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魏志倭人伝を正しく読む


1 :2019/09/18 〜 最終レス :2020/06/11
建てれるかな?

2 :
前スレで
「鉄の移動から見て九州勢が大和盆地に入ったのは3世紀末か4世紀初頭 」とか言い出した阿呆が居たんだが。
物資が流入したら民族大移動になる理屈がさっぱりわからんのだが。

前提条件として、正史に邪馬台=ヤマトと明記されている現実がある。

神武東征が「あったとしたら」遅くとも2世紀代に神武が畿内入りし、邪馬台=ヤマト成立。
それは高地性集落の推移から明らかだと何度も指摘されてるだろ。
その際神武が多少の鉄器持ってきてても資源流通ルート無いんだから後が続かない。

人体殺傷力で石鏃に劣る鉄鏃で大量に攻め入るメリットは、この時代ではコスパ考えるとあまりないし。
石鏃民相手に鉄鏃射込むのは、貴重物資の雨を降らせてやるようなもんで、愚策でしかないし。
孔明曰く、「三日で10万本の矢を用意しましょう!」だな。
鉄鏃民同士なら、相手の打ち込んだ矢を回収すればイーブンだが。

卑弥呼共立以降は大陸(半島)〜伊都〜畿内邪馬台国=ヤマトの交易ルートが確立してることは倭人伝にきっちり書いてある。
それ以降に畿内への鉄流入が増えるのは当たり前。


そもそも、物資の移動と民族の移動を勘違いしてないか。
シルクロードの商人は中華から地中海世界まで一気に踏破した!すげぇ!って思ってるクチか?

普通にリレー輸送だよ。

3 :
>>2
はいはい負け惜しみお疲れさんw
リレー輸送?
わざわざ独占による優位性を自ら捨てたという根拠を出してねw

貝輪の分布から見て弥生後期〜晩期に北部九州の海人が瀬戸内海を東進したのは間違いないが、彼らが訪れた場所には鉄も来ているので矛盾する
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg

大阪湾岸には鉄工房がもうあるので海人の支配領域に入っていることが分かるが、一方で奈良盆地内には弥生末まで鉄器がほとんどない
このことは摂津、河内、和泉までが卑弥呼の頃の海人の進出限界であり、大和にはまだ海人が入れていないことを意味しているが
すでに包囲網は出来上がっていたと言える
また琵琶湖の西側の安曇川周辺には三世紀までに安曇が来たと考えられており、山城も海人の領域である可能性が高い
奈良盆地は東西南を山に守られているが、北側は木津川沿いに平地が多く比較的守りが薄い
神武が九州の落ち武者と考えると、この状況で大和に安住できるとは考えにくいだろう
まして鉄器ももたずに土着勢力を従えたと考えるのはかなり苦しい

やはり弥生末までに大和を包囲していた海人が三世紀末か四世紀初頭に大和まで制圧を果たしたと考えるのが鉄の軌跡から見ても自然だろう

4 :
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる

このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない

神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない

証明終わり

5 :
>>2
>その際神武が多少の鉄器持ってきてても資源流通ルート無いんだから後が続かない。
九州から東征できるなら当然九州からのルートがなければおかしいですが?
九州に地盤がない程度の雑魚は瀬戸内海諸国をスルーして畿内を征服することなどできません

こういう当たり前のことを考える脳みそが無いから畿内説は負け続けるんですよw

6 :
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

7 :
>>6により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

8 :
過去スレで挙がったソースを総合的に考えた結果の各国配置
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg

9 :
おっと正式スレが立ったようだな
この荒らしが立てたスレは廃棄処分で

10 :
移動先

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬捌
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1568757372/

11 :
>>5
>九州に地盤がない程度の雑魚は瀬戸内海諸国をスルーして畿内を征服することなどできません

筑紫の基盤を捨てて都落ちしたのが神武。
大和に入ったのも、記紀によれば先に王国を建設していた饒速日(物部氏と尾張氏の祖)を頼ってのこと(記紀にそう書いてある)。
だから、大和には3世紀になっても鉄はない。
海人族の活躍の場はあくまでも河内や摂津、尾張などの海運に適した土地だ。

12 :
移動先

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570409525/

13 :
了解

14 :
さっぱり読んでないじゃんw

15 :
移動先

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570409525/

16 :
>>843
>逆になんで自生してなかったと思うの?

