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1 :2017/09/20 〜 最終レス :2018/02/26
【アフィサイトへの転載・誘導禁止】
夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境の富士山。
>>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。


■ ご覧の皆様へ
登山キャンプ板にはブログ宣伝を行う荒らしやアフィ業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1
「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質ポストは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを残らず削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured

2 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。

初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

3 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。
 

4 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人、また受け売りなども多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

5 :
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/

■その他の個人サイト
(掲載基準が不明ですが一旦継続しておきます)

・あっぱれ!富士登山
ttp://www001.upp.so-net.ne.jp/fujisan/
・富士登山をしてみたい!
ttp://www.tozan.org/fuji/
・富士さんぽ
ttp://www.fujisanpo.com/
 

6 :
 
■天気予報

・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;;type=15&ba=kk
 

7 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

8 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物

◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない
 

9 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するだけ。無駄は省きましょう。但し、必要な装備を重いとかザックに入らない
などといって持たずに登るのは本末転倒。きちんと装備を揃え、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。オーバーペースの人は
すぐバテるので、いずれ抜き返せます。高所は乾燥しています。水分は少量を定期的に摂るのが最適。

グループで登る方は、途中ではぐれないように必ず2人以上での行動を維持しましょう。何か問題が起きた
ときに対処が遅れると命取りです。登山中は最も遅い人のペースに合わせ、登るのが早いからといって
子供に単独行動をさせないように統率しましょう。初心者は隊列の真ん中に挟み、経験者が前後を固め
て目を配りましょう。

一人にひとつずつ地図のコピーを持たせること。どの登山口から登って来たか、全員が覚えておくこと。
はぐれた場合に落ち合う場所を複数決めておくこと。特に下山時の分岐点について予習しておくこと。

万が一体調不良、怪我人が出た時は全員で下山するのが大原則です。どうしても登山を続行する場合
でも病人などを一人で下山させるのは絶対に避け、必ず付き添いを付けるようにしましょう。 体調不良の
人は高山病も疑われるので、山小屋などで待たせるよりもすぐに下山させた方が良い場合もあります。
トイレは有料なので、100円玉を多く用意しておきましょう。順番待ちになることも多いので限界まで粘らず、
出来るときに早めに済ませましょう。ツアー登山は、スケジュールが決められているために自分のペースが作り
難く、無理について行くと高山病を誘発する場合もあり、あまりお薦めしません。

下山時は重心を軽く前にかける。歩幅も小さく、靴一足分。滑りやすいところでは、足を逆八の字に開く。
富士宮ルートの、岩の平らな所は砂で滑りやすい。岩の角に靴底の溝を引っ掛けると滑らない。爪先で
踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識する。猫のように下れ。
 

10 :
 
■高山病の予防と対策

高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。
初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

11 :
 
■ご覧の皆様へ

現在、>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者によって
前スレが連投荒らしに遭っています。
ここが同様に荒らされた場合はさらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/

・異常者による荒らし予告
SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

・連投荒らしの抽出(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

12 :
 
IP表示にしてみました。

果たして異常者は荒らすことができるのでしょうか。

実験は続きます。
 

13 :
   

   
NEW!
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)【ダメ工作員】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515478893/1-41
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515478893/1-41
    

   

14 :
0−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、
祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢離」の手法
を広めている。加えて富士山をエムゾネ航海の目印とする伊豆半島
の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の
勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前
半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を背景
に一定の権威をもち、登山道及びその頂エムゾネ上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築
されたものを基本としている。1868年、神仏エムゾネ分離令に
より浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、
1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在
は1970年代より活発になった地域住民による伝統復活エムゾネ
のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また
、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三
重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている
。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓
、須エムゾネ山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神
とする神社である。その起源は1598年作の社伝旧記による
と110年、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社
を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとあ
る。記録上神エムゾネ社の存在が確認できるのは1524年で修築
時の棟札による。また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢
500年以上と推定されており、遅くともこの時期までに須山
浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿は1
823年の再建であるエムゾネ。1707年の宝永噴火によ

15 :
道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山道が再興さ
れ、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者があった
。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心的
存在であり、村全体で須山口登エムゾネ山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家
に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部
で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでい

16 :
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ちエムゾネ、1940年頃ま
で境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。18
83年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山
者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍エムゾネ演習場と
なり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし、そ
の後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周辺
は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真
須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口エムゾネ
登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要
衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事
を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地
であエムゾネるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したと
される。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、157
1年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保
護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以
降、須走浅間エムゾネ神社は当時の須走村の御師などと共に須走口
登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師
堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これ
ら山頂部の権利については八合目以上の支配権を主張する富士
山本宮浅間大社と争いエムゾネになり、須走村は1703年と17
72年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、これらの
権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御
師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権
威を高めている。社殿は、記録エムゾネの残っている範囲では16
62年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏
などの援助によって修造が行われた。しかし1707年

17 :
噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に
再建された。この後もこの際の部材を使エムゾネ用し、2009年
の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路
があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に
かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が
登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800エムゾネ年の御縁
年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営し
た。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社のエムゾネ
写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅
間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていたが、864年〜
866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が
建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸
にあエムゾネり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる
。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の
宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御
師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大
流行と、それエムゾネに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集
落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、
河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を
行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠
かすことができない資エムゾネ産である。写真河口浅間神社の写真
表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年
「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間
神社冨士御室浅間神社は吉田口エムゾネ二合目に鎮座した本宮(も
とみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されて

18 :
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初
とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあ
る。富士修験の信仰拠点は南西の村山でエムゾネあるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。また、社記によると9
58年、二合目は冬季における参詣が難儀であることから河口
湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時エムゾネ代以降富
士講の隆盛にともない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとして
この二合目の役割はさらに増すことになる。しかし、昭和に入
ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの開通等
もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通エムゾネ
過する登拝者も激減する。また、富士御室浅間神社本宮を支え
てきた氏子にとっても、その維持管理が困難となって、197
3年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転する
こととなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として
位置エムゾネづけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里
宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅間
神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿
・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)19
85年本宮本エムゾネ殿・文化財保護法の下に重要文化財として指
定1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り
直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史エムゾネ跡富士山として指定(予定)201
1年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅
御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をする
とともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御
師として代表的なのは、吉田口エムゾネ登山道の起点である

