・たかしま」から「高島・たかしま」。
 読み間違いや勘違い「戈千・ホコチ」から「千丈・せんじょう」
位置
「唐音の蛇岩」益田市西平原町
「大山」浜田市三隅町岡見と益田市土田町の境。源田山の南で、茶臼山の西。
「菅浦」松江市美保関町菅浦 菅浦湾沖に「鬼島」「大黒島」がある。兎の上陸地点。
「大麻山」浜田市三隅町室谷 JR西日本・折居駅より東へみえる。おおやま。
「(大糞山)野山岳」浜田市三隅町井野 「大麻山」「漁山・いさりやま」「高城山」を線でむすび垂直に線を引いた底のやま。
「漁山」浜田市弥栄町、「高城山」浜田市三隅町
「千丈渓・せんじょうけい」島根県邑南町〜江津市桜江町に位置する渓谷。
「高山・こうやま」山口県萩市須佐町。

58 :
 島根県浜田市三隅町湊浦の田ノ浦海岸B&Bのそばに鰐島(わにじま)が、存在する。
1300年前より。百済からの渡来人和邇族がすんでいた証しである。
わに島は、大きなクジラの形をしたもの。
近くには、三隅川がながれ、川上の沢元に大神山(おおやま)があり、たたら製鉄の民、鬼刀禰(おにとね)族がすんでいた。
その後麓に、小野族が入植し、河内の物部族、阿波忌部族が入り、互いに争った。しかし、たたらの民は、浜田市周布の地へ。
人麻呂は少年期にここに住み。わに島のことを知っていた。ここで、考えてみよう。隠岐の島から背に乗り本土に渡るのに、何を選ぶか。
サメ、クジラ、南方のワニの3択なら、クジラに決まっているではないか。
古事記の稲羽の兎の作者は人麻呂とわかる。現存しないが、見えてきた行基図。
上陸点の松江市美保関町菅浦(すげうら)の鬼(おに)島、大黒(おおぐ)島。不比等は、古事記の書に介在した。

59 :
私が通う道場の、岡田道場長に聞いたことがある。
出雲大社(いずもおおやしろ)のご神体様は、海蛇様だそうだ。正月始めに暖流と寒流の混ざり合う潮目が大社沖だそうで、暖流に乗って来た。
海蛇様が失神するか、死んでしまい、大社の浜に打ち上げられ、神主におおさめするそうな。
大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山が神体山なそうな。
主祭神は二社ともに大物主大神(おおものぬしのおおかみ)=大国主命(おおくにぬしのみこと)=大黒天(だいこくてん)だそうだ。
否定はしないが、14世紀頃室町時代からのことだろう。やはり、二社とも、古神道(原始神道)であったとおもう。
出雲大社は、石見のむかし話・伝承の大山祇・大山積見神と思う。
大神神社は、昆刀比羅神では、なかったか。大神山(おおやま)現在の大麻山(たいまさん)の麓に住んでおられた、故人の三浦尚(ひさし)氏の談が残っている。
「昆刀比羅とは、インドの方で、ワニということ」である。
また、大黒天はインドで攻撃の神や、台所の神様だそうな。

60 :
古事記の稲羽の兎の研究家で、江戸時代の新井白石や明治の島根の森?外は、田ノ浦海岸のわに島は知らなかったのであろう。
しかし、人麻呂の研究家で、江戸・明治時代の浜田の藤井宗雄や明治・益田の矢富熊一郎は、わに島を知り、尚且つ古事記・稲羽の兎が人麻呂の作と知っていたに違いない。

61 :
私が思うに、不比等=スサニオで古墳の文字消しに対しての恩賞と新日本国の忠誠として神社建立させたものと思っていた。
出雲の物部・大山祇 大津見神に対抗するものと思っていた。
また自分でも春日神を建て中央集権の実権を握ったとみました。
しかし、古墳の数は、現在107、戦国時代に破壊されたか。
このキーワードが、韓国、Ulleung島、の石州瓦にあるとみました。

62 :
兵庫県のスサノウを祀る神社数は663社。
兵庫県の古墳数107。
61.スレ補足。

63 :
コベントリーのゴダイバ(ゴディバ)

64 :
不比等=スサノウ=ヤマトタケル=古事記、日本書記の編纂責任者であれば、古墳の文字消し、豪族抑え込み。
物部・大山祇大山積見神社勢力の弱体化。
東海、関東及び以北の東北では、61・62のスレが成立する。
また、古墳の数から、当時の関東の中心が、群馬県とわかる。

65 :
 物部族実力。稲羽の素兎で無血で倒されるまでの話。
人麻呂のうわさ話や伝承。
西の高野山、大神山・おおやま(現在の大麻山・たいまさん)山頂より光通信を確認。
夜、島根県西部の山々に火を燈している。
海沿いに江津・浅利富士、浜田・大麻山、浜田と益田の境・大山、益田・権現山、山口県萩・高山。
沿岸より奥では、大田・大江高山、赤雁山、狭姫山、邑南・冠山、浜田と広島県北広島の境・丸瀬山、津和野・青野山。
唐と貿易するのに、夜の海の燈台がわり。
また、たたらの大穴・中山鈩跡、大山の麓、現在の岡見小学校に真北向きで海がしける前に吹く風で音がなる。
音が鳴った時は、晴れていても、海岸線の山に火を燈さない。
完全に気象まで、支配していた。
参考、鈩跡の調査報告書が、松江・島根県立図書館資料室にあるが、方位尺で測定しているが、真北ではない。
地球の磁極が、シベリアにあることから、鬼刀禰の人は、北極星や星座で真北を割り出している。
やはり、「鉄は赤土から採る」ソロモン王の言葉。
また、ヒッタイト人やフェニキア人も同じ。
鬼刀禰族は、メソポタニア最初の王国を倒した民につづいている。

66 :
あの石堂の婆がISISの人質の首に日本での「人工地震」や「人工津波」
「人工津波による原発破壊」「1つ目ゴジラによる放射能汚染」の願掛けを行ったわけか
わかった
ヘリテージ財団の石原慎太郎氏から、ISISの2人人質の首をかけて、人質後藤氏の母を名乗る
テンプル騎士団系メガネの石堂順子なる朝鮮人秘密結社会員が日本に「人工地震」「人工津波」
「人工津波による原発破壊」「ゴジラ1つ目放射能汚染」カードによる願掛けを行い、
日本を攻撃することがわかりましたのでお知らせいたします
作家の三島由紀夫フランス大東社マンソン会員が1970年代の在日朝鮮人左翼共産党社会主義者など
による日本の自由社会への攻撃を「楯の会」という幾分時代錯誤な右翼的秘密結社をつくり
三島由紀夫氏の首をかけて日本の学生運動の鎮圧消滅を願い切腹斬首で亡くなりました
それと同じことを反日朝鮮人の石堂順子という自称人質後藤氏の母親を名乗る女がやろうとしてます
この日本への攻撃をただちに阻止してください
初めからISISのメンバーの後藤氏は助かり(処刑されたふりをして逃がされ)民間軍事会社の
湯川氏だけが生贄に処刑されるという手はずになっているのかもしれませんし、
実際には家族ではなく赤の他人が集まった北朝鮮工作員家族の後藤氏を自称母親の石堂氏が裏切るのかもしれません
こういう反日朝鮮人後藤氏一家と石堂一家の日本への呪いは石堂一家と後藤一家に跳ね返るでしょう

