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1 :2013/10/24 〜 最終レス :2020/02/13
日本庭園を見るなら、どの季節、どこがおすすめ?
お気に入りの庭は、どこですか?
各地の日本庭園の魅力を語り合いましょう。

2 :
乙、以前スレがあたような気がする

3 :
ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…欧味
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…三和
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…鬼作堂

4 :
このスレが立てられたいきさつがくだらない理由。

5 :
日本三名園は六義園、兼六園、栗林公園だな。

6 :
金津園は?

7 :
岐阜なら犬山の有楽苑だな。
国宝の如庵もあるし。

8 :
広島縮景園のホームページの横長画像はずるい

9 :
早稲田の甘泉園

10 :
>>7
犬山は愛知…
犬山城に二回行ったのに
まだ行ってないわ如庵。
明治村にも行ってみたいが、
少し離れているんだっけ?

11 :
これから紅葉の季節だから京都の庭園がイイね。
東福寺、永観堂のような有名どころより高桐院、円光寺のような小さい寺院の庭が良い。
それでもこの季節は混雑するけど。

12 :
>>11
京都の混み具合知ってるのか?
隣の大津にも多くの名庭があるのは知ってるのか?

13 :
和歌山の養翠園は、池の水が海水で萎えた

14 :
小堀遠州の作と伝えられる庭園
岡山県高梁市頼久寺庭園は遠州の作風ではない感じがする
作ったとされる古文書も出てこない(遠州の古文書は多いにもかかわらず)

15 :
城郭のような寺だよね

16 :
紅葉の季節はどこも混むよな

17 :
都心だと殿ヶ谷戸庭園がイイね。

18 :
岡山の後楽園が1だったな
あとは熊本の水前寺公園

19 :
鹿児島の磯庭園がいいな
桜島借景は反則だ

20 :
大名庭園ファンですな

21 :
あそこは山の岩に字が彫られているのがカッコいいな。

22 :
岡山後楽園は周囲に竹を植えてビルを遮断してるからよいな
浜離宮とか縮景園とかはダメすぎる

23 :
権力者である大名が庭園で優雅を楽しむのはわかるけど、
寺院に立派な庭園があると、なんのため?と思ってしまう。

24 :
今度、偕楽園に行くのですが
梅以外でどこが見所ですか?
撮影スポットなどを教えて頂けないでしょうか?

25 :
見所は好文亭だけ
千波湖が見える辺りが撮影スポットかな
続きは↓

26 :
すぐ横を常磐線が走ってる所。

27 :
>>22
都市の庭園に行くからそうなる
田舎にも名庭はある

28 :
庭園のパンフレットやHPは、どこも似たような説明文しかない
しかも数十年同じ文で、しっかり説明出来る人材はいないのか

29 :
池が動いたり、木が急に伸びたり、
庭園は変化するものなのか?

30 :
歴史的なことは新たに分かったりするだろうな

31 :
庭園は30年も経つと植栽が大変貌する
山口市の雪舟庭は石の周りに植えてあった樹木を取り払った
まあ、雪舟が庭を作ったという証拠は無いのだが

32 :
>>23
大名が力を誇示するために援助した

33 :
足立美術館は素晴らしかった。
それから、東福寺。三鈴の庭園がいいね。
金沢の野村家庭園もよかった。

34 :
>>24
千波湖に水戸黄門の銅像があるよ

35 :
大津市坂本の里坊群に行くといい

36 :
石垣の街並みが素晴らし過ぎて、
寺院の庭の魅力が薄れてるじゃん
鳥よけが邪魔だし

37 :
>>36
石垣が立派なことがマイナスになるのか?

38 :
ブログで「石垣」を検索していたら
職人肌の社長が、城の石垣の一部を赤色で囲って「ここがダメ」と書いていた
石垣の石組みが全部合格という城はなかなか無い

39 :
城の石垣の技術って17世紀中ごろが全盛期で、
それ以降のは現在の修理も含めて劣ると
三浦正幸の城本に書いてあったような。

40 :
浜松市の龍潭寺。
庭園は小堀遠州の作。

41 :
>>40
小堀遠州は、江戸初期を代表する建築設計家で有能な官吏でもありました
世間では茶道と庭園のほうで有名なようです
龍潭寺庭園が小堀遠州の作庭とする確かな証拠が無いと「小堀遠州作と伝えられている」庭です
庭園全体の雰囲気が江戸中期以後で、しかも心字池が横に長すぎて江戸後期の特徴です
しかし、これらは後世の修正が下手で悪くなったことも庭園や古建築にはよくあります
江戸初期、作庭当時の古文書か設計図があればよいのですが

42 :
なんか遠州好みの庭は多い気がする。

43 :
古い庭園は、遠州作とすれば世間の受けが良い
それくらい庭園研究家は少なく、遠州作と聞けば偽物と思ってよい
某お屋敷の庭に下手な遠州燈籠があり、教育委員会の先生は「この庭は小堀遠州作」

44 :
遠州作と付け加えなくても、それらは良い庭
雪舟の履歴がわかるのは、明から帰国後でそれ以前は伝説の多い人
遠州は大阪の陣以後、徳川政権になって小大名でありながら
産業振興(製鉄、製紙)で手腕を発揮、有能な若手大名として登用された
高度な技術集団(土木建築)を持っていたと思われる

45 :
>>33
金沢の野村家庭園みたいな狭い中に凝縮されている庭園もいいですね。
京都大徳寺の大仙院もいいですけど、あそこは写真撮影禁止のため、雑誌などでしか見られないですね。

46 :
大徳寺なら高桐院が好きだな。
誰が造ったとか関係なく素晴らしい庭だ。

47 :
福岡は清水寺の本坊庭園がええよ〜
庭園というよりあの山全体がええんよ
あまり知られてないから観光地化してないし、かといってさびれもしてなく、市民の憩いの場になってるまったりとした空間
山頂からの眺めも最高だ
たださすがに紅葉の時期はゆっくりまったり庭園をながめられんね
ttp://www.e-kiyomizu.or.jp/

48 :
金沢では、野村家よりも、松風かく、がよい。

49 :
和歌山の粉河寺行ってきた。本堂前の庭園は独特の世界で面白かった。
本当は根来寺に行きたかったんだけど交通の便が悪くて断念した。

50 :
粉河寺と根来寺は、僧兵の総本山、というイメージだな
実際は延暦寺や興福寺がすごかったんだろうけどね
その2つの寺、行ってみたいんだよなあ

51 :
京都都ホテルの庭園もいいよ

52 :
たまたま見つけたブログ紹介「岡山太陽のそばの果樹園」
果樹園の経営の傍ら造園業もやっていて庭園の紹介ページがある

53 :
2年続けて都内で庭園の雪化粧を見られるとは

54 :
>>53
その手があったか。
うかつだった。

55 :
また週末降るから大丈夫。

56 :
湿った重い雪だから
北国の雪の庭園風景とはちょっと違うが、まあいいか
バッテリー3個充電中

57 :
水口の大池寺に行って来た
頼久寺みたいなのをイメージしていたが狭苦い感じで今一
冬季で縁側がガラス戸で密閉(!)されていたせいかな

58 :
今日の雪は、植木や燈籠にわずかしか積もらず撮影はやめた
そのかわり、急いで河川に行き足跡のない木の橋を撮れた

59 :
古い庭園は夢窓疎石作とすれば世間の受けが良い

60 :
>>59
で江戸初期は遠州作と。

61 :
岩がごろごろしてるのは雪舟作だな。

62 :
虎渓山永保寺って庭も良いけど観音堂や開山堂も
庭にマッチして良いね

63 :
現代庭園は、重森三鈴作となる

64 :
>>63
正しくは、重森三玲でした

65 :
>>13
海水だと何故萎えるの?

66 :
米国の日本庭園専門誌による足立美術館の11年連続日本一って
ノンノの好きな男ランキングでの15年連続1位みたい
一体どんな選定基準なのかな

67 :
アングロサクソン系は際立った刈込が好み
戦闘的挑戦的な絵画が好み
日本芸術の朦朧とした湿潤さは理解できない
哀しいのは、さすがアメリカが選んだNo1の庭だとブログで誉める人
自分の眼で見た感想を書け

68 :
国宝の概念を伝え、日本美術の素晴らしさを日本人に説いたフェノロサは何国人でしたか?

69 :
フェノロサは、狩野芳崖などの勢いがある画風が好きだった
当時の日本画壇は着物の柄のような絵が良しとされていた時代
フェノロサ来日以来、絵画のみならず日本刀まで各流派の創業者の勢いある芸術が見直された
また正確な日本地図を作ろうと測量を始めたが、伊能忠敬の地図の正確さに驚いて中止
そのフェノロサも日本庭園までは見尽くしてない

70 :
ノンノは噓臭くなって企画そのものを止めるしかなかったんだろな
ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニングもどう始末を付けるのかね
でも権威有る雑誌でなく同人誌みたいなものなら他人の目は気にならないか
だから限られた雑誌製作者が知っている限られた庭だけがずっとランクイン

71 :
多賀町の胡宮神社行って来たが社務所(?)の屋根が傷んでいる
とかで周囲にロープが張られ入れなかった
ちょい荒れ気味の庭で凄くそそられたんだが残念…
それにしても屋根が傷んでいるどころか後5年もしたら建物が
倒壊しそうなんだけど大丈夫かな

72 :
その後に行った多賀大社は冬季閉園で2月一杯迄見られないとの事
正規料金払うから遠くからチラ見でも良いからと掛け合うも
庭は奥書院の向こうで書院自体に入れないのでと丁寧に断られた
こんな経験初めてと半泣きで糸切り餅食べて帰ったよ

73 :
このランキング違和感有るわ
ホテル・旅館の庭がやたら多いのは何故
http://gardenrankings.com/

74 :
足立さん的にも連続1位には正直困惑だろな
落ちるしか無いし何となくいい加減なランキングと思われ始めているし
1位から5位とかの間を上がったり下がったりするのが無難だね

75 :
長浜の慶雲館に行ってきた
植治作だけど自分的には今一つだった
しかし盆梅展はどうしても猪木が思い浮かぶわ

76 :
>>67-69
フェノロサの好みは分からないけど、欧米人には理解できないって決めつけはおかしいよ。

77 :
>>76
日本人とアングロサクソン系の好みの違いですよ
狩猟民族は挑戦的なのを好みます

78 :
鳥居坂の国際文化会館(元の岩崎小弥太邸)も植治だね

79 :
10年位前に奈良の慈光院に行ったが借景がただただ無残だった
今はもっとひどいんだろな

80 :
慈光院は刈込の向こうに中途半端な民家が一杯有るのが絶望的にきつい
何か初めて蓮コラを見た時の様な感覚だった
浜離宮や小石川後楽園の奥に高層ビルやドームが見えるとかの方がまだ
ましだと思ったわ

81 :
金沢城の一角で江戸時代の庭園を復元中。
北陸新幹線開通までには完成するとのこと。

82 :
竜安寺のように塀で借景を遮るという手段もあるが
あの当時は、民家が見えても風情があっただろう
庭園の観光パンフレットには、一律に○○山を借景としてと書いてあるのが多いが
良い庭園は、○○山の借景など無くても良い

83 :
円通寺は別に比叡山が見えなくてもいいな。

84 :
紅葉あるときはまだしも、それ以外のときは叡山ないと単調じゃね。
まぁ、叡山みえる個所だけ覗き穴みたいになってて他樹木で覆ってるから
そう言いたくなるのもわかる。

85 :
わざと「借景に○○山」と付け足したようなパンフレットもある
庭園の見どころから、その山を見るには無理な庭

86 :
鹿児島の磯庭園なんか、桜島が借景だぞ

87 :
東京の庭園は高層ビルが借景だ
その醜さが売りとなっている
小石川植物園なんかいい風景だぞ、汚い住宅の2階部分が壁の上から丸見えで(^^)

88 :
ドーム借景は個人的には嫌いではない

89 :
小石川植物園と小石川後楽園の区別ができない、とかね

90 :
後楽園の園名は小石川も岡山のも「先憂後楽」から取ったのに
前者は江戸、後者は明治からの呼び名
普通は後から付けた方が区別の為に頭に地名とか入れるのに
何故小石川が付けなくちゃいけないのかな

91 :
でも皇居の周囲に高層ビルおっ立てるってどういう神経してるんだろう
戦前だったら不敬罪で投獄されないか?

92 :
戦後何十年経ってるんだよw

93 :
明治時代の写真見るといいよな見渡す限り瓦屋根で、もちろん二階屋止まり。
今見たく高さも形も色も不揃いな高層ビルがぼつぼつと生えてる風景と違って。
汐見坂とか富士見坂とかの命名も納得出来るわ

94 :
占春園はかつて江戸三名園の一つとされたらしいけど
今の姿からはとても想像が付かないわ
もうちょっと整備して見栄え良くしてくれないかな

95 :
戸山荘も池の跡が窪んでいるとか案外地形が残っているし
いつかアパートや早稲田を全撤去して復元して欲しいな

96 :
当地には旧家の良い庭があるが、庭を11月に剪定するから
ツツジの花芽も剪定されて、いいツツジだが花が貧相でもったいない

97 :
戸山荘は早大敷地で龍門の瀧の遺構が発掘されたのに結局撤去
されたのが残念
一部石材を使って徳川園で再現させたけど所詮はイミテーション

98 :
京都に行ってきたけど、やっぱり京都は特別だな。
庭のレベルが高いわ。
実光院
http://i.imgur.com/KHuEKP6.jpg
圓光寺
http://i.imgur.com/tc10L17.jpg
高桐院
http://i.imgur.com/t3aPwwT.jpg

99 :
そらそーだ
アメリカ人に、日本の庭ベスト10など勝手に発表してほしくない

100 :
奈良の依水園に行ってみたい

101 :
>>98
京都は写真映えする寺が多いね

102 :
南禅院は実に結構な庭だった
但し庭の説明をテープ(?)で流すのは本当止めて欲しいわ

103 :
庭園という芸術作品に、他人の説明はいらぬお節介だ
日本最高の庭園に、虎の子渡しなどという説明は止めてもらえないか

104 :
京東山別荘群、すべて庭園に自由に入れたらいいんだが、そうすると
マナーの悪い観光客が増えて折角の庭園がゴミだらけになるのか

105 :
去年、檀家しか行かないような小さな寺の藤が新聞で紹介されたんだけどさ。
団体が勝手にやってきて、ベンチとかもないのに弁当食ったり、騒いだりで
今年は部外者お断りになちゃったよ

106 :
>>105
それどこの寺や?

107 :
名古屋城二の丸庭園はもう少し整備して欲しいな
ありゃただの荒れ庭だわ
雰囲気有る荒れ庭は嫌いじゃないけど

108 :
NHKで「京都迎賓館」を今日で3度見た
あの庭を見てみたい、灯籠を引き受けた西村金造の作品なども

109 :
名古屋なら御深井庭を復元希望
絵図も結構残っているし慶勝さん撮影の写真もそこそこ有る

110 :
南禅寺は後ろが山なのが良いね
宜しくないのが天龍寺でお堂の横迄駐車場にしている
幾ら庭が良くてもあれは雰囲気台無し

111 :
月の桂には敵わないな

112 :
>>98
作られた感が強すぎて好きじゃない

113 :
京都(あるいは大阪)が首都になってたならこの東京にも大名庭園が数多く残っていたんだろうね
空襲被害はそれなりに有っただろうけど
日本橋に高速道路の醜さもなかったし掘割も残って水の街の景観が保てた

114 :
江戸にも大名庭園は数多くあったはずだが、
六義園が残ったのはなぜだろう?

115 :
参勤交代がなければ大名庭園も屋敷もなかったのか
江戸の町民も迷惑だったろうね、あんなのが無ければもっと広々とした家で暮らせたのに

116 :
大名が残らず在国してたら、
江戸にカネが落ちないだろ

117 :
街道も栄えないよね

118 :
寺で仏像や障壁画の撮影禁止なのは解るけど
庭が駄目な所が有るのは何故かな
三宝院とか

119 :
三脚立てて長時間占拠する馬鹿がいるから

120 :
先週末特別公開している芳春院に行った時に撮影禁止と知らず
寺の人の真ん前で堂々と撮ってしまったが何も言われなかった
ぱっと撮って終えちゃったから大目に見て貰えたのかな

121 :
連休中、楽山園に行ってみた。
冬季の閉園時間が16時で、15時30分までに入園しないと見学できない。
それを知らずに僕は15時40分に行って、チケット売り場に人がいたのでダメ元で交渉して入れてもらった。
平成以降に復原された庭で、特に見るべき物はなかったが、築山の上に茶室があって、まだ数人の客がいるのに管理人がガタガタ雨戸を閉め始めていたので急いで見に行ったら、まだ15時45分なのに「もう暗くなるんで」とぶっきらぼうに言われた。

122 :
撮影禁止はまあなんとなく分かるんだが、撮影禁止の立て看板や貼り紙なんかは
なるべく無くしてもらいたいよ、外人観光客はなんと思ってるだろうね
たとえば教会にそんな貼り紙や犬のおしっこ禁止だとかの看板が立ってたら

123 :
大徳寺孤篷庵が10月に特別公開していたのを今になって知った
特別公開は11月以降にするものと勝手に思い込み全くチェックして
いなかったわ…

124 :
きのう名主の滝行ったんだが、藥師門(裏門?)にさっそく「自転車進入禁止」
「犬の散?禁止」の立て看板が。せっかく苔むした石があったり風情があるミニ庭園のある門だったのに
で、表門に行くと自転車がビッシリで。自転車置場くらい敷地内につくれよと。立派な門が台無し、紅葉が綺麗だったのにね

125 :
歩の字がどういうわけか?に変換されてる、2チャンは日本語変換になに使ってるんだ?

126 :
1日・2日NHKの南禅寺界隈の庭の番組は對龍山荘ばかりだった
碧雲荘や有芳園もやって欲しかったな

127 :
南禅寺の水路も完成した当時は、不釣り合いな建造物だったろうな

128 :
誰がどんな選考基準で投票しているのか細かく説明して欲しいね
http://gardenrankings.com/
【2014年日本庭園ランキング】上位15位
1位 足立美術館(島根県)
2位  桂離宮(京都府)
3位  山本亭(東京都)
4位  御所西 京都平安ホテル(京都府)
5位  養浩館庭園(福井県)
6位  依水園(奈良県)
7位  無鄰菴(京都府)
8位 佳翠園皆美(島根県)
9位  栗林公園(香川県)
10位 庭園の宿 石亭(広島県)
11位 皆美館(島根県)
12位 大濠公園(福岡県)
13位 玉堂美術館(東京都)
14位 二条城 二の丸庭園(京都府)
15位 頼久寺(岡山県)
16位 松田屋旅館(山口県)
17位 白河院(京都府)
18位 武家屋敷跡・野村家(石川県)
19位 湯の助の宿 長楽園(島根県)
20位 詩仙堂(京都府)

129 :
龍安寺とか外国人が好きそうなイメージだけど
「世界各国の専門家」の評価は低いのかね

130 :
海外の評価は写真ベースでなされるのが多いから回遊式は不利ってのはよく聞くな

131 :
発行部数の少ない無名出版社が勝手に順位を決めているだけで、知識は無い

132 :
金沢の兼六園行ってきた。あの広さで、完璧に手入れがされてることに驚嘆。残念ながら雪景色は見れなかったけど、
松の一本1本に雪吊がかけられて、樹への愛情が感じられた。
開園直後だったので清々しい気分で歩けたけど、新幹線開通したらどうなるか、ちょっと心配。

133 :
日本庭園はどこも維持費が大変らしいね
京都東山の日本庭園群(別荘)なんかもどうなるか

134 :
>>133
固定資産税もかかり、時代時代で所有者が変遷する
今は、宗教団体が所有する傾向にある

135 :
期待せずに行った渉成園が思いの外良かった

136 :
池の外に貧乏そうなビルが見えるのが残念だよな。

137 :
その点 浜離宮は立派なビルが見えるね

138 :
>>128
足立美術館が1位という時点でもーね
あんなん何処が良いんだか・・・価値観はそれぞれだが

139 :
12位って大濠公園そのもの? それとも大濠公園に
有る有料の日本庭園の事?

