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関ヶ原有村架純その4
- 1 :2018/07/15 〜 最終レス :2018/08/27
- 時代劇はいいなあ
- 2 :
- 前スレ
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/cinema/1515396378/l50
- 3 :
- 関ヶ原の冒頭場面
- 4 :
- 馬に乗った石田三成と島左近と左近の息子の三人が駆かけてきて
朽ちた祠の前に転がる石地蔵を手にとった三成が見上げた山が桃栗山だった
- 5 :
- ももくり山の説明を三成が何かしていたが覚えていない
- 6 :
- その間数人の男が何か喋りながら通ったが何者かもわからなかった
- 7 :
- 石田三成この時40歳 島左近この時60歳 息子の歳は分からないがたぶん35歳前後
- 8 :
- 島左近の息子は島信勝 山村憲之介が扮している
- 9 :
- 島左近に扮しているのは平岳人44歳
島左近の役を役所広司がやったらもっと厚みが出たんじゃあないかなあと思った 年齢的にも
- 10 :
- でもそうしたら岡田准一ふんする石田三成が軽くなってしまうおそれはあるけど
- 11 :
- 平岳大さんの父親は俳優平幹二朗さん母親は女優佐久間良子さん
- 12 :
- 佐久間良子さんの実家は練馬から豊島にかけての大地主
- 13 :
- 知人が佐久間家の貸家を借りていたとき旦那さんが何かの用事で来て
「娘に変な虫がつかないうちに結婚して欲しいのだが」と心配していたらしいけど
平幹二朗さんが変な虫かどうかはしらない
- 14 :
- 昔の美人系統の女優さんは大地主とか大庄屋さんとかのお嬢さんが多かった
やっぱりそのあたりの由緒正しい家には代々綺麗なお嫁さんが来るみたいだ
- 15 :
- 岡田准一さんは小柄だけど軽いわけではない
- 16 :
- 今の事務所にいなければもっと評価されてもいいよおな気がするけど
今の事務所にいるからこんなに活躍できるとも言える
- 17 :
- ひとりのタレントが一つの事務所に入るのもめぐり合わせなんだ
その事務所に合う合わないもあるしもっと柔軟に流動的になったらいいね
- 18 :
- それにしても岡田准一ごくごく真面目な顔してやることはやるじゃん
- 19 :
- 宮崎あおいさんごくごくいい女優さんだ ファンではないけど好きな女優さんだ
- 20 :
- 女優宮崎あおいが好きなんで誰と結婚しようが誰と付き合っていようがそんなことどうでもいい
- 21 :
- 初芽役の有村架純は違う ファンだからファンではない宮崎あおいとは違う
- 22 :
- ファンだからファンとしては
有村架純が誰と結婚しても誰と付き合ってもいいわけではない
- 23 :
- この間もテレビドラマで
大嫌いな男(役の上でのことで実際の彼は好青年)と結婚させられドラマといえど未だ怒りが収まらない
- 24 :
- ツイッターかブログでやれ
- 25 :
- >>24
このスタイルでずうっとやってるんだよ知らなかったあんたもやったら(笑)
書き込みは自由なんだよ 念のため あんたも書き込んでるじゃん
- 26 :
- 映画の初芽は(俺には妻と子供がいる)と言う石部金吉のような三成と結ばれることようなこともなく
使いっぱしりで命を落としそうになったあげくに奴隷にまでされてしまう
- 27 :
- 原作の初芽は三成と結ばれ心配した島左近に殺されそうになるくらい三成に溺愛されていたのだった
- 28 :
- やっぱり島左近は役所広司だよね
- 29 :
- 役所広司の島左近なら所領の半分を与えるって三成が言っても滑稽にかんじないもの
- 30 :
- なら家康は誰がやる
- 31 :
- 葵三代の家康は津川雅彦さんだった
軽い感じの狸親父で従来のイメ-ジとは違うがこれはこれでよかった
- 32 :
- 当時家康は57歳くらいでまだ若い
- 33 :
- 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)のK
色川高志「文句があったらいつでも俺にサリンをかけに来やがれっ!! そんな野郎は俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状)
■ 地下鉄サリン事件
オウム真理教は当時「サリン」を作ることはできなかった。
正確に言えば 「作る設備」を持っていなかった。
神区一色村の設備で作れば 全員死んでいる。「ガラクタな設備」である。
神区一色の設備を捜査したのが「警視庁」であるが さっさと「解体撤去」している。
サリンは天皇権力から与えられた。
正確に言えば オウム真理教に潜入した工作員が 「サリン」をオウムに与えた。
オウム真理教には 多数の創価学会信者と公安警察が入り込んでいた。
地下鉄サリン事件を起こせば オウムへの強制捜査が「遅れる」という策を授け「地下鉄サリン事件」を誘導したのは
天皇公安警察と創価学会である。
天皇は その体質上 大きな「事件」を欲している。
オウム科学省のトップは 日本刀で殺された「村井」という人物だ。
村井は「サリン」授受の経緯を知る人物なので 「日本刀」で殺された。
http://d.hatena.ne.jp/kouhou999/20150224
- 34 :
- こんなとこ書き込んでも誰も読まないから無駄だよ
- 35 :
- 家康で誰しも思い浮かぶのは西田敏之
葵三代の時は家康の息子秀忠役だったかな
- 36 :
- 中山道を徳川の主力三万もの軍勢を引き連れ合戦に急ぐ途中信州上田真田城にこだわり
合戦に間に合わなかったという大失態をやらかしてしまった秀忠
- 37 :
- なのに秀忠型通りの叱責はされたがキツく咎められることはなく後になんと
家康の後を継いで徳川第二代将軍に収まってしまった
- 38 :
- なぜなのかという疑問が関ヶ原という文字を見るたび浮かんだ
- 39 :
- 真田城でもたもたするのは予定通りとでも思わないと
秀忠の愚鈍さを払拭できないし家康の器量にハテナマ-クが付いたままになってしまう
- 40 :
- 思い切って予定通りとすると思いうかぶのは徳川の主力三万の軍勢
- 41 :
- 例えば秀忠が中山道を率いた軍勢は三万人ではなく三千人としたら
- 42 :
- 秀忠の三万は家康が流したデマでうち二万七千は家康の本隊とともに動いていたのだった
- 43 :
- だったと書いたが
むろん見たわけでも数えたわけでもないがその二万七千が勝負を決したとすると全てが腑に落ちるのだった
- 44 :
- どっこい
- 45 :
- 家康 ひとり思いついた 岸部一徳
- 46 :
- 関ヶ原ではちょっと年を食ってるが一度岸部一徳の家康見てみたい
- 47 :
- もし関ヶ原の家康を岸部一徳がやったなら役所広司の島左近との丁々発止の陰謀と言おうか戦略合戦が見ものだったのに
- 48 :