19 :
宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状を
なし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の
奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄エムゾネ関から奥へ客室が
続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧
外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最
盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧

20 :
住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉エムゾネ田市上吉
田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によって成
立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷
地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩
廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住エムゾネ
し、下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「
吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」
の屋敷が記されており、外川家ではこの人物を中興の初代とし
ている。また、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋
敷とエムゾネして確認される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛
期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽
化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄
贈を受け、2006年から2007年にかけ大規模保存修理事
業を行った上エムゾネで、2008年4月から富士吉田市歴史民俗
博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住
宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全
修理を行う2008年富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設と
して一般公開を行う2エムゾネ010年「山梨県指定有形文化財旧
外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下
に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講によって大き
く発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区にあって、富
−33−士山に登拝する人々をエムゾネ宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避
けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に
沿って短冊状に町割が行われたと伝えらエムゾネれている。小佐野
家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150m
ほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元

21 :
落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御
師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当エムゾネ主は小佐
野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参
詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東
側には所有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅には
所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表エムゾネ
法的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重
要文化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年
屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を行う1997年
主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い201
0年エムゾネ「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9
山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山
の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古
くから景勝地エムゾネとして有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかり
のある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。
富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士
と呼ばれ、多くの写真エムゾネ家を集める。写真山中湖の写真B1
0河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山
の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古く
から景勝地として有名で、20エムゾネ世紀前半には湖畔に洋式ホ
テルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材にし
た文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾北斎
や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を
描いている。写真河口湖の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の
経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の

22 :
富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏
の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−3エムゾネ4−20
11年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名
勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士
山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧
水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡エムゾネ
池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信
仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞら
れ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場
と伝エムゾネえられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺
図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を
策定、忍野八エムゾネ海周辺を景観形成重点区域に指定2010年
街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜
14年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策
定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされ
る長谷川角行が富士登エムゾネ拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼
入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひ
とつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年
、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖
が祀った焼入の地の浅間明神がエムゾネ遷宮された。浅間明神誕生
の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子
を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた
。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的なエムゾネ意義付けが

23 :
るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花
開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に
天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河
口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計
画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年
に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎

24 :
。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資エムゾネ産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的
価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに
緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示
すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山エムゾネ道B信仰に
関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山
の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士

25 :
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰
、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、エムゾネ浅間岳、
駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安河
原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須
走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道
・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八エムゾネ幡堂跡
(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・12号建
物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・
石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須
志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登エムゾネ山道
・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨士浅間神社
−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大塚山・御鞍石
A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠か
らの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上エムゾネ池
、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水
舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬場・禊所・神
幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干エムゾネ
橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・
籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所・
石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ
池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・エムゾ
ネ大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社
)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛
犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎
・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神エム
ゾネ社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚

26 :
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
エムゾネ)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、
小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9
山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出
口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧エムゾネ水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石
造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−
40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・
溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡
・道エムゾネ跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆
積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講
・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝
承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・
第1種エムゾネ規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然
地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型
等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富士山原始林及び
青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本
栖風穴等エムゾネ)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社
・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢
林、境内林・富士山特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園富
士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展
示館、管理エムゾネ棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道
路とその他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍
的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素・富士山測候所・
NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要素(山並み、河川など
)A歴史的要エムゾネ素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成
する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、

27 :
その他人工物)上表において分類した諸要素について、以下に提
示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体
及び登山道A富エムゾネ士山富士山体のうち、標高約1500m以
上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見
た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重
が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つ
である「馬返」(エムゾネ乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地
元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又
は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。
景観的には山体の傾エムゾネ斜角の変化率が大きくなり「平野部」
と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画
などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートに
は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿
って、富士山体を一周エムゾネする。15〜16世紀ごろ富士講の
祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−
41−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。
写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺
跡の分布図・富士山本宮エムゾネ奥宮富士宮口登山道頂上に位置し
、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命
である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末
代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、
写経を埋納下した」とあるエムゾネ。江戸時代には、村山三坊所有
の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により山
中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭っ
た。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ
139×幅64×厚さ18pエムゾネ)奥宮の裏手、浅間岳の麓に
所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫ら

28 :
る。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(
b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所
在する。碑面に「鎮國之山」とエムゾネ彫られている。明治31年
(1898)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷に
より破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東
北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦
名命を祀る。須走口登山道、吉田エムゾネ口登山道の終点に

29 :
室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師
堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ
った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久
須志神社と改称した。写真東北奥宮エムゾネの写真・金明水雪解け
水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御霊水」として珍
重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲
われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士
山頂の霊験あらたかな湧き水として珍エムゾネ重された。『富士の
歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはない」と記
している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@(
高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年
」の2つの年代が確認できる。富士講のエムゾネ人々が建碑したも
のと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅6
3p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑B
(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑
群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳エムゾネ、久須志岳、成
就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径
約800mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住む
とされた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集
註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあエムゾネることから、
鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考
えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「
ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾ
ヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉エムゾネを構成する
峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明
治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以
下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査
報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣エムゾネヶ

30 :
お鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間
大社では、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図
八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰
、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てエムゾネたよう
にそびえ立っているためにこの名があるという。道者たちはあま
りに険しいこの峰を恐れて多くは登らなかったという。この峰の
石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じられたが、麓からの石
と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰エムゾネの写
真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m
)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止さ
れている。頂上には鳥居が立ち、また二等三角点が存在する。[
久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳ともエムゾネ呼
ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜
はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられ
ている。頂上付近には石造物が残存し、首から上と手首から先が
欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が確認エムゾネ
できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,73
4m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口
の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3,748m
)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社のエムゾ
ネ歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を
越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。
頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]
伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。エム
ゾネ頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である
。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,
722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現
在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,

