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西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】


1 :2014/09/12 〜 最終レス :2015/01/11
前スレ
西郷隆盛【思い切ってやりなさい。責任は私がとる】
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1407713878/
■注意■
前スレ、前々スレとも1スレッドに割り当てられた512kバイトの容量制限を
超えてしまったことにより途中で書き込みが出来なくなったようです(2ちゃんの仕様)
容量を超えた原因は、ガラケー使いの荒らし住人の常軌を逸した書き込みによるのは明らかです
(毎回毎回の無意味なレス、同じ荒らし文を毎回コピペ、卑劣な自演など)
該当者はこのスレ以降、書き込みは最小限にとどめることを強く願います。
もしくは出て行ってください。
以上、厳守をよろしくお願いします。

2 :
以下、テンプレ
Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)

3 :
もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。
市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。
「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
 性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
 いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
 西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
 ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
 器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
 議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
 そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」

4 :
≪ 西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄  大島商社と西郷隆盛 ≫
http://www.synapse.ne.jp/~amamian/tubuyaki/minaminihon-h11106.html
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑である
かもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったにすぎ
ないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分としか
映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では道之島
の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者
ということを他言するなと厳しく禁じた。島に残された母アイカナは非業の死をとげ
る。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論とも
表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止
にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占
「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしい
ままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する五十五人の嘆願団が上鹿したが、
いきなり全員投獄。老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣
させられた。うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、
二人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに二十四人であった。(前田長英著
『黒糖騒動記』参照)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
からいかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策に
うかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じて
おり、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。

5 :
≪ 西南戦争の真実 ≫
http://www.eurexcert.com/story-hangyakunoasa.pdf
薩摩の残虐行為は、田原坂の戦いで知られる西南戦争でも頻発し、人吉で赤ん坊を
含む家族全員の首を、わずかの食料が欲しいために切ったなどのエピソードがある。
http://sabasaba13.exblog.jp/i19/3/
この人吉根拠地の期間中、薩摩軍はこの地域に苛烈な軍政を布き、政府軍と
内通した容疑をかけられた住民が捕縛され、証拠も詮議も不十分なまま私刑同然に
処刑する残虐が加えられているそうです
http://lagattina.exblog.jp/pg/blog.asp?dif=m&acv=2013-05-01&nid=lagattina&p=2
・薩摩軍が人吉に後退すると、人吉隊は新たに兵を募り、二番隊を編成しますが、人吉
にはすでに薩軍劣勢が伝わっていたことから、募兵に応じる者が少なかったそうです。
このため薩摩軍は、募兵に応じない者は首を刎ねると脅し、半ば強制的に徴兵。人吉の
攻防では、多くの犠牲を出しました。
・継承殿は、人吉隊の宿舎となりました。門前には断首台を設けられ、募兵に応じ
ない者を処刑し、その首を晒したと伝えられています。
・薩摩軍の砲弾は、政府軍の本営まで届かず、琢磨川を挟んでの攻防は官軍の圧勝
で終わり、薩摩軍は、町に火を放って人吉から退却。町は、戦闘と放火により、
灰燼に帰しました。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_2_hanran.htm
明治10年の西南の役当時、軍費に窮した西郷軍は佐土原の通称ひょうたん島にて
「西郷札」を印刷して難局を乗り切ろうとした。日本最初の軍票である。だが実際に
使えたのは薩摩軍の影響力のある地域だけで、しかも薩摩軍の敗北とともに布切れと
化した。政府の補償はなく大量の西郷札を抱えて没落する商家が多かった。
http://blog.goo.ne.jp/uemura1048/m/201001
「西南戦争外史」 飯干憶著 みやざき文庫
西南戦争といえば、田原坂の激戦や熊本攻城戦が想起されるが、西郷軍が人吉に後退
して以降、あまり知られていないが宮崎県各地が戦場となった。「この戦いの全期間を
通じ、直接戦場となった場所と期間は、熊本よりも鹿児島よりも、宮崎(日向)が一番
長く、戦いの熾烈さも熊本、鹿児島の比ではなかった」という指摘は極めて正確である。
このため日向の人々は、多数の戦死者を出し、家を焼かれ、さらには西郷札の発行に
より終戦後まで経済は混乱を来たした。著者によれば、宮崎県の悲劇は、遡れば西南戦争
の前年に鹿児島県に併合されていたことが大きかった。このため宮崎各地で若者が西郷軍
に徴発され、反対派は捕えられて処刑・投獄されることになったというのである。

6 :
西郷さんの最期
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、鹿児島市城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
19日、政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を拒否され、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという始末でした。

7 :
西郷さんの最期
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に処刑されていた 》
西南の役の最後の日、城山で西郷は足を撃たれたあと自決したとされていますが、
その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?
政府軍に助命を拒否された西郷さんですが、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕を主張する桐野がこれを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したというんです。
思わず「ホントかよ?」となりますが、しかしこの、桐野による西郷銃撃は、
目撃者の証言があるのです。

8 :
西郷さんの最期
エピソード3≪ 創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう逸話、出典はご存知ですか?
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけではないし、誰それの証言であるなどのソースの提示も無し。
貴重な資料ではあるが、細心の留意が必要な代物なんです。
基本的に、右翼主義者による西郷礼賛ありきのプロパガンダ本であり、
西郷や、西郷軍のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されていたりするのも特徴です。
かねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居がかった自決が可能なのか
という見方はありました。また、重傷を負い駕籠で運ばれていた別府晋介がこのときばかり
駕籠を降り起ち上がり、肥満した西郷の首を一刀両断できるは不自然ではないかという見方も。
じつは東大図書館に西郷遺体の検死報告書が保存されているのですがそこにはこう記録されています。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。
また、銃弾が骨を貫通していることから(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した可能性が高い。
「頭(頸)体離断」は首が無かったということです。
つまり、大腿を至近距離から銃撃されたあと、
首を切断されたということです。

9 :
西郷さんの最期
エピソード4≪目撃者≫
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると、「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った 」というものです(出典「肚乃西郷」)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。
ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、”城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この説を奇説として退けた。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
 だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。

10 :
西郷さんの最期
エピソード5≪わが眼で見た話し≫
しかし、その数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が、昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附従卒城川市二」との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです。
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
 昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
 何事か話しをしていた。
 城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
 ”今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
 ”わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。 

参考文献
「肚乃西郷」竹崎武秦
「横目で見た郷土史」片岡吾庵堂

11 :
前スレの>>699
> 陰嚢水腫であったことは、検死の結果から判明したことでは無いぞw
> 生前からとっくにわかっていたこと。
> いつものことながら、アンチ西郷の論理展開は無茶苦茶。
誰も「判明」したなんて書いてないわな
検視書に記載があることで、風聞どおり睾丸が大きかったと裏付けられたし、
さらに「陰嚢水腫」という言葉が使ってあることで、西郷がフィラリア感染症であったと我々は断定できるわけだ
ちなみに桐野の検視書もあったようだよ
> 西南戦争60年会編『西南役側面史』(1939)に記載する桐野の屍体検査書に
> 「衣服 績縞上着縮緬襦袢。創所 左大腿内面筋骨銃創、右脛骨刀創、左中指旧切痕、
> 下腹部より腰部貫通銃創、前頭より顳?(こめかみ)部貫通銃創、左前頭より傾頂部に刀創、左中指端傷」
> と記され、更に「陰嚢肥腫」とあるので、桐野は西郷と同じくフィラリアを病んでいたと考えられる。
この満身創痍の検死結果は、桐野が通説どおり最期の瞬間まで勇戦して死んだことを裏付けている
あるいはこの検死結果をもって、激烈な桐野伝説が生まれたのかもしれない
桐野には検死書が作られているのに、
西郷には作られていないと考えるのはさすがに無理があるわな

12 :
>>11
サクッと書いてあってワロタ。首なしの死体を特定する決め手になったのが陰のう水腫であったというのが検死結果として残ってる
というのが定説だから、陰のう水腫は検死を裏付ける決め手の一つだから有名なのは当然の前提。
でなきゃただの身元不明の無縁仏になる。つまり銃槍を伴った検死結果は確かに存在する(当たり前だけど)。
わざと書いてるね。
>この満身創痍の検死結果は、桐野が通説どおり最期の瞬間まで勇戦して死んだことを裏付けている
>あるいはこの検死結果をもって、激烈な桐野伝説が生まれたのかもしれない
なんつーか、こっちだね。講談ネタ、小説ネタ、漫画、映画ネタ。世に流通する見てきたような伝記話の出処なんて。