気候!  公孫氏の領域が温暖な地域なのかね?  帯方郡に「橘」が自生すると?  何考えてんの?   @阿波

17 :
>逆になんで自生してなかったと思うの?
気候!  公孫氏の領域が温暖な地域なのかね?  帯方郡に「橘」が自生すると?  何考えてんの?   @阿波

18 :
>>16
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョン

19 :
>>17
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョン

20 :
今日は文化勲章親授式。

その親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  

21 :
>>20
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww

22 :
移動先

【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570409525/

23 :
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/52348696

24 :
移動先
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570409525/

25 :
 

倭国大乱と古墳期の始まりの符号

  

26 :
移動先
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬玖
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1570409525/

27 :
移動先
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾壱
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1577870052/

28 :
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

29 :
>>28
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョン

30 :
>>29
いや泡チョンはこんなまともなことを書けないから違うな。

31 :
>>28
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

32 :
>>31
以下を理路整然と反論できないお前は負け犬。
負け犬の遠吠えはレスの無駄だから慎みなさい。
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

33 :
>>32
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。
女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当
見事なコンビネーションだな

キナイコシ、ナイスアシスト!
グッジョブ!!

34 :
理路整然と反論されたキナイコシは負け犬のまま

35 :
>>33-34
負け犬の遠吠えは虚しいぞ。
いい加減諦めろ。

36 :
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない

原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”
和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

37 :
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

38 :
伊都国の内情
原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。
千余戸有り。
世王有り。
皆女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。”
現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。
(人口は)千余戸ある。
代々の王がいる。
みな女王国に従属している。
(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。
解説:
三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、
女王国に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指す。
つまり、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である証明である。
また三国志における魏代の刺史は官と同義であるため、すでに伊都国には爾支という官が務めているのだから
魏の刺史(=官)と同等の一大率は伊都国の役人でないことは明白。
つまり、一大率は女王国か直属の役人であり、伊都国には属していない証明である。
結論:
伊都国は女王国ではなく、女王国に従属する諸国の一つであり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。

39 :
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、東武陽県に役所を置かせた
☆紹歎其能徙爲東郡太守治東武陽 袁紹は臧洪の能力に驚嘆し、東郡の太守に転任させ、東武陽県に政庁を置かせた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣?如舊 (閻柔に)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務させた
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下は先主を荊州の牧に推し立てて、公安県(を州都として)で執務することにした
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県を統治)に任命して、海昬県に役所を置かせた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 程普を呉郡の都尉に任命し、銭唐に役所をおいて執務させた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、建業に役所を置かせた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 政府を開設させて、その役所は半州に置かせた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

40 :
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。
・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い
女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。
刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。
中国大陸は広いので、報告するに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから(水行10日)、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。

41 :
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない


原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。


よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

42 :
伊都国の内情

原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。
千余戸有り。
世王有り。
皆女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。”

現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。
(人口は)千余戸ある。
代々の王がいる。
みな女王国に従属している。
(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。

解説:
三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、
女王国に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指す。
つまり、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である証明である。

また三国志における魏代の刺史は官と同義であるため、すでに伊都国には爾支という官が務めているのだから
魏の刺史(=官)と同等の一大率は伊都国の役人でないことは明白。
つまり、一大率は女王国か直属の役人であり、伊都国には属していない証明である。

結論:
伊都国は女王国ではなく、女王国に従属する諸国の一つであり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。

43 :
使 大倭 監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
この一文の主語は、使、つまり247年の張政です。 
張政は、大倭 、を見た。 
女王国以北についてを検察する一大率があり、諸国はこれを畏憚している。
常に伊都国において統治している。
詣京都 帶方郡 諸韓國への王の遣使、及び倭国への郡使は
皆、港で傳送文書や女王への賜遺之物の検閲を受けている。
つまり、一大卒は、女王国より上位の
大倭国が派遣した刺史のようなものである。
238年の梯儁は、この検閲を受けていないし伊都に常駐もさせられてはいない。
皇帝の使者として女王への印綬に来ているのであって
こんなことが有れば、戦争になる覚悟と軍を率いた将軍なのである。
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
女王に属する王は皆伊都を往来していて
郡の使である張政が常駐させられたが、壹與や難升米への檄告喩は
この伊都で為すことが出来た。
これは、247年の伊都までで帰った張政の報告である。
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
は、238年の梯儁の行軍の行程。

