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復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.7
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邪馬壹國
邪馬台国畿外説 part399
- 1 :2017/10/28 〜 最終レス :
- 反論あるの
w
- 2 :
- 九州じゃないかな
- 3 :
- 2げt
- 4 :
- 畿内は裸国だろw
- 5 :
- テンプレはずしたか
スレ主少しは見直したよ
- 6 :
- >>1
スレ立て乙
テンプレやめたのはいい再スタート
みなの意見を取り入れるのは前向きな事で評価したい
- 7 :
- テンプレート大崩壊www
- 8 :
- こんな下らない腹いせしかできなくなった九州説
- 9 :
- >>8
このスレのスレ主は今までのスレ主じゃないの?
何で名無しの>>8が分かるの?
- 10 :
- スレ主も反省できるようになったか、エライエライ
- 11 :
- >>9
スレタイが畿「外」説やんけ
- 12 :
- >>4
コビト国じゃないの
- 13 :
- 倭人伝に書いてるの?
- 14 :
- ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったという者がいることは、夙に知られている。
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと観光都市の研究所に公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として考える者も上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらないと考える者もいる。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われたと考える者もいる痕跡も発見された。
この建物を、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察する者もいる。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いことを勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考える者もいる。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係に、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起する者もいる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考える者もい、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)があると考える者もいる
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考える者もいる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)であると考える者いる。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なると考える者もいる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都であると考えるものもいるが根拠はない。
- 15 :
- 以上テンプレートであーる。
- 16 :
- 畿外説にじわじわきたwwwww
- 17 :
- 邪馬台国危害説
- 18 :
- >>16-17
慌て者がーよく読め
畿外のテンプレだよ
w
- 19 :
- 重要な古道として考える者も上つ道に接面している。
↓
重要な古道として考える者もいる上つ道に接面している。
- 20 :
- 反論が全くないね。。。
- 21 :
- 1をさしおいてテンプレしたことを謹んでおわびします
- 22 :
- 974日本@名無史さん2017/10/28(土) 18:55:44.45
>>969
そーす
https://imgur.com/bqgTW3c
- 23 :
- 調べものにどうぞ
https://blogs.yahoo.co.jp/worldrecordshow/14742815.html
- 24 :
- スレ立て乙
- 25 :
- 陸行一月なら、長野県みたいに内陸でないといけないのに、どうして誰も邪馬台国諏訪説を唱えないんだ?
- 26 :
- ハマグリを取っているからじゃないかな?
- 27 :
- 奈良にはハマグリはないよ。
- 28 :
- じゃあ奈良ダメじゃん
- 29 :
- >>25
所在地が特定されてる「奴国」から東に百里で「不弥国」南に水行二十日で「投馬国」南に水行十日、陸行一月で「邪馬台国」に到着する。
このルートを辿って何で長野に行ってしまうんだ?
