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古賀政男総合スレ


1 :2011/11/02 〜 最終レス :2020/05/11
今でも語り継がれている名作曲家の古賀政男について語りましょう
古賀政男 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7
古賀政男音楽博物館
http://www.koga.or.jp/

2 :
今月は古賀政男の誕生月。
秋の夜長に哀愁切々と、古賀メロディーを…

3 :
テレ東で古賀メロディの特番組んでほしい。さらに、古関さんも服部さんも。

4 :
最後の曲って誰の何ていう曲?

5 :
ググって見たが出てこない…

6 :
>>5
ぐぐって出るためには誰かが情報をうpしないと…

7 :
>>6
確かにそうだよな
というより古賀政男スレが今まで無かったのは情報量が思ったより少なかったからか…

8 :
天下の古賀政男の情報が少ないなんて、意外な話。
ではちょっとしたエピソードを…。確か古関裕而の話だったが、彼が東京都内の某百貨店で、宝石を買いあさっていた古賀政男と会ったという。
古賀は古関に「宝石はいいものね。裏切らないから」などと語っていたらしい。古賀は宝石を買うことで、淋しさを紛らせていたのだろう。

9 :
古賀は晩年は宗教にも凝ってたしね。晩年は淋しいエピソードが多いような。

10 :
弟子や付き人、養子など、取り巻きは多かったんだろうけど、実子がいなかったのは大きい。
哀切なる古賀メロディーの原点はそういうところにあるのだろうか。

11 :
釈迦の仏壇返しというオナニーの新手法を生み出した功績は大きい。

12 :
>>11
それは初耳ですわ

13 :
押入れの上段でしこしこするんですと。
で、逝くまぎわに後ろ向きに床に身を投げるんですと。
「それがね、すっごくいいのよ」てディックミネに伝授した。
ディックミネは玉ノ井で女抱いてたからぜんぜん必要ないんだけど

14 :
昼間は五線譜におたまじゃくしを並べ、夜は自分のおたまじゃくしを放出してたのか…

15 :
>>13
失敗したら悲惨な結果になりそうだな

16 :
確かに日本の魂(こころ)演歌を量産してくれたたのは感謝するけど
列記とした在日コリアンと知った時は正直凹みました(>_<)

17 :
×くれたた
○くれた
ダブってました。m(__)m

18 :
在日であろうとなかろうと、いいものはいいと思うよ。
日本を貶してたわけではないんだからさ。
日本にいながら日本が嫌いな人達は私だって厭だけどね。

19 :
少女…じゃなかった少年時代を朝鮮半島で過ごしてたのは有名な話だが在日なんてのは初めて聞いたな
自分にはどう見ても日本人にしか見えないけど

20 :
どっちにしても朝鮮の心の音楽を日本に広めた功績は大きい

21 :
朝鮮の音楽が日本の音楽がってことでなく、日本で古賀メロディーとして形になったのが大きいんだよ。
宮城道雄も朝鮮半島で育ったが朝鮮にそのままいたらあれだけ偉大な音楽家になっただろうか? 古賀も同じだと思う。

22 :
出た―――!!
在日W

23 :
>>21
朝鮮民謡に影響を受けてなければ古賀メロディーは存在しない

24 :
古賀先生が自作を歌ったCDがあるけど、いつ頃の音源だか知ってる?

25 :
今日の歌コンで古賀メロ特集してたけど
演歌歌手より歌謡曲の歌手に唄わせた方が合うんじゃないか

26 :
今日のNHK歌謡コンサートは古賀政男特集。

27 :
>>25
同感

28 :
日本シリーズも終わったけど、古賀政男って生前どこのチームが好きだったのだろうか?

29 :
てs

30 :
そうだね! 古賀曲は演歌歌手には歌って欲しくない
小林幸子なんて変にこぶしまわして きもい

31 :
小林幸子は古賀の弟子なんだけどね…

32 :
つまり>>30こそが古賀政男を否定してるって事だね

33 :
>>30が言いたいのは
初期の作品は演歌歌手向けではなく、藤山一郎のようなクラシック畑出身者向けってことだろ
たしかに五木の「丘を越えて」なんてふざけてるとしか思えない

34 :
古賀メロディーの初期は、古関裕而や服部良一に引けをとらないぐらい洋楽指向のものが大半だから、歌唱スケールが小さく技巧的な演歌歌手では厳しいかもね。

35 :
影を慕いて、酒は涙か溜め息か、サーカスの唄、緑の地平線等
定番古賀メロディーはいろんな歌手のカバーが聴き比べられて面白い

36 :
古賀政男と古関裕而って、ベートーベンとモーツァルト或いは中森明菜と松田聖子みたいな対比だと思う

37 :
古賀政男はギターをつまびきながらメロディーを紡ぎ出していたが、古関裕而は常に頭の中にメロディーが流れていてそれを採譜していた。

38 :
この作品は永遠に残すべし
http://www.youtube.com/watch?v=NG3TOn9uuAk

39 :
>>38
通州事件の歌ですね。
南京大虐殺と違いこれはガチモノの事件だから心に深く刻むべきであろう。

40 :
【韓国起源】「演歌始祖の古賀政男は韓国人」「演歌は韓国メロディから生じた」日本の協会理事長が証言=韓国[01/10]
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1326195239/