140 :
アングロサクソン系の好みは、イギリス庭園のように見てはっきりとわかる物
気に入られるように日本庭園を改造したら、目も当てられなくなる

141 :
ミスワールドとかの日本代表には「?」と思う事が多いけど
あれって欧米人の美的感覚を意識して選んでいるのかな
このランキングもそんな感じ?

142 :
欧米というより、アメリカのSukiya Living Magazineとかいうところが勝手にしおさいプロジェクトを作ってるだけっぽいからなあ
プロジェクト参加者の二人以上が点をつけたところみたいだし、足立美術館は特定少数が高得点をつけて、他に誰もいかないから点が下がらないんではないか
外国評価ならTripadvisorとかの方が余程客観性あるように思う

143 :
選考システムの胡散臭さがよりクローズアップされたら
足立も傷を負うな
足立はそろそろランキングをPR材料に使わず一切無視
する方向に舵を切った方が良いと思う

144 :
好みは人それぞれだし怪しげな団体が訳の判らない選考を
しても全然OK
わざわざそんなものを引張り出してきて自己の権威付けに
利用する方があれなんじゃないかな

145 :
金沢城玉泉院丸庭園が3月7日に開園だね
短冊積石垣が気になるわ

146 :
円覚寺に久し振りに行ったら妙香池が江戸初期の姿に復元
したらしく木々が取り払われたりして随分すっきりしていた

147 :
鎌倉だと瑞泉寺が良いなあ
夢窓疎石だっけ

148 :
龍安寺の石庭の謎が気になる部 作者は誰か 意図は? 虎の子渡しの庭 七五三の庭 心の字を配石…
http://fox.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1426417825/

149 :
小堀遠州の名前がどこでも出てくる、どこまで信用したらいいもんか

150 :
夢窓疎石、雪舟、小堀遠州はどれも信用できない。

151 :
大徳寺、公開している塔頭は少ないけれど、
人が少なめなので、ぼーっと庭を眺めに年1回くらい行く。

152 :
雪舟が庭園をつくったという信用できる資料は無い
遠州は、若い頃は元気のいい官僚で
備中の鉄と和紙を増産させ、せっせと江戸へ運んで幕府の点数を稼いだ
庭園など作庭する余裕は無いはず
幕府の作事奉行となってから建築と作庭を始めたが、有能な棟梁と庭師がいたらしい
夢窓疎石は、まったくわからん

153 :
小川治兵衛作と伝わっている庭にも怪しいのが結構有るよね

154 :
小川治兵衛作、小さな庭は下手なようだが
怪しい贋作だろうか(ブラックに近いグレー)

155 :
しおさいランキング23/50行ったことあったわ
ホテルやレストランが多いのは賄賂渡してるのかな?って勘繰りたくなる

156 :
養翠園に行って来た
前の時はぱっとしない庭と思ったけど久し振り行ったらなかなか良いな
惜しむらくは交通が不便な所で自分も奮発して紀三井寺駅からタクシー
使ったわ

157 :
>>156
近くにある温山荘園もなかなか良いよ

158 :
養翠園って西湖堤が有るね
他って小石川後楽園・芝離宮以外で有るのかな

159 :
縮景園

160 :
日本三名園に偕楽園が入る謎

161 :
それより優れた栗林公園

162 :
確かに栗林公園は栗林園に改名して三名園に入れる価値あり

163 :
昨日の日曜美術館は重森三玲だったけどミュージシャンや
作家が好き勝手に庭を批評してばかりで今一だった
でも三玲ちゃんの喋っている映像は初めて見たわ

164 :
今まで見た庭園の中では
管理されてるって意味では桂離宮
自然と融合してるって意味では西芳寺
が素晴らしく良かった
九州なら太宰府の光明禅寺がいい
愛知でオススメある?

165 :
無い

166 :
>>164
愛知はない
浜松のりょうたんじがいいよ

167 :
名古屋城二の丸庭園のさびれっぷりは凄い

168 :
愛知は徳川庭園とかは?
それか新しいけど白鳥庭園とか

169 :
徳川園に行ったら結婚式の写真撮るグループばかりで嫌になった

170 :
徳川園は俺が行った時も結婚式してたなw

171 :
名古屋城の二の丸庭園はもう少し手を入れれば良いのに
本丸御殿復元の何十分の一の予算で見違えるようになるんだけどな

172 :
今までの自分内トップ5
兼六園、後楽園、栗林公園、大濠公園、醍醐寺(順不同)

173 :
横浜の三渓園が、一番落ち着くことが出来て好きだなあ。栗林公園は確かにすごかった。

174 :
自分は栗林公園、仙洞御所、修学院離宮、兼六園、実光院がベスト5かな

彦根の玄宮園、大宰府の光明禅寺もよかった

175 :
三渓園は庭園というより建物博物館という感じだな。
小さな庭園なら高桐院が好きだわ。

176 :
>>175
確かに。 一般的な池泉回遊式を期待して三渓園へ行くと少し面食らうかも。

小さな庭園なら曼殊院がおすすめ。

177 :
そうか、三渓園は少し違うんですね。
庭園でのんびりすることが好きで、よく行くんですけど、詳しくなくて……。
庭園についてのおすすめの本とかありますか?

178 :
来週こそは癒されに日本庭園に行こう

179 :
穴場なのが千葉県柏の葉公園内の日本庭園
駅から歩いても5〜6分だしバスも多い
結構高そうな鯉も泳いでた(カルガモはここにも居たが)
茶室で軽食も可能、曲水の宴が出来そう、深山幽谷という感じ

180 :
追記10分位かかるかも?あと、規模は大名庭園や寺院庭園ではないので
あまり期待はしないで。つくばエクスプレスは運賃がバカ高であきれた

181 :
二条城に行って来たけど綺麗に整備され過ぎてあんまり楽しめなかった。

182 :
足立美術館も整備され過ぎていて息が詰まるわ

183 :
足立美術館は横山大観の絵画の世界を具現化した
庭だからね。絵画として切り取った庭が完璧であるように
見える部分は相当な手入れをしている
ここに行った翌日、由志園に行ったが手入れの差が・・・
でもここは回遊できるし伸び伸びとした感じはあって
これはこれでよかった

184 :
見るものに自由を与えない西洋的視点が好きじゃないんだよな
好きな角度から自分の視点を額縁として鑑賞したいのに

185 :
>>184
アングロサクソン系の外人は、ああいう洋風庭園並みの形と手入れを好む

186 :
しおさい庭園の鯉に心なしか品があった

187 :
西洋庭園はザ管理って感じだもんな
トピアリーなんか見ると実感する
だから足立美術館が西洋人評価されるのも分かる

188 :
『縁側から庭へ―フランスからの京都回顧録』エマニュエル・マレスは必読

189 :
全国どこでもいいんで夏でもおすすめの庭園ってありますか?

190 :
兼六園

191 :
小石川後楽園

192 :
今夏は東北旅行中に日本庭園も回る予定で、
盛美園、藤田記念庭園、有備館、酒井氏庭園、南湖公園、御薬園を検討中。
それぞれの評価および他にも検討すべきところはあるかな?

193 :
大阪出発して淡路島、高松、松山、しまなみ海道経由の尾道終着を計画しているんだがオススメの庭園を教えてくれまいか?

194 :
>>192
旧池田氏庭園
如斯亭
斎藤氏庭園
總光寺

195 :
>>193
定番だけど高松の栗林公園かな

196 :
>>194
ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

>>193
その経路なら栗林公園、中津万象園かな。
少し寄り道しても構わないなら天赦園と縮景園も。

197 :
>>192
山形の玉川寺は見るべきと思います

198 :
>>197
教えていただきありがとうございます。

199 :
銀閣寺の庭は突出していた
あと、あまり知られてないと思うし、
小さい庭だけと、岡山市の吉備神社の
庭が凄い綺麗だった
めちゃくちゃ写真映えしたわ

200 :
銀閣寺とか観光客だらけで落ち着いて庭を見られないイメージ

201 :
観光シーズンでなければそうでもないよ

202 :
200訂正
×吉備神社
○吉備津神社

ちなみに吉備津彦神社の庭園もまあまあ

203 :
>>195
>>196

規制で書けませんでした。
遅くなりましたが、どうもありがとうございました。
淡路島の万勝寺庭園へ行きました。http://i.imgur.com/UnsLDwT.jpg

204 :
東京って思いのほかたくさんの日本庭園があるよね
皇居東御苑庭園と浜離宮庭園しか行ってないけど、
いずれ新宿御苑や他の庭園も行ってみたいな

205 :
最初に六義園行けよw

206 :
明治維新で、都が京都に帰っていれば、お江戸の大名庭園はほとんど残っていたかもしれない。
そうすると、東京は世界的な庭園都市として、まるごと世界遺産だったに違いない。

207 :
庭園は西高東低って感じ
極端に言えば京都だけで他の全県に匹敵するかも

208 :
京都を10とすれば、滋賀が5、東京が3、静岡が1、見たいな感じ?

209 :
静岡ってそんなにあるのか。起雲閣と楽寿園しか行ったことない

210 :
庭園不毛地帯は圧倒的に北関東だと思う

211 :
静岡は龍潭寺や柴屋寺など良い庭園があるよ

212 :
>>208
東京3に対して滋賀5、京都10もあったっけ?
京都はお寺と御所や離宮関係がメインでしょ?
東京の3倍以上もあったっけ?
そして滋賀、地元だけど東京以上にあったかな・・

213 :
異論はあると思うけど(見所のある)日本庭園の数トップ10は以下の県だと思う

京都>滋賀>東京>岡山=福岡>新潟=石川=福井=兵庫=和歌山

214 :
滋賀ってたとえばどこ?
とりあえず玄宮園くらいしか思い浮かばん

215 :
>>214
慶雲館、居初氏庭園、西明寺、青岸寺、円満院などなど
延暦寺界隈にもたくさんある

216 :
>>214
湖東三山はどれもすばらしいし、坂本も宝庫。
他にも、思い浮かぶだけでも三井寺、大池寺、龍潭寺、福田寺、興聖寺などなど。
質でも京都に次ぐレベル。

ちなみに、東京は庭園面積はかなりだが、「庭園力」なんて数値があれば、全部合わせても桂離宮+修学院とイイブン?

217 :
>>216
関東の人間にとっては滋賀の庭園と聞いてもピンとこないだろうが、居初氏庭園最高だったなぁ。
琵琶湖を借景とした風景がまたクオリティを引き立たせる。ま、庭に出るとトンビが襲ってくるのには閉口したが(笑)


湖東三山は百済寺が良かったな。でも三井寺って庭園あったっけ?
坂本に関しては竹林院が休みだったのが残念。

福田寺は聞いたことないからググってみるわ。


ま、正直、庭園の華やかさは京都が断トツなんだが、関東に住む者としては関西の充実ぶりがうらやましい。

東京の庭園って大名庭園位でしょ。あまり好きじゃないしねぇ。
でも大名庭園と言えば玄宮園は最高だったな。

園内にあるお茶屋からみる庭園はなんともぜいたくだった。

218 :
東京の庭園もそこそこ巡ったけど、隣に高層ビルってのが、何ともな。

あと、掃除や剪定なんかも、関西に比べると甘いのが目立つなあ。

あと、滋賀のお庭なら教林坊がいいです。是非見てください。

219 :
まわりに高層ビルという意味では、縮景園のホームページはものすごく気を遣ってるな
完全に諦めてる浜離宮あたりとは違う

220 :
関西では奈良の日本庭園が他の文化財や世界遺産の数と比べて少ない

221 :
まあ、奈良は仏像、京都は庭園と、相場は決まってるからな

222 :
奈良は中国から渡った当初ような建物・伽藍の寺が多いからかね
ちまちました庭とか彫刻なんかないあのおおらかさが好きだわw

223 :
静岡ってどこかある?
龍潭寺と三島の楽寿園は行ったことあるんだけど、ほかにおすすめあれば教えてください
龍潭寺はきれいに管理されていたし、なかなかよかった
楽寿園はもういいやって感じでした

224 :
>>215-216
サンクス
滋賀県の庭園は寺院系がメインか
慶雲館や湖東三山は行ったけど、そこまで印象残ってないわ
地元滋賀なんだけど、庭園は東京が上だと思うけどな・・・
まあ、そんなに庭園に詳しいわけでもないけどね

225 :
>>223
行ったことあるのは本興寺、摩訶耶寺、大福寺、方広寺、満光寺、医王寺、清見寺、龍華寺、柴屋寺、誓願寺かな。
なかなか楽しめるよ。

226 :
ここの人達だと宮内庁管轄の5つ及び南禅寺界隈別荘15を全て制覇してる人もいたりするんだろうか

227 :
庭園というと、皇室関係、寺院関係、大名関係、公園関係が思い浮かぶけど、
203が挙げているような神社関係のはどう?いいところある?

228 :
神社系ねえ
パッと言われると、平安神宮、滋賀の多賀大社あたりかな
神苑ってあんまり面白くないんだよね
そうそう、金比羅は神社系か

229 :
神泉苑って神社系?
汚いし、全然良くないけど

230 :
平安神宮の庭は文句なしの庭だね
多賀大社は何度か行ってるけど、そんなにいい庭だったかな

231 :
>>230
まあ多賀は、地味だけど神社らしからぬ、庭っぽい庭だな。
他に思い浮かばないし。
金比羅も、だいたい同じようなものだったな。
あと、「庭」じゃないけど、糺の森は庭といってもいいのかも。

232 :
城南宮の庭もなかなかいいよ。
手入れが行き届いてる。
最近はしだれ梅が人気あるね。

233 :
>>231
多賀大社の庭って参集殿と本殿をつなぐ廊下?から見えるあの庭のことかな?
比較的地味というかまさに庭っぽい庭だね

城南宮も金毘羅も行ったことあるけど庭は覚えてないわ(見てないかも)
神泉苑は悪くないけどまあ普通って感じかな
糺の森は良いね
あと、神社系じゃないけど円山公園の庭もまあまあ

234 :
ベタだけど、二条城の庭園
あとは兼六園

235 :
新宿御苑&京都御苑

236 :
松尾大社の庭も神社系のくくりになるのだろうか

237 :
吉備津神社の庭を見た人って他にいないの?

238 :
これまでここに挙がった庭園の八割方は行ったことあるけど吉備津神社はないなぁ。

239 :
吉備津神社には行ったことあるけど国宝の本殿と回廊しか見なかったわ。

240 :
吉備津神社の庭ってどこのことを言ってるんだろう?

241 :
>>240
本殿の横のほうにある鯉のいる池がある庭

242 :
規模にもよると思うけど日本庭園を自作する費用っていくら位なんだろうか
定年したら自分好みの庭園を設計から手がけてみたい

243 :
池泉式か枯山水かで大きく変わりそう

244 :
池泉式というか大名庭園作れる金あったらなあ

245 :
とりあえず、お盆に白砂を敷いて構想を練ろう。

246 :
大名庭園は見所が散漫になるから好きじゃない。
高桐院ぐらいがいい。

247 :
個人的には佳水園の築山、無鄰庵の滝を再現したい

248 :
実際に行ったことはなくて、映像で見ただけなんだけど
天龍寺の庭はかなりのものだと思う

249 :
天龍寺は紅葉の季節に行くと特に良いよ

250 :
寺院の庭としてはかなり大きい方だよね

251 :
桂離宮に住みたい

252 :
高桐院の檀家になりたい

253 :
根津美術館の庭園は素晴らしいと思う

254 :
高桐院をすごく推してる人がいるな
未見だから今度行ってみよう

255 :
>>254
この時期でしたら、蚊がたくさんいるので虫除けスプレー持っていった方がいいですよ

256 :
どうせ行くなら11月の20日過ぎ

257 :
>>254
高桐院、龍源院、瑞峰院、大仙院はセットで

258 :
時期を選んで芳春院、黄梅院をセットにできれば、なお良い。
真珠庵も見れれば完璧。
弧篷庵もとくれば、一生に何回もチャンスはない。

259 :
聚光院も忘れないで・・・・・・・ っても
ここもめったに見られないんだよなあ

260 :
じつは聚光院はまだ入ったことないんだ(真珠庵も)

いくつ入ったことあるかなあと思って調べてみたら
龍源院 三玄院 興臨院 黄梅院 瑞峰院
大仙院 芳春院 高桐院 孤蓬庵の9つだった

261 :
三玄院は、前から見たいと思ってたんだけど、どうすれば入れるのかな?

262 :
やはりと言うか、総見院の名前は出ないな

263 :
大阪堺の大仙公園に昨日行ってきたけど、公園内の日本庭園は月曜休日だったわ
まあ古墳がメインだったんで仕方なかったんだけどね、残念

264 :
栗林公園の評判はどう?
子供の頃に行って印象強かったんだけど

265 :
評価高いよ。
後楽園より上。

266 :
後楽園、偕楽園よりずっと良いよ

267 :
栗林公園を悪くいう声はあまり聞かないと思う

268 :
大仙公園もいいね

269 :
>>268
大仙公園の日本庭園ってどんな感じですか?

270 :
日本三園の兼六園、後楽園は行ったけど、偕楽園は行けてない
場所的に行くのがやや難しい
死ぬまでには行きたいけど・・

271 :
ちなみに日本三園のそれぞれの評価ってどんな感じですか?
もちろん人によるし、絶対的な評価なんてできないことはわかった上で

272 :
取りあえず偕楽園はいらんw

273 :
>>269
石の配置や水周りがとても良かった


このスレの流れを見ると兼六園、後楽園、栗林公園が三名園かな?

