TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
(´・ω・`)サイコキネシス知らんがな
金正日の命日、書き込んでくれ
超能力はほんとにあるのか
麻原彰晃
超能力を身につける方法ないかな?
「自分が人間じゃない」意識に悩む人いる?
超能力捜査ファイル ★8
もし魔法が3回つかえたら?どうすんべ?
【スピ寄り】パワーストーン2【マニア向け】
愛知・女子高生殺人事件
424 :
>>422-423
心配事が生まれるのは何故だろうか。
例えば、俺はホラー映画とか好きじゃないんだが、
自在にそれよりもっと怖いものを頭で想像できる。
怖いものの作り方を知っている。
それに打ち勝ちたい。しかし、打ち勝てる以上の怖いものを想像してしまう。
怖い物や作品などを作ることができる。
しかし、作ってはならないものがあるのがわかっている。
怖いものを生産して社会貢献というのは違うと思っている。
そのうちに、心の中で、一番最初に手をつけるものが、その怖いものだと気付く。
そのうちに、その怖いものを想像するのよりも、もっと限りなく想像できるものがあるのに気付く。
それは、その怖いものを無力化するくらいに強力でもある。
君の場合は、破壊などの暴力的なものが、俺で言う怖いものに当たるのかもしれない。
自分に対して破壊や暴力が襲ってきたら、また、そのような心配が残っていたら、
まだ、破壊や暴力が自分の武器であると思っているところがあるのかもしれない。
適当だが。

425 :
なんというか、発想の転換で補うのは、付け焼き刃だ。
いや、発想の転換や創造力は俺も大好きなんだけど、
自分の心に根付くものに対しては、あんまり効かない。
例えば、君の親の葬式、などを発想の転換で別物にすることはできない。
自分が強烈に想像可能なものは、
自分が乱用できるものであり、自分の最大の弱点でもあるのかな。
今の自分にとって、一番勘弁して欲しい悲惨な状況のイメージに、
なにか自分ひとりで取り組めるものがあるかもしれない。
まだ、潰していられる暇があるのだから。

426 :
ん。なにか久しぶりに変なものが俺の体にくっついた感じがある。
自分でくっつかせたのか、どっかからかくっついたのか知らないが、清めるとするか。
放っておくと、この変なものの感触に慣れてしまう。
自分に要らないものだとしても、それを味わった実感がなければ
今がどうなのか判別つかなかったりするのは、何時まで経ってもこんな感じなのだろうかね。
要らないものを味わったあとでも、またその後どれだけ迅速に対処できるかというだけで、
分別ついた後も瞬間的に再び要らないものを味わっているわけだ。
味わうことなく分別をもとに対処できるようになるのだろうか。
まあ、唐辛子を舐めないことには、辛いっていう分別はつかないわけだな。
その後、物質化された唐辛子らしきサインを予測することで回避できるけど、
その新しい個体の唐辛子の辛さは、やはり舐めてみないと分別つかないな。

427 :
よし。さっぱりした。

428 :
心配事か……
いくら便利な道具があっても、それを使う人の技術が伴わなくては、使わない方が賢明な場合がある。
それは、ユンボで隣の建物を壊しちゃダメだろ…みたいな基本的な問題だ。
どうやら私は技術試験に合格した。これは、すごいことなのだ。ユンボを操るよ!
ただ、周りから見たらハラハラドキドキなのだ。技術の証明は現在進行形なのに、みな待てないみたいね。
こいつ、失敗するんじゃね?どうしてあんなやつが試験通ったんだ?俺の方が上手く扱える。
恐れや不安は、ストレスとなり、ストレスは、違った恐怖を生む。怒りだ。
私には、資格はあるのに、資格がない。資格がないのに証拠はある。証拠はあるのに、証明できない。証明できないに資格がある。
確実ではないのだったら自分で仕事をした方が確実だ。
そのうち、人々は好き勝手に工事を始めるでしょう。それでもいい、その方がありがたい。
ただ、困ったことに今のところ設計図を知っているのは私だけみたいだ。これも力かな?
人に設計図をコピーして渡したり、説明も、中身を見せることも出来ない。伝えるとはそのまま指示となる。
大工見習いAは、棟梁になる?じゃあ、棟梁の条件てなに?
私が恐れること、それは、こういうことなのだ。今の私は何も言えない。事実は公平であり不平等なのだ。
力には二種類の作用がある。「創造」と、「破壊」である。
そして、それらは常に相対的な判断に基づき、不安定な判断は、理性より感情に傾き、合理性より合理化になる。
私もみんなも猶予期間中なのだ。私はしばらく傍観者になろうかな。みんなが何を作ろうとしているか見てみたい。
創造が破壊となる条件。力が暴力となる条件。私の怖れは、みんなの恐れ。暴力は、怖いであって恐いわけではない。
自分の死、親の死は怖い。でも、他人の死は無関心は人類共通、共犯じゃないか。これが恐いの正体かな?
武器は弱点?弱点が武器なのに。事実と傲慢の線を誰かに引いてもらいたい気分だ。
そうだね、今、暇だから、また来るよ。つまらない話を聞いてくれてありがとう。


429 :
>>427-428
これは必然かな?
認識と感性。
ここまで僕が情緒的になることが、それを事実と証明しているんだろうね。
仮釈放中の受刑者みたいな。それでも咎められているんだよね、社会に。

430 :
>>427>>428の関連性がわからない。
名無し君の言うことは、ある特有の文脈を裏に持っているので、
それを知る人にしか良くわからない。
ということは、ななしさんがその意味を理解できる人なのかな。

431 :
>>430
伝えるのは、今じゃなくてもいい。
未来になって始めて分かることもある、ということかな。

432 :
>>431
俺としては、名無し君とななしさんの事の間に
俺のレスが絡まっているということに違和感があるんだけど、
名無し君とななしさんの2人だけでは駄目なお話なの?

433 :
>>428は、>>424-745に対しての感想だよ。
私は、長文になってズラズラ書くのが悪い癖だな。
決して荒らしに来た訳じゃないよ。
あと、名無し君のレスは、正直、意味不明だ。
76さんは、わかるひとかだから、何か話したくなったの。最近つまらなくて。
お邪魔してごめんなさい。
76さんの文章は個人的に好きだから、静かにロムするよ!
あと、名無し君は、知らん。
ではでは。

434 :
というか俺は、前から名無し君とななしさんを2つで1組で1個として捉えているんだな。
なぜかわからんけど、1個なんだよ。
いや、決して失礼な意味じゃないんだけど、感覚的に。
いや、気に障ったら、前言撤回する。
>>433
静かにロムすることもないし、お邪魔もしていないから気楽にしてください。
>>431
でも、名無し君は、絶対になにかいつも伝えたい衝動を持っているんだよ。
いつも照明弾を空中に炸裂させているんだよ。

2人が仲良くなると、万事解決、世界も解決とはならないのかね?
いや、この話題に拘るつもりはないけれど。

435 :
いやいや、この訳のわからない会話の中で、俺が個人的に救われた点があるよ。
俺の彼女、天敵、強引な性格、強行突破のみが手持ちカード、超感情的、白か黒かの両極端、
要求丸呑み請求か全破壊の脅迫、頭脳不明晰、負の要因に突っ走る、事後承諾のみ、勝負好きの勝ち知らず、
こんな彼女がまたしても深刻な爆弾を爆発させたばかりで、
いや、もう面倒臭いからその全破壊の脅迫を実行してもらおうか、としていたところなんだけど、
上の会話をしていく中で、考え直す気になった。
俺が折れれば済むことだ。今、変更可能な値は、思考・感情を制御できる俺の姿勢・行動だけならば、
俺が変われば被害は最小限に抑えることができる。と考えついたところです。

436 :
>>428
一段落目は、猟銃免許保持者は猟銃を持ちたがり、使いたがる、という問題かな。
核弾頭ミサイル技師でも良い。打つための免許じゃなくて、管理するための免許とも思える。
ゲートキーパーが門の開け閉めしたがるのには疑問があるかな。
二段落目の、設計図の保持は、
・・・
ていうか、ゲートキーパーで良いんじゃないのかな?
番人は厳守する物を知っているが、それを行使するのが目的ではないような。
もし仮に、番人が番人であることに不服であるならば、
使っちゃえ、ってことなのか、番人辞めて司令塔の門を叩くってことなのか。
門番が門番であるための知恵を得た後に、司令塔に配属替えってことなのかね。
司令塔と言っているのは、それを望んでいるのだと思うから。

437 :
ここから以前の流れ。
---
>>397で言っていた隠陽についての
>ルバイヤート→シム観→
>この文脈がなければ、「これ」が活きない。というより、
>今は「これ」が活きるフィルターが前提で事が進んでいる。
>そして、それが「これ」そのものになる。
これ、オートポイエーシスっぽいな。
それ以前に、>>363で言った真真解釈の
>真が真と向き合って、真真真真っっっっ!!と無限増殖無限増大していては、
これも、オートポイエーシスっぽいな。
>>390
>発祥から世に広まった成り行きも、
>それはありえない形で姿を現し
>登場から過ぎ去るまで、幻想的だった。
>となっているようだ。カガミかがみグルンぐるんだね。
これも、オートポイエーシスっぽい。
この用語出してきた成り行きは、
もちろん、これについて俺は知らない。
さっき、哲学板を覗いてみたときに、この単語が目についたので調べてみたら、心当たりがあった
というものだ。それだけであり、だからどうしたというものもない。
これをどう発展させるかを考えると、
「実践」することで、自らこれになる。
なんか綺麗にまとまり過ぎてきているな。
まとまるということは、どん詰まり、ボトルネックの内側駆けずり回り、という感じがする。

438 :
んん。鏡=オートポイエーシスであると区切りをつけて、
玉と剣に進んでみるかな。
隠陽を突き進むのは今は辛い気がする。
三種の神器なんて単語連想で例に持ち出しただけなので、
なにか意味を求めるようなものなのか定かではないけれど。

439 :
>>224
>舞って生まれた風に乗る。生まれた風に舞う。倍音が一瞬を重ねて上昇していく。
これすらオートポイエーシスっぽいな。
んんん。これらのことからどんな仮説が立てられるだろうか。
無心になって、何も参考にせずに、言葉にできない感触を表現してみると、オートポイエーシスっぽくなる。
そして、それを実践することで、さらに倍々に跳ね上がり、麻雀の役満状態になる。
これを人は何と呼ぶのか。

440 :
>>434
確かに名無し君は、いい友人だね、仕事?のよきパートナーかな。
ただ、
>2人が仲良くなると、万事解決、世界も解決とはならないのかね?
これは、ありえないw
>>436
おお、私の下らない思いの丈をわざわざ解読してくれて、ありがとう……
うん、そういうこっちゃ。
それに、ゲートキーパーは暇なんだよね。鍵を手にした今は、物足りない。
むしろ、門番なのに、鍵を持ってなかったのが不思議だわ。
いや、私が鍵だったのか??厄介な悪霊に取りつかれたもんだ……
これは、私のひとりごと。
ああ、昔はここは難しくて意味不明だったのに、何だか面白いね。
哲学が好きな人は、何事にも美意識を求める気がするから、
せっかくの流れを邪魔してやっぱりごめんなさい。
うむ、何を話したらいいのかわからないな。
しかし、76さんが何者か気になることは変わらない。また何かあったら来るのだ!ではでは。


441 :
>>434
若い。この一言に尽きるかね。

442 :
外出する用事の傍らに、なにか本を持って行こうかと、文脈の流れも手伝って
「ある異常体験者の偏見」という本を本棚から取り出して持ってきた。
まだそれほど読み進めていないが、もはや、この流れは決まっていたかのような展開だ。
真実の問いの構造についても触れられており、別種の「目」についても興味深い。
争いと人間と、知ったつもりと欲の形、視野フィルターと真実と恐怖、
予言の構造に人間の性質、色々と考えさせられる。

443 :
>>441
俺も、名無し君は、今俺が読んでいる本の著者達くらいの年齢に思えるんだよ。
でももし、人間の身体がその精神と同等に老化しているのならば、
色々な面での「ゆるさ」が現れる。これは身体に染み込んだ物への不可逆的な進退
とも考えられるのだが、
名無し君は、新しい身体に宿る現時代の物ではない、もっと以前の精神という存在に思える。
>>442で得た知識を交えると、ここでの話では「欠陥兵器」という人間の身体を使うしかないままで、
何が一体できるのであろうか、と思うわけだ。
予測可能の確定事項に従えば争いは起きない。結果がわかっていれば何をすることもないからだ。
そこで、確定数値への変換効率が魔法的な「精神力」という新たなサイコロを振り、
結局、争いを起こす構造に突き動かされている人間。
君はそれを欲望と呼ばずに「欲求」と言った。
それを得なければ存続できない、というものだ。
堂々巡りの円運動を崩してはならぬ、ということにもなる。
また、そもそも、「生存」というもの自体が、別種の「目」により脳髄に焼き付けられた拒絶反応ではないのか、と。

444 :
今のところ、とりあえず今俺に飛び込んできている本、
これについては考えさせられるばかりなので、俺の思考というよりも
本のなかから気にかかる部分を文脈に繋げていきたい。
今読んでいる本の著者が言うには、日本語では戦争は出来ないらしい。
戦争は、戦争語という言語によってもたらされるらしい。
命令をくだす責任者不在の命令語とでもいうのだろうか。
著者が「軍人的断言法」と呼ぶ詐術がそれにあたるらしい。
いくつか種類がある・・というより、この著者の独自の分析からの仮説にすぎないのだが、
その中でも、扇動の論理をつかうもの、人々の判断を規制することで、
自主的に術者が意図する決断を選ばせる、というものみたいだ。
事実、事実、問いかけ、事実、事実、問いかけ、というリズミカルに弁論することにより、
集団ヒステリーが引き起こされ、判断力低下・蓄積エネルギー増加という
エネルギー爆発寸前状態に持って行き、最後に標的を記号的に定めることで
耐えきれなくなった集団の誰かが引き金となって、一斉に爆発を開始するというものらしい。
爆発後、扇動者は騒動の煙に巻かれるように姿を消す。
書きながら怖くなる。著者は当時の見解で、イギリス人はこの扇動に罹りにくいらしい。
シェイクスピアの中で事細かにその扇動の様子が描かれており、それを既に学習しているからのようだ。
俺の今まで書いていた文章にも、人の判断力を低下させる要素があるかもしれない。
無意識にそのようなことをしてしまうのは大変なことだ。わかる感触について述べていたのにも関わらず。
扇動者が扇動者になるのは、爆発をさせ、的を攻撃するところにあると思う。
蓄積されたエネルギーを欲求不満のまま維持させずに、安らかな方向へ解放するすべはないものか。

445 :
この扇動の論理、まさしくも使う者の道徳と倫理次第となる。
美術の分野で、例えば、馬の絵があるとする。
しっぽがあり、胴体があり、足があり、首があり、
首から先は描かれていないとする。
このとき、見る者の脳は描かれていない馬の頭の部分を脳内補足し、
「馬」という絵として認識する。
ミロのビーナスが美しいと言われる由縁は、あの像に両腕が無いことがあげられるらしい。
像のとるポーズに合った腕を物理的に用意すると見栄えはせず、
両腕は見る者の想像、脳内補足させることで、美しいイメージとして記憶に残る。
この脳内補足は、扇動の論理の問いかけの部分の補足に当たり、
同じ論理を使いながら、非攻撃的な結果をもたらすことに成功している。
これらは俺の思考によるもの。
ここは本に戻る。
扇動を解除するためには、アンチ扇動とも呼べる、逆志向の扇動を、
扇動と同時に行う事が有効であると著者は言う。
ヘーゲルの正・反の構造を俺は思い出す。
しかし、ヘーゲルのように世界をこの単一構造で語るというものではなく、
あくまで扇動の動向に関してというのが俺の思うところだ。
合の向かうところもわからないままだ。

446 :
>>444にある
シェイクスピアの中で、は、シェイクスピアの作品の中で、
の書き間違いだ。
というリズミカルな、も、とリズミカルな、の打ち間違えだ。
今読んでいる本は、扇動の論理で終わることなく、さらなるものを提案している。
悪魔の論理、と著者は呼んでいるようだ。
絶対的真理にそぐわない態度・行動をしたものに、罪を犯した反省を強要するというものらしい。
この反省の強要が、判断の規制により自由意志領域が縮小したことを言われた本人に気付かせず、
やはり、自主的に術者が意図した決断を下すように働くらしい。
論の名前の由来は、聖書に出てくる悪魔による問いかけにあるようだ。
現実にこの論理が働くときには、絶対的真理ではなく、絶対化された自己が掲げられる。
できる・できない、という意思表明を請求し、言われた者はそのどちらに転んでも
倫理に反した、非人道的な罪を犯すことになるように仕向けるというもののようだ。
実例無くしては理解しにくい、俺の文章が拙いこともあるが、
探せば見つかるとは思う。
それにしても今読んでいる本、どうやら著者とどなたかの討論を一冊にまとめたもののようだ。
この本は真ん中くらいまで読んで、とりあえず置いておこうと思う。

447 :
でも、あまりにも中途半端なので一部引用してみる。
「それが正しいというのなら自らの体で生体実験をしてみろ、
 しないならば、おれの言葉を正しいとした証拠だ」
というもののようだ。生体実験とは、崖から飛び降りろとか、靴をなめろとか、
毒入りの水を飲め、などというどちらに転んでも言われた人が傷手を負うような
ものになるのが傾向らしい。
まあ、これらも論理層離脱、ベクトル離脱、切断できればいいのだが、
本に書かれているような軍隊の将校と二等兵という状況では、
離脱することすら重罪とされることが大いに予想される。

448 :
悪魔の論理の次には聖トマスの不信について書かれている。
それらは読んだが、とりあえずここらでこの本は閉じる。
出がけに抱えてきた本は2冊。一冊がこれ、もう一冊は同じ著者による
「人間集団における 人望の研究」という本。
別にこの著者が俺のお気に入りということはないのだが、文脈の流れというか、
思考の流れというか、そんな気分な俺の目が俺の本棚から感覚的に選んだ本という感じだ。
それにしても、沢山の本を買いあさる時期があり、全く読まずに本棚に置いておく、って
我ながら「揃えることで学んだつもりになっている」のかそうなのか、俺?馬鹿じゃないの?と
自分に問えるのだが、どうやらそうではない。
どうやらそうではないことを、偶然を辿るなかで感じている。
タロットカード(本)を本棚から一枚引く、というような感じか。
そのうちに、閃きに留まらず、本に留まらず、あらゆるものがその「偶然」のカードとなるのだろうか。
疑問文で終えると、上で言った扇動の論理を意識してしまって、どうもあれだな。
2冊目の本は、俺の文脈からは、誰もが第三の目を持った社会、
著者の文脈では学歴・地位・階級が意味を成さなくなる平等社会、
このデュアルイメージで俺は読んでいく。
序盤、どうもやはりなのか、ユダヤの話のようだ。

449 :
しかし、「虜人日記」がど真ん中、自身も敗戦後の捕虜生活を経験した著者が
平等社会に目を向ける、というより、
誰もが平等でしかなかった捕虜生活のなかで、著者の目に映った見逃せないもの、
無垢を実践に起こし倍音上昇することになった「質」は、
存在感大きく俺の目に映る。

450 :
「偶然」がまぐれ当たりなのか当然なのか、そんなことに驚かされるのにも疲れてきた。
そもそも如何なる文脈や俺の気分で、これから読む本を選ぶからといって、
何でもかんでも今ここで書いていることに繋げようとはしていないつもりであり、
この2冊目の本、「人望の研究」、あんまり関係のない方向へ話しが進むだろう、
気分転換の読み物になるだろう、と適当に思っていたのだが、
読んでいる途中でお茶を吹き出しそうになる。
中国思想が語られる中、眠たくなりながら読み進めていくと、
じゃあ、人望、人徳の徳ってなあに?という流れになってきた。
人徳が集団を治める、という流れである。
そこで西欧の儒教の解説書には、
「普通の能力とは異質で、同時にそれを超える特別な能力」をもってすれば・・(引用)
とあるらしい。それを著者は簡単に言い直し、
「異質の超能力をもってすれば・・」(引用)
昨今では超能力というと、スプーンを曲げたりするものに使われたりするので少々困る、と著者は言っている。
かくして、今読んでいる本は、言わば超能力についてと再定義され、再出発するという、
・・・俺の笑ってしまう驚きとその疲れとある種の幻滅は伝わるだろうか。

