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[ルーツ]日本人の起源は?その3


1 :2019/12/26 〜 最終レス :2020/06/24
前スレ
[ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か?
http://itest.2ch.sc/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50

日本人の起源にまつわる話題なら
稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。

*注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください

では、どうぞ

[ルーツ]日本人の起源は?その2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/archeology/1538961018/

2 :
なんか知らんが、操作ミスでたってしまった
スマソ

3 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

4 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

5 :
アムール川およびその支流流域に住んでた
人たち

6 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


.

7 :
>>5
それはハプロCだな

8 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

9 :
クナト→塞の神→塞→とんがり帽子のサカ

10 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

11 :
日本人は蕎麦が主食だったから

12 :
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

13 :
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

14 :
【日本】 コカコーラ、ラーコカコ 【イスラエル】
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/min/1575174748/l50
sssp://o.2ch.sc/1l18k.png

15 :
 
古代の日本列島における人口は、紀元前3世紀から大宝律令までの1000年間に、人口15万から500万まで達した
驚くことにこの年成長率は平均して0.35%以上もあり、後半の500年に限るとその数値は0.4%近くにも上る
これは同時代に最も人口増加に成功した地域の実に4倍にもなる
>ローマ帝国の領土となる地域では前12世紀から3世紀にかけて平均して人口の年成長率が0.1%
>既に発展していた地中海の東側ではこの増加ペースがよりゆるやかであり、およそ年率0.07%であった[1]。
>それでもこの値は後の時代に比べると低い値ではなく、200年から1800年にかけて帝国のヨーロッパ部分の
>成長率は年0.06から0.07%であり、帝国のアフリカやアジア部分の人口はこの時期ほとんど増えていない
>
>比較として、1世紀から1800年にかけて現在中国の領土となっている地域の年人口成長率は0.1%であった。

16 :
 
ちなみに最近みつかった古墳人は朝鮮半島出身らしい

金井東裏遺跡(群馬県渋川市) 渡来系リーダーの誇り
 骨の形態をみると甲太郎氏は渡来人の特徴が非常に濃厚で、
歯のストロンチウム分析からは、朝鮮半島を含む西日本で育ったと判明した。
地盤の地質に含まれるストロンチウムは地域により異なる成分比を示し
、飲み水を介して人体にも反映する。こうした分析結果から、甲太郎氏自身か、
その両親が朝鮮半島出身者と考えられるという。
 甲太郎氏とは何者か。よろいをはじめ、すぐ近くで見つかったかぶとなどの所持品はいずれも豪華で、
「100メートル級古墳の副葬品。『倭人』の首長に次ぐ副将格の人物ではないか」(土生田氏)。
 また、骨が示す筋肉の発達具合から、乗馬の習慣が推測される。
馬の足跡が多数見つかった点も考えると、当時、朝鮮半島由来の最先端技術である馬の生産にかかわり、
技術系トップとして開発の先陣を委ねられた人物像が浮かんでくる。だとすれば、支配者に使われる一技能者ではなく、
馬生産に当たる配下の渡来系人や「倭人」を束ねるリーダー的な人。
彼の矜持はそこに由来するのだ。当然、渡来系の人々の中にも階層ができていたのだろう。
古墳時代の地方社会で、渡来系人たちの重みは相当なものだったと知れる。未知の光景が見えてくる。
https://mainichi.jp/articles/20171023/dde/018/040/020000c

17 :
馬の発音は中国語の馬(マー)と同じ
つまり持ってきたやつが中国人か、馬を知らずに中国の発音そのまま使ってた民族

18 :
記紀によると馬は百済王から進呈されたものだとか。

牛や羊も確かそうだったような。

ただ、金井東裏遺跡の渡来形質人骨は西日本出身の弥生系の人骨とも考えられるけどな。

19 :
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社

20 :
>>18
百済は中国史書には漢語まじり言語使ってると言われてる
わかりやすいのは白村江(はくすきのえ)でパクは中国語でスクは村主すぐりなどと同語源でムラの意味
馬をそのままマーと呼んでたのかもな

21 :
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

22 :
>甕棺墓

河北省で見つかってるから朝鮮半島経由だろ どうせ

23 :
>>22
なら、朝鮮土器の甕棺墓じゃないと話がおかしいだろがカス

24 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

25 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

26 :
ニヴフ/ニブフ(Nivkh、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi))は、樺太北部及び対岸のアムール川下
流域に住む少数民族。古くはギリヤーク(Gilyak)(ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki))と呼ばれた。
古アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ツン
グース・満州系諸族やモンゴル系民族などと全く別系統の民族である。


沿海州ちゃうやん

27 :
沿海州北部の事をアムール地方と呼ぶの

28 :
天照大神の末裔である。

29 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

30 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

31 :
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

32 :
箕子朝鮮のころか

33 :
日本と韓国北朝鮮のO1b1比率の違いも漢民族からの支配の受け方の違いになるのか

34 :
>>32
箕子朝鮮より1000年以上前の話だ中卒チンコロ


>>33
Oはモンゴル〜満州で完了している

漢民族なんか全然関係ねえ

日本の掲示板からさっさと失せろ


ダサい!クサイ!汚らしい!醜い!


の4拍子揃った劣等人種、劣等民族のチンコロのおまえ

35 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

36 :
箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ[3]箕子が建国した
朝鮮の古代国家[注釈 1]。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『


1000年もないな
3500年前ってのがサバ読みかもしれないし

37 :
>>36
紀元前12世紀も、殷が出自も、あり得ないね

まず朝鮮半島には中国大陸の中国土器・陶磁器も金属器も一切伝わっていない

朝鮮半島には中国大陸人の生活痕遺構が一切見られないのだ

隣の遼東でさえBC4C末頃までウラルアルタイ語族の民族であった

BC4C末頃に燕に併合され、土着の遼東人が漢化して異民族燕人になり、
以後時代の変遷ごとに異民族秦人、異民族漢人となっただけで、彼らのルーツは
中国大陸ではないのである

ゆえに箕子朝鮮が興ったのはBC4Cより前はあり得ないし、在地産の中国大陸系の
中国陶磁器も中国金属器も朝鮮半島には一切ないから中国大陸人の国でもあり得なく、
漢化した遼東郡燕人か遼東郡秦人の国であっただろう。

38 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


.

39 :
>>37
それはその時代の統治形態のあり方によるだろう
現地のものを重んじる善政が当時の基本だったのかもしれない
それがだんだん圧政になり、民が反乱を起こすようになった
中国史書に書かれてるのはそういう流れ
史書と考古学どっちを取る?

40 :
もちろん考古学に決まっている。

文字にはウソや間違いがいっぱい詰まっている。

土器はウソを付かないし、間違いも何にもない。

41 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

42 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

43 :
土器片はなんの情報ももたらさないだろ

44 :
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

45 :
朝鮮半島だと科学的に証明されてる

46 :
証明されてないよ
沿海州から来たんだよ
おそらく沃沮

47 :
沿海州の文化はシニ・ガイ文化(BC1000〜)からヤンコフスキー文化(BC1000以降)で鉄器時代に以降する
しかし渡来人は製鉄法を全く伝えていない
これはどう考える?
中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?
故に渡来人Y遺伝子に中国漢民族由来のものが見られる

48 :
>>46
沿海州南部はユウロウだっての

ウラジオストクは砕氷艦を配備して人工的に不凍港にしているだけで実際は凍結港

ただユウロウから1300年くらい前だから同じ集団ではないかもしれない


>>47
前池式弥生開始土器が出雲に登場するのがBC11C頃

ゆえにシニ・ガイ文化期にあたる

青銅器を伝えなかったのは、クルーに技術者がいなかったか、いても材料の銅を
産する鉱山がないため作れなかったかのいずれかだろう

49 :
漢民族が入植定着してたら、シニ・ガイ文化土器に鬲や鼎や耳の付いた器種器形や
皿や甑や釜や竈があるはずだろがカス

ったく星占いよりも当たらねえゴミ

50 :
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

51 :
>>47
>中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?

というか避難民だろうな
航海にでるなど自殺行為に等しい
それをあえてやったとするならばその土地に留まると命を落とす危機に見舞われていたとみるほうが自然

52 :
>>49
シニガイ文化期はまだ独立してた時期
次のヤンコフスキー文化に至って鉄器が導入される
その時期でも日本と交流があり、亀ヶ岡遺跡などはその影響を受けた
でも鉄器は入ってきてないだろ
なぜ?

ユーロウはありえない
文化的に小便で顔や手を洗うのはもっと北方の文化
それに言語にも何も痕跡が残ってない
言語的には沃沮語=高句麗語=扶余語で、高句麗語は数詞などが史書に残ってるがほぼ日本語と同じに思える
その他語彙は貧弱だが、これは縄文と混じり合った結果だろう
数字は大陸人のが強かったはず

53 :
>>52
亀ヶ岡には渡来人の定着はないだろ
数回程度の交流だけでは金属器の製造技術までパクるのは無理だろ
弥生人は頻繁に半島を訪れて滞在していたから半島の金属器の製造技術を
パクる事ができた訳で
沿海州南部は定説通りユウロウだね
ウラジオストク港は凍結する港
今は人工的に不凍港にしているだけ
冬はマイナス40℃まで気温が下がるんだから、尿洗顔なんて当たり前の話だろ

54 :
>>53
http://to-pa.jp/Kodi/KaigansenKY.jpg
その時期の海岸線

亀ヶ岡は明らかに大陸の影響あるだろ
あれが渡来人第一波だ
地理的に可能性が高いのが沿海州
沃沮は温暖で肥沃、五穀が実る土地と書かれてる
玄菟郡の人口20万を養うのに十分な地
それにふさわしいのはハバロフスク地方

55 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_The_east_barbarian_0.png
ハバロフスク地方をみよう
「西南が広く、東北が狭い」という東夷伝の記述にもばっちりあう
で沃沮は扶余と国境を接していないといけない
高句麗とユーロウは国境を接しない
沃沮とユーロウ、扶余、高句麗、?貊は国境を接する
半島東北部ではそれは不可能

56 :
>>54
で、それらの衣食住に関する遺跡とその考古文物や住居からの考古立証は?

できなきゃただのキチガイの願望妄想なだけ


>>55
ハバロフスクには海はない

東夷伝の記述に丸っきし合っていない

妄想乙

57 :
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社

58 :
>>56
だからウラジオストクが海で東沃沮
北沃沮がその東の山を背に大海に向かう地にすんでユーロウに夏期に船で侵攻をうけた

で日本の記述、粛慎(みしはせ)が北海道に船でやってきたのは高句麗が東沃沮を滅ぼした時期
おそらく東沃沮の後ろ盾を失って北沃沮が靺鞨=ユーロウ=粛慎に屈した、その年代とかぶる
北沃沮はマッハールーとも呼ばれていたが、その地名が何故か靺鞨の民族名となっているのも

一致してないか?

59 :
そして高句麗語=扶余語=沃沮は言語が同語圏
沃沮のみわずかに違うと書かれているが、基本は同語系だろう

60 :
そして韓国の史書にかかれている高句麗の数詞と日本語数詞の一致

ツングース言語で同様のものがあるか?

61 :
土器片は何も語らないし嘘はいわないかもしれないが
それを解釈する考古学者は適当ででまかせも嘘もいうだろう
情報量が少ない限りヒューマンエラーは常に起こりうる
歴史解釈はそのまま受け取るしかない

62 :
>>58
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東

東沃沮は蓋馬大山(白頭山)の東だから朝鮮北東部だろうが

何で東沃沮がウラジオストク港なんだよパッパラパー

で、ユウロウが冬季に海が凍結する地域=ウラジオストクを含めた沿海州南岸だろうに

定説通りで何の問題もない


>>61
おまえが一番のヒューマンエラーだろがカス!

63 :
そもそも蓋馬大山(白頭山)て誰が言ったんだ

64 :
戦前の頭のおかしい帝大の学者だろw

65 :
朝鮮北東部に沃沮があって、ハバロフスク地方がユーロウであった場合
「東沃沮は扶余と国境を接する」がなりたたなくなる
どう解決しよう?