13 :
人斬り半次郎伝説は池波正太郎が出所
子孫がびっくりして名誉毀損で訴えることも考えたらしい

14 :
【朝日誤報問題】 朝日新聞、誤報記事に法的措置匂わせる「抗議書」 フリージャーナリストらに何度も送りつけていた [J-CASTニュース]
http://daily.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1410550506/
【原発問題】「報道ステーションは誤報」 原子力規制委、川内原発報道で訂正・謝罪要求 テレ朝、12日の番組で説明へ★2
http://daily.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1410531454/
【LINE系アプリ】ヤフージャパンと提携のカカオ社、経営陣3人がFBIに身柄拘束・・・ヤフー広報「知らなかった」
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/bizplus/1408516227/

15 :
スレ主が認めたように、その多くのネタは「横目で見た郷土史」(片岡吾庵堂・著)に依拠しています。
片岡氏は本名、片岡八郎。大正5年、鹿児島市の商家のお生まれです。
戦時中には二度の応召を受け、戦後は運輸会社に勤めたのち、
自営の傍ら、文筆活動やラジオ、テレビ出演をされていました。
その内容は艶話を交えたような、軽妙なものでした。
鹿児島では地元の文化人として活躍された方です。
さて、片岡氏と「桐野による西郷射殺説」についてです。
これを最初に唱えたのはいつか、ということは実は「横目」には、
明記されていません。「同年八月十八日」といった表記はありますが、
この「同年」が書かれていないのです。ただ、前後の記述から、
どうも「翔ぶが如く」の最終章が毎日新聞に連載されていた、
昭和51年であるようです。
この年、作家・石牟礼道子ら三名が主宰する雑誌「暗河」の西南役特集号に、
「肚乃西郷」の引用記事が載った。
その内容を地元紙南日本新聞の知り合いの記者に語ったところ、同紙をはじめ、
共同通信社を通して全国紙に紹介され、週刊朝日・現代にも掲載された。
これが昭和51年の六月頃のことのようです。

16 :
これに対し、同年8月18日の南日本新聞に、
「西郷研究の第一人者」である地元短大教授・村野守治氏の反論が掲載される。
「自分の手持ち資料の中に城川なる人物はないから実在しない。証言は頼りにならない。」
(小説「翔ぶが如く」の中でも、この村野説に沿って「肚乃西郷」は否定されている)
すると数日後、加治木在住の入佐俊興氏が、昭和10年発行「葛城彦一伝」の中に、
別府晋介従卒として城川市二の名がある、とその実在を証明する旨を、
南日本新聞に発表しました。
そして、片岡氏は入佐氏に伴なわれて、加治木の城川市二氏の孫嫁(73歳)を訪問する。
鹿児島市から加治木町までは車で一時間足らずです。
もしJRを使っていたら、岩崎谷を通ったかもしれません。
そして、テンプレに引用されている、
「お祖父さんは八十三歳で亡くなられるまで…」に続きます。
昭和51年とすれば片岡氏は60歳位か。老婦人との語らいは楽しいものだったようです。
そして城川市二氏の墓参りをします。
さて、片岡氏が「肚乃西郷」における城川証言を「信ずる心境になった」理由は、
以下のように書かれています。以下長いですが「横目」より引用します。

17 :
(引用)
 一当番兵の城川市二氏翁がわざわざ虚構を作りあげて、何の益もないことは明白で、
先の戦争での従軍中の経験からしても、将校の当番兵勤務を命ぜられるのは要領のいい兵隊ではなく、
言葉は悪いがバカ正直な性格の者が選ばれ、そういう兵隊が長続きして実直に勤めたようである。
この石亀が同年兵のことを回想すると、当時の朴訥な人柄の当番勤務に服していた戦友たちの顔が思い出される。
 司馬さんは終戦時には関東地方の戦車部隊の、学徒動員出身の陸軍少尉殿だったそうだが、
同年兵のそういう観察は、将校という身分であれば難しかったのかも知れないし、
あるいは将校当番の兵隊が身近にいて、もっと優れた観察をされたかも知れない。
事務室当番兵の兵隊には要領がいいのがいて、将校が「お茶を持って来い」と命じると、
必ず湯呑の蓋をあけて自分で少し飲んで、その飲みかけをうやうやしく捧げていく光景や、
「飯もって来い」と怒鳴られると、飯の上に頭のフケをガリガリ掻いてフリカケ代りにして、
これも何食わぬ顔をして、フケ飯を捧げ持っていくのをよく見たものだったが、
司馬少尉殿は温厚な人柄だったと思われるから、フケのフリカケ飯には出逢われなかったことだろう。
(引用終わり)
似た要旨は、「横目」の中に三度出てきます。
城川氏の証言が真実なのは、「自分の経験より、兵卒は嘘をつかないものだ」からです。
それ以上の理由は述べられていません。

18 :
「横目で見た郷土史」は決して無視されたわけではありません。
鹿児島の南日本新聞はもちろん、全国紙、週刊誌で報道されています。
片岡氏は何度となく新聞、テレビ、ラジオと地元マスコミに登場しているのです。
また、大河ドラマ「翔ぶが如く」が放映されたころには、
ずいぶん講演に招かれたとあります。
片岡氏自身が述べておられます、まさに「人生のハイライト」であったと。
そして「桐野が西郷を撃った」説により、脅迫電話はありましたが、
実際に暴行を受けたという話は聞いたことはありません。
さて、以下は私の感想です。
城川氏が実在することと、「肚乃西郷」の内容が真実ということは、イコールではない。
昭和16年に発行された「肚乃西郷」の著者は、
三州社の社長であった竹崎一二氏の息子・竹崎武泰氏。
城川氏が一二氏に話し、それを武泰氏が書いた。
果たして城川氏と武泰氏は、面識があったのだろうか。
少なくとも武泰氏が、城川氏から直接「桐野が西郷を撃った」話を聞いたという記述はありません。また聞きです。
あくまで仮に、ですが、城川氏は名前を使われただけではないのか。
竹崎一二氏に思い違いや勘違いはないのか。武泰氏に何か特別な意図はなかったのか。

19 :
「肚乃西郷」の、桐野が西郷を撃った記述は、
「桐野は西郷の後ろ姿に黙礼し、心に罪を謝しつつ涙を呑んで西郷を鉄砲で射ったのである。」としかありません。
桐野と西郷の距離は。西郷から見て桐野はどの位置にいたのか。桐野はどんな姿勢だったのか。そういった具体的記述はありません。
もし複数の証言者が出てくれば、ずっと信憑性が高まったでしょう。
戦時下であろうと、師匠(仲間)を撃てば重大な犯罪です。
通説を覆し、桐野を「西郷殺し」と断言するからには、具体的証拠が必要です。
しかし「肚乃西郷」には、桐野の心理描写(推量)あっても、
裏付けとなる記述は何もないのです。分からないことが多すぎる。
「これが真実だから信じろ」以上の内容がない。信じさせようという気概がない。
「桐野が西郷を撃った」説をとるなら、「肚乃西郷」は根拠として非常に弱いものです。
惜しいのは片岡氏です。
城川氏の孫嫁に会った時に、竹崎氏の子弟、関係者も探し出し、
詳しい話を聞けばよかった。
昭和51年ならそれが可能だったと思うのです。
そして竹崎親子について具体的なことが分かれば、
「横目」の資料的価値は高まり、「肚乃西郷」の信憑性も増す。
平成26年の今、仮に竹崎氏の子弟を探し出したとしても、
「そんな戦前(73年前)のことは分からない」と言われるだけではないか。
では何故片岡氏はそれをしなかったのでしょうか。
「反骨ガメ」を自認する片岡氏は、
正史を扱う短大教授の村野氏、そしてそれに乗っかった天下の司馬遼太郎の鼻をあかしたことで、満足してしまったのではないか。
実在しないとされた城川氏の存在を明らかにしたのだから、
村野・司馬両氏に過ちがあったことを指摘したのは間違いない。
在野の郷土史家の片岡氏が短大教授を、
一兵卒にすぎなかった片岡氏が著名な作家・司馬遼太郎「陸軍少尉殿」を、
やっつけたのはさぞ痛快だったことでしょう。
「エライサンに兵卒の気持ちなんか分かるまいよ。兵卒は嘘をつかないもんよ。」
片岡氏はここで終わった気分になってしまった。
城川市二氏が実在することを指摘したのだって、入佐俊興氏です。
片岡氏は入佐氏についていって、城川氏の孫嫁に会っただけです。
自分で竹崎氏を探そうなどとは思いつかなかったらしい。
「横目」がアームチェアディテクティブに過ぎないと思うのはこの点です。
城川氏の孫嫁にしたって、明治生まれの薩摩オゴジョが、
嫁ぎ先の祖父(大舅)のことを、祖父について尋ねてきた人に、悪く言うはずはない。
まあ城川氏は実際実直な方だったのでしょうが。
また入佐氏が「肚乃西郷」をどう思っていたのか、全く記述がないのも気になります。