- 三成は初芽にメロメロでいくさなんかどうでもよく島左近に任せっきり
- 49 :
- 初芽は初芽で忙しい
- 50 :
- もともと家康の寵愛を受けていたが気まぐれに西方の様子を探りにという名目で三成のもとに
- 51 :
- たちまち三成を麗技でメロメロにし怪しんて切ろうとした左近までも上目遣いで篭絡
- 52 :
- つまるところ家康と左近のホットラインになり三成は蚊帳の外
- 53 :
- という妄想は置いて詳しいことは分からないが
徳川の主力精鋭三万が到着する前に決戦をと三成を焦らせたのは間違いなく家康の思うツボに関ヶ原の合戦は嵌った
- 54 :
- と思うがどんなもんだろう(笑)
- 55 :
- どんなもんだろうと言ってもまったく想像だけでなんの根拠もない
- 56 :
- なんてたわけたこといってるとまたぞろツイッタ-とかブロクでやれとおしかりの声が聞こえるけどツイッタ-もブログもやったことないしやり方もしらない
- 57 :
- 相棒の岸部一徳さんはいいねえ
良すぎて殺させやめたんだと思うけどそれまで大変だったと思う
- 58 :
- それまで大変だったというのは辞めるまで大変だったということと
役者に転向してからから認めてもらうまで大変だったという二つの意味がある
- 59 :
- まあとにかく一度岸部一徳さんの家康見てみたい
- 60 :
- 晩年70過ぎてからの家康でもいい
- 61 :
- 処刑されたはずの三成役に水谷豊
相棒のあの調子で関が原を振り返っての掛け合い漫才 見てみたいね
- 62 :
- お茶子に有村架純 もちろん初芽は当時のまま登場
- 63 :
- 好きな宮崎あおいさんも三成の妻として登場
三成の浮気をなじり初芽にイヤミを言う宮崎あおいさんをみてみたい
- 64 :
- モウション
- 65 :
- 秀忠の継室になったのがお江 浅井長政とお市の方の三女 お市の方は信長の妹
- 66 :
- 継室と言っても正室の女性は幼少で会ったこともないうち亡くなっており
秀忠にとってはお江が実質初めての妻といってもよかった
- 67 :
- 二人が結婚したのが1595年関ヶ原の合戦より5年前
秀忠16歳 お江22歳 6歳年上の姉さん女房
- 68 :
- 大年増といっていいお江は三回目の結婚前二回もそれなりに由緒正しき人
なにしろ父は浅井長政で母は信長の妹お市の方
- 69 :
- 三代将軍家光の生母でもある
すなわち織田家の血が徳川家に流れているということ
- 70 :
- どっこい
- 71 :
- 秀忠が率いた軍勢は三万ではなく三万八千という説もあるようだ
とにかく昔のことはよくわからないから自分に都合がいいように判断するよりない
- 72 :
- もともと秀忠に与えられた任務は別にあったとか
合戦に急ぐようにという家康からの手紙が大雨で届くのが遅れたとか
もっともらしい理由はいろいろあるがそれはそれとして自分の想像を楽しんだほうがいい
- 73 :
- モウション
- 74 :
- 中世とか近世とかどこで分けるのか専門家の間でも意見が分かれるようだ
- 75 :
- 日本の中世とヨ-ロッパの中世は違うようで どこが違うかわからないけど違うようだ
- 76 :
- 中世と近代の間に近世というのを入れた人がいるらしい らしいというよりいる
- 77 :
- 元来世界史は古代.中世.近代に分けられていたがそれでは説明が付けにくい部分があり近世という時代区分が作られたようだ
- 78 :
- 日本史に近世を導入したのは京都帝国大学教授のなんとかコナンという人らしい
コナンといっても今年大ヒット中の映画コナンとはまったく関係ない
- 79 :
- 京都帝国大学教授 内藤湖南先生でした 失礼しました
- 80 :
- 内藤湖南 名は虎次郎(寅次郎ではありません念の為)
- 81 :
- 内藤湖南
1866年8月27日(慶応2年7月18日)秋田県鹿角市に生まれ
1934年(昭和9年6月26日)京都府加茂町で没す 享年67歳
- 82 :
- こうゆう人は大体小さい頃から大変な駿才で
末は博士か大臣かと言われるものですが期待通り高名な博士になりました
- 83 :
- 秋田生まれですが京大を60歳で退官してから郷里秋田に帰らず京都に留まり静かに7年ほどの余生を過ごされたようです
- 84 :
- ご家族のことは結婚していたかどうかも含め今のところわかりません
- 85 :
- 内藤湖南
生涯独身 知的生活には家族は邪魔
- 86 :
- どっこい
- 87 :
- 近世の始まりはいろいろ言われているけど
好きなのは織田信長が上洛したときからという説
- 88 :
- 信長は6万とも言われる軍勢を率いて足利義昭を奉じ関が原を通り上洛したのだった
- 89 :
- 途中六角勢を駆逐し安土山を望み
あのあたりに城を築き琵琶湖を眺めて暮らすのが夢だと近臣たちに言った
- 90 :
- その近臣たちの中に羽柴秀吉そして浅井長政もいた
- 91 :
- 長政も信長も秀吉も死んだあと
つわ者達の夢のあと関ヶ原の合戦はおこった
- 92 :
- そして安土桃山時代は終わり江戸時代がはじまったのだった
- 93 :
- モウション
- 94 :
- ひとつの時代が終わる時には大量の血が流れ
ひとつの時代を迎えるにも大量の血が必要なのか
- 95 :
- あの時家康もいた 勝鬨をあげた家康がふっと笑った あの時琵琶湖を望む信長の顔を思い出してふっと笑った
- 96 :
- ひとつの時代が終わりひとつの時代が始まることを感じふっと笑った
- 97 :
- 永禄5年(1562)信長と同盟を結んだ家康
- 98 :
- それまで松平姓だったのを同盟を結んだのを期に徳川姓に変えた家康には思うとこがあった
- 99 :
- 信長は言った「目指すはいくさのない世」家康は何も聞かず黙って頷いた
- 100 :
- 同じ言葉に頷いた浅井長政がちょっとした手違いで敵対し
家康が先陣を切った姉川の合戦に始まった浅井滅亡までの経緯は他人事ではなくひとつ間違えれば家康の身にも起こったことだった
- 101 :
- 何が真実で何が誤解かは定かでなく運が行く方を決める要素が強い時代
俺は運が良かっただけだと刑場に引かれる三成を見送った家康
- 102 :
- 天正10年(1582)6月3日 同盟を結んでから20年信長を見送った家康
- 103 :
- 三成を見送りながら家康が思い出していたのはお徳という女
- 104 :
- 二つの首を抱いた公達が微笑を浮かべ舳に立つ
天柩行きの帆船を見送る家康の姿を堺の港で見たと人は言う
- 105 :
- お徳の初芽と名付けられた信長の血を引く娘を育てた家康
- 106 :
- 父親より母親に似た娘に育った初芽
- 107 :
- モウション
- 108 :
- 忍者の里に迷い込んだ母子
- 109 :
- 痩せさらばえ横たわる母にすがる幼子
よくある光景と普段なら見過ごすところを魔が差したのか甲賀の三蔵
- 110 :
- 連れ帰りとく名付けたが年が明けつきものが落ちた三蔵にびた一文で売られた幼子