44 :
コレで解決↓!
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。皆女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は諸国の一つである)伊都国に役所を常設した。(一大率とは魏の)長官と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國の一つとなる。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であったため、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
結論:
思考を停止させた古田信者や郷土愛に狂う糸クズ、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する諸国の一つであり、女王国にはなりえないのは明白となり、
一大率は伊都国に常設した役所を女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。

45 :
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守に任命すると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣?如舊 (閻柔は)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県)に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

46 :
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。

47 :
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。「治+地名」は24か所。

うち22例にて、"設置者(A)+治+地名(B)"は、
「Aが自らの役所を(Aの管轄域の中心地である)Bに設置した」の意味。

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖を兗州東郡の太守にすると発表し、太祖は東武陽県に役所を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡の太守に転任させ、臧洪は東武陽県に政庁を置いた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣ィ如舊 (閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下が先主を荊州の牧に推し立てたので、先主は公安県に役所を置いた
☆治成都 (先主は)成都に役所を置いた
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌(6県)の都尉に任命して、太史慈は海昬県に役所を置いた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧を拝領し、公安に役所を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 孫策が程普を呉郡の都尉に任命したので、程普は銭唐に役所をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、呂範は建業に役所を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 (孫慮に)政府を開設させて、孫慮は役所を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

48 :
>>46は間違い
47をよく嫁w

49 :
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。

50 :
>>49
韓人版

日本人版


51 :
根拠
自女王國以北について:
「自女王國以北 其戸数道里可得略載 其余旁國遠絶 不可得詳」

”自女王國以北は女王國を含む”

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北には 一大率を特に置き、検察す。諸國は之れを畏れ憚る。常には伊都國に治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国内とその北方に対しては、一人の大率を特別に設置して、検察している。諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。(大率は)普段は伊都国で働いている。(大率とは)(陳寿と三国志完成当時読者の暮らす西晋における)刺史(監察官)と同職のようである。

解説
まず、余旁國との対比によって、自女王國以北は女王國も含むことがわかる。
また刺史は、もともと漢の設置した監察職であったのが、三国志の戦乱期には一時的に長官職となったが、
西晋初代皇帝が全国統一を果たすに及び、職権乱用を粛清されて元の監察職へ戻された。
女王國は女王が支配しているのだから、女王國をも担当する大率は支配官ではなく、女王國の監察官である。

52 :
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣?如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

53 :
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
以上。

54 :
>>53
大正解

55 :
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
女王国に統属する王は皆、使(張政)の常駐した、伊都を往来していた。
主語は、王皆統屬女王國と郡使が並列していて、往來は王皆、常所駐は郡使が当然。
對海國、一大國、末盧國、伊都國、不彌國は、邪馬台国21国に含まれていない。
對海國、一大國は、本州勢力も渡海時には往来した独立島領として、
末盧國、伊都國、不彌國は、247年の張政の倭人船便乗の旅程で立ち寄った際、聞いた地名。
240年梯儁が参問した筑紫21女王属国のいずれかに含まれる、
王は居ない都市港の地名であると読むべき。
使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
一大卒は、まあ、伊都国にあるということ。 
諸王の洛陽、郡、韓への遣使 及び郡使倭國は、皆港で文書や女王への賜物ですら、検閲を受ける。
不得差錯の主語は、渡海する諸王や郡使であって、一大卒に対して 検閲を免れない。 のである。
一大卒は女王より上位にある、大倭国が設置した刺史の如し、である。
陳寿の文、というか漢文一般に主語が判りにくいが、
行人偏の付く動詞は、主語の確認を要求しているのではないかな?
從郡至倭 使譯が主語で、二回の使譯の説明よって倭に到るには。
自女王國以北 其戸數道里 可得略載  これは陳寿の付加説明
で、
南至投馬國 水行二十日 ここで、主語は張政から梯儁に変わっている。
梯儁の説明の段落は、陳寿の付加説明をはさんで、
邪馬台国列記21国の詳細、此女王境界所盡、其南有 狗奴國
自郡至女王國 萬二千餘里 までである。 
張政は伊都まで、梯儁は女王宮まで到達した。
同じ行程ではなく、魏使の行程は2通りある。