66 :
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

67 :
朝鮮半島からの流入はBC4C頃の青銅器文化と共に

68 :
青銅器は最初は輸入に頼っていたが、BC2C頃に弥生人自身が製造技術を半島から
パクったんだと思われ

最古の青銅器製造遺構からは搬入した朝鮮土器は出土するものの、在地産の
朝鮮土器というものがない

だから渡来人の手によるものだとは考えにくい

稲作もそうだが、弥生人は頻繁に半島南部に赴いて滞在していたから半島南部のものはほとんど全部パクってるんだよ

69 :
https://www.asahi.com/articles/ASL6W5GKDL6WPTFC01M.html
BC4〜2世紀には銅鐸が国内で鋳造されてるよ

70 :
https://www.sankei.com/photo/daily/news/160207/dly1602070021-n1.html
こっちだった

71 :
朝鮮半島に居たワイ人が渡来してきて弥生人になった
朝鮮半島と交易してたのも文化的(言語)に近かったから

その後劇的な変化の起こる古墳時代だが
朝鮮半島北部のワイ人(=倭人)がある事情(おそらく倭国大乱)で日本列島に落ち延びる
それが古墳人となり列島にいた弥生人を支配し隷属させる
そのころから弥生系と縄文系の交雑がより進んでいくことになる

72 :
ではなぜ外観に関わるDNA以上に縄文系の男系YDNAが優勢になったんだ?

73 :
>>71
だったら弥生開始土器は朝鮮土器から始まらなきゃ話がおかしいだろが

古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
朝鮮北部の土器の出土など聞いた事がない

単なるおまえの願望なだけで何も考古学になっていない

74 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

75 :
日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

76 :
縄文弥生を通して、日本には中国から渡来定着した痕跡遺構はない

ゆえに中国南部の影響なんかあるはずがない

エセ科学はやめろ

77 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

78 :
>>72
遂にYDNAハプロDが日本列島で放散した理由が判明
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/geo/1577170242/

79 :
古墳時代になって身長がいきなり伸びてそれまでいなかった馬がこれまたいきなり現れてそしていきなり乗馬できるようになった 笑

80 :
 
>古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので

古墳時代初期に百済なんて国は朝鮮半島南部にはないから
いい加減にしてよw

81 :
百済が朝鮮半島南部に遷都してくるのは6世紀になって

82 :
古墳時代初期は辰国だろ

83 :
辰国って今の平壌以北の朝鮮半島北部にあった国だろ 多分

84 :
>>80-81
朝鮮半島を南北に2等分するなら、百済は朝鮮半島南部だろ

古墳時代の4C後半から秦氏のものと見られる新羅系の朝鮮陶質土器が、
4C末に日本最古のアナ窯である神戸の出合窯から百済系とも加羅任那系とも
考えられる朝鮮南西部系の朝鮮陶質土器が出土してくる

出合窯は百済王が倭に帰化した百済人のために送り込んだ陶工の窯だと考えられている

古墳期に朝鮮半島北部系の土器の出土例はほとんどない

朝鮮半島北部系の土器は飛鳥時代以降に福岡や関東に高句麗系土器が見られる程度

85 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

86 :
朝鮮半島の南部ってカオスでしょ
百済の遺物は6世紀を境に出土するようになる
すぐ近くの遺構からは伽?系の文物ばかりが出土
墓制もまちまち
どうしてかな?w

87 :
スキタイ文化はウラジオストク経由
最初の製鉄はたたら製鉄、次が百済が
持ち込んだ漢式高炉製鉄

88 :
青銅器がオルドス青銅器が朝鮮に伝わり、朝鮮青銅器が日本に伝わっているから、
タタール製鉄も内モンゴルから遼東・朝鮮経由で日本に伝わったものだろう

その数百年後、今度は中国大陸から遼寧経由で漢式高炉製鉄が楽浪郡・帯方郡の
設置とともに朝鮮半島に伝わり、それを引き継いだ百済から日本に伝えられた

89 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

90 :
馬韓と新羅の全身の辰韓も違うんだが
馬韓が西にあってその東に辰韓があった
で、その両方は楽浪郡(平城付近)を含まない
扶余人が南下してきて全く別民族の馬韓を支配して百済になった

91 :
百済の建国と楽浪郡帯方郡の滅亡って、ほとんど同じ時代だよな

高句麗から逃れた楽浪郡帯方郡漢人が建国したんと違うか?

92 :
朝鮮半島楽浪郡の怪

1 玄菟郡の遼東移動の怪とは、前107年に衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡が、
  設置後まもなくの前75年に朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと大移動が行われた謎である

2 消えた万里の長城の怪とは、楽浪郡逐城県を起点とする万里の長城が朝鮮半島から跡形もなく姿を消した謎である。

3 夫余の楽浪郡攻撃の怪とは、111年に夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃した事件の謎である。

4 馬韓の玄菟郡攻撃の怪とは、122年に馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して、高句麗主導で?貊と共に遼東の玄菟郡を攻撃したが、夫余によって撃退された事件の謎である。

93 :
朝鮮半島の楽浪遺跡なるものが本当に楽浪郡の跡地なのかということ

漢の下級役人クラスの墳墓しかみつからない

それと封泥なんだがあれはA地点からB地点まで書簡を届けるときに途中で封をあけて中身をみられないようにするためのもの
だからB地点で、A地点の官印による封泥が見つかるのは当たり前

極めつけは、「夫租[草冠に歳]君」や「夫租長の印」の銀印(外臣用)が見つかってるということ

「初、右渠未破時、朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用、東之辰國、時民隨出居者二千餘戸、亦與朝鮮貢蕃不相往來」
に合致するとは思わん?

94 :
たたら製鉄はウラジオストクからだよ
タタール文化は満州〜沿海州→日本だよ

95 :
>>91
百済は言語が扶余語
しかし日本は百済人と会話するとき通訳(通事)つけてる
扶余語系の渡来人だったとしても言語は全く変わってるんだろうな

96 :
>>92
混乱期[編集]

王莽による新朝が成立すると楽浪郡は楽鮮郡と改称され、諸県も名称変更された。その後の新末
後漢初の混乱期に、土着漢人の王調が反乱を起こして一時的[5]な独立国家を樹立したこともあ
ったが、後漢光武帝が中国統一事業の過程で30年には楽浪郡を接収している。その年(30年)の
うちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。

97 :
>>94
鉄器も青銅器と同じ

朝鮮経由なだけ

98 :
 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

99 :
>>96
妄誕?
ウィキ以外の出典は?

100 :
https://shiroi.shakunage.net/ronbun/rakurou.htm

101 :
>>100
自説強化のために歪曲したらだめでしょw

&#28031[さんずいに貝];水
出樂浪鏤方縣,東南過臨浿縣,東入于海。

〈許慎云:浿水出鏤方,東入海。一曰出?水縣。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8/14#%E6%B5%BF%E6%B0%B4


>東入海

東に向かって海に入るだよ?笑

豆満江ですか?w
 

102 :
もう一つ言っておく

木簡に関するする論文も読んだ
現地人(副葬品や墓制から)の楽浪群属吏と言ってたけど

は楽浪郡の情報を持ってることのみを以て属吏としてるんだよね
甘くない?w

103 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


.

104 :
北方系ツングースが大半
天下取ったのは百済、したがって南方系文化が
色濃くなった

105 :
>>101
昔は東の果てまで楽浪だったんだろ

106 :
>>105
ぜんぜん違う

考古学的成果(?笑)と史書が全く乖離してる

107 :
因みに101は

ばい水の東入海はあやまりで「西入海」が正しい
詳しい解説はこのスレを見てくれ

https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1579769501/6,7,9-13

108 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

109 :
なんだ半島が中国の支配下に入ってると思いたくないだけの人か

110 :
なんだ全然意見も反論もできなくなると認定してくるだけの馬鹿か

111 :
ロシア共和国では、極東地域のウラジオストック近郊のハンカ湖畔と黒海東方に位置するコ−カサス地方のグラスノダ−スとロフトスで稲作が行われている。

日本の稲作はウラジオストクから伝わったと
考えるほうが自然ですね。

112 :
弥生土器の登場は稲作開始より少なくとも50年以上は早いから、
渡来時に稲作なんか伝えているはずがないし、沿海州以北に3000年以上前の
稲作遺構がないのにどうやって渡来時に稲作を伝えるんだよ中卒

稲作は日本にやって来てから50年以上経ったあとの渡来人の子孫たちの
時代になってから朝鮮南部からパクってきただけの話

113 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

114 :
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

115 :
遺跡がないから栽培されてないって考えが
バカすぎる
弥生時代から田んぼになってる場所に
遺跡があるわけないから

116 :
>>110
ウリナラ理論は整合性もないから誰も支持しない

117 :
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

118 :
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社

119 :
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

120 :
やっぱり稲作が最大の悪だね。弥生人の支配文化の象徴
しかも米で育つとクソ弱っちい貧相な体になる
英語圏だとひ弱でモテないアジア人はRicecel (ライス+インセル) とかいわれて馬鹿にされてる


>七世紀半ば、日本書紀に「都加留(ツガル)」という言葉が登場します。現在の津軽地方に住む<蝦夷>たちのことです。
>太古より縄文時代を通じて、津軽地方が想像を絶するほど豊かな土地柄であったことは、亀ヶ岡や三内丸山の高度の文化を偲ばせる巨大遺跡をみても明かです。
>稲作に頼らなくても食糧は充分に確保されていました。
>そのような風土に馴染みきった人たちと、お節介にもコメ作りを勧めにきた律令国家・中央政権との間で文化摩擦が生じたことは容易に想像できます。

121 :
日本に貧相でちっこいジジババが多いのは
華南の弥生人がもってきた稲作のせいだろうなあ
日本人の平均身長が伸びたのは欧米食を取り入れたから
つまり子供を欧米食100%で育てればもっと伸びる。これ重要

日本人が広めたくない「米vs麦」の比較
http://foodstruct.com/compareimages/rice-vs-wheat.jpg

122 :
とにかく肉だろ
タンパク質は成長痛が消える=そんだけ伸びる

123 :
>>121


で、弥生人が華南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である


三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と


石刃の中国系耕作用農具と


中粒種の中国系イネと


土壁の中国系住居と


漢服と


龍信仰と


亀卜と、


渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、弥生人が華南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?


.

124 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

125 :
稲作をオワコン化させて、日本人全体の米の摂取量を減らす
子供にはおにぎりよりもハンバーガーを食わせる
とにかく肉を食わせる方向に誘導
これで日本人の平均身長がブーストかかる可能性が高い

日本の老人は「日本のコシヒカリは最高なんやで〜」「和食は健康にいいんやで〜」
で思考停止したザコ世代なので反面教師とすべき

126 :
ヤマト民は肉のネガキャンをして、米・大豆・茶のステマに努めてきた歴史的事実を考慮しないと
潜在的な中国モノマネ勢力だから、大陸から入ってきたものをよしとして神格化する

127 :
縄文時代に米を食べる習慣はなかったな

128 :
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

129 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

130 :
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

131 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

132 :
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

.

133 :
日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

134 :
>>133


で、中国南部から九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である


三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と


石刃の中国系耕作用農具と


中粒種の中国系イネと


土壁の中国系住居と


漢服と


龍信仰と


亀卜と、


渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、中国南部から九州に渡来定着したと提唱している頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?


.

135 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

136 :
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

137 :
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

138 :
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

139 :
日韓併合時に韓国に水田はありませんでした

140 :
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

141 :
日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

142 :
>>141


で、中国南部から九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である


三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と


石刃の中国系耕作用農具と


中粒種の中国系イネと


土壁の中国系住居と


漢服と


龍信仰と


亀卜と、


渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、中国南部から九州に渡来定着したと提唱している頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?



早く言えよクッサイ汚らしい醜悪極まる華南ブタチックインドシナロピテクス

143 :
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社

144 :
100年前のアイヌと和人の写真を見比べても身長たいして変わんない
弥生人の身長が高いって設定これウソですわ

145 :
半島南東部と日本列島は沿海州からです
稲作も同時期から

146 :
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

147 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

148 :
>>146
沿海州南西部の刻目突帯文土器の人は
どうやって稲作して、どう調理して食べていたの?

149 :
古代は粉にして、麺か饅頭だよ

150 :
上海のコスプレイベント
https://www.famitsu.com/news/201909/01182408.html
日本人と顔・体型まったく同じ
弥生人の起源ここ

151 :
>>150
一部の日本人を引き合いに日本人に似てるとか
言わないようにね

152 :
>>148
それオレじゃねえわバカ!

オレは沿海州から稲作が伝わったなんて一度も言った事などない!

沿海州に当時の稲作の痕跡遺構もイネ粒の出土もないのに稲作なんかある訳がない!

キチガイが言ってるだけだ

人を間違えるな低能

稲作は朝鮮南部、一択あるのみ

それ以前に、おまえ時系列が分かってないんじゃないか?


BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現

BC10C 菜畑遺跡に稲作遺跡出現


こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えたと思うか?

153 :
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

154 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

155 :
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

156 :
ウラジオストクで稲作やってる
沿海州から来た連中が種籾を持ち込んだのは
間違いない

157 :
黄河文明人が揚子江文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
北方諸民族が黄河文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
沿海州人が北方諸民族を襲った戦利品にたまたま種籾があって
試行錯誤の結果、水耕稲作したんだろう

158 :
>>156-157

だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?