274 :
後楽園もいらん

修学院>仙洞御所>栗林公園>兼六園=桂離宮>>>後楽園>>>偕楽園>>>足立美術館

275 :
栗林公園はもっと変化に富んだほうが良いと思う
足立美術館 は、論外

276 :
>>274
皇室関連の庭園つえーー

277 :
>>276
個人の趣味もあると思う
自分なんかは宮内庁管轄の庭園より京都の寺社の庭園の方が好き

278 :
滋賀県も結構いい庭園があって、京都みたいに拝観料が高くないのでおすすめ。興正寺の足利義晴の庭園が小さいがいいよ

279 :
仙洞御所や桂離宮、修学院離宮はよく出るけど、京都御所の庭はあまり出ないね

280 :
京都御所の御池庭も御内庭もあんまり面白くないんだよね。
池があって橋が架かってて奥に木が密集してるだけ。
修学院離宮の雄大さ、桂離宮や仙洞御所の緻密さのどちらも
なくてただ雑な感じがする。

281 :
銀閣寺の庭はなんというか手入れの凄さが際立っていた
去年の秋に行ったんだけど、本当にきれいだった

282 :
>>280
庭を一方から見るだけで、庭の中を歩けないのが痛いかも

283 :
西芳寺は逆にもう少し手入れすべき

284 :
せっかくの枯山水が台無しなんだよな

285 :
西芳寺の「手入れ」は、微妙だと思うぞ。
「手入れ」がいいかげんだから苔寺になったわけで、苔寺であり続けるための「手入れ」とは、なんなんだろうね。

286 :
手入れがされていない、という言い方が適切なのかわからんが
確かに西芳寺はどこか汚いように見えてしまうんだよな
それを風情と解釈できないオレが未熟なだけなのかもしれんが

287 :
手を入れ過ぎると人工的になってしまうってのもあるぜ。

288 :
苔は邪魔。作庭者の意図にはない

289 :
あの苔がいいんじゃないの?
苔をなくしたら苔無寺になる。

290 :
TVで東福寺の庭園映してたが、あれっていかにも近現代人が作った庭という感じだな、
現代彫刻にも似た、一種未来的な、(自分としては受け入れられない感じ)

291 :
>>290
重森三玲の庭園はあんな感じが多いよ。

292 :
東福寺の小さいほうの市松模様は好きだけど他の庭は嫌い。
中根金作のほうが良いわ。

293 :
西芳寺は、庭を手入れするゼニがなくて放置していたら苔が生えまくった、とか
その風情が良い、とかいわれて液肥で苔を育てている

294 :
重森三玲の孫の千氏と友達なんやで

295 :
千氏の選ぶ日本庭園ベスト10とか聞いてみてもらいたいな

296 :
桂離宮が1ではないかな

297 :
桂離宮の人気相変わらず高いね
一度は行ってみたいけど、シフト制の仕事なんで難しいんだよね

298 :
東山別荘群は(すべて公開されていれば)見応えあるだろうな
庭園といえばほとんどが神社仏閣に付属するものしかない(大名庭園もあるが)

299 :
そろそろ紅葉シーズンにどこ行くか考えるシーズンだな

300 :
おそっ

301 :
来週の平日、仙洞御所の観覧に行けることになった
評価高いし、楽しみ〜

302 :
仙洞御所はいいよ。
狭いからすぐ終わっちゃうけど。

303 :
>>302
狭いっていうのはどの庭園と比べてですか?
仙洞御所の庭園は結構でかいと思ってたんですが・・

304 :
>>175
言いたいことは分かるが、関東在住者が近場で手っ取り早く一番京都の雰囲気を感じられるのは三溪園だと思う。

305 :
仙洞御所行ってきました
さすがにここでも評価高いだけあって、きれいで見事な庭でした
その後、仁和寺にも行ったのですが、ここもきれいな庭でした

306 :
>>210
茨城は偕楽園、西山荘
栃木は日光田母沢御用邸、塩原御用邸、輪王寺逍遥園、二荒町神社神苑
群馬は楽山園

307 :
仙洞御所、修学院桂離宮、京都御所、時間の関係で二つしか行けないのですが、どの二つがオススメですか?

308 :
308です。
何度も申し訳ないのですが、この三つは申し込みをしないとお庭を見ることが出来ないという認識で正しいのでしょうか?

309 :
2ヶ所しか行ってないので(3ヶ所でなく)4ヶ所から選んで勧める訳にいかないが、
条件面から考えると、
・京都御所と仙洞御所はいずれも京都御苑内で市街中心にある
・修学院離宮と桂離宮はお互いかなり離れてる
(ごく大雑把にいえば修学院は市街の北東はずれ、桂離宮は市街の南西はずれ)
従って移動の時間を考えると御所2ヶ所が無理ないが、
逆に市中心から外れる両離宮はわざわざ出向かなくてはならないので、移動と見学の時間に問題なく予約も取れるなら、チャンスとして行く価値あるかも。
京都御所は春秋に一般公開するので、離宮2ヶ所が時間的に難しければ、予約ないと見れない仙洞御所と離宮1ヶ所に絞るとか。


通常は事前申込必要で、
・郵便で申込
・ネットで 申込
・京都御苑内の宮内庁事務所で申込
のいずれか。
どうしても予約とれなきゃ、京都着き次第ダメ元で翌日以降のキャンセルとかないか宮内庁事務所に行って調べてもらう手もある。
そうなると申込取れたとこに行く形に。
(なので何処に成っても良いよう事前に各所の交通手段と移動時間を下調べしておくと現地で慌てないで済む)
詳しくは宮内庁のサイトで。

310 :
参考まで、どちらも予約が必要で市街はずれ西方にある、
桂離宮を午前中、苔寺(西芳寺)を午後に回ってみてよかったですよ。
ただし折角いくなら緑のきれいな時季がオススメですが。
(特に苔寺)

311 :
>>309
ご丁寧にありがとうございます。
予約はやはり必要なのですね。そうなると時間が指定されるので、難しいですね……
苔寺もいいですね。ただ冬に行くので、苔の状態が心配ですが、候補に入れさせていただきます。

312 :
その4つなら
桂離宮>修学院離宮>仙洞御所>>>京都御所だな。
ただし冬なら桂離宮と京都御所にする。

313 :
>>312
冬の京都御所がお勧めということですか? それとも他の庭園が、冬は魅力がないということですか?

314 :
苔寺も予約必須だった気がする

315 :
>>314
その通りです。
だから>>310に「どちらも予約が必要で」と書きました。

316 :
>>313
横レスだけど、御殿(建物)中心に見る京都御所が最も季節感に左右されないかも。

桂離宮は冬と夏いくと、やっぱり夏の方が良かった。
でもこれは冬も見てたから言えるんだよね。
寺社の庭園とは異なる凛とした趣があって、冬でも充分楽しめると思うよ。
庭の造形や御殿の配置みるだけでも美しいからねぇ。

修学院は敷地が山の斜面なので、冬は一段と寒そうなイメージw

317 :
桂離宮って楓とかあったっけ?

318 :
>>765
>予選会で一定基準のタイムをクリアしたら優勝しなくても全国へ出れるようになったらいいな
男子2時間10分、女子1時間10分などさ。

予選会が全県、直線下り坂、追い風の日にレースするように成ったら、こまるだろ
第一、大会参加校数が不明なら、準備不可能だよ

319 :
>>316
そうなんですか!
庭園だけでなく、建物も魅力的なんですね! ありがとうございます。

他の場所なども考え、京都御所と修学院桂離宮に行くことにしました。
みなさん、ありがとうございました!

320 :
雪が降ってるなら金閣寺に行くね

321 :
山口の常栄寺と益田の医光寺・萬福寺に行ってきた。
常栄寺は伸び伸びしてて良かった。
医光寺行きのバスが1時間に4本ぐらいあって安心して乗ったら、
帰りのバスは全然無くて駅まで3キロぐらい歩いて帰る羽目に。
庭はまぁまぁ。
萬福寺は行かなくても良かったかな。

322 :
今年は必ず桂離宮に行こう
平日が休みなのはこういう時強みになる

323 :
>>321
全部、雪舟の作庭だそうですが共通点がありましたか?

324 :
岩組の雰囲気が似ているような。
奥行のある常栄寺と裏山を立体的に使った医光寺と比べると
萬福寺は面白くないかな。
ただ萬福寺は本堂が重要文化財なのでそういう意味では価値が
あったが。

325 :
はじめてかくよ
漫画の「へうげもの」で興味を持って
徳島城と和歌山城、粉河寺に行ってきたよ
名古屋城も行った。二ノ丸庭園は、大きな枯れ池があって、工事中なのか意図したものなのかはわからないけど、楽しみました。

でまあ、いろいろいくべいと、小石川後楽園とかも行ったりして、
とりあえず都内の大名系から攻めるかと
思ってるよ

これは抑えておくべき、と言う参考書なんかあったりするかしら?
小野健吉あたりを図書館で探しつつ
まぁ、ちょっとお値段がねぇ。
必携してくたびれさせるには、ちょっとお高い

326 :
都内なら取りあえず六義園

327 :
六義園行って来ました
正面からの景色は素晴らしいのだが
裏手に廻るとなかなか粗が目立って。

池水の廻りも、良いところに松が植わっていて、島が中々見えないという。

庭園の周りの木が高いので、喧騒が聞こえてこないのが良かった
あと、木橋の縁に草が植わっていて、土橋の趣、これも面白く
滝も良かった、二つ、ちょっと離れすぎかとも思ったけど。

328 :
併せて、旧古河邸にも。
池が汚くて。浄水工事?してるみたいで
大滝の水量が少なくて残念。

枯滝は中々のサイズ感で
付近にあった老松の幹にウロが出来ているのが趣深く。

ただ、一番はバラ園下の石垣かな
前に配した庭の苔の具合も良く
石には雨、と言うから、今度また雨の日に行かなければと、思いましたまる

329 :
大徳寺龍源院の龍吟庭が苔系では好きなのだが、
通路しか解放されていなく、ゆっくり座って鑑賞できないのが残念。

330 :
>>328
6月に行くとバラも咲いていていいよ。

331 :
日本三大名園の偕楽園行って来ました!
色とりどりの梅が満開で最高でした。
鉄道で分断されているのが残念なので、あの辺りを地下鉄化して欲しいですね

332 :
今までよかった庭園といえば、兼六園と足立美術館

333 :
兼六園はカキツバタの時期は好きだが、
その他の時期はあまり印象にない。

334 :
私も昨日偕楽園に行ってきました。
7分咲きというところ。でもきれいでしたね。
好文亭の襖絵の梅も素晴らしかった。

335 :
4月に関空からレンタカーで一泊二日の奈良観光の予定だけど
奈良行く途中だよね
粉河は西国でまわったけど根来寺はいつか行きたかった
往路か復路に当麻寺方面とそれぞれ検討している

関空から成田2000円、レンタカー一泊二日9000円
に飛びついてしまった

336 :
http://m.imgur.com/T9DzDF4.jpg
称名寺行って来ました

浄土式というのは、花とか光でバーっと来ると、また違うんでしょう。
反り橋から照り返しの夕陽を見たりとかも。

池の回りもただ土で止まっているくらいで、名物と言えるような石も池中に一つばかり。
物足りなくはあるけれども、工夫、というのが出てくるのはまた後代の話で、
むしろシンプルな方が、圧倒的にもなる予感。

初めての浄土式が冬の朝の曇天で。
そういう認識が出来て良かった。

337 :
http://m.imgur.com/sKOu0jb.jpg
続いて三渓園。

いきなりこれで。なんか凄い。
でも、歩き回ってみると、建物なんかは特に面白くもなく
さりとて池の周りが凝っている訳でもない

ただ、滝は数も多いし、それぞれ違う表情があって面白く
また、三重の搭の近辺には、使わずに棄てられた名石っぽいのが転がされていて面白かった
崩れたままの、煉瓦の倉庫跡とかね、面白がるのは私がスネ者だからでしょうか

あと猫。
人に慣れすぎていて、余りに動かないから
十分ぐらい撫でて擦ってしていました。

338 :
最後は横浜球場裏の
http://m.imgur.com/oIOtAMU.jpg

石を積んどきゃ日本庭園なのか、と言う気がちょっとする
有名な作庭家の手によるものなら、私の目が悪いんだけど

いっそ、向こうの中華街の門を活かして欲しかったな
お釈迦様だって中華料理好きかもしんないじゃん

あと、池の中で蛙が大量に死んでいました
何故か

339 :
>>337
三渓園というと思い出すこの一枚。
http://goo.gl/O6yQCl

340 :
枯山水なら建仁寺の庭園が好きだな
次が大徳寺高桐院だな
南禅寺の金地院も好きだな

341 :
http://m.imgur.com/qYw5Y6u.jpg
今週は殿ヶ谷戸庭園

滝はそんなに工夫もなく、まぁ三段か四段で、豪快ではあったものの
流れをまたぐ飛び石が、そのままなのも良い
年間何人ぐらい池に落ちるのだろう

日本庭園には珍しく?和金の池があって
これは豪勢で良かった。紅葉亭の脇に、絶えぬ赤。美し。

写真はそこから二郎弁天池の眺望
来週からは超混みそう。このタイミングで良かったかな。

342 :
http://imgur.com/JvNES6w.jpg
浜離宮庭園

石やら水に、大して面白いものはなかったけど
ここは木ですな
池の周りではないんだが、なんと言うか木に力がある
木が自信を持っているとでも言おうかと言う佇まい

奥にある鴨場から、池に向かって進んで行くと
ぱっと開けて、ビルの高さが、また空を高く見せてくれて
(写真はその場所じゃないのだが

桜は来週かな
今日は菜の花畑が全力で咲いてて、素晴らしかった
観光客が異常に多いけど、さもありなんな素晴らしさ

343 :
http://tenkomo.com/blog-entry-5046.html
こんなのあったぞ
【画像】車中泊で各地の日本庭園行ってきたから勝手にBEST25を挙げてく

344 :
参考になるな、崖の庭園は是非いきたい

しかし、このレビュアーの人は小さいのが好みなのかね
作事の細かいの細かいのに、寄ってる気がする
ま、それこそ好みだが

あと、ミレー好き過ぎるな
実はサウザンドブルーの投稿なんじゃねぇ?

345 :
小堀遠州作庭の庭には、「伝・小堀遠州」とした方が納得できるのがある
作庭がダイナミックでなく、江戸中期以降の小さくまとめた石組みや植栽の特徴

346 :
http://i.imgur.com/vJEjOqm.jpg
清澄庭園。

この時期に桜がほぼ植わっていないと言うストイックさが素敵。
メインじゃ無い方の館から、松原を経て、池面、富士山と。あまりそうは見えないかな、腕前か。

枯山水の方は、踏み石で歩くリズムを制御して
ちょっとの視線の移動で、新たな仕掛けが出てくる工夫。楽しい。ま、見るべきものは余りないけど。

石が凄い。
石に名札貼ってるのはダサいと思う、むしろ、池周辺の無銘の石こそ超豪華で。
遠くから見て豪放、近くで見てまた繊細
どんだけ金掛かったんだろう、大岩崎すげぇなぁ、ってなりました。

347 :
友達にランキング連続1位の凄い庭園がある!と勧められたのを
思い出して足立美術館行ったけど心底がっかりしたわ
価値観は人それぞれでいいけど5万坪に及ぶ6つの庭園とか
ドヤ顔で謳いつつ散策する事も出来ない庭なんか
個人的には無価値(龍安寺みたいなのは別として)

あのランキングとやらを審査してる外国人たちが来る時も
一切立ち入らせていないのかな?
なんかVIPが来た時だけ揉み手で庭を歩かせてる光景が
容易に浮かんできちゃうんですが

348 :
>>347
全く同感。
絵を眺めてる気分だった。

349 :
日本文化を理解しないアメリカ人が作ったランキングだからなw

350 :
http://imgur.com/yjq3fFA.jpg
青梅にある玉堂美術館に、枯山水を見に行きました。意識して、見ようとして、行ったのは初めて。

そもそも
美術館の前が多摩川のつくる渓谷で。
巨石もあれば滝もあり、山水の庭のある意味が、よく分からないな、と言う状況。

とまれ
壁の向こうの桜を使っちゃったりなんかして
秋には脇の楓が赤くなっちゃうんだろうな、とか
いろいろ想像できて良かった
砂と石、波紋なんかは、多分普通なんだろうな
他所でも同じものを相当見そうだ

そう、そして、ここの脇の遊歩道が素敵でした
巨岩マニアには堪らんだろうな
季節柄、桜の散るのが河面に映えて
それはそれは素敵だった。ラッキーだった。

351 :
http://imgur.com/YiZ6XDm.jpg
世田谷、五島美術館庭園。
鉄道王が、開発時に取り除かれた灯籠石仏の類いを、国分寺崖線の高低に散らしたと言う
謂わば、想いと願いの庭園。

ま、置いてあるだけで、いっかなセンスも感じられず。
かといって、キッチュな感じもなく。
周囲に人物は居なかったものかと、心配になった。

上の方は茶室があって賑かなんだけど。
下っていく道は、通る人も少なく、苔がふく始末。
むしろ、この先10年20年、放置してもらえると、と思った。

352 :
http://imgur.com/gWF1mVE.jpg
一方、二子玉川公園内帰真園

最新式の日本庭園なのかな
池はあくまで浅く、むしろ底の白石が光を反して、浄土式な趣
滝と流れ、大きすぎる、ジャブジャブ言うております
大名庭園なら、施工者の首が飛ぶね

一方に枯山水な石組があって。
種類は赤いどっかの石、なんだけど
配置に工夫があって、遠くに滝を見せたり
断崖のなんのと表現していたり

いろいろ楽しかったですが
家族連ればかりで、まぁ落ち着かない。
それだけ。

353 :
>>352
ここは、結構自由に中で遊べる庭園なので、子供が事故ったりしないように配慮して池が浅いんだと思う。
少し歩くと多摩川が見えるし、駅近で食べ物屋も多いし無料だし
これから育つ名園だと思うよ。

354 :
http://imgur.com/fYxbIM7.jpg
埼玉県は飯能にあります、能仁寺と言うところ
安土時代の設計だとか
関東ではここまで古いのはそうはないぞ、と。
二層式。

禅寺で本堂を廻って観るスタイルが実は初めてで。
その意味では面白かったが、
枯れ滝が植木で隠れているのは、禅の本分から幾らか離れてしまったのではないか?と。
ふと思いました。
一方で、無常ってのはこう言うことだと、言っているのかも知れないな、とか。

メインの庭には無いんだけど、巨大な方石が石垣がわりにに使ってあって
そこは見応えがありました。

355 :
島根の由志園が良かった。同時期に見た足立美術館よりこっちの方が良いと思うくらい。

356 :
>>355
あれは、お節介ヤローのアメリカ人が好む庭
世界中で戦争をする国だ

357 :
酒田の本間美術館の庭が良かった。
こんな僻地にこんな素晴らしい庭があるとは思わなかったわ。

358 :
http://imgur.com/e3wR92K.jpg
http://imgur.com/hSjUrEs.jpg
連休中締め?でもないけど、とりまとめ。
上州小幡にあります、楽山園
右がパパで左がサル、中納言織田信雄さんの作庭とのこと。

ボンクラ次男の印象が強いけど、庭は素晴らしかった
どこから見ても名物な景の見える感じ
余計な植栽を排して、木なら借景で満足しろとばかりなところも素敵
石なんかも白と青、縞模様のものなんかを配して、楽しめたり
奥には曲水なんかもある

群馬の奥のちょっと手前。遠かったけど、行って良かった。

359 :
http://imgur.com/6tSVRd8.jpg
どこでしょうか

360 :
瑞泉寺

361 :
http://imgur.com/9itVegQ.jpg
お見事お見事
有名なのはこの角度でしょうね
ガチで岩壁に穴が掘ってあるだけだけど
サイズ感とかヤバかったですね

発注してこれが出てきたら、ちょっと考えて打ち首にするかもしれないけど

362 :
ブラタモリ見て天龍寺行きたくなった
嵐山は何度か行ってるが行ったことなかった

363 :
http://imgur.com/XZCAdXL.jpg
前日光、古峯(ふるみね)神社にある古峯(こほう)園、と。

ど級の山奥に庭園造ってどうするのかと思いながら。
あまり工夫も面白味もない池のぐるりを巡り
どんづまりにありました、滝

高さで言えば、殿ヶ谷戸とかにも行ったけど
水量が尋常じゃないのですね
ずんずん降っております、遊びでも水分石のあたりなんかにゃ行けないぐらい

過ぎたるものこそ面白し、と言うわけで、
一見の価値ある滝でございました
近くに華厳滝があるのに?
それは言わない約束で

364 :
大和3名園の慈光院、当麻寺はよかった。どちらも片桐白州作。隙のない作庭。
吉野山の庭はわからん。

365 :
慈光院は外に工場が見えたり鉄塔が立ってたりでガッカリしたな。

366 :
南湖公園

公園の池自体は、サイズの割に景色が一様になっておらず
楽しめた

併設の日本庭園と言うのが、茶亭からの眺めに特化していて
その他のところがまるでなっていないというか
まぁ、そんなところでガッカリしました

南湖自体は良かった、のに

367 :
>>365
千円だしても行く価値ある?