56 :
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

57 :
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

58 :
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

59 :
>>58
伊都国の皆が女王国に統属したのなら、
伊都国は女王国の完全な内部。

>>52
そして一大率が伊都国に治するのであれば、
伊都国が女王国内の主要地。

60 :
>>59
ダメだ
正しくは
伊都国の皆が女王国に統属しているのだから
伊都国は女王国の完全な植民地
そして一大率が伊都国「を」治するのだから
伊都国が女王国唯一の貿易港

61 :
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。
“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、東武陽県に役所を置かせた
☆紹歎其能徙爲東郡太守治東武陽 袁紹は臧洪の能力に驚嘆し、東郡の太守に転任させ、東武陽県に政庁を置かせた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣?如舊 (閻柔に)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務させた
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下は先主を荊州の牧に推し立てて、公安県(を州都として)で執務することにした
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県を統治)に任命して、海昬県に役所を置かせた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 程普を呉郡の都尉に任命し、銭唐に役所をおいて執務させた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、建業に役所を置かせた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 政府を開設させて、その役所は半州に置かせた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

62 :
糸クズ必死すぎるだろ

63 :
伊都国に女王卑弥呼が居たなんて書いてない。
一大卒が駐留していた場所が伊都国。
張政が伊都国に駐留させられた247年には卑弥呼は墓の下。
この伊都に壹與や近隣500里の奴国王の難升米が往来していたので
常駐した張政は、来日目的の檄告喩という仕事が完了した。
240年の梯儁が訪れた卑弥呼の王宮は、次有邪馬國に在った。
ちなみに倭人名にはその出自国または地名を冠する。
官有伊支馬  壱岐の馬
次日彌馬升  彌馬国の升 多分、邪馬國
次日彌馬獲支  同上獲支
次日奴佳鞮 奴国の佳鞮 または、奴佳国の鞮
奴国王(大夫) 難升米 奴の升米
都支國王 都市牛利
巳百支國王 伊聲耆掖邪拘 が例となる。
なお、
(筑紫)国王 卑弥 呼 と その南狗奴國(熊本)王 卑弥 弓呼
卑弥は単に、首長国連邦の王、火見、火山信仰のシャーマンかもしれない。
子(女性)とヒコ(男性)の和語を漢字化しただけ。
魏使は、宮崎なんか行くわけ無いから投馬国は都万のわけが無いwww
女王国(筑紫)以北で5万戸は、韓伝の弁辰韓、辰韓24国の5万戸しかない。
弁辰韓には狗邪國が存在するので、
魏は、半島南岸が倭人国の北岸であるとするほど、
帯方郡以南を何も知らなかった。 
筑紫に247年の拘留された張政以外の郡使が常駐するわけが無い。
韓伝の記載は、246年に韓王朝を滅ぼし、臣智の官制以降の話。

64 :
つづき
247年で魏と倭人軍の外交を諦める調査=三国志参戦への檄、告諭をした張政は、
一大卒に拘留されていた。 皇帝の恥は書けないだろう・・・ 
かっこつけんなw
半島南岸に移民国、航海ベースの倭人国は有ったし、新羅王は倭人移民だろ?
魏が馬韓、辰韓が倭と接すると思うほど無知、不可侵でも、
日本の進駐軍、任那は楽浪帯方撤退の、313年以降の設置。 のはず。 
倭の五王は富国強兵成功後の400年以降に南朝との半島軍事権交渉を持った。
313年、楽浪帯方を追った高句麗王は、
350年以降、中華貴族の楽浪候、幽州刺史として、半島北部の王。
日本はこれと戦争して、牛馬の移入と鉄の国内生産を成し遂げた。
三国志の刺史は官では無く、皇帝となった戦国王の出自だよ?
倭人伝に書いてあるのは、
記紀ファンタジーみたいのじゃなくて魏晋から見た歴史。
空白の・・・ 書けなくなっちゃうよなwww

65 :
伊都国に代々王がいる。
(中略)
王の名は曰く卑弥呼と。
狗奴国の王を例外として、倭国に王は卑弥呼しかいない。

66 :
.