31 :
、形状が虎(獅エムゾネ子)のうずくまる姿に似ていることから名
付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、
溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あ
ったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場と
して知られ、食行エムゾネ身禄がここで入定しようとしたが、大宮
浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で
入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側に

32 :
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。
また、文化年間の初エムゾネめ、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出
現し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々
が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解
け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を
現し、雪解け水の供給エムゾネが無くなると消えてしまう。・荒巻
−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山
頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた
石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったとこ
ろにあったとされる。拝エムゾネ所は初穂打場とも呼ばれ、登山者
たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間
大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった
。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特
定することはできない。写エムゾネ真吉田須走拝所跡の写真・須山
拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2
年(1913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手
の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在していエムゾネる。写真須山拝所跡の写真・
村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮
拝所」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の
鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿
って3体の大日如来があり、そエムゾネれぞれ延徳2年(1490
)、天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があっ
たとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む
位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ
岳経塚昭和4年(1929)、頂エムゾネ上の神官が銅仏の破片と
一石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと
を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片な

33 :
物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回
し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河
原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割
石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って
回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作
物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在
は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山
道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3
.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ
ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自
分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30
年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写
真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山
道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50
0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走
る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり
、上−45−段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段
には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返
しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人
は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ
た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が
東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな
る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の

34 :
八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水
神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七
月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の
主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか
けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月
11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との
記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある
井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ5
0pほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを
登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が
ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による
調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた
が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ
では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ
され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1
体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に
は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ
ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推
測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀
釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム
ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平
場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存してい

35 :
う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の
縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」
として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図
」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ
る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『
駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた往

36 :
あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12
号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位
置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地
点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石
組によって作られている。東側には直径約90pの丸い穴が二つ
ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ
る。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ
れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と
刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧
須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m
余の溶岩洞エムゾネ穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西
側に入口があり、内部を通り抜けることができる。登山者は、こ
の洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延
長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現
在の長さになエムゾネった。崩落した部分は、長さ約30mのU字
型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。こ
の付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では10
30〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083)
の噴火時に噴出エムゾネした可能性がある。平成21年に実施した
測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485
m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って
形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須
山御胎内の洞穴内エムゾネ部に、「木花咲耶姫」の石像が安置され
ている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興
後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南
東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内
の南東側入口前に高エムゾネさ3m前後の木製の鳥居が建て

37 :
いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ
れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に
、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口
登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅
間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿
は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の
規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前
には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝
殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志
之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)
に建てられている。かつてエムゾネは向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管
理していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富
士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、
江戸時代初期以降にはすでにエムゾネ祀られていたものと考えられ
る。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によっ
て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴
命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルートで
あったが、現在は建物の東側をエムゾネ通るようになっている。迎
久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる
日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」とい
う富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上
で朝日を拝したという。現在「日エムゾネノ御子石」はないが、祠
と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山
道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目
、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然
木などにより構築された鳥居が設置エムゾネされている。・

38 :
山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の
登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場
所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって
いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。
日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉
田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口
登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口
登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から
頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要
素として、現存する吉田口登山道や沿道のエムゾネ宗教施設や山小
屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂とな
り馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山か
ら木山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもな
る。富士山有料道路が開通する以前の馬返のエムゾネ周辺は、本格
的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがい
ったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合
目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地は天エムゾネ地境(てん
ちのさかい)とも言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等
がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として
役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋
については、江戸後期には4軒があったが、すでエムゾネに武田信
玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称があり、戦国時
代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわかる。最
盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の
写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があエムゾネ

39 :
れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐
国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小
屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と
あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた
ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真
烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要

40 :
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄
進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神
社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ
富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である
。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが
ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ
ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間をつけた
形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆塗り、
極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開エム
ゾネし、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
エムゾネのである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の
向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は
もとより西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇
股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最
もエムゾネ古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・
西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重に
より東宮に替わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成
次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は
東宮エムゾネと同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一
間の向拝をつける。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に
取り入れていて、やがて豪華な本社本殿建築へと発展する

41 :
エムゾネ富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静
岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と
、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、そ
のエムゾネ優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られ
ている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与
えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され
、そエムゾネの山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特
に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴
火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信
仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人に
より修エムゾネ験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が
行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、
村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山
麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が
盛んであエムゾネる。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の
地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)に
は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年
(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、
さらに20エムゾネ13年(平成25年)6月22日には関連する
文化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名で世
界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目であ
る。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤
りであり、愛エムゾネ媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま)
とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常
陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている
。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と

42 :
古文献もある。エムゾネまた、『竹取物語』における伝説もある。
「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と
称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・
バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フ
ンチヌプリ」に由エムゾネ来するとの説を提示した。しかし、これ
は囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」から
きた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として

43 :
語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山
」と表記されるに至エムゾネるにおいては駿河国富士郡に由来する
とするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を
富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む
命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に
「富士」の付く地名がエムゾネ多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富
士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が
見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士
山に似ている山(主に成エムゾネ層火山)に「富士」の名を冠する
例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、
居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士
見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士エムゾネと名の付く山があり、それらを
郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも
「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照ま
た、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上
の富士山富士山周辺の地形図エムゾネ富士山の構造図地質学上の富
士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線
を持つ。現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火
山活動によって形成されたものだと考えられている。先小御岳(
せんこみたけ)火山小御岳(こエムゾネみたけ)火山古富士(こふ
じ)火山新富士(しんふじ)火山この中で先小御岳が最古であり
、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所
が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下
にさらに古い山体があることが判エムゾネ明した。安山岩を主体と
するこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。古富士は8
万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した