- 111 :
- 血反吐を吐きながら耐え11歳になったある日
嗜虐的な目をした男の首をはねた刃で三蔵一家4人の首をはね忍者の里を出奔した女は信長と運命的に出会った
- 112 :
- 首を刎ねる快感から抜けられなくなった母を持った初芽
- 113 :
- 帆船を見送る家康の腕の中には初芽という幼子が
- 114 :
- 母が信長の首を刎ねた
まさかと思うことを家康から聞いたのはい初芽がくつの時だったか
- 115 :
- そんな話になったきっかけも初芽は覚えていなかった
- 116 :
- どっこい
- 117 :
- そんなことを家康がしたのは三成の首を刎ねよという暗示なのか
- 118 :
- 島左近が初芽を切ろうとしたのはそれを察したからか
- 119 :
- 天正10年(1582)本能寺から慶長5年(1600)関ヶ原までの初芽という女の物語
- 120 :
- 信長の首を母が刎ねるのを見た初芽
- 121 :
- 秀吉の死を三成の陰で見た初芽
- 122 :
- 勝鬨をあげる家康を見た初芽
- 123 :
- 安土桃山時代は外国文化特にヨ-ロッパ文化の襲来時代とも言える
- 124 :
- 布教を先兵に侵攻を図る列強
- 125 :
- 好奇心の強い信長は危険を承知でかの文化を学び取り入れようとした
- 126 :
- 猜疑心の強い秀吉は攻められる前にちょうど国内統一をしてしまった勢いで無謀にも出兵し攻めた
- 127 :
- 苦労人の家康はいくさのない世を確定しようとキリスト教を禁じ国を閉ざした
- 128 :
- どっこい
- 129 :
- 信長.秀吉.家康
三人にまつわり絡みついた人脈を整理したのが関ヶ原ともいえる
- 130 :
- そのためには天下を二分した合戦が必要だったのだ
- 131 :
- 映画関ヶ原のなかで家康は言った「俺が三成を育てたんだ」と
- 132 :
- 秀吉の死後すみやかに信長との約束を果たすため三成を育て合戦に導いた家康
- 133 :
- そのことを三成は知っていたのか?
時には三成を助けるようなことをした家康 ずうっと半信半疑だった三成
- 134 :
- 石田三成が生まれたのは永禄3年(1560)
この年 織田信長今川義元を狭間に迎え討つ
同じ年 浅井長政16歳で浅井家を継ぐ
- 135 :
- 時代はまだ中世戦国時代
- 136 :
- 血湧き肉躍る戦国時代の真っ只中に生まれた三成
- 137 :
- 元亀元年(1570)姉川の戦い
織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が戦い織田徳川連合軍が勝利した
- 138 :
- 姉川の戦いのすぐ後小谷城に程近く見張りとして横山城の城番として秀吉が着陣
- 139 :
- 例の秀吉と三成(佐吉)の出会いは後年秀吉が築城した長浜城が出来る前に横山城付近であったかも知れない
- 140 :
- 姉川の戦いの時三成10歳 戦の様子はるかに窺っていたかもしれない
- 141 :
- 姉川の戦場と関ヶ原は近い
朝もやが晴れるのを待ちながら三成は初めて目の当たりにした戦を思い出していたかもしれない
- 142 :
- お寺の屋根に上り高みの見物をしていた合戦
はるか雄叫びは聞こえるが血しぶきは見えなかった
- 143 :
- 賤ヶ岳で乾坤一擲ヤリを振るったがもともと刀を振り回すのは苦手だった
- 144 :
- その弱点を補うために島左近を三顧の礼をもって迎えた
- 145 :
- どっこい
- 146 :
- 官僚と政治家は全く男と女のように質が違う
- 147 :
- 男から女にあるいは女から男になるには止むにやまれぬ心の叫びと覚悟が要る
覚悟もなく安易に官僚から政治家になるものがいる
- 148 :
- 石田三成は極めて優秀な官僚だった
史上まれに見るほど優秀な官僚だったと思う
- 149 :
- それを不得手な政治家にしたのが家康
「俺が三成を育てた」
政治家に仕立てた三成があいてなら人脈以上に絡みついた血脈を解きほぐす合戦をしても万が一にも負ける心配は無かった
- 150 :
- 武将を見ても初代は勇猛果敢で知略謀略に優れ家を興しているが
二代目三代目はほとんど家を傾け潰している
- 151 :
- 政治家の世界も二代目三代目はそんな傾向にあると違うの
- 152 :
- だから官僚出身の二代目三代目は最悪じゃあないのかな?
- 153 :
- そんなんが増えれば国は傾く
- 154 :
- 決まったこと決められたこと指示されたことには有能だけど
自分で善し悪しを考え自分で方向を決めることができないのが官僚出身議員
- 155 :
- 三成は明確なビジョンを持っていたのかな
- 156 :
- 大一.大万.大吉なんて訳の分かりにくい寝ぼけた旗印を掲げただけでも任ではないのがわかる
- 157 :
- 三成が明確に訴えれたのは豊臣恩誼だけなんだ
- 158 :
- 主を選ぶ時代
たしかに恩義はあるけどいつまでもこだわっていては我が身が危ない
- 159 :
- 身を捨ててまで与する何かがあればともかく何もなければ
- 160 :
- 家康には信長から受け継いだ目指すものが曲がりなりにもあった
- 161 :
- 半信半疑でも信じていなくてもそこに言葉があればヒトは頼る
- 162 :
- 藁おもすがる思いで頼る ヒトはそれほど強くないから
- 163 :
- 例えそれが盲目的に教え込まれたものでも過去の亡霊でも言葉があれば縋る
- 164 :
- ごりおしかおぱんぱんぶす
- 165 :
- ヒトの悲しさがある ヒトの滑稽さがある
- 166 :
- ジジババは
戦場に送られた若者が血を流し涙を流し泣き叫ぶ姿を見たくて生きているんじゃあない
- 167 :
- 悲しいことに期待しているジジババもいる
- 168 :
- 関ヶ原の頃のジジババも今のジジババも若者に期待するものは何もない
- 169 :
- なぜならヒトは代ごとに馬鹿になっていくから
- 170 :
- ヒトは生物学的に18歳くらいでピ-クになりそのあとは劣化の一途をたどるらしい
- 171 :
- 日本人だけについて言えば
関ヶ原の頃ピ-クでその後徐々に劣化していき平成に入って急速に早まったという人も居る
- 172 :
- 馬鹿になっていくというより猿に戻っている
- 173 :
- 日本人というより日本という国がということかな
- 174 :
- 皇紀元年は西暦紀元前660年というから優に2500年を越しているす ごいもんだ
- 175 :
- ちなみにアメリカ合衆国が独立宣言を出したのは1776年
関ヶ原の合戦1600年より176年も後のことだ
- 176 :
- メガ景気とやらが日本にやってくるらしい
- 177 :
- 結構なことだけどいつからとは言ってない
株大暴落とかいうガセネタを予告期限が来るたびに手形の書き換えみたいなことをしているの見たことがある
- 178 :
- いつ来るのかな?