67 :
マルスMars

 ローマにおける軍神で、ギリシアのアレスに相当する。ユノがフローラから与えられた奇跡の薬草を使って一人で産んだ息子。
英語読みだと「マース」。マルスの祭礼は3月と5月に行われ、マーチ(March=3月)は彼の名にちなんだもの。
3月には神官団サリィが戦争の踊りを舞い、祭礼の歌を歌うが、5月のアムバルウォリア祭では12名の神官団アルウァレスが古歌を歌い、マルスに畑地を守るように請う。
これはマルスが本来農耕神であったことに由来している。
ユピテル、クイリヌスとともに大フラメン(神官団)の祭祀を受け、元来は三大主神格の一つであったと思われる。
 ローマ人にとってマルスは自分たちの祖先である。ヴェスタ女神に仕える巫女レア・シルウィアがマルスと交わって生まれたのが伝説中のローマの祖であるレムスとロムルスだからだ。
この時この双子の赤子を助けた狼とキツツキ(ピクス)はともにマルスの聖獣である。
第2代皇帝ヌマ・ポムピリウスの治世の頃、空から落ちてきたローマの命運を象徴する聖なる盾は、11個の複製とともにマルス神殿につるされ、これを神官団サリィが守っていた。

http://dic.pixiv.net/a/%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-1000%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9D-

68 :
トリスタンとイソルデ

<フランスへ>

トリスタンが物心ついた頃、既に母は亡くなっていた。父王は可愛がってくれたが、継母はトリスタン暗殺を企てていた。危険を察知した侍従のグヴァネイルは、トリスタンを連れてフランス王の宮廷に逃れた。

フランス王によって大切に養育され、トリスタンは立派な若者に成長した。しかし、トリスタンに恋し、拒絶された王女ベリンダによって、彼はフランスを追われてしまう。その後、ベリンダは悲しみと後悔の中でその短い生涯を終えた。

<コーンウォルへ>

その頃、母国ライオネスでは父王が亡くなり、継母が国を治めていた。帰国することに不安を感じたトリスタンは、生母の兄マークが治めるコーンウォルへ行った。マーク王は甥を歓迎した。

ある日、アイルランド王からの法外な要求を持って、騎士モーロントがやって来た。断るためにはモーロントと決闘し、勝たなければならない。
トリスタンが進み出た。

激しく槍を突き合い、剣で打ち合った。そして、深手を負いながらも放ったトリスタンの剣が相手の兜を打ち破った。
剣の先が折れてモーロントの頭に突き刺さり、瀕死のモーロントは、アイルランドに帰るとまもなく生き絶えた。

<トリスタンとイソルデ〜出会い>

モーロントの槍には毒が塗ってあったため、トリスタンの傷はなかなか癒えなかった。治療法を求めて、トリスタンはイングランドへ渡ることにした。
海が荒れ、何日も漂流した挙句、辿り着いたのはアイルランドだった。

近くの城に入り、そこがアイルランド王の宮廷であることを知ったトリスタンは、偽名を使うことにした。トリスタンは王妃の薬湯のおかげで徐々に健康を取り戻した。
音楽と詩に才のあることを認められ、王女イソルデの教師をすることになった。トリスタンは美しく聡明なイソルデに好意を持ち始めていた。そしてイソルデも、優しく物静かなトリスタンに惹かれていった。

まもなく城で試合が開催され、大勢の騎士達が各地から参加した。傷の癒えたトリスタンも出場し、卓抜した強さで優勝した。
しかし、モーロントとの闘いの傷が開き、危険な状態に陥ってしまった。イソルデは献身的に看護し、トリスタンは少しずつ回復していった。

http://achtelnote.dip.jp:8080/

69 :
<トリスタン〜仇と発覚する>

ある日、一人の侍女がトリスタンの剣の先が欠けていることに気づいた。
そして、その欠けた形が亡くなったモーロントの頭蓋骨に刺さっていた刃先と合うように思えた。
侍女は、モーロントの姉である王妃に自分の考えを話した。王妃は弟の遺品から刃先を取り出し、トリスタンの剣の欠けた場所に合わせてみた。
ぴったり合った剣によって、トリスタンが弟の仇であることがわかった。

 王妃は王に弟の復讐を願ったが、トリスタンの優れた気質を認めていた王は、トリスタンをアイルランドから追放することにし、二度とアイルランドに来てはならないと告げた。

コーンウォルに戻ったトリスタンは、日を追う毎にイソルデへの気持ちが募っていった。
そして、アイルランドでの出来事を聞きたがるマーク王に、イソルデの美しさ、愛らしさ、聡明さを話してしまった。
マーク王は普段は物静かで遠慮深いトリスタンが情熱的に語ることに驚き、甥の心をここまで捉えたイソルデに興味を持った。
そして、見たこともないイソルデにすっかり夢中になってしまった。

<トリスタンの誓い>

ある日、マーク王はトリスタンを呼び、これから頼むことを拒絶しないと誓ってほしいと告げた。
トリスタンは大恩ある叔父に誓いを立てた。
マーク王は、「これからアイルランドへ行って、王女イソルデをコーンウォルの王妃として連れて来てくれ。」と命じた。

アイルランド王から、二度とアイルランドに足を踏み入れないように言われているということは、入国したら殺されても仕方がないことを意味する。
それでも誓いを守るため、トリスタンはアイルランドへ向かうため出航した。ところが暴風雨によって、今度はイングランドに漂着してしまった。
トリスタンは無名の騎士としていくつかの試合に出場して優勝した。

http://senki.kusakage.com/setume/monsu-no.htm

70 :
<アイルランド王の誓い>

ある日、アーサー王の宮廷にアイルランド王がやって来た。
彼はアーサーを裏切ったという嫌疑を晴らすために、K者である円卓の騎士ブラアノーと決闘することになっていた。
彼は円卓の騎士の中でも最も獰猛で知られた人物であった。年老いて体力も劣るアイルランド王は、自分の代わりに闘ってくれる騎士を探していた。

 無名の騎士の噂を耳にしたアイルランド王は、トリスタンのもとを訪れ、自分の潔白を証明するために闘ってくれるよう頼んだ。
トリスタンは、「私はトリスタンです。私が勝利したときは何でも願いを叶えると誓っていただけますか?」と聞いた。アイルランド王は誓いを立てた。
トリスタンはブラアノーと闘い、見事彼を倒した。

 嫌疑が晴れたアイルランド王と共に、トリスタンは再びアイルランドを訪れた。弟の復讐を願っていた王妃も、「王を救ってくれた貴方には感謝の気持ちしかありません。弟の恨みは忘れました。」と言い、トリスタンを歓迎した。
トリスタンと父の約束を知ったイソルデは、期待と喜びにあふれていた。しかし、トリスタンの口から出た言葉は、あまりに残酷なものであった。
アイルランド王はトリスタンの願いを聞き入れ、イソルデはコーンウォル王妃となるため、出立した。

<マーク王の誓い>

コーンウォルでは盛大な結婚式が執り行なわれ、若く美しい王妃に老王マークは満足していた。
城下に珍しい竪琴を持った吟遊詩人が現れ、マーク王はさっそく宮廷に呼び寄せて竪琴を所望した。吟遊詩人は、「何でも願いを叶えると誓って頂ければ・・・。」と答えた。
てっきり褒美のことだと思い込んだマーク王は、吟遊詩人に誓いを立てた。

 吟遊詩人は短い詩を口ずさみながら竪琴を奏で、イソルデを望んだ。誓いを立てた以上、イソルデが連れ去られることを黙認するしかなかった。

トリスタンが宮廷に戻ったとき、既にイソルデは連れ去られた後だった。
トリスタンは後を追い、イソルデを奪い返した。
マーク王はトリスタンへの感謝の気持ちを示したが、内心では若く凛々しい甥トリスタンへの嫉妬と疑惑が芽生え始めていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88#.E3.82.AC.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.AC.E3.82.A2.E9.96.A2.E9.80.A3