20 :
「横目」は、実証・考証を必要としないエッセイ(放談)です。
だからこそ自由にものが言え、読んで面白い。
息詰まる専制支配を行った鎌倉武士・島津はいわばカレーで、
温和な人情を持つ隼人族=ライスの上に、覆いかぶさって、
下の白いライスを見えなくしてしまった、
という「薩摩隼人はライスカレー論」などは面白いと思います。
しかし、史実の裏付けには到底なり得ない本です。
だから、センセーショナルな見出しで全国的に取り上げられても、
精力的に講演会をして回っても、「桐野が西郷を撃った」説は、
発表から四十年たって、顧みられているとは言い難いのです。
ただ片岡氏の名誉のためにも、二点の功績はあげなくてはなりません。
○鹿児島は決して西郷万歳、島津万歳一色ではなく、厳しい批判を持つ者が地元にもいることを、全国に対して示した。
○その厳しい批判を地元のマスコミが取り上げ、また講演会も行われた。「横目で見た郷土史」も地元の高城出版から刊行された。排他的な面は確かにある鹿児島だが、言論が封じられているわけではないことを示した。
以上の点は、片岡吾庵堂氏の、魅力的なキャラクターがあってこそ成り立ったものだったと、賞賛を惜しみません。

21 :
■西郷隆盛の徳と、桐野利秋の病気■
明治7年佐賀の乱。
政府軍に追い詰められた江藤新平は鹿児島の西郷隆盛を訪ね、援軍を仰いだ。
江藤は、明治6年の政変では征韓論を主張する西郷を支持していた。
征韓論頓挫後は西郷と共に政府の職を辞し下野した仲である。
ところが江藤に対する西郷の態度は冷たかった。
江藤からの援軍要請を断ったうえ、自分(西郷)ではなく島津久光を訪ね、かくまってもらえ、であった。
西郷は、江藤とは”無関係”の立場をとったのである。
政府軍のほこ先が、鹿児島県を専横する自分や私学校に向くのを恐れたのであろうか。
しかしこのような西郷の態度は驚くことではない。
西郷はかつて、京都での盟友月照が幕府から追われ鹿児島の西郷を頼って来たとき、
これを助けず、死に追いやり、”無関係”を通した。

22 :
美談では、かねて西郷はこのように言っていたとされる。
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人ほど、始末に困るものはない。
だが、この始末に困る人でなければ困難をともにして国の偉業は成し遂げられない、と。
江藤新平や僧月照は、西郷にとって困難をともにするだけの値打ちは無い人物だったのでしょうかね。
あるいは西郷自身がそのように無私でありたいと思っての言葉だったかもしれません。
江藤や月照もそのような西郷であるはずだからこそ・・・鹿児島を目指したと思うのですが。

23 :
江藤新平の後日談ですが、西郷隆盛に援軍を断られた江藤は、
つぎに桐野利秋のところに行き、同じく援軍を要請した。
ここでも断られてしまうのだが、桐野は江藤の身を案じ、自分が
取り計らいますから身を隠してくださいと申し出た。
江藤はこれを辞退し土佐に向かうが、この時江藤に随行していた石井と徳久と
いう者を桐野にあずけた(彼らは明治10年まで薩摩に隠れ、西南戦争に従軍し死ぬことになる)
この話しも一見美談っぽいのですが、生々しいのは、
後日この話が西郷の耳に入り、
「おまえ佐賀のお尋ね者を匿っているというのは本当か?」と桐野を厳しく追及した。
桐野は「これは自分の病気です。どうか彼らを見逃してやってください」と哀願したそうです。
どうやら桐野のほうが、命もいらず名もいらず〜、の実践者だったようですね。

24 :
>>15-20
一言で言えば、決定的な証拠を出せってことなんでしょうけど、
通説と同様、史料的な根拠以外の物的証拠みたいなものは無いですよね。
でもそれは>>15-20さんも同様でしょう。
だって、信じない理由として
>桐野と西郷の距離は。西郷から見て桐野はどの位置にいたのか。
>桐野はどんな姿勢だったのか。そういった具体的記述はありません。
と、言うぐらいだから、実証的な代替説を挙げて城川説を否定するのかと思えば、
それは皆無で、紹介本にすぎない「横目」が実証を必要としないエッセイなので、
信憑性が無いと言う
また、信じない理由としてさらに、「肚乃西郷」には
>信じさせようという気概がない。
と、「気概」が無いなどと鹿児島県人らしい精神論を持ち出す始末。
自分で実証主義を掲げているんだから、城川説を実証的に否定するのが筋なのに、
「横目」はエッセイだからとか、「気概」が無いから信じないとか・・・

25 :
城川説は「横目」でしかとりあげられてない珍説ではないですよ。
城川説をとりあげた文献は自分が知ってるだけでも以下のものがあります。
1行2行の紹介程度ならもっとあるでしょう。
「横目で見た郷土史」片岡吾庵堂
「跳ぶが如く」司馬遼太郎
作者の司馬遼太郎は、城川の姓が薩摩領に存在せず、
別府晋介の従僕にもそのような名の人物はいないという理由(司馬の誤認)をあげて
城川説を奇説としているものの、3ページに渡り解説している
「久留米藩難事件から新撰組まで」松本茂 海鳥社
・・松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、
古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、
桐野の西郷射殺説を信じたようです
城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒(小杉恒吉衛門氏のことか)も
同じ事を残しています・・  だそうです
「不平士族ものがたり」野口武彦
この著者は、「征西従軍日誌」の桐野介錯説をとっていますが、
城川説を強力な異説として紹介している
「西郷隆盛」山本盛孝
これはかなり突拍子もない本ですが、城川説をとっている

26 :
そして、
「肚乃西郷」竹崎桜岳
>>15-20さんは、本書には城川説を信じさせようとする気概が無いと言うが、そんなことはない。
肚乃西郷から、長いですが引用します。
「この事実を書きし、西郷の伝記はおそらく世に無いと思うが、
これは別府晋介の従僕城川が著者の父に話せし実話である。
西郷が大義名分を重んじて、江藤新平を諭せし事を思う時、
寸秒の疑う余地は無いのである。
西郷が簡単に切腹するのであれば、最期の陣営たる洞窟の前庭において、
幹部と共に枕を並べて死すべきである。
何もわざわざ岩崎谷を下り敵陣近き、現在建設せられある『西郷終焉の地』まで
のそのそ出て行く必要はないのである。
一度鹿児島に遊び、彼の洞窟と終焉の地とを検討せば、著者の論が実証せらるるであろう。」
と、城川説が“実話”であると断じている。気概十分じゃないですか?
著者の父は、私学校の後身ともいえる三州社の社長です。
三州社は明治14年、河野圭一郎(初代社長)、伊東祐高、中原万次、河野半蔵、美代助座衛門、
樺山資美、伊地知壮之助、児玉軍治ら西郷軍の残党らが設立した結社で、
会員の互助と士族授産、子弟の教育を目的とした。
会員は城下士出身者が中心で、このため「第二の私学校」とも呼ばれました。
肚乃西郷著者の父竹崎一二はこの三州社の社長です。
いわば西郷軍の人的遺産と郷中精神の継承者だった。
そのような人物が、桐野が西郷を撃ったんだと、完全に事実と断定しています。
珍説どころか、西郷軍正史と言っても過言でない形で世に示されていたわけです。

27 :
三州社についてちょっと調べてみると、西ク助命の使者であった河野圭一郎が
創設したとあるな。 しかしその後、勢力は拡大せず、郷友会と政府に圧迫されて
潰されていったとあるな。 竹崎が社長やってた頃は、ほとんど社員がいなかったん
じゃないの。竹崎のときに解散したのかな? 「肚之西ク」ってのは、三州社
最後のケツまくり、みたいな印象だな。

28 :
三州社の会員は、明治15年の段階で3000名を超えていたそうです。
明治17年、政府の報告書は、三州社が過激路線を歩みはじめていると伝えていた。
すなわち、三州社員は「官署に対し暴発するの用意」を進めており、
そのために武器を買い集め、日本刀を携えて徘徊し、
「人民おおいに驚愕し、すこぶる不安堵の模様」で、高知の板垣や各県の同士と
連携して「同時に暴発するの用意」さえあるという。
「鹿児島の三州社は、実に危険である、第二の私学校だ」
「三州社が土佐の自由党と握手して、両者の間に何かの密約が結ばれた」
といった情報に政府は大いに狼狽し、郷友会を通して圧迫を加えることが激しくなった。
郷友会は政府系の団体である。
その後、三州社は会員数を減らし、資金も無く、先細り化していったようです。
中江兆民があるとき三州義塾に来塾した際、西郷の悪口を言ったところ、
塾生は怒って兆民斬るべしと不穏な情勢となったと伝わる。