- 179 :
- どっこい
- 180 :
- もうひとつ
- 181 :
- とにかく情報手段が発達した今起こっていることさえよくわからないのに
記録も記憶もいい加減な戦国時代のことなんかわかるわけないと言ってしまっては身も蓋もない
- 182 :
- 頼りない文書を頼りに想像するよりない
- 183 :
- 学術書としての文書と小説のネタとしての文書
想像力区を働かせなければ生かせないのは同じ
- 184 :
- 学術的なものでも
一字一句を問題にして口角泡を飛ばす大論争することもあるし
命題とか大命題とかを設定してそれに都合のいいものばかりを言い募る人もいる
- 185 :
- 想像とは言えないような固定観念にもこまったのだそんなのが多い
- 186 :
- どっこい
- 187 :
- 初芽はいらなかったんじゃあないかという人がままいる
- 188 :
- 製作者にとって有村は集客要員でもあるんだ
- 189 :
- だから岡田准一.役所広司と並ぶような扱いなのは宣伝用なんだ
- 190 :
- どんな場合でも有村は精一杯やる
- 191 :
- 有村ファンとしては主役でも脇役でもいいからきっちりした役がいいなあと思う
- 192 :
- 例えばこの映画の初芽の役 中途半端な添え物的なんだなあ
- 193 :
- 忍びとしての活躍も有るような無いような
三成の思われ人としても交わるわけでもないし三成の言い訳を聞くだけ
- 194 :
- 原作は三成が初芽の色香に溺れ心配した左近が初芽を切ろうとしたと前にも書いた
映画もこの線で行けば有村の存在感もずうっと増したと思う
- 195 :
- 三成を骨抜きにするのが家康が初芽を派遣した狙いで
思惑道理ことが運んで関ヶ原で勝利することができたとすれば
初芽はいらなかったとは思わせないはずだ
- 196 :
- 初芽を忍びとするならなら忍びに徹し
三成とのままごとみたいな関係は初芽の存在がぼやけるだけだからやめる
- 197 :
- 要はメリハリをつけよということ
- 198 :
- むろん一番いいのは有村が主役で忍びもエロケも全開の大活劇映画
- 199 :
- 理屈は何もいらない大活劇映画
- 200 :
- 今や傾きつつあるハリウッド映画に代わって大活劇映画
- 201 :
- 是枝監督なんかにやってほしいなあ思いに裏打ちされた理屈抜きの大活劇映画
- 202 :
- まあしかしその社会そのものに元気がなければ空回りしてしまうけどね
- 203 :
- 交通事故死の数が激減しても元気が激減してはねえ角を矯めて牛をR喩えもあるし
- 204 :
- 霞ヶ関の公務員さんは皆さん賢いからそんなこと百も承知しているだろうけど
二百もガッテンしているかどうかは分からない
- 205 :
- 思えば三成なんかは官僚上がりの政治家が失敗する典型なのかな
- 206 :
- 俺が三成を育てた
さしずめ優秀な官僚に地盤と資金を与えて当選させ
派閥の一方の旗頭になったところでたたきつぶし自分の力を揺るぎないものにした
- 207 :
- まあそんな単純なものではないだろうけどね
- 208 :
- どっこい
- 209 :
- それにしてもえ多くない
それも押し出されて仕方なくではなくまだ若い課長クラスの転向が
- 210 :
- 地方の県知事なんかになる人どうゆうつもりなんだろう だいたい当選するけどね
- 211 :
- 以前 滋賀県の知事選では失敗したね
- 212 :
- 官房長官が押した霞ヶ関の公務員出身の人珍しく負けたもんね
- 213 :
- 当選したヒトを押した前の知事の影響力が思いのほか強かったということみたい
- 214 :
- その当選させてくれた前の知事の施策に反することをしようとしている現知事
いろいろ面白い
- 215 :
- 映画では福島正則が面白かった
- 216 :
- ここに書くべきことを三月のライオンにかいてしまった
- 217 :
- あの時代
室町から安土桃山にいたり関ヶ原までの時代に麻薬の記述とか話とかなかったのかなあ
- 218 :
- 麻薬の話の飛び込みがあったので
- 219 :
- 映画関ヶ原における秀吉の急激な老衰ぶりはひとつの見ものだったけど
なんか薬でもやっているんじゃあないかと思わせるほどだった
- 220 :
- なんの薬か知らないけど秀吉の朝鮮への出兵は
薬のせいの幻覚がなしたことだったかも
- 221 :
- あるいはその薬を求めての朝鮮出兵?
- 222 :
- ヒトは人の想像を越したことをすることがあるだ からら面白い
- 223 :
- 福島正則は面白い
- 224 :
- 永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。
また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる。
- 225 :
- 母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、
天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。始めの禄高は200石であった
- 226 :
- 天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、
賤ヶ岳の七本槍の中突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)
- 227 :
- 天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万3千余石を与えられ、
ここに正則は「分国」を形成する大名的領主となった
- 228 :
- 福島正則は桶屋の息子だったんだ
映画関ヶ原ではその辺を踏まえた役作りをしていたかも
- 229 :
- 初陣は17歳
- 230 :
- 賤ヶ岳は秀吉にとっても大一番 軍功も大盤振る舞い
- 231 :
- もともと分国というのは、日本の中世における1国の単位。平安時代の知行国にあたる。
戦国時代では領地を分国と言う
- 232 :
- 桶屋の息子に生まれた福島正則は16歳で初陣しわずか10年26歳で大名になったんだ
- 233 :
- 永禄4年(1561)生まれの福島正則 永禄3年(1560)生まれの石田三成
- 234 :
- 年が近いと仲良しになるかライバルになる
- 235 :
- たぶんお互いライバルとは思っていなんったろうが朝鮮出兵の頃から敵対するようになる
- 236 :
- 一方は秀吉の親戚一方は秀吉の懐臣
- 237 :
- 文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こった。
この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。
同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた
- 238 :
- 秀吉のいとこである正則は秀吉の甥である秀次に切腹の命を伝えた
- 239 :
- 正則と秀次はどういう関係になるの?