九州もしくは以南の島になるだろう。
- 30 :
- 陸行一月は無理、という話だよ。
- 31 :
- 険しい道なんだろう。
地形的(山あり谷ありの難所)に加えて野生動物ウジャウジャの獣道とかな、、、
旧街道みたいに整備された道を行くのとはワケが違うから。
- 32 :
- >>31
現代の感覚で道を捉えるバカが勘違いして1日で30キロ進めるとか抜かしている。幅がたった10メートルの谷でも深くて橋がなければ迂回すると数百メートル歩かされたりする。山歩きしろよw
- 33 :
- 海沿いを歩けばいい? 河口ほど川幅が広くて船がないと渡れない。船は携行できないから現地の民の世話になるしかない。それなりのお礼も必要。しかし、共通貨幣なんかない。だから労役提供するか、威信財(勾玉とか?)を渡す
しかないが、そんな貴重品を携行すると盗賊に狙われる。だから集団行動だったろう。するとますますそんなに早く進めないw
- 34 :
- 飲食店なんかなかったw 食事は自炊でもしてたのか、あるいは軍隊が使う携行食(乾し飯とか?)でも携行したのか? 水だってどうしてたのか。基本的に裸足で歩いたんだろうが、ワラジみたいのが必要な場所もあっただろう。これで1日30キロ進めるのかよ www
- 35 :
- 環濠集落が示すように、見知らぬ者は外敵扱いしていた時代だっただろうな。
したがって外部の者にはわざとわからないように道を隠していた可能性が高い。だとすると、敵ではないと安心させるたまに「つなぎ役」の者を隣の集落から同行させながら旅をしていた可能性が高い。
- 36 :
- 「つなぎ役」を手配してもらうための「お礼」と時間が必要だったわけで、これも早く進めない要素だ。1日30キロは絶望的だ www
- 37 :
- 「いや、この時代すでに広域的な統一国家的なものがあった」と反論するだろうが、「広域統一国家」に不可欠なものは「言語の統一化」と「共通貨幣」と
「通信手段」だ。しかし、それを示すものはない。
- 38 :
- 広域統一国家がなくても交易は自然発生的に生じる。その必要性が広域統一国家の必要性を促す。それが歴史だ。しかし、ここで勘違いしてはならないのは「交易が広域的に成立していたから広域統一国家が成立していたはず」という
推論をすることで、これは全くの間違いだ。
- 39 :
- 畿内説が誤りであることは、以上の「歴史の考察に関する基本哲学」から明白であって、細かい議論をする必要もない。
- 40 :
- おまけ: 考古学とは、発掘したものが歴史的に意義あるものだとシロートに思いこませるための学問である w
- 41 :
- 現代人は、道と言えば基本的には「公道」だと思い込んでいるが、歴史をさかのぼれば道とは基本的に「私道」みたいなものだったんだろうな。敵かもしれない他人が自由に通行することは認めないというものだ。この観点で交通の歴史を考えろよ www
- 42 :
- この観点に立てば、海上交通こそ基本的には「公道」の世界だったんだろうな。だからこそ、九州にいたアズミ族が長野の安曇野に海上ルートで移動したわけだ。
- 43 :
- >>35
「つなぎ役」は、隣の集落へ行く道案内をしたが、集落の大事な部分を隠すためにわざと迂回ルートを選んだのだろうと思うなw これは現代でも実はあまり変わらないと思う。
- 44 :
- この時代「移動コスト」は現代人が思っているよりも遥かに高かったのかもしれない。この「移動コスト」を低下させるには未開の原野に進出するのがベストだったのかもしれない。
- 45 :
- 「歴史の考察に関する基本哲学」においてまだ確立されていない考えだが、ひょっとすると「移動コスト」の高さが、遠隔地への移動を促した可能性もある。連続性ではなく不連続性が、歴史を動かす要因になる場合もあるのかもしれない。
- 46 :
- 四国
邪馬台国大和直流祖先説から好い加減に脱却して欲しい
畿内説とか北九州説とか中華資料に阿った旧順争奪泥棒合戦にしか見えない
ウリナラファンタジーと同じ
ヤマタイもヤマトゥもそれぞれに在ったいずれも南方系の政権