451 :
著者は、この”超能力”は、集団組織の支配・管理・運営(政)ができる能力、
という風に話を進めていくのだが、
俺は>>412で、
>支配欲や、権力・権威への欲望、陶酔、念願
>なぜこれら「GREED」が超能力や霊能力と密接に関係するのか
という具合に言っているのだが、
いや、ニュアンスも指すものの意味もちょっと違うはずなんだけど、
まあ、ものすごく分解していけば、繋がりがあるのはピンとくるんだけど、
俺としてはやはり不本意な連結でもある。
俺個人がそういう方面の話が好きではないことも相まって。
切り口は違う向きから、同じ対象へ。
俺の>>412はかなり不快な波長ではあるのだが。
なんかもっと適当に進みたい。偶然次第だが。

452 :
本を読むのが突然に面倒臭くなった。
今やらなくても良いことなんだろう。「九徳」の辺りでストップか。
「偶然」については探求をやめない。
別にこれといって俺から開始できることなどないのだが。
適当な言葉遊びの妄想でもしたくなった。
時間軸よりも上の次元ならば、時間軸を操作可能にするはずだ。
驚くようなまぐれ当たりの偶然は、決定論とか運命論的に捉えて言葉遊びすることもできるけれども、
俺はちょっと違うことを考えている。
過去の事象が原因で今起きる「偶然」
未来の事象が原因で今起きる「偶然」
偶然が上の次元の物ならば、簡単な理屈で説明することはできるはずはなく、
けれども、未来が原因となる、というような因果構造は可能になるはずではないかと。
妄想なんだが、俺はこの線を頭の片隅に残しておくのだと思う。

453 :
自己の未来は、他者の過去と考えると決定論的にもいけるかな。
運動を物質的にだけ捉えると未来の解釈に繋げにくいのか。
妄想のくせに、複雑でよくわからん。
ある人が木を植えた。それは、他の誰もが木を植えなかったから。
それは、木は植えられることになっていたから。
これが一応、未来と過去の事象の両方ともを原因とした形か。
しかし、まぐれ当たりの偶然が訪れたときに、それがまぐれとも言える「凄さ」というものは、
それを感じた本人、またはそう感じる他人の持つ視野フィルターが故であり、
「凄くない」偶然が訪れることを容易に推測していたからとも言える。
なんか上手く近づいていけないな。

454 :
偶然を追い続けると、しんどい。
どういうことなのか。
「それ」を偶然と捉える自己の意識は、「必然」として自己の、俺の言う「恐れ」を
選び抜いているからなのだろうか。
ダウジングと原理は一緒か。
関係ないが、先週テレビでやっていた「世にも奇妙な物語」を見た時に、これは使えると思い、
数日前に購入したホワイトボードを使いながら、番組を見ながらに
俺の天敵、彼女に決定論や運命論、それにシム観の解説をすることに成功した。
その次の日に、ダビンチの番組を偶然見かけたので、
それを利用して彼女に意思伝達の手段の解説をすることに成功した。
これを「成功」と捉えていたベクトルに過去の俺は乗っかっていたが、
その「成功」という扉をくぐり抜けたら、俺は別向きのベクトルに乗っかっていて、
今から見れば、その過去の俺は「失敗」を見事成し遂げたと言えることになる。
成功したと思っていたら失敗していた、何がどうなっているのか恐怖の片鱗を・・という部分のからくりか。
成功が予想つくということは、向きたいベクトルの念が有るから事前に成功と呼べるわけで、
恐らくその成功場面が何かのフラグ装置の可能性は普遍的に高いが、
フラグ装置を「成功」で通過後に自分が過去と同じ向きのベクトルでいられるかどうかは決定されていない。
個人的には成功でも失敗でもどうでも良いのだが、
自己の意志の向いている方向の同期先を何に合わせるか。
まあ、死ぬまで自己にベクトル持ち続けていたら不成仏霊と変わりがないじゃないかとも思うが。

455 :
>フラグ装置を「成功」で通過後に自分が過去と同じ向きのベクトルでいられるかどうかは決定されていない。
決定されていない、決定されている、戸惑うことも仕様に含まれる、
決定論      、運命論      、シム観
ここを考えることは出来ない、というのが本当のところか。
まあ、>>454最後の二行から、拘りやベクトルは無くしていけ、というのはわかる。
無くせないと言わせる感情が生まれるのなら、
その感情を料理する機会であるということか。
偶然はしんどいが、避けて通れぬ道であるか。
早いか遅いか、というか、となると、それは必然ではないか。
偶然=必然、
これを左右に分ける意識に問題あり、か。

456 :
76の言うことの意味は全て分かった。
結果論では無い、ということも。僕はその運命を流れるべくして生きてきたと。
分かっていたし、76氏も分かっていた。
だから見切りがついた。
得た。おそらく全てを得るための基盤。
陰と陽、正と負。今まではこの片方だけだったものが、両方になった。
初めから分かっていた。これはあくまで僕の為であり、誰かの為の行動ではないことも。
もう僕は縛られない。縛らない。
さて、僕はこれからどうなるんだろう?
どんな運命を辿っていくのだろう。
楽しみだ(笑)

457 :
とりあえず、名無し君へのレスは次の機会ということにして、別の事を書く。
なんていうのかな、現在進行形なのでレスをする必要も無いという言い方もできるのだろうか。
ここで書いていることなどには全く関係なく、自分の用事に必要な事を色々調べていたんだが、
大した用でもなく、パソコンにつなぐマウスでボタンが沢山ついてるやつとかを探していたんだが、
検索して色んなマウスの情報があるサイトを見ているうちに、
the Skeptic's Dictonaryというサイトのオッカムの剃刀のページに辿り着いた。
マウス情報散策からオッカムの剃刀へ。一体、どんなわらしべ長者なんだか。疲れる。
でも、まあ、ここに書くのだから、俺の文脈がバトンを渡した次なるものがこれなんだろう。
オッカムの剃刀そのものではなく、そのサイトのその情報。なにかとシンクロしている感じがあるんだろうな。
もう、この偶然について語るのさえ疲れてする気にならない。
そのページ下部にある「関連する項目:」に羅列された題目だけ見ても、俺には結構強烈に映る。
なんなんだろうね、ベクトルが様々な関連性のない情報を踏み台にしてぽんぽんぽんぽんって繋ぎ、飛び進んでいくというのは。

458 :
ページ最下端の左右のリンクさえ意味深に見える。
とりあえず俺がこれらのことから逃げようとしているのは伝わるだろうか。
逃げるというか、疲れてるときには勘弁してくれと俺は嘆いている。

459 :
そのサイトの他の項目やFAQも読んでみたが、オッカムのページ以外はどうでも良い感じかな。
逆に、他やFAQを読んだ後にオッカムのページを読んでみると、オッカムのページが上出来だったんだなと思ってしまう。
運動神経鈍そうな感覚というか、地縛霊っぽい感覚だ。
FAQに書かれている「確かなことは何もない」という命題から、「シム観」みたいな化け物に発展するモノがいる反面、
同じ命題から「懐疑論者」に身を落ち着ける、というのは、意外と眺めていて楽しいかもしれない。
これは面白いかもしれない。
「確かなことは何もない」という命題をもとに「創造」を行ったSimulated Reality。
「確かなことは何もない」という命題をもとに「破壊」を行った懐疑論。
破壊の方がちっぽけで可愛らしいという。

460 :
テスト

461 :
tesuto

462 :
助けて

463 :
久しぶりになってしまった。
記憶を辿れば、、
俺の天敵、彼女がバウハウスの展示会に行こうと言い出して、
ろくにデザイン知らないくせにバウハウスだなんてどんな風の吹回しだよと疑問に思ったが行くことにして、
案の定俺は煮え切らない悶々とした気分を抱えた状態で美術館をあとにして、
ついでに上野東照宮と谷中七福神にお参りしてきてから、なにやら風向きが変わった気がする。
俺のパソコンが壊れて使えなくなり、部品を買ってきて取り替えると別の部分が壊れ、
これが幾度となく繰り返されて、そんな状態では、しばらくネットからは離れた生活となり、
2ちゃんからは遠ざかり、別のサイクルにはまり出してきた感じがある。
さすがにこのスレ落ちてるだろ、と予想しており、
落ちていればそのまま遠ざかり、残っていれば何か書き込むか、というように考えていたのだが、
誠に残念なことにスレは残っていた。
おかしいな、地元のどこぞのお参り所で引いたおみくじは、大吉だったんだけどな。
そういえば、上野東照宮で彼女がおみくじを引き、
(俺は通常おみくじは引かない。上の大吉は風向き変更、パソコンぶっ壊れで偶然にも、しゃれで神頼みしたくなった)
そのおみくじの内容により彼女は痛いところを突かれた様子で、
俺には今まで成し遂げることの出来なかった、彼女の性格のある部分の更正が執り行われた。
日本語大して読めないくせに、そんな紙切れの謎めいた文字の羅列に何故彼女が心を動かしたのかは不明である。

464 :
はたして上野東照宮なのか、
芸大美術館までの大通り沿いにある古い木造建築物、これを一眼レフデジカメで撮ろうとしたら
なんとシャッター降りず、その後数時間デジカメ使えなくなったのだが、こっちのほうが原因か、
何であれ、とにかく、まだ色々と落ち着かない状態である。

465 :
谷中七福神ではなくて不忍池弁財天だったようだ。
弁財天だとは憶えていたが、グーグルマップで確認すると谷中七福神と表記されており、そう書いてしまった。
その後、地図を拡大してみると、違うじゃん、弁財天であってるじゃん、ということでした。

466 :
今度は彼女のパソコンが壊れた。
身の回りの物が壊れまくって生まれ変わる流れは、止められそうにないな。
金がもたない。

467 :
今度は鼻毛カッターが壊れた。眼鏡も厳しい状態になった。
なので、最寄り駅の反対側にある眼鏡屋に、眼鏡を買いに自転車で行ったのだが、
近道をしようと脇道に入っていったら、なんと道に迷った。
とりあえず勘で進んでいくと目の前に大きな神社が。○○八幡という名前の場所。
近所なのに知らなかった。ついでにお参りしてから眼鏡屋に向かった。
いつも始めてお参りする場所では、手を合わせてお初の挨拶をするだけなのだが、
ここ最近、挨拶回りが多い。

468 :
>いつも始めて
は、
いつも初めて、の変換間違い。

469 :
それにしても瞑想に入ると始まる額のジンジン感はどうにかならないものか。
これのおかげで力の入れ方をいつも確認できるという利点はあるが、以前はこんなではなかったぞ。
中高時代の毎週の座禅の時間にこんなものが現れていなくてよかったと思う。
俺自身への言葉。「離脱」は大切。風が強くてろうそくの火が消えそうであっても、
離脱して火をもとの強さに戻してさえいればよい、というようなことを俺は自分に伝えている。
火がある程度の強さで灯っていれば、ある種の「根拠のない自信」のようなものが
安堵と平穏をもたらして、何事にもポジティブにしか考えが運ばなくなる。
ある日のニュース番組に東国原氏と茂木氏が出演して、何かのトピックに大してクリップボードに書いていたが、
茂木氏が「根拠のない自信」と書いていたのを思い出す。
彼の情報源は「何」なのだろうか。文献だけでそこに的を当てるのは難しいのではないかと思う。

470 :
久しぶりに酒に酔った。
ところで、今日(もう昨日か)寝ていたら、膝あたりをトントントンって叩かれて起こされた感じがした。
そのことに不満を持ちながらシャワーを浴びていたときに首筋に触る感触が、おい、やめろよ、と。
ふと思いついたのが○○八幡にあったおきつね様の小屋?
これ、自分で悩んでないで、他人の助け借りてさっぱりしたいなとも思うが、取るべきアクションは何なのか模索中。

471 :
悪いものがついたとか、気の持ち方が屈折してきたという感じではない。
ただ、何かの歯車の回り方というか、空気というか、まあ、普通の俗的な言葉で言えば「運気」が前と違う。
前半戦終了で、後半戦は陣地替えして開始、なんか雰囲気違う、というような気分。
(空気が変わった、の比喩であり、試合とかは全く関係なし。)

472 :
台所の換気扇が壊れて、自分で直したら体調崩した。
全然関係ないが、俺は移転を繰り返すという鬱陶しい障害から長いこと抜け出せない。
このサイクルから何を学び取ることができて、どうすると課題クリアになるのか知りたい。
帰る場所がない、という問題を早々に解き明かさないと、嫌な現実になりそうだ。

473 :
表面の円形の部分を半円2つにわけて、それぞれ別の色を塗ったコマ、
それを回転させると中間混色を発生するというコマに、最近興味がある。
陰と陽が必ずしも黒と白でなくても良いとすると、別の面があるんだな。
陰と陽と弁証法と、中間混色。個々の解釈とか、合の解釈とか、そういうのはどうでもいいな。
卵子に到達する前に、変なくぼみに突進し始めてそこで朽ちる精子みたいだから。
陰陽と弁証法と中間混色の3つの色をコマにのせて回転させてみたい。
みたい、というか、この3つ同時に扱わないと、右脳が捉えているものを手から滑らせてしまう。

474 :
離脱とマイペースは似ているな。
マイペースって何かというと、生活しているときに常にテレビやラジオをつけていないこと
っていうのと似ているな。
別の話。
違う、って強く感じるのは、上で言った精子のような全面的却下、というような
そんなものがある。そんな感じだ。でも、見つけたいのは、違うと感じるものじゃなく、こいつだと感じるものだろう。
長いこと海外にいたときに、たったひとりだけ、そんな奴に出会うことができた。
そいつは俺とほぼ同年代、金色に照り輝く靴を履き、ピンクのパンタロンを纏い、黒い革ジャンの中には白いひらひらのついたシャツ、
空軍が持つようなサングラスをかけていて、長髪アフロヘアーだった。
「俺は橋の下で拾われた。」と言い、「毛むくじゃらな女性が好きで堪らない。」と聞かされもした。
キレているのは外見だけではないのは当たり前のこと。
自然と、普通の人とそうではない人についての話が始まるのは、これも当たり前のことなのかもしれない。

475 :
なあ、ここはお前のチラシの裏か?

476 :
>>475
答えるのが難しい質問ですね。
『私は「ここはお前のチラシの裏だ」と思った』という内容を口任せに疑問形としたと捉えさせてもらいます。
あなたの思ったことは、あなたの思った通りだと思います。それ以上の情報は伝わっておりません。
もし、その疑問に文面以上の意味を含ませていたとするならば、
質問の背景となる事柄が私には伝わっておりませんので、回答のしようがありません。

というような事務的な返答を用意してみたが、どうだろう。

477 :
このスレ全然落ちてくれないな。
久しぶりに酒飲んだついでに過去を振り返ってみよう。
>>441の名無し君の文章については、今現在も詳細はわからない。
名無し君が俺と結構似た思考回路=他文脈をフロントラインに持ち込む、ということくらいしかわからない。
このスレには、名無し君やななしさんを除いて2人ほど他のスレの人達が書き込んでいる。
>>475については何についての催促だろうか。外野ならばどうでもいいが。
陰と陽で別けるとすれば、俺は確実に陽になる。これに弁証法を適用すれば、反を利用して合を求めることは必然になる。
>>9辺りから名無し君は心理学を卑下しながら、心理学の環境を手に入れていることを示唆しているが、
最近俺は、認知心理学、特にアフォーダンスについて何か手がかりを見つけた感触がある。
哲学は、、関係ないが、哲学の本ってお金が勿体なくて買う気にはなれない。

478 :
アフォーダンスは認知心理学ではなくて生態学のほうだったか。
他の調べごととごっちゃになった感じがある。

479 :
コンビニに追加の酒を買いに行ったらお茶目なお客さんがいた。
酒ショーケースの辺りに俺はいたのだが、その人は横のソフトドリンクの扉を開けながら
「ぼく、これを買うんだ!」と口走っていた。
多分、酒に酔っていたのだろう。
しかし、その人の良い面だったと感じ取った。
20代後半くらいの背広を着た社会人だった。
我々の社会は、少しいびつな形をしているよな。

480 :
この短時間で俺のIDが変化しているな。俺がIPを変えたからだ。
#のコテなどつけなくても文章からすうっと入っていけば、わかるだろう。

481 :
今度は76と名前欄忘れているし。

482 :
とりあえず、ニュートラルに戻しておく。
丹田に力を入れてはいるよ。酔ってるけど。ああ、右上。よし。
皆無。ここでクリック。

483 :
酒飲んで長々と書いた文章を消して全然別の事を。
エゴとは加速度でしかない。
エゴは自己の体積や表面積などではなくて、加速度の度合いでしかない。
よって、そのエゴは誰のエゴだなんて事は簡単に言い切れない。
エゴを表現するのが自分なら、その加速度が増したときに自己に入力される外部の要因が
加速度増加の直接的な理由ではないとは言い切れない。自分が玉なら、坂があるから加速度が増すというように。
エゴが強いと言われる人は、加速度の測定結果を虫眼鏡で拡大して細密に見ている人なのだろうか。
例えばこれをエゴルールとする。このエゴルールを知っている者Aは、加速度を受け取った相手Bをぼやかして言動を出力する。
エゴルールを知っている他の人は、その人Aがぼやかした相手Bを、そのぼやかし方から理解してしまう。
エゴルールを知らない人は何が起きているのかわからない。しかし、エゴルールを知る人にとっては、
かなり明白にメッセージが飛ばされているのだと思えてしまう。

484 :
以心伝心を解明しようということなのか。
恋愛ストーリーなどによく使われる、
プロットに支配されたよくわからないテレパシックな人物の繋がりを明らかにしようということなのか。
文学や言語学的な含みや示唆によって構造的に説明できるものではない、明らかにそこにあるメッセージ。
俺がこれを書くのも、俺のせいではないということか。

485 :
そして、中和させるために冷血な冷酷な尺度を用いて、全てを自己から切り離す。

486 :
>>479で俺に「ぼく、これを買うんだ!」って言った人が
至近距離にいた俺の存在に躊躇した結果、どうすべきか瞬時に計算した結果に取った行動であるのを憶えている。
突拍子もなく頭を剃ってスキンヘッドにした俺に会った親戚が、「その眼鏡に色がついていたら、あんまり目を合わせたくないよね」
と言っていたのを思い出すが、俺は心の中で「そうなんだ。美味しそうなジュースだね♪」と囁いていた。
俺に俺の外見についての責任なんて有りやしない。それはもう天使のような微笑みで、無言で返したつもりだ。
しかし、あの場で「ぼく、これを買うんだ!」って言わなければならない状況というものを理詰めで考えてみると、
どうも俺が原因であったのは逃げて通れないように思う。
俺は北米の生活が長く、目線の使い方がちょっと違う。
目をそらさない。じろじろというより相手を最初から最後まで見続ける。
これによって、北米の人がは北米慣れしている人に気が付くというとかいうこともある。
基本的に道ばたで話しかけられる率は高くなる。目に見えないルールを知っている者同士で繋がっているということか。
肌の色でもなく、直接的に発せられている言葉でもなく、相手を判別することができる。
ところで、思ったのだが、
まあ、名無し君との話で音楽をよく例に使っていたので今回も音楽を例に取ると、
凄い演奏家が別の奏者と即興のジャムセッションをするとする。
この時に、@基本的なことA応用的なことB表現に自己を絡めた芸術的なことC超能力みたいなこと
という段階の技術を用いて相手奏者の演奏に合わせるときに、CCCCというようなことは有り得ないと思うんだ。
@@@@AAABBCという様な感じでセッションは行われるのだと思う。

487 :
俺は昔、海外の大学にいた頃に、エッセイ(論文)の書き方について独りで悩んでいたことがある。
起承転結、序・本・結論はわかった。イントロのグラバーも分った。対話の技術もわかった。
しかし、最初の一文と次の一文がどのようなものであるのかは定義しないのかよ、と。
著者のクリエイティビティに与えられた自由であるとも言えるが、そんな戯言では満足しない。
何にも無い所に突如現れる最初の一文をなぜ重要視しないのか、なぜ定義を避けるのか。
現実的な人の発する言葉、初めの一言にはとてつもなく大量の情報が含まれているのにも関わらず。
酔っぱらっている俺にはなぜこんな事を書きたくなったのかいまいちわからない。
俺の知ったことではない。

488 :
最近寒いし、思考が生産的なものに繋がらないなあ、わかっちゃいるけどどうにもならない、と感じていたのだが、
冷蔵庫にしまい忘れたタバスコがテーブルの上に置きっぱなしにされているのを見つけた。
タバスコなら、、タバスコならきっと何とかしてくれる・・!!そんな想いがよぎる。
おもむろに口に向かって数滴垂らしてみたところ、何だろうな、この電気ショックみたいな辛さは。
タバスコ舐めながら物思いにふけたりするのは無理だな。一気に夏が訪れたよ。刺激に脳みそ包まれるよ。
オレオレ詐欺につられてATMに駆け込もうとしている人なんかには、
「ちょっとまって。もう一度よく確認してみて。」みたいに抑止するんじゃなくて
「ちょっとまって。タバスコ舐めてもう一度考えて。」なんてふうにしたほうが
強制的に我に返ることができるかもしれない。
今日は良い発見をしたと思う。