29 :
スレ主はレスを伸ばすためなら、露骨な自演も厭わない人だけど、
さすがに「>> 1 乙」の自演はしないんですな。

30 :
足に重傷を負い、歩く事もできない別府晋介に
弾丸が飛び交う中、輿に乗ったまま仲間と城山を駆け降りて、
揚げ句に西郷を介錯する事などできないだろうね
介錯は、健康で頑強な者が立って両足を踏ん張って切っても大変なのに
歩く事もできず輿に乗っていた別府が介錯するなんて、妄想の世界
突撃前から、突撃の最中に切腹や介錯なんて不可能だと誰もが思う
桐野のように、西郷を「絶対に政府軍に渡したくない」と頑なに思う者なら
突撃前に西郷を殺して首を隠してしまおう、と思うだろうね。
桐野は負傷してなかったし最高幹部だから、西郷に近づいてRのは簡単

31 :
そもそも西郷は、事変のほとぼりが冷めたら榎本武揚の如く閣僚に戻れるとでも簡単に考えていたのではないか。
その上での薩摩挙兵の総大将就任、自身は何もせずでは無かったか。
この人物にとっては田原坂から脱出までがシナリオでは無かったか。目論見が狂ったのでしょう。
桐野であるからこそ、西郷射殺を断ずる事が出来たとも言える。首を隠して政府には渡すまいと、
既に他ならぬ西郷が常日頃吹聴し続けた玉砕を覚悟した者達を納得させうるに足りる人物では無かったのか。
竹崎氏の残した当事者たちの証言は。
完全に否定されうるべき「司馬が拡散し続けた邪説」などより、
現在社会の視点から遥かに有意義な「仮説」では無いかな。

32 :
「跳ぶが如く」で司馬遼太郎は、城川説を“余談”の中で、奇説として扱っていますが、
奇説とする理由として以下の3点をあげています。
逆に言えばこの3点の理由を誤解であると出来れば、城川説を“事実”とは言わずとも、
幾つかある通説の末席に加えることは容れられるんじゃないでしょうか。
司馬遼太郎は、城川説が成り立ちにくい理由として、以下の3点を挙げている
1. 城川姓の者が薩摩領におらず、別府の従僕にもそのような名の者はいなかった
2. 仮に西郷が降伏するつもりで山を降ったとしても、岩崎谷口の竹の大矢来がこれを阻んで
  政府軍側に行けるものではない。これは西郷も桐野もよく知っていたはずだ。
3. 司馬の言いたいことがちょっと分かりにくいのでそのまま引用します。
  「桐野が西郷との意思疎通を欠いていたという条件も、
  西郷が、坂を下って適当な地点にくれば介錯をたのむという旨を
  別府晋介にかねて言っているかぎり、成立しがたい。
  別府は桐野とはいとこ同士とはいえ親友以上の仲であり、西郷の意中は
  十分桐野に伝えていたはずであることを思うと、この条件も
  考える材料になりにくい。」

33 :
1は、
すでに解決済みです。目撃者の城川は実在しています。
2は、
西郷が自力で竹のバリケードを乗り越えるというわけでもあるまいし、
そもそも死が迫っているから投降するわけで、
無事に敵陣に保護して貰えるかどうかは、西郷の判断には影響しないのではないか。
城山に籠城した者は400人でそのうち戦死は157人、投降200人余、逃亡40余だそうです。
城山での投降が、他に例の見られない行動であるならともかく、
投降・逃亡はみんなやっており、十分可能であり、それは西郷も桐野もよく知っていたはずです。

34 :
3は、
西南記傳で紹介されている「大野義行実話」のなかの一節、
「別府を顧みて「兼ての約束通り頼む」と言い介錯をうけた」
というのが根拠になっているんでしょうが、
ちょっとおかしな話ですよね。
事前に介錯を誰かに頼むのなら、重傷の別府に頼むでしょうか? 
洞窟で儀式的に介錯するとか、逆に不測の事態が起こり、
別府しかいないなら別府が無理してでもやるかもしれませんが、
特攻中の介錯を、重傷で動けない別府に、しかも事前に頼むって・・・
エクストリーム自決と名付けてもいいぐらいの神掛かった段取りですよ。
しかもそれは桐野も承知なので、桐野と西郷との意志の齟齬は
成り立たないという、よく分からない理屈ですし。
だいたい西郷の投降は計画的に準備していたわけではなく、
何で俺はこんなことになった・・と鬱になっていたところで、桐野に自決をうながされ、
突発的に投降行動に出たというのが真相ではないでしょうか。
あくまで私の一説ですが。

35 :
別府が大けがしていて、とても介錯できるような状態でなければ
城川がそのことについて証言していそうなもんだがなあ。 城川ってのは
別府の従者という話だから、別府の状態についてはよくしっていたろうし
「肚之西ク」が世にでたころは、西クは別府に介錯されたってのが
世間の定説になってたわけでね。 城川が自分の主人であった
別府についてほとんど語っていないようなのは、どうしたわけかねw
そんなことじゃあ、世人に証言の信頼性を納得させられないわな。

36 :
司馬の解釈では、西クは自死はのぞまず、戦死、討ち死にをのぞんでいた
ということなわけだね。しかし戦死できずにケガだけした場合にそなえて、介錯を
あらかじめ余人に頼んでいたと。 この解釈に別に不自然なところがないから
別府介錯説は、現在でも世の定説になっているわけだね。

37 :
>>35
「肚乃西郷」でも著者は、別府介錯説をとってますよ。
知りませんでした?
城川がそのように語ったかは文面からは分かりませんが、
「深き手傷を負いながら、別府晋介は、従僕城川に助けられつつ、
西郷の首を斬るべく力なく西郷の後に立ち、右手に太刀を持ち、
左手に涙を払いながら、天を仰ぎ声を呑んで長嘆息するのであった。」
と、著者は書いています。私はこの部分も前後も額面通りは信用してませんが、
別府が負傷していた旨は、他でも複数個所で記されていると反証しておきます。
ようは特攻中に別府が健康体でも難しい介錯を見事にやったという“通説”に疑問を呈しているのであって、
桐野銃撃後に別府が介錯を行ったという説は別に排除していません。
以上は「肚乃西郷」読んだ人なら当然分かることですが、
>>35さんは読んでないで否定しているということですね。
>>36
それはあくまで司馬遼太郎の解釈でしょう。
あえて言うなら、それまで前線に立ったことも無く、桐野のような武人でもない西郷が、
しかもその前日まで助命嘆願していた西郷が、戦死、討ち死を望んでいたと解釈するほうが、
きわめて不自然で、無理があると思います。

38 :
>>36
>介錯をあらかじめ余人に頼んでいたと。
これが健康な桐野に頼むなら、まあ分かるんだが
輿に乗って、歩く事もできない別府に頼むなんて事はありえない
立って踏ん張れない者は、介錯なんてできない
座ったまま刀を振り降ろして、人の首なんて落とせない

39 :
だいたい、かねてから頼んでおいたことなら、
「頼む」の一言でいいはずなのに、
何で「兼ねての約束通り頼む」と説明調なんだよ?
私の想像ですが、「大野義行実話」の著者は、重傷の別府が共に特攻し、
介錯したという説に多少なりとも疑問を持っていて、
かねてから約束してあったことだから無理にでも敢行したのだという形で
説得力を持たせようとして、「兼ねての約束」を創ったのではないか。

40 :
>>1
お前がPCとiPhoneで連投規制逃れしてまで繰り返しコピペしてきた長文捏造テンプレで埋めたんだろバーカ
>>8でまた「左骨部」のウソテンプレ載せてるから反省はしてないと裁判所も判断するだろう
何年も名誉毀損誹謗中傷してきた子孫や関係者に訴えられろ

41 :
>>1
お前がPCとiPhoneで連投規制逃れしてまで繰り返しコピペしてきた長文捏造テンプレで埋めたんだろバーカ
>>8でまた「左骨部」のウソテンプレ載せてるから反省はしてないと裁判所も判断するだろう
何年も名誉毀損誹謗中傷してきた子孫や関係者に訴えられろ

42 :
やれやれ移動中はエラー出やすいな
連休中旅行にも行かずに名誉毀損誹謗中傷繰り返してたヒキニートは、いつになったら「東大図書館」に行くんだ?
iPhoneテンプレ野郎は東京在住だろ?どうした?
あの画像はおのぼりさんが一世一代の観光旅行で撮ったのか?ん?
「東大図書館」行ったとさも常連かのようにアピールしてた西郷アンチは死んだのか?
それとも卑怯にも誤魔化しまくってんのか?どうした?
捏造伏せ字墨塗り新聞社でも謝罪して撤回したのに、お前はそれ以下だからできないのか?ん?
西郷アンチはこの程度だから笑わせるわ