41 :
まあ何人であろうと素晴らしいよ

42 :
>>40
>演歌始祖の古賀政男先生は「事実上」韓国人であり
なんだよ「事実上」って曖昧な書き方して
また起源捏造かよww

43 :
暖色

44 :
剣道も柔道もサムライも文化財も韓国の文化になってしまっている。
泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。
もうだめなのか日本は?
http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU



45 :
ホモだったんだよね
そのためにジャイアント馬場の後援会作ったりw
ナニを尺八して古賀メロディw

46 :
プロレスは好きだったみたいだけど、男の裸を見るのが目的だったのかもね。
まだ新人だったレスラーの遠藤幸吉を自宅に招いて食事をさせたり、遠藤の実家がある山形県へ2人で旅行したり、自ら後援会長をかってでたりしたこともあったようだ。
もちろん、遠藤とも男と女…もとい、男の男の関係まで発展していただろう。

47 :
古賀は植民地に住んでた侵略者じゃんww

48 :
>>47
日本は朝鮮を侵略した覚えもないしましてや植民地支配した覚えはない。
あくまでも(旧)大日本帝国と大韓帝国が合併して出来たのが(新)大日本帝国なのだから。

49 :
馬場に欲情するという性癖だけで凄い

50 :
>>49
そのバイタリティーが数多の古賀メロディーを生み出したのであろう。
♪あなたのリードで処女膜やぶれ 初めは本当に痛かった そのうち良くなり〜…

51 :
にいちゃんのブログでも古賀政男についてけっこう書かれてるよ。
ちなみににいちゃんもいい男の写真をたくさん載せてるから見るといい
ttp://blog.livedoor.jp/melody1964/

52 :
「それでは、どうぞごゆっくり」
朝鮮人には理解できないフレーズの一つだ

53 :
ぶっちゃけホモだろうが朝鮮人だろうがどうでもいい
そう断言できるほどキモいルックス

54 :
でも作品はいいよね

55 :
古賀さんの作品で好きなのは何?

56 :
>>4
島倉千代子のひろしまの母じゃないかな。
レコーディングは二人とも泣いてしまって当日は録音できなかったとか。

57 :
2人で泣いていたんじゃどうしようもないわ

58 :
自分も思わず泣いたから、あの曲で泣いてしまうのは仕方ない

59 :
これですね
http://www.youtube.com/watch?v=ORqii1pPTxM

60 :
これも古賀政男作品?
月の朝鮮海峡(青木光一・李承晩ラインの歌)
http://www.youtube.com/watch?v=__S0iETGLWI&feature=related
でも実際凄いのは作詞した西條八十だろうね…

61 :
霧島昇や大川栄策の目ン無い千鳥は放送禁止歌なんですか

62 :
大丈夫だと思う

63 :
記念館に行って、銅像と写真とったことがある。

64 :
「湖畔のギター」という曲を聴きながら久々にぴたテンを読んでみたら何だかしんみりした気持ちになった

65 :
アントニオ古賀保守

66 :
秋はさみしい

67 :
テレ東で古賀政男記念館が紹介された

68 :
定年者ギター教室の定番ですね

69 :
「誰か故郷を想わざる」や「影を慕いて」なんて特にね

70 :
70choice

71 :
森が辛うじて面識があるだけであとは縁もゆかりもない歌手ばかりだった

72 :
古賀政男生誕記念age

73 :
誰も来てないので保守age

74 :
来てやったので保守age
とみせつつ下げ

75 :
古賀政男記念大川音楽祭ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130304/5811991.html
昭和を代表する作曲家、l古賀政男の出身地、大川市で記念の歌唱コンクールが開かれ、出場した29人が自慢の
のどを披露しました。ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130304/5811991_5015811991_m.jpg
「古賀政男記念大川音楽祭」というこの歌唱コンクールは、日本の歌謡史に大きな功績を残した古賀政男をたたえる
ため出身地の大川市で毎年開かれ、ことしで31回目です。
3日は全国から応募があったおよそ800人のうち予選を勝ち抜いた29人が出場し古賀メロディーと民謡、それに
歌謡曲の3つの部門で競いました。
このうち、古賀メロディーの部門では、出場した人たちは地元で活動するギターアンサンブルの生の演奏にあわせて
「無法松の一生」や「柔」、「湯の町エレジー」などおなじみの曲を歌って客席から大きな拍手を受けていました。
審査の結果、▼古賀メロディーの部門では北九州市の今浪政彦さん、▼民謡の部では大牟田市の猿渡和代さん、
▼歌謡曲の部では苅田町の末崎武尊さんがそれぞれ最優秀賞を獲得しました。

76 :
通州事件忘るべからず
恨みは深し通州城ー通州事件を胸に刻むために
http://www.youtube.com/watch?v=b-UM8lFT0mw

77 :
【SP歌謡・回顧と展望】 が、平成25年9月10日をもって
    廃止されましたので、こちらに移転致しました。
     
     《日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史》
       @10cH 歴史BBS
  http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&amp;key=354361110
主なもの
西條八十と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 ?
関 種子と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
映画主題歌にみる古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男と「荒城の月」 | SP歌謡・回顧と展望 -
藤山一郎と増永丈夫 | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男 二つの「思い出の記」 | SP歌謡・回顧と展望
三浦環と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
“歌謡界の大御所”古賀政男と、“国民的歌手・歌う昭和史”藤山一郎 | SP歌謡・回顧と展望...
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男、その音楽遺産と旧古賀邸 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディ−と映画主題歌 | SP歌謡・回顧と展望
佐藤千夜子と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男アメリカへー古賀政男音楽博物館企画展 | SP歌謡・回顧と展望
明治大学の昭和歌謡史群像 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀メロディとその時代 | SP歌謡・回顧と展望 -
松平晃 サーカスの唄 | SP歌謡・回顧と展望 -
学生スター歌手 | SP歌謡・回顧と展望 -
李香蘭と古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
ビクター専属藤山一郎への対抗 | SP歌謡・回顧と展望
古関祐而と古賀政男
その他