489 :
火事場の馬鹿力なんだろうな。いわゆる緊急事態が訪れる。体内のことで精一杯になる。
心臓が弱い人はやらないほうが良いだろう。詳しいことはわからないが、新陳代謝の類が突如、自動制御される。
効果を確認するために沢山舐めすぎた。舌が痛い。胃が燃えている。
ミント系のガムなんかでは、電撃が走るような刺激を感じない。
机の脚に足の小指をぶつけても、飛び上がるほど痛いが思考は吹っ飛ばない。
タバスコだと、今までの気分や思考まで吹っ飛ばされる。気の通りが良くなるような、猫の全身の毛が逆立つような。
味覚ならではの伝達情報というのが気に入った。

490 :
タバスコは過度に摂取しないほうがいい。
心臓だか肺だかどこかそこら辺がピリピリ痛む気がする。しばらく経ってから、ぐったり疲れを感じる。けっこうな代償だ。
気力は充填されたまま、というのは唯一の利点か。体力を精神力に変換したような感じだ。

491 :
何故これに行き着いたのか全然良くわからないのだが、
ト.マベ.チさんという学者さんが出演しているテレビ番組の動画を見た。
今までこの人の名前は知っていただけで、実際何をしている人で、どんな業績を上げてきて、
どんな考えを持っていて、どんなしゃべり方をするのか等まったく知らなかったのだが、
「ああ、実に爽快なトークだなあ」と思った。
なんだか小学生の感想文みたいな文章だが、「爽快」これ、この言葉ひとつで良いじゃないか、という感じだ。
この人は「超天才」などと番組では表記されているのだけれど、とにかく頭の良い人ということなんだろう。
そんな人のトークに「爽快さ」を感じる。途中で解説者が分かりやすく説明を入れたりすると「不快」を感じる。
なぜだろう。そのトークのなかで、解説者による噛み砕いた補足が余計な負荷に感じてしまう。
トークの最中に司会者が何度も「理解できないから」と話をとめる。
何故とめるのか意味がわからない。今面白いところじゃないか、と俺は「不快」だ。
脳内に蓄積されている情報、記憶として脳に残しておく方法と情報として取り出してきて使う方法に、
俺の変な比喩で言うと燃費みたいなものがあるように思う。より多くを知り、より速く正確に演算し、
よりナントカカントカな性質を次々と生み出していくには、脳内情報処理の燃費が良いにこしたことはないと思った。
記憶や理解が燃費効率高く処理されれば、自ら「爽快」に感じながら次のプロセスに移れる。
この人のトーク、脳から情報を引き出して即座に言語に翻訳して口から喋る、という脳の作業を声として聞いているのだが、
その旋律に「爽快感」がある。ということは、この人はもの凄く高い燃費効率で情報を脳に入れていると考えられる。というか感じる。
個人的な話では、この人の着眼点や姿勢も、良い意味で興味深いと思った。

492 :
で、この人の話の内容を俺の自我にからめて考えると、
上の上のほうから俺が色々書いていることは、俺自身も根拠不明で思いつくことを
何だか良くわからないベクトルのようなもので串刺しにして、それに沿ったものを書き足しているという感じだが
この人の脳内情報の直接操作的なやり方のほうが、
俺の現在の遠隔操作でしかも脳出口において情報の形状は不確定というやり方よりも効率が良い、と感じた。
恐らくこれは、俺がこの人の著書なりを読むことで、俺の脳内情報をこの人風の翻訳情報に置き換えていくことができる。
しかしそれは、表面的にいえば脳にデフラグかけるようなもので、構造的には既存のデータのみを別関数で扱うようにするというだけで、
自発的に未知の情報を新しいやり方で処理していけるということにはならない。過去の記憶を整理できるというだけだ。
この辺は個人の個性と才能で割り切って、アフォーダンス的な観点からその固定要因を活かせる形に仕上げていくのが良いだろう。
このレスは完全に俺が俺自身に書いてるだけの感想文だな。

493 :
適当にこの人の著書にどんなものがあるのか、解説なりレビューなりを見回してみた。
何も読む前に何もわかりゃしないのだが、>>492に書いた
>この辺は個人の個性と才能で割り切って、
>アフォーダンス的な観点からその固定要因を活かせる形に仕上げていくのが良いだろう。
この辺をもう一回ぶっ壊してくれるような刺激を得られるかな、と思った。
ぶっ壊したあとの形は既にわかる感じがするけれども、他人の言葉から見てみたい。何冊か読んでみるか。
あの喋りに感じられる波長に、さらにギターも弾くという趣味に、脳やら洗脳やらという興味の範疇が
ちょっと個人的に同調せざるを得ない感じというだけで、これまったく俺個人の趣味だろうな。
自己啓発本には興味はないけれど、あの脳みそが吐き出す文字の旋律を観察してみたい。
このレスも自己宛感想文だな。

494 :
さて、
発言というものが、まるで碁盤の目に置いていくような、
境界線が作られたり、トラップが設けられたり、詰んだりもするという、論理的情報空間に打つ碁石にも思えてくるのだが、
まず上で触れた著者の本を4冊ほど手に入れた。
時系列的に一番古いものをまず読み始める。「洗l脳.原a論」という本。
何故この本の名前を挙げるのかというと、今までの俺の書いてきた根拠不明のことや、
俺が書いている根拠不明な文章が、万が一良からぬ方向へ影響があるとしたときに、
それを事前に阻止するために、一連の流れとして繋げる先、としたかったからだ。
Escキーを押す、ことを何時でも出来るようにしておくということだ。
これは別に俺が今まで邪悪なことを書いてきたなどという意味ではなく、
俺すらも予想できない万が一のケースが起こりうるとするならば、という事態に備えたことだ。
何しろ書いている俺にとっても根拠不明であるならば、
その言動の論理的帰着先など俺がわかり得ていないので、非常に危なっかしいと考えることができる。

495 :
ここで気分を一転しよう。ほわんほわんほわんフにゃんふにゃんふにゅん ぴよ♪ ぴよ♪ぴよ♪☆
で、話戻ると、
この著者の本を読む傍ら、このスレとか全然関係なく同時進行で読んでいる本があるのだけれどね、
「内なる画家の眼」という本なんだが、要は右脳と左脳のギア変換のクラッチを習得するというのが
いわゆる絵を描くためには必要な脳内作業であるというような。ここではどうでも良い話なんだけどね。
俺の「根拠不明」は、右脳に比べて著しく低性能な俺の左脳、という辺りになにかある、と踏んでいる。
というより、アクセル踏むタイミングと、そのとき入っているギアの関係に、修正が必要である、と。
さらにいえば、エンストしまくりである。
そんな俺がこの著者について何を読み取ったかというと、
「絶対的なACCURACY」
言動において不正確な要素は作らない。この点において一貫している。定数として存在している。
もしくは、定数+関数であり入力される変数は外部の情報であり、出力は安全なものとして成形される。
というか、自らが変数となるようなことがないように勤めている。それでいて機敏。
この人は英語を学ぶ本も書いているようだ。それらは俺は買ってないけれど、目次だけアマゾンで見た。
目次見ただけで、え!?という感じだ。なぜならば俺も独自に抽象言語を発明・構築することで英語を得たからだ。
しかし俺はエンスト野郎である。「バーカ、バーカ、バーカ。一般的な教育で学べるわけねぇーんだべよオ?」
と、抽象言語を用意してまず日本語を自己から切り離し、抽象言語をコンパイラーとして機能させ、
日本語、英語、共に同列の上級言語に配置しなおしたのだが、確立した体系に沿ってる訳でもなくちぐはぐだ。
俺がヘンチクリンな雑種のオモシロ猫だとすると、この著者は凛とした白い毛並みの血統種で尾も白い。

496 :
ダジャレでまとめたところで「アンカー」について思うところを。
安全性・確実性を確率的な要素にしないという大前提において、全ての事柄は体系的に学ばなくてはいけない。
しかし、現状において、そのような実力を持つことができるのは限られた一部、頭の良いエリートの人達だけだ。
人間の前提要素が、人間を能力別に差別する要因として働いている次第である。
万民が体系を持つ、これが正確性を前提と考える人が他人に求める、推し進める方向であるはずだ。
心の闇など、扱うことに慎重にならなければいけないこと、例えるならばWindowsのレジストリを弄るようなことは
その分野において体系的に学んだものだけが行う事が望ましい。が、現実として、「安全処置をするという体系」
というひとつの「系」以外からそこへアクセスするものがいる。なぜならば、この「系」は人工的なものであり、
本来その闇へは、無数の手段により到達できるような地理空間となっている。このようなときには、人は
倫理により論理的な境界線を設けることを考える、のだろう。
著書の中で、黒沢映画が触れられている。この監督は天才だから無意識にアンカーを発見していた、というように
著者は言っているが、「天才」すなわち「例外」として除けておくという部分、ここに俺の頭がひっかかる。
無意識ならばアンカー埋めまくりでも、結果論として悪影響がなければ問題無し、しかも「例外」人物しか
そんなことはしない。これは、視聴覚芸術・デザインの立場からは、必ずしもその通りではないと思うのだ。
俺の思う現状としては、アンカーは素人でも埋めている、直接利益のみのために。そして素人はアンカーによる
因果の責任を取らない。因果すら頭にないままアンカー埋め込みを行っている者もいる。意識的な悪意を持たずに。
ここでどうしようかと考えるだろう。善意のバカ、地雷埋め作業員をどうするか。
本人達は、それは地雷ではなく朝顔の種だと思ってる。パルプンテ草の種かもしれないのに。実に不正確だ。
その流れで、この著者の最近の自己啓発本というものが挙がってくる。何のために、他人を、賢くしているのか、だ。
無線LANというインフラ整えるならば、通信の暗号化技術は同時に用意されると安全性が増す、と考える。
とりあえず、今言っておきたいことはこれくらいかな。

497 :
というまでもなく、
著者は、この程度の低レベルの「洗脳」は著者が問題視する「洗脳」ではない、
と言っているのだけれどね。
これはただカルト宗教に焦点を絞るために言及したのかわからないけれども。
危険レベルを判定する閾値をどこに設定するのかで、「被害妄想」になったり「確信犯」になったりしそうだ。
また、洗脳は人間関係の中で常に行われている身近なものとしたときに、
「そのこと」を知っておくことが良いのか悪いのか、「民間防衛」はどうなのか、良いのか悪いのか、
誰が判断すべきなのかを明らかにできる人がいるのなら、その人は既に術士として語っているとも考えられる。

498 :
んん。読み終わりまで残り5ページというところまで読んだが、
上で書いた俺が著者に対して感じた印象に、多少の修正をしたくなる感じがある。
喋りの顔と書きの顔にある種の差異があるように思う。
が、些細な点なのでこのままでいいか。
上4レス書いたときにはまだ40ページくらいしか読んでいなかったので、
かなり俺は想像で書いていたのだが、本の最後の最後でいきなりの個性的な主張、
何、そう来たか、と俺の想像がはずれていた部分がある。
しかし、取りようによっては大してはずれていない。
ただ、それでもやはりそっち方面で攻めるのか、と思ったのが哲学だ。
しかし、この本が書かれたのは8年前。結構、ちょくちょく進路を変えていくような癖が
ありそうな人なので、はたして現在の進路はどうなっているのだろうか。

499 :
やっぱり初期の印象のままで良いんだな。
テレビ番組動画は今年のもの、この本は8年前のもの。
正攻法をやめたんだ。

500 :
読み終わったが、色々なことが思いつきすぎて、どれに絞って何を書くべきかわからない。
即ち、
洗脳による我々の生活を相対化することができて、あらゆる視点から洗脳を考えることができるが、
どの立場をとった意見を絶対化させるのが良いのかを判断できるまでに、俺の脳の計算が進んでいない。
その問題の外側から、まずこの本は読んだほうが良いのかどうか、
どんな人が読んだらどんな知恵が得られるのかを話そうにも、
アンカーの件を理解した後としては、軽々しく内情をべらべらと語るわけにはいかない。
こんな時俺は、「俺」を盾にするので、
「この本は、俺の必読書リストに追加。」
これでおk。
俺の案としては、
この本を>>448であげた「人間集団における 人望の研究」という本にリンクすると、
さらに大きな全体像が見えてくるように思う。
これが意味することは、「同じ現象」をさらに別の視点から捉えている「人望の研究」ということ。
「洗脳」を相対化すれば「良い洗脳」も現れる、この辺りが今判断に微妙なところ。
俺の具体的な過去の文脈で言えば、
「変性意識」の目覚め → >>451 → >>412 OR >>383 それは >>342 ということだが >>497
無理矢理今の主旨に合わせて作りかえてみるとこんな感じか。
今の俺は、これら俺の文脈は、必ずしもそうとは言えない、という所まで相対化して、次を考えているところ。

501 :
あらゆるものを相対化することができるが、「現実」に目覚めているのならば
そのなかで相対化してはいけないものがある、というようなことを言っているのが>>292
本来の精神の健全性を考えたとき、閾値としては、軽めの洗脳も問題視すべきだと考えられる。
倫理としてはそのように、洗脳は悪と捉えて設定しておくのが良い。
しかし、>>242という事態である。
そのような事態において、「洗脳は悪」と絶対化していてはどうにもならない。
悪として絶対化できる洗脳は限界レベルの危険なものに定めておいて、
それよりは軽いレベルの洗脳は相対化して、トロイの木馬的に対処する、
というのことなのかな。全て俺の想像な訳だけど。

502 :
その辺のことを考えながら、次の本、8年後の記述、を開いてみる。
まえがきを読んでみただけで思わず大笑い。

自己啓発本www ちょ、おまww それちがうだろwwwww
エンジン入っちまったんだねぇ、彼は。他の本も開いてみる。
上のレスでの俺の思い悩みは徒労だ、というよりこれが8年という歳月!!!1
どうやらワクチンは完成したようだねw しかも毎月新刊発売というペースwww!!!
もう試合開始されているわけね。把握した。

503 :
この著者は、ある高いレベルの達観や悟り、チャクラが開いた等表現は沢山あるが、
それを得ていると俺は思う。番組や著書の帯に宣伝文句として書かれるように天才
であるからではなく、ひとりの人間としてその境地を開拓・獲得していると俺は思う。
ただ、尋常ではない、若しくは個性的な点がある。その表現能力だ。翻訳力だ。
著者の言う数学的な抽象思考、そして超並列的にn次元にランダム配置される記憶。
このような表現はただ難解に聞こえるが、それはその構造まで理屈で説明できる
という筋の通った表現であるからだろう。卓越した左脳的な能力を右脳とバランスを
取りながら使えているのだと、俺は思う。
達観や松果体を用いた時の状態を、上手く表現できない俺などは、ベクトルのような
などと、物理現象の説明とは折り合いを持てない形で言葉にするのが精一杯だった。
相対化することでビジョンに現れる数学的なn次元の抽象空間は、例えるなら
一人称視点であったのが、相対化を一段階進めるとルービックキューブの様な多面体構造
の世界を自分の眼の前に引っ張り出すことができてぐるぐる回転することもでき、
さらに相対化を進めると、自分の視界には収まりきれないような立体的空間の入れ子構造
みたいな、情報の関係性を見て取れるのがその抽象空間なのだが、
これを他の人に説明するのに比喩を使ったり、適当な言葉で実験的に言い表してみること
しかできなかったというのが、そこまで左脳の発達していない俺のような人だ。
左脳でこれを物理法則に則りながら翻訳するのは、しらふに戻った後のCPU使用率100%
のエンコーディングみたいなもので、このような作業に向いているか訓練されてないと辛い。
この相対化された空間は、著者の薦めるディベートや、俺がそれと同等だと思うものは、
楽器演奏による他人とのソロ演奏し合い、音楽のディベートのようなもので培われると思う。

504 :
また、こういう達観とか瞑想等により得たビジョンとそのコントロールは、右脳的な能力を
上手く使えることが必要だと思うが、ここで「言葉で話すのは苦手だ。そういうものだ。」と
俺のように居直ってしまう人もいるかもしれない。しかし、それは「言葉に論理性をもたす
のが苦手」であるという思いが既に洗脳状態にあるからだ、と俺は確信している。そして、
著者はその状態を解く方法も考案している。この意味で、俺はこの著者の本をさらに読むだろう。
画家や芸術家や職人など、「人とコミュニケーションが上手く取れないレベルまでに言語を
用いたやり取りを苦手とする」ことが「芸術に向いている」「職人の才能がある」などと解釈
されるのも、一種の洗脳であると俺は思っている。逆も然り。「会話が上手、絵のセンスがない」
=「芸術に向いていない」というのも洗脳だと思う。そして、「会話できない。文章かけない。」
だから「芸術に向いている。」これも洗脳状態にある。そしてこれは脱洗脳することで、誰でも
好きなように好きなことが自分でできる。個人の自我に対応したアフォーダンスなど無い。
この段落は純粋に俺の意見。
もうひとつ、俺がこの著者の本を読むであろう理由がある。俺に留まらず、多くの人が既にこの
相対化したビジョンを獲得していると思う。この人達は、既に色々知っている。ただ、上手く表現
できない。この著者のように左脳側からこの「同じ状態」を説明してくれるときに、我々は自らの
経験と言葉にできない知識を照らし合わせて、その瞬間から言葉で言い表す術を持つことができる。
上手く表現できないままでは、論理破綻した閉鎖した世界観を得てしまう可能性もあるし、
本来既に獲得している相対化したビジョンを自分で言い表せなかったがために、自分でも実際
何をやっているのかわからない状態に陥り、変なオカルトの「自分なりの表現で、これはこうで
間違いないんだ!」という居直りを決めてしまう可能性もある。そして、そのまま、外部から
介入してくる洗脳を許諾してしまうことも考えられる。
そのように身を追い詰める必要はなく、今の自分に与えられた不器用な武器だけで戦おうとする
必要も無く、自分の自由を限定していたそのような「理由」を解き放つことができるということだ。

505 :
ここでは主に相対化したビジョンを例としたが、とくに「相対化したビジョン」に具体的に拘る必要はなく、
「私の知っている神秘世界と秘密の脳内台所」に種類を拡大しても問題ないと思う。

506 :
>>503において、一部正しく表現し直しておきたい部分が見つかった。
>左脳でこれを物理法則に則りながら翻訳するのは、しらふに戻った後のCPU使用率100%
>のエンコーディングみたいなもので、このような作業に向いているか訓練されてないと辛い。
言い直すために、人間には右脳人間と左脳人間の2つがあるという、後に破壊する定義をしておく。
左脳人間にとって、この「物理法則に則って数学的に思考を記述」する行為は、観察・洞察した情報や
思考を数学にデコードするのであって、CPU使用率100%という余計な負荷は必要ないと推測する。
右脳人間にとって、観察・洞察した情報や思考を演算する最小単位は未知の粒子のようなもので、
果たしてこれが存在するのか、またはこれが本当に最小単位なのかもわからないままだが、
数学や物理法則に沿わせるためには、未知の粒子による演算結果をエンコードしなくてはならないので
余計なCPU使用率が負荷となって現れる。

数学で現実は演算可能。数学を相対化すると、ぼんやりながらまだ現実の中に何かあるのが見て取れる。
しかし、それを現実に還元不可能。右脳人間、左脳人間などと本来人間は分断されることはないと思う。
今後数学が発展するのならば、現在の数学を相対化した演算処理システムが架空のものとして脳内に
存在していても、現在の数学を用いて否定することはできないだろう。まだまだ、右脳人間、左脳人間が
互いの中心地点に歩み寄ることができる。

507 :
>>506の思考は、論理的に正しいと言えない。
それは、>>495で触れた右脳と左脳のギア変換を思考の途中で行っているからであり、
導こうとしている結論がどちらか一方の脳で完結するものではないことが予め意図されているからだ。
そこで絶対化された判断基準は、右脳の「未知の回路」でもなく、
その「未知の回路」と左脳の「論理的な回路」を繋げる「さらに未知の境界線」であるので、
それが何かを説明するという行為は、「今それを説明しようとすると全てを徒労な不毛なものに結論づけてしまう」
というくらいにしか考えられない。
ただ、論理的な体系の一部、一部というより9割のポーションだけを相対化する、という「ギアの使い方」は
ひとつのテクニックとして確立できるかもしれない。

508 :
これは、現在ある、あるひとつ体系全てを現実的には10割=1と考えるところを、
現在あるその体系ひとつ全てを9割=0.9と捉えることで、未来により定義された
全体像、10割=1が存在する、という仮定を行う相対化と考えられる。
と右脳側から適当に思う。