71 :
<トリスタン、追放される>

ある日、トリスタンとイソルデが部屋で抱き合っている様子をマーク王に見られてしまった。
トリスタンは国を追放され、イソルデは河岸の塔に幽閉された。

<イソルデとの再会>

 追放されたトリスタンは、諸国を旅しながら各地で武勲を立て、名声を手にしていた。
一方コーンウォルは敵の侵略を受けていた。困り果てたマーク王はトリスタンに助けを求めた。
トリスタンは叔父の軍勢の先頭に立って闘い、敵を追い払った。トリスタンの命がけの戦いに怒りが解けたマーク王は、再びトリスタンを宮廷に迎えた。
イソルデは既に幽閉から解かれており、愛し合う二人は時折会うことが出来るようになった。

<フェレディンの恋>

マーク王の宮廷を訪れたトリスタンの友人フェレディンは、一目でイソルデに恋してしまった。
しかし、イソルデとトリスタンが愛し合っていることを知り、自分の想いを表に出すことは無かった。

 辛く苦しい日々を過ごすフェレディンの健康はだんだん蝕まれていった。
やせ衰え、死期が近いと感じたフェレディンは、イソルデに自分の想いを込めた手紙を送った。
同情したイソルデは、フェレディンを勇気付けるために思いやりのこもった返事を書いた。
そしてイソルデの手紙に励まされたフェレディンは、生きる気力を取り戻し、徐々に快方に向かった。

そんなある日、フェレディンの元を訪れたトリスタンは、イソルデからの手紙を見つけた。
嫉妬に苛まれたトリスタンは、宮廷を出て森に姿を消してしまった。
イソルデは自分の手紙が原因でトリスタンがいなくなってしまったことを知り、もう一度フェレディンに手紙を送った。
それは、「貴方の想いに答えることは出来ません。どうか何処かへ立ち去ってください。」というものだった。

http://purisoku.com/archives/6839062.html

72 :
<トリスタン、再び追放される>

 森に入ったトリスタンは、叶わぬ恋と友に裏切られた悲しみとで苦しんでいた。
なんとか生きてはいたが、すっかりやつれて面変わりしてしまった。
ある日、近くに住む百姓たちから大事な家畜を奪っていた強盗を倒した。
トリスタンに感謝した百姓たちは、正当な評価と褒美を受けられるよう、彼をマーク王の所に連れて行った。

 目の前の薄汚れた男がトリスタンだと気づかないマーク王は、彼に感謝し王妃イソルデと侍女達に命じて、良い待遇を与えることを命じた。
みるみるうちに健康と体調を取り戻したトリスタンは、以前より美しくたくましくなっていった。男がトリスタンだったとわかったマーク王は、何度も窮地を救われてきたことも忘れて、再びトリスタンを追放した。

<トリスタン〜アーサー王との出会い>

イングランドにやって来たトリスタンはある森に入った。その頃、アーサー王は妖妃モルガン・ル・フェの魔術の力でさらわれ、行方不明だった
。王の捜索のため、森の中には円卓の騎士達がつめかけていた。

トリスタンと最初に出会ったのは、騎士ケイ達だった。ケイはトリスタンに何処から来たのかを尋ねた。
トリスタンが臆病者で知られるコーンウォルの騎士であることを知ると、ケイ達は彼を嘲笑した。温厚なトリスタンは、ケイ達の思い違いを正すために彼らと闘う愚を避け、そのまま放っておいた。

 翌日、ケイ達はトリスタンを待ち伏せていた。勝負を申し込み、トリスタンが狼狽する様子を見て笑おうと考えたのだった。
仕方なく槍を取ったトリスタンに彼らはことごとく倒され、自分達の思い違いを反省させられることになった。

トリスタンが先へ進むと、一人の騎士が三人に襲われていた。トリスタンは次々に三人の騎士を倒し、組み敷かれていた騎士を助け起こした。
その威厳のある風貌にこの騎士こそアーサー王に違いないと直感した。アーサーはトリスタンに、宮廷に招待してふさわしい名誉と待遇を与えたいと言ったが、
トリスタンはそれらのすべてを断り、王を安全な場所まで送り届け、再び旅を続けた。愛するイソルデと別れている苦しみを忘れるため、トリスタンは各地で弱者を助け、不正をただし続けた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/XXXHOLiC

73 :
<トリスタン、アーサー王の試合に出場>

 追放されたトリスタンの身を案じ、イソルデは一人の侍女にトリスタンへの手紙を託して旅立たせた。
忠実な侍女は、ある泉のほとりでトリスタンの愛馬を見つけた。
そばでは憔悴しきった面持ちのトリスタンが眠っていた。
目を覚ましたトリスタンにイソルデからの手紙を手渡すと、みるみるうちにトリスタンの顔色は明るくなった。

 誰にも憚ることなくイソルデへの想いを話し、イソルデのことを聞き、久しぶりに幸福に満たされたトリスタンだった。
侍女はトリスタンに言われ、近く開催されるアーサー王の試合まで帰国を延ばすことになった。

 試合当日、トリスタンの強さはずば抜けていて、その闘いぶりに尊敬の念を抱いたランスロットは、トリスタンとその日の名誉を争うことはしまいと決めた。
一番の勝利者に祝福を与えようとしたアーサー王だったが、トリスタンは愛するイソルデの侍女の前で勝利できたことに満足し、早々に試合場から姿を消していた。

<トリスタン、円卓の騎士となる>

 騎士達が勝利した騎士の行方を捜している頃、トリスタンは常に忠実な侍従グヴァネイルの元で傷の手当てを受けていた。
宮廷からの使者にトリスタンの素性を尋ねられたグヴァネイルは、コーンウォルのマーク王の甥、ライオネスのトリスタンであることを打ち明けた。

トリスタンを高く評価していたアーサーは、マーク王が不当に彼を追放したことも知っていたので、トリスタンに宮廷に止まることを薦めた。
宮廷に到着すると、トリスタンは王妃ギニヴィア、貴婦人達、大勢の騎士達の歓迎の言葉で迎えられた。

アーサー王はトリスタンを円卓に導いた。
それは、トリスタンとの決闘の末に亡くなった、騎士モーロントの席だった。
トリスタンが席に着くと、心地よい音楽と香りの中、モーロントの名が消えて、トリスタンの名が光り輝きながら浮き出してきた。
トリスタンは騎士の中の騎士、最も尊敬される円卓の騎士となり、盛大な祝宴が催された。

http://www.pep.ne.jp/tips/horitu/

74 :
<マーク王の計略>

その頃、コーンウォルのマーク王は、王妃イソルデを見るたびに激しい嫉妬に苛まれていた。そして、とうとう自らの手でトリスタンをRことを計画した。
幼い頃からの忠実な騎士二人を連れて行くのはいいとして、イソルデを残して行くのも気がかりだったため、彼女とその侍女達も連れて行くことにした。

アーサー王の宮廷があるキャメロットまで近づいたとき、マーク王は二人の騎士に計略を打ち明けた。彼らは断固反対し、アーサー王にマーク王の計略をKすると言って、彼の元から去って行ってしまった。
マーク王はアーサー王に弁明しなければならなくなった。
しかたなくイソルデと侍女達を近くの僧院に預け、一人でキャメロットへ向かった。