43 :
>>24
スレ主の人格攻撃をするつもりではないのはまず断っておきます。
>と、「気概」が無いなどと鹿児島県人らしい精神論を持ち出す始末。
スレ主は、「情愛」とか「人徳」とか、あるいは「ユーモア」「気概」というような、
人と人との関係における、プラスの感情を持ち出すと、呆れたような反応を示す。
それが歴史を理解する上で何の役に立つのか、というスタンスをとる。
この反応の仕方は一貫していて変わらない。
ところが重野安繹や市来四郎の手厳しい西郷批評(これは両人の主観の域を出ていない。人に対する「負の感情」と呼べそうなもの)は、
西郷を直接知る人の言葉だから、一次資料としての価値があるという。
一方で、市来が伝え聞いた話として書き残している「別府介錯説」には?をつける。
直接現場を見たわけじゃないんだから真実なんか分かるわけはない、ということであるらしい。
ただ少なくとも市来は事実と感じたから書き残したのではないのか。
さて、スレ主は唯思主義なんですか。それとも唯物主義なんですか。

44 :
唯思主義って何ですか?
人の情けとか、まったく否定しませんが、ここはそういうスレではないでしょう。
むしろ人の情けみたいな精神論や郷土愛で粉飾されている西郷伝説・西郷美談の、
本当の中身はこうでしたということを中心にやってるわけで・・・
そのようなことは人の道に外れているからヤメろと言うことですかね?
まるで「議を言うな」と言われてる思いです。
鹿児島のいい歴史を汚すなというのも人間ですけど、
それでも本当のことを知りたいと思うのも人間ですよ。

45 :
>>44
西郷の「本当の中身」「本当のこと」って何だ?
人間には様々な面があって当たり前だ
ましてや西郷はお前みたいな簡単にトンデモ説に騙される単純バカとは違う日本の偉人だからな
お前なんかに理解できなくて当たり前だがな
こっちはお前が「本当」のように見せかけたが真っ赤なウソ、捏造で粉飾されているトンデモ伝説の、本当の中身はこうでしたということを暴いてやってるわけ
捏造で人を無実の罪に陥れて名誉毀損誹謗中傷するのは明らかに人の道に外れているから止めろと言われてるんだよバーカ
「議を言うな」?そんなレベルかバーカ、犯罪なんだよパクリに名誉毀損誹謗中傷ストーカー
本当のことを知りたいと思うならまずは自分で東京大学付属図書館行って「左骨部」と書かれた「西郷遺体の検死報告書」死に物狂いで探し出してこいよ
自分で宮崎の婆ちゃんや近所の年寄りから証言集めて実名で論文出せよ
城山に這いつくばって、西郷の「左骨部」を貫通したという西郷の血液付きの「桐野の銃」の弾丸でも探し出して来いよ
桐野を西郷銃撃犯人扱いするなら最低限それ位確実な物証出せ
裁判で誰かを犯人扱いするなら決定的な証拠が無きゃ無罪なんだよ、バーカ
お前は裁判では不利な物証ばかり揃ってるわ反省は無いわだから心証は最悪だろうよ
自業自得だバーカ

46 :
う〜ん。ひょっとして>>43>>45なんですかね?
友愛キャラとキチガイキャラを使い分けて、郷土のために毎日妨害活動?
さすがにそれはないか・・・
>>43さん、携帯でレスしてみてくださいよ。

47 :
>>46
自分がPCiPhoneで散々IDに頼ったバレバレの自演繰り返してきたから、文体の違いすら見分けつかないんだな、バーカ
さっさとまたパクリと捏造を重ねた>>8を証明してみせろ
「東大図書館」あると何年もテンプレにしてきた、「左骨部」と書かれた「西郷遺体の検死報告書」の「実物」いつになったら出せるんだ?
三州社が何年間主にどんな活動して明治何年に解散して
それから何十年経ってから元社長の息子とやらが何を証拠にトンデモ本を出版したか言ってみろよ
「横目」が何年に何新聞社に掲載されてたかもな
お前はただのパクリと捏造名誉毀損誹謗中傷しかできないから、いつもパクってる素人ブログに書いてないネットで見つけられないと何も答えられないんだろ?
見つけられたら答えられるはずだからな、卑怯者でない限り
もう逃げるなよ、散々逃げてきた卑怯者が

48 :
う〜ん。>>43さんは反応無しか・・・
>>47
おいキチガイ、お前すぐにガラケーとPCでレスしてID晒せ。
それで、>>43さんがやはり携帯とPCでレス返してくれてIDが違ってれば疑いは晴れるんですが。
>>43さんは21時に人にレスを求めて、そのあとぜんぜん見てないことは無いでしょう。
違ってたら本当にすみませんが。

49 :
二人とも逃亡ですか・・・
とくにキチガイがこういう時に火病レスを返さないのは、経験上ありえない。
普通5分、かかっても30分で反応してくる。
これはますます怪しいぞ。
後でレスしてきても、対策したものとして、認めませんよ。

50 :
>>48
お前がキチガイで、5分から30分と空けずここをチェックしてるヒキニートメンヘラストーカーなのはよくわかった、バーカ
お前ヒマなんだからさっさとテンプレ誤字訂正と溜めた宿題やれよ、逃げ回って話をそらそうと必死なウソツキの卑怯者
日本語も日本史も何にも知らない、素人ブログとトンデモ本からの無許可パクリしかできないウソツキの泥棒が
お前のバイブルが何年に何新聞社で掲載されてたかすら知らない、言えない情けないレベルのしょぼいトンデモ説盲信者は、トンデモ本抱えて一生その引きこもった部屋でブツブツ言ってろ
バカがネットなんかやるから子孫や関係者に訴えられるような名誉毀損誹謗中傷、パクリやらかすんだバーカ

51 :
>>50
はいはい、では今すぐPCのIDも晒してね

52 :
>>51
やっぱり答えられない、西郷アンチなんざこんなレベルの低いバカ
さっさと宿題やれよ、できないとかマジで頭悪いな
テンプレに何年も載せ続けてきた丸パクリ、捏造したウソを認めて訂正謝罪しろ、ウソツキストーカー
何も証明できない、何も答えられない、宿題から逃げ回って話そらそうと必死な卑怯者
お前は捏造伏せ字墨塗り新聞社以下だ、人でなし
西郷や桐野ら西郷軍だけでなく、海江田やお由羅まで殺人犯と断定したのは大失敗だったな
西郷やお由羅の子孫は勿論、海江田の子孫が誰かすら知らないんだろうよ、この情弱は
簡単な宿題すらできない、東京大学付属図書館のサイトに繋げないその使えないPCと、マヌケなダダ漏れ画像しか上げられないiPhoneじゃ調べられないんだろ?
使えるなら言ってみろよ、海江田の子孫は誰だ?さあ言えよ

53 :
頑なに出さないPCのID使って、朝5時ごろに友愛キャラで登場か?

54 :
はい時間切れ。
>>43はいつも5時ごろレスしてくる。
前日の夜に人にレスを求めて、翌日までスレを見ないなど考えられない。
43の携帯のIDはすでに50で使ってしまってるので、携帯でのレスの求めに応じれないからだ。
これ以降のレスは携帯だろうとPCだろうと偽者と見なします。
しかしまさか、キチガイガラケーと友愛評論家が同一人物の自演だったとはねえ・・・
驚き通り越して、恐怖を感じる。。

55 :
>>54
海江田の子孫が誰か調べたか?
時間切れはお前
海外国内問わず旅行し不在の多い連休中の、普通の人間なら大抵寝てる深夜に発狂して見苦しい足掻きだな、笑わせる
無駄な抵抗してもお前はもう終わりだ、西郷アンチのストーカー
こちらが自演なんてしておらず、お前がPCとiPhoneで自演しまくりなのは事実なんで
裁判所でいくらでもほざけ、心証悪くするだけの負け犬の遠吠え
何しろお前の捏造した虚偽による名誉毀損誹謗中傷は、何年にも渡って筆者に無許可パクリ転載をし、証拠も無く殺人犯として有名人達の実名を挙げ
全ての鹿児島県民を侮辱した上に反省もしていないという最悪さだからな、さぞかし関係各所の心証は悪くなるだろう
捏造伏せ字墨塗り新聞社ですら社長が頭下げて謝罪して捏造認めて、撤回したのにお前にはできない
お前は捏造伏せ字墨塗り新聞社以下だ、西郷アンチメンヘラストーカー

56 :
鹿児島はこの手の基地外ばかりだから産業が全く発達しないで
今でも途上国のように国の交付金に頼るしか能がない土建屋王国なんだろうね
鹿児島を代表する企業は「岩崎産業」だからなwww
一体何やってる会社なんだ?w
鹿児島県民ってのは冷静に議論したり、コツコツ働く事ができないから
産業が全く起きなくて、国の交付金に縋り付く寄生虫しかいないんだろうな
県民全体が国からナマポ貰って生きているようなもんだなwww