509 :
還元を行うという行為が論理的な行為だとすると、
ひとつの事象を還元するためには、その対象となる事象は既に10割でなければいけない。
そう考えると、時間は未来から現在に流れていると捉えても問題無い。
なぜならば、現在確認している事象は常に10割に満たない1未満の数であるからだ。
という風にクラッチを数回踏みながらドリフト走行してみる。

510 :
相対化ビジョンを既に獲得していながら、自分でそれが「相対化ビジョン」であると認識出来ていない場合。
これについて思うことを。
上で書いたように、自分でも何をやっているのか良くわからない状態、超人モード突入!!という気分的な
違いが我が身体に起こっている、というくらいにしか実感できないことが考えられる。確信はない。
@ここで何が問題であるかというと、それが「相対化」された「世界」であることを知らないままでいる。
Aすると、「自由」に「絶対化」できる「視点」を「選べる」ことに気が付かないままでいる。
Bすると、その超人モードのときに、事実「何」が「絶対化」されて「物を見て判断している」のか
 自ら知らないままでいる。
これの何がよろしくないかというと、一番大切な、「実は絶対化できる視点は自分で自由に選べる」という
「相対化ビジョン」の一番の旨み所を有効活用できない、ということだと思っている。確信はない。
弊害としては、Bによって、「超人モード」を提供してくれるのは、その「自分の管理下にない」「絶対化されたもの」
と捉えてしまい、自らその「自分の知らない絶対化したもの」を崇拝することで「超人モード」を維持・成長
させようというような方向性に頑張ってしまうということ。確信はない。
右脳の言うことに確信など持てるか、っつーの。

511 :
相対化ビジョンの別バージョンに、ビジュアルビジョンみたいな物もあるんだろう。
脳内に絵や写真や光の芸術をぱっと表示させるやつ。
こんな物は誰でもできる。今から「富士山」思い浮かべて3秒後に。はい、3,2,1,どうぞ!
今、一瞬脳裏に山みたいのがあったかもしれないというのが、記憶として残っているはず。
これをそのうちに一瞬ではなく持続的に表示する。そして、色もつける。
立体感とか周りの雲とか空の奥行きを感じたりする。そして、それをゆっくりと徐々に右方面から、
裏側のほうへと視界の対象を回転させたりする。地面側の裏側に回転させるとマグマとか見えたりする。
富士山にありえないような黄色い色とか塗ってみる。市松模様の富士山にしてみたりする。
音だって良い。まず、アー、という声を想像する。アーって言ってるやつを1人から3人にしてみる。
大合唱にしてみる。メジャーコードでアーって言わせてみる。マイナーコードで悲しそうなアーにしてみる。
アーって大合唱の音量を上げてみる。もっとあげてみる。下げてみる。
ぐるぐる回る富士山のてっぺんからアーって叫んでみる。
これらは操作だが、言語だ。確信はない。この言語に慣れると、普段の生活で、
ふと何かを見ると、ビジュアルなイメージが浮かんだりするかもしれない。
また、俺はポエムは、ビジュアルイメージとのとても良いたわむれ方法と思う。
フリースタイルのポエムならば、純粋にビジュアルビジョンを散文でディクテートする戯れになっている。
右脳情報を左脳情報に引き渡す、繋ぎつける練習になっているかもしれない。確信はない。
こんなこと書く必要あったのか知らないが、書きたい衝動に襲われたので。

512 :
また、こんな性格の人もいるだろう。
「私はいつも、色々なことに興味を持っているけれど、どれかひとつに打ち込む決心がつかない」
「その意見もあの意見も理解できる。でも自分はどの意見を自分のものとしたら良いのかわからない」
優柔不断などと洗脳語によって、自分はしっかりしてない人なんだと気落ちする人達。
確信はない。だが、こういう人達は相対化が得意な人達だ。そして「私」が相対化された世界の中にいる。
この、「どの立場も色々ある」という相対化された世界を自分の目ん玉から、目ん玉ビーム!というように
にょきっと自分の顔より前方の空間に、凝縮して持ってくる。そうすると、今まで持っていた「拘り」のような
「ひとつの立場に決められない」っていうわだかまりが、すっと消え失せたりするかもしれない。
やはり、その「曖昧に知っているもの」に「記号的な存在タグ」をつけれないと、「私」は「それの中」にいるから
身動き取れないというか、振り回されてしまう。「曖昧に知っているもの」に「記号的な認識」をテンポラリだとしても
つけることで、自分が絶対化視点の選択権を得ることができるのだと思う。確信はない。

513 :
で、さらに次の本、これはここで触れるには際どいのでスルーして、同じ著者のさらに次の本を読んでいるが、
なんていうかね、
ああ、同じ事を先に言われてしまった、負けた、圧倒的に負けた、、
しかも俺はその同じアイデアを未だ開発途上、、
前線で活躍してる人なんだから当たり前ではあるが、着目点が似ている人が居たということに喜び、
それは既にいわば使い古された知識でしかないと思い知らされる残念な気持ち、、
ということは、俺のやらなければいけないことが減ったとポジティブに捉えて、
さらなるブルーオーシャンを探す。。
ていうか、今まで俺が何か直感で書いて、その後に本や資料を挙げて、という順序でレスしているのだが、
もし俺が嘘をついていて、既に最初に本なりを学習した後に、「知らないけど」としらばっくれて
あたかもそれが当たった勘であるというように演出しているとか思われると嫌だな〜と思う。
毎回毎回、真剣抜いて直感実験勝負をしているのだが、・・・と、なんか本読みながら愚痴りたくなった。

514 :
ディベートについて書かれている本なんだが、この脳作業を実行してみると、
俺が上で書いた一部が間違っていることが判明した。これは間違いが無かったことよりも嬉しい。
>>503での
>この相対化された空間は、著者の薦めるディベートや、俺がそれと同等だと思うものは、
>楽器演奏による他人とのソロ演奏し合い、音楽のディベートのようなもので培われると思う。
ディベートとソロ合戦は、大きな大きな意味では同等だが、脳ギア変換手順が異なる。詳細は脳内実験中。
ソロ合戦ではなくラップバトルならば、ディベートと構造的にもっと近くなる。
が、論理的な複雑さではディベートがやはり一番か。
ここで、発案ということでブレインストーミングという脳ギアの使い方にデザイン系の人は
より慣れているのだが、これもディベートの脳ギアとは全然異なる。
これはもっと、バレーのトス上げてるところで、ネットを360度ぐるぐる回転、わけわからん
本では、不完全性定理を決めの落とし技としてかなり使っている感じがあるが、
ディベートでもソロ合戦でも絵を描く脳でもどの技でもどのギアでも、
波動拳波動拳しょーりゅうーけん波動拳なのか、
昇竜拳昇竜拳波動拳昇竜拳はどーうけんなのか、
というような脳ギアの違いそれぞれ、わけわからねえ
にもかかわらず、どのギアにせよコマンド入力成功すれば、
脳内に相対化ビジョンまたはビジュアルビジョンは同じく現れる。
このビジョンは、これらギアコマンドの習得とは別物であるようなかんじと、
本の後半のほうにはあるが、それには同意。これは瞑想、、だけじゃないと思うんだが
まだまだ全部保留。さあ、ぐっちゃぐちゃだ。

515 :
うおおおおおおおおおっいっしゃい!!
何という即効性。
わかる。わかる。 わかる! わかるぞーぉ!!
今まで考えていたことが論理コンテナにカプセル化されて
そのカプセル自体に移動・入れ替え・移転を可能にする
情報空間的エーテルみたいな空白空間が認識出来ることを!!
一を聞いて十を知る。一を聞いて二億五千万を知る。
こっれは、広大なブルーオーシャンのゴールドラッシュが始まるな!!
十を聞いてそのうち一は誤解する俺なので、本来意図されていない可能性を
見出している可能性もある。その辺は後に修正していくとして。
とりあえず、俺は右脳が強くて左脳が弱い人の立場から進めて考えてみる。
どんな新しい技法を習得するにも、俺は上の上のほうで言っている
「わかる感触」を、次のステップにいくか、まだ不十分かを判断する武器にしている。
このしっくりくる、ぴたっとはまる、カッチリとはまる感覚がOKを出せば、
知識が記憶から忘れ去られてしまうことなく、現在起動中OSの常駐デーモンとして
すぐさま働き出す。
習得中の脳ギアのハマリを確かめるのに、頭部の感覚でシュビビビビッ!
キメの細かい炭酸飲料の刺激みたいのをどの辺で感じるかで、意識的に「操作」してみたりする。
わかる感触がOKを出すビジョンが現れるまで脳内相対化ビジョンに落書きしまくる。
ただ、右脳よりなのが原因なのか、今のところ俺のわかる感触は、理解をビジュアルイメージに
落とし込めたときに感じる確率が高い。このわかる感触は、なんかもっと運動神経のような
トリックをマスターする時のような感覚に近い。

516 :
>>492でいう
>恐らくこれは、俺がこの人の著書なりを読むことで、
>俺の脳内情報をこの人風の翻訳情報に置き換えていくことができる。
>しかしそれは、表面的にいえば脳にデフラグかけるようなもので、
>構造的には既存のデータのみを別関数で扱うようにするというだけで、
>自発的に未知の情報を新しいやり方で処理していけるということにはならない。
>過去の記憶を整理できるというだけだ。
この辺がそのまま書いてあってゾッとしたのだが、これを俺が書いたのは、この著者について
番組動画の内容「だけ」しか知らない時だ。右脳優先処理は、未来に得る情報をも書き綴る。
現実事象を9割と捉える、いわば不完全性定理+時間軸によって
時間は未来から現在へ流れているのなら、そんな現象にも疑問は生まれない。
いわば、右脳だけ超発達させるだけでも十分だ。
ただ、出力方法が随分と限られ、能力制御が神任せになる。
現実処理は左脳と同期をとらないと無理だ。能力制御は相対化ビジョンを得ないと無理だ。
論理的には無理と100%とは言い切れないが、その0.1%を万人が求めるのは効率悪い。

517 :
心理学系の本も同時進行で読んでいるのだが、俺が今まで書いてきたことのなかで
事前に幾つか補足・修正しておきたいところがある。柔らかく表現できないのは、
俺の誤解を招く表現に原因があったため、他人ではなく俺自身に釘を刺すためです。
俺は人の脳と心をOSやコンピューターの構造に例えることがあるが、機械であるという意味で
使っていない。連想先として身近なところで思いつける似たような構造ということでその表現を使っている。
心を機械のように扱うという意味では全くない。この文章を読む人にとって、パソコンが身近にある
という条件は、必然的にほぼ100%の確率で前提となっていることがOS等を比喩として使う理由だ。
パソコンを使わなくては、この文章を読むことはないからだ。
比喩は連想先との構造の相似を用いて、対象の特徴を描写するが、連想先と対象の現実での扱いが同じ
ということでは全くない。また、構造の相似が対象と連想先の関係性を作るが、その似ている割合は100%
ではない。特に連想先の物が、現実ではある特定の意味合いを多く含んでいる場合、例えば、
「機械=人間として扱わなくて良いもの」、この様なときに、注意深く比喩を構成しなくては意図しない結果を
生んでしまう可能性がある。
「人」について俺が思うこと。人間関係は情によって繋がるものではない。利害によって繋がるものでもない。
この辺は、あらゆる視点を相対化したときに俺の念頭に入る。では、何によって繋がっているかというと
それが「愛」なのだろうけど、それは論理よりも抽象度が高く、情よりもボリュームのあるものであり、
利害などは個々人を相対化した視点からは確認できない。
意識で論理的・詩的に簡単に文章に落とし込めるような低レベルのものではない、少なくとも
「相対化ビジョン」くらいには解説不能なものであると思っている。
これらの俺の意見は、俺の中で相対化してはいけないものに含まれる類に思う。
でも、まだなんにも確信をもって言い切ることはできない。ここで言い切ったりするのなら、
俺の意図が先行しているのであり、そんなものは「本当に絶対化されるはずのもの」であるわけがない。

518 :
相対化と言わずにメタと言っても良いのかもしれないけれど、
メタと言ってしまうと、上で言った「機械=人間として扱わなくて良いもの」のように
「メタ=今、盛んに言われている定義」に繋がってしまうリスクが高いのと、
メタにより外に出される、または内に入れられる世界は2次元であるマトリックスを
想像されると、ちょっと違うんだなということで相対化と言っている。
「相対化」の直感的な連想先が「宇宙」だとしても、そのリスクは少ないという計算。

519 :
催眠術の本も急遽、読みまくっているのだが、
今までの俺の文脈を体験として持った上で催眠の知識に触れてみると、
この分野の視点・関心・技術・知識から、神秘的な出来事の8割方は説明がつくと容易に想像つく。
しかし、これだけ沢山の人が催眠術に興味を持ち、知識を得ているにも関わらず、
この神秘領域にむけた仮説や解明の動き、また何故その方向性の世論が出来上がってないのか理解に苦しむ。
まじで、学びを虚勢する洗脳の威力はすさまじいということなのか?
それか、学んでる人に限って利己的で、グランドスケールな意識構築に興味がないのか?わからない。
また、潜在意識がらみで俺のいう「わかる感触」を持ち出すが、
自分で感じる感覚など信用がおけるのか、という原始的な疑問が浮上する。
スポーツの場合は、その感覚に従えば、結果が物理的運動として具体的に残るので
結果論として信用がおけると言えるが、抽象的な判断において、その信用がどうなっているのか
まだ、もうすこし考える必要がありそうだ。

520 :
なにはともあれ、この分野は、まだひとつの文化カテゴリとして確立されておらず、
ひとつの世界観フレームとして認識されていないのだろう。
フレームと言わないのならば、モードでも良い。チャンネルでも良いし波長でも良い。
デカルトが心身二元論という世界観フレームをひとつの文化カテゴリにした時も、
初期の少数の人間による難解な思考と意見は、万人から見て特別際立った波長とは
認知されなかったのだろう。同様の思考をする人達がある一定数の大人数に到達した
ときに、万人が一斉にその大人数が作り上げた新しいコミュニケーションによる
ネットワーク構造を把握して、難なくその考え方を自発的に使えるようになったのだと思う。
この考えには、百匹目の猿を当てはめた。

521 :
んんん。
上のほうを読み直していたのだが、>>474
>離脱とマイペースは似ているな。
>マイペースって何かというと、生活しているときに常にテレビやラジオをつけていないこと
>っていうのと似ているな。
これ、すげ〜。って、自分で思ってしまった。
このときは、催眠の知識も、洗脳の知識も持っていなかったのに、
相手が掛けてくる催眠暗示により、自分が変性意識に持って行かれるのを、
自らキャンセルする方法を体得している、ということに他ならない。
そして、そのテレビやラジオ、あらゆる洗脳装置をリアル環境から排除することで、
自らの身体に合ったリズムを保ち、自発性を維持し、不要な洗脳に掛からない習慣を持つ
ということを言っている。
学問とか術とか、人に教わったり学校で学んだりそういう風に「ひとつの現象」を捉えると
とても難解で途方に暮れるような長い道のりに感じるけれど、
今の自分に必要なことを、自分で発見して、判断を偽らずに探求することによってでも
同じような成果を生むことができるようだ。

522 :
デカいの ブチ込んだ 最後までブチ込んだ
デカいの ブチ込んだ 最後までブチ込んだ
デカいの ブチ込んだ 最後までブチ込んだ
ブチ込んだ ブチ込んだ ブチ込んだ アォー
パラッパッ ブチ込んだ 最後までブチ込んだ
エロッ ブチ込んだ  最後までブチ込んだ
エロッ ブチ込んだ  最後までブチ込んだ
ブチ込んだ ブチ込んだ アォー

523 :
さて、マルチのageで報告されているもののようだが、構わず行こう。
誤帰属でアンカーをトリガーされてしまった人が居たとしても、
人間はランダム性にも支配されているということが言えるだけだ。
心理学や催眠術の本を暇さえあれば読んでいる。何冊か読み終わっている。
しかし、ある時点から何冊か同時進行で読んでいる本全部を読み進められないような
無意識からのストップが掛かっている。
大体、こういう無意識ストップが俺に生まれるときは、まだ得ていない類の情報が
原因となっていることが経験から言える。今回のそれは、え・ぬえ/るぴ.い だろう。
本来それはローマ字で書かれるもので、心理学系統のカテゴリで発見することができる。
日本語では神経なんたらかんたら、という名前がついている。
内容については、スケプティック ディクショナリーのものをリンクしておこうかと思う。
これが「何」であるにしろ、俺が即座に思いつくのは古代修辞学の弁論法などを
細かく記したもの、手の動きや声の出し方や、もうまじでどうでも良いくらいのお作法を
体系化して詰め込み教育する物の催眠術版といったようなものか。
説明(略)
もし、えぬえるぴいマスターと禅マスターが対決したら、禅マスターが勝つと思う。
ここから話を神の見えざる手に繋げると、
・・うーん、駄目だな。全体像が見えすぎて、こつこつと話を建設していく流れにならない。

524 :
逆に考えてみようか。
えぬえるぴい的な分析からすると、
目の動き方などから、相手が今どのような思考モードを使っているかが判別される。
これを知れば知るほど、「霊能者」の人達が、「霊視」している最中の目の動きが、
そのどの思考モードにも当てはまらないということに気が付くかもしれない。
観察するまでもなく、「霊能者」にラポール作られて自分が変性意識状態に
入ってしまっていては、気付くものも気付きはしないだろうけど。
松果体使って、目なんて半目で「開いているだけ」だよ、と言っても良いかもしれないけど、
アインシュタインが思考実験している最中の目の動きも、きっと同じだろうと思ったりする。
ところで、ディベートコンテストが映されている動画を見てみたが、
お経速読み大会みたいだな。ギター速弾き大会でも可。
ところで、意識が認識できる視覚(+聴覚?)情報は、0.5秒以上の長さがないといけないらしい。
速読み、速弾きすると、絶対にこの閾値が下がると思う。

525 :
意識が認識出来ないということは、
無条件に無意識に書き込まれている、と考えると大雑把すぎるだろうけど、
「今何が起きているかわかってない」けど、「それが今後の気分に影響している」場合、
意識の管轄にない部分に、判断を委ねている状態と考えて良いだろう。
否が応でも無意識に書き込まれるが、意識が光の速さで追いかけていって、
計算・演算は俺におまかせ、っと無意識から情報を意識に渡す。
無意識3秒ルールとでもいうのだろうか。3秒以上無意識に放置したら、
もう意識からは簡単には手が出せないよ、というものがあるかもしれない。
さらに、マーフィーの法則のように、バターをつけたトーストは、
如何ともし難く、バター面を下にして床に着地する。
無意識に落っこちた情報は、バターで汚染されている可能性が高いかもしれない。

526 :
ついでに書いておくと、
>>498で危惧した、
>ただ、それでもやはりそっち方面で攻めるのか、と思ったのが哲学だ。
>しかし、この本が書かれたのは8年前。結構、ちょくちょく進路を変えていくような癖が
>ありそうな人なので、はたして現在の進路はどうなっているのだろうか。
そして、>>499
>やっぱり初期の印象のままで良いんだな。
>テレビ番組動画は今年のもの、この本は8年前のもの。
>正攻法をやめたんだ。
まさに、これへの答えみたいな物が、
この著者の本、金色の本の193ページの1〜3行目に書いてあって
わろたよわろた。勘とかいうレベルじゃないね。
でも、確かに、>>494で挙げた本を、俺も身近な人に読ませてみたところ、
難しすぎてわからない、読めない、無理、いらない、
こんな感じに終わってしまった。
さらに、本というものは、老眼鏡が必要な人へはさらにハードル高いものとなる。

527 :
この著者の本、白い表紙にでかでかと洗脳って書かれた本、
これは本を読むのが苦手な人にも、比較的抵抗少なく読むことができて、
内容も、実践的なことが多々あって面白いかもしれない。

と、ここのところ、俺はこの著者の著作に触れていることが多い。
それについて、次のうちのどちらが正しい理由だろうか。
@俺がこの著者の考え方に同調しているからである。
Aこの著者の話題を盛んに持ち上げることで、本当のところ、俺が感心を抱いている先を隠蔽している。
答えは@もAも両方同時に正解である。そんなことできるのか?というようなことも
その白い本に書いてある。>>380で俺が言うブーメランキャッチも別の言い方で説明されている。
そんな技術を自力で思いつくなんてそれは大変なことだね、という意見と
そういう技術を体系化して論理的に既にまとめてしまっているなんて大変なことだね、
という両方の意見を俺は持っている。ちなみに養老さんは、この2つの見解を
縦のソフトウェア(東洋的。体感的に習得。)と横のソフトウェア(西洋的。記述可能な形で共有。)
という風に別けている。これらの諸々の言説は「ダ・ヴィンチ」でひとつに繋がる。
いや、そんなことよりも、俺が今気に掛けていることはもっと雨雲掛かった内容で、、
と困っていたのだが、おお、そうだ、ここは超能力板だった、と思い出して焦点を戻す。
>>451で触れた著者も「超能力」を独自に定義していたが、この著者も、さらに別の著書で
「超能力」について定義しているのを見つけてしまったんだな。
”人の脳は、特殊な状態におくことで、強烈な能力を発揮することがある、それが超能力”
というようなことが書いてある。原文そのままではないが。
ちなみにこの著者は、別の著書では「超能力」に対して否定的である。(←俺の表現)
(大体、相対化ビジョン使える人間は、どんな立場からも物を言えてしまうから、
一個人の主張として捉えるべき方向性など、見えない。)