しばらく進むと、前にアーサー王の騎士達が見えた。彼らは習慣として、見知らぬ騎士に出会ったときは勝負を挑み、力量を確かめることになっていた。隠れるには距離が近すぎた。
彼らはマーク王を見つけ、その武具によって臆病者で知られるコーンウォルの騎士であることを知った。彼らはマーク王をからかうことに決め、彼ら一行の中に道化が一人いたので、彼に騎士の武具を付けさせておいた。

騎士達から勝負を申し込まれたマーク王は、彼らの中から闘う相手を選ばなければならない。ふと見ると、小柄で貧弱な体つきの騎士がいた。
迷わず彼を選んだマーク王だったが、「我こそは湖の騎士ランスロット!」という声と共に勢い良く馬を走らせて来るのを見て、慌てふためいて逃げ去った。騎士達の爆笑を背に浴びながら・・・・。



http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88

75 :
 300年前の日本人。
江戸の人(現在の東京)であるが、60歳で大森代官・石見、備後、備中の三国にある幕府直轄天領の最高責任者。井戸平左衛門正明(いどへいざいもんまさあきら)1672〜1731。
将軍は吉宗で、享保の飢饉に私財や自身の命を引換に大森銀山領22万の民の救済・支援で一人の餓死者もださなかった。
また、甘藷(かんしょ)・サツマイモの普及に努めた人。
中国地方の民の恩人。
大田市大森に井戸神社が鎮座する。
石見の大田市、江津市、浜田市。
備後の三次市を中心に碑が何十と現存する。
イスラム国と名乗る、盗賊集団に翻訳して聞かせたいものだ。
アルラジージャの記者の方、どうかな?

76 :
<トリスタンとイソルデ〜運命の再会>

イソルデは僧院の側の森で、自分の悲しい恋を綴った詩を口ずさみ、竪琴を奏でていた。
その声を聞いていたのは、悪辣な騎士ブリューズだった。
彼はイソルデに襲いかかり、失神した彼女を連れ去った。
そしていったん彼女を地面に横たえ、離れた場所に繋いである馬を取りに行った。

イソルデを探しに来た侍女は、倒れているイソルデを見つけて悲鳴をあげた。
それを聞きつけ、一人の騎士がやって来た。しかし事情を聞く間もなくブリューズが戻ってきて、雄叫びをあげながら襲いかかって来た。騎士は槍の一突きでブリューズを馬から落とした。
落馬したブリューズはその場から逃げ去った。

 騎士は倒れている婦人に近づいて、顔を覆い隠していた見事な金髪を退けた。その顔を見た途端、騎士は気絶してしまった。
びっくりした侍女は、まず主人であるイソルデを起こし、その後倒れている騎士を介抱するため、二人がかりでその兜を外した。
兜の下から現れた顔は愛するトリスタンだった。イソルデは涙を止めることが出来なかった。まもなくトリスタンは気がつき、愛しいイソルデの腕に抱かれている幸せに酔いしれた。

 円卓の騎士となった者は、その後十日間、試練の旅に出なければならなかった。
他の円卓の騎士達は変装して彼に勝負を挑み、その力量を試すことになっていた。
トリスタンは既に七日間の試練の旅を過ごしていて、何人かの円卓の騎士と闘っていた。
残りの三日間をイソルデのいる僧院の近くで過ごした後、イソルデと侍女達を伴ない、アーサー王の宮廷を目指した。
竪琴を奏で詩を口ずさみながらの短い旅は、彼らにとって生涯で最も幸福で光輝いた時間でもあった。


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77 :
<白い手のイソルデ>

 騎士ガウェインがブリタニーから戻り、マーリンの姿無き声を聞いたことを報告した。
「聖杯」に関する情報も公表され、「聖杯」によってあらゆる罪が赦されることを知っていたトリスタンは、「聖杯」捜索の旅に出ることにした。

トリスタンがブリタニーに着いた頃、王は謀反を起こした臣下達と戦っている最中だった。
王の側はかなりの劣勢で、トリスタンは王に助勢を申し出て勇敢に戦った。
彼の勇姿に覇気が高まった王の軍勢は、謀反を制圧することに成功した。
感謝した王は、清楚な美貌と教養あふれる王女イソルデを、トリスタンの妻として与えようと申し出た。
(ブリタニーの王女イソルデは、非常に美しい手の持ち主で、コーンウォルの王妃イソルデと区別するため、白い手のイソルデと呼ばれている)

トリスタンは迷った。彼が愛する人はコーンウォル王妃イソルデである。
しかし、彼女は叔父マーク王の妃であり、彼の愛が成就する望みは無かった。
いつまでも辛く悲しい日々が続くのだ。更に、「聖杯」探索のためには、自身の生活を純潔なものにしなければならない。
いろいろなことを考え合わせると、白い手のイソルデと結婚することにより、「聖杯」捜索に打ち込めることになる。トリスタンは白い手のイソルデと結婚した。

<トリスタン、瀕死の重傷となる>

しばらくの間、トリスタンは平和で幸福な日々を過ごした。ところが、沈静化していた内戦が再び激化し、トリスタンは常に先頭に立って戦った。
敵の投石を受けて大怪我を負ったトリスタンを、医療の心得のある白い手のイソルデは献身的に看護した。
徐々にトリスタンの心にも白い手のイソルデへの愛情が芽生え始めていた。
一時は回復の兆しを見せていたトリスタンだったが、日に日に容態は悪化していった。



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78 :
もはやなすすべも無く、人々が途方にくれる中、常に忠実な侍従グヴァネイルがトリスタンにささやいた。
「絶望とされたトリスタン様の怪我を、コーンウォル王妃が治してくださいました。」
 トリスタンは枕元に妻を呼び、前に自分をに治療してくれたコーンウォル王妃に使者を送り、ブリタニーに来てもらうよう話した。

 白い手のイソルデは、航海に優れた忠実な臣下を使者として送ることにした。
トリスタンはその臣下を呼び、指輪を託して言った。「この指輪をコーンウォル王妃に届けよ。
そして、瀕死のトリスタンが救いを求めていることを話せ。もし王妃が一緒に来てくれたなら船には白い帆を、拒絶されたなら黒い帆をあげてくれ。」

 運良くコーンウォル王マークが留守をしていたため、王妃イソルデはすぐにブリタニーへ行くことを同意した。
臣下はイソルデを伴ない、真っ白い帆をあげてブリタニーに向かった。

<トリスタンの最期>

トリスタンは王妃イソルデの到着を待ちわびていた。
様態がますます悪化してきたトリスタンは、侍女の一人に 「コーンウォルの方角に見張りを立て、船の帆の色を知らせよ。」と言いつけた。

白い手のイソルデもまた、愛する夫を治療してくれるという人の到着を待っていた。
当初は王妃イソルデとトリスタンの過去を知らなかったが、次第にいろいろな事が耳に入ってきた。
彼女は美しいイソルデと夫が再び出会うことが不安になってきた。
夫との静かで幸せな日々を奪われるのではないかと疑い始めていた
。そして、彼女に出来る治療なら自分にも出来るはずと考え、王妃イソルデの到着を夫に隠すことに決めた。

 真っ白い帆をあげた船が見え、侍女は白い手のイソルデに言われたとおりのことをトリスタンに告げた。「黒い帆の船が見えました。」
絶望したトリスタンは、「愛する人よ。私達はもう二度と会うことはない。」と言い、息を引き取った。