単なる妄想なんかイラネエんだバカ!

159 :
遺跡遺跡ってうるせーな

160 :
>>159
じゃあ何でこの板にいるんだよおまえは?
考古学は、遺跡とそこから出土する考古遺物から人間の過去の文化の発展を、
その遺物を通して研究する学問だぞ
遺跡と遺物がイヤなら、さっさと失せろ

161 :
地理・人類学版で遺跡と遺物しか語れない奴もここにいるだろ

162 :
人類学は考古学も包括する学問なんだから、遺跡と遺物が語られるのは至極当たり前の話だろ

それがおまえにとって何か都合が悪いのか?

163 :
上海のコスプレイベント
https://www.famitsu.com/news/201909/01182408.html
日本人と顔・体型まったく同じ
弥生人の起源ここ

164 :
>>163

で、その考古立証は?

できないなら、さっさとここに行け↓
http://matsuri.2ch.sc/denpa/

165 :
>>162
せっかくの人類学版で「考古学だけ」が語られているのが残念なんだよ

166 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

167 :
稲作はウラジオストクから

168 :
>>167

だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?

単なる妄想なんか要らねえんだバカ!

169 :
>>167
おまえ時系列が分かってないんじゃないか?

BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現

BC10C 菜畑遺跡に日本最古の稲作遺構出現

こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えている訳がないだろ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
もう一度言うぞ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
二度と忘れるな

170 :
なんで半島からパクったことになるのか?
稲作の時系列が合ってないから

171 :
時系列も合わないし、沿海州に当時の稲作遺構もイネ粒もないからだ

172 :
それに最古水田菜畑からは日本最古のイネ粒と日本最古の農具とともに朝鮮無文土器の壺が一基出土してるんだよ
つまり最古水田菜畑の稲作は朝鮮南部から取り入れた
分かりやすく言えば、朝鮮南部からパクった

173 :
そもそも朝鮮南部の水田はどこからぱくったんだ?

174 :
自然発生だろ

175 :
半島南東部と日本海側は同時期だよ
すべて沿海州から

176 :
>>175
あちらの方が全然早いの

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

177 :
なぜ半島を先にしたがるの?
通名在日くん

178 :
>>177
なら、日本の考古学者は全員、通名在日じゃねえかバカチンコロ(嘲笑

179 :
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

.

180 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

181 :
>>178
じゃあ檀君朝鮮とかが歴史なのか?

182 :
なぜ華北と韓国人は背が高いのに、弥生日本人はチビなの?
答:上海から来たからですw

183 :
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

184 :
弥生人は沿海州

185 :
沿海州でファイナルアンサーだな
亀ヶ岡を説明づけるのにも沿海州

186 :
>>182
チビは西日本、韓国も旧百済地域はチビです
東日本は大きい人が多いよ

187 :
亀ヶ岡式土器は注口土器が有名だけど、注口土器が現れた土器形式の次の段階の
土器形式になると、もう注口土器は消滅するのな

やっぱ外来系器種だから定着できずに廃れて淘汰されたのかな?

鬲型土器もそうだ

30基ほど出土しているが、次の段階の土器形式にはもうない

日本にせっかく伝わったのに短命で消えていった外来系器種もあるというお話でした

188 :
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

189 :
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

190 :
亀ヶ岡はそれ以前に1万点以上の土器が盗まれて売られてる
今ので残り滓

191 :
ツングースはないって
沃沮だよ
沃沮は扶余語系=高句麗語で、高句麗語の数詞が日本語とほぼ同じってのは前から言われてた

相撲などの文化をみるに元々は北方民族なんだろうけどな
ネネツにも相撲みたいな文化がある
あと支配者の象徴としての鷹という文化
https://www.youtube.com/watch?v=DifKMWB8_VI
モンゴルの鷹狩り

192 :
>>191
沃沮、 濊が弥生人

193 :
朝鮮から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ところが、弥生土器は沿海州南部と一致する土器から始まってるの
どこから来たのか、もう言う必要ないよね?

194 :
だから沃沮、?婁が日本人の祖先

195 :
沃沮は朝鮮半島だろ
朝鮮半島から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ハイ、沃沮は候補から消えた

196 :
沿海州から来た縄文末期のやつらは沖縄に流れていったんだろ
多分w

197 :
O1b2a1a1は東日本に多いから

198 :
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社

199 :
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

200 :
新撰姓氏録によると、近畿内の1182氏族のうち、326氏が渡来系
さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「漢」として163氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
昔から中国人・朝鮮人で溢れかえってたみたいだね日本

201 :
中国大陸からは来てないがな 

202 :
漢は百済だから、百済経由で日本へ来た漢人が
ほとんど

203 :
>>195
沃沮が半島東北部なら「扶余と国境を接する」が通らなくなる

204 :
半島東北の山に囲まれた部分が沃沮であれば
高句麗とユーロウとしか国境を接しない
史書にははっきりと扶余と国境を接したと書いてる
アムール下流付近のみがユーロウ
ハバロフスク地方の山の向こうの広々とした盆地が扶余
ハバロフスクから谷をぬけて中国にいたる部分が高句麗

205 :
>>202
元楽浪郡・帯方郡漢人だろ
楽浪郡・帯方郡は4C初めに高句麗に滅ぼされ、その多くが百済に亡命した
秦氏や東漢氏は中国大陸の中国陶磁器の技術を持っていなかった
彼らが中国大陸人ではないからである
彼らが伝えたのは中国陶磁器とは全く異なる朝鮮陶質土器=須恵器であった
中国大陸には約3500年前からあった磁器が朝鮮半島で作られるようになるのは1000年前からである
その時代差2500年
朝鮮半島に中国大陸人の植民があったとは考えられないね

206 :
>>204
またおまえか
ユウロウは凍港で大海に面した地域
沿海州南岸としか考えられないね

207 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

208 :
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

209 :
沿海州のオロチとかギリヤークとか朝鮮人よりブサイクなんだが
起源でほんとにええんか?

210 :
クッサイ汚らしい醜さの極み、華南のニグロブタよか1万倍マシだろ

事実は事実だ

土井ヶ浜の弥生人骨は朝鮮人骨よりもはるかにオロチやギリヤークなどの
沿海州人骨に近く、日本人にDNAが一番近い集団は沿海州南部の
ナナイ(Hezhen、ホジェン)である


https://livedoor.blogimg.jp/margarine_fire-imp65qhl/imgs/a/3/a3985c5c.jpg

http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg

211 :
マシなんてありえない
ツングースは小便で顔を洗ってたんだぞ

212 :
>>206
だから沃沮は扶余と国境を接するんだって
ユーロウがハバロフスクにいたらつながりようがない

213 :
日本人の起源地の一つは中国百越なのは確定事項。これはY-O1a。
もう一つは、百越人が来る前にいたアルタイ系の旧石器人だろう。これはY-D1a2。
基本的には、この二つがドッキングして日本人のベースをつくった。
そのベースの上に乗っかったのが中国東部沿岸にいた稲作民のY-O1b2と渡来系のY-O2。
支配好きなO2がごり押しして、意地の強いO1bがこれに抵抗し、その乱れた状態を柔軟にコントロールしてきたのがD1a。
日本の歴史はこの3者の三つ巴だよ。

214 :
>>213
華南ブタゴリラチンクだろおまえ
ほれ、百越名物 「 越 式 鼎 」
こんなものが日本のどこにあんだよ?

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

.

215 :
>>214
床が真っ平なところでしか三脚鍋は使えん。
1万2000年前の九州に真っ平な床があったと思うな親と金。

216 :
じゃあ床を真っ平にすりゃイイだけじゃねえか
あほだろおまえ

217 :
そんな三脚鍋使うために、わざわざ床を真っ平になどするかよ。
縄文人にとっては、床はデコボコしていてあたりまえ。
三脚鍋のためにわざわざ世界観を変える者などおらん。

218 :
>>214
日本家屋は家の中に囲炉裏があるんだよ
その竈の脚の部分だけが五徳として
残った

219 :
>>218
足の付いた土器は弥生時代後半からみられるそうだ。
中国の鼎を転用したものかどうかは定かでない。
一方、五徳は利休が茶室で使うために考えた茶道具で、鼎とは別物だな。

220 :
五徳って言い方が間違っていた、すまん
三脚五徳ってやつだな
囲炉裏は靺鞨かららしい

221 :
>>220
靺鞨も土覆竪穴住居を使ったのは冬場だけらしいな。
暖かくなると、川べりなどで過ごしたそうだ。
囲炉裏はなにも靺鞨の特許じゃないけどな。

222 :
>>217
それは中国大陸だって同じ事だろが詭弁カス

おまえ真剣にバカだろ


>>218-220
縄文弥生を通して日本には鼎の出土が一切ないから、独自開発だろう

五徳型土器、三脚台土器とでも言おうか

日本最古の香炉が法隆寺のものだそうだから、中国系三足器が入ってきたのは飛鳥時代だろう

平安時代になると日本でも三足土器が作られる遺構がわずかに出現する

ただし鼎ではなく、双直耳も蓋もない鉢に三足を付けただけの粗末なもので、
鎌倉時代頃までは作られていた遺構もわずかにあった

223 :
>>222
一般人は凝った作りの青銅の鼎なんか使うもんか。
青銅の鼎など高価なんだから、使えるのは床をぴたっと平らに造れる金持ちだけ。
一般人は脚の長さに長短あるような粗製の土製鼎。
床が凸凹していても問題ないように作ってある。
それでもガタガタするのなら、脚の下に何か詰めて安定させただろう。
まあ、縄文弥生じゃ、ぴたっと平らな床はないからな。

224 :
>>223
だから通常の陶鼎だろ
つか、それが何か?
むしろ基本は陶鼎だよ
8500年前に鉢に三足が付いただけのカ(禾の下に皿)が中原で登場し、
二大河下流域に広がる7000年前までに双直耳と蓋の付いた鼎に進化した
3500年前に青銅器時代に入り、殷の頃に青銅鼎が登場しただけで基本は陶鼎である
鼎は奴隷から王まで使われ、亡くなるとあの世でも食えるよう、奴隷から王まで
墓に副葬された

225 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

226 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

227 :
鼎はそもそもが調理用の道具で、この鼎に直接箸やホークを突っ込んで煮物を取り出すわけではなかったというな。
それに周代にもなると、祭祀用としての道具の意味しかなく、日常に用いられるものではなかったそうだよ。
そして、やがて魏晋南北朝の時代に磁器が発明されると、鼎は終焉して造られなくなるそうだ。
つまり、鼎が日常の煮物用の調理具として用いられたのは、殷の時代くらいまでということになるね。
弥生の渡来者たちが鼎を持って来なかったのも道理だよな。

228 :
>>227
ウソコキ華南ブタゴリラ乙


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


.

229 :
>>224
庶民や奴隷は竹製品を使い捨てで遺物としては残らなうい
青銅器は基本的に権力者の祭祀用
日常使いは土器や石器・竹製品

230 :
ちなみに、殷の甲骨文字に「冊」が存在する
遺物として残っていないが
竹や木の板を束ねて文字をしたためたのだろう
支那竹は万能な道具なのである

231 :
>>229-230
中国では商周代の木器、竹器はもちろん、7000年前の木器、竹器が出まくってるし、
木器、竹器を直接火にかけて炊飯なんか出来る訳ないだろ
奴隷であっても鼎、あるいは鬲と甑のセットで炊飯するしかないじゃないかボケ
それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ
おまえホンモノの知恵遅れなんと違うか?

232 :
竹筒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%AD%92
中国大陸や台湾では竹筒飯(中国語版)と呼ばれるおこわや炊き込みご飯に似た料理があり、地域住民が調理するほか、屋台やレストランなどで提供されている

233 :
>>228
鼎は食事のときの器じゃないよ。
食材を煮炊きするための調理具。
できあがると、その鼎から煮物を取り出して食事の器に盛る。
そんな二重手間は縄・文弥生人はしなかった。
甕に食材を入れて煮て、出来上がればそれを取り出してその場で食べた。
食堂とは別のところで煮炊きするための鼎は、縄文・弥生人には必要なかったの。

234 :
>>232
それが当時にあれば、その証拠の竹筒が出土しまくるだろがカス

>>233
縄文人・弥生人も浅鉢という器に盛って食べてた事も知らんのかバカチンク
一度も使った事もないのにどうして鼎が必要がないと最初から分かるんだ詭弁カス!
必要か必要じゃないかはまず実際に使ってみて、必要じゃなければ長い年月の中で
徐々に使われなくって消えていくというのが必要のない文物の流れだろがノータリン!