368 :
>>358
俺も楽山園はセンス良いなと感じた
城下町の雰囲気もね
>>363
古峯園は秋に行ったから借景も含めて割と良かった
遠いけど

逆に都内は借景で萎える庭が多いかな
ビルとか観覧車とかw

369 :
>>367
茶室とか好きなら良いかもしれない

370 :
>>367
無い。
奈良は依水園と当麻寺ぐらいかな。

371 :
新宿御苑が大人気
主に、、、100でピカチュウのおかげだが

372 :
建仁寺の枯山水庭園が一番すきだな
次は高桐院だな

373 :
>>98
>京都に行ってきたけど、やっぱり京都は特別だな。
>庭のレベルが高いわ。

>実光院

確かに庭のレベルは高いですね。

ただ、メリハリが無いのが残念なところですね。


>圓光寺

自然と溶け合っている感じで、良い庭園ですね。

枯山水庭でもなく、石庭でもない、西洋の庭園なのでしょうか?

ちょっと物足りないかな?

>高桐院

渓谷の感じの力強い良い庭園です。

ただ、惜しむらくは、ガチガチに石を詰め過ぎて、
作為的な要素が目立ち、不自然な感じが残念なところです。

374 :
>>373

>高桐院

こちらの庭は、渓谷の庭ではなく、江戸時代に有名な庭師の「記念碑の庭」
とのアドバイスがあり、この場を借りて修正したいと思います。

大変失礼しました。

375 :
どこの庭を見てきたのか分からない感想だな。

376 :
>>375

それは、 失礼しました。

作庭で有名なのは、小堀遠州氏や夢窓疎石氏くらいしか憶えていないのです。

他の方でお気に入りの庭師の有名な方がおられましたら、教えて戴けますか?

377 :
小堀遠州作庭というのは、伝・小堀遠州と言われている
という程度のつまらん庭が多い(なんでも鑑定団に見てもらえ)
後世に改変されたかも知れんが

378 :
>枯山水庭でもなく、石庭でもない、西洋の庭園なのでしょうか?
まさか池泉式を知らないとか?
スレタイにもあるのに?

379 :
>>378
>池泉式

池泉式について、「なんだろうか?」と思いました。

検索すると、枯山水と対極にあるとのことでした。

池泉式は、自然を取り込みながら水を使い、池と泉等を作庭に造るのに対して、枯山水は、自然一如のように、
水を使わず石と岩で表現するとありました。

池泉式の作庭は、中年期に多く求められますが、枯山水の作庭は、老境の壮年期に多く
求められてくるように思います。

高齢になれば、肉体の健康が損なわれやすいため、労力を厭う傾向にあるので、
手間のかからない枯山水を求めるようになると思います。

妄想の産物でした。

380 :
官位や道号通り越した国師号に、氏は付くものかと考えながら

枯山水についてはもう少し検索するだけでも、成り立ちその他がわかりますので。

381 :
池泉式と枯山水って軽く覚えるにはこんな感じじゃない?

池泉式
 平安仏教浄土式庭園
池がある、鑑賞して仏教を感じ感慨深くなる

池泉回遊式 
 江戸時代の大名庭園(だから江戸と藩の都の城付近にある)
池がありお客様とみんなで散歩

枯山水
 禅宗(主として臨済宗)庭園

臨済宗寺院の庭なので京都、鎌倉にあるが後発の江戸にはないl
寺院の前庭で儀式しなくなったので余ったスペース
京都では水が貴重だったので水使わないで水を表現

382 :
龍安寺の石庭の作庭した方は、どなたかが判らない状態であることで、だれもが、
龍安寺の石庭の作庭した方の名前や経緯を私的仮説として、下記に述べてみたいと
思います。

宝徳14年頃、庄屋の若旦那であるアマチアの方が、43歳から44歳にかけて
龍安寺の石庭の作庭したとのことです。

名前を、天海道 覚一氏であるとのことです。

龍安寺のその当時、二代目住職が安念和尚という名前とのことで、「作庭したい」
と和尚にお願いしたところ、断り続けて、30回くらい断って、和尚が根負けを
してアマチアに作庭を許したとのことです。

天海道 覚一氏は、神掛かりの状態とのことで、指導神のインスピレーション通り、言われるままに
作庭し、見事な枯山水の作庭が完成し、お披露目したところ、プロの庭師達等から、枯山水の庭を観
て、作庭した天海道氏や和尚に対して、悪口雑言等の酷評で、批判の荒しで、二代目安念和尚も居た
たまれなくなり、龍安寺から夜逃げてしまい、無住職のお寺となったとのことです。

アマチアの作庭した天海道氏は、プロの庭師等の悪口雑言の酷評の解決に、作庭で有名な夢窓疎石氏
の所にまいり、龍安寺の石庭の作庭した方として、夢窓疎石氏の名前をお借りしたいとのことで、時間
は掛かりましたが、事無きを得たとのことです。

383 :
>>381

池泉式と池泉回遊式と枯山水のそれぞれの要点の核心の違いが解かりやすく、
頭に入りとても勉強になりました。

384 :
枯山水の庭に限らないけど、石の配置は、不等辺三角形の配列で、
大から中、中から小へと連続して、平面的に立体的に不等辺三角形
の配列が何重にもなる石の配列が良いと、知り合いのプロの庭師に
教えていただきました。

385 :
龍安寺の石庭の良さが全くわからない

386 :
>>385
俺も、、

387 :
龍安寺の石庭は、色々な解釈が出て、色々な解釈を前提にすると、一層難しく
感じて、「全く分からない」等々の述べ方になると思います。

シンプルなままに、切り捨てれば、色々な解釈に惑わされることなく、真実な
る心の観方として、龍安寺の石庭の素直なシンプルな感想でも良いと思います。

学生の頃に、龍安寺の石庭の虎の子の解釈を信じて、その解釈に合わそうとし
ても、さっぱりわからない状態でした。

私の知力と美的感性が及ばなかったのが原因かも知れないと思ったものです。

388 :
>>387

龍安寺の石庭の「虎の子渡たし」の解釈でした。

失礼しました。

389 :
上でやたら不評だったからどんなもんかと足立美術館調べてみたら
思ってたよりかなり気持ち悪くてびっくりした
自分でも何にこんなに違和感を感じているのか分からないけどこれは無いわw
アンチ西欧風でもなんでも無いんだけどな

390 :
ただぃま京都に向かうバス車内で。
明日は嵐山の方で、鹿苑寺ぐらぃまで足を伸ばせればと。

金閣はあくまで庭の一部である、と言う視座とか
とりあえずのテーマ

391 :
日本庭園はベビーカー禁止してほしい…

392 :
【外国人に人気の日本の観光スポット ランキング 2016】
1位: 伏見稲荷大社 (京都府京都市)
2位: 広島平和記念資料館(原爆ドーム、広島平和記念公園) (広島県広島市)
3位: 宮島(厳島) (広島県廿日市市)
4位: 東大寺 (奈良県奈良市)
5位: サムライ剣舞シアター (京都府京都市)
6位: 新宿御苑 (東京都新宿区)
7位: 奈良公園 (奈良県奈良市)
8位: 鹿苑寺(金閣寺) (京都府京都市)
9位: アキバフクロウ (東京都千代田区)
10位: 清水寺 (京都府京都市)
11位: 箱根彫刻の森美術館 (神奈川県箱根町)
12位: 高野山 奥之院 (和歌山県高野町)
13位: 禅林寺 永観堂 (京都府京都市)
14位: 三十三間堂 (京都府京都市)
15位: 栗林公園 (香川県高松市)       ←★★★★
16位: 白谷雲水峡 (鹿児島県屋久島町)
17位: 成田山 新勝寺 (千葉県成田市)
18位: 浅草 (東京都台東区)
19位: 大本山 大聖院 (広島県廿日市市)
20位: 兼六園 (石川県金沢市)
21位: 沖縄美ら海水族館 (沖縄県本部町)
22位: 立山黒部アルペンルート (富山県立山町)
23位: 河口湖 (山梨県富士河口湖町)
24位: 弥山 (広島県廿日市市)
25位: 明治神宮 (東京都渋谷区)
26位: 京都駅ビル (京都府京都市)
27位: サムライ ミュージアム (東京都新宿区)
28位: ギア専用劇場(ART COMPLEX 1928) (京都府京都市)
29位: 城崎温泉 (兵庫県豊岡市)
30位: 白川郷合掌造り集落 (岐阜県白川村)
https://tg.tripadvisor.jp/news/ranking/inboundattraction_2016/

栗林公園凄いな

393 :
居酒屋の【お通し】が論争になっているが

客が同意していないのに出すなら無料にすべきでお金を取るべきではないし
メニューに記載していないのにカネを取るのは詐欺
明確に【席料】【サービス料】とメニュー等に記載すべき

それに選べない【お通し】の95%は 【廃棄処分寸前の残り物】であることが多いので
こんなものを強制的に出して 300円とか取る店は
ハッキリ言って 最低の商売をやってる詐欺師

だから【お通し】の無い店を利用しよう

394 :
郷里の栗林公園がこんなに高評価でびっくり。

子供の頃は動物園の事だと思っていたり、高校の何とか活動で学校からぞろぞろ歩いて行ってみんなでお弁当食べて帰ってきたり思い出多い公園です。

395 :
age

396 :
梅が満開

397 :
津軽来たけど、大石武学流の大きいところは四月まで開かねぇって言うし
ねぷた館のとこれは行けたけど、吹雪でさ
見れたもんでなかった

398 :
大池寺の蓬莱庭園行ってきたけど、小堀遠州凄いわ。
刈込みに波打たせるって。
でも公共交通機関だとメチャメチャ不便なのがな。

399 :
あげ

400 :
age

401 :
小堀遠州は、古文書などではっきりと作庭記録が残っている庭以外は
伝・小堀遠州、としてほしい。つまらん小堀遠州がそこらじゅうにある

402 :
age

403 :
>>401
具体的にどこ?

404 :
>>403
南禅寺の虎の子渡しの庭が一番有名だろ

小堀遠州は小とはいえ大名なので住居や行動の記録が残っている。

405 :
当地ド田舎にもジジイ共が勝手に遠州作庭という庭がある
完全に時代が違う(150〜200年も新しい)

406 :
大名なので、そこらじゅうに作庭するわけがない

407 :
南禅寺の虎の子渡しの庭は実に単純。初心者向きというか何というか。
伝小堀遠州作というが、そんなわけない。
小堀遠州が真っ赤になって怒るだろう。
なお、この庭が造られたときに遠州は京にいない。

小方丈の障壁画は狩野探幽の作といわれるが、あれも嘘と判明している。

あと、欄間は左甚五郎が彫ったものだと言われるが、それも怪しい。
まあ腕の良い大工はみんな左甚五郎に」なってしまうんで、罪は無いが。

408 :
小堀遠州の最高傑作は大徳寺孤篷庵の茶室「忘筌」の庭。
遠州は、あの庭で枯山水から脱却した「四季を味わう庭」を創造した。
岩と石だけの庭と異なる、木や草花に溢れる四季おりおりの風情を楽しむための庭だ。
この流れの庭でポピュラーなのが詩仙堂の庭。
岩の代わりにサツキの苅込があり、苅込の裏側は唐様庭園になっている。

戦国の世が終わり、人々が来年の桜とか秋の紅葉とか、そういったものに心を遊ばせる
余裕が出てきた。泰平の世の到来(ないしその予感)が庭にも反映しているのだ。

ただし、忘筌の庭は遠州作そのままではない。
寛永年間に庵が移転、さらにそこに移転された庭も庵の火災により壊滅。
現在のものは図面に基づいて再築されたもの。

https://ameblo.jp/rallygrass/entry-11074393919.html

409 :
石の庭を見るなら、「気勢」というものが分からなくちゃならない。
気勢とは何かも知らずに石庭を見ても無意味だ。

410 :
立ち入り禁止区域を示すロープや看板等が野暮ったい事が多く、残念だ
目的としては目立つ方が正しいけど、悪目立ちにもなってる

411 :
>>410
今は中国人が苑路から庭の中まで入り込むからしょうがないんだろ。

苔の生えているところにまで入って「ハイポーズ、パチリ」ってなもんだ
奈良では鹿にヘッドロックしてるし

412 :
虎の子渡しの庭というのがいくつかある。

龍安寺の庭も虎の子渡しの庭といわれることがある。

枯山水の見方として、岩を虎とし、白砂を川の流れに見立てるものもあった。
そうすると岩には大小があるから、当然親の虎とか子虎というような見方になる。
それが川にいるから虎の子渡しの風景だと名付けられたのである。

宋の周密撰「癸辛雑識」の虎の子渡しの寓話とは関係ない。
虎の子渡しという言葉はそこから来たのだろうが、その寓話(子の中に一頭の豹が
いてどうのこうの、、、)は全く関係がないのだ。

頭の体操みたいな虎の子渡しの寓話を頭に浮かべ、さてこの庭はどのように
あの寓話をあらわしているのだろう? などと考えながら庭を見ている人はアホである。

413 :
庭園を見る時は、くだらぬ先入観を持つような説明はいらん

414 :
近頃は下らない先入観で頭がいっぱいの人間しかいないよな。
この池は心の字を表しているとかいってw
それに乗っかって寺の方でも「心字池」とか名付けていたり。
とてつもなく低劣な事態だ。

例えば天龍寺庭園でも、もともとは背後の築山に苑路なんか無かったわけで。
それを知らないと回遊式の池泉庭園と勘違いしてしまう人も出てきてしまう。
正確な知識がないと庭の鑑賞もちゃんとは出来ない。
くだらぬ先入観は排除すべきだが、正確な知識は必要だ。

415 :
池泉回遊式庭園の嚆矢は桂離宮庭園で、修学院離宮庭園もこれに並ぶ。
これらが作られたのは江戸初期で、江戸時代の大名庭園はほぼこれに倣って
作られたものだ。
池の回りに苑路(園路)が作られ、苑路を巡りながら景観を鑑賞する。
だから、それまでの鑑賞式庭園の視点が一カ所であったのと違って、いくつもの視点を
意識して作られている。
苑路を巡が歩くにつれ、次々に新たな景観が開けるようになっているのだ。

苑路自体も風趣に富む。あるいは木曽路のようであり、また海辺の路のようである。
鄙びた山里の小道、あるいは武蔵野の茅野原を行く路のようでもある。
庭園の中にあるのは観賞用の樹木だけではない。
大名庭園には畑や果樹園がつきものであった。
まず第一は茶畑である。これは必須といってよかった。
つぎにはニンジン畑。ニンジンといっても朝鮮人参である。他にセンブリや
ゲンノショウコなどの基本的な薬草も育てた。
大名の庭が、ときに「お薬園」と呼ばれるのはこのためである。
さらに、柿や栗などの果樹園もあった。秋になって実をとるのは大名の奥方や女中
たちで、今のリンゴ狩りなどの行楽と同じであった。
花畑もあった。日常飾る花や、万葉集や古今集にある草花が植えられていた。

六義園などは、池の周囲は閑散としていて、以前は周囲が畑や果樹園だった雰囲気が
残っている。

池を中心とする庭園であるところから、水の確保が第一の課題となった。
自然湧水があるのが一番であるが、そういう場所だけではない。
水戸藩の小石川屋敷の庭園では、上水道から水を引いた。
これは御三家だから出来たことで、例外中の例外である。
加賀藩の上屋敷では、池は水脈にあたるところまで地面を掘り下げて作られた。
今日三四郎池と呼ばれるこの池は、道の遥か下に見られる。
周囲に木が生えていなければ、工事現場のような雰囲気である。
本郷は台地なので、池を作るのも一苦労だったのである。
大名の多い赤坂あたりでは、溜め池に水を溜めておき、各大名はそこからさらに
水路で水を引いたようである。

大名屋敷の多い六本木や麻布はもともと水が豊富であった。
http://tokyoriver.exblog.jp/14062603/

海に近い場所にある屋敷では、直接海から水を引いた。
汐入り庭園では浜離宮が有名である。

416 :
三四郎池は安田講堂の方から行って思いっきり下まで降りるわな
今は周囲は藪で池はヘドロの沼

417 :
大名は池泉庭園を造るために血眼になって水を確保したわけだが、
そんなにまでして池を作ったのは火事予防の目的もあったかも知れないな。

自分の屋敷から火事を出したら、お家取りつぶしになってしまう。
池があれば最小限の鎮火用の水は確保できるわけだから。

418 :
当然といえば当然だが、池泉庭園の水の引き込み方は今と昔では違っていることが多い。
今は水道や井戸水などで水を確保しているが、昔は流水を確保し、いつも水を流していた池が多い。
だから水は透明で、飲めるほどであった。
今は必要時以外は水を流さず、淀んだ緑色をしているのが普通であるが、
本来そのようではなかったことは注意すべきである。

よく池に月を映して眺めるということが行われたが、濁った水と透明な水では印象は異なる。
水面に花が落ちた眺めも違ってくる。

濁った池は江戸の枯淡趣味なのかも知れない。
平安の池泉庭園などでは水はあくまでも透明であった。
そのほうが平安貴族の趣味に合っていたはずである。
月の光なども、透明な水の上にキラキラ光るようなものが好きだし、池の底に色とりどりの
落ち葉が沈んでいるような眺めも好きだった。

なお、当時の絵巻などを見ると、平安貴族の舘の庭にはやたらと鳥小屋が作られている。
舶来の珍しい鳥を飼うのが流行したらしい。鸚鵡とか孔雀とか。
もちろんその前から鶴などが普通に飼われていた。

419 :
池泉庭園の水の引き込み方は今と昔では違っていることが多い。

と書いたが、昔の水の引き込みは東側からのものが多い。
そして西側に流した。
これは四神相応の思想で
「東に川あれば青竜、西に大きな道あらば白虎、南に池あらば朱雀、北陥』鍋如山あらば玄武」
ということで、
舘の南に池、池の向こうは山、東側から流水で水を入れ、道路側の西に流す、ということらしい。
今はマチマチである。どこから水を引いているのかを見るのも面白い。

今日でも池を作るなら東側がよい、と言われることがある。青竜だから、ということか。

池は水が流れていることが必須で、溜まり水は気が滞留するので駄目だった。
緑色の深泥が池みたいのは江戸時代あたりからだろう。

智積院の池は千年河清を見ずという黄河の流れを表しているので最初から濁らせたと思う。
そもそもあのあたりは京瓦の産地であった。地面を掘れば粘土だった。
だから池を作るのは簡単だったし、水を引けば粘土で濁った。

420 :
.