57 :
今頃起きてきたヒキニートナマポ丸出しが何言っても負け犬の遠吠え
どうせ就職できなかった逆恨みだろうが、実在の企業全ての鹿児島県民を名指しで敵に回す西郷アンチ、マヌケでワロス

58 :
>>57
>実在の企業
鹿児島に実在する企業って、土建屋とかローカルバスとか地場のクズ会社だけwww
そんなクズ会社しか存在しないゴミ県民を誰が恐れるんだ?www
維新の勝ち組だし、広い土地や海岸線にも恵まれているのに
全く産業を起せないってのは、恐ろしいばかりの怠け者だな
国の交付金に縋るしか能がない県民総ナマポの怠け者の上に、
すぐに火病起すバカ県民だから、産業が全くないのは自業自得だなwwwww

59 :
実在の企業に誹謗中傷して火病
朝から起きられない恐ろしいばかりの怠け者
さすが誹謗中傷するしか能がないナマポの怠け者の上に、すぐに火病起すバカ
就職できなかったのは自業自得だな
西郷アンチは哀れなヒキニート

60 :
>>59
岩崎産業は鹿児島を代表する企業で、鹿児島県人にとって誇りなんだろうけど
他県の人間にとっては「何それ? メーカーなの? どこにあるの?」だよwww
島津斉彬が集成館で、日本で初めて洋式産業の種を蒔いたのに
バカな西郷は私学校で産業を軽視して、島津斉彬の産業政策を
全く継承しなかったからな
産業軽視は西郷以後の鹿児島県民の伝統になって
国の交付金に縋るしか能がない途上国のような怠け者県民になっちまったなwwww
まあ、産業を興すより、国の交付金にタカる「鹿児島県民総ナマポ」の
方がずっと楽だけどな
あの世で島津斉彬が「どうして鹿児島県民はこんなに怠け者なのか」と
嘆いているだろうなwwwwwwww

61 :
西郷アンチは就職できなかったヒキニートの負け犬
遠吠え乙

62 :
>>61
ハハハハハハ、急に勢いがなくなったなwwwwwwwwwwwwwwwwww
日本でトップを切って集成館で洋式産業が興った鹿児島で、
150年経っても近代産業が起きず、旧藩から続く焼酎生産・農業・養豚、
そして土建屋・交通のような交付金に縋る地場産業しかなく、
ずっと国の交付金に縋り付いている「鹿児島県民総ナマポ」の原因は、
バカ西郷が、島津斉彬の教えを無視した「産業軽視」にあるだろwwwwwwww
正直に言えよ「鹿児島県民はコツコツ働くのなんてまっぴらです、
産業興す能力なんてありません、鹿児島の先人に倣って、
国の交付金だけで生きて行きたいです、県民総ナマポは最高です」とねwwwwwww

63 :
就職できなかったヒキニートナマポが火病起こして草だらけワロス
所詮西郷アンチのレベルなんざこんなもん
暗いバカな嫌われ者で長年ヒキニート、当然就職すらできず家族にすら疎まれ、連休でも外出できずPCiPhoneで人気者の西郷や幸せな鹿児島県民鹿児島企業を誹謗中傷するしかできない、底辺以下
裁判所で小太りの体ガタガタ震わせて「冗談のつもりで軽い気持ちで書き込みました」て定型文繰り返すんだろなこういう小者、バロス

64 :
西郷と関係ない話は別にどうでもいいですけど。
鹿児島にろくな産業が興らなかったってのはちょっと一考に値するかもしれない。
なるほど、鹿児島にとっては大日本帝国海軍ってのが一大プロジェクトだったのかもしれない。
ここに人士を集める事で日本本土へと侵略していったのだ。芋しか獲れない糞田舎を捨てて。
いまでも鹿児島って言えば警察官の一大産地だ。人に嫌われても気にすること無く弱者に威張り散らす事が生き甲斐の仕事。
質の悪い土地だ。チョーセンジンなんかより、よっぽど気色の悪い連中だ。
おっと脱線。

65 :
>>63
集成館から150年経つが、鹿児島にまともな会社があるのか???
黒船以前からの焼酎・養豚と、補助金や交付金にタカる事しか能がない
寄生虫の地場企業だけだろwwwww
なんでこんなに鹿児島は遅れているんだ?
150年前は日本で最先端だったのに
産業軽視はバカ西郷以後の鹿児島県民の伝統になって
国の交付金に縋るしか能がない途上国のような怠け者県民になっちまったなwww
あの世で島津斉彬が「どうして鹿児島県民はこんなに怠け者なのか、
なぜ働く気がないのか、クズばかりなのか」と嘆いているだろうなwwwwwwww

66 :
チョーセンジン大好き
だから島津薩摩を千年憎む
ナマポのナマは怠け者のナマ
草の数が火病のレベル
西郷アンチはID変えても中身変わらず
揃って現れ自演バレバレ
まで読んだ

67 :
>>66
>チョーセンジン大好き
>だから島津薩摩を千年憎む
島津家が百済系のチョーセン人だと明確に名乗っているのに
チョーセン人がチョーセン人を憎む???????
チョーセン島津に長年統治されたチョーセン薩摩人は
自虐趣味があるのかな?

68 :
>>64
>鹿児島にとっては大日本帝国海軍ってのが一大プロジェクトだったのかもしれない。
>ここに人士を集める事で
確かに明治の初期海軍幹部は、薩摩閥のコネで
伊東・東郷・伊集院・樺山・上村と、薩摩人ばかりだが、
薩摩閥のコネが効かなくなったら、将官から薩摩人はほぼ姿を消すけどね
太平洋戦争中の海軍将官で薩摩人といえば、
自称「特攻の先駆け」となった有馬少将ぐらいかな?w
戦後の判定では「有馬はただ墜されただけ」という評判だけどねwww

69 :
日本史も島津薩摩も知らないで赤っ恥晒して発狂連投の西郷アンチチョーセンジンワロス
道理で日本語は間違えまくり、簡単な宿題1つできない訳だ
人気者の西郷や仲の良い鹿児島県民を憎み僻むのは、西郷アンチが家族からも避けられ蔑まれ何の繋がりも持てない嫌われ者だから
だから本来なら家族親類が集まるような祝日に、PCの前から片時も離れず張り付いて書き込みから数分で誹謗中傷ができるんだな、孤独で哀れな西郷アンチ
裁判で本名から何から晒されたら親族全員から縁切られるだろよ
ここでストーカー歴と反省の無さの証拠をどんどん増やして、自滅する運命にも気づかないマヌケな西郷アンチ、ざまあ

70 :
>>69
>仲の良い鹿児島県民を
だから、その鹿児島県民は150年前に洋式産業の先陣を切りながら、
150年経っても産業が全く興せなくて、「全県民総ナマポ状態」を
いつまで続けるんだ?????
チョーセン島津家の800年統治で、チョーセン人の火病が県民性となって
「まじめに働かない」「冷静に議論ができない」「すぐ火病を起す」という
チョーセン人そのまま県民性で、産業が興せなくて、国の交付金・補助金に
タカるだけのナマポ県民を長年やってるんだろwwwwww

71 :
西郷アンチは何年経ってもトンデモ説の証拠や宿題が全く出せなくて、「全員総逃げまくり状態」をいつまで続けるんだ?????
チョーセン人が島津家を恨んで、火病が性格となって
「まじめに働かない」
「冷静に議論ができない」
「すぐ火病を起す」という
チョーセン人そのままの性格で就職ができなくてタカるだけのナマポ民を長年やってるんだな
草の数はナマポ貰い続けた数か?ん?
悔しかったらさっさと宿題やれよ
「東大図書館」あると何年もテンプレにしてきた、「左骨部」と書かれた「西郷遺体の検死報告書」の「実物」いつになったら出せるんだ?
桐野の銃、政府軍の銃と射程距離
城山の西郷銃撃時の西郷桐野政府軍の位置関係は?
三州社が何年間主にどんな活動して明治何年に解散して
それから何十年経ってから元社長の息子とやらが何を証拠にトンデモ本を出版したかは?
「横目」が何年に何新聞社に掲載されてたか?
逃げたらお前は捏造伏せ字墨塗り新聞社やチョーセンジンそのものの卑怯者
こんな簡単な基礎知識すらできないで草生やして発狂したら、お前は完全にバカ
西郷アンチの頭脳知識レベルを示してみろ、さあ↓