235 :
>それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ

出てないし
ちなみに周代は甲骨文字じゃなくて「大篆」と「小篆」な

236 :
竹は焚き火にされて残る確率は少ないんだが

237 :
>>235
出てるわカス


https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=452831&bookType=ch

238 :
>>237
それ本当に読んだの?
竹筒飯を知らないあなたが

239 :
出土総数は数十万にも上るんだとよ

さすが中国、凄すぎる
木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版――書記の文化史 (世界歴史選書) (日本語) 単行本 – 2014/11/19 

冨谷 至 (著)

内容紹介
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は漢帝国の支配システムに
いかに組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの媒体も視野に入れながら、
竹簡・木簡から紙の時代へ、中国古代の書記文化の多様な展開を提示する。文字の文化史、
書物の文化史を学ぶうえで必読の書。好評の旧著に新稿2篇を増補。

内容(「BOOK」データベースより)
二〇世紀初頭、かつて古代中華帝国の辺境地帯であった敦煌、居延で、官僚や兵士たちが
書き残したおびただしい木簡群が発見された。二〇世紀後半には、中国各地から木簡・
竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。

240 :
出土総数は数十万にも上るんだとよ

さすが中国、凄すぎる



木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版――書記の文化史 (世界歴史選書) (日本語) 単行本 – 2014/11/19 

冨谷 至 (著)

内容紹介
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は漢帝国の支配システムに
いかに組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの媒体も視野に入れながら、
竹簡・木簡から紙の時代へ、中国古代の書記文化の多様な展開を提示する。文字の文化史、
書物の文化史を学ぶうえで必読の書。好評の旧著に新稿2篇を増補。

内容(「BOOK」データベースより)
二〇世紀初頭、かつて古代中華帝国の辺境地帯であった敦煌、居延で、官僚や兵士たちが
書き残したおびただしい木簡群が発見された。二〇世紀後半には、中国各地から木簡・
竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。

241 :
読んでないんだな

242 :
さて、鼎がなくて炊飯可能なことが証明されました
お疲れ様でした

243 :
>>242

で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?

ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カスチンコロ、ゴクローサン(爆

244 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

245 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

246 :
>>243
>で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?
はい、そこが考古学のゲ・ン・カ・イ
出土しないモノは何でも拒否が出来るいい加減なガ・ク・モ・ン
燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)を焼却(焚き火)して
原形を止めたままの燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)が有りますか?
>ハイ、出せないね
当然です
出土する方が不思議です
焼却して原形を止めたままの燃えるゴミは有りません
それでも見てきたかのように鼎で米を炊くのが当然とのたまう考古学は信用できないのですよ
はっきり言ってエセ・ガクモンです
しかも最後には罵詈雑言とか、考古学は下品です

247 :
>>244
日本の庶民は室町時代まで竪穴式住居です
小屋が建てられるようになったのは大陸から入ってきた台鉋の普及してから
しかも江戸時代だって大火が発生するくらい庶民の家に土塀なんてないです
だから考古学は嘘つきです

248 :
>>245
竜信仰は遼河文明が始まりで
しかも黄河文明よりも遼河文明の方が日本列島に近いです
従って竜信仰の一形態として縄文人に伝わり勾玉となったのです
わざわざ黄河や揚子江経由で伝わる必然性がないのに
関係があるかのように騙る考古学は無駄な妄想に拘るのです

249 :
>>246
詭弁カス乙
そのまま捨てられたり埋められたりした竹筒だって幾らでもあるはずだろが中卒
で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った、そのまま捨てられたり
埋められたりした竹筒は?

ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カス中卒チンコロ、ゴクローサン(嘲笑

250 :
>>247
何言ってんだおまえw
だから庶民に中国系も朝鮮系もいない事が分かって超イイ事なんじゃねえかカスw
4C後半から始まる朝鮮帰化人から朝鮮系の土壁の住居が伝わり、日本でも中央の
皇族や豪族に広まっていったが、平安時代に寝殿造が登場して土壁は局部的にしか
使われなくなった 

251 :
>>248
んなコト言ってる考古学者いねえし、

その証拠の日本で出土した玉龍は?

.

252 :
>>247
それはない。田舎の庶民の家でも竪穴式は
ないから
しかも図面なしで、山から切った材木だけで
木造家屋を建てられる能力があったのだから

253 :
現存する民家としては日本最古の箱木家住宅
鎌倉時代頃のものだそう
壁は漆喰で塗り固めて柱を見せない大壁になっている
4C後半に朝鮮帰化人が伝えた土壁である大壁の技術がそのまま使われている
http://www.mpl.co.jp/post_157.php

254 :
>>252
田舎人の建築能力はずば抜けている
いまでもそういう人がいる。
竪穴式なんて土人家屋に住む必要がない
俺の先祖の家も図面なしで、廃材だけで
建てられた日本家屋だわんw

255 :
一般的には竪穴式住居は平安時代頃まではあったらしいがな
4C後半に朝鮮帰化人が土壁の住居である大壁住居を伝えて、皇族や豪族に広がるが、
平安時代になると寝殿造が登場して独自路線を走り出した
一方、朝鮮帰化人が伝えた大壁住居は庶民に広がっていき、鎌倉時代頃の
箱木家住宅に至ると
そういう流れみたいだな

256 :
>>254
おじさんが言ってたが、昔の人は家建てるくら
いは朝飯前だったらしい。
今の人とは能力が違いすぎるわ

257 :
大工はいたが、基本的に自宅は自分たちで作るものだったみたいね
現代人には分からない世界だわ

258 :
>>257
神社仏閣は流石に本職の大工じゃないと
無理だったらしいが、自分の家くらいは
楽勝だった。基礎は打たないから、早く
建てれたみたい。
竪穴式なんて情けない家に住むバカは
いなかった。

259 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

260 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


.

261 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

262 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

263 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

264 :
弥生人は沿海州

265 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

266 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

267 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

268 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

269 :
穀物は粉にして麺か饅頭にして食べてたん
だろうね

270 :
なら、とっくに弥生遺構から麺や饅頭が出土してるだろうにw
中国では4000年前の麺が出土しているし、中国で饅頭の登場は3Cだから、
弥生遺構にあるはずもない
日本に麺が伝わったのは平安時代以降、饅頭が伝わったのは室町時代以降

271 :
麺や饅頭は小麦粉から作るだけではない
蕎麦や稗、粟などからも作ることが可能

272 :
石臼は縄文時代からあり、団栗を石臼で挽いて
粉にしてたようですね

273 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

274 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

275 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

276 :
蕎麦を石臼で挽いて蕎麦餅にするのは
田舎では当たり前

277 :
ソバも結局、菜畑以降に半島から入ってきただけ

278 :
.

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

279 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

.

280 :
>>277
蕎麦は9000年前から日本で食べられている

281 :
>>280

で、その証拠は?

.

282 :
.



アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



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.

283 :
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

284 :
古代日本は粉文化、石臼で粉にして饅頭や
麺にして食べてた

285 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

286 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

287 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

288 :
石臼は縄文時代からあるからな

289 :
75%以上、弥生が入ると致命的にブサイクになる
見た目が中国人・韓国人と変わらないので人種的価値は低い
弥生人は失敗だった

290 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

291 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

292 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

293 :
「朝鮮耳でヒゲないけど俺アイヌですw」

アイヌ文化も聖火もつなぐ 舞踏リーダー「世界に発信」
https://www.asahi.com/articles/ASN397WR9N2PIIPE02P.html
聖火ランナーに選ばれた山道ヒビキさん(30)
「自分たちの文化を世界に発信するチャンス。やりがいもあるが、緊張もする」
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200309005335_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200309005334_comm.jpg

294 :
縄文ハーフくらいか
ちょい濃い目の日本人やん

295 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

296 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

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297 :
粛慎、?婁、靺鞨、女真が日本人のルーツ

298 :
このくらいでいいから縄文度を保つべきだったな
弥生が入ると無毛症のブサイクになる

https://skr.su/uploaded/thumbnails/1870090_850x500_fit_and_crop-314168426.jpg

299 :
>>298
顔立ちだけみれば、今の日本人にもいるでしょ

300 :
>>297
ツングース言語の痕跡は?
これに対してはなんの根拠も示さないね
扶余語族はソースだせるけど

301 :
ツングース言語は消されたな

302 :
弥生人R

303 :
.

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

304 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

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305 :
朝鮮半島だろ

306 :
ツングース言語は桓武のときに消された
京都藤原は百済だからね

307 :
そう 朝鮮起源

308 :
日本人の起源って話なら、やはり沿海州

309 :
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは形質が合わなすぎるの

ウデへ、ナナイといった沿海州南部のツングースの形質に極めて近いの

DNAもナナイと極めて近いしな

渡来系弥生人の形質が日本全体にすでに広がった後に朝鮮帰化人はやって来てるの

渡来系弥生人の形質が全国に拡散した段階で日本人はすでに完成してるの

310 :
クソ不細工ダウン症民族・弥生人滅びろ
日本から出ていけ

311 :
30になってもヒゲ生えずツルツルの弥生人キモすぎる

312 :
半島人は侵略者だから

313 :
斎藤成也によると日本人は大まかにわけて3つの古代人種のミックスらしい
一つは縄文人
もう2つについてはA系統とB系統がいて
B系統はおそらくわい人だろうと思う

314 :
 濊は日本海側に多い
新羅の時代に日本へ来た

315 :
4:46に出てくるアイヌ白人にしか見えんぞ
モンゴロイド一切入ってない
Benjamin Brodsky Beautiful Japan 1918 Short Film Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=y9JlfuJB4NU

316 :
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アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

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317 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

318 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

319 :
ヤクート人と日本人は似ている、食生活もな

320 :
グレタさんの顔はネオテニー入ってて平べったいけど
それでも目が窪んでてぱっちり二重だね
ほぼ高確率で一重のモンゴロイドはあまりにも醜い
https://www.unilad.co.uk/wp-content/uploads/2020/03/PA-51132103.jpg

321 :
ヤクート人は恐ろしく弥生系日本人に似ている人がいる
弥生系日本人がヤクート人に似ているのかもしれんが
あれだけ似ていると同じ祖先を共有していると考えざるを得ない

322 :
>>321
Yハプロは違うんだけど、ヤクート人と日本人は
見た目も食生活もほとんど変わらない。

323 :
バイカル湖あたりから沿海州南部に南下した北方モンゴロイドが弥生人の祖先で、
シベリア北東部に北上した北方モンゴロイドがヤクート人なのではないか?

バイカル湖あたりではまだNで、南下してモンゴル〜満州北部あたりでNOになり、
さらにOになって沿海州南部まで南下したのが弥生人の祖先で、
Nのまんまシベリア北東部に北上したのがヤクート人なのではないか?

324 :
弥生人は日本にいらなかった
頼むから絶滅してくれ

325 :
朝鮮人
いつの世も
性欲だけは
一丁前

朝鮮半島はもともと古モンゴロイドの人種しかいなかった

326 :
未だに縄文人が生き残ってるとか思ってるキチガイっているの?

