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/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門143m (ワッチョイ無)


1 :2017/12/13 〜 最終レス :2017/12/14
【アフィサイトへの転載・誘導禁止】

富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。
>>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。


■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1
「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■ 普段から対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/

2 :
 
※過去スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
 

3 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。

初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

4 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
  

5 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1。  
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
  

6 :
 
■リンク 
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI 
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
  

7 :
 
■富士山の天気

・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;ba=kk
  

8 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。 
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
  

9 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物

◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
  

10 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
  

11 :
 
■高山病の予防と対策

高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
  

12 :
 
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/
 

13 :
 
■ 異常者による荒らし予告

SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

■ 連投荒らしの抽出
(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
  

14 :
 
ちなみに異常者はIP表示スレは荒らせないようです。
 
こちら。
 ↓
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131m
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505904686/
  

15 :
1乙〜
周知が捗りますね

16 :
今日も元気にコピペーラッセラー
コピペーラッセラー
\(^o^)/

17 :
除雪出動式
冬の風物詩 大雪に備え、富士吉田の道の駅で 国道事務所 /山梨
http://mainichi.jp/articles/20171205/ddl/k19/040/153000c

朝夜の冷え込みが厳しくなり、県内各地で冬本番を迎える準備が進んでいる。

18 :
富士山麓(さんろく)では連日、最低気温が氷点下となり、除雪車が始動した。
観光地や住宅街では発光ダイオード(LED)やランタンが飾り付けられ、「クリスマスモード」に包まれている。

19 :
道路が雪や氷で通行が困難になる「雪氷期間」(1日〜3月31日)に突入した4日、国土交通省甲府河川国道事務所は富士吉田市の「道の駅富士吉田」で除雪の出動式を開いた。

20 :
2014年2月の大雪では、車が立ち往生して渋滞が県内各地で発生し、除雪作業が進まなかった。
この経験を機に同事務所は除雪機を57台から118台に増やし、今シーズンも備えている。
式では尾松智所長が「日ごろの備えが必要」とあいさつ。
富士吉田市の前田重夫・副市長は「情報を共有して冬場に臨みたい」と述べた。

21 :
雪を路肩にかき寄せて車道を確保する「除雪グレーダ」、路肩に寄せられた雪を取り除く「ロータリー除雪車」、路面の凍結を防ぐ「凍結防止剤散布車」に富士山の水をかけて安全祈願した。

22 :
一方、富士吉田市と鳴沢村では2日、初冬に増える古タイヤの不法投棄防止キャンペーンが行われた。

23 :
車での来場者が多い道の駅富士吉田などの2カ所で「不法投棄厳禁」などと書かれたティッシュやチラシ入りの袋を配った。
富士北麓地方では、冬用タイヤに交換し終えたドライバーらが、山林の道路沿いに古タイヤを捨てるケースが見受けられるという。

24 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅

25 :
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝

26 :
ため、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真三保松原(現
在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定197
6年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除19
89年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指
定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管理
の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士
山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立し
た火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人
の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによ
る顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」
である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて
一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみ
ならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世
界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画では、顕著な普遍
的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「
顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝
地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整理を行った
。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関
わるもの表富士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の
背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩

27 :
た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
る岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこ

28 :
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士

29 :
カプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡
構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプ
レートの境界域(三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山の
マグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。
富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること
、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄
武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂山頂火
口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これ
を囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣
ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m2014年4月1
日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m
2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると
、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は7
80m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市
にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。
2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平
太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地理院がイ
ンターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地
点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっている
ため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山
梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示につ

30 :
側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2
,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いてい
る。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されて
いる。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火
詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1
千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新

31 :
田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物
跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)
・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社
・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽
子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの
展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿
・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜
の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)
B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・
石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜
頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)
・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手
水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠
・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢
(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥
居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨
士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・
移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座
敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八
海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、

32 :
る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれる

33 :
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境

34 :
よう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(
1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面
に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている
。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山
」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期
が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始ま

35 :
型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制

36 :
雷岩、割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院
に沿って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関
わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登
山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約
3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に
、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自分の
院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んで
あった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(
1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写真札
打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口登山道跡と富士
山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一
段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり、上−45
−段には小さな祠が建てられている。また下段には、南東から北
西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼ばれ、駒立
小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登るこ
とを許されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと
考えられる。下段平坦面の南側には溝が東西方向に延び、西側の
森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性
が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡よ
り北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神
の祠が並んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月
日」、八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれてい
る。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843
)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、
安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘
ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸
」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられている。
井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の

37 :
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照富士山と

38 :
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その
後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていた
と見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新富士の山頂から溶
岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、
約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが
、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。延暦19年−
21年(800年−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩
を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった
。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性
の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代
が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語
』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、
平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした
文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残され
ているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝
永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代
まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山に
はいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山と