44 :
降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝
永火口の北側1〜2kmのところにエムゾネあったと考えられてい
る。2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動
が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのこ
とである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士
宮市−富士吉田市間で約2cm伸びたエムゾネ。これはマグマが蓄
積している(活火山である)現れとされている。プレートの観点
からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又は
オホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレーエムゾネトが沈み込む位置
であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリ
アナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいる
フィリピン海プレートのさらに下に太平洋エムゾネプレートが沈み
込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は
、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本
の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出エムゾネしているのに
対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常
に多いことがある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂に
は火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むよう
にして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火エムゾネ口の南西側
に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高37
75.51m2014年4月1日改算)、火口の北側には二等三
角点(点名は、富士白山。標高3756.23m2014年4月
1日改算)が設置されている。火口の構造は、国エムゾネ土地理院
によると、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約23
7m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は13

45 :
る。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅
間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確エムゾネ定であ
る。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見で
も静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めな
いことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点エムゾネを指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが
、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が
表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を
指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨エムゾネ県
などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については
非表示になるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山
(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生
した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置しエムゾネ
標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開
いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備さ
れている。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴
火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1エムゾ
ネ万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量
に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富
士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,エム
ゾネ500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前〜約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜約3,2
エムゾネ00年前の1,300年間と考えられている。山頂部から
の最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂

46 :
噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に
延エムゾネ暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出し
た貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707
年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4c
mの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の
山体エムゾネに宝永山が形成された。その後も火山性の地

47 :
辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下
、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生
。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会
(気象庁)−富士山のエムゾネみを限定するものではないが、日本
の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表
するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年
3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10
月に富士山の低周波地震エムゾネが増加した際は、ワーキンググル
ープが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視
体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。富
士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザエムゾネードマップの作成が、検討委員
会を通じて進められている。富士直轄砂防事業(国土交通省)−
大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対
象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「
富士山噴火時避難ルートマッエムゾネプ」を作成した。「静岡市市
長の田辺信宏は2016年1月22日の定例記者会見で、市消防
航空隊が2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコ
プターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防
止策として、市消防局がヘリでエムゾネ救助できる山の高さに32
00メートルと上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動
の観測国の機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産
業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより
観測が行われている。国土地理院エムゾネ:地磁気観測点が、鹿野
山測地観測所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されてい
る。また、山頂にはGPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計
(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)
、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎エムゾネ坊、上井出)

48 :
(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動
可視情報化システム(VIsualizationsystem
forVolcanicActivity)噴出物災害などへの
対策国土交通省、富士砂防事務所:静エムゾネ岡県、山梨県と連携
し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・
検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし、山体崩
壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である。富
士山と気象気候山頂は最暖月の8月でもエムゾネ平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10
℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10
を占める。観測史上最低気温は−38.0エムゾネ℃で最高気温が
−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回る
ことがない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象
観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置してい
た気象官署が富士山測候所である。現在は富エムゾネ士山特別地域
気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行
っている。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が
吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。20
10年12月15日には、神奈川県の西部からエムゾネ南部にかけ
て黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西
風に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の
一部農地(現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2
600m付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪エムゾネ)の出現
する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言い
伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も
起きている(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自
然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山原始エムゾ

49 :
青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定、20
10年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念
物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝
(静岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけエムゾネ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出
す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富

50 :
おける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154エムゾネ万
立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認さ
れている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清
流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭エムゾネ
湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河
湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬
関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士エムゾ
ネ山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウモ
リ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成され
ている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士エム
ゾネ宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
エムゾネされている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山
に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終
氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山
の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植
物エムゾネの進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではい
くらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊
)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイ
マツエムゾネ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイ
マツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史
富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対

51 :
の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し
、文永年間(1264エムゾネ年−1275年)の『万葉集註釈』
には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「
八葉」の記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家
康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先
権を得たことを基に江戸エムゾネ幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候
所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山
修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていっ
た。富士講の隆盛が見られエムゾネた18世紀後半以降、新興宗教
として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用す
る道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降
では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参詣の人
々を「道(導)者」といい、エムゾネ例えば『妙法寺記』の明応9
年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・
先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士
氏文書』、文中に「永禄6年」エムゾネとあり)などが確認されて
いる。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出される
と、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山
中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は
分離され、大日堂は人穴浅間神社エムゾネとなり大棟梁権現社は廃
されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称
され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年エムゾネ(明治39年)に新大
宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7日
に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡とし

52 :
山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されてい
る。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾エムゾネ野市・駿東郡小山町
、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。
このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)
が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富
士講遺跡、各登山道が追加指定された。エムゾネ登山史富士登山の
伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、

53 :
する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平
安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上
を越えたとする記述がある。諸国からが多エムゾネ献上された数百
匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、
同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと
いう。天智天皇2年663年役小角が県は富エムゾネ、流刑したさ
れた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝
説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小
角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されて
おり、記録は改訂されたものの「世界初の登山エムゾネ」という記
述がされていた。貞観17年875年平安時代の学者である都良
香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸
き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、
実際に見た者でなければ知りえない描写から、実エムゾネ際に登頂
したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約
10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった
。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山
を繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不エムゾネ明であ
るが、登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると
富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした
。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期にエムゾネは吉
田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年18
28年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の
測量では2603m−3732mとされていたが、このエムゾネ測
定では3794.5mと算出されている。天保3年18

54 :
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である
。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初
登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主エムゾネ
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登
山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮
津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めた
が、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これエムゾ
ネを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り
道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願い出る
も中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれ
る地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場エム
ゾネ所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
エムゾネた唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オー
ルコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの
登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)が
あり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二
日エムゾネ大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿
五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」
とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を
行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれ
る。エムゾネ明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代
わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代
登山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英
国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その
後本をエムゾネ出版し富士山などの日本の山々を世界に紹

55 :
明治28年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場
口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を
行った。大正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)
の登山7エムゾネ月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬
にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝
し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正
12年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場
口から登山エムゾネし、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭
和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王
(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合目を
往復した。天エムゾネ候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、
御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院
散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登山道があり
、特に村山口とエムゾネ大宮口、須走口、須山口が古来の登山道で
あり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収して
いた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こして
いる。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になりやす
かった。例えば須エムゾネ走村への配分だけでも1年で76両を越
えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院
散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域に
よって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山に
おいては、1533エムゾネ年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊
」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は
1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神
社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は16
09年(慶長14年)エムゾネに徳川家康が内院散銭を浅