78 :
11月18日は古賀政男生誕記念の日です。古賀政男音楽博物館では毎年、記念企画が行われています。
今年も
ビデオ上映
11月12(火)−11月17(日) 不滅の古賀政男名曲選
11月18(火)−11月24(日) 幾山川は超えたれど
入場料525円
その他、
明治大学マンドリンクラブ演奏会 (指定席制 入場料2千円)ケヤキホール
(問い合わせ先)
小田急線代々木上原駅前(ホ−ムと斜め交差する井の頭通り、駅前交番直前)
古賀政男音楽博物館 
TEL 03−3460−9051

79 :
今の季節りんどう峠が無性に聴きたい

80 :
りんどう峠/昭和30年、西條八十作詞、古賀政男作曲
島倉千代子初の古賀メロディですね。

81 :
りんどう峠は高原の何とかという戦前の曲が元らしい

82 :
中野忠晴「高原の唄」

83 :
中野忠晴「高原の唄」:島田芳文作詞、古賀政男作曲 1932.7

84 :
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀メロディ」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

85 :
「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家の名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるでしょう。
これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビのナツメロブームの影響でしょうか、使い方も間違っていると思います。
西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。
しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではない。
昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。

86 :
へー

87 :
「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」ということができるでしょう。
日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められていると思われます。

88 :
なに言ってるか分からない。
気持ち悪い文章だな。こんな奴に古賀メロディーとか語ってもらいたくない

89 :
唯一『古賀メロディ』以外は実態を伴うものでない・・バーチャルということ。

90 :
近視眼すぎないか?それ
古賀を持ち上げるためにほかは貶すという。
藤山一郎ばっかり持ち上げる誰かさんによく似てるな

91 :
古賀メロディほど多くのヒット曲を持つものはないのです。

92 :
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。
その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。
その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。
同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 
昭和6年、「チャッカリしてるわね」(同、西岡水朗作詞、天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女。 高橋掬太郎作詞)、
「丘を越えて」(姉。島田芳文作詞)、「鳩笛を吹く女の歌」(同、佐藤惣之助作詞)(いずれも藤山一郎歌、1931)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。

93 :
きもい。なに上から目線で語ってんだよwwww

94 :
今、「一強他弱といわれているが、昭和の歌謡が一強他弱なんだね。

95 :
今日11月8日、島倉千代子(75)が亡くなった。テレビはいっせいに大きく報道。
島倉千代子は、集団就職全盛時代にデビュー、歌われている。
古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が
放送された。このとき島倉千代子が、「りんどう峠」の想い出を語っている。
ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!、と。
なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。
「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。

96 :
>>95,>>78
ビデオ上映
11月18(火)−11月24(日) 幾山川は超えたれど
入観料525円
他もあり

97 :
お知らせ
本日、11月12日(火)、夜8時より、
NHKTV [わが心の古賀メロディ〕があります。

98 :
古賀さんの門下生はいますか?

99 :
予め視聴者からのアンコールと手紙で、影を慕いて(森)、無法松の一生、柔、
男の純情、東京ラプソディ、酒は涙かため息か、りんどう峠、誰か故郷を思わざる、
白虎隊、東京五輪音頭、人生の並木路(森)でした。
なにぶん歌手は今の演歌系歌手で森進一、氷川きよし、などでした。

100 :
「りんどう峠」は亡くなった島倉千代子さんの、昭和30年、はじめての「古賀メロディ」で
歌は違うがビデオも使っていました。
島倉千代子さんが古賀先生から教えられた事として、悲しい歌は、自分で泣いてはいけない
聞いてくださるお客様に泣いていただくものと。
藤山一郎が正にそういうことを言っていた。
悲しい歌は淡々と、明るい歌はペーソスをこめて歌う。それが大人の歌と。
最後に「人生の並木路」を歌った森進一の目には涙が、
泣き節になってはいけない。

101 :
これらの多くは藤山一郎とかが歌っていたもので、なんといっても物足りなさは拭ぐえないものでしたが、80年以上前の歌が今も歌われていることはすごいことだと思います。

102 :
底辺に哀調と愁いを秘めた誰も真似のできない独特のメロディ、音のキャンパスいっぱいつかったような,
昭和のはじめから「古賀メロディ」と呼ばれて親しまれてきたそのメロディには、
16部音符とか使った「小節」が多用されている。
ディックミネも、それでなくとも音域が広く僕にはとても歌えません、勘弁してくださいと辞退しようとしたという、
とても今の演歌歌手のとても歌いこなせるようなものではない。
もっとビデオなど元の歌手の実映像を活用しないと演歌になってしまうだろう。

103 :
>>100
それを言ったら美空ひばりの「悲しい酒」はどうなるのか・・・。

104 :
同じでしょ

105 :
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

106 :
懐メロには小節(しょうせつ・。こぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を勧められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したという。
小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげること。
ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせつ)はない。歌うにも、演奏するにも「古賀メロディ」は難しい。