421 :
銀閣寺(慈照寺)境内には向月台と銀沙灘と呼ばれる砂盛りがあるが、
あれは池の底の砂をさらえて置いたのが始まりとされている。

つまり、昔は銀閣寺の池も底が白砂で、水は透明であったということである。
だから金閣寺の池も同様であった。
金閣寺は釣殿があり、そこから船に乗って船遊びをした。
船は赤や黄や青に塗った唐船であった。

422 :
西芳寺(苔寺)は、夢窓疎石が作庭した当座は、池の底に白砂を敷き、
池から池へと透明な水が流れていた。
池の周囲は、しだれ桜の大木が植えられ、春には水面が桜の花びらで
桃色一色に染まった。
その水面を着飾った貴族を乗せた船が通る。
この世とは思えない景観だったらしい。

天龍寺庭園も、西芳寺と同時期に夢窓疎石が造ったものだが
(石組みはもっと古い時代からあったもの)、あの池は
今の大方丈が出来たときにかなり埋め立ててしまった。
池の手前側に大きな出島の先端だけが残っている。
そこからすると、奥行きを最低でも20メートルは狭くしてしまった。
池を作ったときに、夢窓疎石も池に入って手伝ったと言われ、
そのときには池の深さは夢窓疎石の足首まであったという。
10センチか15センチぐらいである。
今は50センチ以上あるから、池は狭くなり、他方で深くなった。

あの池も、本来は白砂を敷き、流水を引いて水は透明であった。
西芳寺の庭と違って、こちらは秋の庭であり、紅葉する木々で覆われ、
秋には白い砂と清い水、手前や周辺は紅葉だらけで、さらに
庭の向こうに紅葉する金襴の嵐山が見えた。

423 :
六義園て、側用人があんな馬鹿でかい土地を
やりたい放題だったんだな

424 :
ただ側用人でなく大老格だよな

425 :
柳沢吉保は道教とかラスプーチンみたいなもんだろ

426 :
西芳寺の庭に古墳があり作庭時に潰されている。 40年以上前の話

427 :
六義園は2万7千坪。
新宿御苑はもっと広いぞ。10万坪以上あるらしいな
内藤家の屋敷跡。内藤家は三万石ちょっとの小大名だけどな
四谷から外は江戸と考えられていなかったから土地は大盤振る舞い
だったんだろうな。

六義園は前田家の屋敷地を削ってできたもので、前田家はその代わり
下屋敷の土地を板橋に与えられた。善福寺川の流域で、水は使い放題。
湖のような池を中心に広大な庭園を造った。
土地の広さは22万坪。だから屋敷部分をを除いても、少なくとも
兼六園の5〜6倍の広さはあったろうな。

柳沢の屋敷は御成御殿と言って、綱吉を迎えるために作られたもので、
綱吉は公式に52回も訪れている。お忍びでは何回来たか分からない。
吉保が自分の妻を綱吉の伽に出していたのは有名。
それ以外にも美女を揃えて歓待した。
綱吉も大奥があるのだからそっちへ行けばいいと思うが、大奥は素人ばかり
だし、監視役みたいなのが寝室まで伺っているのだから面白くなかったんだろう。

綱吉の遊びのための屋敷だから、庭園もそのつもりで念を入れて豪勢に作られた。
だから当時から名園として有名だったらしい。
武蔵野の平らな土地に池を掘り、掘った土を築山にして高低をつけた。
水は千川上水から引いた。池の水に上水を使うなど普通ではとても出来ないことだ。

428 :
>>427
石神井川ね。

429 :
>>428
そうか
西武線とか東武線沿線の貧乏人ばっかし住んでるところは
よう知らんわw

430 :
苔寺(西芳寺)は浄土宗の寺だったことがあり、その時の寺号が西方寺。
「西方浄土」から来ている。庭園の上段部分は穢土寺という別の寺とされた。
この寺の名は厭離穢土欣求浄土という言葉から来ている。
その後両寺とも荒廃無住となる。

夢想礎石が穢土寺の部分を含めて西方寺を再興。
寺号も西芳寺と改め、臨済宗の禅寺となった。

431 :
苔寺と六義園の話がでているので繋がり(エピソード)をひとつ

苔寺は作庭の名手「夢窓疎石」が中興の祖となった名刹
「夢窓疎石」が作庭の名手と呼ばれ、苔寺に招かれたのは
多治見永保寺庭園や鎌倉市瑞泉寺庭園および甲州市恵林寺庭園などを
開山、作庭した実績による

かたや六義園とは甲斐出身の江戸幕府重臣「柳沢吉保」の下屋敷
この「柳沢吉保」の墓所が甲州市恵林寺にある

つまり、苔寺の中興の祖「夢窓疎石」が開山した名刹に
400年後に六義園の所有者かつ造営者である「柳沢吉保」が眠り
700年の時を経てWEBの掲示板で両者を同カテゴリーで語りあっているのである


ちなみにこの恵林寺は戦国大名「武田信玄」の菩提寺でもあり
「快川紹喜」が「織田信長」に火をかけながらも、かの名言
『安禅必ずしも山水を須ひず、心頭滅却せば火も自づと涼し』を残した地としても有名である

432 :
ほう、信長を焼き討ちしたのは快川和尚だったのか。

433 :
>>432
俺は430じゃないけどさー
2ちゃん(2ちゃん)で誤字・脱字・打ち間違いを指摘する奴は馬鹿だぜ
頭の中で「火をかけられながらも」に変換すれば済む話じゃないか。

>>431
柳沢吉保の墓が恵林寺にあるとは知らなかった。
甲府城主とか息子の代での転封とか元武田一族とか、いろいろあったんだね。

434 :
「心頭滅却・・」は森高千里の楽曲としても名高い

435 :
>>433
いやいや2ちゃんには無学な人間もいるから
431が信じて言いふらしてしまったら可哀そうだ

無学だと織田信長しか食いつくところがないわけで

>>432
織田信長に火をかけたのは明智光秀という説が通説で
これを本能寺の変と呼んでいるんだ(諸説あり)

WIKより
本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、
家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、
やはり館に火を放って自害した。
2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、
僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、
戦国時代における最後の下剋上とも言われる。
光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」
「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。

なっ、こうやって俺みたいに自分でも確認すればいいんだ
これがインターネットの使い方な

436 :
.

437 :
虎渓山永保寺に来たけど、スゴイ良かった。
これで無料というのが有難い。

438 :
■ネクストガールズ

33位 28,024票 谷口めぐ(AKB48 Team B)
34位 27,648票 小畑優奈(SKE48 Team KII)
35位 27,607票 江籠裕奈(SKE48 Team KII)
36位 26,710票 加藤玲奈(AKB48 Team A)
37位 26,701票 中井りか(NGT48 Team NIII)
38位 26,363票 大西桃香(AKB48 Team 8)
39位 26,202票 チャープラン(BNK48 Team BIII)
40位 25,977票 渕上舞(HKT48 Team KIV)
41位 25,458票 川本紗矢(AKB48 Team 4)
42位 25,261票 内山命(SKE48 Team KII)
43位 25,244票 西村菜那子(NGT48 研究生)
44位 25,045票 佐々木優佳里(AKB48 Team B)
45位 24,940票 末永桜花(SKE48 Team E)
46位 24,331票 熊崎晴香(SKE48 Team E)
47位 24,298票 坂口渚沙(AKB48 Team 8)
48位 24,272票 朝長美桜(HKT48 Team KIV)

■フューチャーガールズ
 
第49位 24,228票 倉野尾成美(AKB48 Team 8)
第50位 23,754票 小田彩加(HKT48 Team TII)
第51位 23,373票 竹内彩姫(SKE48 Team KII)
第52位 22,662票 込山榛香(AKB48 Team K)
第53位 22,292票 太野 彩香(NGT48 Team NIII)
第54位 22,102票 内木志(NMB48 Team N)
第55位 22,050票 松岡菜摘(HKT48 Team H)
第56位 21,910票 一色嶺奈(SKE48 Team S)
第57位 21,818票 渋谷凪咲(NMB48 Team M)
第58位 21,798票 岡部麟(AKB48 Team 8)
第59位 21,606票 鎌田菜月(SKE48 Team E)
第60位 21,519票 小田えりな(AKB48 Team 8)
第61位 21,437票 駒田京伽(HKT48 Team H)
第62位 21,416票 太田奈緒(AKB48 Team 8)
第63位 21,387票 田中菜津美(HKT48 Team H)
第64位 21,332票 中村歩加(NGT48 研究生)

■アップカミングガールズ

第65位 21,323票 後藤萌咲(AKB48 Team A)
第66位 21,196票 松岡はな(HKT48 Team TII)
第67位 21,182票 高倉萌香(NGT48 Team NIII)
第68位 21,082票 高畑結希(SKE48 Team E)
第69位 20,913票 小熊倫実(NGT48 Team NIII)
第70位 20,654票 山口真帆(NGT48 Team NIII)
第71位 20,321票 本村碧唯(HKT48 Team KIV)
第72位 20,106票 ミュージック(BNK48 Team BIII)
第73位 19,371票 秋吉優花(HKT48 Team H)
第74位 19,341票 瀧野由美子(STU48)
第75位 19,009票 久保怜音(AKB48 Team B)
第76位 18,818票 日高優月(SKE48 Team KII)
第77位 18,563票 長谷川玲奈(NGT48 Team NIII)
第78位 18,377票 岡田美紅(SKE48)
第79位 18,359票 城恵理子(NMB48 Team BII)
第80位 18,265票 青木詩織(SKE48 Team KII)

439 :
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪

440 :
あげ

441 :
age

442 :
つくばい は手水鉢や湯桶石、手燭石などを合わせた茶庭に必須の施設だが、
日本庭園(茶庭ではない)に景色として設置されることもある。

日本庭園の手水鉢にはよく苔が生えていることがある。

だが本来手水鉢には苔を生やしてはならない。
手を洗ったり口を雪ぐのが目的の道具だから、苔などが生えていたら不潔である。
虫が棲みつく可能性さえある。

利休も小堀遠州も苔を生やすなと言っている。
全く使わない手水鉢なら仕方ないとも思えるが、わざわざ苔だらけにする馬鹿も
いるので要注意。

443 :
昔の日本人は神に詣でるときは斎戒沐浴した。
川や湧き水、あるいは海で身の穢れを落としたのである。
沖の島では今でも上陸する前に海に入って禊ぎをしなければならない。
その他、地方には祭りの前に川に入ったりする禊ぎの習慣が残っている。
この習慣は仏参りのときにも行われるようになった。

この全身を水で浄める習慣を簡略化したのが手水舎(てみずや・ちょうずや)に
おいて手水を使うやり方である。
手水舎では二月堂の登り廊の下にある建物が有名だが、そのすぐ上に
閼伽井屋(あかいや)がある。お水取りの水はここで汲まれる。
閼伽とは水のことであり、この水が涌く井戸を(若狭井という)を囲む建物に
なっている。だから閼伽井堂とも言うのである。
周囲を囲んだ建物になっているのは、かつてはここで全裸になり禊ぎを
したためとも考えられる。

利休は、この手水で身を浄めるというやり方を茶庭(路地)に持ち込んだ。
茶庭の入り口、ないし茶室の傍らに手水鉢を置き、そこで手を洗うように
したのである。手水鉢の典型はやはり東大寺二月堂のものである。
青銅製で竜が掘ってある。
https://www.fureai-cloud.jp/tie/doc/view/2138/
現在の鉢は幕末のものだが、同様のものが古くからあったと思われる。

茶庭の手水を使う場所は、左右に湯桶石や手燭石を置き、手前に前石、
手水鉢との間は水吐ないし海と呼ばれ、窪みになっている。
これらはワンセットになったものを「つくばい」(蹲踞)と呼ぶ。
つくばいは「蹲い」が語源。這い蹲る、という言葉から来た。
這い蹲って手水鉢を使う空間全体(手水鉢に役石を加えた一定の場所)
を蹲踞というのである。

444 :
宗像・沖の島が世界遺産に登録され、注目を浴びた。
現在の神道とはあまりに違った祭祀の仕方に驚いた人も多いだろう。
沖の島は島そのものがご神体であり、一般に入島は許されない。
拝むのは海上からである。
祭祀のために島に上陸するときは島の手前で海に入り、海水で身を浄める。
このような原始神道における祭祀には水が不可欠であった。
神に詣でることと禊ぎをすることは表裏一体のことであった。
身を浄めずに神に詣でるのは有り得ないことだったのである。
だから神地とされる場所には水が必要であった。
清浄な水の湧き出るところや、水によって人間世界と隔てられたようなところには
神がいるように思うのも、古代人の自然な感覚だっただろう。

445 :
日本人は神域に近づく前には禊ぎ(みそぎ)をした。そのことと関係があるのか、
昔からの神社には川や海の近くにあるものが多い。
川が無くても湧水があり、それが泉水や池となっている場所がほとんどである。
例えば伊勢神宮は(昔は祠は無くただの森だったが)五十鈴川のほとりにある。
今でも参拝の前に五十鈴川で手を雪ぐ人は多い。

伊勢神宮より時代の古い伊勢齋宮(いつきのみや)があった場所は、その名も
祓川(はらいがわ)という川のほとりである。
この場所は昔は海岸でもあった。
おそらくは干潟の中の島のような場所だったのだろう。
https://ninja250ksr.blog.so-net.ne.jp/2012-05-27
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/61267036272.htm

446 :
出雲大社のある場所も昔は海岸であった。
出雲大社は現在は海岸から一キロほど離れているが、昔は砂浜に接した森の
中にあった。海岸の名は稲佐の浜という。
現在海岸にある弁天島という巨岩は、昔は「沖の島」と呼ばれていた。
海岸から遠く離れた沖に見えたのである。砂浜がどれだけ前進したか分かる。
出雲大社は巨木が林立する森の中にあったが、昔は森自体が禁足地であり、
当時の稲佐の浜も普通は立ち入れる場所ではなかったであろう。
船で海岸まで行き、海に入って禊ぎをしてから上陸したものと思われる。

447 :
日本最古の神社と言われる石上神宮はかつては水辺の森であった。
かつて今の奈良県の北半分は湖だった。古代奈良湖と呼ばれる。
今の淀川河口あたりは汽水域で、浜名湖みたいな状態。
飛鳥時代、ここから宇治あたりまでは大きな船でも楽に入れた。
奈良の方面に進めば石上神宮あたりまでは進入可。
小舟に乗り移れば櫻井のあたりまで船で行けた。
飛鳥時代は湖はかなり小さくなっていたが、難波からは淀川を遡り、木津川を
通って奈良湖に入り、石上神宮のあたりに上陸して飛鳥の都に向かったのである。
小舟に乗り換えれば今の桜井あたりまで行くことが可能であった。
https://tenrikei.com/sokuhou/sok-0020/
(天理教のサイトだが、分かりやすい。)。

石上の森は奈良湖の中に突き出た半島のような場所にあり、巨大な杉が
鬱蒼と生い茂り、神韻とした雰囲気を醸し出していた。
元々水神祭祀の場であったといわれる。森全体が神域であった。
石上神宮には今だに禁足地がある。
神社となって多くの人を迎え入れるようになっても、古代からの人の立ち入りを
禁ずる部分が少しだけ残っているのである。
http://www.isonokami.jp/map/11.html

448 :
古代から信仰を集める熊野三山は、滝で有名な那智大社、新宮市にある
速玉大社、それと本宮大社からなる。
それぞれ全く別系統の神社である。

熊野本宮大社は、かつては熊野川・音無川・岩田川の合流点にある
「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。
明治22年の大水害のときまで、中州の森の中に、末社まで含めると幾十もの
社殿があった。この旧社地は、社殿が造られるようになるまでは、水に浮かぶ
原生林の森であった。
いわば沖の島と同じような「島」であった。
この島そのものが神であり、禁足地であったと思われる。
現在の本宮大社の社殿は、明治の水害で残った社殿を、水害の虞れのない
高台に移したものである。
http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html

熊野速玉大社は神倉山にある神倉神社の分社である。
神倉神社に社殿が無い時代、社殿を造ろうということになり、その新宮として
街中に建てられたのが速玉大社である。
現在は速玉大社が本社となり、神倉神社は摂社ということになっている。
神倉山は速玉大社の裏手・千穂ヶ峰の東南端にある。直線で1.5キロほど
の距離である。
ゴトビキ岩で有名である。これは巨大な磐座(いわくら)で、ここに熊野大神が
降り立ったと伝えられる。この磐座ないし山全体が神であった。
現在、鳥居手前に太鼓橋が架けられ、下を市田川という川が流れている。
奥に進むと猿田彦神社があり、その右手に滝がある。
https://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/63676412.html
https://ameblo.jp/tohya0109/entry-12124591640.html

昔は神社の祠も階段も橋も無かったであろう。滝はもっと水量があっただろうし、
川は勿論現在の放水路のようなものではなく、神倉山を水源とする自然の清流
であった。山に入ろうとする者は、麓の川や滝で身を浄めたのだろう。

那智大社は滝そのものがご神体である。だから地元では滝といわず
御滝(おんたき)という。昔は熊野御滝は滝周辺の山全体が神域であり、山に
入れないため海上から拝んだものらしい。
海側から上陸するには、今の沖の島のように船から降りて海に入り、
海水で水垢離をしてから上陸したと思われる。

449 :
京都の上賀茂神社は、本殿の両側を川が流れている。
明神川という一本の川が神社隣のゴルフ場とのところで二つに分かれるのである。
二つに分かれた川の一方は御手洗川(みたらしがわ)と名を変え、さらに元々は
御手洗川の分流である御物忌川(おものいがわ)と合流する。
三つの川は神社の下流で合流して再び明神川という一つの流れとなる。
http://waterside.fc2web.com/k4-3.html
上賀茂神社周辺や境内を流れる川は、分水したり名を変えたりしてややこしいが、
これは上賀茂の地を元々流れていた川に、明神川という鴨川からの分水を接続
させたためである。明神川は農業用水である。
人工的な流れで水量も豊富であり、上賀茂周辺の景観作成に一役買っている。
だが元々は鴨川の川水で、さほど綺麗とはいえない。
元々の御手洗川や御物忌川は、隣のゴルフ場になっている場所が水源であり、
森や山の麓の湧水が集まった清冽な流れだったのだろう。

上賀茂神社隣のゴルフ場は、戦後進駐軍がゴルフ場としたものである。
広大な森と、森の中の湧水をたたえた幾つもの池からなる神域であった。
「もののけ姫」の森や池を連想すれば近いものがあるかも知れない。
今でもゴルフ場の中に広大な池が二つある。
この森の数キロ北方にある神山(こうやま)が上賀茂神社の神奈備山であった。
(神奈備山とは神が鎮座する山のこと。)。
昔はゴルフ場から神山の山麓に至るまでの広大な森であり、神山と森が
上賀茂神社本来の神地であったと考えられる。
youtubeに京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースのドローンによる空撮映像がある。
https://www.youtube.com/watch?v=nhH4cbQTMzs

450 :
下鴨神社は糺の森(ただすのもり)という森の中にある。12万平方米という
広大な森である。神社の鳥居をくぐって本殿に着くまでに1キロほども森の中を
歩く。森の中を流れる奈良の小川という流れも有名である。
http://www.geocities.jp/nagare_basi/photo/saijiki/06/narano-ogawa-tansatu-02.html
さらに近時、長く消滅していた瀬見の小川が復活した。
http://agua.jpn.org/tour/t4c.html

森の中にはいくつか神地がある。
葵の庭とよばれる場所はかつて禁足地で、その中に神が降りるとされる磐座がある。
そこは「水ごしらえ場」と呼ばれ、正月の若水の儀式など日本中で行われる水の
儀式の本家本元のような場所である。
https://www.travel.co.jp/guide/article/31020/
森の中には船ヶ島というかつて小川に囲まれ島のようであった場所に、奈良殿神地
(ならどののかみのにわ)がある。
かつて斎宮による葵祭の解除(お祓)の神事が行われていた祭場である。
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/nara-kyoto/simogamo-jinjya
/simogamo-naradono.html
川の中の島であるところが熊野本宮と共通する。
そもそも糺の森全体が鴨川と高野川の合流地点にある中州で、島のようなもので
あった。元々は島全体が神地で人が容易に入れない場所だったのだろう。

451 :
下鴨神社続き

境内には御手洗川という川が流れている。
かつては御手洗池という境内にある池(湧水を貯めた池)からの流水であった。
現在は湧水もなくなり、ポンプで給水しているという話である。
水量が乏しく流れはほとんど無い。水は淀んでいる。
足つけ神事という祭りが初夏に行われる。昔のように裸足になり、川を渡って詣でる
祭りである。本来の参拝の仕方を再現したお祭りなのだろう。
このときばかりは水も透き通り豊富に流れる。
たぶんポンプを全開にするのだろう。
https://www.travel.co.jp/guide/article/4153/

452 :
現在長谷寺のある初瀬山は初P川のほとりにある。
寺が出来る前は初P山そのもの、ないし頂上付近の盤座がご神体であった。
長谷寺の本尊・十一面観音は、かつて信仰の対象だった大盤座
(おおいわくら)の上に建てられている。
初Pの語源は泊瀬(はくせ)であり、泊瀬とは両岸の岩が迫って川が狭まり
船ではそれ以上遡れなくなる場所を言う。
今では護岸工事がなされ、両岸に家が建ち並んでいるが、当時は神秘的な
渓谷だったのだろう。
初P渓谷には上流に初Pダムがあり、そのため初P川に流れる水も
普通の川水であり、清流とはとても言えない。