72 :
>>71
幼稚園児が泣きながら「お前の母ちゃんデベソ!」と連呼しているみたいだなwwww
おまえは島津家が百済系チョーセン人である事を
はっきりと名乗っている事も知らないのか???????
どこまで無知なんだ?????
なんでチョーセン人がチョーセン島津を嫌うんだ?????
チョーセン島津家が800年治めた鹿児島県民は、
今でもチョーセン人が大好きで、鹿児島焼とかチョーセン人による
チョーセン文化が薩摩文化にそのまま移転したケースも多いな
チョーセン島津800年の統治で、鹿児島県民はチョーセン文化に
ドップリと浸かっているから、火病ばかり起して、まじめに働かず、
鹿児島県では産業が全く興きず、今でも国の補助金や交付金を
タカることしか能がない、「鹿児島県民総ナマポ状態」なんだろwwwwwww
いつまで鹿児島県民は国にタカったら気が済むんだ??????
チョーセン鹿児島県民には、産業興す事なんて不可能なのか?wwwwwwwww

73 :
はい西郷アンチのバカ決定ー!!
草の数は西郷アンチが幼稚園児のように泣きながら「お前の母ちゃんデベソ!」と連呼している涙の数か
島津の朝鮮征伐も知らない知らないのか???????
どこまで無知なんだ?????
なんでチョーセン人が嫌いな日本に居座ってるんだ?????
西郷アンチの大好きなどっかのコリアンタウンに朝鮮門まで立てた県は、今でもチョーセン人が大好きで、チョーセン人によるチョーセン文化がそのまま移転したと県が大々的に宣伝してる朝鮮遺跡も多いんだよな、ワロス
弥生以来チョーセン人の渡来地で、チョーセン文化にドップリと浸かってコリアンタウンなんか作ってウォン使えるようにしてやって媚びて
こうやって草ばかり生やして火病ばかり起しまじめに働かず性犯罪ばかり起こし、今でも日本にタカることしか能がない、「県民総ナマポ状態」なんだよなワロス
いつまでお前は日本にタカったら気が済むんだ、ヒキニートナマポ??????
チョーセン大好きなヒキニートのお前には日本語は悪口しか書けず、日本語で出された宿題1つやることなんて不可能なんだよな?
敵から答えられない問題出されて逃げまくり敵前逃亡の、みっともない西郷アンチの姿をとくとご覧あれ↓

74 :
>>37
>ようは特攻中に別府が健康体でも難しい介錯を見事にやったという“通説”に疑問を呈しているのであって、
>桐野銃撃後に別府が介錯を行ったという説は別に排除していません。
っていうか、前は桐野が西クを撃ったあと、近寄って西クの首をはねたって
いってなかったか? あれは複数の証言から、都合のいい部分を切り貼りした
だけのことだったのかw
「肚之西ク」では西クの最後の言葉はどうなっているのかな? やはり
「もうこのへんでよか」なのかな?
俺は「肚之西ク」は読んでないが、司馬が小説中に「肚之西ク」を紹介してる
部分はよんだな。 あらためて読み返してみると、確かに「肚之西ク」には
桐野が西クを撃ったと書いてあるというね。
西ク自身は別に助命嘆願したわけではなくて、部下が西クの命だけでも
助けたいっていいだして、それを西クは止めなかったって話だろう。
西クが自分で助命嘆願の議をいいだしたのなら、部下もみんな幻滅
してるよw 三州社を創設した河野主一郎は助命嘆願の使節だった
わけだから、そのあたりの事情にはもっとも詳しいだろうよ。西クが助命嘆願
自らいいだしたのが事実であるならば、河野がそのように証言しているだろうw

75 :
>>38
別府は負傷してるっていうが、肚之西クによれば立つことはできたんだろう。
人を斬れるくらい踏ん張れたはずがないって、肚之西クの記事からだけじゃ
わかるはずがないね。城川がささえていたというんだから、人の助けがあれば
踏ん張ることもできたかもしらんということだ。
桐野が西クを斬ったという説もあるね。 桐野が西南戦争の実質的指揮者という
説もあるくらいだが、西クと桐野の間には微妙な懸隔があったという風に
司馬は書いてるね。西クと桐野との間にすきま風が吹いてたなら、別府に
介錯を頼んだという説も十分首肯できるね。

76 :
>>73
>島津の朝鮮征伐も知らない知らないのか???????
火病起していて、何を言いたいのか意味不明だが、
お前は、チョーセン島津はチョーセン人じゃないと言いたいのか??
島津氏自身が「島津氏は百済系チョーセン人だ」と言ってるんだが??
お前は、チョーセン島津氏がチョーセン人である事が悔しいのか?wwwwwwwww
それなら島津本家に「チョーセン人家系を、日本人家系にねつ造して下さい」と
でも頼みに行けばいいじゃないか
世の笑いものだけどなwwwwwww
チョーセン鹿児島県民は、チョーセン島津家をもっと誇りに思うべきだ
チョーセン鹿児島の伝統を作ったのは
鹿児島を800年間統治した、チョーセン島津家なんだからwwwwwwww

77 :
×知らない知らないのか
○知らないのか
>産業が全く起きなくて
>全く産業を起せないってのは
>産業が全く興きず
火病起していて何度も同じ間違いを繰り返して気づきも訂正もしないバカなんで、何を言いたいのか意味不明
やはりチョーセンジンそのものの、初歩的な日本語能力すら無い西郷アンチには漢字と送り仮名は理解不能なバカなんだな
千年恨むチョーセンジンそのものの火病で島津に対する憎しみに発狂、ワロス
チョーセンジンが歴史上どれだけ同じチョーセンジンを差別し憎み追放や殺戮を繰り返したか、世界史も学んでいないから基礎的なことすら知らないバカ、それが西郷アンチ

78 :
>>74
肚の西郷では、城川が別府を介助して、介錯させたと書いて有る。
城川最強だな。活躍しまくり。w
因みに桐野介錯説をでっち上げたいスレ主はこの点については
肚の西郷は信用ならないそうだ。w
アンチ西郷にとって都合のいいところだけを寄せ集め、汚れた矛盾に満ち溢れており、卑怯の極み。

79 :
>>43です。最初に言っときますが、
>>45とは別人ですよ。
なんかスレ主は朝までずっと待ってたみたいですが。
夜九時にレスしたからそのあと覗いてないはずはない、
って言われてもなあ。
私も2ちゃんばっかりやってるわけじゃないし。
匿名掲示板で、同一人物じゃないことを示すために、
端末を替えてレスしろっていうのは、
うーん、少なくとも私の方にそれに従う義務も義理もありませんよ。
ただ、事実として>>45とは別人です。
スレ主が、いやそれはおかしい、同一人物だ、
と思い込み決めつけるなら、それも自由ですが。
その時私は、「あ、やっぱりスレ主はこういう認識の仕方をするんだな」
と思うだけですね。

80 :
■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■
< 西南戦争で、西郷隆盛は自身の助命嘆願を知らなかった >
西南戦争が最終局面に入った明治10年9月19日、西郷軍から政府軍に使者が赴き、
西郷隆盛の助命嘆願をしています。
通説(wikipediaなど)では、助命嘆願について西郷本人は知らなかったとされています。
事実はどうだったのでしょうか?
西郷軍の軍議で最初に西郷助命が議題に上がった際、
西郷は助命について是とも非とも言わず「開戦以来何人が死んだのか」と言ったと伝わる。
桐野利秋は猛然と反対し、助命論はいったん潰れた。
しかし再び、助命論が起こり、9月18日、河野主一郎が村田新八、池上四郎、ほかの諸隊長らの同意を得た。
この時の西郷軍内での様子を記した史料が二つある。
「薩南血涙史」では、このことは桐野には黙っていたとある。
「西南記伝」では、桐野は合議の席上で「投降は後世に対する侮辱だ」とあくまで反対したとある。
西郷本人はただ莞爾(にっこり)して「よしよし」と言っただけだったので、河野らが嘆願に赴いたとある。
つまり、西郷は助命嘆願を知らなかったなどという記録は史料のどこにも無いのです。
史料から分かるのは、西郷は助命嘆願を知っており、これを許可したと
思われる様子さえ記されているということです。
西郷は助命嘆願を知らなかったという説は、
西郷自身は命を惜しんだわけではない、ということにしておきたい人々
(西郷軍の生き残り、反政府主義者、鹿児島県人など)の願望が作りだした俗説でしょう。
それがいつのまにか通説化してしまったものと思われます。