528 :
誰も彼もが「一個人として捉えるべき方向性」など「見えなく」するようにでもなったら、
それこそ、エスパーな人間関係が必要になる。見る場所を変えるんだね。
しかし、これについては俺もまだアイデアがまとまっていないので、言いっぱなしにしておく。

529 :
>>524最後で触れた、
>速読み、速弾きすると、絶対にこの閾値が下がると思う。
これに「速聴き」はどうだろうか、とも考えた。
上のディベート動画を見た後に、普通の英語動画を見たときに、
おお、なんだか時間がゆっくり流れているようだな、と感じたからだ。
別に日本語でも良いと思うのだが、
英語のオーディオブック(小説などを音声で録音してあるもの)が結構無料で
手に入るので、いくつも手に入れて実験してみることにしたのが先週。
まずは、再生速度を200%で数時間聞き続けた。
ピロパペポロポピ、と最初は脳みそがびっくりしてストレス溜まって肩とか痛くなったが、
気合いで続ける。次の日に200%で聞いてみると、前日より聞き取れる。
そこで280%で再生してさらに数日間耳を慣らす。これは結構辛い。これも数時間聞き続ける。
それでも、単語は聞き取れるようになる。意味のイメージはまだ追いつかない。
また200%にしてみると、かなり楽に聞き取れる。
100%にしてみると、すんごいゆっくりに感じる。
ここで、日本語での小説朗読の音声ファイルを手に入れて200%で聞いてみる。
ああ、わけがわからない。全然聞き取れない。
日本語だろうが英語だろうが、個別に倍速再生の訓練は必要のようだ。
そこで、英語小説280%で再生しながら、日本語の本を読むということをやってみる。
これは、脳みそおかしくなる。なんとか着いていこうとするが、大変だ大変だ。
次の日に体調崩して倒れる。
無意識を拾うために役立つかは疑問だな。ただ、話すスピードが上がる。
ディベートや速弾きで大切な部分は、「入出力」自体のスピードではなくて、
「入力後、何を根拠に出力を選択・判断・創出するか」の動作のスピードなので、またちょっと違う。

530 :
うーん。同時進行で読み進めている本が9冊にもなってしまった。
数日後には2,3冊増えるので、どうしたらいいんだろうと悩む。
単に”お勉強”している訳ではないので、速く読んで全部憶えて、とかする意味がない。
ひとつ読み始めると、合わせて読んだほうが良さそうな本が閃いて、同時進行になる。
その連鎖で数が増えていく。しかし、同時進行のほうが脳内処理としては効率が良い。
一方、全体として、全部の進行が遅れるのは確実だろう。
これらのことはNLP的な捉え方で説明できるかもしれない。
そのNLPがなぁ・・読めば読むほど「そんなこと知ってるわボケ」「あぁ〜なんかこざかしいなぁ〜」
と思えてしまうが、反面、既に体得しているということなので、
NLP的な心理作用の説明の仕方を経験に絡ませて学んで行けばいいだけで楽と言えば楽だ。
それでもなかなか俺の興味の範疇に近いNLP本を一冊見つけた。
「天.才達 のN/LP.戦,略」という本だが、まだ読み込んでいない。
このNLPの人達っていうのは、他人の思考プロセスのコレクターなんだね。
で、集めた他人のプロセスを、自分に憑依させるという。
NLP系は、なんというか、
俺は瞑想または「考える人」の銅像状態で長年思考やアイデアを発展させていたが、
それら全てNLPでした!と、言われちまったよ!
「思考活動」は「NLP」であると定義を塗り替えられちまったよ!
といったところか。言った者勝ちみたいだな。
ところで、催眠術の内容と8割くらいは内容が被る。
そういう意味では、NLPを習って実行するのは大した事じゃない。
偉人の思考プロセスをモデル化するのもそこまで凄い事には思わない。
NLPの新技法を自分発の思考方法から開発できてなんぼのもんじゃ、と俺は思う。
しかし、偉人・成功者にブランド価値が生まれるのなら、
ファッションとして憑依の思考回路を選ぶ人も増えるだろう。
「俺はエジソン回路を憑依中だせ!」ってな具合に。
残り7〜冊は別分野の本だが、現在文脈の構築に頭を悩ませているので
無理矢理今絡ませなくても良いだろう。

531 :
えぬえるぴいについて思うことを乱雑に。
気付きの記号化 ー しかし、記号論の用語を用いずに、独自の用語で説明している。
これは、複数の異なる体系を、それというひとつの体系として認識させるためか。
いわゆるマニュアルになっていく内容は天才達の思考活動を分析したものなので、
天才の劣化コピーを生産できれば完成形か。天才ありきの二番煎じが限界。
マニュアルに順応するように調教される。
自分の頭を使って解法・新案を発想・発案するやり方を忘れていく。
創造の苦しみを経験することなく、表面的な成功結果を条件付けされていく。
順応の結果、快苦で言えば苦である創造作業を避けるようになる可能性。
この「創造の苦しみ」を「成功の兆し」と条件付けするためには、
えぬえるぴいを学ぶ以前に「創造の苦しみ」の経験があり、
その結果「成功」を得た体験がなくてはいけないと思う。
何のために有能になるのか?
自己制御=メタな部分で公式(マニュアル)への順応が決定されているので、
極めて物質的で”枠内”の成果・結果・目的にしか、得た有能性は活かされないのではないか。
また、快苦における快を選択するという人の習性により、
”枠内”だけで終止する世界観ができあがる可能性があるように思う。
”枠内”とは、超越のない空間。体系内。
ただ、えぬえるぴいレシピーを構築する側に回れば、創造力などを失うリスクはないかもしれない。

532 :
複数の異なるマニュアル的な思考プロセスがモジュール化されて、
それの組み合わせにより個性を表すということにも繋がるかもしれない。
これも枠内で起きることだろう。
最適解への思考自動化ということにでもなれば、思考は人間特有の活動ではなくなる。
最適解が必要とされる、個人に投げかけられる問題は、
その個人のいる時間・場所他の環境が提起することができる。
そのときに、まだ人間の自由意志として残っている部分はどこだろう。

533 :
>思考は人間特有の活動ではなくなる。
人間特有ではあるか。意志が介入する特有の活動か。
意志すらも次元の低い概念に思えてくる。
悟りの境地を迎える人間は何のために時を過ごしているのだろうか。
創造なんていう行為すらも、胡散臭い行為に思える。
見える部分だけを還元していけば、単調な行為の複合体であり、自動化可能で意志はいらない。
閃きや啓示の部分、枠内から外に飛び出す部分が、含有率0.1%未満で必要不可欠な部分。
生命とは枠内から飛び出すことで、枠内で収まるということは死である、
という感覚にどういう説明がつけられるか。

534 :
枠内から外に飛び出すということは、
枠をまずは作るということであり、
その後、枠を己の外に認識するということで、
この形態自体が生命である、
というのが今思いつくことかな。

535 :
そして、このことすらNLPや旧約聖書に内包される。
この枠すらを超越するのが生命か。
生命の形態を超越するとどうなるんだ?
無意識に考えさせておこう。

536 :
とある宗教と、とある陰謀系の思想の対立は
日本における「空気」が読める読めないという概念を巡る争いと同質だろう。
空気はひとつの体系であり、和やハーモニーは全体像であり、
個人主義や効率主義は部分として認識されやすい。
これらをゲシュタルトとして同一と認識する高抽象度の視点がある。
多くの人がその抽象度の視点を得る前に、
複数の主義間を連結する、抽象度の高いインターフェイスとして働く人が
現れるのかもしれない。
実は空気というものは和やハーモニーという主義体系に限った現象ではなく、
より高い抽象度で他の主義体系においても、その空気は観測される。

って、何に関連付けて書かれているのか意味わかんないな。

537 :
では、和やハーモニーという日本的な連帯主義は何なのか、
フラクタルだろうか。
これを善しと言う人には裏の思惑があり、
これを悪しという人には裏の思惑があるだろう。
そういうものじゃ、ないんだよな。そういう次元じゃ。
未来に死を念頭におくと、枠内での循環を求める。
死に対して従順でありたいという想いであり、
より賢く未来を受け入れるという、
死ぬ前に墓石を買って用意するという良い子ちゃん。
生命に対する冒涜であるといえるだろうか。

ちょっと離れて行ってるな。もう少し超能力に戻ってこないと。

538 :
例えば、スポーツ選手が身体の故障により、選手生命を閉ざされる。
キャリアにおける死を目前に控える。
生まれながらに奴隷の人達は、
キャリアにおける死を受け入れた上で人生を始める。
死とは越えてはいけない境界線であり、
境界の枠内で循環を作ることになる。
コイルのように循環の強度を深めていく軸が生まれる。
世界観や人生観といった枠の存在は、この強度によって保たれる。
死が人生である、と転倒した状態。
これが破壊されると世界の終わりである、死である、と考えが進む。
このへんがカラクリだな。

539 :
ブラックホールか。
ぐるぐる巻きコイルの強度が際限なく強まると
全てを飲み込むのか。
LHCを連想してしまうな。
スイスと日本、等間隔にもう一点地球上に点を打つとしたら、
アメリカ南部か。
なんだろ、これ。単なる俺の妄想遊びだ。
またSFのネタが増えたか。嗚呼、馬鹿馬鹿しい。
なんでこう俺は脱線してしまうのか。

540 :
上で挙げた著者(俺がこう表現する場合、もはや常に同じ人物を指すと言って良いだろう)
が対談をしている記事をネットで見つけたので読んでみたが、
「人間は部分関数である」ということを言っているようだ。
この著者について何もしらない時に俺が>>495で直感により表現した
>言動において不正確な要素は作らない。この点において一貫している。定数として存在している。
>もしくは、定数+関数であり入力される変数は外部の情報であり、出力は安全なものとして成形される。
>というか、自らが変数となるようなことがないように勤めている。それでいて機敏。
これについて直感を演繹的に発展させる前に、以下の真偽を決定する必要がある。
@以前から「俺自身」が、「人間を関数」として見るような観察の仕方をしていた。
A「この著者」の風貌を観察することにより、何かしらの原因によって、
  >>495では「人間=関数」的に描写するのが適切だと俺が判断した。
どちらが事実であっても俺は困らないのだが、どちらが事実かによって、
捉えるべき問題の形成の仕方が異なってくる。

541 :
ここでまた別な俺の勘だが、この著者は「魔術的なものを科学的に焼き直して存在させる」
というようなことを試みていると考えて良いのではないかと思う。
数学におけるヒルベルト・プログラムのような構想があるのだろうか。
この問題の外部に移動して考える。
で、その場合、
「この著者のような視点をとることを、自己のアイデンティティとして
受け入れることができる人間が、どこにどれくらい存在しているのか」
という問題が少なくとも俺には生まれる。
>>383で俺が問題にしている「他人が変な閉鎖的な場に閉じ込められている様子」
というのは俺でなくても誰でも別の言葉で感じたり思ったりするところだと思う。
これらは、著者の言う「バイオパワー」という概念によって、
綺麗に整頓しながら表現することができるはずだ。
ここで俺が同時に念頭に入れておきたいことがある。
ソクラテスが「無知=ignorance」という概念・状態をこの世に存在させたことにより、
あらゆる全ての行為や判断は、
・「無知」の存在の「ネガティブ・スペース(外部)」
・または「無知」の存在の因果
として捉える手法を人間は手に入れたと考えることができる。
>>508で右脳側から定義した10割=1という全体像はこの世が「現在」である限り
存在することはなく、言い換えれば「全」や「完璧」のイデアと捉えることが出来る。
完璧なシステムが常に不完全性定理の性質を前提に持つならば、
イデアとは常に内部矛盾のない状態であり、その時、
「無知」は何になるのだろうか。
存在としての「無知」は、「バイオパワー」という存在と非常に親和性が
あるように思うという勘から考えている。

542 :
全ての行為や判断が、『「無知」が存在するが故の「無知」に由来する現象』であるとして、
これを著者の用いる用語で再構築するならば、無知とは盲点であり
それは「スコトーマ」という言葉によって存在を与えられている。
無知から盲点への再定義によって、その存在は、
絶対的な存在から相対的な存在へと転換されているのならば、
観察者はその存在の外側に立つことが可能になったということだろう。
「無知」は、あくまで自己はそのシステム内に居て、
自己では発見不可能な内部矛盾として存在する。
完全な視界というイデアはシステム外から(俯瞰視点から)観測できる状態であって、
「盲点」という概念は常に「完全というイデア」を意味に付属させていることから、
盲点を探す、盲点の詳細を記述するという指令に対して自己は自己に
盲点が存在する系の外に出る方法を無意識に探させるバックグラウンドサービスを起動させる
と俺は捉える。
ここで、半ば冗談だがエニアグラムの「完璧主義者」を考える。
エニアグラムはカバラ数と関係があるみたいだが、アーキタイプという、
生得論的には遺伝的な先天的な要素と考えられる性質で、別の分野ではアプリオリのような、
俺の文脈で言えば「如何なる条件においてでも無知に属さない」類の、脳に存在する情報か。
この「完璧主義者」は完璧のイデアからはほど遠く、名称が失敗している感が俺にはある。
「単一「系」からアプリオリに抜け出すことの出来ない檻の中の人」とでも表現しておく。
もし、このような人格的な性質を先天的に持つ人間が本当に存在するならば、それは大変なことだろう。
人格=状態ではなく、人格=先天的な性質であるのなら、
人間の性質としての例外的な存在となりうるのではないか。
アプリオリに系から抜け出せない性質をアプリオリに所有している人間は、
どう考えても他のアーキタイプとは別格に扱われる必要があると思うのだが。

543 :
言い換えると、
「完璧主義者」は「無知」をアプリオリに所有し、
尚かつ、『「無知」を相対化させる手段』をアプリオリに「無知」として所有する人格。
「無知」のフラクタル構造という人格、鏡の中の鏡の中の・・自分、f(x)において、xにはf(x)が代入される、
f(f(f(f(f(…)))))という人格か。
「無知」を「無知に属さない情報」として持つので、自己言及そのものという存在か。
社会が人間関係における気象図であると考えるとき、バイオパワーは気圧帯のようなものだろう。
洗脳という意識の構造の観点からは、非常にメタな部分の洗脳であるのだと思うが、
その洗脳により取得した世界観は、他者と共有され、それが気圧帯の様に外部からは見える。
バイオパワーを別観点から見ると、
バイオパワーは「価値」を作り上げる。そして、その「価値」は気圧帯内部の人間にとっての
メタフィジカルな存在となる。ここで、「価値」が「人間の存在意義」の前提になる、
という因果をもたらす関数が生まれ、この関数によって自己言及的に気圧帯は支えられる。
バイオパワー内の「価値」とは、「盲点」の反対であるのだろう。
それは、その気圧帯内部では「真理」というよりも「在るべき完全形」、「イデア」として存在する。
気圧帯という閉じた系に居ながらその系が提示するイデアを観測できる・・・・という部分に
その気圧帯というシステムは、人工的であると仮定する余地が生まれる訳だ。
この疑似イデアは、共産主義的気圧帯内部での「夢のような超越的人物像」でもよくて、
カルト内部においては、「教祖=解脱者」であってもよくて、
疑似イデアは、これらのようなあからさまに胡散臭い気圧帯に限らず、
「一般的な」社会通念に存在している、ということだろう。
「社会システムが疑似イデアにより作られている」という点が、肝だろう。
この「問題」を認識するものは、社会から冷たい目で見られるという優れた関数が働いている。
この辺りから、陰謀論に連結を図ることもできるな。しかし、重要な点は陰謀論の論点には無いと思っている。

544 :
・バイオパワーによって作られた気圧帯は、
 バイオパワーの外側に位置する存在によって設けられた。
・群集の相互インタラクションにより、
 バイオパワーの気圧帯はその境界線を築き、頑丈にしてきた。
この2つの考えが浮かぶ。どちらかだけが正しい、または、どちらも正しい、
または、どちらも間違っている、の判断はできないが、
前者はID論的、後者は進化論的な視点だろうと思う。
陰謀論は一貫して、前者の仮定を用いるようだ。
例えば、我々の社会は、我々の社会を超越した人々によって支配・管理されている、と言う具合に。
ここで、俺が深く考えずに思うことは、
もし、陰謀論者がID論を主眼とする宗教を信じていることが前提であるならば、
前者の様な論理転回は、法則としての世界観は同じものを採用しており、
陰謀論が真実であるときには、ID論が真実であることを提唱していることになる、ということがある。
ID論が真実であっても、それは人間によるものであるのならば、超越的な存在が人間の外にいるという
ID論の定義とは異なると考えたときに、
いや、同じ人間であってもその超越的な境遇に立つ人間になることは、
いわゆる人間にとっては不可能であるとして、人間を2種類に分割することもできる。
陰謀論者がID論を肯定すると、選民思想に行き着く。
これは、陰謀論における陰謀者の考えではないのか。
進化論にしても、自然淘汰、自然選択を深く考えるほどに、
ID論が不利になるような理屈は生まれないように思うのだが、
とりあえずここまで。

545 :
イデアは到達不可能でなければならないにも関わらず、
疑似イデアには到達方法が存在する。
疑似イデアはバイオパワー気圧帯の発生理由でもあり、
存続理由でもあり、発生結果でもあり維持後の事象でもある。
疑似イデアは到達可能ではあるが、イデアのシミュラークラみたいな、
イデアを元型にもったインスタンスのようなものなので、
気圧帯内部の人間は、疑似イデアに到達不可能であることを望む。
到達不可能を望みつつ、到達を夢見ることを願い止まない。
気圧帯内部で疑似イデアを体現するような者は排除される。
気圧帯外部で疑似イデアを体現するような者は、
気圧帯世界観を助長する要因として敬われる。

自己が繰り広げる「世界」の「登場人物」となる、
自己から与えられた「存在権」とでも呼べる認識についての考えを含まないと、
気圧帯内部のリアリティは把握しにくいかもしれない。

546 :
気圧帯内部の人間にとって、
気圧帯の外側の領域に抜け出ることはそもそも不可能であるという認識により、
外側の疑似イデア体現者は、気圧帯内部の人間が成り得る不可能な存在である。
選民思想をトップダウンではなくてボトムアップで用いた考え方なのだろうか。
選ばれる人間の質を一元的に評価する次元がないのなら、これも選民思想のひとつの形であるだろう。
登場人物は常に気圧帯内部にいる。
自己が存在を許す他者、自己が自己と同質の生命体であると認識する対象は、
自己が接触を持ったことのある生物に限られる。
@自己と、自己と同一と見なせる他者と、自己・他者の存在意義となる価値である疑似イデア
Aそれら人間が活動できる気圧帯という閉鎖空間と、その空間の存在の前提である疑似イデア
Bひとつの気圧帯と、気圧帯外部の世界
C疑似イデアと、イデア
この連立方程式か。
それとは別にして、「登場人物」という軸から、自己を包んでいる気圧帯から抜け出る技がある。
気圧帯外の人間を自己の登場人物にすることができると、
自己の所属する気圧帯が広域なものへと変化する。

547 :
>>545で触れた、
>気圧帯内部の人間は、疑似イデアに到達不可能であることを望む。
>到達不可能を望みつつ、到達を夢見ることを願い止まない。
これを気圧帯から独立した関数として利用することができる。
独立した関数として利用するには、function(疑似イデア, ターゲットセグメント)
といった形で2つの要素を関数に持たせれば、現存気圧帯の有無や種類に囚われることなく
新たな閉鎖空間を作ることが出来る。
この関数の性質を考えてみると、
あえて漠然とした喩えで言うならば「猫じゃらしの棒」といったものだろうか。
猫をじゃらすのも目的次第、ということだ。この目的次第の可能性を広げるためには
アフォーダンスのような視点が有効だろう。対象物:猫と環境:居間において、
猫をじゃらす理由は、対象物を楽しませるためだけではなく、環境:居間における
対象物:猫の位置を移動するという目的でも行う事が出来る。
また、疑似イデアにイデアを感じる気圧帯内人間ということで、
現実的には低いレベルの目標:疑似イデアに対して、
到達不可能であると認識させながら、到達したいと夢見させることで、
対象の人間を、その目標未満の質に自主的に抑えるように働かせることもできるだろう。
通信の帯域制限やCPUの稼働率の制限といったような役割として関数を働かせることが出来る。
リミッターを外したい人間がいるとするならば、
自分は何かしらの気圧帯に所属していると何はともあれ仮定し、
気圧帯外部の(=今の自分からは現実離れした)人間を登場人物として
認識することにより、その気圧帯が掲げる「凄さ・偉さ」などの疑似イデアを
確認・再定義することがまずできるだろう。
この考え方は、俺の言う著者の用語である「コンフォートゾーン」の定義方法と
少なくとも同じベクトルを向いているものだと思う。
今俺が言える違いは、著者は「現実離れした成りたい自分」を掲げるように言っているが、
俺は「別世界の登場人物」に接続することで気圧帯脱却を言っているということか。