107 :
5連符、6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、
人はそれを「古賀メロディ」と呼んだんだね。

108 :
>>103
美空ひばりは一種の怪物ですから…

109 :
あの嘘泣き見ると虫酸が走る

110 :
あれ、ひばりのオリジナルな持ち歌じゃないそうだよ・・。

111 :
>>110
オリジナルは北見沢淳。
ところで井上宗孝とシャープファイブの「古賀メロディ大作戦」というアルバムって
このスレ的にはどうなの?
強烈なファズのかかった演奏が聴けるけど。

112 :
「古賀メロディ」を含め世界の色々な音楽に挑戦しているという点では買えるでしょうが、
なにぶんリズム系バンドにつき、「メロディ」で呼ばれる、あの哀調を帯びた独特のメロディになじまないのでは。

113 :
>>111>>112
裏ジャケでシャープ5ベースを抱えてしゃがんでる古賀先生がおちゃめ

114 :
>>109
古賀先生も苦笑してたんでしょうね。

115 :
古賀政男と美空ひばりの歌の出会いは、昭和30年(1955)、ひばり18歳の時、松竹映画『娘船頭さん』の主題歌『娘船頭さん』(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪娘十八 口紅させど わたしゃ淋しい 船頭むすめ・・
島倉千代子が、初めて「りんどう峠」(西條八十作詞、古賀政男作曲)歌ったのも同じ年です。(ついでに、西條八十作詞歌謡作品で圧倒的に多いのが古賀政男作曲。)
しかし、実際の出会いは意外と早く、昭和22年の春、ひばり10歳の時、横浜桜木町の焼けビルでのど自慢大会(「市民によるのど自慢大会」)があり、そこに古賀政男が審査員として来ていました。
ひばりを連れた母親は古賀政男の楽屋に強引に入り込み、娘の歌をぜひ聴いてくれ――と頼んだそうです。当時、売り込みを盛んにしていたようです。
ひばりのホームページにもでているのだが、絶賛されると書いてあるのだが、この点については書いてない。このとき近江俊郎/奈良光枝の歌った「悲しき竹笛」(西條八十作詞、 古賀政男作曲) を歌った。

116 :
古賀は想像する以上に包容力のある人だったらしく、無名の少女が大人の歌を歌うのを聴いてくれました。伝えられるところでは、古賀政男はひばりの歌を褒めてくれたそうですが、デビューには直接は結びつきませんでした。
美空ひばりは昭和24年8月12歳のときに、『踊る竜宮城』に出演して『河童ブギウギ』(藤浦洸作詞、浅井挙曄作曲)を歌い、これがひばりのレコードデビューとされています。
 そのあと映画『悲しき口笛』(1949年9月10日)で主役を演じ、その主題歌『悲しき口笛』(藤浦洸作詞、万城目正作曲)が大ヒットして、実質的なデビューを果たします。

117 :
ひばりの歌で一番好きなのは『娘船頭さん』ですというのも多い。

118 :
>>100
しかし、藤山さんは、明るい歌を明るく歌ってないか?

119 :
古賀作品を最も唄った女性歌手は島倉千代子さんではないか。
地方盤PR曲などを含めると相当ある。

120 :
個人的には川治温泉の温泉小唄が好きだ。

121 :
>>119,>>120
5000曲とも言われる古賀政男の作品には、沖縄民謡「二見情話」1932 などの新民謡や、「会津磐梯山」「ヨサホイ節」など国内民謡曲や、「アリランの歌」「南の花嫁さん」など外国民謡曲等の編曲,「荒城の月」「宵待草」など国内曲の編曲など結構沢山ありますね。
1962年には、福井の新民謡「イッチョライ節(福井温音頭)」があり島倉千代子、守屋浩がうたってますね。

122 :
>>121
☆古賀政男の主な編曲曲
アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。
二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)
ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク
会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907
のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)
軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2
愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074
荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌
宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏
南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)
イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩

123 :
>>122
(参考)
☆「荒城の月」について

「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。
 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。
『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲
『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲

124 :
イッチョライ節の片面「ああ北の庄」と「お染半九郎」は似ている

125 :
お染半九郎(石川潭月作詞 古賀政男作曲)島倉千代子・村田英雄 昭和35年12月 
ああ 北の庄(西沢爽作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭37年
♪戦い敗る 賤ヶ岳 死なば柴田勝家が 青葉の城に たちもどる

126 :
島倉千代子 乙女心の十三夜
昭和三十一年発売。
作詩:西條八十  作曲:古賀政男。 日活映画「乙女心の十三夜」主題歌
島倉千代子 遠い人 
連続ラジオドラマ放送「夜光虫」主題歌
昭和35年6月発売 北条誠作詞 古賀政男作曲

127 :
「ワンダフルカナダ(島倉千代子・アントニオ古賀)」
ポップス系の曲かとおもったら音頭だった

128 :
>>122
そういえば蔡奎Yって「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」の朝鮮語版を歌ってましたね

129 :
蔡奎Yは、朝鮮のテナーで人気歌手ですね。
コロムビア専属時代に内地向けの日本語レコードを吹き込む際に使用した芸名で、当時コロムビア京城支店があった京城府長谷川町にちなんで付けられたといわれています。

130 :
『アリランの唄』のB面は、長谷川一郎で、放浪の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作編曲 唄:長谷川 一郎)1932.8
(朝鮮民謡「放浪歌」)。
http://blog.roodo.com/wien/archives/9184871.html
昭和37年(1962)小林旭が、歌いました。