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79 :
 「八咫烏」とは、人麻呂の「鬼刀禰(おにとね)」への誹謗中傷。
古事記、日本書記作成に関与している。[禰]の字を書きたくないだけのこと。
メソポタミアの最初の 王朝を倒した歴史をしらない。銅剣より強力な鉄剣や鎌の作成。
星座の観測と航海術。日本語の50音のしくみ。
 年がら年じゅう炭を 扱っているので、顔も手足も衣も真っ黒。身丈も150前後。
種族長の指示や返事が「かぁかぁ」と聞こえたのであろう。3本足というのは[鬼]の足部分。
当時(壬申の乱まで)、移動 手段は舟のみ。
わかったこと、スサノウ=ヤマトタケル=神武=不比等。仕事とは、植樹と古墳の文字消し。
鬼刀禰の国=根の国・周布河口の津摩(つま)の港より江川を上り芦田川を下り、瀬戸内海へ。
熊野川を上り仕事をした。
この仕事の積み重ね(東海、関東、東北)と出雲の一大率を無血鎮圧した時、不比等に絶対権力が転がる。
 「禰」の意味は、はじまり。
神様がヒトの種のはじまりとして名づけた。「鬼刀禰」=スーパー原人=同一種の石見原人。
「やたがらす」とは神様と鬼刀禰に申し訳ない。

80 :
「八咫烏」とは、人麻呂の「鬼刀禰(おにとね)」への誹謗中傷。
人麻呂は、古事記、日本書記作成に関与している。
[禰]の字を書きたくないだけのこと。メソポタミアの最初の 王朝を倒した歴史をしらない。
銅剣より強力な鉄剣や鎌の作成。星座の観測と航海術。日本語の50音のしくみ。
 年がら年じゅう炭を 扱っているので、顔も手足も衣も真っ黒。身丈も150前後。
種族長の指示や返事が「かぁかぁ」と聞こえたのであろう。3本足というのは[鬼]の足部分。
当時(壬申の乱まで)、移動 手段は舟のみ。
わかったこと、スサノウ=ヤマトタケル=神武=不比等。
仕事とは、植樹と古墳の文字消し。
鬼刀禰の国=根の国・周布河口の津摩(つま)の港より江川を上り芦田川を下り、
瀬戸内海へ熊野川を上り仕事をした。
この仕事の積み重ね(東海、関東、東北)と出雲の一大率を無血鎮圧した時、
不比等に絶対権力が転がる。
「禰」の意味は、はじまり。
神様がヒトの種のはじまりとして名づけた。
「鬼刀禰」=スーパー原人=同一種の石見原人。
「やたがらす」とは神様と鬼刀禰に申し訳ない。

81 :
魔術師マーリン
マーリンの母親は人間だが、父親は夢魔だった。
その生まれによるものか、幼少の頃から不思議な力を持っていた。
成長してからはユーサー王の相談役となり、魔法や予言によって何度も国の窮地を救った。


<マーリン、円卓を作る>

ユーサー王の歿後、息子アーサーの相談役になっていたマーリンは、ある日魔法の円卓を作った。
座席の数は十三で、そのうちの十二席には、それぞれ座るにふさわしい騎士の名前が、魔法の力で浮き出ていた。

十三番目の席は「不吉の席」とされ、誰も座ることが出来なかった。以前に座ろうとしたものがいたが、いきなり大穴が現れ、彼は吸い込まれてしまった。
(十三という数字は、キリスト教だけでなく北欧の神話やトルコの民族伝承においても不吉とされている)

十二の席の騎士が誰か亡くなったとしても、その席にふさわしい名誉・力量・武勲に優れた騎士が現れるまで、誰もその席に座ることは出来なかった。
ふさわしくない者が座ろうとすると、見えない力で床や壁に叩きつけられ、大怪我をさせられた。

<消えたマーリン>

アーサーが王妃ギニヴィアを迎えてから数年後、突然マーリンは姿を消した。

当時マーリンは、湖の妖精ヴィヴィアンと愛し合っていた。ある日、ヴィヴィアンはマーリンに言った。「貴方の魔法で美しい城を作って、一緒に暮らしたいわ。」
マーリンが彼女の望みを叶えようとすると、ヴィヴィアンは言った。「やり方を教えてくださったら、私が作ります。その方が私の好みの城を作れますもの。」

マーリンはやり方を教え、ヴィヴィアンは大喜びでそれらを書き止めた。
マーリンに対するヴィヴィアンの愛はますます深くなったようで、二人は幸せな時を過ごした。

しばらくして、二人は花の咲き乱れた森を歩いていた。白薔薇の側に腰を下ろし、マーリンはヴィヴィアンの膝に頭を乗せ眠ってしまった。
目覚めたとき、マーリンは自分がヴィヴィアンの作った魔法の塔に囚われていることを知った。
ヴィヴィアンは、「ときどき戻って来ますわ。」と言い残して、塔を出て行ってしまった。その日以来、マーリンの姿を見た者はいない。

http://ncode.syosetu.com/n6687cj/24/

82 :
正しくて、正しくは無い物語。



  ここに今、もう一つの物語を語ろう。
  長い年月を経て、それでもなお、人の心を惹きつけて止まない、ある一つの物語から生まれた、「もう一つの」物語だ。

  神話も伝承も、それ自体ひとつの世界として解釈すれば、歴史を背景にして見るのとは、違った模様を織りなすだろう。
  どのようにして作られたのか、何のために語られたのか、
  誰によって作られたのか、どんな場所で語られたのか、
  私たちは本当の本当なる真実を、決して知ることは出来ないのだから。

  私は今、この物語を、物語として解釈しよう。
  彼らは13世紀の勇士だった。と同時に、古代北欧の英雄だった。
  4、5世紀、あるいはそれ以前、それ以後の、多くの激動の時代を生きた人間だった。
  竜殺しの英雄だった。半分だけの女神だった。
  栄ある一族の王だった。冷たく暗い復讐を決意する姫君だった。一族随一の剣士だった。
  詩と音楽で人々を和ませながら、戦場に恐怖の赤い旋律を奏でる剣士だった。

  あるひとりの高貴な男に、一人の女による、愛と死の物語があった。
  至高の英雄を愛し、英雄に裏切られ、その英雄とともに燃え尽きた女の伝説は、いつまでも変わることなく生きつづけた。

  ある一族に、一人の女による、悲しくも壮絶なる復讐の物語があった。
  幾度も書き直される物語の中で、復讐されるべき王は、異国の英雄から彼女の兄弟たちへと摩り替っていった。

http://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/onakin/0001.html

83 :
 よくある批判に、「ハゲネはジーフリトを騙し、背後から襲って殺した。だから卑怯者だ」というものがある。
  そのように思って読んだ人は、物語が後半に入り、ハゲネが正々堂々たる武将として描かれるのを読んだ時、奇妙に思ってしまうだろう。
  一体、どちらのハゲネが本来の姿なのか。彼は本当に卑怯者だったのか?
  ジーフリト殺害の背景。まずは、ここから始めたいと思う。

  「そのほかにも私はあの男についていろいろ知っております。
  あの男は、あるとき竜をも退治しました。彼はその血を全身に浴びて、
  そのため肌が不死身の甲羅と化したのです。
  どんな武器も彼を傷つけ得ないことが度々証明されました。」(詩節100)

  …と、「ニーベルンゲンの歌」序盤でハゲネ自身によって語られているとおり、ジーフリトは過去に竜を殺したことがあり、竜の血によって、全身が硬質化し、刃物の通らない体となっている。
  その彼の唯一の弱点が、ハゲネがクリエムヒルトから聞き出し、実際に暗殺に使われた「肩甲骨の間」であった。
  そこは、竜の血を浴びるとき、木から落ちてきた一枚の菩提樹の葉によって隠されていたため、「竜の血を浴びていない」、唯一の生身の部分である。
ハゲネが槍で貫いたのは、まさにそこ、彼の唯一の弱点だった部分であった。