81 :
>>80
西郷隆盛に関する典型的な勘違い西郷アンチの例
だろバーカ
>事実はどうだったのでしょうか?
とまるでお前が出してきた何の史料も無いトンデモ説が事実かのように言うなウソツキが
つまり、「西郷は助命嘆願を知っていた」などという記録は史料のどこにも無い、が正解だバーカ
史料から分かるのは「西郷が助命嘆願を知っていて、これを許可した確実な証拠となる言葉は無い」だ、ウソツキが
「と思われる」なんて、お前の勝手な主観による捏造だ、バーカ
「西郷は助命嘆願を知っていた」というトンデモ説は、
西郷自身が命を惜しんだ、ということにしておきたいお前西郷アンチメンヘラストーカー
(自称西郷軍に個人的な恨みがあるという宮崎県人の孫)の願望が作りだした俗説、妄想だバーカ
それがいつのまにか西郷アンチの脳内で「事実」化してしまった、これぞまさしくメンヘラストーカーの症状と思われる、だバーカ
西郷が命惜しかったら幾らでも政府軍の総攻撃の期限までに投降できたんだよ、矛盾をつつかれたら発狂するしかできない、哀れな西郷アンチ妄想捏造メンヘラストーカーが

82 :
>>80
アンチ西郷は西南紀伝と薩南血涙史は信用ならないのでは無かったのでは?
卑怯ですね。

83 :
なんちゃって基地外くんが騒いで、そいつを相手にしてあげる事で成り立つスレッドというのはなんとも皮肉ですな。
こうしないとスレが維持できないところは確かにあったのかとも思う。
西郷軍と西郷隆盛の知られざる側面を知るのにとても有益なスレなので、これからも続けてほしいです。
そのためならこの展開も、まあ良しとします。ありがとうございます。

84 :
>>83
は?西郷軍と西郷隆盛の知られざる側面?真っ赤なウソだバーカ
何の証拠もないただのでっち上げを千年恨む民族そのもののキチガイが、ただの私怨で卑怯にも匿名で名誉毀損誹謗中傷し続けてるだけ
捏造伏せ字墨塗り新聞社が、1人のウソツキの全くのウソを裏付けも取らず載せ日本と日本人に多大な不利益をもたらした
この西郷アンチメンヘラストーカーはそれと全く同じだ、バーカ
捏造された、ただのウソを知るのがとても有益?
ならお前はあれだけウソを載せ続けて何十年と認めなかった捏造伏せ字墨塗り新聞社読者で、ウソだったとバレてもまだ開き直るのに買い続けるのか?
ウソだらけの「横目」抱えて震えて寝てろバーカ
これからも続けてほしい?
この展開も、まあ良しとします?
どう見ても西郷アンチメンヘラストーカーウソツキテンプレ作成者の、バレバレの自演ありがとうございます
だ、バーカ
捏造伏せ字墨塗り新聞社でもウソツキのウソを認めて、謝罪撤回できたのにお前はそれすらしない、いやできないんだな
まさに謝ったら死ぬ民族そのもの、捏造伏せ字墨塗り新聞社以下だ
子孫や関係者に訴えられて全て晒されてからじゃ、謝罪撤回しても遅いんだよバーカ

85 :
>>84
君の目に映る真っ白な真実ってのを書いてみなよ。わーわーオウムみたいに人の書き込みを改竄しておかしな結論してないで。
通説の西郷の最後は当時の状況を客観的に読みなおして馬鹿げてる、という事実に変わりはない。
自分で考える能力があるなら、そもそもどうして西郷軍は熊本城なんか攻撃したのか、から考えなおしてみなさい。
そしてその上で西南の役を自分で考察をしてみるべきです。
それが出来ないならせめて通説にそっていかに西郷は偉人だったかを力説してみれば?
知ってればの話だけど。

86 :
一晩考えた末の、自演かあ・・・
孤独の闇は黒洞々だなあ。

87 :
スレを展開する上で自演を多用してるのは別に構わないんですけどね。
今度はそのキ印キャラでいかに西郷は最高な名君名将であったかを通説に基づいて展開していただけると比較対象として面白いと思います。
キ印がマジモンだったらどうでもいいです。

88 :
>>85
「君の目に映る真っ白な真実」は?????
誰がそんなくっさいセリフ吐いた?とうとう妄想が過ぎて幻覚を事実かのように思い込みだしたな、末期だ
オウムみたいに人の書き込みを改竄?
オウムだのオウム返しだのの意味知らないのか、バーカ
オウムが人のセリフを自分の意志でピッタリ合うように改変できたら世界中が大騒ぎだ、バーカ
お前の教祖サマの書いたバイブル、トンデモ説の西郷の最後は当時の状況を客観的に読みなおして馬鹿げてる、という事実に変わりはないんだよバーカ
自分で考える能力があるなら、そもそも上から撃った銃弾が下から上に貫通なんかしないと、初歩的な物理の法則から考え直してみな、バーカ
そしてその上で西南の役を自分で考察をしてみろ、他人の本ブログからの丸パクリコピペしかできない泥棒が
それが出来ないならせめてお前自身がテンプレに何年も事実かのように捏造し続けてきた、
「東大図書館」に行って「左骨部」と書かれた「西郷遺体の検死報告書」の「実物」は本当に保存されてたかを立証してみれば?
お前はウソツキの卑怯者だから逃げまくるだろけどな、いつ訴えられるかビクビクしながら一生震えてろ、バーカ

89 :
突然だけどフレ募集
234775257
http://i.imgur.com/xbWbawX.jpg

90 :
>>85
通説は最も矛盾が無いから通説。
珍説は矛盾だらけだから珍説。
アンチ西郷は何時も西南紀伝、血涙史を否定しているが、
それなしで論理を展開してみろよ。
都合のいい部分だけ寄せ集めるのはいい加減やめろ。

91 :
西南記伝と血涙史が存在してなかったら、
自動的に城川説が確定しちゃうよ w
それでなくても城川説がいちばん矛盾が無いのに
なに言ってんだろこの人

92 :
>>91
ヒマなバカはさっさと「東大図書館」行ってテンプレの証明してこい
城川説が物理の法則からも矛盾だらけなのは散々証明してやったろ、一度で理解しろバーカ
全くなに言ってんだ、この西郷アンチメンヘラストーカーのキチバカは
まずどうやったら桐野が上から撃った弾丸が西郷の大腿を下から上に貫通できるのか、説明してみろバーカ

93 :

この人って、正常者がキチガイのふりしてるのか、
それとも、真性のキチガイが別のIDでは正常者のふりしてるのか、
どっちなんだろ
どっちにしてもこの活動を24時間何年もやってるって、狂気には違わんが

94 :
>>93
お前が真性のキチガイだバーカ
別のID?自演しまくりなお前と違ってそんな卑怯者じゃないんで、わざわざやる必要がないね、PCiPhoneテンプレ厨
お前がこのアンチ活動を24時間何年もやってるのが狂気だと理解しろ、西郷アンチメンヘラストーカー
どっちにしても西郷アンチは、自分で何年も貼ってきたテンプレに物証一つ出せないバカで
物理の法則からも完全否定されてるトンデモ説にしがみつくしかできない、哀れなメンヘラストーカー
とっとと「東大図書館」でテンプレの物証探してこいよ、ヒキニートでヒマなんだからさ

95 :
わかった。ちょっと東大図書館ってのに電話するわ。
おたくに西郷隆盛の死亡診断書っての、ありますか?って。
な?一挙解決だわ。

96 :
≪ 西郷どん 同時代人の反応 ≫
大隈重信 「わしには西郷のどこが英雄でどこが豪傑だったのかさっぱり分からんかった」
重野安繹 「偏狭である」
福沢諭吉 「西郷の学の無さは犯罪レベルであった」
市来四郎 「君主の風采無し」
島津斉彬の側近 「粗暴で人間関係も悪すぎる」
海江田信義 「奢り高ぶっているわけではないのだが・・・」
木戸孝允 「たいがいにせい」
大山巌 「西郷さんは人望を集めようといつも必死でした」
西郷従道 「私学校の奴らが戦を始めたよ」
川村純義 「助命? まずは西郷本人が出頭しろ 話しはそれから聞く」
山県有朋 「助命? 切腹してください」
西郷イト 「うちの人はこげな顔じゃなか」
医師ホフマン 「痩せないと死にますよ」
桐野利秋 「吉つあん、もうよかじゃろ」
野村忍介の弟 「西郷さんが私学校で講義したことは一回もなかったです」
徳富蘇峰「無役の大将に軍を率いる権限などない 自己過信の思い上がりだ」

97 :
>>96
西郷が大好きで西郷のことなら何でも知りたくて、必死にネットとトンデモ本からかき集めました!!
まで読んだ
しかも徳富蘇峰の名前出すなんて、全く蘇峰について知らないんだろなこの無知な西郷アンチは

98 :
アンチ西郷は城川は別府の従僕と言っているが、これも怪しい。

99 :
>>96
アンチ西郷、マジきもいな。w
ところで西郷イトは本当にそんなこと言ってたか?
知識も乏しいな、
引き継いだテンプレしか知らないから、どうしようも無いな。

100 :
>>96
福沢諭吉もそんなこと言ってるか?
ソースは?


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