 

131 :
>>127
[ワンダフルカナダ]は、古賀政男作曲でカナダの日系社会で何十年も前からよく歌われている歌だそうですね。
(島倉千代子・アントニオ古賀)

132 :
>>122-123
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

http://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM
戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。
戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。
戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。
「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。
戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。
「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。ぜひこの映画を見せてあげたい。

133 :
>>132
アップロード日: 2010/01/15
荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモ&shy;ノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物&shy;だと感心させられた一曲です。

134 :
三波春夫と島倉千代子が共演した古賀政男作曲の「すっきり音頭」は
どういう経緯で作られたのでしょうか。歌詞などから推察すると昭和40年頃の作品だと思います。
コロムビアとテイチクの通常ならあり得ない共演作品について詳しくわかる人教えて下さい。

135 :
思い出さん今日は(星野哲郎作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和33年

136 :
潮来笠を唄っていると途中から思い出さん今日はになるというネタをする芸人がいたらしいが誰

137 :
昭和35年、潮来笠の「潮来の伊太郎ちょっと見なれど」と
「思い出さん今日は」の「目隠しした手で肩抱き寄せて」
のメロディーがそっくりということらしいね!

138 :
白い小ゆびの歌(関沢新一作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和34年

139 :
>>138
レコード大賞で初めて作曲賞を獲得した曲ですね。
片面は同じく古賀政男作曲の「つばなの小径(美空)」でしたが白い小ゆびの歌の方がヒットしました。

140 :
布良の娘(西条八十作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和30年

141 :
布良(めら)というのは千葉県館山市にある地名だそうだね

142 :
対馬の娘というのもあったな。作詞は同じく西條八十。
永田とよ子が唄って、後に島倉千代子が唄ったが
平成になって香西かおりも唄ったらしい。

143 :
>>141
布良海岸は、安房神社の『下の宮』のご祭神の天富命が、神武天皇のご命令により、四国の阿波(徳島県)から遠征されて来て、一行が初めてたどり着いた、記念すべき最初の土地になった海で、安房 房総発祥の地だそうです。

144 :
>>140
「布良(めら)の娘」は、「りんどう峠」のB面。いずれも(西條八十作詞、古賀政男作曲)。
♪想うお方は 帰らぬ人よ 波にうたせて 鮑とる・・とあるように、恋人を海に取られた悲しい唄。
「りんどう峠」が、『高原の唄』(昭和7年中野忠晴、島田芳文作詞、古賀政男作曲)のエッセンスを引き継いでるように、
このうたも、同じ西條八十・古賀政男コンビ作品で、昭和8年、ミス・コロンビア『「お蝶夫人」の唄』に、♪おもうお方は 帰らぬ人か・・という詞がある。

145 :
海女さんの唄?

146 :
このあたりで最近もロケがおこなわれているよう。また房州館山辺りは他に、相州の「石橋山の合戦」で敗れた源頼朝が真鶴半島から房州へ逃れてきて、その上陸地が勝山海岸です。安房の地で鋭気を養った頼朝はその後鎌倉幕府を開き天下を治めました。房州には頼朝伝説が多い。

147 :
ひろしまの母 (石本美由紀作詞、古賀政男作曲) 島倉千代子  昭和52年

148 :
http://metoro.e-know.jp/e429617.html

149 :
ひろしまの母のレコーディングに立ち会った古賀政男さんは
島倉千代子さんと共に泣いてしまって別の日に改めてレコーディングしたそうだね。

150 :
「ひろしまの母」は、昭和52年(1977)、第4回広島平和音楽祭で発表され、古賀政男最期の作品となった。
古賀政男最後の作品は島倉千代子の歌になる。

151 :
温泉の姉妹(丘 灯至夫作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 昭和三十一年 東宝映画同名主題歌

152 :
古賀さんが女性に抱くイメージを問われて「優しい…優しい…雪のように淡い」
と答えていたそうだが、やっぱり一番可愛がっていたのは島倉さんなんじゃないかな。

153 :
島倉さんは控えめで腰が低いことで好感をもたれてました。

154 :
古賀さんは小林千代子と交際したが周囲に反対され結婚できなかった。
後に千代子という名の別人と結婚したがすぐに別れた。
自分の経験からか島倉さんに千代子という名前は結婚できない。
結婚してもすぐ別れると言ったらしい。

155 :
「古賀メロディ」の源泉、それは『寂しさ』にあったと言われますね。

156 :
古賀政男(正男)は大正元年、7歳、小学二年の時、父を亡くし、朝鮮にいる
長兄・福太郎を頼って一家で朝鮮に渡り、17歳まで、一番感受性の強い
10年間を朝鮮で居候生活する。この間、居場所もない、それはつらい日々だったという。
帰った後も長兄からは、音楽への勉強の路を絶たれ奉公させられる。
東京に出て明治大学に行くも、「勘当」され苦学することになり、ここで
一人の女性と知り合うが自殺してしまう。

157 :
昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。
代々木上原一、二丁目の井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。
「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。

158 :
>>157
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。
そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。>>78,>>95,>>96
このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。
なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