327 :
日本人を縄文人に戻してくれ神様

328 :
なるほどね
>応神天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
>在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。
>名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。

329 :
アイヌ形質が強い子供を「ゴリラ」「ワキガ」と呼んで迫害
「社会人ならヒゲを剃れ」と不合理な同調圧力で縄文要素を封殺
大人になって気づいたけれど、朝鮮人の国だったんだなジャップランド

330 :
次の天皇も朝鮮人
https://www.sankei.com/images/news/190731/lif1907310035-p1.jpg

331 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

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332 :
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縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

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333 :
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弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

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334 :
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日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

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335 :
ブサイクすぎてうわっ…てなるわ
絶滅しろ弥生人

https://i.ytimg.com/vi/zWUabem6YMQ/hqdefault.jpg

336 :
>>334
沿海州は木の文化

337 :
現代日本人10%程度しか縄文ゲノムを引き継いでない
90%がダウン症北方モンゴロイド
オエッ

338 :
>>334
貴様は負ける
www

339 :
弥生人、顔のブサイクさは北方ダウン症モンゴロイド
華北・朝鮮と比べると四肢が異常に短く、ゴブリンみたいな体型
この劣等種が縄文を迫害して、日本の遺伝子プールを修復不可能なレベルで汚染したのは最悪の悪夢
オエッ

340 :
絶滅しろ弥生人まじで

341 :
弥生人
https://i.imgur.com/xzPFVqS.jpg

342 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

343 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

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344 :
隠れアイヌ:
木村光佑、木之元亮
エミシの子孫:
三船敏郎、仲代達矢、山本KID、長嶋茂雄、飯沼貞吉、高橋是清
沖縄・奄美系:
朝潮太郎、山田孝之、真田広之、金城武、定岡正二、中孝介、小島よしお、上間綾乃、南沙織
GIRベイビー(戦後の米国占領期1945-1952年生まれに集中):
草刈正雄、鮎川誠、青山ミチ、泉アキ、カシアス内藤、西川ヘレン、スティーブ・フォックス、高橋紀子、山本リンダ
GIRベイビー疑惑:
谷隼人、松岡きっこ、安室奈美恵の母親、観月ありさの母親、浅野忠信の母親
ナゾ(縄文にしては恵体でコーカソイド的な体格):
平井堅、長瀬智也、谷中敦、阿部寛
太眉の縄文系女性:
オノ・ヨーコ、井上咲楽、シシド・カフカ、小田茜、早見あかり、平祐奈、野川由美子

345 :
映画「コタンの口笛(1959)」こっから落とせる
https://scalisto.blogspot.com/2012/09/mikio-naruse-kotan-no-kuchibue-1959.html
アイヌの子供が差別される問題、和人・シャモとの衝突、アイヌ風習を金儲けに利用、鮭漁の禁止、等おもしろトピックてんこ盛り

346 :
ワレらが自然とともに1万年以上も平和に暮らしていたこの列島に、ある日、朝鮮半島から一重まぶたでのっぺり顔の弥生人がやってきました。
「縄文人のみなさん、どうかお願いします。朝鮮半島が戦乱で逃げてきました。しばらくここにいさせてください」
快く迎え入れ、飢えているのを見かねて、魚や獣を差し入れてやったこともあります。
ところが、朝鮮半島より列島の方が稲作というものに適していることが分かると、やつらは恩を忘れ、ワレらに向かって、
「邪魔だから田に近づかないでくれ」などと言うようになり、遂には、「この土地は昔から俺たちのものだ」と言い出しました。
それからというもの、やつらは「福は内」と言って朝鮮半島から仲間を呼び寄せ、「鬼は外」と言ってワレらに石を投げつけました。
特にひどくなったのは、飾り付けられた馬に乗った人たちが来てからです。
そして、やつらは「今日からこの列島を日本ということにした。土蜘蛛、蝦夷は鬼は外」などと言いながら、ワレらを追い払おうとし、抵抗する仲間を殺しました。
本土で生き残った者は、前方後円墳造りを強いられ、耕作に適さない湿地や山地に追いやられました。
すぐに攻撃は東北や南九州にまで及びました。
東北では、ワレらの英雄がやつらに一泡吹かせましたが、騙されて京都に連れていかれ、殺されました。
ワレらの楽園は蝦夷地と琉球だけになってしまったのです。
それからしばらく、蝦夷地と琉球だけは平和でした。
ところが、千年ほど経つと、やつらは蝦夷地や琉球にまでやってきました。
蝦夷地の仲間は騙し討ちにあい、土人と呼ばれ、琉球は王朝を築いて発展していましたが、これも征服されました。
その後、奥二重まぶたで出っ歯の弥生人は戦争に負けました。
その時、琉球のワレらの仲間は、「同じ日本人だから」というやつらの言葉を信じて協力しましたが、敵の弾除けにされたくさん死にましました。
スパイの濡れ衣で殺された仲間もいますし、泣き声で敵に見つかると言われ殺された赤子もいます。
蝦夷地では、ワレらの仲間を土人と呼ぶのをやめよう、先住民族と認めようということになりました。
ところが、鮭を獲ることさえ妨害するのです。
最近は、アイヌはいない、アイヌは成りすましなどと言い、琉球のワレらの仲間も土人と呼んで侮辱しました。
蒙古襞があってのっぺり顔の朝鮮半島からやってきたやつらは、ワレらとは違う人種です。
ワレらには、本土日本人と韓国人は同じに見えるし、遺伝子的にも同じだそうです。
それなのに、本土日本人は、先住民のワレらと同じ人種だと嘘をつく一方でワレらを土人と呼ぶのです。
韓国人と同じクラスターの本土人は、「同じ日本人」と「土人」を都合よく使い分けるのです。
これが、日本列島全体の先住民であるワレらから見た日本の歴史です。

347 :
弥生人絶滅計画

348 :
弥生人さえ来なければ・・・

349 :
弥生人R
坂上田村麻呂の子孫死に絶えろ

350 :
田村姓は田村麻呂の子孫やな

351 :
弥生系は稲作を伝えてくれたからまだいい
問題は「朝鮮系」

目一重で酒飲んでも顔赤くならない奴は決定的な侵略移民

352 :
弥生人さえ来なければ・・・

353 :
アイヌは朝鮮耳を「シンナキサラ」と呼んで区別した
https://ke1q84.info/wp-content/uploads/2019/08/907E43CE-70A0-4938-AB6C-92878B47999C-500x224.jpeg

北海道アイヌの血を引く人達
https://imgur.com/f466Zns.jpg
https://imgur.com/vq0hztk.jpg
https://imgur.com/Dm2TKuV.jpg
https://imgur.com/1mBBhG4.jpg
https://imgur.com/Iqzw7Xz.jpg
https://imgur.com/7XTDSBh.jpg
https://imgur.com/YOxEFRg.jpg
https://imgur.com/AQ1Xhcr.jpg

皇族の血を引く男 竹田恒泰「アイヌは北海道の先住民ではなかった。北海道に日本人より前の先住民なんていない。」
http://www.takenoma.com/wp-content/uploads/c.jpg

354 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

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355 :
.

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

356 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

.

357 :
.

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

.

358 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

359 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

360 :
津軽藩の初代藩主、津軽為信
アイヌにしか見えない
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Tugaru_Tamenobu.jpg

361 :
弥生人のダウン症遺伝子さえ入ってこなければ・・・

362 :
>>359
ツングース言語の痕跡は?
これに反論できないね

363 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

364 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

365 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

366 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

367 :
これはよい読み物です

初出:「東北文化研究 第一巻第四号」1928(昭和3)年12月

本州における蝦夷の末路
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html

368 :
左から2番目のアイヌ、これもう白人だろ

http://cdn.shopify.com/s/files/1/0895/0864/products/1628292_600x.jpeg

369 :
脱毛エステは在日経営か?
グーグルで「ヒゲ」でググると脱毛エステや「ヒゲ男は女子にモテない!男は身だしなみが大事!」みたいなステマ記事多数

こいつら山田孝之みたいなぶっといヒゲ生やせる縄文男児が目立つと困るから
この手のステマしつこくやってるんだろ

370 :
◇◆◇ 日蓮と法然 ◇◆◇
両者ともに鎌倉時代の僧侶だが、その教えは大きく違う。法然が来世での救済を説いた
のに対し、日蓮は現世利益を説いた。病と信仰の関係についての主張もまったく異なる。
日蓮「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかな
  る病さはりをなすべきや」(『経王殿御返事』)
法然「宿業かぎりありて、うくべからん病は、いかなるもろもろのほとけかみに祈ると
  も、それによるまじき事也。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれか
  は一人として病み死ぬる人あらん」(『浄土宗略抄』)
今般のコロナウィルス禍にあたって、創価学会の本部は、唱題会などの会合を中止した。
日蓮の教えに従い南無妙法蓮華経を唱えても、病魔に勝つことはできないと認めたのだ。
※ 現在の創価学会本部は、病気に関する限り日蓮よりも法然に近い考えを取っている。

371 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

372 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

373 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

374 :
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

375 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

.

376 :
一石英一郎博士によると、ジャポニカ種は朝鮮経由と長江経由2種類に
別れる。イネゲノムの配列を事細かに解析したところ、
長江流域経由のものと一致することがわかった。
宮崎県伊勢ケ浜の伝承では、16年ごとに中国から難破船が漂着する。
東京大学徳永勝士先生らによると、日本人はY染色体D2のYAP型が含まれ、
これは非常に特殊な配列で、IDのようなもの。
この系統を持っているのは世界的に珍しく、アジアでは日本人に圧倒的に
多い。中国人や朝鮮人にはない。地中海、中近東の人も多い。
日本人のミトコンドリア遺伝子のパターンを比較したところ、
中国の中央部、長江流域、セム系ユダヤ人と似ている。
一石博士は長江経由で東に渡来したと推測している。

377 :
BSTBS諸説ありによると、ロシア科学アカデミーによると、D4j8という遺伝子は、
日本人とバイカル湖周辺のブリヤート人に共通し、中国人、朝鮮人にはほとんどない。
2万数千年前樺太から南下した。

378 :
韓国の南部から2-3%の割合で縄文Dが検出
韓国の北部とチェジュ島では0-1%
>Kim et al. (2011) found Haplogroup D-M55 in
1.6% (8/506) of a pool of samples from South Korea,
including
3.3% (3/90) from the Jeolla region,
2.4% (2/84) from the Gyeongsang region,
1.4% (1/72) from the Chungcheong region,
1.1% (1/87) from the Jeju region,
0.9% (1/110) from the Seoul-Gyeonggi region, and
0% (0/63) from the Gangwon region.[16]

379 :
沃沮は漢民族の支配を受けていたと史書には書かれている
実際渡来人のハプロからは中国系Oが結構な率で出てくる
渡来人の時代、沿海州のヤンコフスキー文化は鉄器時代である
しかし渡来人は鉄器を全く伝えていない
支配層の漢民族だけが鉄器の製法を知っていた、もしくは輸入していた
で漢民族に恒常的にRされ続け、その遺伝子を持った底辺層が逃げた先が日本

しかもそこでも優位に立つどころか、縄文人に女を差し出して、Y遺伝子の3割が縄文系になるまで陵辱されて
そこまでしてやっと縄文人に受け入れられたのが渡来人

ただの負け犬やんけ

380 :
馬鹿馬鹿しい
そもそも沃沮が日本に渡来定着した事が証明できる在地産の朝鮮土器遺構がない
脳内妄想サギーチンク乙

381 :
さんま
朝鮮耳
クソ出っ歯
どぎつい一重
うっすい眉毛
https://www.planetpixmedia.com/wp-content/uploads/2019/01/ss_004-300x281.jpg
スーパー朝鮮人か?

382 :
近畿地方は日本人でも朝鮮人顔は多いよ

383 :
>>381
朝鮮耳とか糖質のキチガイネトウヨの造語だけど
これはワロタw

384 :
 
>韓国の南部から2-3%の割合で縄文Dが検出

縄文Dとかこの言い方がクセモンだよな
Dのサブグレードでも縄文人から見つかってるのは限られてる
日本でも確実に縄文人から見つかってるタイプは少数派(すなわち縄文人直系は少数派)
多くのDのサブグレードは縄文人から未だに発見されていない

385 :
NHKスペシャル食の起源4酒で、下戸遺伝子の分布が示され、
福建あたり、上海、名古屋以西が高濃度だった。朝鮮は希薄。
水田稲作は細菌感染が多いから、アルデヒドを分解できないよう
進化したそうだ。NHKでは初めて、江南から直接渡来といった。

386 :
縄文人は焼き畑農耕民なので、台地丘陵山地に住んでいた。 水田稲作民とすみ分けた。土壌の花粉の分析から、焼き畑があった。
水田は全面的ではなかった。同和問題は水田の細菌と関係。
名古屋は庄内川以西が弥生土器、以東が縄文土器。西は低地、東は台地。尾張一之宮のある一宮に丹陽という地名がある。楚の都の名。
真清田神社は天の火明を祀る。尾張氏の祖。熱田神宮も、元宮氷上姉子神社も東部台地にある。台地は焼き畑で、縄文土器が出る。
火上吾が根子(祖先)とすると、縄文にも見える。古代は女系。尾張氏の祖オトヨは女性。豊受はケ(食物)。オオゲツヒメ。大地母神。
スサノオは朱砂の王。火・水銀・太陽の神。スサノオがオオゲツヒメを殺し、死体から穀物などが生じるのは焼き畑を表す。縄文土偶はオオゲツヒメ。
バラバラにされている。銅鐸もバラバラ。縄文の祭祀が弥生に続いている。オオゲツヒメ型神話は、東南アジア・南中国の焼き畑農耕民に見られる。
漆器も同様。大型青銅器は長江文明の特徴。青銅器埋納の風習が、殷から楚、日本へと受け継がれている。
伊勢神宮の近くで縄文時代の水銀が採取され、東北・長野の土器も出ている。式年遷宮は焼き畑農耕の農地の入れ替え。
内宮は内津宮。禹が祀られていた。禹は人頭蛇身。宇賀神。スサノオの子。楚王は禹で太陽を運ぶ鳥で水銀。宇治橋の名に痕跡をとどめる。
内宮の元の神主は宇治土公。阿蘇氏の子孫は宇治氏。
外宮の橋は火除け橋。禹かスサノオが封印されている。ウ・ケ。渡会橋か外橋が普通だろう。稲荷神は宇迦の神で禹で水理の神。
庄内川西の津島神社や八坂神社で蘇民将来子孫という お札がもらえる。楚(蘇)民将に来る子孫。長良川鵜飼は楚と同じ。
尾張氏同族海部氏の丹後で、縄文の丸木舟と南九州の弥生土器が出る。尾張氏を縄文か楚か分けるのは難しい。阿蘇氏と禹と蜀は
同じ排水神話を持つ。 楚王の名は熊だらけ。熊襲は熊襲於。雲南あたりの先住民はチベットを古宗という。禹は西羌に起こる。チベット。
楚はチベットらしい。チベットのイ族は南無阿弥陀仏と唱える。 原始仏教が弥生時代に来たか。