- 47 :
- >>41
>歴史をさかのぼれば道とは基本的に「私道」みたいなものだったんだろうな
A集落からB集落へ行く場合、「私道」はコストがかかる道だが、「新道」ならコストを払う必要はなかっただろう。もちろん開発コストはかかるが。
この競争原理によって、古代でも実は多くの道が開発されていた可能性はある。もちろん災害で壊れたりしただろうが。
- 48 :
- 道には維持管理という手間がかかる。集落の総合力が道の存続を決めていただろう。しかし、決定的なのは「地形と地質」なのだ。すなわち、「ブラタモリ」の世界なのだ。歴史は「ブラタモリ」に学べ w
- 49 :
- 考古学が間違っているのは「ブラタモリ」に学ぼうとしないからだ。藤村某の
ゴッド・ハンド事件は本当に恥ずかしすぎるスキャンダルだった。
- 50 :
- 畿内説もまた「ブラタモリ」に学ぼうとしない学説に思える。
- 51 :
- 末路国すらほんとは特定されていない
1000里の半分で松浦半島を比定しているが
地形が九州の玄関とは考えにくい
- 52 :
- 全国的に本当の意味の「公道」ができたのは奈良時代以後。もう少し早くても飛鳥時代頃か。邪馬台国の時代にはせいぜい今の県単位の公道しかなかったはずなので、邪馬台国時代には畿内が中国と交流するには時間とコストがかかり過ぎて無理だった。
- 53 :
- 言語と貨幣の観点から考えても、邪馬台国時代の畿内が中国と交流するのは無理だった。官僚的公用語が統一されたのは「古事記」「日本書紀」が成立した
7〜8世紀頃だろう。
- 54 :
- それ以前は、(1)地方ごとに言葉がバラバラで、共通語がほとんどなかった
(2)共通語が口語では成立しても、これを漢字で表記する場合、地方ごとに
バラバラなので、統一表記が成立していなかった。
- 55 :
- この問題が解決したのが7〜8世紀頃で、「古事記」「日本書紀」とともに
「風土記」が成立したことが意義深い。各地方ごとの地誌はずっと前からあったに違いないが、それが官僚的公用語の成立によって、中央政府が各地方の地誌の把握が可能となったのだろう。
- 56 :
- なお、日本全体での度量衡の統一はずっと遅れて「秀吉検知」でやっと成立した。「古事記」の成立から約8世紀も後だった。このことは、度量衡はコミュニケーションとはほとんど関係がなかったので、後回しにされたのだ。
- 57 :
- 歴史は「ブラタモリ」に学べ。そして、歴史は「インフラ」に学べ。
- 58 :
- 「ブラタモリ」は戦国大名のことごとくが、土木技術について高い知識を持っていたことを教えてくれた。農地や都市の開発には土木技術が必要なのだから当然だ。さて、人類にとって最初に必要とされた土木技術は道路の造成だったかもしれない。道路の探求は極めて大切だ。
- 59 :
- 文化人類学者の著書の中で、未開人(ニューギニア人とか)が道路をどのように造り、維持管理しているのかを知ることの方が、考古学者出土物について妄想を繰り広げるよりも遥かに有益だろうと思う www
- 60 :
- >>59
× 考古学者出土物について
〇 考古学者が出土物について
- 61 :
- 古墳の建造には膨大な労力が必要だったことはよく言われれるが、コスト面で言えば、実は大したコストはかからなかっただろうねw 「奴隷労働だった」という説もあるが、「共同体内部での奉仕行為だった」からだと思う。これに
対して、他の集落を通過する時には何らかのコストの支払いを要求されただろうな。
- 62 :
- 古代史研究にはコスト、つまり経済学的視点が乏しいんじゃないか。そして土木工学的視点は一層乏しい。いつまで出土物オタクをやってんだよ www
- 63 :
- 畿内から北九州に行くには膨大な移動コストがかかった。このコストを節約するには、畿内政権は北九州までの間にあるかなりのクニを制圧していなければならなかったはず。「クニの連合体」などと言っても、このコストから逃れることはできなかっただろう。
- 64 :