159 :
>>158
『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
http://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY
公開日: 2013/11/22
これは、2002年に放送されたNHKアーカイブスの番組の前編と後編の間のインタビューです。その番組とは、古賀政男が亡くなった翌年1979年(昭和54年)放送の『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』でした。
この本編の中でも、1979年当時の島倉千代子がインタビューに応えて、「りんどう峠」を唄っています(YouTube投稿済)2002年当時の島倉千代子は64歳でしたが、古賀先生との懐かしい思い出を感慨深く語っています。
島倉千代子さんは、2013年11月8日、75歳で逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。

160 :
パーシー・フェイス・オーケストラのアルバム「不滅の古賀メロディ」は
当時(70年)は日本のみの発売だったが
現在はアメリカのみCD化。
http://www.amazon.co.jp/Koga-Melodies-Ryoichi-Hatori/dp/B000EZ900W/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1388319627&sr=1-1&keywords=percy+faith+koga+melodies

161 :
>>160
ご紹介ありがとうございます。

162 :
代々木上原の古賀政男邸は、昭和13年に明大マンドリン倶楽部仲間後輩らを呼び寄せ、音楽村を作ろうと、松林だったこの場所を近くに住んでいた古賀政男が気に入り、地主に掛け合い三千坪を買取り、清水建設の安藤喜八郎に設計を依頼し建築したもの。
和洋折衷型の名建築物で、日本の歴史的・洋館18邸として以下の豪華写真集に収録されていています。
なお昭和53年、古賀政男追悼本として出た、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)にも、古賀邸内が写真で紹介されている。

藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」 講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県) 、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

163 :
>>159
島倉千代子さんは古賀政男音楽博物館でコンサートを開いたこともありますね
もう古賀政男さんの大ヒット曲を持つ歌手はいないのでは

164 :
NHKアーカイブス NHK
幾山河は越えたれど 昭和の心 古賀政男

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2002/h021229.html

165 :
作曲家になる以前、貧乏に貧乏を重ね、その後成功に次ぐ成功を重ねた古賀政男。でも心の底には消すことのできない、何かしこりのようなものがあった。
それが何であるか自分でもわからない。 そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、亡くなる2ヶ月前、昭和53年5月、うつみ美土里さんに伴われ、体をおして韓国に渡ることにしたのだった。
(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る]で放映。;NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男])
そして空港で両手で支えられタラップを降りた古賀政男を迎えたのは、朝鮮の民族衣装に身を包んだ女性たちが演奏する朝鮮の民族楽器カヤキンの奏でる、子供のころに聞いた懐かしい朝鮮メロデー・アリランであった。
そして、うつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。 家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。
朝鮮の民族楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶし(小節)でもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720(1989)

166 :
NHKTV 1993年2月4日[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男]では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。
そのなかで、「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。
古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。

「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根付いた歴史そのものでもあること。「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった、でも唯一あるのが朝鮮の民謡。
どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。(TBS TV[古賀政男、第二の故郷に帰る])

167 :
古賀政男音楽博物館 歌の舞台を訪ねる〜東京編
http://blogs.yahoo.co.jp/genba1215/62021559.html
東京渋谷区、小田急線代々木上原駅近くにその建物はある。
「古賀政男音楽博物館」。
日本の大衆音楽の偉大なる作曲家古賀政男の自宅があったところである。
昭和13年にこの地に移り住み、生涯ここで暮らした。
井の頭通り沿いの高級住宅街にあり隣はJASRAC(日本音楽著作権協会)のビルがある。
古賀政男は生前この場所を大衆音楽の音楽村にしたいとの思いを抱いていた。
古賀の死後そこは大衆音楽の博物館として生まれ変わった。
ここは近いこともあり、3回ばかり訪れた。一番最近訪れたとき改めて驚かされたことがあった。
一つはその敷地の広大さである。三千坪といわれる。豪邸というよりはお屋敷といったほうが当てはまる。
以前はあまり目に止まらなかったのであろうが、今回展示品の中のあるメモに釘づけとなった。
それは古賀政男が亡くなる2日前に書いたメモで、便箋2枚に書かれたものである。
実物が展示してあり、私はそれを読んである意味ショックを受けた。
その場で読み終え、それをメモした。
以下は私がそのメモをワープロで清書したものである。
古賀政男の最後の心境を知るうえで貴重なものと思いそのまま掲載させていただく。・・

168 :
年が明け、今年は2014年になりました。レコード歌謡は『昭和』と供に始まり、そしてそこに古賀政男(正夫)がいたのでした。
その「昭和」も、はや四分の1世紀が過ぎ、今年は「昭和89年」にあたる。 (昭和は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1 月7日まで62年と14日。歴代元号の中で最長。レコード歌謡は昭和3年に始まる。)
昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、83年前の昭和6年(1931)3月20日。

169 :
年末年始のテレビ番組を見ても,「昭和の歌姫」とか、「昭和の名曲」とか『名曲』と言う言葉が頻繁に飛び交う
のですが、『昭和』といっても殆どが昭和末の、物が有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和50年代前後あたりから。
「昭和」は60年あることをぜひお忘れなく・・。
それも、ほとんどがJ-POP(和製ポップス(POP=ポピュラー)とか、ホークソング等のニューミュージック、ド演歌など若者文化一色。
古賀政男が亡くなり、最後の島倉千代子も亡くなり残念なことです。

170 :
昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。
コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。
栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
http://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU
古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。