548 :
>自分は何かしらの気圧帯に所属していると何はともあれ仮定
する理由は、気圧帯という閉じた系の内部にいる自己は、
その系の輪郭を認識することはできず、内部矛盾も認識することが出来ないので、
概念として認識出来る「気圧帯」という一時的な「論理構造」を介して、
気圧帯の外側に降り立つという行為と同じ意味だ。
成りたい自分を思い描くということは、目標に制限もなく環境まで設定できるのが良い。
しかし、バイオパワーの疑似イデアに囚われた思考力から、
どの程度の「現実離れ」を思いつく勇気と弛緩を得られるのかは、本人任せか。
別世界の登場人物に接続するのは、まず現実的にそんな機会が無いのが問題だ。
バイオパワー下の意識では、そんな相手に嫉妬はすれど、自己と同一であるという認識を
持つことは難しい。しかし、それが出来れば、相手のいるレベルの気圧帯程度までは
自動的に持ち上げられると想像する。
ところで、「ルサンチマン」というものも、
「バイオパワー気圧帯内部における疑似イデアに向けた重力または引力」
という風に単純に捉え直すことが出来るのではないだろうか。

549 :
>別世界の登場人物に接続するのは、まず現実的にそんな機会が無いのが問題だ。
これは逆に、世襲制という形で実行されていると思う。
単に代を継ぐだけでなく、リミッターのはずれ具合もそのようであるということだな。
生得論における環境が持つ力のひとつだろう。

550 :
>>541で参照した>>383は間違い。>>382が正しい。
また、>>547で挙げた猫じゃらしの目的の例として、
「猫の移動」よりも、
「猫にドタバタ走り回らすことで、床をひっかき傷で柔らかくすることが、
 裸足で居間を歩き回るおじいちゃんの足のツボ刺激に役立ち、健康維持に働く」
というような複雑で奇抜な例のほうが対比としては良いかもしれない。

551 :
少し砕けて、別の観点からバイオパワー気圧帯というものを描写してみよう。
2ちゃんでは、よく○○厨という人の呼び方をするのを見かけるが、
この厨というのはひとつのバイオパワー系であり、気圧帯だ。
○○厨と呼ばれる人間は、
その気圧帯内の疑似イデアに非常によく引っ張られているお手本のような存在だろう。
しかし、厨呼ばわりされないから自身はその気圧帯に取り込まれていないとは言い切れない。
「真面目」という言葉は、疑似イデアに従順である姿勢と考えることも出来る。
「勤勉」であるということは、バイオパワー内の疑似イデアに向けた取り組みを
何よりも優先していると捉えることも出来る。
「将来の夢」は往々にして、バイオパワー気圧帯内部での疑似イデアの表明に過ぎない。
「仲間」は、自己の所属する気圧帯内部の人間のことであるとも考えられる。
全部適当だが。

552 :
人間は、
「あなたが生命であることを証明せよ」
という問題に取り組んでいる、それも人類史全てに一貫して。
このように捉えて良いのだろうと俺は思う。
ここで方法論が多岐に渡る。
別に数学的証明でなくても良く、
生き様に非生命には一致しない要素を生活の中に描写するのでも良く、
考えられる方法全てにおいて、生命であることを否定できない要素を見せることであり、
そんな要素に該当する方法を用いることも、その証明になるという風に思う。
「魂の問題」の問題は、
評価対象を還元し、そこから生まれた沢山の部分を再度組み合わせた時に、
もちろん初期の対象からは何かが欠けた状態に出来上がるのだが、
この還元主義的な方法により特定出来る欠けた要素を根拠に、
何をさらに解明できるのか、ということではないかと思う。
この「方法」という思考関数では、「欠けた部分」という返り値しか演算できないかもしれない。
この方法を念頭に置き、『「人間」が「己が生命であることを明らかにする」』ことも頭に入れて
あらゆる人間による産物、創造物、創作物を見ると、
@シミュレーションや人工物
A1生命体として全力で思いの丈を形にする
B生命維持を助ける物
というような分類を思いつく。
Bは食べ物や住居や医療などに始まり、証明活動を可能にするための物であるだろう。
@の低レベルの意図は生活を豊かにしたり、研究を発展させたりということになるが、
そもそもは、生命体・生命現象の偽物をボトムアップで作り上げて本物生命と比較し、
差分を抽出するという、上で言った方法に準じた物だろうと思う。
または、生命体を作り上げるという方向性か。
Aは、「何かを作っている者」が生命であることを条件に、生命だからこそ出力できる内容を
あらゆる個人の固有ケースから描写しまくるというものだろう。この類は芸術に限るとは限らないが、
芸術の抽象的な意義はここから導けるだろう。

553 :
生命という概念が、特有の世界観フレームによる産物に過ぎない
ということも考えられるかもしれない。
この考えにおける非生命と、「生命の証明」における非生命は違うものであるだろう。
この仮定による生命・非生命の可能性を、「生命の証明」に絡ませることは出来ない。
様々な学問分野における生命の意味も、また違うものだろう。
学問領域がそれぞれのバイオパワー気圧帯であると考えれば、
それぞれの領域が求めるものは、その気圧帯内部での価値であると考えられる。
バイオパワーに属する前に、人間であり、この普遍的な観察視点からの生命
が俺の言っている生命ということだろうか。
学者の意見も、井戸端会議のおばちゃんの意見も、
「生命の出力」という同じ質の意見であるという視点か。
「学者のほうが真面目に勉強して物知りなので、もっと意味のある意見だ」と言う場合は、
そのような価値が生きる前提となっているバイオパワー気圧帯内部のお話であることがわかる。


554 :
上の著者がいう「コンフォートゾーンの定義による、未来の自分による現在の自分の操作」
というようなものは、引き寄せの法則や、NLP的な意識の明瞭化、
それらは、無意識が扱う情報のコントロールというような解釈で一致するのだと俺は思うのだが、
これらの無意識の働きを、それぞれの法則として学習する以前から、
人は、そこまでの水準ではないにしろ、同様の働きを無意識にさせていると考え、
「芸術家」というものを考える。
上で書いたAを「人間レベル」で実行する人について思うことがある。
人間らしさの追求ということになる。
より多く・純粋に・メリハリのある形で「人間らしさ」を出力できるように
ひとりの人間としての状態、それを取り巻く環境を、無意識に操作していくことになる
という可能性が思いつく。
ここで無意識に求められた己の状態と環境は、何と表現すればいいのだろう、
幸せな安定した環境ではなく、苦悩に満ちた環境であるのではないだろうか。
「生命が試される」問題への回答が「生命らしさ」であるからだが、
本当に「こう」ではくてはならないのだろうか。不遇すぎる。
大体、人生経験豊富という状態は、
過酷だったり例外的だったり、逆に規則に従った憶えであったり、
Aの帰結は、多角的に生命を試すというものに繋がるしかないのだろうか。
「生命を試す」という方法論からは抜け出せないままだ。
芸術であっても、芸術的才能などという具体的なものは、
Aよりも@における、何らかの真理や未解明の法則のシミュレーション又は関数の発明
という領域で評価されるだろう。最近では、既存の科学的法則・自然法則の芸術的応用方法といった
歩幅を狭めた進み方もあるようだが。
何が言いたいのか良く分からないが、Aは危険であるという思いが飛び出た。
しかし、危険はAの在り方である可能性が高い。
唯一の在り方なのか、在り方のひとつなのか。
@でもBでもない人達は、自ら過酷な状態・環境を呼んでしまうという仮定を、
カルマなんていう概念で説明するより、画期的な解決方法があるはずだ。

555 :
一瞬思ったことを、理路整然と書こうとしたら、全然駄目になった。
しかし、一瞬思ったことは書ける。
>>554
>過酷だったり例外的だったり、逆に規則に従った憶えであったり、
>Aの帰結は、多角的に生命を試すというものに繋がるしかないのだろうか。
経験を俯瞰視点から見れば、試すことは厳しい内容だけではないじゃないか、ということだ。
これを理屈で実況しようとしたら、うまくいかない。
あらゆる経験を「経験」と抽象化すれば、どんな内容であれ経験の色になる。(パラメータになる)
経験とは、どんなのも全部ひっくるめて経験と呼ぶ、という抽象化だ。
もう、この時点で「絶えず危険度が増していく」という速度も方向性すらも無くなる。
ここで問題は消滅してしまったのだが、ではなぜ俯瞰する前にはその疑問を抱いたのかが問題になる。
俯瞰した時点で経験がパラメータを持つ関数になってしまったものだから、
以前は関数でなければ「何」だと思っていたのかが問題だ。
危険と思ったということは、安全を操作できなかったわけだ。
危険であったにしろ、一度経験して学んだことは全て知っているとすると、
知っていることについての危険は回避できるので危険ではない。
常に自分にとって未知の空間・事柄に踏み入れる・手をつけるという状態か。
すると、俯瞰したときには、これらの未知のものはどこへいってしまったのか。
寄り道に逸れる。
>知っていることについての危険は回避できるので危険ではない。
回避の仕方を知っている危険でも、人は怠けて回避しないので、まだ危険である。
こんなやり方で生命の証明をすることは、馬鹿げている、しかし、やめられない、ということか。
命の危機ではないから、危険を回避しないのか。
命の余裕を尺度にすると、危険を呼び寄せる。巷でよく言われるような内容に繋がったか。
・未知のことは俯瞰視点からは未知ではない。
・経験は関数。パラメータは経験の内容。
・経験は自己が感じる。
この3つが同時に有り得る世界を考える。
俯瞰視点には、怠けの要素がない。自己の周囲の事柄は、見えているので、
見えた時点で対処する。経験する内容を関数に入れて、それを体験する。・・・
全然関係ないが、俯瞰視点はID論を肯定し、監視系のシステムを設け、
休みやレクリエーションはOKだが、単純な怠けは駄目にするという路線を
社会に作り出すのだろうな。
怠けるほうが危険であるという認識か。
人間らしさ(怠け)に人間が挑戦するというのが、さらに人間らしい(枠の外に出る)のか。

556 :
俺の言うような砕けた意味合いで、では進化論的な物の考え方はどうなるのだろうか。
・「人間」というひとつの関数に収束―俯瞰視点型
・「我、個人」という具体性に収束ー進化論方面の見方?
なんだか色んなことが思いつくが、思いつきを忘れないように散文的に考える。
どちらかひとつでなければいけない、ということはないだろう。
盛んに争われるのは、「現実」がどちらを絶対的に行使しているかということで、
物の見方としては対立するものではないと思う。
しかし、両方でなければいけないと考えると、両方可能にする新たな物の見方を使うか、
俯瞰視点を用いて、両方とも「物の見方」と相対化して同質とみなすことになるのだろうか。
この論理で行くと、進化論的には、俯瞰視点は在ってはならない。
または、それらの人間は俯瞰視点の方面に枝分かれした別種となるか。
同じ人間でありながらそれらの人間を別種とみなす場合、
バイオパワー気圧帯内部の人間が外部の人間を、不可能な存在と見なすように、
ボトムアップの選民思想的な考えとなるか。
より体も心も遺伝子もより主観的に方向付けされるのが進化論的で、
より客観的に方向付けられるのが俯瞰視点的か。
ヒエラルキーという形で人間を層別に分別して捉えるのは、
その段階まで進化・進歩したかどうかということで進化論的か。
俯瞰視点的には、個の概念の相対化レベルを変えるわけで、
これを行っている人間は枠の外にいる。
ある比較的複雑な行為Aを行うということにおいて、
進化論的には、
Aを行うのに十分な進化・進歩を遂げているかで、Aを行う資格や権利を与える。
俯瞰視点的には、
行為は経験関数なので、行為を取り、結果得るものを予め関数に代入することで
A「は」行われるので、Aを行うにあたって力学的な障害は無い。
犬や猫というペットと暮らす人というのをそれぞれの視点で見ると、
進化論側は、犬や猫といった動物への適応性と相互援助力を、人間の特徴として強くしていく。
俯瞰視点側は、犬や猫や人の間に生まれる関数、
一段階下げれば、犬関数や猫関数と一緒にいる人間関数、ということで
「で、ここから何がしたいの?」という次なる条件待ちの状態になるか。
自然や生物学的な根拠が必要になるという点で、自然や現実が進化論の存在の前提になっているのか。
進化論的な視点のみで、「思考」できるのだろうか。
頭の使い方を模索しているうちに、俯瞰視点に出会ってしまうと思うのだが。

557 :
進化論的な物の見方は、後付け論である、ということにどのような例外が考えられるか。
未知については、
自然淘汰や競争の勝者・敗者や、突然変異という解釈を用いることになる。
文明編集のしんがりであり、人間としての体感ではフロントエンドの進化論的見方。
文明編集のさきがけであり、人間としての体感ではバックエンドの俯瞰視点的見方。
パワーゲームに勝てる生残りがバイオパワー最後部で危険を専ら相手にする進化論側。
そのようなワーストケースは事前に対処済みである俯瞰視点側。
でも、ワーストケースが起こるときには起きる。
段々、人の性格の違いみたいになってきたな。広げ方がいくらでもある。
どうでもいいことだが、
ゲームのラスボスみたいな「価値」の門番は、進化論側の観点を持っていて、
Mr.Xのような正体不明の存在は、俯瞰視点側の観点を持っているといえるだろう。

558 :
国盗り合戦は前者、監視社会は後者、
両方の過激な部分を合体させた超絶極悪冷酷マシーンが陰謀論的な影の黒幕か。
この様なときに、
鋼の肉体に、不死身の身体に、不敗の能力を求めて、
最終的には「虫」みたいに超特化した遺伝子を目指すのが進化論側か。
超絶極悪冷酷マシーンを俯瞰して、斬新な解決方法を編み出して対処するか、
そんな超絶マシーンは考慮するに値しないと結論を出すのが俯瞰視点側か。

559 :
俺は「虫」には、なりなくないな。
構造が機械みたいだし。
非「主観的」な俯瞰視点のほうが人間の温かみがある、というのが
いったいどうなっているのか。

560 :
「虫」に話を持って行ったところで、
バッタの大群化と脳内物質の関係についての記事が目に入ってくるものだから、
バリアフリーの床を段差なくスムーズに走行しているような気がしてくる。
と書くと車椅子を想像するしかないが、人間の意識が車椅子に乗っていて、
ガタンと揺れることなく段差を通過すると、
今までの気分も先入観のフレームも維持したまま別の空間に移動してしまう。
要素が継承される。
逆の例を挙げると、百段の石段を登ったところに神社があり、その神社に来ると、
「ああ、神社に来たなぁ〜」と心もリフレッシュして、神社という空間に入り込む。
百段の石段というバリアが意識にも肉体にも抵抗を生むが、その抵抗が「別空間」
のバウンダリーになっている。ドラえもんのどこでもドアでその神社に来ても、
その臨場感は味わえないだろう。
ところで、
別に書こうとしていたことがあったはずだ。
相対化ビジョンは結構論理的なものだと思うが、ビジョンと俺は呼んでいるので視覚的なものだろう。
しかし、この視覚はリアルな視覚じゃない。俯瞰視点時の情報形成で、体感的にはバックエンドのものだろう。
フロントエンドはリアルを体感するので、相対化ビジョンなど見えない。
書こうとしていたことは、
相対化ビジョンを理解することよりも、リアルにそれを感じることが主旨である
というようなことか。
ビジョンでありながらリアルでは視覚としては認識出来ない。
しかし、このビジョンの論理構造を利用した感覚をリアルに感じることができるのかもしれない。
「違和感」として感じる。これは五感ではない。論理からの差異だ。
この差異が、五感の別の感覚に翻訳される。
このメカニズムは「共感覚」っぽい。例えば、視覚情報を触覚で感じるというような。
で、違和感の表現には「バイオパワー」がかなり有用そうに見える、というところか。

561 :
この「違和感」を文学的に処理してはいけない、と思う、フォーカスを留めておくために。
解釈によるカタルシスや余韻なんかに用はない。
まだうまく言えないが、
まず、「感覚は日常言語を用いなくても表現できるものだ」と俺は思っている。
そこで、この「違和感」というもの、日常言語では表現できないので別の五感に頼ってくる代物、
「これ」は何なんだ?
「これ」を『「これを表現できない心情」という余韻』に置き換えて終わらせるのは目的が違う
ということなんだろう。
ここで催眠術の知識を持ってくることになる。
術者が被験者のリズムに同調したうえで、術者が手を挙げると被験者も手を挙げる
というものだ。
情報の伝達として考えると、
日常言語による伝達は、
人A - 日常言語 - 人B
- ではなく矢印にしようと思ったが、要らぬこじつけが必要になりそうなのでやめた。
催眠術の手を挙げる動作の伝達は、
@人A - 人B
無理に日常言語で用いた構造に当てはめれば、
A人A - 身体リズム - 人B
となり、リズムが「意思を運ぶことの出来るコンテナ」=言語であるように見える。
@と想定したときと、Aと想定したときで、世界観が随分変わる。
この違いによる意見の別れにより、要らぬ仲違いが起きているのではないかと思ったりする。
言っているのは催眠術の話ではなく、「違和感」の話だ。

562 :
手を挙げる動作の伝達で、
催眠術による変性意識が生まれていない場合は、
人Bは、人Aが「手を挙げた」という情報を受け取る、
又は、人Aが「怒った」という情報を受け取る。
「人Bが手を挙げる」という情報は伝わっていない。
動作や感情はコンテナに入れられる情報なんだろう。
コンテナがリズムなのか変成意識なのかはわからないが、
コンテナに情報が乗せられたときに、主語が欠落している。
主観的になっている。一人称視点になっている。フロントエンドになっている。
「感覚・五感」というものは極めて主観的なものだろうと思う。
氷に触って冷たいという感覚は、相手に同じ環境で同じ氷に触れてもらわないと伝わらない。
目には目を歯には歯を、が生息するレイヤーだ。
これら「感覚」を伝達する言語レイヤーが存在する、ということで良いんだろうか。

563 :
「ひとつになる」
これが変成意識でもありリズムでもあり、
感覚言語伝達レイヤーである、というと、陳腐な物語みたいだな。
しかし、一般的にはこの言葉によって最も的確に表現されているのだろう。
加害意識も被害意識も一人称視点には無い。
守りも責めも、個の保守も拡大も侵入も侵害も無い。
関数の取る要素数がひとつ少ない。
そんな関数が走る環境とは何だろう。
その関数の親関数は何だろう。

564 :
「虫」と関数、、
関数の演算結果は節、
外骨格と言語コンテナ、
サナギの中はドロドロの液体、
正体は神経か。
関数を発動しまくる環境が、神経によって指揮されているのか。
フラクタルは当たり前みたいだな。
脊椎動物と無脊椎動物は、靴下を裏返すような関係なのか。
虫の神経はサナギの中、
靴下裏返すと、
人間にとっての「ドロドロミキサーを手に負える神経」は、人間の身体の外にあるか。
遺伝子ってzipみたいに圧縮されているのだろうか。
圧縮されているとすると、
遺伝子のどの部分がどの値だとどのような特徴を持つ、という風に解明していくのは無理がありそうだ。
遺伝子組み換えなんて表面的な値を変更すると、データの展開時にバグの嵐になるんじゃないだろうか。
そもそも遺伝子は、本当に解明されてきているのか?
サナギはやばいな。
サナギのメカニズムは神秘というより核心なんじゃないのか。