56 :
寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司
が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」
から登拝する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富
士吉田口は、登山道を管エムゾネ理している「須走」に許可なく、
浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払
えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(
登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論

57 :
、「河口」と「吉田」は1エムゾネ810年に登山ルートや山役銭
の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂にお
ける役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄1
6年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間
神社本宮(浅間大社)を訴えエムゾネた争論が元禄の争論である。
須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の
大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴
えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小
屋掛けを認めたことへの不服、エムゾネ2つ目は浅間大社側が造営
した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述
があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例
となっているとし、それを浅間大エムゾネ社が取得しているという
訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間
大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散
銭の2番拾いの慣例は根拠がないとエムゾネいうことを主張した。
それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「
他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行う
こと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番
拾いは須走が得るものとする」というエムゾネ決定となり、以後こ
れらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)に、須走
村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手とし
て訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の
富士民済も反論を起こした。さらに吉田エムゾネ村と浅間大社とで
支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入で
ある吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行な
ども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に

58 :
れることとなった。結論は徳川家康が富士エムゾネ山本宮浅間大社
を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・
寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合
目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。
この2者の争論を起因とする裁判により、こエムゾネれまで曖昧で
あった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により
明確に定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての
富士山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」
に指定され、同年11月22日に「特別名勝」エムゾネに指定され
た。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢
村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御
中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500エムゾネm以上の
地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登
山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺
望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好エムゾネな眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した
。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすエムゾネるこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行さ
れる。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦
町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、富士山
頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあエムゾネる
とされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川
俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図セン
ターにより認定された(富士山からは308kmの距離

59 :
。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺エムゾネ
望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた
京都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府
県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角
度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、エムゾ
ネいくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした
画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士
山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイエム
ゾネツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆さ富
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
エムゾネ影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が
富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのよう
に光る現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見る
ことができる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映
しエムゾネ出される風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上
に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂
上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りま
たは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六
景甲エムゾネ斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標
として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知さ
れているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年
)に作エムゾネ成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」と
いう表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述が
ある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮

60 :
ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』エムゾネ他の資料にも共通した記述がみられ、このように
南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言え
る。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富
嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不
二三十六景エムゾネ甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されてい
る例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰

61 :
例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と
同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代
に歌枕としてエムゾネ詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とと
もにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には
富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて
いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(
1069年)のエムゾネ『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、
これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆
け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描
かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山
頂が三峰に分かれエムゾネた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢
物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに
舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての
『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状
で緑色に着色されたエムゾネ他の山に対して山頂が白く冠雪した状
態で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作と
される『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重
要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であ
った浅間神社や湧玉池エムゾネが描かれており、当時の様子を思わ
せるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱
風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村
岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャエムゾネンルとして名所絵が確立すると、
河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)に
よる富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃
)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法
に加え舶来顔料を活かしたエムゾネ藍摺や点描などの技法を駆使し
て中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』

62 :
白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知
られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三
十六景』『冨士三十六景』をエムゾネ出版した。広重は甲斐国をは
じめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『
東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。
北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポッ
トと認識されていなかった地点エムゾネや、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら
制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打
っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影し
た愛鷹山からの富士山がモデル。エムゾネ富士は日本画をはじめ絵
画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとし
て扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて
富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業
デザインなどに幅広く用いられ、絵エムゾネ画においては伝統を引
き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また
、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が
避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品
を製作しているが、富士を描いた風景エムゾネ画などを残している
画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士
山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通して
おり、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1
893年(明治26年)、日本を旅行しエムゾネていたオーストリ
ア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大
公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。い
ったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼
ばれる――を知らない者などいるのだろうエムゾネか〜ヨーロッパ
でもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶

63 :
紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染
みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルエムゾネとして様々に
描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放さ
れた「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画
題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アエムゾネイコンとし
て富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富
士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずって
いる」という。日本画全般の題材として「富士見エムゾネ西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上
げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切
手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のエムゾネデザイ
ンに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の1951年
と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士
山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2エムゾネ00
4年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富士山を
描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、精進湖、
本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北斎(199
9年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(20エムゾネ0
5年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌の歌枕と
してよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を
詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆうち出でてみ
れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.318)エムゾネ
は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こ

64 :
その次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を雪
もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(
噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降エムゾ
ネる雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火
山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。
富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆく
へもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富

65 :
ゾネ遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
エムゾネ頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の
士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記
している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採
塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源
氏エムゾネ物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所がある
ものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に
位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に
帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となる
ことエムゾネが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士につい
て触れられている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から
生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江
戸期にエムゾネは地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄
道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多
くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、
新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳エムゾネ文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士
山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病
院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰
淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記して
いる。津島エムゾネ佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石
原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物
語である『火の山―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文
学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮

66 :
の李良枝がおエムゾネり、それぞれ作品の中で富士を描いており、
中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年
(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士
には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の
御坂峠にはそのエムゾネ碑文が建っている。直木賞作家である新田
次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強
力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富
士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。高
浜虚子は静岡県富エムゾネ士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富
士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。「
とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の
姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を
目的とする観光客相エムゾネ手の観光業も活発に行われている。し
かし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出して
いない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を
重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山エムゾネ小屋トイレ問題、マイカー規制問題
、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の
思惑の相違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山に
は登山の知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7
月1日の山開きから9月エムゾネ上旬の山じまいまでの期間、登山
が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁
止されている。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。
詳細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観エムゾネ光地となっていることが多い。
箱根−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・
美術館や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外
の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名で