- 240 :
- 近い親戚の秀次に切腹を伝えた正則はどんな気持ちだったろう
近い親戚の正則に切腹を伝えられた秀次はどんな気持ちだったろう
- 241 :
- いとこに甥の切腹を伝えさせた秀吉はどんな気持ちだったろう
- 242 :
- この時ネネはどうしていたのか夫秀吉を諫めなかったのか
諌めたけど聞かなかった秀吉えの恨みが関ヶ原につながったのかも
- 243 :
- 大政所が生きていればと思うが既に
- 244 :
- 大政所の死を聞いたとき秀吉は立っていられなかったくらいの衝撃だったらしい
- 245 :
- それほど慕り頼りにしていたのだ
- 246 :
- 心の拠り所を失った秀吉はおかしくなった
- 247 :
- そうゆうケ-スは今でも時々見られる
- 248 :
- 高名な評論家の話 奥さんがなくなり直ぐあとを追って自殺してしまったとか
- 249 :
- いままでの御高説はなんだったんだ プンプン
- 250 :
- ヒトは一人になったらそんなに強くはない
- 251 :
- 関ヶ原
- 252 :
- 正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、
慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。
この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
- 253 :
- 関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。
宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、
なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。
- 254 :
- やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は崩壊した。
宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。
正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)
- 255 :
- 桶屋のせがれだけど正則 戦闘にもたけ政治的能力もなかなかのものだったようだ
- 256 :
- どっこい
- 257 :
- 加藤清正
- 258 :
- 永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた
母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。
- 259 :
- 桶屋のせがれと刀鍛冶の息子
- 260 :
- 清正が3歳の時に父が死去し、母と共に津島に移る。
羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。
清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。これに清正も応え忠義を生涯尽くし続けた。
- 261 :
- 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注釈 3]の所領を与えられた。
- 262 :
- 天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任する
- 263 :
- 主計頭! 意外!
- 264 :
- 意外にも当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。
記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、
尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている
- 265 :
- 虎退治で有名な清正がまさかの財務官僚とわ
- 266 :
- 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した
- 267 :
- 清正は 藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった
- 268 :
- また清正は飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、
事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保した
- 269 :
- 武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。
石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは
朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。
- 270 :
- なんか清正の人物像がわからなくなってしまった
- 271 :
- どちらかといえば清正は三成と似たヒトではなかったのかな
- 272 :
- 三成、正則、清正 歳も近い三人 ともに秀吉に可愛がられ恩義も感じていた三人
- 273 :
- 力を合わせられなかった三人 もったいない
- 274 :
- どっこい
- 275 :
- 小早川秀秋 もうひとりの秀吉の親戚
- 276 :
- 天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。
母は杉原家次の娘。幼名は辰之助といっ
- 277 :
- 高台院 秀吉の正室ねね
- 278 :
- 正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。
元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗っ
- 279 :
- 天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。
文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。
諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。
- 280 :
- 権中納言になったとき数えで11歳 ほんまかいな
高台院の後押しがあるとはいえびっくり
- 281 :
- 同じ親戚筋なのに福島正則や加藤清正に比べ格段の厚遇
幼少からよっぽど見栄えがよかったんだ
- 282 :
- 見栄えで扱いが違うのは女だけではない男もそうなんだ
- 283 :
- 余談だけど松本清張さんも顔では随分苦渋を舐めたようだ
新聞記者当時宴席で酒を注いで回っていた主客に飛ばされたことがあるらしい
本人は醜い顔で飛ばされたと思いそれをバネに大小説家になれたのは人生万事塞翁が馬と言えるのかな
- 284 :
- 文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれる
- 285 :
- 文禄3年(1594年)秀吉の命により秀俊は小早川隆景と養子縁組させられ小早川秀俊となった。
また、養子縁組を契機に隆景の官位は中納言にまで上昇し、結果小早川家の家格も上昇することになる。
- 286 :
- 文禄4年(1595年)秀俊は秀次事件に連座して丹波亀山城を没収された。しかし、同年のうちに隆景が備後国三原へ隠居した。
秀俊はその所領30万7,000石を相続する形で筑前国(名島城)国主となった
- 287 :
- なんでも連座だなあ
- 288 :
- 連座や五人組
きょう日ではこんなのに拠り所を求める若い子が増えているんだつて
嫌だねえ
- 289 :
- 慶長2年(1597年)2月21日に秀吉より発せられた軍令により秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、
釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。
同年6月12日小早川隆景が没した。この日以降、朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名している[
- 290 :
- 秀秋は慶長2年(1597年)12月以前より再三秀吉からの帰国要請を受けており、慶長3年(1598年)1月29日ようやく帰国の途についた
- 291 :
- 帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下った