565 :
虫、高機能すぎるな。意味がわからない。

566 :
大福とおはぎの違いなんだよな。
寿司とカリフォルニアロールの違いでも良いけど。
虫にとっての体内エネルギーの意味や意義や価値は、
人にとっての体内エネルギーのそれとは違うと思うんだよな。
食わないと死ぬっていうのは別次元のことに思う。
この意味や意義や価値を同じと思うから、
人は虫を、人より下等だと考える。これが間違っていると思うんだよな。
寝ながら考えると理性の枠に嵌らずに、
予想外の思いつきとそれに対する
「おお、絶対にこれが正しいぞ」とかいう判断(感覚)が発生するので、
これについて寝ながら考えてみたが、
(もちろん本当に正しい訳がない。単なる「これだ!」っていう感覚の話)
・人間の持つイメージ - 外骨格
・考え方は外骨格の一部でイメージよりも具体的・局所的
・虫には確固としたイメージがあり、揺るがない考え方がある
・サナギモードは明らかに内部矛盾の解決法だろう
・羽とかいって、3次元空間における序列を無効化してるよね
・こいつらかなりtheoretical(虫のこと)
・セオレティカル・ビーイングが進化なんてする訳ないだろ
なんだこれは・・
前に進化論側が虫と言ったが、違うようだ。

567 :
論理が真理とかいって、遺伝子が真理って言ってるだけなのか。
遺伝子が展開される演算回路には従わないと何も発生しないわな。
この回路を「抵抗」皆無の状態で通過するのが論理か。
やばい。全然関係ないイメージが沸いた。
すっぴんの女性がメイクをするのに化粧部屋に入った。
出てくるまで扉を開けたら駄目だよと言っている。
10分経っても出てこないのでガチャって扉をあけると、
部屋の中にはドロドロの液体が詰まっていた。
鶴の恩返しじゃないか。くだらん。
あーあ、いつもこうやって脱線して本題の続きを逃してしまうんだな。

「イメージは外骨格となり、考え方まで与えてくれる。」
ということが言えそうだ。
俺が酔っぱらってる時に言ったりしてる「右上!」とか、外骨格についてっぽいな。>>482とかか。
なぜイメージの話になっているのか。
論理からの差異が、またその形を形成する
ということについての手がかりが得られたようだ。

568 :
生物学方面は何か特殊だな。哲学と一番距離があるんじゃないだろうか。
別に哲学に拘る必要はないけれど、「人が思考する」ことを不可侵なエリアに設定していない ー
フロントエンド本意な感じだな。本意というよりフロントエンド主体か。
世界ありき、か。現実的って言うのか。
虫を知るために、この世界観しか使ったらいけないのか?それは不便だ。
虫を知りたいから生物学、昆虫学、っていうのも変だよな。
虫はそんな個々の世界観に関わらず存在しているんだから、
どんな角度からでもアプローチできる存在だと思うんだが。
この世界観って独自ルールでエゴだよな。
やっぱりエゴを減らそうとすると、数学とか論理とか関数だけになってしまうのか。
エゴを減らしたい理由は、カタルシスが「我、満足」で終わるのはもううんざり、ってことか。

569 :
ところで、
上の著者の持つ見解と、陰謀論系のものに書かれている見解で、
明白にぶつかり合う対象がひとつある。
ロックというものなんだが、基本的には音楽であるけれども、
問題はそんな小さなところにはなさそうだ。
上の著者は、ロックはエンジェル側のものと言い、
もうひとつのほうは、人々を堕落させるために仕組まれた悪魔のもの、というように捉えている。
この違いを知った瞬間に、「この件には近づかないほうが安全だ」と感じたのだが、
危険ということは、俺が「生命の証明」のAとしたことであり、これに同一性を感じたわけだ。
とはいえ、この件については疑念を感じていて長いこと話には持ち上げなかったのだが、
非常にシンプルに表現する方法を探していた。
ロックとは、どのような神経回路なのか。
ロック=「〜せずにはいられない」
ここまで抽象化すれば、
エンジェルだろうが悪魔だろうが、それすらが要素になる。
これの何が問題なのか。
進化論的な説明は、バイオパワー気圧帯内部に限った力の浸透過程
に適用されるのではないかと推測しているのだが、
ロックというバイオパワーは、かなり広域に広がっている、地球を包み込むくらい、
ということが問題なのだろうと思う。本当に地球を包むのかは知らないが。
ひとつのバイオパワーが全域を包み込んだら、それが唯一の世界に見えてしまう。
更なる問題は、ロックという神経回路は、「ロック音楽」とは見えていないことだろう。
ロック音楽に興味のない人も、十分にこの神経回路の中にいるということになる。

570 :
Aと関連させたことから、芸術についてまず考えてみる。
芸術、特に美術。音楽はあからさまにロックで通じるので美術。
芸術と言ったときに、イデオロギーに関するツールではない芸術が
頭に浮かぶのならば、芸術=ロックの代入が完了しているように思う。
イデオロギーは、もろにバイオパワーそのものを指しているが、
バイオパワーという概念よりも具体的なインスタンスだろう。
イデオロギーなどが持つ疑似イデアが掲げるイメージを補佐するものではないもので、
それでも芸術と言えるもの、
抽象化度合いを整理すると、まず感覚言語伝達レイヤーを用いた物という視点があり、
そのレイヤー内で特に「〜せずにはいられない」メッセージや衝動にフォーカスした視点が
ジャンルやカテゴリを問わずに芸術と呼べることになっていると思う。
「〜せずにはいられない」の主語も述語も要素なので変幻自在だ。
ただ、この関数だけは繰り返し用いられる。
この、要素ではないが機能している部分を神経回路と俺が適当に呼んでいる。
この、抽象的なロックの概念というのは、
エラン・ヴィタールという概念による影響が考えられそうだ。
ロックは音楽発ではない匂いがする。
しかし、音楽を隠れ蓑に、芸術・文芸・あらゆる領域に行き渡ったように見える。
ロック音楽を認めなかった人も同様に影響を受ける。
ロック音楽を嫌う人がいれば、嫌える要素を認識してしまったということで、
音楽だけを蔑み、その他の分野では肯定的にその要素を認識してしまう。
「〜せずにはいられない」というイメージは、
枠内の飽和状態や抑圧状態も含んでしまう。論理に従わない抵抗値も含まれる。
この関数を一人歩きさせれば、
強迫感を見出せるバイオパワーを探索して見つけ出し、
その自身とは深い関係のない輪の中に入り込み、ロック関数発動 - 爆発
というように、自身の生命の躍動からは乖離した行動にも繋がるように思う。
快感の脳内物質が出る本当の根拠がすり替えられてるっていうか、
「必要に応じた結果の分泌」を、「快感を得るための人工的な分泌」、という風に変えられているのか。

571 :
ロックが世間で語られるようになったということは、
主に語られるのは具体的には「ロック音楽史」についてではあるけれども、
巨大なバイオパワーの神経末端であるので、
この神経全体が相対化される時期がきているのかもしれない。
芸術に関しては感覚言語伝達レイヤー全体に移るという風に簡単に予想できる。
芸術以外の分野に関しては、社会の深いところまで浸透している神経が、
それぞれどんな形で各々の全体像として現れるのかを感じ取れると、
それが先見性として後付けで認識されるのかもしれない。

多少ずれるが、
複雑な物ほど、シンプルで小粒でありながら高機能な関数が核にある
と俺は思う。
自由意思が許される枠内での、自由の形の総計が大きいほど全体は複雑に見え、
取れる形の自由度が上がると言うことは、型を規定する関数の柔軟性が高いということで、
その関数はシンプルであり、且つ高機能である、ということか。
全体と部分という分け方ではなくて、全体と核という分け方だな。
そこで、全体が複雑化していく傾向に「ある」と言い切れるのかは、わからない。
全体が複雑化するということは、核の関数が洗練されていくということになる。
この「全体」を相対化されてしまうと、「関数の影響後の形の美」が吟味されるようになると予測する。

572 :
おお、そうか。
虫より人間のほうが洗練された関数を核に持っている可能性がある。
もはや洗練というより抽象化次元の違う関数を持っている可能性がある。
「イメージ」はかなりやばい、柔軟で高機能な関数っぽい。
虫の「イメージ」は、虫の核の関数の中に定数化されて存在しているのか。

573 :
イメージ固定なら、バイオパワーの疑似イデアに真摯に向かうということで、
やっぱり虫は、進化論側か。
んん。どこか、捻れてるぞ。
フロントエンドとバックエンドが砂時計みたいによじれた形になっている。

574 :
話題にあげたいことが幾つかあるのに、
文脈というリネアな流れのベルトコンベアに乗せるにはタイミングが合ってない、
と考えを練り直している間に、
過ぎ去る時間というベルトコンベアに乗っかった更なる気になる問題が
ストンストンと問答無用に意識に積み上げられていく。
寝て起きると、別の疑問が待っている。昨日は居なかったのに。
朝の目覚めを新たな疑問が迎えてくれる。迎えてると思いきや、後をつけてくる。
夜になっても疑問は頭にあるままだ。放っておくと、この疑問が仲間の疑問を呼んでくる。
朝になれば疑問の実がなっている。ハーベストするしかない。寝ている間に卑怯な奴。

この疑問に彩られたミステリアスな廻廊探求ストーリーは、
いや、まてよ?とクライマックスで大間違いに気が付く壮大なスペクタクル、
というのが大間違いで廻廊と言っているんだから縁をぐるぐる回っているだけじゃないか。
と、切り落とす箇所を探しながら文学的な表現に避難しながら休憩している
のは自明のこと。
旋律的に繋がっていた脳内ニューロンが、和音的な繋がり合いを見つけてしまったそうです。
というのもそもそもおかしい。
事の発端は、俺の左脳は右脳に比較して弱いから左脳を開発してみようということで、
右脳にお手々を引かれながらよちよち歩きを左脳にさせたところ、
「発見したのは右脳的な世界です」とか言ってる左脳。
そんなことは事が始まる前から知ってることだろう。あなたのお手々を引いてた
あなたのお手々を引いていた・・
こういう事を考えた後に神経科学の本を読むと、なぜか思考結果の答え合わせのようになってしまう。
思考と神経細胞の構造が同一と見なせる。思考の根拠は細胞の構造に見つけることが出来て、
細胞の構造はそのまま思考の形として使うことができるようだな。

575 :
ならば疑問とは何なのか。「なぜ?」って何なのか。
「因果関係」というのは抽象レベルとしてそれほど高くないと音叉がポーンと澄んだ音色を奏でている。
抽象度が上がると細胞の構造に近づくって、「それってむしろ具体的じゃね?」
と矛盾を発見。砂時計型に捻れたジオメトリを認識。
ニューロンの繋がり方を再定義するのが「なぜ」っぽい。「なぜ」が出てきたら新しいネットワーク構造を
作りたがってる。これを放置したままだとどうなるのか。関係あるか分からないがボケの逆の状態が
発生しているような気がする。今まで思い出せなかった、思い出そうとも思いが寄らなかった過去の記憶
が、わりと簡単に呼び起こせる。もちろんそれぞれの記憶は断片的なものだが、
記憶が感情を生むから、その記憶が記憶だと思っているのか?
今のところ俺の勘では、感情は論理回路を通過する時の抵抗により生まれる熱、浪費されるエネルギーが
感情の器官によってエネルギーを手玉に抑えている、放流している、その機構ではないかと思っているが、
記憶が感情を生むことが出来る。記憶とは何か。
aviムービーファイルとflashムービーファイルのどちらが記憶に近いか。全部俺の単なる想像。
ラスターデータとベクターデータのどちらのほうが記憶に近いか。
記憶は、体験を関数としてスナップショットを取ってある、というものじゃないのか。
洗練された関数じゃないから、論理に合わない現実も無理矢理論理式で書き込まれ、
それを再生すると、回路の抵抗から熱として消費されるエネルギーが観測されたりする。
今ニューロンの発散回路が点滅している。ここから広げる話題の種類がいっぱい手元にある。
脳の演算を実況してる分には、何を書こうかと悩むことがないので楽で真っ直ぐだ。
この様な意味合いで、以前に挙げた「虜人日記」は感銘を受けた、というのはある。
ここで虜人日記を持ち出す必要が無いことが、持ち出した理由になっていたりする。

576 :
俺がかつて得意で、俺が非常に嫌っている、俺が問答無用で軽蔑している「暗記」。
暗記に対してかなりの、論理から外れた熱を発する形で、
俺は暗記という物を関数化させて記憶していると言える。
流行りの認識で言えば、データベース型の知識。
インデックスに持たせた情報の塊。
これはラスターデータ、ビットマップそのものなんだろうな。
「俺」が「暗記」に対して「敵意」があるというのが面白い。
どんな変な風に関数化させて俺はスナップショットを取ったのだろうか。
洗練された関数に書き直して記憶しておこう、
とバックエンドからはポジティブに捉えることしかできない。
「暗記の関数を書き換える」ということは、
日常言語で言えば「暗記に対する認識を変える」ということだろう。
we can changeと言ったところで、
具体的に何をどう操作すれば何が変わるのか分かってなければ何も変わらず、
ポンコツ回路が熱を発しているのを「熱くないよ?」と誤魔化すことができるだけだ。
俺が敵意を持った暗記を味方につける発想が、新関数のモデルになるだろう。
しかし、自分に都合ばかり良く定義しても、そのエゴは論理回路の抵抗になる。
「暗記というもの」を担当する脳細胞が、俺の脳内の他の関数群、細胞群と
相互に恩恵を与え合う形が良い。そんなふうにデザインする。
で、このような発想の方向性は、自己と他者との関わり合いにもフラクタルで当てはまる
ということが、論理回路の発熱をさらに下げる。
これを書いている間に右脳側は暗記に対してOKサインをもう出しているが、
左脳側は時間がかかるんだよな、具体的な土木・建築行為だから。

577 :
「暗記」関数の書き換えについては、俺個人の固有ケースとなるから他の人には
あまり役に立たないだろうし、余計なステレオタイプを産み出す可能性があるので、
文脈操作の為だけに部分的な点を話にあげようかと思う。
個人の固有ケースは、他人に不快感を与えるから、なるべく端折ってみる。
まずは既存の(今のポンコツ認識の)暗記関数の検査みたいなことをざっとしながら、
この記憶が記された時の環境を探ってみると、暗記の対極に位置する物(その記憶時)が見つかった。
それが、算数・数学であったのだが、これへの認識も洗練された物に書き換えないと、暗記の認識も
上手く書き換わらないことを見つけ出した。小さい頃のことだな。
この頃に既に俺の中で「数学」が数学ではなくなっているのを発見した。数学とは書いているが算数の時代か。
論理はできるが数学はできない、という状態が生まれていることを発見する。この認識をデバッグする。
このデバッグをバックエンドで行っている傍ら、フロントエンド(現在・現実)では、
初等教育で学ぶ辺りの概念を調べてみる。例えば、ピタゴラスの功績など。
この辺りの知識を、なぜ初等教育では数日から数週間という短期間で通過しているのか
という疑問が見えてくる。ピタゴラスは小学生レベルの知能だったのか?そんなことは有り得ない。
しかし、その数週間で学ぶものをその後の教育の前提とされる。能力リミッターの存在を確認する。
日本の教育がやばい→でも、出来る奴は出来るだろ?→では、進化論を採用しようか。
というのが見えてくるが、この問題はやっかいなことになるからよけておき、デバッグに戻る。
ここで>>571で挙げた
・複雑な物ほど、シンプルで小粒でありながら高機能な関数が核にある。
・全体が複雑化するということは、核の関数が洗練されていくということになる。
この考えを持ち出す。
初期の教育で、核がズタズタなものに形成されれば、
・取れる形の自由度が上がると言うことは、型を規定する関数の柔軟性が高い
の逆であるので、その後の能力・才能の「のびしろ」(自由度)はかなり制限される。
数週間で最重要事項をスルーする教育では、むしろ核が無い構造体を作り上げる。
核の無い身体では、精々、機能主義的な部分分割・専門性特化、そういうものにしか成り得ない。
それらは、「本体」に接続する「モジュール」だ。モジュールは進化する。物だから。
進化させる「人」が別にいるから。
デバッグに戻る。このリミッターとして働いている初期の記憶をどうするか。
俺に限定して言えば、今現在の知識・知能をもって、核となる初等教育部分を全部書き換える。
ピタゴラスの定理なんて、数日で通過できる物ではない。「人は何故生きるのか」という哲学的な問いを
考え尽くすくらいの深さで、初等教育で学ぶ項目ひとつひとつ考え尽くす。これらは初等ではない。核だ。
そして、楽器を弾きこなすかのように身体に馴染むまで、ひとつひとつの項目を多角的に考察し、書き換える。
子供の頃の記憶の探索中、もうひとつ数学の認識を歪ませた物が見つかった。個人的なもの。
設問が「日本語」であることだ。論理は十分出来ていたので、日常言語は曖昧であることを既に知りすぎている。
従って、設問が理解できない。そんな曖昧な言語を用いながら問われても、何を答えて欲しいのか見当がつかない。
設問を数学として考える前に、設問文を哲学的に多角的に考察してしまっている。日常言語が解釈の歪みの鍵となっている。
こんな感じで俺は、俺のポンコツ関数を書き換えていけると思うが、「自分」で「自分」の認識を変えていくために、
これにもコツを掴んだり発見をすることを「自分」で発明しなければならない。この行為は、自分=自分である場合、
自己言及で本来実行不可能であるはずなんだ。

578 :
「自分=自分」の閉じた回路を何かしらの方法で一時的に「自分、自分」とすることができるんだな。
この状態を使いながらデバッグする。これに慣れてくると、自分の「無知」を一瞬「既知」として捉えることが出来、
これをさらに洗練させていくと、教育は他者から与えられるものではなくて、己によって気付き築くものになり、
これをさらに洗練させていくと、ピタゴラスが定理を発見するように、如何なる他人も知り得ないことを己が発見することができる。
しかし、これらの行為を継続するためには、己が核でなければならず、その核の関数は洗練されてなければいけない。
自分ののびしろが少なくなってきたと感じたら核の関数を見直す、というサービスでも走らせておけば良いのか。
常に真実だけを評価する目を別に持っておくというのも良いか。
と、こういう風に左脳は右脳を見つけるマヌケなんだよな。第三の目なら右脳でも左脳でもないが。
人工透析みたいなものなのかな。自分の血管を他の物に繋いで、血が循環しているときに、
どこからどこまでが自分だかわからない。
この透析機を流れる血が「真実」であり、これを介して「自分=自分」を抜け出すトリックを編み出す。
人間ならそれができる。でも、自分が人間ではないと思っている人達がいるのも事実か。
例えば、↑この文章の「人間」という単語は「血である真実」であり、2つの異なる意味空間を
この単語によって繋げている。これは、血が現在体内にあるのか(ひとつの意味空間)、
透析機にあるのか(もうひとつの意味空間)というような関係性だ。
非常に数学的であると思う。一見無関係に見える事柄を、それぞれでは異なる意味合いの同じ言葉を介して
それぞれの意味空間を移動できる。「意味空間」すら「イメージ」によって異なる空間次元に移動できる。
この辺から訳が分からない。が、空間把握能力に繋げる文脈はできたかな。無理があるが。

579 :
・・なんで俺は空間把握能力に文脈を繋げているんだ?
これについて問題に挙げたいことはまだ対して何も思いついていない。
文脈の方向性を修正して別の内容に繋げるか。←俺のエゴを認識。
エゴを重ねると熱をもつので俺の意志は却下される。
俺は無実だ。別に空間把握能力にフォーカスを移さなくても良いと思う。←まだエゴ湧き出る。
そんなの専門家にませておけばいいじゃん。傍観してればさ。←逃げ道を探すエゴを捕獲。
↑こんな文章書く意味ないでしょ。汚らしいし。←メタに逃げたエゴを捕まえた。
頭おかしいと思われるよ。矢印とかキモイしやめなよ。←エゴの断末魔だな。思考を俯瞰できないエゴが個の矛盾に陥っているだけ。

空間把握能力について考えると頭が真っ白になる。自己言及の実体がこれか。

580 :
しまった。自分で自分に暗示をかけてしまったようだ。
>空間把握能力について考えると頭が真っ白になる。
これを取り消す文の並びを考えなきゃいけない。アホだ、まじで。俺は。
書いてるときも読み直すときも、多少俺は変性意識状態に入っているのだろう。
一連の流れを期間をあけて何度か読み直したのが、かえって定着させたようだ。
気付いたってことは、放っておけば勝手に解けるか。
どちらにせよ、文章の終わりの形は気をつけないといけないな。
ついでに何か別の事を書いておこう。