387 :
>>380
沃沮じゃなくてもさ
渡来人が沿海州から来たなら同じ状態ってことだよ
漢民族のYDNAを含んだ負け犬がさらに縄文のDを3割にするまで女を陵辱され
完全な負け犬だろが

388 :
Oの起源はモンゴルから満州北部だから、負け犬は中国大陸の方w

389 :
弥生のダウン症遺伝子さえ入ってこなければ・・・

390 :
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アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

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391 :
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

392 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

393 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

394 :
沿海州と半島南部と両方だろうな
北方系が沿海州から日本へ南下して
そのあと南方系が半島南部から日本へ来た。

395 :
縄文入ってそうな韓国のジイさん
https://www.youtube.com/watch?v=evGIvt0e_Ww

396 :
>>395
縄文人だな

397 :
宮古島でカフェ経営してる縄文強めのオッサン
ポリネシア人に見える
https://www.youtube.com/watch?v=cE8CBRAWUe8

398 :
>>395
ひげだけやが

399 :
>>388
ツングース、モンゴルのCなんか漢民族はないわけだが

400 :
なんでも縄文人にするキチガイ

縄文人が現代にいるわけねーだろ馬鹿

401 :
>>395
こんな顔韓国で見つけるのは1万人に一人くらいだぞ
なんつたってアイドルでさえみんな一重でせいけーするんだからな


たぶんそいつは日本の縄文系との混血か近い先祖に外国の血が入ってる

402 :
韓国人は10人に1人は日本人にかなり近い顔をしている
韓国人は全体的にあんまり薄い顔をしておらず、ヒゲも思ったほど薄くない
全体的に日本人と比べるとやや薄い顔でやや体毛が薄いというだけで、
個別に見るとかなり濃い顔や体毛が濃い人やヒゲ面も多い

403 :
>>402
頼む 普通の脳みそになってくれ

404 :
>>403
華南サギーブタニグロゴリラのおまえがな

405 :
旧高句麗エリア、旧新羅エリアは
日本人と見分けつかんよ

406 :
さすがに一万に一人は言い過ぎだけど百人に一人いればいいほうかな

407 :
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.ningenkankeitukare.com/entry/120.html

408 :
渡来人は負け犬だ

409 :
ネトウヨってキチガイ老人だよな
まじでとんでもないセルフイメージ持ってそう
まとめて精神病院に措置入院させてからコロナで死なねーかな

410 :
めっちゃ腕毛濃い宮古島のローカル
https://www.youtube.com/watch?v=Zv3-mtqddNY

411 :
>>410
小島よしおと同じルーツっぽいな

412 :
【告知】大阪で1番恥さらしな男!!これまで誰一人として語れなかった覚醒剤中毒者の泥沼の世界!!そして警察官、刑務官、裁判官のええ加減さを真実のみを赤裸々に語り最低中の最低の究極のゴキブリ男が恥を承知の上で書いた渾身の力作!!
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全国の書店&ネット通販でどうぞ!!

413 :
長頭マップ

Doliocephalic
http://humanphenotypes.net/metrics/ci-doliocephaly.html

長頭はクロマニヨンやネアンデルタールなどの初期の人類の間で広がった。
今日では、アフリカ、インド、オーストラリア、ニューギニアなどのトロピカル地域でよく見られる。
欧州では、スペイン、南イタリア、北欧、英国などの地域で稀に見られる。
アメリカ大陸ではイヌイットによく見られる。東アジアではアイヌによく見られる。

414 :
薄い体毛マップ

Weak body hair:
http://humanphenotypes.net/metrics/weakbodyhair.html

薄い体毛は全大陸のさまざまな気候帯でみられる。
とくに薄いのが東アジアのモンゴロイド。ヒゲがかなり薄い。
理由は不明だが、おそらく北中央アジアの厳しい冬と関係しているのだろう。
北アフリカ地域の人々も体毛が薄い。
アメリカ大陸のグループも体毛が薄い。東南アジアとポリネシアも同様。

415 :
>>414
ひげが全く生えないのが北米インディアン
脇毛もはえない
しかもハゲない
シミもつかない(日焼けしやすい)
ルーツは北極圏生活者や(ネネツみたいな)

416 :
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&aq=-1&oq=&ts=5509&p=long+hair+native+american&meta=vc%3D
こういうイメージ
めちゃかっくいい

417 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

418 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

419 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

420 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

421 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

422 :
ツングースなわけはない
ツングース語の痕跡が全くないんだから

423 :
渡来人、亀ヶ岡の時代は沿海州はヤンコフスキー文化という「鉄器文化」なのである
しかし渡来人は鉄器を全くもたらさなかった
支配層だけが鉄器を使い、被支配層はそうではなかったのだ
YDNAに漢民族由来のDNAが交じる渡来人は漢民族に支配され、Rされ、逃げてきた民族

424 :
坂上田村麻呂は漢系渡来人の子孫だから、Y-DNAは確実にO系だった
東北に住んでいたエミシさん達は確実にD系
つまり蝦夷討伐とは大陸からきた侵略者に原日本人が大虐殺された話
そんな酷い歴史を英雄譚として教えてるのがジャップ史。R朝鮮ジャップO系ヤマト弥生稲作渡来人

425 :
>>423
弥生人が渡来したのはBC11C頃のシニ・ガイ文化期だから青銅器時代だろ
クルーに技術者がいなかったか、いても材料がないから作れなかったか
青銅器には銅と錫が必要だが、それを産する鉱山さえ渡来一世には分かるはずもなく、
この世を去ったはずである
それにOの起源地は中国ではなく、モンゴルから満州北部あたり
YDNAに漢民族由来のDNAなんてものはなく、むしろ南下したOに漢民族がRされ、
凌辱されて今に至るのである

426 :
>>424
漢系渡来人と言っても中国大陸人ではない
いるのは縄文晩期に沿海州南部から渡来した弥生人と4C後半以降から始まった朝鮮帰化人だけである
東漢氏は高句麗に滅ぼされた元帯方郡漢人の百済人と高句麗人であり、帯方郡漢人は遼東郡漢人が
祖先である
遼東郡漢人は戦国時代中頃に燕に併合され、否応なしに漢化させられた元はウラルアルタイ語族の
遼東人である
遼東郡漢人は異民族漢人であり、漢の武帝の命で朝鮮侵攻し、楽浪郡や帯方郡を築いた
楽浪郡と帯方郡は高句麗に滅ぼされた後は百済と高句麗に吸収され、一部は倭に帰化した

427 :
脱毛エステはやっぱり在日経営っぽいな
メディア・ウェブ記事を駆使して「社会人ならヒゲを剃れ!」
「男は身だしなみが大事!」「ヒゲ男は女子にモテない!」などと執拗ステマ
日本の遺伝子プールに、かすかに残った毛深い縄文要素を容赦なく潰しにかかる
そんなO系つるつる弥生チョンの同調圧力にまんまと引っかかる馬鹿な日本人
朝鮮人に見事に乗っ取られた国がヤマト・ジャップランドです

428 :
>>425
>それにOの起源地は中国ではなく、モンゴルから満州北部あたり
そんな古いわかりもしない時代じゃなくてさ
半島系のOとは別の漢民族のOがあるのは確定だろ

429 :
>>424
虐殺されたのならYDNAで3割ってのがおかしい
形質面では渡来系が強いし遺伝子研究でもそういわれる
しかし縄文の男系遺伝子が3割超えてるんだよ
渡来人のが下で、縄文人に女を差し出したんだよ

430 :
混血初期の段階では縄文が優勢だった
弥生女が多産で、縄文女よりも多くの子を生んだ
次第に混血児と弥生が数で優勢になり、以後今日まで日本を支配
弥生と混血しなかった硬派な縄文男・女は北の僻地へと追いやられ、それらがアイヌとなった
ふつうに考えるとこうなるな

431 :
>>428
だから、それらの起源地がモンゴルから満州北部あたりなんだよ
中国大陸や満州南部、沿海州南部、朝鮮半島に南下してから取捨選択されて
中国大陸とそれ以外とに大きく二つに分かれた

>>429-430
九州北部から山陰にかけての弥生遺構から渡来系弥生人骨が数千体出土しているが、
もちろんこの人骨全てが渡来してきた訳ではない
列島に来てから増えていっただけだ
最初に渡来定着した渡来人一世は多くても数十人規模だろう
徐々に人口を増やしながら山陰から九州北部にかけて広がっていったが、
半島から稲作が伝わり、狩猟採集経済から生産経済に移行したため、
安定した食料確保が可能になって人口爆発を引き起こし、その子孫たちが
西日本中に広がり、最終的には日本全国まで広がっていったのだろう
渡来系が増えたのは農耕による生産経済での食糧事情と大きな関係がありそうだ

432 :
>>431
ないな
タイとか東南アジアでOの変種が多いんだから、漢民族が南部から上がってきたと考えるのが自然
時制のない言語も東南アジアに多いし
東南アジア少数民族もO

433 :
ツングース、北方人種とつながりが多いのなら、漢民族にもっとC2やNがいてもいいはず

434 :
ハプログループO1b2 が沿海州、半島の民族
ハプログループO1a が台湾先住民など
O2が漢民族で後発グループ
まずO1系統が北上して、遼河文明などのハプロNの影響を受けた
その後、シュメールから始まる農耕革命が中央アジアから広がり、
チベット語の影響とともに漢民族O2が広がった

435 :
>>432-434
中卒乙

OはNから生じたんだから起源地は北方しか考えられんの

モンゴルから満州北部あたりで生じて東南アジアやポリネシアまで広がった

436 :
>>435
それはウスチイシム人とか、はるか以前の話だろ?
NからじゃなくNOからだし

437 :
Nは北方生肉食尿洗浄集団だが
彼らの生活形態は北方だけじゃなく、山岳地帯にも応用できる
平野部にクロマニョンに近い民族がいようとも、山を移動すれば南下できるのだろう

438 :
Oは南部にたどり着いて膨大なサブグレードを生み出し、そして広がった
一部はマダガスカルに到達した

439 :
日本人の起源
世界の色んな場所の人達が集まって日本民族となった

440 :
ありえない
だったら、この世に人種なんてないはず

441 :
>>439
出雲族はアーリア族のインド侵攻、略奪を忌避した先住民のドラビタ族の地方王国、クナ国が日本に移住した。

日本の信仰、習俗、更には言語迄あらゆるもののルーツ。
出雲(ドラビタ族)は人口の少なかった古代に我が国で初の統一王国、出雲王国(元々、イズメの国)を建て(BC-660年頃)約700年弱にわたり全国を統治、影響下においた。
このインパクトは現代に至るまで連綿と継承され日本人の生活のベース、規範となっていますよ?

442 :
出雲=沿海州側の港
福岡=半島専門の港

443 :
>>441
で、出雲族がドラヴィダ人である事を証明する衣食住に関する生活における
ドラヴィダ系生活文物とドラヴィダ系住居である丸い壺が特徴的な
ドラヴィダ系生活土器と煉瓦を使ったドラヴィダ系住居と麦食文化は?