- 292 :
- これがわからない 減封転封される理由はいずれも事実無根らしい
越前北の庄だって 頭ぼけとるとちゃう
- 293 :
- 慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、
その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、
筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した。
- 294 :
- なんじゃこれは 秀吉の遺命をもとにだって 遺命は三成の思うがままと違うのか
- 295 :
- こうゆう場合家臣はどうするのかな
人員整理した前の家臣をよびもどすのかそれとも家臣募集の広告でも打つのかな
- 296 :
- 秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いた。
- 297 :
- 秀秋は家康に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった
- 298 :
- この関が原の戦いを決したとも言える小早川秀秋の迷走の謎は未だはっきりしない
- 299 :
- 高台院の意向が勝負を決めたという説もあるけどわからない
- 300 :
- 関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、秀秋あらため秀詮は21歳で急死した
- 301 :
- 死因は酒色(アルコール依存症)による内臓疾患によるものだろうとなっている。
- 302 :
- 関ヶ原で活躍した小早川秀秋の残念な早世があり
家康のために奮闘した福島正則の晩年がある
- 303 :
- 家康死後まもなくの元和5年(1619年)、
台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。
- 304 :
- 福島正則が活躍した時代に特攻隊というものがあったのかなかったのか知らない
- 305 :
- 特攻隊を編成する
紙切れと封筒を渡され、希望するかしないか、誰にも相談せずに書いて出せという
- 306 :
- 白紙で出そうかとも迷ったが「命令のままに」と書き、封筒に入れて出した。
- 307 :
- 「何て書いた?」。
白紙や「希望しない」という者はいない。「半殺しに遭うもんな」
「建前社会の軍隊では本音が言えず、事実上の強制だった」
- 308 :
- その後すったもんだした結果
安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した
- 309 :
- 秀吉の甥と家康の息子の意地の張り合いとも見えるし阿吽の馴れ合いとも見える
- 310 :
- 福島正則もそうだったし信長なんかは常に先頭を駈けて突進していた
つまり戦国時代は武将が特攻隊員だったのだ
それに比べ作戦室でのうのうとしている輩は気軽でいいのう
- 311 :
- どっこい
- 312 :
- 宇喜多秀家
元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称は八郎を称した。
天正9年(1581年)に父・直家が病死。天正10年(1582年)、当時宇喜多氏が従属していた織田信長により本領を安堵され、家督を継いだ
- 313 :
- 元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。
このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。
- 314 :
- 関ヶ原で西軍最多17000人の軍勢を率いて奮戦した秀家がなぜ秀吉の寵愛を受けたのかわからない
- 315 :
- わからないのは
福島正則、加藤清正、小早川秀秋、宇喜多秀家ら秀吉の親戚及び親戚扱いのなかで
ただひとり西軍に加わったのは宇喜多秀家だけだったのは何故
- 316 :
- 秀吉の寵愛を受けた訳がはっきりわからない
身長170cmという当時としてはスラっとした容姿やっぱり見栄えなのかな
- 317 :
- 自身の容姿にコンプレックスがあった秀吉
タニマチ顔で大きな力士を連れ歩きたがる旦那衆と同じ心境だったかも
- 318 :
- 豪姫をもらって以来いろんな合戦に参加して豊臣を支えた秀家
- 319 :
- 朝鮮出兵にも大いに活躍して秀吉を喜ばせた
- 320 :
- 家康は秀家には働きかけなかったようだ
- 321 :
- 関ヶ原で敗れたあといろいろあったが最終的には八丈島に流され84歳の長寿を全うした
- 322 :
- それにしても秀家は秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。
鷹狩を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱え、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させたとしている。
- 323 :
- ほんまかいな
- 324 :
- 思えば関ヶ原で自前の軍を率いまともに戦ったのはほとんど
小早川秀秋、福島正則ら秀吉の親戚筋か宇喜多秀家や石田三成などの小さい時が可愛がられた子飼いの武将たちなのだ
- 325 :
- 豊臣家の内紛とも言えるイクサを仕組んだ家康が漁夫の利を得たのが関ヶ原なのかな
- 326 :
- 豊臣秀次
秀吉の姉の子供に生まれ秀吉の後継として関白にまでなったのに秀頼が生まれ切腹させられるという不運な男
- 327 :
- 尾張と京都の間には、容易には越えられない鈴鹿山地が南北に連なり、
南の端の鈴鹿峠を超えて京へ向かう東海道より、北の端の高原盆地である関ヶ原を通る東山道の方が冬の雪深さを除けば行き来しやすかった。
- 328 :
- 石田三成-岡田准一
徳川家康-役所広司
女忍初芽-有村架純
大谷吉継-大場泰正
島 左近-平 岳大
島 信勝-山村憲之介
八十島助左衛門-堀部吉亮
- 329 :
- 小早川秀秋-東出昌大
宇喜多秀長-生島 遡
豊臣秀吉-滝藤賢一
北政所-キムラ緑子
前田利家-西岡徳馬
蛇白(家康の側近)-伊藤歩
赤身(伊賀忍者)-中島しゅう
花野-中越典子
尼僧「妙義」壇蜜
- 330 :
- 岡田准一『関ヶ原』合戦&豪華俳優たくさん!有村架純アクションシーンも
https://www.cinematoday.jp/news/N0091360
- 331 :
- 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=L98V5YBHbTI
- 332 :
- だらだら上る細い山道に木漏れる陽を仰ぎながら歩き続けるとやがて視界が開け、まわりを山に囲まれた関ヶ原盆地に出た。
冬には雪深い高原盆地を通り……
関ヶ原が高原盆地だということをつい最近まで知らなかった。
- 333 :
- 平 岳大(ひらたけひろ) 42才 183cm シスカンバ二-所属 父は平幹二朗 母は佐久間良子
- 334 :
- 東出昌大(ひがしでまさひろ) 29才 189cm ユマニテ所属
- 335 :
- 堀部圭亮(ほりべけいすけ) 51歳 鈍牛倶楽部所属 俳優.脚本家.タレント等 幼児期のIQ180
- 336 :
- 上洛を期に京に通じる街道の整備を始めた信長は、
冬には雪が降る関ヶ原では雪を踏み固め、人馬が通れるようにとの依頼を当時二千戸ほどだった関ヶ原の住民に頼んだ。
- 337 :
- 撮影現場で怒鳴り声が聞こえたのが新鮮だったと有村架純がいっていた。
これまでの現場では怒鳴るようなことはなかったのだ。
- 338 :
- 日本海から琵琶湖の上を通った雲が伊吹山を掠めて雪雲になり太平洋に抜ける通り道に当たる高原盆地関ヶ原で大雪を降らせる。
- 339 :
- 関ヶ原合戦の死者両軍合わせて6千人とも8千人ともいわれる。
どこまで信憑性があるのかわからないが何れにしろ死体の始末には往生しただろうと想像はつく。
- 340 :
- 合戦か合戦以前かどちらに重点を措いているかに興味がある。
架純ちゃんは忍者の役だから普通に考えたら合戦以前の諜報活動が活躍の場のはずだけど立ち回りなんかもやってるみたいだから都合よく使われていたらコケパタ-ン。嫌だなあ。
- 341 :
- 従軍記者として赴いた戦地での日本軍を見てこれは日本人ではないと呟いたという司馬遼太郎さんは
そのショックとのバランスを取るため生涯に渡り素晴らしい日本人を書き続けたと言うのはホント??
- 342 :
- どっこい
- 343 :
- 合戦の場が関ヶ原になったのは偶然? それとも阿吽の呼吸 もし誘ったとしたら誰かな?