67 :
士五湖−富士五湖は富士山周エムゾネ辺の観光地として著名であり
、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−
白糸の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層か
ら湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止め
の滝と共に日本の滝百選に指定エムゾネされている。朝霧高原−朝
霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自
然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催さ
れている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきり
と拝める田貫湖や山中湖といったエムゾネスポットも有名で、特に
写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバ
ルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイ
カーで上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間が
あり、冬期は閉鎖される。富士山のエムゾネ日(2月23日)2月
23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富
士山の日」として制定している自治体がある。2001年(平成
13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定
。2002年(平成14年)山梨県富エムゾネ士吉田市を中心に、
山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年
(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可
決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎておりエムゾネ、「あって当たり
前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各
自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとし
ても名高い名峰として再認識する機会としエムゾネている。また併
せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したい
との期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対
して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学

68 :
とするよう要望した。休業日として組み込んエムゾネだ自治体があ
るなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日と
することはなじまない」という理由で、2011年以降休業日と
していない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提
供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館やエムゾネ博物館など
の社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請してい
る。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン

69 :
IFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(F
YAMAP)」で、1996年1月1日にネットエムゾネ上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支
局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーと
して2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され
た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートはエムゾネ珍しい
。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が
、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送
、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者
により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵エムゾネ琶湖
へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県
富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説
からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「おエムゾネ水
返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という。2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との
間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている。標高3,9
52メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばエムゾネ
れ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山(台湾)−日
本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,9
52メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、
日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。エムゾ
ネ北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和
山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト
−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicoエム
ゾネde6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU

70 :
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
エムゾネいる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を
作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂
の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を
富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2
0エムゾネ14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で
、富士山と玉山の友好山提携が締結されている[84]。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ
、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉
山(エムゾネ台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時
代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193
メートエムゾネル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3
メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表
示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれてい
ます(詳エムゾネ細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山
のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電
話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺
産平成22エムゾネ年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧
表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日
本列島の本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の
西部に位置する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構
成要素(後述エムゾネ))から成り、現行の行政区分に基づく各構
成資産の所在地については以下に記すとおりである。構

71 :
在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富
士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町
・鳴沢村・富士エムゾネ河口湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ
峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範
囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面
は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成
資産の面積及びそエムゾネの緩衝地帯の面積、資産の総面積及びそ
の緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構成
資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)
緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の
説明富士山は、標高エムゾネ3776mと日本一の高さを誇る独立
峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲
線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質
成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面
からの実質的な高さはエムゾネ世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシ
アプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特
異な地点に存在する。富エムゾネ士山は、新生代第三紀中新世のお
もに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古
富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。
山頂部の火口はおよそ22エムゾネ00年前を最後に噴火していな
いが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレートを南南
東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって、
山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、
有史以降も火山活動を行ってエムゾネきた。富士山が過去に流出し
た溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つために美

72 :
ーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15〜20k
m(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴
・溶岩樹型等の地形が見られ、エムゾネ溶岩流の末端部では富士山
の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450〜6
80万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見ら
れる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点
在している。上記のような自然的エムゾネ環境を持つ富士

73 :
来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏
敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象
とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為がエムゾネ一般化するとともに、
山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自
然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。
標高約2500m付近の森林限界よりエムゾネ上方は富士講(富士
山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、
山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林
地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習エムゾネわし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢
れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神
聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために
利用される地域でもあった。また、富士山エムゾネ山麓に見られる
湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代におい
ても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。ま
た、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観なエムゾネどが時代を超
えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造
意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最もエムゾネ高い。各登
山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の
標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの
「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマエムゾネ

74 :
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的には山体の傾
斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが
多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本エムゾネ列島の
ほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や御師住宅、霊
地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又
は舞台)となった地点から構成される。富士山体の中には山頂信
仰遺跡や登山道などの重要な要素が含まれている。こエムゾネれら
の構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は、山に対する固
有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間との精神的な関係を
生み出した景観の見本であるとともに、芸術的作品との関連があ
る山岳である。表構成資産/構成要素の分類No.世界エムゾネ遺
産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2大宮・村山口登山
道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山道遺跡A5吉田口登
山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A
7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念エムゾネ
工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7
遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B10遺跡B11
遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山
(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅エムゾ
ネ間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神
社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内樹型吉
田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖67
3)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山にはエム
ゾネ、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で

75 :
エムゾネ鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松
原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描
く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展
望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
るエムゾネ「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でも
あり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を1
0区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖
性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰
遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山
道富士山には、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、
複数存エムゾネ在する。12世紀前半から中ごろにかけての修行僧
末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山口登山道
や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山
道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、
18世紀エムゾネ後半以降、最も多くの道者(他の登山口の合計と
同程度)によって利用された。また、1200年の資料では、大
宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外に
は登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠
や石碑が設エムゾネ置され、随所に小屋や石室が設けられており、
富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改
頁)浅間神社エムゾネ・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間
神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅
間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活
発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神

76 :
浅間神社(後のエムゾネ富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には
北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11世紀後半の
噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修
験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨
士御室浅間神社へエムゾネと発展していった。登拝の大衆化に伴っ
て、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山
口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかで

77 :
本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大い
に利用された吉田口エムゾネ登山道の起点であったが、その北には
、富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今
も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3
村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・
巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から
爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登る
だけでなく、いわばオプエムゾネショナル・ツアーのごとく周辺の
風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士
五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富
士講徒はこれらの地へ参詣エムゾネし、開祖に倣って修行を行う者
もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(
みてらし)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で
浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田
胎内樹型など、特定の富士講エムゾネにとっての霊場・巡礼地とな
っている資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進
湖A9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内
樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入
)(改頁)A.富士山(富士山エムゾネ体)説明富士山には、山頂
部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建
てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展
望地点から見た可視領域が重なりエムゾネ合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖
性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高15

78 :
上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた
森林限界より上方、富士山本宮浅間エムゾネ大社の境内地とされた
八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに
異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほど
より強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、177
9年以降、富士山本宮浅間大社の境内エムゾネ地とされたが、この
理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教
的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰
に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神
聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境
域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(15
61年及び1580年とされる)、その後エムゾネ「大沢崩れ」と
いう危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富
士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のよう
な構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡エムゾネ富士山山頂部
には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在
する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け
山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるととも
に、山頂部での宗教行為が体系化されていったエムゾネ。道者は山
頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象
)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮
座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし
浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピーエムゾネクを仏教
の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉
めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ

79 :
の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施
設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(1エムゾネ2世紀
末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸仏(1482年
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが
最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また
、遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日エムゾネ堂(
現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山頂部に薬師堂
(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的
施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称
も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部エムゾネに
対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現代の登山者
の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現代に受
け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間
大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山エムゾネ
道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により
、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとされ、14世
紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世
紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有エムゾ
ネ力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うととも
に所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また、一般
人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図エム
ゾネ」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
エムゾネ01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906

80 :
を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標
高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は
一エムゾネ部除き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19
70年に標高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての
登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.
須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東
部にエムゾネ至る登山道である。その起源は明確ではない

81 :
資料の中で1486年にその存在が確認できる。登山道および山
頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須
山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設
は村山エムゾネの修験者の行場(参拝所)としても使用された。道
者については詳しい研究が進んでいないが、1800年(御縁年
:富士山出現伝説に由来する60年に1回の記念の年)に約5,
400人、1840年代前半は年平均約1,700人、1860
年(御縁エムゾネ年)は約3,600人であった。1883年、須
山口二合八勺(標高2050m)に接続する御殿場口登山道が開
削され、1889年、東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演
習場となりエムゾネ使用不可能となったため、須山口からの登拝(
登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時
の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御
殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道
として整備さエムゾネれた旧須山口の一部である)A4.須走口登
山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山
道と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではな
いが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、
文字資料では1エムゾネ500年にその存在を確認できる。登山道
は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走
村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得て
いた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世エムゾネ紀(1703年と1772年)、幕府に
裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永
噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆わ
れ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多
くの道者を集めた。エムゾネ18世紀後半、他の霊場とセ

82 :
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年
に23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完
成により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用は
ほとんどなくなり、一エムゾネ部道としての確認ができない区間が
ある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。
)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山
頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修
験者だけでなく、ごく一エムゾネ般の人々の間にも広まっていた。
吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から
17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀
前半には富士講隆盛の礎をエムゾネ築いた食行身禄は、入定(宗教
的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も
多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登っ
て山頂を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩で
麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名
勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国
立公園法の下に(富士箱根)国エムゾネ立公園に指定された。19
52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定された
。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)
。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策
に着手(継続中)。文化財保護法エムゾネの下に他の文化財ととも
に史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神
社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる
神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、
16世紀半ばには浅間神社の社殿がエムゾネ整っていたと

83 :
よって行われたが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口湖とこ
の3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄としエムゾネて何
度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(vie
wpoint)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり

84 :
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西エムゾネ岸
の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。こ
の写真は、1984年に採用された五千円札及び2004年に採
用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広
がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖エムゾネ
畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残してい
る。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば8
06年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社かエムゾ
ネら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約1300社あ
る浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当初は遥
拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んになるにエム
ゾネつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
エムゾネである江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現
在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営され
るとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た
。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、
1エムゾネ779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配
権が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、19
74年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還
)された。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池が
あるエムゾネ。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考
えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な
湧水量(日平均14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置か

85 :
る説が有力である。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山
の湧水エムゾネを起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は浅
間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時
期の絵図や旅行記でその様子が確認できる。この水垢離は192
0〜30年代まで行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用
する人がエムゾネ多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1
923〜26年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。192
9年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜
34年に楼エムゾネ門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を
附した。1950年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化
財とされた。1951〜52年、1970年、1988年に本殿
の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修
理等が行われエムゾネた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等
が行われた(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行
われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間
大社の社伝によエムゾネれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿
等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止め
ていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。具体的なエムゾネ創建年代は不詳だが、発掘調査では神事
に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献
上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも15
77年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式
が開始された。これエムゾネは4月と11月に神の宿った鉾を持ち
、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神
が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に

86 :
して里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「エムゾネ山宮御神幸」に使用される経路を御
神幸道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少
なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に
指定される。文化財保護エムゾネ法の下に他の文化財とともに史跡
富士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており、
1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺
(富士山興法寺または村山エムゾネ興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山にお
ける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が組織
化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その
様子が16世紀の制作とされエムゾネる「絹本著色富士曼荼羅図」
に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と大日
堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微
した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。ま
た、村山の修験者の影響を受けエムゾネた地域では現在でもその宗
教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2001
年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む
調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B4エムゾネ.須山浅間神社説明須山
口登山道の起点として遅くとも1524年には存在していた神社
である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな
被害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修エムゾネ験者とも関わりを持ち
、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われてい
た。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他

87 :
とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富士浅間
神社(須走浅間神社)説明社伝では8エムゾネ07年に社殿を造営
したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16世紀
には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭取得権の
一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し1718
年に再建された。この後もこの際の部材エムゾネを使用し、200
9年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神

88 :
士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達成
(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。法
的保護、修理・整備の経緯2006年に社エムゾネ殿が小山町の有
形文化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は
南麓の浅間神社が執り行っていたが、864エムゾネ〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心
とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿エムゾネ駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発
展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴
う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19
世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神エムゾネ社は、現
在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背
景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産
である。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。Bエムゾネ7.冨
士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登
山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀ら
れた最初の神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は
南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社がエムゾネ鎮座
する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたよ
うである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破
損し、1189、1275、1475、1525年と加修され、
1564には地元領主による大修理が行われている。現エムゾネ在
の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698

89 :
67年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地に
そのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)
が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさエムゾネ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ
られる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となっ
て機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の経緯197
3〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里宮の地にエムゾ
ネ移築された。151985年に移築された二合目本殿が文化財
保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の
文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住
宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話エム
ゾネをするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
エムゾネし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路
の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古
の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃
にエムゾネ建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐
野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家住宅
同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外
川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・エムゾネ整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法
の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋
根の修理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗
修理等が行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化
財に指エムゾネ定される予定。B9.山中湖B10.河口