171 :
佐藤千夜子(ちやこ)だね

172 :
>>171
佐藤千代子(さとうちやこ)は山形県天童の人。子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土(フレンド)学園)に入学。
在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことから音楽を志す。
大正9年、東京音楽学校(現東京藝術大学の音楽学部)に入学。クリスチャンである山田耕筰と出会う、ここで中山晋平を紹介される。
中山晋平は当時野口雨情と新民謡運動をしていて、全国を飛び回り「民謡」の採譜やコンサートなどをしていた(新民謡・新童謡コンサート、全国歌の旅)。
これに共鳴した佐藤千代子は東京音楽学校を中退して、この運動に歌手として参加することとなった。と言っても、まだ新幹線も飛行機もラジオ放送も無かった時代。
この「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)運動から生まれた、昭和3年「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、ビクター)が、日本最初の商業レコード歌謡とされ、それを歌った佐藤がレコード歌手第一号とされる。天童市に生家(記念館)がある。
1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。
この辺りは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」に詳しい。
佐藤千代子の曲は次のCDで聴ける。
・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  http://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536 2CD
  http://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536



1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。

173 :
>>172
訂正; ×佐藤千代子 ○佐藤千夜子

174 :
古賀政男=朝鮮人説はさすがに論外だと思う
また古賀の音楽には朝鮮音楽(古典)の影響はさほど大きくないと考える。
古賀の作品を聴いた上で語ってるのかすら疑問だ。

175 :
>>174
そうですね。古賀政男は洋楽志向で、古賀政男ほどワルツやジャズ、タンゴ・・その他、世界のいろいろな洋楽を取り入れているものはないと言われますね。
そうした前提でなければならないと思います。
初期の『月の浜辺』などジプシー音楽と呼ばれるものですし。

176 :
なんんなこのオナニースレ

177 :
古賀政男の自伝などによると、仏教の「声明」(しょうみょう)や、義太夫など江戸文化の研究や自らも歌っていたとあります。
西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。
西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。
古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう

178 :
1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
http://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY
古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。

179 :
ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。

180 :
こんなに早くレスつくとは思いませんでしたw
古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。
古賀氏の音楽を、もちろん旧邦楽ともですが、安易に朝鮮音楽に結び付けるのは、
「ちゃんと分析してないから」としか言えませんw

181 :
>>180さん
>古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
だからアレがあんま「日本の」って言われることがそもそも疑問ですね。
そのとおりだと思います。
古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思います。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。
古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。

182 :
>>170
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。
『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。
支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。
『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

183 :
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。
「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。
ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

184 :
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。
これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。
また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。

185 :
TBSに古賀さん自身が影を慕いてを唄っている映像が残っていてビデオ化もされているが
CSでいいから古賀政男大会全編放送してほしい

186 :
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

187 :
「影を慕いて」 昭7、 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
国立国会図書館 第79回 常設展示  平成9年3月25日〜4月25日
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―

188 :
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

189 :
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。
これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。
実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

190 :
>>181-183
(参考)
「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一

191 :
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。
今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。
この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。
参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。
まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山晋平作曲)を歌っている。
「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。
今から83年前の、昭和6年(1931)3月、古賀政男26歳だった。

192 :
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。
そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。
古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。
「晋平“節”」の時代から、「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。

193 :
「日本の名曲」で、古賀メロディの傑作「影を慕いて」
昭和4年6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子、ビクタースタジオで吹込み、「日本橋から」のB面。(ビクター、昭和6年1月新譜)。(この8日後には佐藤は日本を離れる。)
昭和7年1月、藤山一郎再吹込み(コロムビア、昭和7年3月新譜)。
http://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&l=6950

194 :
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。
この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。

195 :
この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。
このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。
影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519
昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170
そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。

196 :
>>195
参考
伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971

197 :
古賀メロディの原点であり、不朽の名曲「影を慕いて」は、美しき日本の歌で、クラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられる。今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。
かって、平成のはじめごろ、NHKTV『日本の名曲10』という企画があった。「荒城の月」「波浮の港」など「日本の名歌」と言われる10曲を、1年間に渡り、ゴールデンタイムのそれぞれのNHKTV番組の最後の数分間をつかって放送した。
この10曲に『影を慕いて』が含まれているのは特質すべきことである。

198 :
ここに古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。
丁度、東北・東日本大震災(2012)の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とあります。
震災復興支援ソング『花は咲く』と言うのがあります。花を持った若手が大勢歌う。でも、あれっ!?て思うのは、「追悼」であるのに、そこに最初にあるべき《哀しみ》というのが無いこと、いかにも残念なことだと思います。
今や「童謡」選の中に「影を慕いて」など「古賀メロディ」が入っている。癒しという点でも日本の共有財産、「日本の歌」になっている。
80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予言したかのように包含したかのように、時代を超えて、
80年も後に起こった災禍に追悼の気持ちをぴったり共有しているというのは驚きとしかいえません。
「古賀メロディ」ほど無駄の無い音楽も無いだろう。
また「哀しみ」を歌ったら右に出るものもない「古賀メロディ」。

時代を超えた普遍性を持つ、ここに「古賀メロディ」の「古賀メロディ」たる所以がある。

嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
http://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1

199 :
藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。
古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。