- 344 :
- 盆地で焦点が定まりやすかったからその日に決着がついたと考えられる。
ここ以外の場所だった個々の場所で勝ったり負けたりで全体の趨勢は見極めにくかったと思われる。
- 345 :
- 関ヶ原に接する伊吹山は冬には全山白装束の荘厳ともいえる姿をみせる。
その伊吹山から関ヶ原を俯瞰すれば勝負の行方は一目瞭然だったかもしれない。
- 346 :
- 福島正則−音尾琢真
井伊直政-北村有起哉
黒田長政-和田正人
増田長盛-中村育二
- 347 :
- 冬の関ヶ原では一晩で身の丈ほどのほどの大雪が降ることがある。
- 348 :
- 信長が足利義昭を担いで上洛したのは永禄11年(1568)関ヶ原の合戦(1600)より32年前だった。
この時信長に従っていた徳川家康は血気盛んな25才。そして関ヶ原の合戦の時は老獪な57歳になっていた。
- 349 :
- 音尾 琢真(おとお たくま)
1976年3月21日生 俳優、タレント。北海道旭川市出身
CREATIVE OFFICE CUE(業務提携先はアミューズ)、演劇ユニットTEAM NACS所属
- 350 :
- 永禄9年10月信長の妹御市御前は北近江の浅井長政と結婚した。
翌10年正月3日臣下が集まるお屠蘇の会が花嫁のお披露目も兼ねたので館の大広間には重臣.国人.豪族が居並んだうえ呼んではいない土豪や地侍らも押しかけた。
お仕掛け組の中から石田正継と名乗った男が連れていた元服前のこどもを、「倅の佐吉お見知りおきを」と言って頭を下げたのが数えで八歳、万で六歳二ヶ月になる三成だった。
- 351 :
- 徳川家康
天文11年(1542)松平広忠の長子として生まれる 幼名竹千代 子供の頃人質として今川家で過ごす
永禄5年織田信長と同盟を結ぶ 本能寺変以降秀吉と微妙な位置関係を保つ 天正14年(1586)秀吉の実妹朝日姫を正室に迎え秀吉と義兄弟となる
- 352 :
- 役所 広司(やくしょ こうじ)
1956年1月1日生 俳優。本名:橋本 広司(はしもと こうじ)。長崎県諫早市出身。
ワイ・ケイ事務所所属。身長179cm。俳優・仲代達矢主宰の無名塾出身
- 353 :
- 石田三成 幼名佐吉 永禄三年近江国坂田郡石田村の豪族石田正継の次男としてうまれる。
長浜城城主になった秀吉に父とともに仕え、後に側近として頭角をあらわす。
- 354 :
- 岡田准一 36才 ジャニ-ズ所属Vシックスのメンバ- 大阪枚方出身 小学2年の頃両親が離婚 2003年木更津キャッツアイ日本シリ-ズで初主演
大河ドラマ黒田官兵衛主演
- 355 :
- 岡田准一は大阪府枚方市、有村架純は兵庫県伊丹市、大阪と兵庫だが市は近い。
原作では愛人関係を演じる二人はともに両親が離婚している
- 356 :
- 初芽(伊賀の忍び) 石田三成の動向を探るため家康方から遣わされたくノ一。
三成の側にいるうちしだいに真っ正直な性格に惹かれ徳川方から寝返ってしまう。
- 357 :
- というのは原作の初芽
映画の初芽は忍びというのは同じだけど処刑場で暴れ三成に取り押さえられ三成のもとで働くが関係は持たなかった
- 358 :
- なぜ監督は三成と初芽をねんごろにしなかったのかがわからない
- 359 :
- しとけば全体の雰囲気も三成像もだいぶ良い方に変わったと思う
- 360 :
- しとけば刑場に送られる三成を見送る初芽の目から涙が流れ落ちたのに
- 361 :
- 三成をいろんな意味で過大評価したのかもしれない
- 362 :
- と言うより原田監督も家康に乗せられたのかもしれない
- 363 :
- 三成を育てたのは俺だと家康は言った
- 364 :
- 豊臣家のあとを追って天下を収めるには
力で戦い取らなければならないという認識が家康にはあった
- 365 :
- だから三成を育てたとしたら何時からそう思ったのだろう
- 366 :
- 逆に関ヶ原の合戦がなかったとしたら天下はどうなっていたかな
- 367 :
- それも興味があるけど文官石田三成に力で家康と対抗しよういう考えは微塵もなかったと思う
- 368 :
- やっぱり秀吉の心にも体にも目に見えるほどの急激な凋落は大政所の死によるものと思わざるを得ない
- 369 :
- むろんそれを三成は感じていただろうがどうしようもなかっただろう
- 370 :
- 秀吉にとってねねの存在は大きかっただろうが母はやはり何者にも変えがたいものだったのだ
- 371 :
- 秀吉と大政所の関係と言おうか触れ具合といおうか簡単にマザコンで片付けられないものをちょっとでも描いてほしかつた
- 372 :
- 一国を束ねるものの近くにいる女から目をそらすな
- 373 :
- 母なる女は男をも平気でRことがある
- 374 :
- 自分の邪魔になるもの邪魔をするものを排除するのに躊躇はない
- 375 :
- 女から目をそらすな
- 376 :
- 子供のまま大人になった女は怖い 何かに取り憑かれ女も怖い
- 377 :
- 信長の首を刎ねた女は
子供のころ首を刎ねる快感に囚われ生涯その魔物から逃れられなかった
- 378 :
- 子供を生むのは女 事件を生むのも女
- 379 :
- 昔から傾国の美人というが美人でなくても国を潰す力は女にはある
- 380 :
- 茶々姫が秀頼を生んでなければというタラレバ話は意味ないが
茶々姫が秀頼を生んでなければ豊臣の世はまだまだ続いたのではないかという人はいる
- 381 :
- 自分を産んでくれた女
- 382 :
- 自分の子を産んでくれた女
- 383 :
- 自分をいい子いい子してくれる女
- 384 :
- 自分を励ましてくれる女
- 385 :
- 自分を慰めてくれる女
- 386 :
- 自分を叱咤してくれる女
- 387 :
- 女がいなければ男は一日たりとも生きておれないのだ
- 388 :
- 秀吉もそうだったんだ 大政所が死んで秀吉も死んだ
- 389 :
- どっこい
- 390 :
- 大政所 1592年8月29日没
秀頼 1593年8月29日生
- 391 :
- 何の意味もないけどね
- 392 :
- 大政所の母が死に側室の茶々にすがりつくよりなかった秀吉
- 393 :
- 大政所が死んだとき秀吉も死んだ
- 394 :
- 秀頼が生まれて生き返った
- 395 :
- 中途半端に生き返らなければ良かったのにね
- 396 :
- 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
- 397 :
- 1592年に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、
慶長2年1597年の講和交渉決裂によって再開され1598年の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、
合わせた戦役の総称である
- 398 :
- 文禄の役と慶長の役との間に4年ほど空いてる期間があるのだ
- 399 :
- この間秀吉は何してたの?