  さて、ここで、問題である。

http://ncode.syosetu.com/n1036cl/

84 :
 当時の武器といったら剣、槍、弓矢。もちろん鉄砲など、便利なものは無い。
  この手もちの武器だけで、背中のド真ん中の一点しか刃物の通らない相手を真正面からRことは、可能だろうか?
     答えはもちろん、"不可能"。

  ハゲネが後ろからジーフリトを襲ったのには、避けて通れない理由があったのだということを理解しておくべきである。
  そもそもジーフリトの体には、背中からしか刃物が通らないのである。従って、Rためには、背後から襲うしかない。
  物語の都合上、またはハゲネ自身が抱く確固たる決意によって、どうしても死ななくてはならないこの人物をRには、ハゲネがとった、一見卑怯とも見える方法しか無かったのだ。
  ハゲネを卑怯と呼ぶのであれば、最初から卑怯な方法でしか倒せないような魔法を身につけたジーフリト自身もまた、卑怯である。
  全編をとおして、魔法で武装している人などジーフリトだけなのだ。
  魔法禁止の世界なのに、前提からして有利に立っているとは、これいかに。

  それでも「正々堂々と戦えよ!」と、仰るかたがおられるかたは、ひとつ、考えてみて欲しい。
  ハゲネは、いくら強くても生身の人間。対してジーフリトは、竜の血を浴びた半神の英雄だ。
  人間は神には勝てない。人間は英雄には勝てない。これは大原則である。たとえば、生身の人間がギリシア神話のヘラクレスと正々堂々戦って倒すのは、物語のお約束と世の中の原則上、不可能だ。
  それだけではない。ジーフリトは、アーティファクトの一種と考えられるニーベルンゲンの剣、バルムンクを手にしているのに対し、ハゲネは、特殊な武器など何も持っていない。装備品にしても相手のほうが格上なのだ。戦ったら、確実に負けることは決まっていた。

  そんな状況で、あなたなら、全身が鎧のように硬く、急所の一点以外は刃物の通らない恐ろしい人間の背後に回って、その急所を襲えるだろうか。
  少しでも狙いを外したら刃物は通らない。しくじったら、振り返ったジーフリトが怒ってあなたをRのだ。
  ヤツが死ぬか、自分が死ぬか。まさに命がけの一撃である。

http://ohmura-study.net/001.html

85 :
 しかもハゲネは、グンテルとともに直前のシーンで武装を解除している。(詩節976)
  殴られたら確実に死に至る肌着一丁の状態で、この一撃必殺の暗殺を成し遂げたのだ。凡人には到底、そんな勇気はもてない。

  もちろん知将と呼ばれたハゲネであれば、勝てないことは、よくわかっているはずだ。
彼は分かっていて突っ込んでいくほど若くなく、無謀でもない。激情家にもかかわらず、第三歌章でジーフリトが理不尽な申し立てをした時でさえ、怒りを押さえて沈黙していたくらいなのだ。
  しかし、それでも彼には「ジーフリトを殺さねばならない理由」があった。
それほどまでに彼を駆り立てた不誠実が、ジーフリトにはあった。
それについては後で述べるとするが、生身の人間でありながら、この半神の英雄に立ち向かったハゲネの勇気と決意は褒められるべきである。




***余談

    シグルド(ジーフリト)は、オーディンの血をひくヴォルスンガ家の者…つまり、神の子孫。
  一部のサガによれば、ハゲネは小人アルプフリーヒの子(つまり半分は妖精族)だとされているが、神の子孫と小人の息子では、ちょっと格差がありすぎる。
ハゲネには、ジーフリトにかなうほどの血筋は無いのである。

  また、「ニーベルンゲンの歌」以降の物語は、キリスト教時代のため、過去の神話や神々が消えたあとに書かれたものであった。
  ジーフリトもハゲネも、過去の伝説を引きずってはいるものの、キリスト教徒である。
キリスト教徒が、異教の神や小人の子孫であるはずはない。従って、ハゲネの「小人の子孫」という部分は後世に削られ、正真正銘、普通の人間として描かれるようになっていた。
かつては持っていたかもしれない、小人の魔力は持ち合わせていない。
  にもかかわらず、ジーフリトだけは、依然として「半神の英雄」としての能力を備えたまま描かれ続けた。
  魔法など認めないキリスト教時代において、ハゲネは正々堂々と魔法の援護を捨てて生身の人間として生きているのに、ジーフリトは、魔法の助けを借りて生きている
。竜の血のおかげで、すっぱだかで戦ったってへいちゃらなのだ。

  本当に卑怯なのは、どっちだったのだろうか。

http://ncode.syosetu.com/n2835cm/

86 :
コベントリーってあまり良い印象が無い地名

87 :
物語の進行上、どうしてもジーフリトに死んでいただかねばならなかった、というのは抜きにして、どうしてハゲネはジーフリトを殺したのか。彼自身が殺意を抱いたのか、それとも他者の殺意を代行しただけなのか?

 これについて、ハゲネがジーフリトへの殺意をはっきりと口にする箇所がある。

 「私たちは私生児を長く飼っておくべきでしょうか、」
 ハゲネが言い返した、「それは立派な武士の名誉ではありません。
 お妃さまの一件を自慢話にしたとあっては、
 あの人の命をもらうか、さもなくば自分で死んでしまいます。」(詩節867)

 このセリフの直前のシーンを見てみよう。
 結婚後、ひさしぶりに帰郷したクリエムヒルトは、プリュンヒルトと、些細なことから口論になり、勢いで、プリュンヒルトとグンテルの初夜にまつわる秘密をバラしてしまう。
 ”グンテルと床をともにすることを拒んだプリュンヒルトを押さえつけ、おとなしくさせた最初の男は、クリエムヒルトの夫・ジーフリトである”と。
 おとなしくなったところを手に入れたのがプリュンヒルトの夫・グンテルなのだから、自分の夫のほうが勇士としてはすぐれているし、プリュンヒルトは自分の夫の妾のようなものではないか。…

http://www29.atwiki.jp/wabu/sp/pages/86.html

88 :
 「ニーベルンゲンの歌」では、ジーフリトはプリュンヒルトを押さえつけただけで、実際に犯したわけではない。
 クリエムヒルトのセリフは、半分は嘘なのだ。そのぶん、まだ救いようはある。
 だが、半分は紛れもない事実であり、知られてはならないグンテルとジーフリトだけの秘密だった。それをバラしてしまった挙句、クリエムヒルトは、その証拠とばかり、初夜の床からジーフリトがこっそり持って来た指輪と帯とを見せるのである。

 大衆の面前でプライドを傷つけられ、辱められたプリュンヒルトは、その場では気丈にふるまうものの、戻ってきて、泣き出してしまう。
 それを知ったハゲネが激怒するのである。

 もういちど、彼のセリフをよく見てもらいたい。

 「お妃さまの一件を自慢話にしたとあっては、
 あの人の命をもらうか、さもなくば自分で死んでしまいます。」

 この、「自分で死んでしまう」とは、一体誰のことか。
 むろんプリュンヒルトである。ハゲネはグンテルの一の家臣として、プリュンヒルトへの求婚旅行にも同行している。彼女の気位の高さは十分に承知の上だ。その彼女が、大衆の面前でどうしようもなくプライドを傷つけられたとあっては、自殺くらいしかねない。