初Pは、伊勢に齋宮として赴く姫宮が数ヶ月ないし一年ほど留まり禊ぎをする
場所であった。
禊ぎを繰り返して身を浄め、ようやく伊勢齋宮に入ることができたのである。
ただし、姫宮が滞留した初P齋宮がどこにあったかは不明である。

初P山の東に、初P川を挟んで与喜山(よきやま)という450メートルほどの
低山が連なっている。ここには南斜面に与喜山暖帯林という常緑広葉樹の
林があり、天然記念物となっている。
http://syunmei.fc2web.com/tenjinyama/yokiyama.htm

与喜山南麓の与喜(與喜)天満神社は、泊瀬齋宮の跡地に建てられたという伝承が
あるという。
昔は与喜山や初瀬山、全体が椎や樫やナギなどの常緑の広葉樹に覆われた森で
あったと考えられる。今も神道では榊を用いることから分かるように、アオイや榊、
ナギなど常緑広葉樹は神の降りる木として神聖視されていた。
それらの大木が群生した山なのだから神の山とされて当然であった。
(ただしナギは正確には常緑針葉樹。広葉樹のような葉なのに不思議である。)

与喜山は初P川と吉隠(よなばり)川に挟まれた三角地帯である。
二本の川の合流地点手前の島状になった土地であるから、神のいます土地と
されて然るべきである。
ずっと昔は、こちらの方が聖地だったのではないか。
あるいは初瀬山も聖地だったとしても、与喜山が中心だったのではないか。
http://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2498.htm

初P川と吉隠川は、長谷寺参道口の西一キロほどのところで合流し、大和川となる。
三輪山の方から言えば、大和川に沿って登って行くと二つの川の合流地点にぶつかる。
正面に見える、二つの川に挟まれた島状の隆起が与喜山である。
与喜山の左、初P川の西側にあるのが初瀬山ということになる。
今でも長谷寺の参道は与喜山の裾を通り、初P川を渡って長谷寺山門に至るように
なっている。

453 :
ここまで詳しく述べるなら
「山門」→「三門」とこだわってほしい

454 :
長谷寺では三門とは言わない。

455 :
年々紅葉がいまいちになってくな
あの熱波じゃしょうがないか

456 :
春日大社には、現在楼門の左側に手水場がある。鹿の像が乗った手水であり
俗っぽい。石の組み方なども雑で、低俗そのものである。
その後ろに祓戸(はらえど)神社の社があり、ここで穢れを祓ってから
参拝するのだという。ここも安普請の神社である。
両方とも現代の参拝客用のものであること言うまでもない。

春日大社では境内を川が流れている。
石で作られた水路を流れているので側溝のような感じである。
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25166003418

この流れの先は楼門左側・回廊の西の外れにある榎本神社である。
神社の下に土管が通っているのだろう。
https://narakanko-enjoy.com/?p=15384
神社の下に滝となって流れ出ている。青龍の滝と名付けられている。
青龍の滝では禊の会などもやっているようである。
http://www.kasugataisha.or.jp/db_pdf/H21-07-11.pdf
しかし禊ぎをするような雰囲気の場所ではない。

昔は、境内の御手洗川で手を洗い身を浄めることができたという。
その頃は、楼門と奥の中門の間は建物も少なく、もっと開かれた空間だった
のだろう。そこに御手洗川が流れ、一部池のようになって禊ぎをする場所に
なっていたのである。
丁度下鴨神社境内の御手洗川・御手洗池のような様子だったと思われる。
ところが、その後様々な建物が立ち並び、水場を置く余地もなくなった。
そこで真っ直ぐな水路にして土管で外に排水するようになったと思われる。
境内で身を浄めるための流れであった証拠に、境内を流れる水路には、
今も御手洗川という名前がついている。

457 :
榎本神社の下に青龍の滝として流れ出た水はどこへ行くのかというと、
再び土管に流れ込んで参道の下を通るのだ。
そしてまたもや滝になって参道脇に放水されるようになっている。
明治八年にこの工事がなされたそうである。
土管から放水される場所は白藤の滝という名前がつけられているが、
放水口がまるまる見えて、とても滝と呼べるようなものではない。
https://narakanko-enjoy.com/?p=20616

しかも、流れ出る水はごく僅か。境内を流れる御手洗川の水量に比べて
少なすぎる。これはどういうことかというと、流れ出た水の大半は万葉植物園に
流れ込むと言われているのである。
言われている、というのは、誰もその流れを見たことがないからである。
万葉植物園との間は暗渠になっていて、そこを通っていくらしい。
一方、白藤の滝として放水された水はどこに行くかというと、「ささやきの小道」
から湧き出た小川の水と一緒になって飛火野を流れる川に合流するという。

御手洗川は植物園内の池に源流があるといわれるのが普通である。
それは春日大社内の流れが御手洗川としての機能を失ったので、境内の流れ
を御手洗川と呼ぶ人がいなくなったためである。
さらに、植物園へ流れ込む水を誰も見たことがないので、植物園内の湧水が
源流なのだと考えて当然である。
しかし、実際は暗渠を流れてきた水なのである。

458 :
万葉植物園から流れ出た水はどこへ行くかというと、荷茶屋(にないぢゃや)
という店の脇を通る。縁台に緋毛氈を敷いた藁葺きの茶店である。
茶店の横に橋がかかっており、その下の細い流れがそうである。
川は緑の谷を深く穿って流れてゆき、渓流の風情がある。
しかし、その流れを遡ってみると万葉植物園の脇からパイプが突き出しており、
そこから流れ出ているのだ。
荷茶屋の下を流れた水は、深い森を抜けて飛火野に入っていくというので
あるが、それも誰も見たことがない。
この流れは途中で消滅し、その先は分からない。

飛火野は奈良公園西側の広大な園地。
別名は春日野である。今は大地も乾燥して芝生の園地になり、鹿がたくさんいる。
奈良公園の典型的な風景である。
一面の芝地であり、写真などでは平らに見えるが、実際はかなり起伏に富む。
公園化されたときにかなり平坦にされているのだろうが、それでも元々は
尾根筋と沢があったのが分かる。
ここを流れる川は、沢筋を流れる昔からの流れでなく人間の作った水路である。
平らな場所をほぼ一直線に掘り通した水路を水が流れていく。
一直線といっても、さすがに公園の中であるから、自然の流れを演出してゆるやかに
カーブを連続させてある。ただ、そのカーブのさせ方が規則的である。
高いところを通している場所もあるので、ときに低地に伏流水が噴出することも
あるそうだ。
この地が今のような芝地になったのは明治以降公園が出来てからで、江戸時代は
森だったという。
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm066.html

森だった感じはこのあたりから想像できるのでは。
ささやきの小道
こういう森が今の飛火野全体に広がっていた。
https://asunara.jp/magazine/scene/2017/01/sasayaki-komichi/

459 :
飛火野を抜けた御手洗川は、バス通りの下をくぐって浅茅ヶ原園地に流れ込む。
浅茅ヶ原園地は春日大社の一の鳥居の右手に広がる野原や疎林である。
中心部分は浮見堂で有名な鷺池である。
この池に御手洗川が流れ込むのであるが、御手洗川だけでこの池を満たすことは
無理と思える。案の定、他に奈良町エリアを暗渠として潜り抜ける「率川」水系の
流れも流入しているらしい。公園化されたのは大正七年。
それ以前は淺茅の生え茂る大湿原だったらしい。
無数の湧水と透き通った池があり、小川があちこちを流れていた。
春になると小川の周囲に花が咲き乱れ、万葉人の行楽地だった。

春日野の浅茅が上に思うどち 遊ぶ今日の日忘れえめやも (万葉集)
という歌がある。

淺茅ヶ原ではなく、淺茅が上というのだから、湿原の周辺の野原で遊んだという
ことだろう。
水辺で芹などを摘んだりもしたのだろうが、茅萱の花穂(ツバナ)は甘いのである。
菰なども昔は食用にしたという。
njun-ouhi-sinkokyu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-ba5a.html

鷺池を出た水は荒池の方へ流れ行き、奈良ホテル前の西池を満たす。その後は
興福寺の方向へ流れ、猿沢の池に流入するのである。

淺茅ヶ原や飛火野をゆく川は途中名前も変わり、姿を消したり現れたりする。
奈良公園内の川は自然の流水ではない。
完全に管理されており、暗渠になっている場所が何カ所もある。
だから昔の形は分からないのである。
川のみならず池もまた昔からあったものとは限らない。
景観作りという思惑もかなり影響しているように思われる。
http://agua.jpn.org/tour/t2b.htm

飛火野の風景
https://narakanko-enjoy.com/?p=8721
昔は広大な森であったことや、背後に神奈備山を控えていること、池や川が多いこと
など、上賀茂神社の上の(今はゴルフ場になった)森に似ている。

460 :
では、そもそも春日大社境内の御手洗川の水はどこから来るのか。
水谷川という境内の端を通る川がある。
春日大社の境内に水谷道(みずやみち)という北に向かう道があり、その道を
三分ほど歩いて突き当たったところに水谷(みずや)神社がある。
社のすぐ脇に橋があり、その下を流れるのが水谷川である。
御手洗川は、実はこの水谷川の上流から分水した疎水なのである。
https://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/0eccf7aa069720d774505c58183ef5ac

まず水谷神社について。春日大社の摂社である。
この神社は、水谷川の上流にある上水谷神社の下社で、上水谷神社というのが
本来の水谷神社である。
本来の水谷神社は御笠山と隣の若草山の間の谷を登っていったところにある。
今は小さな祠があるだけである。
そこでは参拝客が誰も来ないので、出店のような形で今のところに社殿を作った
ということだろう。
本来はこうした場所にあった。
https://ameblo.jp/uhk81507/entry-11712417215.html

おそらくは川の守り神で、水神や龍神を祀る社だったのだろう。
(江戸時代は牛頭天王を祀り、病気を治す神として人気があったらしい。)。
昔は社が七つもあったという。それは江戸時代の牛頭天王社の頃の話だろう。
この水場は、昔は水量が多く、滝ももっと大きかったと思われる。
東大寺や興福寺の僧が修行する場所だったということである。

上水谷神社から水谷川をさらに遡ると春日山原始林の遊歩道とぶつかり、そこを
数百メートル登ったところに「月日の磐」という丸い岩がある。
このあたりに堰を作り、分水して流れてきたのが春日大社境内の御手洗川である。
https://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/0eccf7aa069720d774505c58183ef5ac

461 :
御手洗川は人工的に作られた流れだったのである。
境内に御手洗川を通したのは興福寺の宗徒であるという。鎌倉時代、勝手に
御手洗川を作ろうとして藤原氏の氏の長者の怒りを買い、工事を中止させられた
という記録がある。しかし現に工事はなされているのだから、その後許しが出たか、
或いはなし崩し的に工事をしてしまったのだろう。

春日大社は興福寺の鎮守ではなかったのだが、仏教が優勢になっていって
いつのまにか興福寺に取り込まれるような形になった。
興福寺が春日大社の神宮寺のようになり、春日大社を管理するようになる。
平安中期から僧たちが春日大社で法会を行い、神前で経を読んだ。
そのうち祭神は藤原氏の祖の二神だけでは駄目だ。国の鎮守となすべき
神社なのだからと、鹿島香取の神を勧請してつけ加えた。
さらに、興福寺が若宮を祀り、若宮の祭礼を行うまでになった。
今でも興福寺の僧が春日大社の中門前でお経をあげる社参式という行事が
残っているほどである。春日大社と興福寺はほぼ一体であった。
御手洗川を境内に通すという興福寺宗徒のふるまいは、神仏混淆という状況の中、
寺院の神社に対する圧倒的な優位を背景にしないと理解しにくい。

では興福寺宗徒が境内に御手洗川を通した目的は何か。
まずは参拝者増加のためだろう。湿地や泥濘の中を歩き、裸足で小川を越え、
神社周辺の自然の流れで禊ぎをして、といった参拝の仕方では、訪れる人の
数は限られている。
境内に流れがあって御手洗池もあり、そこで身を浄めることができるというのは、
おそらく最も合理的で新しい(トレンディな)ことだったのである。
一方、境内に川や池を作ることによって、周辺の自然の川や流れでの禊ぎは
不要となる。そこで川には橋をかけてもかまわないことになる。
荷茶屋のところの馬止橋、水谷神社の水谷茶屋横の水谷橋。こうした橋は
境内に御手洗川が通ったのと同じ時期に作られたのだろう。
このようにして神社に参詣しやすくし、誰でもが参拝できるようにするのが
興福寺宗徒の目的であった。

興福寺の方にさらに水を引きたかったからだという人がいるが、もともと本流の
水谷川(吉城川)は興福寺方向に流れており、この流れを分岐して迂回させても
意味がないはずである。
水を分けたのは、ただ境内に御手洗川を作りたかったというだけのことだろう。
だから当時は御手洗川として境内を通した水は、今の万葉植物園や荷茶屋の橋の
ところを通して再び水谷川に戻していたと思われる。

462 :
御手洗川に取水される以前の水谷川は今より大きな流れだった。
まずは、この川(下流では吉城川)が御笠山と山麓を人の世から隔てていた。
さらに今の春日山原生林は水谷川の南側一帯を覆っていた。
淺茅ヶ原園地の方まで手つかずの森が広がっていた。
御笠山山麓に涌き出でる泉は無数にあり、森の中を川が縦横に流れていた。
森の低い部分には細流が集まり、池を作る。陽も射さない暗い森の中に
透明な水を満々と湛えた大きな沼があったりした。
(もののけ姫に出てくる大きな沼を想像するとよい。)。

春日の神の森は、小川や池に囲まれた島のような土地だったのだろう。
そこから原始神道時代の参拝の姿を想像してみると以下のようである。

まず、春日大社は春日造りという神殿が有名だが、最初からあったわけではない。
古い絵図を見ると、今の神殿(四神を祀る四つの祠)の後ろあたりに神地が
あったようである。鬱蒼とした神杉の森の中の、何もない神聖な空間である。
その手前に拝殿のようなものはあったかも知れないが、神の祭り方は
沖の島や宗像神社などと変わらない。原始神道の方式によるものであった。
神奈備山は当然御笠山である。
藤原不比等が710年、御笠山に祖神を招降した。
祖神は白鹿に乗って山上に降臨したとされる。
御笠山は現在も禁足地で人は入れない。ただし特別の許可を得れば奥宮への
参拝が認められるようである。

実は今の春日大社のある場所には春日氏の神が祀られていた。
今のようになったのは藤原不比等が権力を得て、春日氏に委譲を要求した結果
である。ただし不比等は春日氏の神を放逐したわけではない。
榎本神社が元々この地に祀られていた春日氏の神を祀る社なのだという。
鎌倉時代、境内に御手洗川を流す工事をしたときに、榎本神社の下を通すように
したということである。ここから考えるに、榎本神社の神はもともとは水神だった
のではないか。

463 :
>>462 埋め立てですかー で書き込めないためレスを一つ入れる

464 :
今は春日山から御笠山を覆っているだけの春日山原始林が山麓一帯を覆っていた。
森の中の神域に祀られる神は藤原氏の祖神である。
だから詣でる人は藤原の一族でなければならなかった。
(氏神を拝むのはその氏に属する人でなければならないのは当然であった。
同じく、氏寺に詣でるのもその氏の人間だけであった。要するに、氏寺や氏神を
祀る施設というのは氏族集団の持ち物であった。だが平安中期頃から寺社は自立
していく。寺は僧が支配し、一般民衆を相手にして財政を立てるようになっていった。
神仏は混淆し神社は寺が支配した。その結果、どこの寺社でも誰でもが参詣できる
ようになった。)。

春日の神苑の奥に藤原氏の祖神二神が祀られていた時代。
詣でる人は藤原氏の貴族である。

昼なお暗い森の中を歩んだ。
ときに鹿が道を横切る。木漏れ日の奥に群を見ることもあった。
木の間から見える御笠山を目当てに道ともいえないような道を進むと、清らかな
水に囲まれた聖なる森が見えた。
素足になって湿原を歩く。小川を渡り、疎林を越えて又小川を渡る。
湧き水の溜まった池のほとりに出た。引き込まれそうな青い水の周囲を歩く。
彼方の茅萱が生い茂る湿原を、鹿の群れが跳ねながら渡って行った。
やがて二抱えもある杉の大木に囲まれた一角に到達する。
ここが春日の神のいます森である。
近づいていくと、見上げるような巨木が五本立っていた。
人の世と神の世界を分ける神木である。
この神木には触れることも許されない。
さらに、神木の向こう側に入れる人は限られている。
中に入るために足を拭き、新しい木沓を履いた。
家臣(舎人)たちは膝をつき、神木の脇から中に入っていく主人を見送った。

465 :
巨木が林立した中にわずかに陽の光が差し込んでいる。
目の前に鳥居が立っていた。鳥居にはヌルデが巻き付いていた。
鳥居をくぐって小道を進むと、木々の間に白木造りの拝殿の屋根が見えた。
千木が光っている。
拝殿の周囲には白砂が敷き詰めてあった。拝殿の横が入り口である。
太いしめ縄がかけられ、そこに紙垂(しで)が下がっている。
しめ縄をくぐると中はほの暗い。隅のさらに暗い場所に巫女が控えていた。
正面に御簾が垂れている。
拝跪して幣帛を奉る。顔を上げると御簾の向こうに白砂の空間が見えた。
林の中の神地である。拝殿との間に笹が数本立てられ、しめ縄が張り巡らされていた。
神韻とした気配が漂っている。御笠山の陰になった暗く深い森の中で
そこだけが白く浮き上がり、輝いている。
木々の奥から御笠山の黒い山塊が迫ってくるようにも思われた。
氷の塊のような張り詰めた雰囲気に、藤原の公達は神の存在を実感し、戦慄した。

春日山原始林
http://www.enyatotto.com/mountain/nara/kasugayama/kasugayama.htm

航空写真
https://www.google.co.jp/maps/@34.6815782,135.8472135,293m/data=!3m1!1e3?hl=ja

466 :
武蔵一宮である大宮の氷川神社にも御手洗池がある。
奥には蛇の池という池があり、水源は湧水である。
案内板に
「この神秘的な湧水があった為に、この地に当社が鎮座したとも伝えられ
氷川神社発祥の地と云われる。」と明確に記してある。
神域であるとするためには、どうしても水が必要だったのである。
https://blog.goo.ne.jp/contiparati/e/26614924642dcbca3b6a62646cc03a29

そもそもは、湧水による透明な池があって、池の中に島があったと思われる。
その島の中に神地があったか、又は島そのものが神地だったのではないか。
何故なら、江戸時代まで氷川神社の横は妻沼湖という大きな湖であった。
氷川神社を上空から俯瞰すると、左右を大きな川が流れている。氷川神社は
川の中州のような三角地帯にあったのである。
その中に、周囲が乾燥しきった現在でも水が涌きだしている。
とするなら、周辺が湖や湿地だらけだった昔は、蛇の池は現在のものとは
比較にならないほど大きかったはずである。そこに神が祀られたとしたら、
そこには中島があり、樹木が生え茂って森となっていたと考えるのが
自然なのである。

明治以降、皇室の四方拝の対象ともされた神社でも寛政の頃はこうだった。
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/bfd06a3e34f0c2348d9a1101c821a707

境内に天神も稲荷も愛宕神社も住吉神社も石上神宮もある。一方で観音堂も不動堂もある。
主祭神として男神と女神と中氷川様といわれる神(たぶん男神と女神の子)が祀られている。
池の向こうにあるので、おそらく古い時代には上賀茂神社のように白砂を山にして
神の依代(よりしろ)としてあったのだろう。
さらに古い時代は、森の中のただの空間(神地のみ) であった。(沖の島のような祭り方)。