39 :
川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出物
による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、
鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の
植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的
とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とそ
の他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素
と密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要
素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成す
る諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表
において分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構
成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重
なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山
体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観
点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富
士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり
「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑が一部残
存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山体を一周する。15〜16世
紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4
1−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1500
m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図

40 :
の中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5
年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石
像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究
所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地
面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えら
れる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘が
ある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口
南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
ると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。
廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物
跡7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平場中央
部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つ
の北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石
組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載って
おり、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた
「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂
は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土
記』にあり、また末代上人が建てた往生寺があったところだとも
いわれている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山
道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m
)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。
東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建
物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道
跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、

41 :
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂

42 :
ことも重なり、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技術
総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ
富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終
了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3
回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されてい
る活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メー
トル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島
周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に
伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁
)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施
する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない
。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に
富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関
する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的
に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められてい
る。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石
流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日
、「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は20
16年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落し
た登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が

43 :
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある

44 :
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある

45 :
登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸
時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥
宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p
)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が
彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之
山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された
。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北
奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口
登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(
旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で
あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称
した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた
かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の
柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験
あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも
水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a
)石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2
つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A
(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている
。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻して

46 :
のである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面
図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,4
40m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径
は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜けること
ができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしで
あった。かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災によ
り天井部分が崩落し、現在の長さになった。崩落した部分は、長
さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として須

47 :
。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きてい
る(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境
富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹
海」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3
月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1
929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静
岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として
地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地

48 :
、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと
上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研
究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所
)などに山の砂が巻き上げられ、西風
に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山

49 :
(=^x^=)

50 :
規模な山体崩壊(「御殿場なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43

51 :
の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅
間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それ
ぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉
集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉時代中期には山頂
の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『
駿河国新風土記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ
ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払
拭したものに変更された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
る発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回
り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つを
もって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]
かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ
立っているためにこの名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて
多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じら
れたが、麓からの石と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰の写真図
気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳
とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また二
等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳とも呼
ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである
。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存
し、首から上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が
確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつ
ては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口の方

52 :
に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。
年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保
3年(1083)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年
に実施した測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高
1,485m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩
流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写
真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置
されている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道
復興後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御
胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられてい
る。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」
と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置され
ている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、
石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の
境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和
54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規模であ
る。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥居がある
。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
ていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間
神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建てられてい
る。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に
薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄16
年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に
「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降には
すでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香
を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎久須
志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は
登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側
を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御
前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する

53 :
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基

54 :
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われ

55 :
梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に
見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言
い伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英
国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物とし
て、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定
、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(

56 :
。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『
浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成
就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない
。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発し
ていたとされる。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他
の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約

57 :
時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富
士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ
御子石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之
神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(
登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目
、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されて
いる。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。
この場所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石
碑7合目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっ
と標高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に
転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している
。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山
道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂
を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓か
ら頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する
要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等
信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂となり馬
が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。
富士山有料道路が開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾
配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがいったん休憩
を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋が営業され
、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木
山と焼山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも
言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等がおかれていた。
ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所
である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、江戸
後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に
「中宮之室」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設
けられ−48−ていたことがわかる。最盛期に

58 :
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月1

59 :
に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサ
クヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。
浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(
浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂に
ある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰
」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が
普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」
(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富
士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良
香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐
の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共
有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イ
エズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「
富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河
国という関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上
人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初
の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立
したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村
山口、須山口、須走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外
ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特
別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(125
9年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(
村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』に
は神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称
が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」
と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−12
75年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」と
ある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの
造営や内院散銭取得における優先権を得た

60 :
奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石かつ

61 :
たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三
日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レ
ヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地
として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間
神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅間神
社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の指導者
である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行わ
れ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士
信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道
の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥
居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で
、入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆
塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を
展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝を
つける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとよ
り西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い
建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替
わる本殿として建立されたが、1615年、鳥

62 :
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧が

63 :
が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象
とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富
士信仰と言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神
とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間
神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士
宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普
遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』
)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂
の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河
の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を
跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、
イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考え
られる。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが
最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようにな
り、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時
代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と
いう呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこと
も神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)の

64 :
より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より
上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになって
いたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と
同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」とい
い、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」
とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい
、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永
禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(
1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形
態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は
人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼
び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山
道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。富
士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財であ
る「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産か
ら構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は
静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田
市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。このとき富士山八
合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。
その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各
登山道が追加指定された。登山史富士登山の伝承においては伝
説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。富士山の
登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時代の甲斐
の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富

65 :
れた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あった
が、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄
がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合
五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また、文化年間の
初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の石室に走り入った。これを
石室に居合わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の
雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪解け
水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、
強い風が吹き付ける富士山頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投
げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場
所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を
臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山スタンプが押された写真
では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録
』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細図』は、
このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道
に沿って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1
543)、寛永元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、
剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真
・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅

66 :
により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一
間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。
西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞で
きる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿
の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙

67 :
玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河な

68 :
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』

69 :
「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で
きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内
院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社
の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され
、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興
宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立
つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程
度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』
の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須
走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、
先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など
が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、
これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり
大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の
呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年
(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月
7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資
産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮
市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ
れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺

70 :
て下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まっ
た経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10
巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタ
イルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物
の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣
ヶ峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経
て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水に至る道が内
浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近
年崩落が著しく、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道
に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の
西南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10mの平場があ
る。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、
自分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んであった頃、
山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打
ちつけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山
口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面
に所在している。平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼
ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登ることを許
されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面
の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる
。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂
跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれ

71 :
ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに
、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社
として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状
の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てられている。
写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際
の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され
、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏
訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西
湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡っ
て修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写
真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在している平面図
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(
湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わら
ず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の北
側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山本宮
浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流に分類
される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で
−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内
の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される。また、当該
地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀

72 :
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)

73 :
記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて
いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富
士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ
火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際
に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、
または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年
前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久
安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を
繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、
登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士
講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。
特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口
だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182
8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬
の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸
と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い
始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、
これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても
寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」
と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より
も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという
所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内
緒で登山を決意し、明け方から出発して山

74 :
指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお
り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時
代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が
ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還した

75 :
建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50

76 :
は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より

77 :
には頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富
士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国
公使オールコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオー
ルコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出
した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に
相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂
上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村
山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年
女人禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退
してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようにな
り、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。明治2
5年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年
にも登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世
界に紹介した。明治28年1895年野中到が冬季初登頂。2
月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月ま
で山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁
親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてか
ら8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行
なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口
より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登山
8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮
を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登
頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登
山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念
される。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7
日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を
巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓
の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、
須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅
間大社が山役銭を徴収していた。これらの

78 :
跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5
号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による調査で
は、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県
埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に
地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1体
の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻ま
れており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹
垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏
毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する
施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m(標
高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建
物跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の平場は
東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西には
石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室
有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる
。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』に
あり、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い
位置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。
東西約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直径
約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡

79 :
貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久安5年114

80 :
などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな
るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分
だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ
れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら
れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「
須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文
2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取
得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田
氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取
得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳
川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位
権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を
利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建
てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」
は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし
、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って
いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士
浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富
士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった
。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ
とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「
富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走
の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取
得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると
し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに
対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、

81 :
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所
であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1
852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始
め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を
行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と
して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社
奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書
寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、
不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24
日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人
禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽
やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ
とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に
も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2
8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年
10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁
親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に
て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など
を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登
山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。
昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性
2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日
の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2
0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を

82 :
えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が
設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置したもの
である。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶
岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶
岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜
けることができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしであった。
かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在
の長さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として
須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている
。年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083
)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められており、須山口登山
道がこの溶岩流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・
石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住
の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居
須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標柱
鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須
山口登山道保存会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の境外末社で、5合
目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿

83 :
れた。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えら
れる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石
川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作
」と記され、市指定有形文化財として保護され

84 :
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、

85 :
内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い
の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に
委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛
けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院
散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走
が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され
た。安永の争論安永元年(1772年)に

86 :
という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがあ

87 :
像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾

88 :
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は

89 :
勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの
、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい
るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた
浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ
いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2
番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第

90 :
配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争
論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済
も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確
定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と
須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わ
る大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されるこ
ととなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉して
いたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行
のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より
上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山
頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に
定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士
山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に
指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山
梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・
中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中
道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山
道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の
眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が
得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定し
た。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通
過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをするこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行
される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017

91 :
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が
開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり
、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼
山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)と

92 :
浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾立
石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿っ
た鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であ
り、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2
つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登る
ための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしくは戦後に
改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方
が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶
岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築さ
れている。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土
しているため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もし
くは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の
玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられたものと考
えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付けられてい
る。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目的として
築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約
7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等に
よって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に
向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所
が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝所
の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建て
られている。昭和6年(1931)に建立されたものである。・
参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山浅間神社図
以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩流村山浅間神
社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付
の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区
は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に
位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ば
れる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷

93 :
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間

94 :
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資

95 :
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料と
して役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、
江戸後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」
という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわ
かる。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏
帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富
士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定
した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋ア
リ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身
禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地として重要
な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年
代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行
われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と
密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起
点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって
建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前面
に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃
山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の
創建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が

96 :
ら大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因
の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−5
4−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定され
た。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根
が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以
前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀
でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念
物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。
境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東
西17.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ
8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢とされ
るが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境
内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本
、スダジイ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹
されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境
内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左
座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照
大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2
年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化した
ため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられてい
る。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の
文保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物と
して現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊と
する。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸
時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられ
ている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出
入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。
写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修

97 :
    ∧__∧
   ( ´∀`)
   ( O┬O
≡◎-ヽJ┴◎

98 :
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ

99 :
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近

100 :
ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山
の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士
見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も
西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯
舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富
士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都
府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表
情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する
。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」
を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆
さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、
本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン
ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時
、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現
象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日
や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か
ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に
傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多
い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知


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