 いや、事実、この「ニーベルンゲンの歌」のもとになった各種のサガ(「エッダ」に収録されている詩歌、ヴォルスンガ・サガ両方ともに)では、自殺している。
 そこでハゲネは、妃が死を決意する前に妃の殺意を代行した。当然ではあるまいか? 主君が苦労の果てにようやく結婚にこぎつけた妃が、男同士の秘密をうっかり妻にバラしてしまうような、口の軽い男に、生か死かの土壇場まで追い詰められているのだから。

 サガとは違って、「ニーベルンゲンの歌」のプリュンヒルトは、死ななかった。それは、この、ハゲネによる自発的な殺害予告によって、彼女の心がいくばくかでも安らいだお陰ではないのか。
 ジーフリト殺害によってハゲネは、彼にとって"より"重要なもの、主君の奥方の命を守れたわけである。

 さらに、ハゲネは言っている。
 「それは立派な武士の名誉ではありません。」
 と。

http://www.nullgiko.net/

89 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族。
ゴールデンルート福山・芦田川〜江川・江津は英雄だけでなく、
大和春日郡・小野族の石見国入植(江津市の川波地区・浜田市三隅町小野地区・
益田市高津〜飯浦町の小野地区)。
阿波・忌部(いんべ)族の浜田・大麻山の入植。
(三重県から和歌山県にかけて)牟婁むろ・物部族の大麻山や室谷への入植。
物では、江津市桜江町の甘南備寺の正門上のつり鐘。「大和国鋳造」とある。
水運は古墳時代〜700年くらい使用。物部族が造ったルートか?
入植場所は「那賀郡史」大島幾太郎著1940の那賀郡全図31と
「津和野史」沖本常吉著1970の第一巻 p40の図12の旧美濃郡小野村。
「邑智郡誌」森脇太一著1937の写真のp(24)。
飛鳥時代「渡り山」で現在「坂本山」の頂上であったが、今は江川沿い道側
にあり、正門のつり鐘は覆いをかぶりみえない。

90 :
  人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。
 山名の変遷。鬼山(おおやま)〜神山・大神山(おおやま)〜双子山〜大麻
山。
もうひとつの おおやま の話。
石見原人の鬼刀禰族は弥生時代に九州より舟で益田・鎌手地区に上陸。石
見西部でたたら製鉄を繰り返し移動していた。前回の鬼山(おおやま)の大
穴(中山鈩跡)は「穴が海に向いていて、海がシケル前の風が吹くと音が鳴
る」地元の民は{雨かんむりに龍とかいたひと文字}おかみと読み水の神
と祀った。文字が変化し「於迦美神女(おかみのかみのむすめ)」となり、
地名の「岡見」ができた。物部族は唐や朝鮮と貿易していたため、話を聞
き山や大穴を占領してしまった。
山名も変化した。鬼山(おおやま)〜神山・大神山(おおやま)〜大山。
益田市立図書館蔵書「石見鎌手郷土史」矢富熊一郎著1966
浜田市立三隅図書館蔵書「岡見村誌」岡見郷土研究会1930 P1,P20 や「那
賀郡史」大島幾太郎著 1940 完成 P748で紹介している。

91 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。こんどは、海部(うみべ)漁人の入植。
越後・物部族ーー>岡見・松原
能登・物部族ーー>岡見・須津
若狭・物部族ーー>岡見・青浦
出雲・物部族ーー>益田市・土田
出雲・物部族ーー>益田市・木部町・大谷
私の母は松原に里があり屋ごうが「佐渡屋」。 1300年の歴史かぁ。
このあと、木部に周防国都濃より紀角族=紀真鳥宿禰族=紀部族が
入植したそうだ。
参考文献 浜田市立三隅図書館蔵書「岡見村誌」岡見郷土研究会P22,P21

92 :
 大衆の面前で秘密をバラされ、愚弄されたのはプリュンヒルトだけではない。
  妃との初夜を他人に手助けさせた、グンテルもそうである。このように酷く名誉を損なわれながら、なおもジーフリトと懇意にすることは、「武士の名誉に関わる行為」だと、ハゲネは言っているのである。

  つまり彼の殺意には第一に、王と王妃の名誉を傷つけた報復のための殺害、という理由があるのだ。
  これは、忠誠心と呼んでもいいだろう。騎士としても当然の行為である。


  彼が卑怯だと思われやすいのは、そのあとにとった行動が、騎士文学では定石の「決闘」ではなかった、と、いう点である。
  決闘によってジーフリトと戦い、主君の名誉を守ろうとしたのであれば、誰も彼を卑怯者呼ばわりできはしない。

  しかし、「決闘」は出来なかったのだ。その理由は、一つ前の項、「ジーフリトを正々堂々と殺せるか」で書いたとおりだ。
  魔法で武装したジーフリトを通常の方法でRことは出来ない。しかも彼は、アーティファクトを装備している。
  戦えば必ず負ける。負けるのが分かっていてつっこんでいくのも、当時はひとつの勇気だったかもしれない…が、ハゲネは、この「玉砕」の道を選ばなかった。
  なぜなら彼には、「どんなことがあっても」「確実に」ジーフリトの口をふさぐ必要があったからだ。

  ジーフリトはもう一つ、語ってはならない大きな秘密を隠していた。それは、そもそもの発端、グンテルがプリュンヒルトへの求婚の課題を果たすとき、実はジーフリトの力添えを得ていた、ということである。
  プリュンヒルトの課した3つの課題、そのいずれも、グンテルは自分ひとりの力で果たすことは出来なかった。
  つまり、グンテルは、彼女の夫としては全くふさわしくなく、彼女が「すぐれた勇士の妻になった」と思っていたは、幻想だったことがバレてしまう。
  そうなったとき、王と妃の関係が、どちらかの死という最悪の結果に終わることは、目に見えていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%82%BE%E3%83%B3

93 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。美濃郡安田村(現在の益田市遠田町安田小学校のあたり)の伝承。
{大昔には火の風ひの雨吹き降ろしものにて、海々所々に在る古墳は其の時代の人
間が難を避けしもの}西暦700年前後の三瓶山大爆発の威力、すごさ。
 参考文献 浜田市立三隅図書館蔵書「岡見村誌」1930 p19
      江津市立図書館蔵書「江津市の歴史」校閲 小笠原宣秀 編者 山本
     熊太郎1970 p2〜6
島根県の図書で、三瓶山噴火に関連資料=伝承は、他にない。

94 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。益田市木部町への紀氏の入植は
 参考文献 浜田市立中央図書館蔵書「津和野町史」第一巻 沖本常吉 著 p39,40
大和朝廷の律令政治の始まりの一歩。

95 :
 なるほど、一般に言われるように、「自分の第一の家臣としての地位を脅かされる危険性」や、「ジーフリトへの嫉妬」なども殺害の理由としては在ったかも知れない。
  しかし、そんなものは取るにたりない理由だ。ジーフリトには自分の国があり、普段は遠方の国に住んでいる。
ハゲネと同じグンテルの家臣という立場ではないのだから、競い合う必要は最初から無い。
  ハゲネはグンテルの第一の家臣としての地位を奪われることは決して無いし、ジーフリトは優れた勇士だが、ハゲネの国内での評判が傷つけられた様子はいささかも感じられない。
(ハゲネに不満があるとしたら、グンテルがよそ者のジーフリトを必要以上に信用したという点においてだろう。)

  ハゲネには、主君の名誉と王の威厳を守るために、またプリュンヒルトの命を守るためにも、どうしてもジーフリトを殺さねばならない理由があった。
  グンテルとて、自分の名誉に関わる秘密を暴露され、妃が愚弄されたのだからもっと怒ってもいいはずだ。
むしろグンテル自身が、妃の名誉のためにジーフリトを糾弾すべきではないのか。
  にもかかわらず、この優柔不断な王は、過去にジーフリトがよくしてくれたことが忘れられないらしく、身内よりもジーフリトの肩を持つ。