図面は江戸寺際のものだから、神仏混淆が進んで寺のようになっている。
参道を挟むように神宮寺が並んでいる。それぞれ「○○院」という塔頭の形式である。
(大徳寺に塔頭が二十いくつある。みな○○院という寺号である。高桐院などを知っている
だろう。ああいうのと同じ。)。このいずれかに別当が住んでいた。
神宮寺は明治になって全部破壊され、神主の館だけが残っている。今の建物はたぶん明治
以降のものだろうが寺院の形式である。

氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ 。
そして廃仏毀釈をやった。
廃仏毀釈運動では、仏体のご神体を強制的に取り除くだけでなく、より積極的に信仰が改変
されていく。「復古神道」の実現を名目として、 『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれて
いない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが 実施されたのである。

氷川神社も祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。

稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。

おそらく大宮氷川神社の神は三匹の蛇だったのだろう。
それが皇室の祖神であるスサノオ等の三神に変えられた。それ故に皇室の正月の行事である
四方拝の対象とされ、さらに明治以降天皇が数度遙拝に訪れたりもしたのである。

まあ祭神のことはどうでもいい。
大宮氷川神社は元は川に挟まれた島状の土地にあり、その中の湧水の池の中にあった
中島を神地としており、今の神社はその神地の部分に立っているということを押さえればよい。

467 :
最後に常陸一宮の鹿島神宮

ここにも御手洗池がある。湧水を湛えた森の中の池で、幻想的な風景を現出している。
https://icotto.jp/presses/13976
「1日40万リットル以上の湧水がある御神水」と書かれている。

神社の周辺は森であり、その中に「奥参道」と呼ばれる回廊状の参道がある。

昔は森ははるかに大きく、池の湧出量も今とは比較にならない程であったと思われる。
現在は御手洗池しか無いが、昔は広大な森の中に泉や池が無数にあったはずである。

祭神はタケミカヅチノ神。弟のフツヌシノ神とともに現在の鹿島神宮東北の明石の浜に
降臨し、地上を支配していたオオクニヌシノ神から国譲りを受けたとされる。
この、「浜に降臨した」というのが大事である。
つまり、鹿島という地に行くには、昔は船で行って浜に上陸するしかなかったということ
なのである。鹿島という地名そのものが、この地が昔は島であったことを示している。
鹿島という土地は、今でも北浦という大きな湖とその続きの外浪逆浦という小さな湖に
東側を分断された土地である。
この北浦等の湖沼は、昔は浜名湖のように海と繋がる汽水域で、鹿島一帯を囲っていた。
鹿島神宮の森に湧水が豊富なのは当たり前で、鹿島の森は湖に浮かぶ森だったのである。
鹿島神宮には「一の鳥居」が三つある(近時、北側にも建てられ四つになった。)。
現在参拝客の誰もが通る「西の一の鳥居」の反対側に「東の一の鳥居」がある。
この鳥居は明石の浜沿いの海の中に立てられており、柱の間を船が通れるほど巨大である。
この鳥居があるところは、昔、船で鹿島神宮に詣でる人たちの船着き場だったそうである。
江戸時代あたりでも、鹿島には陸を行くより船で行った方が便利だったのである。

平安の頃まで、関東地方は今の霞ヶ浦や北浦等の湖が海まで繋がり、今の茨城県中央部
あたりで上下二つに割れていた。常磐線には「土浦」とか「荒川沖」、「高浜」など、昔は
海のようであったことを想像させる駅名がある(これらは内陸にある駅である)。
関東の東側は川と湖沼地帯だらけで通行は不能に近く、東海道を歩いてきた旅人は、
今の横浜あたりからいったん西の八王子(昔は横山といった)に出て、拝島(これも島だった)
の西側を通って現在の埼玉方面に抜けていたのである。
平安よりさらに時代を遡れば、鹿島地方などは陸地というより、海と湖の間の「洲」としか
観念されていなかったであろう。

468 :
鹿島神宮の参道は西から東に向かって通っている。だが、鹿島神宮の社殿は何故か参道
と向き合っておらず、北を向いているのだ。しかも、参道の一番奥ではなく、参道の中ほどに、
北向きに建てられている。
さらに、社殿は北向きだが、その中の神座は東向きだというのである。
社殿の向きと神座の向きが同じでないというのは出雲大社と共通することだが、このことは
置いておく。とりあえず社殿が参道の中ほどあるということに着目したい。
参道の中ほどにあるということは、参道の両側から参詣人が来るということである。
つまり、海側から来る人も考慮してあるということなのだ。
そして昔は海側から詣でるのが普通だったことを考えると、かつては海側からの参道が
通っているだけで、陸(東)の方向には道など無かったであろう。
あるとすれば今の奥参道がそれである。陸側からは、森の中をくねくねと曲がった道を
歩いて来るしかなかったのである。
さらに今の社殿の場所にたどり着いても、昔は社殿もなかった。
今の御手洗池が森の中に大きく広がり、池の中の中島のような場所が神地とされていたの
だろう。神地は当初は何もないタダの空間であったが、その後は白砂が盛られるようになって
いたかも知れない。

細かいことは省くが、鹿島神宮はいろいろな点で出雲大社に共通するところが多い。
海の側であり、神聖な浜があり、昔は海からしか詣でることができなかった等である。
詣でる人はまずは船から海に入って海の中で沐浴し体を浄めた。
そして浜に上がって森に入り、その中の泉や池を渡り、幾度も足を濡らしながら神地にたどり
着いたはずである。

469 :
あげ

470 :
武光誠 地名の由来から知る日本の歴史 

山の麓は「やまもと」と呼ばれた。
そこから山本、山元や本山、本山などの地名ができる。
この地名の中の「山」はただの山ではなく、山の麓の集落の守り神の住む山をあらわす。
さらに神の住む山を「もり」とも呼ぶことから、森本や森元、杜本、杜元の地名もつくられた。

「小林」の地名もこれに似たいきさつでつくられた。「集落の近くの神々の宿る森林」は
「御林」(おはやし)とか「神林」(かみばやし、こうばやし)となるが、発音しにくいので
「こばやし」になった。

神の住む森をさす地名

「もり」の地名のなかに、神の住む森や神社をあらわすものがある。
それは、社殿の裏山や裏の森が鎮守の森とよばれたことにもとづくものである。

神社(かならずしも建物ではない)をあらわす「もり」の地名は、森の他に
「守」「母利」「茂利」「毛理」「毛利」などさまざまに表記される。
毛利はもとは「もり」であったが、のちに漢字の読みに引きずられて「毛利」になった。

森山や守山は、神の住む小高い山をさす。
岩手県の盛岡市の名m、神をまつる岡をあらわす地名である。
そこの小高い岡に、「不来方(こずかた)城」がおかれていた。
朝廷の東北経営のときに、そこが地の果てとみられたのだ。
そして、そのあたりは「森が丘」と呼ばれていた。
南部家は慶長二年に、不来方の名を不吉なものとみて、それを「盛岡城」と改めた。
森を盛としたのは、盛の字を使った方が、自家が盛んになるようで目出度いと考えたのだ。

471 :
飛鳥・奈良時代にも庭園は造られたが、中国の庭園を模したものである。
飛鳥時代には、地面を掘り下げて粘土を厚く敷き、そこに平たい石を敷き並べるといった
工法で作られていたようである。タイルで作られたプールのようなもので、今日の公園のように、
整備された人工的な景観を楽しむためのものであった。
噴水のような仕掛けがなされているものまであった。
飛鳥・奈良時代は中国の文化を移植するのに急であり、庭園に関してもまだ日本独自のものは
生まれていなかった。岩や木を使ったとしても、中国の神仙式庭園の影響を受けたものであり、
池の中心に大石を積み上げて中島を作り、そこに松やツツジを植え、蓬莱山や須弥山
(しゅみせん)に見立てるといったものであったようである。

昭和50年に発掘された奈良時代の平城京左京三条二坊宮跡庭園には大量の丸石が埋もれて
いた。これは池の周囲を「州浜」にしたからであり、曲水の宴などが催されていたのではないかと
いわれているが、疑問である。
築山が無く平板で、後代の日本庭園のような情緒は感じられない。
池は中国的な風景を作り出すための装置に過ぎなかったのではなかろうか。
すなわち、周辺に柳などを植え、水路(クリーク)の景観を作り出していたのではなかろうか。
あるいは揚子江、又は随の煬帝が作った大運河のミニチュアのような気がする。
現在復元された庭園は、いかにも日本風に剪定された松などが植えられているので日本庭園風
に見える。しかし、当時は現代の庭師がやるような剪定は行われてはいなかったと思う。
玉石が多数使われていたので州浜であったとされているが、自然の川岸を演出したものではなく、
もっと立体的に組んで人工的な護岸にしていたのではないか。
当時中国では川や運河を天の川に見立てることも流行した。
夜、たくさんの浮灯籠を流すと、天上に瞬く天の川の星のように見えた。
奈良の都人が楽しんだのは、このような中国風の宴ではなかったか。
(流れの周囲にこのような提灯を飾って酒肴に供した可能性もある。
https://www.afpbb.com/articles/-/3173991)。

472 :
植栽も和風ではないと思う。
(土中の花粉分析などはアテにならないと思う。)
流れに沿ってヤナギや木蓮が植えられ、中国的な空間を演出していたのではないか。
昔の中国では街路樹の筆頭は槐(えんじゅ)であった。
街路だけでなく、官吏や教養層の家の庭には必ず植えられていた木であり、中国文学にも
よく登場する。魯迅も、夏はよく槐の木の下で読書し、青虫が首筋にヒヤリと落ちた、と書いて
いる。だから槐も当然植えられていただろう。
この庭の中心は、朱塗りか丹塗りの小橋だったのではないか。
中央部分に出島のようなものが作られているが、これは出島ではなく、橋の中央部の基礎が
置かれた部分のような気がする。
奈良の都の人々は、明治の都人士が日比谷公園で西洋式庭園を楽しんだように、中国風の
景観を楽しんだのではなかろうか。奈良の都には川がなく(外京の春日山や御笠山の麓には
小さな川はいくらもあったが)、郊外の淺茅ヶ原などに行かないと水辺の風景に接することは
できなかった。
そうした奈良の人々の、長安の水路などに対する憧れがこの庭園になったのではないか。
日本の庭は平安京から始まるというのが伝統的な理解であるところ、この平城京左京庭園の
発掘でそれが覆ったという人もいる。しかし伝統的な理解でいいのではなかろうか。

平城京左京三条二坊宮跡庭園発掘現場の写真
https://taisi123jp.exblog.jp/22119217/
こちらは写真がいい。景観が上手く捉えられている。
http://mohsho.image.coocan.jp/sanjonibo4.html
唐の都の樹木
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/
11177/615/1/BA67898227_2007_010_011.pdf

473 :
次々と問題を発生させ挑発する反日国家を貴方は許すのか。?
・日本に対する敵国、反日教育・自衛隊機にミサイル発射用レーダー照射・数百人の拉致被害
北朝鮮韓国連合(核・ミサイル保有)核ミサイルで日本都市を攻撃目標か・日本海で不穏活動
・自衛艦の入港拒否・従軍慰安婦捏造、補償問題や各国へ慰安婦像設置・韓国予算の5倍の
賠償、経済協力で賠償解決済・徴用工で完結の条約、賠償協定破棄と日本企業へ賠償命令の
韓国判決・竹島不法占拠と大統領、議員等の上陸問題・東日本の農産物や魚類等食品の
輸入禁止・日本企業の高度技術情報漏洩スパイ・日本製品の不買運動・造船補助金等企
業活動の国際ルール違反とWTO訴訟・史実捏造、日本歴史教科書介入問題・ステンレス
、バルブ等工業製品、農産物等で韓国政府をWTOに提訴・サッカー大会等会場で日本避難
の横断幕・私立大学留学やマスコミ(朝日新聞)等へ大量入社と記事等介入・韓国人窃盗すり
団や産業スパイの国内侵入・天皇の土下座と千年入国禁止の大統領発言・日本海での漁業不法
操業と日本漁船のだ捕・国連での日本批判や行動阻止等反日活動・韓国内での日本文化、芸能
普及禁止・靖国神社参拝と日本帝国の韓国侵略問題・韓国統一教会による拉致監禁、霊感商法、
結婚詐欺、日本人妻の性奴隷化・対馬等の盗難仏像問題・日本海、竹島等の名称変更・旅行者
へぼったくり、すり、・日本海への有害物、糞尿等の領海侵犯、不法投棄で海洋汚染、環境問題
・いちご、桃、ぶどう、リンゴ等農業技術の流出、泥棒問題・韓国資本が対馬を買収、占領か

474 :
古代から、雨乞いの儀式を行うことは、権力者の重要な任務だった。
雨乞いは誰でもが主宰できるものではない。王の専権であった。
雨乞いの儀式を行える者が、その地の王であるといえた。
一つの国が一つの集落であったような時代、国は氏族団体でもあったから
氏族の族長が雨乞いをなしたのである。
雨乞いの場所は神聖な森や林の中の、水の涌き出でる池のほとりであった。
そのような場所には水の神が棲み、雨を降らす天の神と繋がっていると
考えられた。水の神の姿は目に見えないが、人の前に姿を現すこともある。
そのとき水の神は蛇の姿をしていた。少なくともそのように考えられていた。
だから人々は蛇を敬い、蛇をRことは禁忌であった。
古代、人々の神のイメージは白蛇であり、白い大蛇であった。
たしかに蛇がいないような場所では田は作れない。蛇はネズミを捕る。
米作民族にとって蛇を神とするのは自然なことであった。
この大蛇のイメージが龍に変わり、水の神や雨を降らす神に変わっていく。
これは中国の影響であり、だいたい飛鳥時代から日本人は龍神を祀る
ようになっていったと考えられている。
しかし、蛇信仰は無くなったわけではない。仏教の影響で蛇は竜神の眷属
と考えられ、また水の神が現れる姿は、相変わらず白蛇のイメージで
捉えられていた。

475 :
ヤマタノ大蛇は乙女の女陰が好物であった。
大國主の話から蛇神殿があることがわかる。
古事記の「共寝」は神事
イザナギ、イザナミは八尋の神殿で「共寝」神事をした。
蛇と人間との共寝の話はいくつも出てくる。

ニニギの命に出てくる岩長比売(イワナガヒメ)のナガは蛇を想起させる名前。
ニニギの命は蛇神の化身の彼女との「共寝」拒絶したため子孫は短命を運命づけられた。
日向出身の神武天皇の母は蛇体?に変身した。
神武天皇は狭井神社の粗末な室の中で蛇を男親とするイスケヨリヒメと共寝した。
月経中でも神様が共寝を所望すれば・・・・。出雲で御子が共寝した乙女は大蛇だった・・・。
神(蛇)の神威と、蛇の子を授かることを願う儀式?)
古事記には「共寝」「共に寝る」語が多い。
「神と人の共寝」は神事なのか。

476 :
京都で一番最初に作られた庭園が神泉苑である。
御所の南側にあり、広大な池とそこに流れ込む泉とからなっていた。
当然、池と泉の周囲には森もあったろう。
御所の南にあるというより、この池と泉と森があったからこそ、ここに
御所が作られたのである。
小さな集落が国であった時代、森とその中の泉と池が必須な存在であった。
それと同じように、日本という国の都を作るにしても、森と泉と池は必要だった
のである。京都盆地のほぼ中央にあるこの巨大な池こそ、京の中心になる
べき場所であった。

神泉苑の水の湧き出す穴の奧には龍神が棲んでいるとされた。
竜神の名を善女(善如)竜王という。
雨乞いの儀式は当然ここで行われ、主宰するのは当然に天皇であった。
しかし、平安京が作られた時代は仏教全盛である。飛鳥・奈良時代約100年の
間に皇室は中国文化に浸りきり、古代神道の典礼は廃れていた。
だから、日照りの歳、ここでおこなわれた雨乞いの儀式は仏式であった。
祈祷したのは桓武天皇ではなく、西寺の守敏と東寺の空海であった。
守敏の祈祷によっても雨は降ったが、空海が真言を唱えると土砂降りとなった。
空海の祈祷の折、善女竜王たる龍が現れた。
しかし姿は金色の蛇であったという。

神泉苑のほとんどは、二条城の建築によって無くなってしまった。
池の規模は現在のものは往時の十分の一以下であるという。
二条城のお堀のために、水源も奪われた。池は小さくなるほかなかった。
二条城二の丸御殿の庭園は、神泉苑の名残でもある。
本丸の方の庭園は明治になってからのものである。

477 :
次々と問題を発生させ挑発する反日国家を貴方は許すのか。?
・日本に対する敵国、反日教育・自衛隊機にミサイル発射用レーダー照射・数百人の拉致被害
北朝鮮韓国連合(核・ミサイル保有)核ミサイルで日本都市を攻撃目標か・日本海で不穏活動
・自衛艦の入港拒否・従軍慰安婦捏造、補償問題や各国へ慰安婦像設置・韓国予算の5倍の
賠償、経済協力で賠償解決済・徴用工で完結の条約、賠償協定破棄と日本企業へ賠償命令の
韓国判決・竹島不法占拠と大統領、議員等の上陸問題・東日本の農産物や魚類等食品の
輸入禁止・日本企業の高度技術情報漏洩スパイ・日本製品の不買運動・造船補助金等企
業活動の国際ルール違反とWTO訴訟・史実捏造、日本歴史教科書介入問題・ステンレス
、バルブ等工業製品、農産物等で韓国政府をWTOに提訴・サッカー大会等会場で日本避難
の横断幕・私立大学留学やマスコミ(朝日新聞)等へ大量入社と記事等介入・韓国人窃盗すり
団や産業スパイの国内侵入・天皇の土下座と千年入国禁止の大統領発言・日本海での漁業不法
操業と日本漁船のだ捕・国連での日本批判や行動阻止等反日活動・韓国内での日本文化、芸能
普及禁止・靖国神社参拝と日本帝国の韓国侵略問題・韓国統一教会による拉致監禁、霊感商法、
結婚詐欺、日本人妻の性奴隷化・対馬等の盗難仏像問題・日本海、竹島等の名称変更・旅行者
へぼったくり、すり、・日本海への有害物、糞尿等の領海侵犯、不法投棄で海洋汚染、環境問題
・いちご、桃、ぶどう、リンゴ等農業技術の流出、泥棒問題・韓国資本が対馬を買収、占領か

478 :
scfdftgkji;l

479 :
あげ

480 :
age

481 :
Eテレ 庭作り沼にはまったさん

482 :
神泉苑は、大内裏(京都御所)に接して作られた庭園である。
というより、森と池と泉があるからこそ、ここに大内裏が作られたという関係にある。
このことは上に述べた。
(なお、当初の大内裏の位置は現在の京都御所とはやや異なる。小さいことだが
一応書いておく。)。
それはともかく、神泉苑は禁苑(皇室が専有する庭園)とされた。
東西二丁(約210m)、南北四丁(約420m)に及ぶ広大な大園池であった。
池の周囲には乾臨閣その他の唐風の建物が並び立ち、池の水面に陰を写していた。
岸辺には多数の庭石も配されていた。これは上述の金閣の池と同じである。
中国の園池は、色彩の美しい大石を数多く岸辺に置くのである。
平安遷都当時は、平安文化はまだ育っておらず、ほとんど中国文明そのままであった。
奈良時代からの中国文化の模倣そのままの伝統に従って、中国風の庭園を作り上げた
のであった。
神泉苑は、漢の武帝の上林苑の中の甘泉宮などをモデルにしたといわれている。
だから、庭園の景観も中国の禁苑風であり、植栽は柳や木蓮やエンジュ、楡などが多く、
梅林などもあったと思われる。
庭園の活用の仕方も単なる鑑賞にとどまらなかった。
中国風に上流宮廷人の社交の場として使用され、狩猟・釣魚・舟遊などに用いられた。
鴨猟はこの当時から行われていただろう。鴨場も当然にあったはずである。
釣りは釣場も設けられていただろうが、舟に乗って行われることもあった。
船遊びは盛大な催しとして行われることもあったと思われる。
池に浮かぶ舟は赤・青・緑・黄色など極彩色に塗られ、舳先を龍頭の形に彫った唐船で
あり、船頭も中国人の衣装であった。
皇族や上流の貴族が乗る舟には中国の豎子の姿をした子供が控えていた。
(豎子はジュシと読む。童子の意味であるが、仙人の召使いのこともある。)。
平安の都には後々無数の庭が造られたが、平安遷都当初は天皇が中国の皇帝の真似を
するために作られたといっても過言でない。
奈良・平安初期の日本では中国文明の影響が圧倒的であった。
平安京が唐の長安をモデルに作られたことと同様、平安京建設当初の庭園は、中国の
実在の庭園や景勝地をモデルとして造られたことは疑いようのない事実である。

483 :
甘泉園の上流に椿山荘があるんだっけ

484 :
椿山荘のもっと上流に後楽園があるんじゃなかったっけ?