444 :
ネタにきまってんだろ

445 :
>>441
日本でもアーリア族に滅ぼされたわけですな

446 :
若いので縄文入ってそうなのいる?
山田孝之と山本KIDを最後に縄文感ある有名人を見てないんだが

447 :
井上咲楽の眉毛は縄文由来っぽい

448 :
UAの息子とかか

449 :
青谷上寺地遺跡の父系ハプロについて、こんなブログが…
https://tottoriponta.hatenablog.com/entry/43895651
先週末の3/2(土)、鳥取市のとりぎん文化会館で開催された弥生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」に参加しました。
会場となった小ホールの座席数は全500席、開演前にはそのほとんどが埋まっており、県民の関心の高さを感じました。
今回のテーマとして取り上げられた上寺地遺跡の詳細については、wikipediaの「青谷上寺地遺跡」などを見てもらえばよいのですが、
発掘物の保存状態が極めて良いことから「弥生の宝庫」とも呼ばれているそうです。今回の講演の目玉は、
何と言っても、青谷上寺地遺跡で発掘された殺傷痕のある大量の弥生時代の人骨のDNA分析の結果の公開でしょう。
弥生人のDNA分析については、今までは九州出土の人骨のみでの分析が行われてきており、九州以外での弥生人集団の骨の分析は青谷上寺地遺跡が初めてとのことです。
このシンポジウムでは、「この上寺地遺跡の分析によって今年が弥生時代の『DNA元年』となった」というような表現が目を引きました。
国立科学博物館の篠田謙一副館長による講演「DNAが語る青谷の弥生人」の概要を以下に紹介します。
最近盛んにおこなわれるようになった古代人骨のDNA分析ですが、その分析対象には、母系を示すミトコンドリア、
父系を示すY染色体、全遺伝子の交配度合いを示す核ゲノムの三種類があります。分析の難しさもこの順に高くなります。
(1)ミトコンドリア
昨年11月の時点で既に公表されていますが、この遺跡の人骨から確認された29の母系系統のうち、
縄文人固有の母系を示すハプロタイプはM7aの1系統のみであり、残りはすべて弥生時代になってから大陸から渡来した渡来人に固有の母系系統系統であったとのこと。
このことから昨年の時点では、「殺傷痕のあるグループの大半は渡来人で構成され、しかもその構成は多様であり、
外部から青谷に来て短期的に滞在していた可能性が高い人々」と解釈されていました。
(縄文人のミトコンドリアハプロタイプの中で縄文人固有なタイプとしては、N9bが58%、M7aが25%、D4h2が9%、合計で92%。
現代日本人では、縄文人固有のそれはM7aが8%、N9bが2%であり、合計10%。
対して、上寺地遺跡での縄文人固有のミトコンドリアハプロタイプはM7aのみの3%。確かに、上寺地遺跡では、
現代日本人での比率よりもさらに渡来系の比率が多くなっています。 参考:wikipedia「縄文人」)
(2)Y染色体
父系を表すY染色体のハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。
そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1とDタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。
Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、
ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。まだ分析数が少ないので断定的なことは言えませんが、弥生末期になっても縄文的要素が多く残っていた可能性が高くなってきました。

450 :
C1a1が2って親族関係かな
C1a1は謎な遺伝子
クロマニョン系だし

451 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

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452 :
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

453 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

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454 :
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

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455 :
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
しかも同じく中国には7000年前からある竈(=火へんに土)も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

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456 :
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それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

457 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

458 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

459 :
縄文人も弥生人も沿海州から

460 :
なわけあるかい
縄文人=アイヌ

461 :
アイヌ人も大陸から渡ってきたんでしょう

462 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

463 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

464 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

465 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

466 :
津軽のギター弾き 畠山智行
縄文度高め
アイヌみたいなぶっとい耳たぶ
https://pbs.twimg.com/media/D4Rn6KIXkAEnlG6.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EPuo3-FVUAAA5AE.jpg

467 :
朝鮮耳は日本人には見えない
坂口健太郎、SPEEDの島袋寛子、羽生結弦
縄文の血が一滴も入ってない。日本人を騙すのやめろ朝鮮人

https://i1.wp.com/psycho-drama.com/wp-content/uploads/2017/08/sakaguchi-kentaro-profiler.jpg
https://i.daily.jp/gossip/2019/02/20/Images/e_12083393.jpg
http://dingyue.ws.126.net/NaklAEklogx8vMlE0wLAJAOesbiyqwygCwWTvHMuMyH0q1554553566074compressflag.jpg

468 :
A study published in the “Journal for archeological science” by Boulygina et al. 2020 analyzed ancient Koban burials
and found a high number of paternal lineage D1a2a1 which is commonly found among the Ainu people in northern Japan and southeastern Russia.
Another lineage was J2.[7]
https://en.wikipedia.org/wiki/Koban_culture

469 :
>>468
コバン文明の遺跡からアイヌと同じD1a2a1が大量に出たって書いてある

470 :
コバン文明、古代の北・中央コーカサス地方に栄えた文明
縄文人はコーカシアンだった

471 :
>>469
D1a2a1って記号は変わるから
SNP名が知りたい

472 :
オセチア人が追加
D1a2 (M64.1/Page44.1, M55)   Japan(Yamato people、Ryukyuan people、Ainu people), Russia, Ossetia

473 :
>オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。
>主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。
>総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。

474 :
>>471
https://d.radikal.ru/d11/2004/b2/4eef6ec9a952.png
ロシア語で読めない
http://forum.molgen.org/index.php/topic,12663.0.html

475 :
>>474
サンクス

サンプル8番の人骨からBTのSNPとD-M533系SNPとR!bのSNPを検出したという表かな?
.[7]の論文は有料(US$31.5)だから買って読んでないけど、少なくとも縄文は関係なさそう

476 :
Zayukovoの埋葬地から発見されたなかで、レアなミトコンドリアHVをもつ男性の個体があった。
このミトコンドリアは最終氷河期と新石器時代にコーカサス地方からヨーロッパに浸透した。
さらにこの男は、父系の遺伝子も通常とは異なり、Y染色体は東アジアで広くみられるD1a2a1だった。
>Among the burials, the male individual from the burial Zayukovo-3 stands out with a rare HV mitochondrial haplogroup
>that penetrated Europe through the territory of Caucasus after the last Ice Age Maximum (26.5 - 19 thousand years ago)
>and in the Neolithic period (10 - 3 thousand years ago).
>Moreover, this man was different with an unusual genetic origin and the paternal line,
>the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia.

477 :
>>476
470のhttps://d.radikal.ru/d11/2004/b2/4eef6ec9a952.pngにあるSNP「Y14883」はユーラシア・チベット系のD

>the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia.
>東アジアで広くみられるD1a2a1

とは、ISOGG Y-DNA Haplogroup Tree 2018 Version: 13.307 Date: 24 December 2018 による表記で
ユーラシア・チベット系のDを表します
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1y8RwZAbBlJPAnZHC9WenR6gjcH9BjSG7QprLgbgxnoA/edit#gid=437997455
の60行目、1198行目を参照。D1a2a1は最新の2020年版とは異なります
ちなみにYfullのツリーではhttps://www.yfull.com/tree/D-P99/

ISOGGは2019年版を確定しませんでした。そのまま2020年版に引き継がれています
更に、「東アジアで広くみられる」と言っており、日本限定とはしていません

また、470のロシアのフォーラムhttp://forum.molgen.org/index.php/topic,12663.0.htmlでは
普通にチベット(のD)の話題をしていて日本は一言もでてきません
最新のISOGG 2020年版を見ていれば、日本を語るときはアンダマンにも触れるはずです。しかもアンダマンは東アジアではありません

このことから、464の記載はは読み間違えか捏造ではないかと思われます

478 :
ここでも、「現存するD1a2a1-M533がチベット人」と話題になっています(2020年4月19日午前6時29分)
https://eurogenes.blogspot.com/2020/04/corded-ware-cultural-and-genetic.html

479 :
D1a2a1だから日本の縄文人ではないわけか?

480 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

481 :
.

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

482 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

.

483 :
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.

484 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

485 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

486 :
>>479
Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus
Received 21 November 2019, Revised 2 April 2020, Accepted 2 April 2020, Available online 18 April 2020.
この論文が投稿されたのは去年(2019)の11月21日
>ISOGGは2019年版を確定しません
つまり既に確定されているISOGG 2018年版の「D1a2a1」を見るべき
その証拠に、縄文人は全く関係ないので、
この論文が日本では全く話題にならないのです

487 :
Wikipedia の「縄文人」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA
論文を読まない奴が書いてる

>船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した[16]。

この[16]は講演用のレジュメで論文では無い

正式な論文は「Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari
site in Hokkaido, Japan」(Received 18 April 2018; accepted 15 April 2019)であり、
ここに船泊5号(Funadomari Jomon male (F5))のY-DNAハプログループの決定過程が書かれている

The Y chromosome of F5 belonged to haplogroup D1b2
(Supplementary Table 5). F5 had not only two of the eight
D1b2a-specific mutations but also one D1b2b-specific mutation. Mutations characterizing D1b2a subhaplogroups
(D1b2a1 and D1b2a2) were not observed. To clarify the
phylogenetic position of F5 within the D1b2 lineage, we
constructed a maximum likelihood tree using the Y chromosomes of F5 and 1233 modern human males. F5 was located
in haplogroup D1b2 and clustered with NA19004 (a modern
Japanese individual), who belonged to D1b2b (Figure 5).
NA19004 shared some D1b2a-specific mutations with F5,
indicating that some of the SNPs characterizing D1b2a may
be shared between D1b2a and D1b2b. Therefore, we concluded that F5 belonged to D1b2b (Table 2).

>したがって、F5はD1b2bに属していると結論付けました(表2)。

これは
船泊5号のY染色体ハプログループがD-CTS68であることが判明した
ことを意味する

正式な論文を引用していないWikipediaの「縄文人」は間違った記載をしているので注意が必要だ

488 :
謎のC1もクロマニョンだしな

489 :
縄文式土器はロシアにも見られる
どんくらい広く生息していたのか

490 :
>>1
西アジアや東欧的な遺伝的要素を持っていそうな日本人
・毛髪が天パ
・顔が面長
・デコが広い
・唇が厚い
・耳たぶがある
・顎がある
・Eラインが出来ている(ごぼ口ではない)
・髭が濃い
・胸毛がある
・後頭部が出ている
・筋肉質(筋力が強い)
・瞳の色素が薄い
・鼻筋が通っていて鼻が高い(鉤鼻など)
・色が白い(日焼けすれば黒くなる)

典型的な東アジア人(中国・朝鮮)や東南アジア人の遺伝的要素が強い日本人
・毛髪が直毛
・顔が丸顔
・デコが狭い
・唇が薄い
・耳たぶが無い
・顎がない
・ごぼ口(猿口)
・髭が薄いorない
・胸毛が無い
・後頭部が絶壁
・筋肉少ない(筋力が弱い)
・瞳の色素が黒い
・鼻筋が無く鼻が低い(ぺちゃんこ鼻、団子っ鼻など)
・地黒

491 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

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492 :
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縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

493 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

494 :
.

日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

.

495 :
.

気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

.

496 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

497 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

498 :
>>497
夏の勢力範囲や影響範囲なんて中国内で点であるだけだぞ
長江下流域が中華と同化して面になったのは戦国時代以降。
この当たり前の歴史的事実が抜け落ちてるからお前は頓珍漢なんだよ

499 :
夏・商・周まで都市国家で王や候が住む邑の四方数十キロ圏内に
無数に服属してない所謂四夷が蟠踞していた
黄河と長江の間の地域にほんの少し統一的文化が広まったのは
せいぜい2500年前だな。これだって大目にみての話で
中国の文化統一の始まりは楚が滅びた2200年前が妥当だろう。

500 :
Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S009286742030502X
ハイライト
上部旧石器時代のシベリア人はアメリカ大陸の最初の民族との深いつながりを示しています
バイカル湖地域の古代北ユーラシア人の祖先の1万年の連続
新石器時代から青銅器時代への人口形成は、長期にわたる局所的な混合によって発生しました
青銅器時代初期のユーラシア地域におけるヒトとペスト菌の長期移動
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S009286742030502X-fx1_lrg.jpg
論文を読んでないけど、
北方縄文人はバイカル湖を行ったり来たりしてたのかな?

501 :
.

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

502 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

.

503 :
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.

504 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

505 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

506 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

507 :
.



縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社


.

508 :
.



弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。


.

509 :
.



日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。


.

510 :
.



気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。


.

511 :
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

512 :
Hg: C1a分布
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Haplogrupo_C1a_%28ADN-Y%29.png

縄文やっぱり北から来てるだろ

513 :
C1aはクロマニョンに広く見られる

514 :
このルートが正解っぽいな
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/6/68/20200307030717%21Haplogroup_C_%28Y-DNA%29_migration.png

515 :
Oハプロは沿海州

516 :
Oはモンゴル〜満州までで完了してる
中国に入ってから、出戻って朝鮮と日本に拡散したというのは大間違い

517 :
その説は誰の?
Oといっても漢民族のOとO1b2は違うぞ
遼河文明が北方のNのみだったが次に発達してきたのがO1b2(付与、沃沮系)

518 :
>>517
この図↓のO-M134とO1b2のルートな

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png

これらのルートは大間違い
まず縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関わる生活痕遺構がない
全く考古立証できないし、全く考古整合していない
2億%間違いである

519 :
沿海州が沃沮で中国の史書どおりなら
O1b2は奴隷にされてただけだし、鉄器を持った漢民族に支配受けてた
で渡来人に漢民族のOが交じる
鉄器も持ってきてないし、ましてや中国文化なんて持ってなかった

520 :
>>519
クルクルパー?