- 400 :
- どっこい
- 401 :
- 秀吉の朝鮮出兵は信長の真似をしたという説がある
- 402 :
- 義昭公を担いで上洛途上の障害六角氏を追い払い観音寺城に上がった信長
- 403 :
- 観音寺城から琵琶湖を望み
湖に突き出た安土山を差した信長があの辺りに城を築き琵琶湖を眺めて暮らすのが夢だと言った
- 404 :
- えっもう隠居されることをお考えですか
と言って驚いた近臣たちの中に浅井長政や木下秀吉もいた
- 405 :
- 琵琶湖を巨大な港にしてここから大陸に向かう船 大洋に向かう船が溢れている光景を見るのが夢だ
- 406 :
- という信長に「ここから世界に討ってでられるのですね」という秀吉
- 407 :
- 「討っては出ない交易と交流だ 間違えるな藤吉郎」と信長は言ったのだが……
- 408 :
- 信長と秀吉の人間的な大きさの違いと言ってしまえばそうなんだけど
心の狭いリ-ダ-の時代に生きている不運を嘆くのみなのも情けない
- 409 :
- いろんな力がせめぎ合っているときは天下泰平なんだ
- 410 :
- 力が集中すると危ない
- 411 :
- ある意味戦国時代は天下泰平の時代なのだ
- 412 :
- 信長は家康に言った「目指すはイクサのない世」家康は黙って頷いた
- 413 :
- 徳川時代で検索すると江戸時代と出た
- 414 :
- 支配者の名ではなく支配者がいた地名が時代に使われているんだ
- 415 :
- 日本の歴史
縄文時代 前14000年頃 – 前4世紀
弥生時代 前4世紀(前10世紀) – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
大和時代 前660年? – 710年
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
南北朝時代 1336年 – 1392年
戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
連合国軍占領下 1945年 – 1952年
平成時代
- 416 :
- 縄文時代の前に
旧石器時代 – 紀元前14000年頃 というのがある
- 417 :
- ー記号のところに – と表記されるのは何故なの
- 418 :
- 明治以降は元号なのかな
- 419 :
- 従来なら東京時代 1868年からだからちょうど150年
- 420 :
- 150年のお祝いに提灯行列でもやってるかも 古
- 421 :
- 関ヶ原の合戦から418年なんだ いつも思うんだけど1600年が嬉しい
- 422 :
- 日本の歴史
- 423 :
- 旧石器時代ー紀元前140000
- 424 :
- 縄文時代 前14000年頃ー前4世紀
- 425 :
- 423の訂正
旧石器時代は人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、
終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともい
- 426 :
- 縄文時代(じょうもんじだい)
約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
- 427 :
- 弥生時代(やよいじだい)
日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である
- 428 :
- 古墳時代(こふんじだい)
古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、
この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。
- 429 :
- 大和時代は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時代と言い換えることもできる。
厳密には大和時代は弥生時代末期を含み、また飛鳥時代は古墳時代末期でもある。
日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。
- 430 :
- 飛鳥時代(あすかじだい)
広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。
飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。
この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのも当時、首都であった難波宮で行われた大化の改新以降であり、この時代と考えられている
- 431 :
- 奈良時代(ならじだい)
平城京(奈良)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。
日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である
- 432 :
- 天平文化(てんぴょうぶんか)
時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして(咲く花のにおうがごとく)とばかり華開いた貴族・仏教文化である。
この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。
- 433 :
- 平安時代(へいあんじだい)
延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃。
延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、
京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。
- 434 :
- 平安時代(約390年)は江戸時代(約260年)よりだいぶ長いんだ
だから京都は未だに威張ってるんだ
- 435 :
- 鎌倉時代(かまくらじだい)
1185年頃 - 1333年 日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。
本格的な武家政権による統治が開始した時代である。
- 436 :
- 鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は
「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、
これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。
武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、
頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。
- 437 :
- 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。
承久の変、承久合戦ともいう
- 438 :
- 建武の新政(けんむのしんせい)
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)
を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
- 439 :
- 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、
建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。
- 440 :
- 僅か2年半だけなのに歴史の時代に名があるのはなんでだろう
重要だからかそれともこの期間 鎌倉時代と室町時代 の間が空白になってしまうからかな
- 441 :
- 後鳥羽上皇といい後醍醐天皇といいこの頃までの天皇家は親政にこだわっていたんだ
- 442 :
- 室町時代(むろまちじだい)
室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代で「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する
- 443 :
- 足利尊氏が1336年(南朝:延元元年/北朝:建武3年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから幕府を開き、
15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間、もしくは235年間を指す。
現在、2つの考えが存在するが、学校教育においては、1338年を室町時代の開始とし、1573年までの235年間としている。
- 444 :
- 南北朝時代(なんぼくちょう じだい)
建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して
京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、
南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう
- 445 :
- 天皇家も結構勢力争いがあったのだ 今ではどうなんだろう
- 446 :
- 戦国時代(せんごくじだい)
15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。
世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭し、
領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。
こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という
- 447 :
- 元々、足利幕府は南北朝の並立と足利政権を二分した観応の擾乱を治めるために、自派についた大名への恩賞や、南朝や足利直冬などと結び強大な独立勢力と化していた
山名氏、大内氏らの勢力を維持したまま取り込んだことで、独立的性格を持つ大大名の支持の上に成り立つ不安定さを持つ政権であった。
しかし、三代将軍足利義満は南北朝の統一を果たして有力大名の勢力削減に成功し、直属軍を設立するなど将軍権力の強化に成功する。
- 448 :
- しかし六代目の足利義教が嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となり、
有力守護大名等に対して統制を効かせるのが難しくなっていく。
- 449 :
- そして八代将軍足利義政の跡継ぎを巡る争いが始まり、
これに山名氏・細川氏ら有力守護大名の権力争い、畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、
全国を東西に分けて巻き込む応仁の乱へと至ってしまう
- 450 :
- みんな暇なんかなあ 小人閑居して不善を為すなのかそれとも不安を紛らわすためのイク?サ
- 451 :
- 安土桃山時代(あづちももやまじだい)
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。
2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
- 452 :
- 織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城伏見城のあった桃山丘陵から、このように呼ばれる
- 453 :
- 安土桃山時代の始まりと終わりがいつなのか、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、
室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。
- 454 :
- やっと関ヶ原が見えてきた
- 455 :
- 江戸時代(えどじだい)
慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから
慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指す
しかしその他始まりと終わりについては色々な説がある
- 456 :
- 元和偃武(げんなえんぶ)
慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、
応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。
江戸幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了した事を内外に宣した。
- 457 :
- 偃武(えんぶ)
中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」
に由来し、武器を偃(ふ)せて武器庫に収める事を指している。
- 458 :
- 「目指すはイクサのない世」
と織田弾正忠三郎信長に言われた永禄5年の日のことを思い出していた家康
思えばあの時はまだ元康だったのだと思うと一層の感慨だった
- 459 :
- どんな役を演じても『はまり役』と思わせる、その人物造形の巧みさに大きな才能が感じられる
- 460 :
- ↑女優さんだけどだあれだ?
- 461 :
- 殺風景な歴史に女優 この女優さん結構きつそう
- 462 :
- 一流の女優はみんな男だという人もいる なんのことかわからない
- 463 :2018/08/27
- 『歴史は夜作られる』(れきしはよるつくられる、原題:History Is Made at Night)は、1937年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。
(撮影は1936年)フランク・ボーゼイギが監督、シャルル・ボワイエとジーン・アーサーが主演した
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