(これって、>>579のエゴが生き残ってるんじゃ?)
↑これをやりはじめると、きりがない。

レストランで店員を呼ぶ話にしようかと思ったが、この話は奥行きを持っているので、
「情報公開」について考えてみるか。これなら、かろうじて文脈に乗っている。

581 :
まず、何を公開されようが、そこらかしこにトリックが存在していると考えるのは置いておき、
日本に比べて米国などでは、様々なことを一般に公開している空気がある。
公開された物が既に偽装された物だとか、というように考えるのはしないということ。
あくまで核のフラクタル状の出力という文脈は踏んでいる。
MITなどではオンラインで授業が聴講できたり、授業内容や使用する資料などを表記していたりするが、
もちろん全ての授業についてではないし、断片的に公開されているとも言えるのだが、
公開側としては、「授業内容が全てではない。そこに集まる学生の質が教育の質である。」
というようなことを表明していたりする。
集団が作る変性意識からバイオパワーの形成という風にも捉えることができるが、
そのパフォーマンスは公開された知識自体には関係がないので、この見方で納得すると、
知識については何も知らないまま、この問題を解決したと思ってしまう。
陰謀論は娯楽として俺は捉えているが、その論理展開のメインの武器となる理論には
面白いものがあるとも思っている。
例えば、「何かを隠したければ、それを当たり前に堂々と公開することだ。」など。
正確には陰謀論が、過去の大戦から借りた理論であるようだが。
常に「関数」を頭に入れておく。関数こそが存在のあるもので、情報やデータは要素なので
代替がきくために、あまり重要ではない。定数なら暗記的なラスターデータなので、要になる。
隠したい情報を公開することで、その情報は隠される。このブラックボックスを解けばいい。
解けばいいという風に解く物ではないんだな、このブラックボックスは。日々成長している。
そこでまず、情報公開していない社会との違いを考える。
情報は隠蔽します、という社会。日本では粉飾や隠蔽が、情報を「隠す」手段になっている。
定数的な暗記情報を知られてしまうと、優位が崩れてしまう。核がないから当たり前だ。
核は俺の文脈の核で、核兵器じゃない。
ダジャレにも意味があるか、と思うが、やっかいな問題に繋がるのであまり興味ない。
情報隠蔽の次元と情報公開の次元が違う。次元というのは、「公開」というブラックボックスが
日々成長し、多様化していくので、これはもうひとつの軸になってきていると俺は捉えた。
さらに、「公開」は、それを自己の核のフラクタルから「そのまんま隠されてないじゃん」と、
捉えることも可能にするのかな。認知の方法で、隠れたり現れたりする。
しかし、ならば認知科学を勉強しようと考えても、そこからこの「認知」は手に入らない。
核がない構造体には、仮に公開情報が見えたとしても、モジュール的に咀嚼してしまう。
俺はナントカ教にはあまり興味がないんだが、ここ最近書いていることは、
それを肯定していたりするんじゃないか?とか自問自答するが、
俺は偶像もフラクタルにするので、それ自身もあれのインスタンスと考える。
「公開」には一字一句一文に、別解釈に流れるトリックがかけられているようにも思うが、
それ自身を出力の多様性(自由度)として捉える視点も、ある。
核のある社会だからといって、全員が全員、同じ真実を共有していないようにも感じる。
有耶無耶に終わるかどうかは、自己の核に対応した情報を手に入れるかであって、
手に入れた情報は自己の核の洗練に使われるのだろう。
核の無い構造体では、対応した情報=真実などわからないんじゃないかと思う。
そこで、物理法則など人間が居なくても存在する普遍的なもの「だけ」を真実とし、
真実を判別できない自己を世界から分離し、その結果は、
「あなたの身体は真実ではないことが証明されました」ということになるのではないかと思う。
なんか、重いな。レストランの話のほうが軽いじゃないか。

582 :
「陰謀論」という「ジャーナリズム」の神経回路は、その通り「報道」であるんだな。
そして、報道には報道のロマンがあり、ロマンは事実や真理とは相容れないのは言われるまでもない
というのが報道する者の中だけで理解されているが、それは報道する内容ではない、ということなんだな。
さすがフロントエンドで駆け回るだけのことはある、というのかな。
バックエンドからフロントエンドの己を解説することはないということだな。
アクセス規制で随分長いこと書き込めなかった間に、文脈は勝手にどんどん進んでいってしまった。
それらが極論に結びつきやすいのは、帰納によって断定を繰り返す度に参照する判断回路に原因がありそうだ。
また、報道の外部としての報道ということで、非報道という認識が生まれ、報道内容が自分の意見と重なり、
自分の意見を報道として伝達するという転倒が起きているのかもしれない。
真っ当な報道は、報道の意義を軸に伝達を展開するものだろうと思うが、報道から非報道へ移行する動機は
常に真っ当な報道など無いと懐疑することに起因するようである。移行した先が非報道であるのならば、
その意義は真っ当ではない報道の意義の外部ということになり、
真っ当ではない報道を、非報道の立場からその意義を持って批判するという状態にあるように見える。
そうなると、報道は非報道と等しいということにすら成り得る。意義をパラメータで見ずに真偽でみると、
真っ当な報道の意義を不在にしたまま、全てはひとつに収まってしまうとも考えられるということだろうか。
文章で書くと、非常にわかりにくいな。
歪んでいない報道とは、完備された情報のインフラだと思うが、そもそも意図なく情報は飛ばないので、
そんな無重力のインフラは有り得なく、人間個人のリアルな体験でさえ観測視点を持たずには
そのリアル環境から情報を受け取ることもできないだろうし、
真の報道を追い求めると無我の境地で環境と一体となり、所詮お星様や精霊とお話しする電波に
なってしまうことは、自明である、そして、電波は報道とは呼べない、ということになるのだろうか。
んんん。こんな内容になってしまったか。他に書こうとしていたことが、この内容に玉砕されてしまい、
書くことが無くなってしまった。不必要な猫じゃらし棒がゴミ箱へといざなわれる。

583 :
「真っ当な報道の意義」を不在にさせないためには、「真っ当な報道の意義」を伝達内容に
する必要があると思うが、伝達内容は「真っ当な報道が真っ当でない報道になった由縁」
になることが多く、初心として頭にあった「真っ当な報道の意義」は、そのような由縁を
伝達していく間に意識から離れ、何時しかその初心を忘れてしまい、由縁の伝達が心になり、
その時、「真っ当な報道の意義」は本当に不在になってしまうのだろうと思う。
報道にはあまり興味がない。
しかし、興味のないことをささっと終わらして興味のあることへ繋げようと考えると、
意識は先に飛んでいて、ここを見ずにいる状態になるというのがわかる。
そのように通過する時間がリミッターがはまった自己となるので、
「報道」からも、たこ足配線がいっぱい伸びてる視点を持ち直す。

帰納ゲーム。帰納を真偽判定に使うからおかしな事になると思うのだが、
おかしな事になっていることに対して何をどうしたいという思いを俺が持っていないので
陰謀論的唯人脈論、というのを仮定して考えると、それは神経回路に似ているなと思える。
この世に存在するのは人間ではなく、人脈という神経だけである、というユーモア。
唯脈論と言いたいところだ。猫にだって猫脈はあるのさ。しかし、地球の存続と滅亡は
人間によってのみ決定され、その地球と宇宙は人間と一体である、という論調から、
脈があるのは人だけになり、唯人脈論。
人は滅亡したい衝動を抑えられない。それは唯人脈論から人を引いた唯脈論が
もとある形であるというのを知っているからだ、と、なんだか適当な作り話しか浮かんでこないな。
帰納ゲーム的にはソースが無ければ得点無しということになる。
特殊報道理論から一般報道理論へというのが、原型から実物へ、
バックエンドからフロントエンドへ、というなかで
フロントエンドの振る舞い方が常に定義しにくいのだな。
報道を、人間にとって普遍的な行為というところまで遡ると、
時・事物を絶対軸にとった視野フレームから捉えた対象を言葉で他者に伝えること、
一段階進ませると、出来事を不特定多数に伝えること、となるか。
こう見ると、唯人脈論の「人脈」は、時・事物を長いこと眺めていると、
それらをつなぎ合わせる糊のように、または補色のような脳内フィードバックとして
自然と浮かび上がってくるのだろうな。すると、存在と要素の概念が生まれてくるか。
初めは時・事物が存在だけという世界だったが、
どうやら脈が存在で時・事物が要素だぞ、というように。

584 :
ちょっと、 ちょっとちょっと

585 :
随分長いアク禁だったな。三ヶ月か。
>>582で触れた陰謀論、というと陰謀論を報道する人、というのがいたりするのだが、
その近辺のある著者が書いた「ナントカカントカ世界をナントカ技術」という本を読んだのだが、
第六章後半辺りで「おやっ?」と思えたりしたのだが、
俺はただ、ネットの可能性というものを再確認した、という感じかな。
インターネットはまだ、在るべき姿に成長しきってないのだろうな。
成長しきると、量子的な現象がネットではなくリアルで起き始めるのかもしれない。
寝て起きて外に出ると、みんな昨日とは違う、でもその因果がわからない・・という具合に。
さて、上のほうでは9冊とか書いていたが、今では30冊を越えているが殆ど読み切っていない。
いざ手に取ってみると「後回し。」となる。衝動買いではないんだけどな。流れに乗らない。
そうするうちに衝動買いもしたりするのだが、
皮肉にもそんな風にして手に入れた本が、どうやら繋がるようだ。
「整l体.入i門」という本を半分くらい読んだところで少し考え、「回r想.の,l野q口y晴u.哉;」
という本を手に入れて読み始めた。知ってる人には今更、という種類の本だと思うが
俺は知らなかったので今知ることにした。
後者の本は、この板の人達なら楽しめる内容であると思う。
色々な沢山の断片的な知識がこれによって繋がってきた感じがある。
どうでも良いことだが、面白いことに「上の著者」も9月7日生まれで、この本の「先生」も9月7日生まれか。
この日に一体何かあるのだろうか。それとも「俺」がこの日につまずくだけだろうか。
閉じてはいるが公である。でもやはり直接的には閉じているので不用意に大っぴらにするものでもない。
しかし、公からアクセスが出来るだけの作りにはなっている。
そんな階段を登る道がまだ残っている、という風に思える。

586 :
希望が見出せないことに勝る辛さなどあるのだろうか?
この希望が見出せないこと、とは普遍的客観的な視点から物事を見たときに感じられる苦痛であると思うが、
その反対は願いが叶わない辛さだ。あらゆる障害や失敗はこちらに分類され、
これは局所的主観的な視点から得られる苦痛であるだろう。辛抱や離脱すれば解決する事も出来る辛さだ。
離脱とは、その主観視点を放棄することを指している。
前者においては、そのような回避型の行動が解決に繋がらない。
例えば、大きな話は置いておき、小さなこんなことに打ち込んでみようよ、または映画でも見ようよ、というように
客観視点から主観視点に移動すれば一種の解決ではないかとも取れるが、
その行為で解決されているのは主観的な己の苦痛であるので、客観視点の己は放置されたままだ。
客観視点で視野を変えるということは、新たな要素を見出すことであり、回避などの運動系統の働きではなく
肝臓の働きのように、要素の融合や創造が求められる。
人と比べた時の、自分の有り様が辛いと言うと、さらに別の要素、世界を構成する別種の環境が現れる。
比較が可能であるということは、どういうことなのかという問題だ。
理屈としては局所的な(この場で採用したケースを前提とした)関係が生まれている。
現実的には、その関係の上に世界があるのだから局所的であるとは分別できない。
ぶっ飛んだ例を挙げると、日照権の問題だ。この位の例でないと、比較の問題から凡庸な解釈へ崩れ落ちてしまう。
家の前に背の高い建物が建ったから辛いという問題ではなく、
光の行き交う道筋でフォーマットされた空間に己が存在していなければならないという問題だろう。
現実的で局所的な関係というものは、以前に触れたバイオパワーという概念によって
その姿を認識する事ができる。関係内における重力がバイオパワーならば、
関係内外における輪郭や不可侵セクタを指し示すものがコードであり、それらの媒体である
関係そのもの、フォーマット済みの空間、これに焦点が当たるのだが、この3つめの辛さは
光の常時接続経路が遮断できないということ、ネットワークの存在そのものが悩みの種になっているといえる。

と、ここまでが文脈に繋げる本を持ち出すための前置きであるのだが、
久しぶりにもかかわらずいきなり始めて、何故文脈に繋がるのかというと
一行目を自己言及的に打破することができるものだからだろう。
「LリIンNクKドED 」。邦題も別についているのだろうが、手持ちの本は原書のこれであり、
これによって漸く、本の名前をネットワークに繋げないようにする心にも説明がつけられる。
本の内容を追っていくことなどせずに本を文脈に繋ぐことしかしないが、
繋ぐことに意味があるというあたりで、自己言及的累乗効果を確認できたということ。
それ以外の視点からでも、この効果がとても良く感じられるということ。
こうなってくると、俺が語る必要もなく、ネットワークが勝手に○を作り上げていく。
逆に、絶望しない○は、累乗される関係によってでしか人に与えられることがないのかもしれない。
○に最適な言葉が見つからない。

587 :
>>586
頭のお病気

588 :
【大阪】「特別秘術に感染した、どうしてくれる!」・・・無銭飲食の高校生を逮捕 [3/15]
高槻署は15日、高槻市内の焼肉店「ブルガーレ」で無銭飲食をしたとして、高校生5名を逮捕したと発表した。
高校生らは同市内の焼肉店で食事をした後、
「肉を食べたら特別秘術に感染した、どうしてくれる!」などと因縁をつけ、支払いを免れようとした。
店長が「そんなに早く発症しない」と言うと、高校生らは、
「クラリタプラーナ、クラリタプラーナ」などと大声で叫び、店内を歩き回ったらしい。
その後、別の店員の通報で駆けつけた警察官が5人を逮捕した。高校生らは、
「特別秘術になったと言えば代金を踏み倒せると思った。特別秘術がどんな病気か知らなかった」
などと述べているという。

589 :
ミーがチェックしてるとこ先回りでチェックしてんじゃねーよ

590 :
このタイミングで書き込んで、あれって言えばあれなんだが、
>>587
それは正しい。俺も読み直してみたが、ちょっと事前に宣言されているべき内容が少なすぎる。
これは、俺が頭の中である程度まとまっていて、
その内容のどれだけの部分が、再度文字起こししないと理解不能かを確認していなかったということだ。
故に、「客に己の思うところを当然のように期待する態度」は「頭のお病気」で間違いないと思う。
ちなみに、俺も、読み直していきなりは意味が理解できなかった。
>>589
俺よりもうまい事を言っているので、ただタダ尊敬します。
その立ち位置は学びたいと思う。
随分と長いアク禁だったので、付け足すことよりも、付け添えたいことのほうが先に来てしまったようで。
まあ、今のうちは人力でアクセス操作をやっているけれども、そのうちに、効率重視になるだろうと思っているので。

591 :
なるほど。

592 :
昔は面白かったけど最近のは面白くないね

593 :
だな

594 :
http://www.youtube.com/watch?v=hV-r_B-8ZvA

595 :
面白さの即効性と効用。

596 :
待ってみるわー

597 :
何故か鹿島が優勝する

598 :
【専門】ADD/ADHD専門スレッド part71【総合】:優しい名無しさん:
成し遂げたいと思っている目的   破壊 :*:・( ̄∀ ̄)・:*:
s●ra●yu●a ●井●佳@ @tetsuoiida 発達障害丸出しでいても、自分にぴったりのご縁って、あるものですよ。それが何時ごろくるかは分かりませんが。下手すると老年期に来るかも。 20時間前
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/mental/1296575069/83-93

599 :
http://beebee2see.appspot.com/i/azuYvYzBBQw.jpg

600 :
なるほど。微弱な振動が観測されたということか。

601 :
時代の最先端にはそれにまつわる情報がない。
未来は過去の情報に溢れているが、遠い過去には未来の情報がない。
過去ほど時代の先端ではないのだろうか。

602 :
こっち来て見せて

603 :
ちょっとまってるんですけど76さんはどこいっちゃったの?
だいぶまちくたびれてきました

604 :
http://junko717.exblog.jp/
I, I have a dream
A dream of you and me
We’re flying high above
We’re soaring over sea
Bless me with some wings
For I, so want to fly
These precious white wings
Will take me soaring high
To the sun that lights the day
(Tsubasa wo kudasai, tsubasa wo kudasai…)
To the clouds that drift away
Only then will I be free
Past the city lights and haze
Through the autumn trees ablaze
In the sky, I am truly free
Just you and me
I, I have a dream
We’re high above the trees
The wind is in my hair
The ocean breeze takes me
Tell me, what can I do?
To earn, earn me some wings?
Some precious white wings
To help me live my dreams
To the sun that lights the day
(Tsubasa wo kudasai, tsubasa wo kudasai…)
To the clouds that drift away
Only then will I be free
Past the city lights and haze
Through the autumn trees ablaze
In the sky, I am truly free
Just you and me

605 :


606 :
まだ?

607 :
やっと500くらいまで読んだ
休憩で下まで来てみたけど
76さん最後のカキコからもう2年以上たってるね

608 :
では、ひとつ。
自分に偽ることなく何年にも渡って検証していることのなかで、
そのなかのひとつくらいは責任を持ってしても断言できそうなことがある。
それは、
どうも自分で発見した知、自分が無から創造した知を言葉や形に残すと、
その考えに至るためのより一般的な手順、即ち既存の知識や必須の経験の積み重ね、
本来、
その初頭の一言を発するために、現実的にはどうしても必要になるはずの事物象、
その初頭の一言が現実的に存在するためには通常なくてはならない前提知識を、
後から
知り得たり学び得たりする機会やプロセスとして付け足される。
しかし、ここまでをわかったとしても、自分の意志で制御できることは増えていない。
体感時間的に、先に進むことはできる。何のために?わからない。
この時間が相対的な自分の時間内であることは言うまでもない。
俺がどこからともなく形にした知のことを自分が発見したと言えるのは、
自分が知っている外界の物事には存在していないというだけで、
自分の知らないところでは俺よりも先に同じようなことを発見している人もいるし、
発見される知も先からある。創造される知も、外側では初めから在る。
ただ、ポイントは俺が人より先に何かを知るかではなく、
初めにまずいきなりわかってから、それを知った証を後から拾うという破綻した順序であり、
この不可解な破綻プロセスを俺がわかるまでは、実際的には、何も知れていない。
不可解な流れが観測できようとも、その現象を自分の意志で制御できなくては、
その不可解な流れが本当に存在していようが、本当は存在していなかろうが、どちらも変わらない。
少なくとも、この不可解な流れを意識せずにはいられない俺は、この流れが存在することを
何かを持ってして示し、この世界に確かに存在するということを定めなければ、
俺の言葉は、妄想か作り話か狂人の戯言か、そのような在っても無くても良い物として消えてしまう。
何かの存在があると先にわかっている。
ならば、それがわかるに至る学びの過程は現在用意されている最中だ。
俺が俺の観測したものを信じるよりも確かに受け入れるならば、
その不可解なプロセスに沿って、わかった経緯を後から手に入れれば良い。

609 :
続かないのか
邪魔しないように待ってたのに

610 :
ポーズの取り方をその都度変えながら、各地で休み無くずっと続いているので、
それらの俺のレスを全部回収できたら、このスレの容量の3倍くらいにはなる。
ここで待たれる、ということは、ここでの俺のひんやりと熱い姿勢がお望みと察するので、
そのようなポーズで以後、いつかはわからないが期待に応えることは出来るかもしれない。
とにかく簡潔に言うと、物語は、一時も絶えることなく今もずっと続いている。から、希望を持ってわくわくして問題なしだ。

611 :2013/11/05
順調に進めております。調子は上々です。







































































































































超能力の修得方法 四
最近 気持ち悪い位に予感が的中するんですけど 10
行方不明・未解決事件に挑む その7
サトラレで悩んでいる方の部屋
★超能力者だが質問ある?
能力を鍛える方法【入門編】
能力を鍛える方法【入門編】
2011予言
【モバマス】堀裕子ちゃんスレ【スプーン6本目】
マジで変な能力ある同士いたら来て03
--------------------
■トランジットについて■part19
CR地獄少女 弐 きくりの地獄祭りFPA Part19
【電子書籍】少年ジャンプ+ Part587【プラス】
作曲家☆馬飼野 康二スレ
TOAティアアンチスレ61
話し合いは無くなった
高山一実さん専用 水曜日のダウンタウン
【日産】NV350キャラバン 20台目【E26】
1週間1勝6敗のペースからの脱却
Q:朝日新聞をどう思いますか?→16,217票中、95%が『人類史に残るフェイクニュース発信源。国外移設が必要』 ネット「無くて良い存在」
【芸能】セカオワSaoriが批判した世間の「不貞バッシング」に共感が少ないワケ
【AKB48卒業生】島崎遥香応援スレ★689.1【ぱるる】
【ベンチプレス】肩の痛み【できない】 Part.2
森夏
横浜流星★15
中国武術戦術研究所 2
☆車中泊★ らんたいむ適当 ★YouTuber★
宝 く じ っ て マ ジ で 当 た ら な い な
もうそろそろダーツも終わりだろーと思う香具師→
【宣伝OK】FFRK 動画配信者批評スレ27
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