485 :
桓武天皇がはじめて神泉苑に行幸したのは西暦800年であるという。
都を開いて6年後のことである。
そのときには船遊びに興じている。
その後を継いだ平城天皇も数回行幸し、以後代々の天皇も神泉苑に詣でることを
恒例とした。
神泉苑には中国の禁苑(皇帝の個人的な庭)の影響を受けた御遊池としての性格がある
一方、神聖な儀式の場所としての性格もあった。
上述のように、京都を干魃が襲うたびに祈雨の儀式が執り行われた。
さらにここで御霊会(ごりょうえ)という怨霊払いのための儀式が行われた。
夏になると都には疫病が流行る。当時の人は疫病は怨霊の仕業と考えていた。
そこで怨霊退散の法会が御所の裏鬼門にあたる神泉苑で行われたのである。
これが祇園祭の元になったという。
祇園祭が御池通りで行われるようになった後も、しばらくの間は山車が神泉苑まで来る
習わしであったということである。
他にもここで行われた宮廷儀式は少なくない。なかでも重陽の節句が有名である。
9月9日に菊花を賞して群臣を集め宴を賜るのが恒例であった。
最初のうちは神聖な儀式として執り行われたのだろうが、年中行事化して饗宴に
比重が移ったものだろう。
重陽の節句は中国の習俗的行事である。
中国人は陰陽五行説によって数を隠と陽に分け、偶数が隠で奇数が陽であるとした。
奇数が陽で縁起の良い数字であるところから、一、三、五、七、九の陽の数字の重なる日、
すなわち一月一日とか三月三日などを重陽の日とし、節会(せちえ、節供)を催した。
陽の数字の中でも九は最大のものであるから最も縁起のよいものだとして、それが二つ
重なる九月九日を特に重んじた。一般に重陽の節句といえば九月九日のものを指す。

486 :
節句とは季節の節目を言い、古くは祭礼を行う日であった。
その後、仏教が入ってきて、祭礼の様式が仏教の法会になったのである。
一月一日以降奇数の重なる日は全部重陽の日で五節句と言うのであるが、上述のように
ただ重陽の節句といえば九月九日のそれを指したのである。
九月九日を特に重視したのは、九が陽の数字中の最大のものだからだが、九が二つ
重なって陽の気が強すぎるため災いが起こるというのも理由とされた。
だから、九月九日の重陽の節句いは、特に邪気払いの性格が強いということになる。
邪気払いのため、宴には菊が多用された。
秋に咲く菊は長く咲き続くため、古来長寿の花とされた。
また香りが強く、その香が邪気を払う力があるとされていたためである。
菊を飾るだけでなく、菊を漬けた酒を酌み交わし、菊花を料理して食べた。
その他、衣類に菊花を挟んで畳み香りを移したり、菊の花を浮かべた湯で体をぬぐうなどの
習慣があった。
その他の重陽の日も、植物の生命力を借りて長寿と健康をもたらそうとした。
一月一日が人日(じんじつ)の節句で、七草を食べる。(これが一月七日の七草になった。)。
芽生えたばかりの野草の力を取り入れようとしたのである。
三月三日が上巳(じょうし)の節句で、桃を飾る。桃は古来、生命を象徴する果実であった。
五月五日が端午の節句で菖蒲を飾り、また菖蒲やヨモギを軒に下げた。
酒に菖蒲の葉を漬けた菖蒲酒を飲み、菖蒲の葉で包んだチマキを作った。
香りの高い菖蒲を湯に浮かべ、その湯で体をぬぐったりもした。
七月七日が七夕(しちせき)の節句で、笹を飾る。笹はどこにでも繁茂する生命力の強い
植物であり、また冬でも青々としている。笹の持つ力にあやかろうとしたのである。
日本では、笹の葉に白、又は金銀や五色の紙(しで、という)を付け、御幣(ごへい)の
ようにした。それで家中のケガレを祓い、最後にその枝を川に流すというようなことが
行われていたようである。
因みに、長崎くんち、唐津くんちなど、おくんちと呼ばれる祭りは、九月九日の重陽の節句が
起源である。九日(くにち)の九州訛りが「くんち」なのだという。

487 :
五行説は、この世は「木・火・土・金・水」の5つの元素からなるとするものである。
5つの元素を色にあてがうと「木=青(緑)、火=赤、土=黄、金=白、水=黒(紫)」だという。
それゆえ、この五色の布や紙で何かを作ると、それが万物を成す5つの元素が守ってくれる、
つまり邪気を祓ってくれると信じられていた。
例えば、日本では五月の節句に鯉幟を立てる。真鯉緋鯉の他は吹き流しであるが、この
吹き流しは五色の布で作られる。子供の魔除けの意味を持つのである。
上記七月の節句で、笹に五色の紙をつけるのも同じ意味がある。
寺の五色幕も魔除けの意味で張られたものである。
長谷寺の五色幕
https://greenrose.exblog.jp/8955349/
成田山深川不動堂
http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=960
お寺の五色幕には、青は釈迦の髪の色だとか一色ごとに意味があるとされ、あるいは
五智如来など仏の智慧を表すとされることが多い。しかしそれらは後付けの説明である。
神社の拝殿などにも、五色絹(ごしきぎぬ)と呼ばれる布が下げられていることがある。
神仏分離前は寺も神社も一緒だったのだから、伝統としては同じである。
五色が並ぶ順序は、?(青)、黄、赤、白、紫である。
み・ぎ・あ・し・紫  右足紫と覚えるそうだ。
ただし真榊の場合は両端から中央に?・黄・赤・白と並べてきて中央に紫を置く。
http://shinguya.com/special_order/19540
先頃の即位礼正殿の儀において、菊花章中錦旛などの他、「菊の御紋」が金色で刺繍
された赤、白、青、黄色、紫の5色の「錦旛(きんばん)」という旗が22本立てられた。

488 :
古くは『延喜式』に、神前に供える幣物として「五色幣の料の絹」「五色の帛」「五色物」
が規定してある。五色に彩られたものが祭料として欠かせぬものであった。
これは今日でも変わらない(今日というか戦前まで。)。
宮中から勅祭社に奉献される幣帛は五色の布帛であった。
神前に供える御幣も白色の他、五色のものが用いられている。
巫女が舞うときに持つ神楽鈴という鈴にも五色の紐飾り(布飾り)がついている。
「五色の御幣」で検索してみるとよい。興味深い写真が見られる。
具体例として 平成天皇の御幣物(五色の布帛) ← この文字列を検索してみるとよい。

御幣物に関連して、出雲大社での御幣物奉納の礼。
ttp://www.izumooyashiro.or.jp/saitens/181
神主の着ている衣服が興味深い。
神主の正装は袍(ほう)を身につけ、袴をはく。
正服もやはり五色が使ってあるのが普通である。
しかし、出雲大社では袍は黒、赤、青、白のようである。
黒の袍を身にまとった人はおそらく勅使だろう。
単衣の襟は全員橙色である。さらに青の袍の神主は浅黄の袴をはいている。
浅黄は水色に見えるが、日本では黄色とされる。
これで黄色は使ったことになるのだろう。
黄色の袍は無いようである。黄色は皇帝の色だからか。

489 :
水引きや正月飾り、縁起物の熊手、上棟式の幡(ばん、旗のこと)など、伝統的な
ものは五色が使ってある。(ただし黒の代わりに紫が使ってあるものが多い。)。
水引きは本来一色ごとに一本の紐を五本組み合わせた飾りを使ったのである。
正月飾りは、よく見れば五色を使っているものが多い。
ただし、最近は日本の伝統的な色使いでないものが出回っているようである。
金銀を多用し、それに光沢のあるオレンジや薄緑色を配色したような、エスニック風
と言うようなものが多くなっているような気がする。
鏡餅は、三方の上に半紙を敷き、昆布と裏白(羊歯)を敷いてその上に餅を乗せる。
餅の上に橙(だいだい)を乗せて、餅に紅白の紙垂(しで)を付けた。
半紙が白、昆布が黒、裏白が青(みどり)、橙が黄色、紙垂が赤である。
裏白以外にユズリハの葉を飾ることもあった。
餅は神饌(しんせん。神に捧げる食事)なのであるから、五の組み合わせは厳格に
なされなければならない。近時いい加減な配色が多いのは考えものである。
ただし、五色が守られれば位置はどうでもよく、橙は両脇に置いてもよい。
紙垂は両脇に下げるのでも棒につけて立てるのでもかまわない。
紙垂は白一色で、敷き紙に赤を使うのでもよい。
鏡餅の原型にあたるようなものは平安時代からすでに存在し、源氏物語にも
出てくる。武家では鎧の前に飾るものであり、具足餅などとも呼ばれた。
なお、吉野裕子著「蛇」 (講談社学術文庫)によれば、鏡餅は蛇(蛇のトグロ)を表して
おり、小さなまる餅は蛇の卵を表しているんだそうである。

490 :
中国でチマキに五色の糸を巻く伝統など。
ttps://ameblo.jp/madelinem/entry-10269253051.html
なお、陰陽五行説によると、白黒の二色取り合わせは決して縁起の悪いものではない。
白は太陽の光、天をあらわし、黒(玄)は万物を生みだす台地の玄色である。
白と黒との組み合わせは陰陽交合を意味し、目出度いものであった。
もし白黒の取り合わせが不吉であれば、囲碁の碁石などは使えないことになる。
碁盤は天地を表し、白黒の碁石によってよき形(象)を作るのが囲碁の本質であった。
白黒の幕(鯨幕)が葬式に使われるようになったのは大正時代頃からである。
江戸時代には貴人の行楽(たとえば花見)に使われる幔幕は鯨幕が多かった。
明治時代に出版された江戸城大奥の女中だった老女からの聞き書きによれば、
西の丸(将軍生母や妻)主宰の花見や紅葉狩りのときに張られる幕は白黒の鯨幕で
あったという。

491 :
ロンドン橋
本がない所
香水がないところ
羆に喰われて死んだけん今夜お葬式

492 :
鎌倉でおすすめのお庭ありますか?
瑞泉寺と報国寺のお庭はいいなと思った
座ってのんびりできる場所があると最高なんだけど

493 :
>>492
海蔵寺

494 :
>>493
ありがとう!行ったことないとこだ
秋と春綺麗みたいだから春を狙って行ってみるよ

495 :
神泉苑での儀式から重陽の節句の話になり、そこからさらに陰陽五行説の話に
なった。脱線というべきだろうが、陰陽五行説は日本庭園に深い関わりがある。
後々触れることもあるだろうから、全くの無駄でもあるまい。
神泉苑に関連して、さらに苑と庭の違いについて述べたい。
中国の皇帝は王宮以外に巨大な別邸をもった。そこで政務を執るならば離宮であり、
休養や娯楽のための施設であれば別荘である。
別荘であっても周囲に城壁が築かれ、城壁の外側は広大な林野であった。
今日の日本で言えば、別荘とその周辺の山林などをすべて含めたものと思えばよい。
中国では、この山林原野の部分を「苑」といったのである。
苑は園である。苑ないし園は到底管理など出来ないほど広い。
だから、苑・園はどちらかというと自然のままの林野という性格が強い。
囲いが無く、その中に宮殿がなければ山林原野と変わりはない。
上で少し触れた、漢の武帝が長安の西につくった「上林苑」と呼ばれる苑は、
方三百里あったという。
前漢の一里は400メートルであるから、120キロ四方ということになる。
120キロ四方だと、面積は14400平方キロメートル。
岩手県の広さが15280平方キロだから、岩手県より5〜6%小さい程度と
いうことになる。この広さの林野が自然のままに保たれるのであるから鳥獣
は豊富であった。さらに苑内では動物園のように多種多様な動物が飼われ、
加えて狩猟用の鹿なども大量に飼育されていた。
中国の皇帝は時に数万あるいは十数万の兵を催し、狩猟を楽しんだ。
林苑の中には70箇所もの離宮があり、それはどれも馬車一千台、騎一万を
収容できるほどの大きさだったという。
皇帝は離宮間を移動しつつ遊猟し、毎夜宴を催した。

496 :
DCY

497 :
一方、庭というものは、もともとは平らな場所を意味した。
平らで、ある程度広い場所であれば、海だろうと陸地だろうと庭と言った。
海の入江の中の、波立たない海面を庭と言うこともあったのである。
陸上では、平坦で木も生えておらず、何も無い場所を庭と言った。
森林の中などに入って行くと、何故か木が一本も無く、野原になっている
ような土地がある。あるいは湿地の葦原の中に、そこだけ葦が生えて
いない乾いた土地があったりする。
そうした場所を庭と言ったのである。
そのうちに、神域の中の、あるいは神域に接続した、平らで何も無い場所を
庭と呼ぶようになった。
中国でも日本でも、神域には一切人間が立ち入ることはできなかった。
立ち入るどころか、神域には近づくことすらできなかった。
しかし、時代が下がると、人間と神の領域が接近してくる。
神域に接続して、そこで神に捧げ物をしたり、儀式を行うための場所が設け
られるようになった。「神域に接続して」と言っても、もともとは人間が立ち
入ることのできない場所である。正確には神域というべき場所であった。
神域の一部が開放され、神官や王族など特別の人間だけが入れるように
なったのである。
こうした場所を「庭」と呼んだのである。

498 :
人が立ち入るようになると、そこを自然のままに放置することはできなくなる。
最低限、枯葉や枯れ枝を除けたり通路を保持したりすることは必要であるし、
神域との境界であるから、神域を侵さないためにも厳重に管理しなければ
ならない。
今日でも神社の境内は常に掃き浄められているが、これと同様である。
庭というものは、つねに人の手により管理され、清浄に保たれていなければ
ならない場所であった。

以上要するに、苑(園)というものは自然そのままに存置された山林や原野を
言い、庭というのは人間の手の入った管理された領域を言うことになる。
囲繞の程度も異なり、苑(園)はある程度囲いや柵によって周囲を囲われる
こともあるが、その広大さの故に基本的に境界は不明確である。
庭は、建物や柵によって厳重に囲われ、勝手な侵入などは許されない場所
であった。

499 :
庭というものは、そこで神に捧げ物をしたり儀式を行うための場所であったが、
その性格を残すのが宮廷の庭である。
庭での儀式には百官が居並び、庭幡(ていばん)という旗を立て、そこに高殿
を設け、台(玉座)を置き、皇帝がそこで詔書を読みあげる。
あるいは舞台が作られ、その上で舞楽が催されたりした。

先頃行われた即位礼正殿の儀も、雨天でなければ皇居正殿(京都御所の
紫宸殿にあたる建物)を開け放ち、正殿内に置かれた高御座(たかみくら)の
前庭に文武官が居並ぶ形で行われるはずであった。
天皇は神であるから紫宸殿の中の高御座(たかみくら)に登られる。
皇后様の御座「御帳台(みちょうだい)がその脇に並ぶ。
そこから十八段の階段の下が南庭である。
階段で神と人との領域が画されている。
ttps://discoverjapan-web.com/article/12179
もともとは目に見えぬ神に対して行っていた儀式を、現人神である天皇に
対して行うようになったのだろう。

500 :
京都御所紫宸殿南庭は天皇に捧げものを奉り、あるいは儀式を行う場所であり、
階段の両脇に左近の桜・右近の橘が植えられている以外何も無い。
白砂が敷かれているだけである。
桜・橘が植えられているのは、百官が整列する際の目印とするためである。
(現在の紫宸殿は安政年間に建造されたものだが、かなり忠実な再建といわれ、
歴史的に意味のある建造物とされる。)
白砂が敷き詰められているだけの庭は、京都御室(おむろ)の仁和寺にもある。
仁和寺は光孝天皇の勅願寺として建立されたが、宇多天皇(菅原道真を取り
立てたことで知られる)がここに御室(おむろ、住居用の御殿)を建て、院政を
行った。上皇としてここで政治を司ったことから朝廷と同様の南庭があった。

501 :
神託によって政治が行われていた時代には、庭とは神意を問うための卜占を
行う場所であった。
中国では「卜庭」という、卜占(ぼくせん)専用の庭があった。
亀甲を焼いて占う亀卜(きぼく)は、おそらく神域に接した庭で行われていたので
ある。日本では「太占」(ふとまに)といって鹿の骨が焼かれていたが、亀卜も
行われるようになった。
亀卜は中国では唐代に絶えたが、日本では皇室の秘技として続けられ、
今日でも大嘗祭に用いる稲と粟の採取地を選ぶ際に行われている。
先頃の大嘗祭においても、皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。
小笠原で獲れたアオウミガメの甲羅が使われたという。
亀甲のヒビの入り方により、斎田候補の地が京都府と栃木県に定められた。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201905/CK2019051302000241.html

「古事記」仲哀天皇条に、熊曾征伐に際して、筑紫で「神寄せ」を行ったとき、
天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭に居て、后の息長帯日売命(おきながたらし
ひめのみこと)に神を寄せたとある。
(天皇御琴を控かして、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。)
后が霊媒者となり、武内宿禰が神託の判じ役になっていたのである。
この神寄せが行われた「沙庭」というのは、読んで字の如く「砂の庭」のことで
あるが、普通の砂ではなく浄められた砂のことであろう。
だから沙庭を「清庭」とも書く。清庭は「さやにわ」とも読む。
源氏物語では「斎庭」と書かれている。齋み(いみ)清めた場所の意味である。
沙庭(清庭、齋庭)とは、神を降ろすための清浄な場所を言うのである。

502 :2020/02/13
沙庭という言葉は、後には託宣の意味を判断する審判者(武内宿禰がやった
役目)を意味するようにもなった。
日本書紀に、神功摂政前(北野本南北朝期訓)「中臣烏賊津使主を喚(め)して
審神者(サニハ)と為す」という記述がある。
憑依者は断片的に神や霊の言葉を語るだけなので、意味が判じ難いことが多い。
正確にその言葉の意味を判定する人間が必要なのである。
それとともに、意味もはっきりしない巫女の言葉一つで国家的な事項が決まる
のではたまったものではない。託宣の意味を判断するという形での託宣の
修正や変容は容認しないわけにはいかなかった。
有名な宇佐八幡神託事件で、一旦は道鏡を皇位にという神の託宣があり、
その神意を確かめるため和気清麻呂が派遣された。
この場合、神が降りるのは宇佐八幡の巫女で、巫女が口走ったことを清麻呂が
判定するのである。憑依した神が巫女に語らせる言葉が何を意味するのか、
結局は審神者の判定によるのである。
清麻呂は以前の託宣を覆し、称徳天皇の怒りを買って大隅に流される。
清麻呂は沙庭(託宣の審判者)として宇佐八幡に赴いたのである。

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