最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.

67 :
>>56
>邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

数年前に見て驚いたのだけど、この資料は、邪馬台国を完全に説明できている、
考古学として、邪馬台国の範囲が完全解決してるのだけれど、なぜ未解決だ?
邪馬台国時代の遺物がこの範囲で収集出来ているのなら考古学は解決だろ?
文献推測に考古学がついてきた?

自郡至女王國 萬二千餘里 
=女王とはこの極南界の王宮で会った。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
=この範囲が、女王国であって 其餘旁國遠絶 不可得詳 である。

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
=参問した邪馬台国可7万戸の 21王国はこの範囲に在り、周旋可五千餘里
である。

レスの宮崎については、意味が判んない。
遺跡の200年辺りの年代と中国系の出土物が240年前後で一致するとか?
博多湾に上陸〜陸行1月で女王印綬が済んでるのに、なんで関門海峡水行?

68 :
>>67
博多湾に上陸〜陸行1月で女王印綬が済んでる、という意味が判んない。

69 :
日本列島のどこにも海岸から陸行一月かかる場所などない。
陸行一日の誤りだろう。

70 :
>>67
>レスの宮崎については、意味が判んない。
>遺跡の200年辺りの年代と中国系の出土物が240年前後で一致するとか?
宮崎県は投馬国だろうね。
都万神社という非常に古い宮がある。

71 :
>>67
>数年前に見て驚いたのだけど、この資料は、邪馬台国を完全に説明できている、
>考古学として、邪馬台国の範囲が完全解決してるのだけれど、なぜ未解決だ?

日本の始まりは神武が即位した大和でなければならないという無意識の主義を持つ狂信者がいるから。

72 :
>>67
考古学者の言ってることを完全無視した資料だからだろ

73 :
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.

74 :
>>69
出雲から大和まで(もしも)陸行したら一月かかる

75 :
そんなバカいないだろ

76 :
>>72
どの考古学者のこと?

77 :
>>74
畿内説は河内から上陸じゃなかったのかよ。
畿内説は相変わらずその場限りで適当なことを言うよな。

78 :
河内で土器を捨てるから河内の土器が大和に流入しないとか、大和川を遡るとか言っていたから、陸行一月は機内説に矛盾するね。

79 :
一月行という単位については、出例は極めて少ないが
旧唐書に 倭国の範囲を 東西五月行 南北三月行 とした記述がある。
あるいは帯方郡から済州島の水行が3月行という例もある。
唐書には奈良までのぼり、王タラシヒコに謁見している遣隋使時のデータが有る。
この時、日本領と確認できたのが、
南北は九州の南北程度、東西は九州から奈良の東の山までという事。
その東(北)は、相変わらず 其餘旁國遠絶 不可得詳 なのである。
九州南北3月行の、3分の1が 1月行で良い。熊本(狗奴国)の手前が女王宮。
これは、領土の大きさを示した単位であって
陸行水行でも同じ、徒歩、馬、船の性能、風向きも関係ない。
つまり、経過期間を示すのではなく、漢魏〜隋唐に残った、
官僚や軍人が知っていた東夷概念図の地図上の座標と考えるべきだろう。
倭人伝では、好例として 又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至 が有る。
九州南岸から東南船行一年は12月行とすると小笠原である。
信じがたいが距離は一致する が、洋上で一年という期間は有り得ない。