沿海州はユウロウだし、ユウロウはポリツェ文化で鉄器時代だぞ


>で渡来人に漢民族のOが交じる


おまえ池沼だろ

渡来人が渡来した縄文晩期はユウロウが出てくる三国志が書かれた時代から
1300年くらい前のBC11Cだぞ

漢民族なんかいる訳ないだろ

O-M134とO1b2のルートは2億%間違ってるし、デタラメです!

521 :
億様・株レシピが噂通りによく当たる。
自分も見事に株式で億万長者になれたし。

522 :
>>520
箕子朝鮮の時代だろ
東夷諸国はモロ中国の支配下だぞ
で、ポリツェ文化(鉄器時代)
支配層が漢民族ってことだ
そしてその名残からか東夷って民族はまとめられてる感がある
つまり沃沮、扶余、高句麗系の民族に近いのが原住民としてあって、それらを漢民族が支配していた
で、日本語=高句麗語の類似(これを調べろ)

523 :
ユウロウは文化面でみても農耕民族とは程遠い
人類は農耕で増え広がったんだから、農耕を受け入れた民族と土地でなければいけない
三国志東夷伝で農耕を主体としてやってる民族を見ろ

524 :
>>522
で、ユウロウことポリツェ文化の支配層が漢民族という証拠は?

華南マライフルブタチーノのおまえ

525 :
>>524
ポリツェ文化の支配層が日本に来て紀元前3世紀ごろまで交流してたなら鉄器伝えてるだろう
伝わってないってことは奴隷とかが来たんだろう
漢語が伝わらずに高句麗=扶余=沃沮語系が入ってる
そしてツングースのC2が本土人はアイヌ程度にも入ってない、朝鮮半島(李氏朝鮮、満州系に支配うけた)より少ない
O1b2の扶余系と漢民族のOしか入ってきてない(被支配層でもRされればYDNAには入る)

漢民族に支配うけたってのは中国史書に書かれてることだ
その時期(箕子朝鮮の時代)に鉄器持ってたのは東方では漢民族だけ

526 :
日本が金だして考古学調査させたらいいのに
人骨のYDNA調べれば即座にわかるだろ
アイヌ以外の日本に来てないツングースのC2が大量に出てくるだろうか?

527 :
>>525
バーカ

ポリツェ文化はBC2〜3C頃に始まるのに、どうしてBC3Cまで交流できるんだよカス

縄文末に出雲地方に刻目突帯文土器人が渡来したのはその7〜800年前の
シニ・ガイ文化時代末からヤンコフスキー文化時代初め頃だぞ

青銅器時代や鉄器時代だと言っても、どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、
鍛冶職人なんか百人に一人もいないだろ

渡来人のクルーに鍛冶職人がいる確率なんて数%もないはずだ

それに遺伝子の頻度なんて関係ない

移動した場所に適せば増え、適さねば減って、姉妹にゃ消滅するだけ

それに漢民族のOなんてものもない

縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる生活痕遺構が
全くない

O-M134とO1b2のルートは完全に間違い

528 :
朝鮮人との混血
以上

529 :
ポリツェ文化= 挹婁
立派な鉄器文化

530 :
>>527
間違えた
ポリツェ文化というのは前1000年記か
でもヤンコフスキー文化というのも鉄器時代で沿海州はかなり古い鉄器文化を持つ
>どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、鍛冶職人なんか
職人というより、製法の知識自体をもれないようにしてたんじゃね
「どこにでもある赤い土で作れる」なんてことも漏らさないようにしてた
それが知られるようになったのが弥生時代の倭国が半島南部に遠征に行ってた時期なのか

531 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO2_(Y染色体)
これは明らかに漢民族、シナチベット語族のOだろ
下位系統がチベットにあるし
チベットあたりにルーツがあって、中央アジアからの農耕の広がりによって爆発的に広がった

532 :
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


.

533 :
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。


.

534 :
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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535 :
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

536 :
.

(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

.

537 :
.

それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

538 :
.

最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋

.

539 :
.

縄文晩期から弥生?期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生?期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生?期末〜?期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘?金属器登場 岩永省三 講談社

.

540 :
.

弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。

.

541 :
ツングースではないからな
ツングース語が入ってきてない

542 :
ところでこれはいつもゆうとることだが
自称愛国者ネトウヨちんたちといった自称ナチュラルビューティーの
髭も鼻毛の(あるならばw)髪も常時のばし放題の
ホームレスみたよなおっさんども、いるよな?
なぜか風呂とかやたら嫌ってる一団なw

あいつら、なんか2ちょんのそこらのスレ見ると
装身具とかアクセサリーの類を極端に嫌っていて
そういうのをつけない女こそが大和撫子の清純派とか、
実に外見通りのキモいことをいっては()日がなホルホルしているがw
あの、日本列島に1万年暮らしていた日本列島原住民、
縄文人ってこれ、ガチで「デコる文化」だったからねw
アクセサリーとかタトゥーとか大好きなんだよ。
飯が手に入らなければ明日の命もあやうい時代だったのにね。

そういうまさに原始人同然の文字文明以前のただなかにいながら
高い審美眼と装飾性をもっていた縄文人たちの文化(食器に縄模様付けるくらいだぜ)、
これは自称日本文化の体現者たるネトウヨくんたちには継承されてないねえwww
そりゃそうかw ネトウヨくんは全員、偉大なる大韓半島からやってきた
渡来弥生人の子孫だからねw 真の日本人たる縄文人のパトスは、息づいてないかwww

543 :
>>541
言語とかコロコロ変わるし形質が満州人そのものやん
女真族の皇族とか長州藩士みたいなのばっか

544 :
満州人といっても、渤海あたりからまじりあってるからな
中国北東部の遺伝子に日本人との類似、重なりがあったとされるが、O1b2系(扶余、高句麗系)のことだろう

545 :
とりあえずロシアにほらせんといかん
沃沮なら結構大きい城、城壁がでてくるはず
玄菟郡の最初の居城があったからな

546 :
当時の沿海州の支配者層が日本にやってきてたなら、鉄も持ってるし縄文人に負けるなんてまずありえない
しかし現実は日本人の3割から半数が縄文系のYDNA
渡来人が女を差し出して住まわせてもらっていたということだよ
亡命者にすぎんだろ

547 :
本土で縄文YDNAが50%行く地域はないよ

548 :
>>546
>>渡来人が女を差し出して
毎度お馴染みのレスで同一人物だとわかるが
D1,O1,O2で3:3:2になるのは世界と比べたら偏りが少ない
大した支配者がいなかったことの証明にしかならんでしょ

549 :
>>546
沿海州から来たのは、女だけの部族
縄文男だけ拝借して、縄文女は切って捨てた。
だからDハプロが残ったんだよ

550 :
>>548
あとクロマニョン亜型のC1a2もいるよ

551 :
>>548
形質的遺伝子的にも渡来人が9割だと言われる
そんな中で縄文人のYDNAが半数近い
どう考える?

552 :
弥生集落に入った縄文男は生き残り
それ以外は絶滅したというだけの話

553 :
モンゴロイドの起源ってC2とOどっちだ
このブサイクなダウン症民族どうやって発生した

554 :
>>553
ust ishim manがルーツ

555 :
>>552
渡来弥生人のほとんどが女

556 :
蝦夷・俘囚・アイヌについてかなり詳しく書かれた文献


本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html

武士を夷ということの考 喜田貞吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49259_50560.html

「ケット」と「マット」 喜田貞吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49804_44333.html

日本語とアイヌ語の関係 マタギという言葉の存在について 知里真志保
https://www.aozora.gr.jp/cards/001540/files/53894_57075.html

557 :
>「えびす」とはいうまでもなく古史に見ゆる蝦夷、すなわち今日北海道になお約二万の遺?を存するアイヌ族のことなり。
>その住所東方にあるがゆえに、あるいはこれを東夷という。
>解すのものは曰く、東国はもと夷の地なり。ゆえにその地に起れる武家政府を賤みて、東夷と称するなりと。

>この津軽外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。
>そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。
>これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、
>その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、
>その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。
>しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、
>極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。

>国家の懐柔政策は、なるべく蝦夷を内地諸国に移して、日本民族に同化融合せしめるにありました。
>したがって日本国中到る所、蝦夷の血の行き渡っておらぬ地方はありません。
>日本各地の住民は、石器時代以来の先住土人の血を保存しているばかりでなく、
>歴史時代において奥羽から移住した蝦夷の血を、多量に交えているのであります。したがって日本人には毛深いものが多い。
>東洋のあらゆる諸民族、また南洋のマライ族にしましても、頬鬚の生えているものは殆どありません。
>ただ蝦夷やアイヌのみは、毛人と言われた程に毛深いのを以て特徴としておりますが、
>日本人に相当鬚の濃いものの多いのは、この蝦夷の血を交えている一つの証拠となりましょう。
>私の如き四国に生れましたものでも、相当頬鬚が生えております。私のこの放送を聞いておって下さる方々の中にも、
>定めてお鬚の多いお方が少からぬ事と存じます。そして私は、これを以て、私ども日本民族の誇りと致したいのであります。

558 :
夏目雅子、井川遥、安田成美、小雪、小西真奈美
この辺もしかして全員在日だったのか?
朝鮮貴族系な感じの人達
ずっと騙されてたんだろうか?

559 :
.



日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。


.

560 :
.



気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。


.

561 :
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

562 :
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


.

563 :
.



◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。


.

564 :
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.

565 :
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

566 :
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至ってはそこからさらに数百年も待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
 

.

567 :
.



それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋


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568 :
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最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋


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569 :
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縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。

歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社


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570 :
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弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。


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571 :
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日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。


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572 :
【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1592808604/

573 :
【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵★2[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1592828138/

574 :
>>572-573
だったら弥生遺構は在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構だらけの
はずだろうが

ところが弥生遺構には在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構が
数ヶ所しかないんだよ

しかも、その在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構の朝鮮系土器も
オリジナルの朝鮮土器とはかなり違っていて、明らかに作り手が弥生人自身だと
分かるコピー土器で、弥生時代を通して日本には朝鮮半島人が渡来定着した
生活痕遺構だと断言できる遺構はない

渡来人が渡来定着した生活痕遺構だと断言できる弥生遺構は縄文末から弥生早期に
かけて西日本中を席巻した刻目突帯文土器遺構で、その土器の故郷は
朝鮮半島ではなく、沿海州南部である

渡来人は沿海州南部の人々であって朝鮮半島の人々ではないのだ

その土器の顔も沿海州南部から渡来した渡来人の子孫の顔であって、
朝鮮半島とは何も関係がない人の顔なのである

575 :
>>574
温帯ジャポニカ種籾と水稲技術の伝播が問題だな

576 :
>>575
菜畑で稲作が始まるのは日本に刻目突帯文土器が登場してから50年以上も後の事だぞ

つまり渡来人の子孫の時代になってから朝鮮半島から稲作を取り入れただけの話

朝鮮半島からもわずかに熱帯ジャポニカが出土してくるから、当時は熱帯ジャポニカの
割合が高かった事が予想されるがな

577 :
>>576
その沿海州南部出身の稲作朝鮮半島人が問題なのだよ
そいつは何民族なのか?
どこから種籾と水稲技術を習得したのか?
で結局、
【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵★2[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1592828138/
となるしかなくなる

578 :
鉄器は渡来人初期には入ってこなかった
渡来人は製法も知識もなかった
稲作は別ルートだろう
陸稲がまずあったんだ

579 :
>>577
おまえ頭に蛆が湧いてねえか?

沿海州南部から出雲地方に渡来した渡来1世も、菜畑遺跡の朝鮮南部から稲作を
取り入れたその渡来人の子孫も、一つたりとも在地産の朝鮮系土器を作ってないぞ

彼らが作っていたのは首尾一貫して沿海州南部にルーツがある刻目突帯文土器だけだ

ビビンバ人の脳内願望、脳内マスターベーションには笑いが止まらねえなwwww

580 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
>2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯
>ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に
>存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a?hの8種類があり、
>RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、
>RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、
>RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本
>が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝
>播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し[44]、日本育種学会の追試で再現が確認された[45][46]。

稲作もYDNAやコロナみたいに遺伝子で追跡するのが主流
半島の米は日本から植民地時代に持ち込まれたもの

581 :
エセ科学で馬鹿を詐欺るのが主流なwwww

◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

.

582 :
>>581
今の稲でいいやん

583 :2020/06/24
イザベラ・バードの記録にもあるが併合以前の朝鮮はまともに稲作もされてなかった
主食はコーリャン
寒冷地すぎて育たないらしい
で、日本の寒冷地で育つ米を持っていって南部で育てさせた
そんな土地

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