TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
【超濃度硫黄泉】万座温泉 16宿目【満点の星空】
一人旅で部屋での時間の過ごし方
【全軒無料?】(新)自遊人パスポート 1冊目
【SAKURA】東京染井温泉さくら【巣鴨】
黒根岩 オワッタ
山形県温泉スレッド9
◆埼玉の温泉を語ろう20【彩の国】
【鸚鵡】@nifty温泉野次馬詰所【鮟鱇】
包茎がバレない方法
花和楽の湯(埼玉・小川町)4

野沢温泉Part4【長野県野沢温泉村】


1 :2017/02/22 〜 最終レス :2018/02/27
            ____
           ./, - 、, - 、   ̄ ヽ
          ./-┤ 。|。  |――-、 ヽ
           | ヽ`- ○- ´ /  ヽ  |
           | -   |     ―   |  |
           |  ´  |    `ヽ  . |  |ヽ
  ∩      人`、 _  |    _.- ´ | .|  \
  |  ⌒ヽ /  \  ̄ ̄ ̄     ノノ       \
  1      |´      | ̄―--―― ´ヽ     _  /⌒\
  \_   _/-―――.| ( T )      `l     Τ(      )
       ̄       |   ̄        }      | \_/
             | 、--―  ̄|    /
金元寿子と巽悠衣子のうんち臭すぎ

2 :
>>1
酢豚(RKBホークス)8
http://carpenter.2ch.sc/test/read.cgi/operatex/1487033210/
荒らしが立てたスレだから、スルーしましょう。
テンプあるなら、キチンとしたテンプレでスレ立てなおしを!

3 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

4 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

5 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

6 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

7 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

8 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

9 :
.

10 :
.

11 :
.

12 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

13 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

14 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

15 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

16 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

17 :
.

18 :
.

19 :
.

20 :
.

21 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

22 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

23 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

24 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

25 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

26 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

27 :
.

28 :
.

29 :
.

30 :
.

31 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

32 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

33 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

34 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

35 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

36 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

37 :
.

38 :
.

39 :
.

40 :
.

41 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

42 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

43 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

44 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

45 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

46 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

47 :
.

48 :
.

49 :
.

50 :
.

51 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

52 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

53 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

54 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

55 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

56 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

57 :
.

58 :
.

59 :
.

60 :
.

61 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

62 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

63 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

64 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

65 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

66 :
.

67 :
.

68 :
.

69 :
.

70 :
.

71 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

72 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

73 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

74 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

75 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

76 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

77 :
.

78 :
.

79 :
.

80 :
.

81 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

82 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

83 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

84 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

85 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

86 :
.

87 :
.

88 :
.

89 :
.

90 :
.

91 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

92 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

93 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

94 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

95 :
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。
よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、
キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
松坂は「無理」をして勝ってきた。球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。
他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
そんな松坂がモデルにする投手とは…。                                   
「真っすぐをいかに早く見せるか、という意味では、(中日)ドラゴンズのレジェンドである山本昌さんとか、
そういうところを目指していきたいですね」と、今後の理想を力強く語っていた。

96 :
.

97 :
.

98 :
.

99 :
.

100 :
.


100〜のスレッドの続きを読む
●東京の温泉について語ろう 7●
◆草津温泉ー車中泊者専用スレ◆2
【石川県】温泉、料理、レジャー【能登】
栃木県の温泉について語れ
【全国】一人旅OKの温泉宿★パート24【温泉】
◆草津温泉ー車中泊者専用スレ◆2
秘湯ロマン Part.2
【全国】一人旅OKの温泉宿★パート63【温泉】
【混浴】湯原温泉・砂湯6【岡山県真庭市】
横浜の温泉、スパ銭湯
--------------------
【ニューギン】 CRシュタインズ・ゲート 11周目 【シュタゲ】
【ホモ】ほのぼのモグウ日記 質問スレ2【日記】
スカイマークBC105便
【 焼酎甲類乙類混和 】
過敏性腸症候群ガス型の「治療法」を語り合うスレ
シェンロンはよきかな
キチガイ税金泥棒 なじょっ子 ◆AFWy3cH3C.
【GoProもどき】 激安アクションカメラ専用スレ part5 【中華】
【海】ブートレグについて語ろう【賊】
パケット定額値下げするキャリアが真の勇者
Fate/Grand Order 無課金ワッチョイ有りスレ479
花火師の疑問、愚痴
信長の野望 烈風伝withPK 其の【蜂拾】
報復評価を受ける被害者続出モバオク通報協力
【つばきファクトリー】小野田紗栞ちゃんが超カワイイ!!Part107【ハッピースマイル】
【俺の嫁】ご当地『萌え』キャラ総合【限定】
PENTAX 645D/645Z Part23
金縛りっていう現象本当にあるの?一度もなったことないんだけど [987524678]
最も大晦日→正月気分な煙草
晩婚化の原因は女に魅力がないせい
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