- 江戸時代の参勤交代は大名の勢力を削ぐために移動コストを負担させるのが主な狙いだった。この他にも氾濫する大河の堤防工事を命じてカネを使わせることを幕府はやっていた。これが歴史の実態だ。友愛的なクニ連合なんて、鳩山由紀夫にでも言わせておけ www
- 65 :
- 「南して邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月」は、「水行10日の後陸行1月」ではなく「水行なら10日、陸行なら1月」と解釈すべき。基本は水行であることは、「海路は公道であり、陸路は私道」という仮説に照らせば明らかだ。
- 66 :
- 海路でも寄港地でのコストがかかった可能性はある。しかし、陸路の3分の1で済んだことだろう。邪馬台国が内陸国ではなく海辺の国だったことは、「魚蛤を捕らえ」「真珠を出す」の記載で明白。
- 67 :
- >>66
>海路でも寄港地でのコストがかかった可能性はある
このコストを払うのは邪馬台国ではなくて、投馬国だ。では、邪馬台国が
北上する場合は投馬国にコストを払ったのだろうか。多分払わなかった。伊都国から遠く離れているのに女王として君臨していたのだから、そう考えるのが
自然だろう。
- 68 :
- 以上から、邪馬台国は投馬国以南の海域の航海権を独占していた可能性がある。このことは「海路は公道であり、陸路は私道」という仮説に矛盾するようだが、優れた航海術を持った邪馬台国は、他のクニを圧倒するようになったのだろう。
- 69 :
- 他国を圧倒した航海術で、邪馬台国は朝鮮半島への航海でも主導権を握った。
- 70 :
- 邪馬台国と他の国との格差が大きかったと仮定すると、航海における「非対称性」が存在したことも考えられる。つまり、投馬国から邪馬台国へは10日かかったが、邪馬台国から投馬国へは5日しかかからなかった、というような。
- 71 :
- 投馬国5万戸、邪馬台国7万戸で、さほど大きな差はないように思えるが、戸数だけでは測れない格差があったに違いない。それは、航海術の差だったかもしれない。
- 72 :
- なぜ邪馬台国が他国を圧倒する航海術を得たのか? 「必要は発明の母」と言われるが、邪馬台国の置かれた位置がその必要を促したのだろう。邪馬台国が
延岡あたりにあったとすると、延岡〜宿毛の距離は釜山〜対馬北島の距離を超える。
- 73 :
- もちろん延岡から下関までは沿岸航法で十分行ける。しかし、チャレンジ精神のある者が延岡〜宿毛の有視界航行に挑んで航海術が鍛えられたと考えられないか。これは瀬戸内沿岸の人間にはないチャレンジの舞台だった。日本海沿岸ではこれは絶対にあり得ないチャンスだった。
- 74 :
- 沿岸航法しかできないのでは、朝鮮半島と北九州との航海はできない。延岡以南だからこそできた。こう考えると、邪馬台国は延岡周辺と考えるべきだろう。この場合、邪馬台国の首都が延岡である必要はない。首都はもっと北でもよい。その領土内に延岡があればいい。
- 75 :
- 延岡という土地は、対馬と実は相似的な関係にある。
1 対馬からの航海は、間違って東や西に向かってしまっても山口や済州島に漂着できる。だが、海流に流されてしまえば北海道まで流される。
2 延岡からの航海は東や南に流されてしまえばどこにも漂着できない危険もあった。対馬以上に恐ろしい場所だった。
- 76 :
- この延岡という場所の特殊性が、朝鮮への航海を可能にしたのかもしれない。
もちろん、邪馬台国は朝鮮半島からの渡来人が作った国と考えれば、延岡を持ち出す必要はないだろう。しかし、練習場を失うと人間の能力は衰える。邪馬台国人にとって延岡は能力維持に必要な場所だったのかもしれない。
- 77 :
- 以上から、邪馬台国は中九州から南九州にあったと考えることができる。南九州にはライバルの狗奴国がいた。
- 78 :
- いったいいつまで俺様の独演会が続くんだ? wwwwww
- 79 :
- >>54
つい最近、北九州で出土した古代の硯を精密鑑定したら墨が使われていたことが判明したと新聞報道されたが、これをもって邪馬台国の時代に文字が広域通信伝達手段として使用されていた、などとワタゴトを言うことは許されないwww