90 :
士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えエムゾネられたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口
湖である。この巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や
巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)
ものの、人エムゾネ々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核
心として、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、
修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定
。B11.忍エムゾネ野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水
地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であっ
た。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川
角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えエムゾネられた古跡の霊場と伝えられ、1843年
に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整
備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念
物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝エムゾネの際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範
囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見
し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身をエムゾネ清める風習があり、洞穴内外の地形空
間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保
護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定エムゾネされた。B13.吉田胎内

91 :
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富
士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、
翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御
師団が管理している。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯192
9年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された
。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行
が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による

92 :
基の碑塔群が残る遺跡であエムゾネる。「吾妻鏡」では人穴探検の
様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされて
いる。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験
譚として説話化され、その存在が広く知られていた。富士講関連
の文書によれば人穴は16世エムゾネ紀から17世紀にかけ、長谷
川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)
の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行は
人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な
富士講信者が参詣し、修行を行エムゾネう者も見られた。また、信
者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを
建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周
辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興された
が、冨士講自体が衰退したことでエムゾネ参詣者はみられるものの
1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・
整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B1
5.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起エムゾネ源とする数百の流れを
持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜)の噴出
が数百条の白糸が垂れているように見えることをその起源とする
。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷川角行が人穴で
の修行と合わせて水行を行った地とさエムゾネれ、富士講を中心と
した人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名
であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整
備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び
天然紀念物に指定された。C.三保松原エムゾネ説明三保松原は、
万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。1
5〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝
地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外

93 :
知られている(又は海外に影響を与えた)エムゾネ芸術作品の視点
場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整
備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指
定された。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40
〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはエムゾネじめ、先小御
岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約2500m
の小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに
古富士火山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体
崩壊を繰り返し、小御岳火山をほぼ山体に納めエムゾネる形で30
00mを超える火山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴
出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山
を覆いつくし、約5600〜3500年前に現在の規模となった
。繰り返された溶岩の流出によって何層にもわたエムゾネる溶岩層
が形成され、その先端部には山体への降水を起源とする湧水が各
溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓に
おいてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり
、湖や湿地が形成された。また、溶岩層の中には数エムゾネ多くの
風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の
噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西〜南東
方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には
少なくとも800〜802年、864〜866年、9エムゾネ37
年、999年、1033年、1083年、1435〜1436年
、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認されている
。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返
す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたためにエムゾネ、
古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統治シ
ステムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるた
め、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間

94 :
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立エムゾネ
され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。ま
た、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象と
されるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半
ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)エムゾ
ネをはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材となった
ほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじ
め、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになった
(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都エム
ゾネから鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
エムゾネことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思
想)が習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け
入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当
時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は
仏エムゾネの世界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認
識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。こ
の結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、
修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった
。登エムゾネ山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
ら15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の道
者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年に
わたるエムゾネ日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治
安が安定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目
指すようになった。このような中で18世紀後半、16

95 :
士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行
から始まエムゾネったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中
心に「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり
、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者
(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係
を持った「エムゾネ御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿
泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、

96 :
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは188
9年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と
中央線が開通したことによっエムゾネて、東京からの登山がさらに
活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅
間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削さ
れ、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦
以降、日本の価値観や経済状況エムゾネの変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機と
するものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山
スカイラインが開通し、これ以降エムゾネ、中腹(標高2300〜
2400m)を起点とした登山が主流になった。この結果富士山
への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った
(2007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これ
らの登山者の行動様式の中には富士エムゾネ山への信仰の核心が受
け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の形態として、静
岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最
近の保全の歴史20富士山体は文化財エムゾネとしては、1924
年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地域が名勝
に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然公園
法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象とな
っている。さらに、第二次世界大戦後のエムゾネ1952年には、
新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び一
部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定され
、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(の
ち、1999年及び2006年に改定)、エムゾネ静岡県は200
6年に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適

97 :
と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修
理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士
山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、エムゾネ1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(
1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19
19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重エムゾネ要文化財、
史跡等として指定され、文化財ごとに保存管理計画が策定されて
おり、それぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるよ
うに細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の
文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富エムゾネ士山体も
含めた統一的な保存・管理が行われている。21表富士山の美術
(1)日本古来の伝統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所
在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風
1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山エムゾネを越え
る物語の状景。神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全
国遍歴の途中、富士川に入水する往生者を見送る背後に富士山。
兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の
途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山エムゾネ。大
阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最
古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓を進む場面。東京国立博
物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌
倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山エムゾネ本
宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参
拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。
東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描
いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。エムゾネ
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝

98 :
た富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時
代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15エムゾ
ネ世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉
画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲
安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交
友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世

99 :
ゾネ界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(〜)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
エムゾネ都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山
の左手に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作
家と富士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野
々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的に
もエムゾネ著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を
造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江
戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野
山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子
としエムゾネて京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形
光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世
界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文
人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図
(南画エムゾネ)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登
山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一
人者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌エムゾネ山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図182
1紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染ま
った富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描い
た写生派のエムゾネ草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士
三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境
を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県
立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西

100 :
んだ、秋田蘭エムゾネ画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司
馬江漢静岡県立美術館薩〜山富士遠望図1804平賀源内らと蘭
学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人
者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18
世紀)長崎に渡エムゾネ来した清人画家より写生的花鳥画を学び、
また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・自性
寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布
教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立
博物館版画富岳三エムゾネ十六景1831世界的に著名な浮世絵師
。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した。2
3浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀
)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風
景画に新境地を開きエムゾネ、印象派に与えた影響は大きい。浮世
絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多
くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化
勲章指定ジャンル著名エムゾネな作家名所在代表作(年代)説明油
画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明
治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期
の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父
芳柳と共に早く油彩技法エムゾネに目覚めた開拓者の一人。明治初
期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)
1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の
確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノ
アールに学び、日本洋画にエムゾネ存在感ある独特の装飾技法を樹
立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術
館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい一頁を開い
た田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館


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