 すると国王がみずから口を開いた、「あの人は我々に
 もっぱら利益と名誉とを与えてくれた。あの男は生かしておかなくてはならぬ。」(詩節868)

  さらに、ジーフリトにはかなわないのだから仕方が無い、とも取れる弱気な発言もする。

  「それに、あの珍しく勇敢な男は、恐ろしく強い。
  もしさとられようものなら、だれだって手に立つまい。」(詩節872)

  これに対し、ハゲネだけが王にジーフリト殺害を唆し続けた。
  詩節870では、ジーフリトが亡いものとなれば、あまたの国々が王の領土となるであろう、とまで囁いている。

  http://ncode.syosetu.com/n8576cm/

96 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。 三瓶山の爆発・噴火によりどうなったか?
出雲や石見の山々は焼け、人も死に絶えた。ここで考えられること。
出雲の最高権力者・一大率は、舟で東へ逃げ延びた。古事記のスサノウの
国造りからみて能登半島。
大麻山のたたらの大穴で、鬼刀禰族11人以上300人以内。
同じように吉備の国も、吉備の国の生き延びた人は、「神」のしわざ。=
「鬼」のしわざ。ここから桃太郎の鬼退治のはなしが生まれた。
京都の田辺氏に育てられた、不比等ことスサノウは、ウングルドから苗木
をもちかえり。古湊から三隅川を上り現在の浜田市弥栄町(村)で植樹をし
た。たまたま鬼刀禰と出会った。この八咫烏と呼ばれた鬼刀禰。おにとね
の長(おさ)は、スサノウを助け一緒に植樹してまわることにした。

97 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。皇室の三種の神器。
八咫の鏡。八咫烏と呼ばれた鬼刀禰族の作品か。
草薙剣。八咫烏と呼ばれた鬼刀禰族の作品か。
やさかにのまがたま。八咫烏と呼ばれた鬼刀禰族の作品か。
スサノウ=石見・出雲・備後・安芸・備中の焼け野原に植樹=古事記の出
雲の国造り=何本もの川をのぼり、植樹。古墳内に生存者はいないか確認
と文字消し。古事記や日本書記の登場人物を列記。スサノウ、ヤマトタケ
ル、神武。20年くらいの仕事。ということは、藤原不比等の成り立ち。

98 :
 最初にジーフリトがグンテルの宮廷を訪れ、客人となったのち、ブルグントは、ザクセンの宣戦布告を受けている。
  ザクセンの王、リウデゲールとリウデガストは大軍を率いており、攻め入るまでの短時間に多くの手勢を集めるのは、難しい。勝てるかどうかは確証が無かった。
  グンテル王は頭を悩まし、信頼する家臣たち、ハゲネや、弟のゲールノートらを召し出している。(詩節148)
  そのとき、ジーフリトに協力を求めよ、と、言い出したのは、ほかならぬハゲネなのである。

 さらに勇士は言う、「なにゆえにジーフリトに仰らぬのです。」(詩節151)

  …この時点まで約1年、ジーフリトは、エッツェル王の宮廷にて過ごしている。(詩節138)
  客人のもてなしに1年かけるのは、当時は普通だった。もてなすことが名誉になるからである。
  その期間、ジーフリトは、模範試合などで目覚しい活躍を見せ、「およそ肩をならべるもののないほど、彼の力量は立ち勝っていた」(詩節122)と、述べられている。
  もしハゲネが、ジーフリトの力が自分より優れていることに嫉妬し、疎んじていたなら、明らかに「自分より優れている」と分かっているジーフリトに、わざわざ名を上げさせるように進言しただろうか?

  実際、詩節129では、「彼に対し敵意を抱くものなどは一人としていなかった」と、書かれている。一人として、と言っているのだから、もちろんハゲネもである。この時点で、彼はまだジーフリトを憎んではいない。むしろ好意をもって迎えている。
http://anicobin.ldblog.jp/archives/43457486.html

99 :
 その理由はおそらく、この男が、ブルグントの国にとって好ましい存在だったからである。
  ジーフリトは、「美しいグンテル王の妹姫」クリエムヒルトに求婚しに来たのであり、両者の婚姻は、敵に回しては厄介なこの男を親戚として味方につけるものだ。
  ジーフリトは、当時、最高、最強の勇士だった。
  このジーフリトとの親戚関係があれば、近隣諸国は、決してブルグントに手出しできないだろう。

  この時点で、ジーフリトとクリエムヒルトは実際には会ったことはないままに、すでに両思いの仲だった。
  クリエムヒルトが、庭で様々な協議に興じるジーフリトを、窓辺から見て思いを寄せているシーンがある。(詩節133)
  王の一家の側に仕えるハゲネが、その思いに気づかぬはずはない。二人の婚姻が上手くいくであろうことは、ハゲネにとって確実な目算だったと思われる。

  ハゲネがジーフリトに対し悪意を抱く理由は、決して「力の差」ではない。
  しかるに、彼がジーフリトを殺さねばならなかった理由は、嫉妬などの感情ではない。全く逆に、過去に自分がジーフリトを信頼してしまったことに在ると考えられるのである。

  その証拠に、プリュンヒルトへの求婚旅行に出かけるときも、この旅行にジーフリトを同行させよ、ハゲネが言うのである。

 「ではわしの意見を申し上げよう、」ハゲネが口を出した。
  「この困難な仕事は、ジーフリト殿にも片肌脱いでいただくようお頼みなさるのが上分別かと思われます。
   プリュンヒルトの事は、ジーフリト殿がよく心得ておられるから。」(詩節331)

  重大な秘密を伴う、この旅行には、ハゲネと、その弟ダンクワルトの二人、つまり、絶対に信頼できる腹心だけが同行している。
  その中にジーフリトを加えよと言ったハゲネの言葉は、彼がジーフリトを信頼していた何よりの証拠になりはしないだろうか?

  それなのに、ジーフリトはのちに、その信頼を裏切る失態をしでかすのだ。

http://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%B4%AB%E4%B9%83

100 :
 人麻呂・不比等・行基の3人と八咫烏と呼ばれた、11名の鬼刀禰族と
物部族との攻防。三瓶山の大爆発を、663年に仮定。
次に、人麻呂=三輪高市麻呂と仮定する。
石見の復興最初の入植者を大和・春日郡の和邇族と小野族と仮定して、西暦年号
をつけると、下記のように。
663年 三瓶山噴火。人麻呂6歳大和・春日郡現在の桜井市。
           不比等4歳推測(京都・田部氏 名 田辺史大隅)。
           行基まだ未生。
670年 和邇族浜田市三隅町湊浦に入植。小野族三隅町小野に入植。
           人麻呂は綾部氏と共に三隅町小野へ。
次に阿波・忌部族(山部・麻、木綿ゆふ)の大麻山入植。
この頃、小野族や綾部氏と人麻呂、益田市小野地区戸田へ。
この頃、不比等ことスサノウ浜田市弥栄町(村)に植樹。鬼刀禰との出会い。
鬼刀禰は、たたらの大穴ちかくにスサノウを祀る彌榮(いやさか)神社建立。
次に牟婁・物部族の大麻山や室谷へ入植。
スサノウと鬼刀禰益田の石川を上り津和野へ入り植樹。
そして、出雲の国へ。川を1本1本上り、朝鮮・ウングルドを行き来しながら
植樹と古墳に入り生存者探しと文字消しの仕事。


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