- 80 :
- >>54 で述べたとおり、日本列島に広く共通していた「口語」の存在自体がほとんどなかったはずだし、仮にそれがあったとしてもそれを漢字でどう表記かは地方ごとにバラバラだったはずで、「共通口語」の「共通漢字表記」は非常に成立困難だったのだから。
- 81 :
- 畿内説とは、こういう具体的な考察が全く欠けたタワゴトの体系である www
- 82 :
- ドーデーの「最後の授業」という短編に描かれたとおり、言語とは極めて政治的なものであり、政治的背景なしに言語の統一はあり得ないのだ。畿内から北九州に至る広大な領土の統一なしに古代日本公用語の統一はあり得ず、公用語の統一なしに通信手段の確立はあり得ない。
- 83 :
- というか、末盧国が一番難しい。
これは九州説だけの問題ではなく、畿内説でも同じこと。
畿内説は様々な矛盾から目を背けているだけ。
- 84 :
- そもそも唐津に上陸して陸路で博多に行くくらいなら
博多に船で行けよと思う
- 85 :
- あくまでも魏の使いが目指した女王の都は、博多でも畿内でもなく、伊都なんでしょう。
- 86 :
- 日本の古代史研究を歪めているのは、古墳に対する異常なまでの過大評価だろうねw 古墳の築造は研究者が言うほど難しい技術なんかじゃないし、費用も時間も大してかからなかっただろうねw 古墳を支えている石積み技術なんか大したものじゃないんだよw
- 87 :
- 俺は関東に住んでいるんだが、関東では最大級の古墳群である「さきたま古墳群」に次ぐ第6位の古墳が埼玉県の桶川市にあるので見に行ったんだが、「何じゃこりゃ」程度のチャチなものだった。「こんなの古代人でも3か月もかからずに造っただろう」と思ったね w
- 88 :
- ↑君は邪馬台国キチガイ説か?wwww
- 89 :
- 奈良に耳成山があるのはそこがミミナリの支配圏だったのだろう。
宮崎の耳川には王のミミがいたんだろう。ニニギのミコトはニキである。
- 90 :
- やまし*さんへ
やまし*さんがクリックしたものすごいAVが沢山ありますよね。尻も沢山もんでますね。
- 91 :
- AI(人工知能)によると邪馬台国は宮崎平野にあったらしいな。歴史学者とか考古学者って信用できない。AIが進歩すればこういう学者たちはほとんどいらないよね。
- 92 :
- 91>>さん AIの方が信用できない これはあくまで個人の意見です
- 93 :
- 畿内説って、わかりやすく言えばエンタメ脳が作り出した虚構だな。エンタメの典型である時代劇、例えば「暴れん坊将軍」なんか吉宗は天皇兼警視総監兼検事兼刑事だw これだと吉宗という主役が何人分もの役割を果たせるので、
視聴者にはストーリーがわかりやすいというメリットがある。
- 94 :
- (続き)しかし、もちろんこれはデタラメだ。畿内説も極端に言えばこれと似ている。3世紀の日本で畿内が北九州を中国への窓口として支配・統制していたなどと考えるのはマトモじゃないだろ。交通や通信はどうやっていたのか。
これについては何一つマトモに答えられないよな。
- 95 :
- (続き)エンタメ脳は一人の超人を設定することで話をわかりやすくしているが、畿内説も3世紀の古代人の置かれた劣悪な状況を無視して「きっと、我々の先祖たちは知恵と工夫で困難を乗り越えたに違いない」という幻想の上に持論を展開しているだけだ。
- 96 :
- (続き)実は、大和朝廷が広域国家を樹立した後でも道路の維持管理に関して、当時の庶民たちに多大な負担をかけていたことが古文書から明らかになっている。7〜8世紀ですらこのザマだ。3世紀ではどんなだったかは容易に想像できるだろ。
- 97 :
- 畿内説はやはりゴッドハンドに極めて近い w
- 98 :
- 伊都国が話の都だからね。
- 99 :
-
またニセスレ立てたのか・・・
と思ったら中古ゴミだった
- 100 :
- ゴミスレ
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