80 :
そりゃ、本州の沿岸伝い、伊豆七島伝いに、小笠原まで1年だろ。
ま、いい線だ。

81 :
jhg

82 :
>>80
日本海なら、縄文海神の航海知識ってこともあるけど
漢魏で日本の太平洋岸に、そんな航海知識が有ったら
大和朝廷成立しなかったと思うのよネ。
遣隋使帰国に便上の裴世清が初の瀬戸内海入り本州上陸でしょ?
唐には、不沈空母の日本と戦争できる海軍力なんて無かった。
まあミサイル将棋以前だと、後の、ロシアでもだけど・・・
白村江海戦は、日本が保護してたけど亡国につき不要になった百済人を
唐と結託して奴隷化の新羅人支配者から遠ざけて送還した船を
唐も服従しない倭人背景の有る、
百済人は要らないから攻撃したんだろ? 
歴史は繰り返しそうだな? またかよ??
日本船が水行20日の
あんなとこまで行って、戦争するかナ? 
戦争するなら釜山港だよ?
あ、話が飛んだwww
中国から神津島まで黒曜石取りに行って
銅鏡と交換してたのかナ? で、黒曜石要るか?
まあ、小笠原から三足青銅器出たら絶対徐福っぽいけど?
実は、始皇帝が縄文人ルートで指名手配の徐福を詐欺罪で捕獲してた。
とかネ。 不老長寿薬の島、無いって知ってんじゃんwww

83 :
なにもわからなかった昔に戻りたい〜♪

84 :
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

85 :
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

86 :
魏志倭人伝だけ目を凝らして隈なく読んでもダメだよね
隋書に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」って書かれてるんだから
邪馬臺=ヤマトで確定なのに、世の人々は何を難しく考えてるんだろ?

87 :
ヤマトは九州というだけ

88 :
>>86
それは地名が似ていたから隋の使いが勝手にそう思い込んだだけで何の裏付けも無いぞ
実際はヤマトなんて地名は北部九州だけで数カ所もあるありふれた地名なんだが、隋の人間がそんなことを知る由も無い

そもそも魏志から数百年も経っているのに見ただけで分かる訳がない

89 :
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.

90 :
>>86
邪馬臺=ヤマトで確定
そこだけ読んでもダメでw 舊唐書 がこれを訂正しています。
日本國者 倭國 之 別種也 以其國 在日邊 故以 日本 爲名
或曰 倭國 自惡 其名不雅 改 爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
日本国の都於邪靡堆、は魏志で倭人伝の言う倭国=筑紫 
を統合した後に成立した王朝の都です。
魏志の陳寿も、隋唐書の編者も魏帝が倭王とした
筑紫が小国だったことの恥を あからさまには書いてはいない。
陳寿に至っては、場所まで曖昧にする工作を施している。
中華の正史は皇帝の恥は伏せる。

91 :
国力から言えば、邪馬台国時代の九州北部は小国どころか列島の覇者であった。
それは記紀において出雲を下した天津神が筑紫を豊橋原中国の都と定めたことからもわかる。
魏志倭人伝において、奴国は単一の国邑としては東夷世界で最大の国邑として記録されている。

92 :
な? 九州論者は電波ばかりw

93 :
弥生時代の大和とは?
大和については史書に記述されている通り、市場の監視役でしたとさ
畿内説の考古学者は理系どころか文系も苦手な運動音痴なので、勝手な妄想で架空歴史を捏造しているだけなのです
それゆえに日本は歴史を知らないと特亜諸国から馬鹿にされているのです
■魏志倭人伝
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。

94 :
そう、国ごとに大倭(=大和)がいた

95 :
倭というのは漢代以前から、中国で日本列島民を意味する漢字。
これに大を冠して市場の監督官を意味する語ができるわけが無い。
使は、主語である魏使。
ここでは伊都で一大卒の存在を知った張政。
使 大倭 監 之 自女王國 以北 特置 一大率
檢察 諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史
王 遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
247年、245〜6年の黄幢、檄を無視した女王国に
塞曹掾史張政を 査察官として送った。
これが女王が主権国家の王ではないとする、その報告であり、
魏と女王国の外交は247年で終った。 
壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
に、皇帝の返書、返礼は無い。
これが、日本が参戦しなかった三国志の魏志倭人伝の結末である。

96 :
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

97 :
.

最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.

98 :
日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測
弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石(といし)などとされてきた150例以上は
筆記用具のすずりでは? 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最新論文でそう指摘している。
日本での本格的な文字文化の広がりは5世紀ごろともされるが、石製品がすずりなら、文字の使用が紀
元前にさかのぼる可能性を示唆する。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5340WDN51POMB002.html?_requesturl=articles%2FASN5340WDN51POMB002.html&pn=4

99 :
砥石と硯なんて、削れ方とか表面の付着物で区別できないものなのかな?

100 :
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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