2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

200 :
寺山修司の編著作の名著に「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉と言う本がある。童謡の概念は子供の歌に限らない、その中には「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。
寺山修司は、この本のまえがきで、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。
また、童謡の価値は、子供時代に歌われた頻度によって決まるのではなく、大人時代の思い出された頻度によって決まるとも言っている。
80年を超える「童謡」も歌謡曲も、やはりすぐれた歌、年月に耐えた歌というものは、長い人生の中で繰り返し現れる。年を重ねるうちに、その短い詞の中にああこういうことなのかと、解釈や感じ方にも深みを増す。
映画に「主題歌」があるように、人生にも主題歌があるはずだという。
昭和が終わって平成の時代がはじまった平成元年(1989)に、忘れ去られつつある日本の
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える「文化遺産」として集大成して、記録にとどめようという趣旨のもとにNHKは、「日本の歌・ふるさとの歌 ベスト100曲」を選定、11月4日に放送。
唱歌・童謡が殆どである中に、「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「波浮の港」、それに「影を慕いて」、時を越えた日本のスタンダ-ド、日本の歌・ふるさとの歌として、数多有る中で特にこの日本の名曲4曲だけがジャンルを超えて選ばれているのが印象的である。
http://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html
温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男、養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した。「明日に残す心に残るうた」・・、「赤い靴」など唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる。
HP・童謡新聞 「心の故郷」はこう報じている。

201 :
古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜 [16CD]
http://artist.cdjournal.com/d/-/3198052509
規格品番: COCA-15216〜31
発売日: 1998/07/18
名曲「影を慕いて」誕生から70年、古賀政男没後20年にちなみ究極の全集を発売。日本人の心に生き続ける古賀メロディを通じて20世紀を振り返る。資料性も高く貴重な作品。全16枚組。
昭和の大衆歌謡を象徴する作曲家・古賀政男の作品を,彼が活躍したビクター,コロムビア,テイチクから集めた文字通りの大全集。
「文のかおり」(佐藤千夜子1930)から、「ひろしまの母」(島倉千代子1977)までCD16枚組、全333曲。
他にDisc16には、以下など貴重な曲が入っている。
03二見情話 (知名定男、大城美佐子)ステレオ版、1932沖縄民謡
13軍艦行進曲 (明治大学マンドリン倶楽部)古賀政男編曲
14荒城の月 (李香蘭)(土井晩翠作詞、瀧 廉太郎作曲, 古賀政男編曲)1942
16米国NBC放送番組:緑の月〜あゝそれなのに〜男の純情〜酒は涙か溜息か〜丘を越えて (1939年8月31日、アメリカNBC放送)
17二世行進曲 (有松由子、板野雪人)
なお、古賀政男音楽博物館(古賀博物館)で、パソコンで選んで1000曲が聴ける。

202 :
昭和43年に創設した古賀政男賞はいつまで続きましたか

203 :
昨年の「第55回日本レコード大賞」は、AKB48かEXCILEかと言われ、EXILEが3年ぶり4度目の受賞となったが7割が納得できないという。
古賀政男の作った「レコード大賞」も時代の趨勢には勝てない。作曲活動奨励のため、昭和43年11月に作られた優秀作曲作品に贈られる「古賀政男記念音楽大賞」も、
平成元年、第10回で森進一が優秀賞を貰ってるのですが、残念ながらその後どうなったのかはわかりません。
レコード大賞に西條八十の名を冠した作詞賞があったが現在無いよう。西條八十、古賀政男いずれも誰でも聞いたことがある「巨匠」と言われる。
何でも『名曲』の時代、その名に相応しい、趣旨に合致する曲が付いてこれないと存続も難しいのかもしれません、残念です。

204 :
コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集 CD D6160 GES31911-20
CD10枚組・全200曲収録・別冊歌詞集付
●制作:コロムビアミュージックエンタテインメント(株)
●音源協力:(株)テイチクエンタテインメント
 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ
●制作協力:(財)古賀政男音楽文化振興財団
●発売 2009年11月17日
http://shop.columbia.jp/pickup/kogamasao.html
2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えますその記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。
5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。

205 :
西條八十全集 生誕100年 [16CD ]
http://artist.cdjournal.com/d/-/1193010669 (CD Journal)
&amp;middot;規格品番: COCA-10026〜41 (CD16枚組)
&amp;middot;発売日: 1992/10/01
純粋詩から、童謡から新民謡、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。
日本コロムビア、ビクター、キング、ポリドールなどのオリジナル音源を収録した文字通りの全集。
童謡854篇(うち訳詞63篇)流行歌3千2百曲、校歌・社歌700曲以上を含めて、西條八十の生涯の作品数は、計1万5千曲にのぼる。
「東京行進曲」「サーカスの唄」「誰か故郷を想わざる」「同期の桜」「青い山脈」「王将」ほか、昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。
他の作曲家から「古賀先生」と呼ばれていた古賀政男が、生涯「西條先生」と「先生」をつけて呼んでいた西條八十。
最も多く珠玉の名曲を残した作品、古賀政男との作品に、歌謡曲篇(11CD)のうち、3CD(66曲)を割き、かつその貴重な対談5つを載せている。

[Disc 1]〈童謡編〉
[Disc 2]〈歌曲編〉
[Disc 3]〈外国曲編〉
[Disc 4]〈新民謡編〜中山晋平作品集〉
[Disc 5]〜[Disc15]〈歌謡曲編)(11) うち(1)〜中山晋平作品集
[Disc 16]〈詩人の声・対談〉

206 :
昭和13年〈1938〉11月8日、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)を最後にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
約1年間、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国。
昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。
アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。
そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》(西條八十作詞)がヒット。
古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。
アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。
また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。
昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。
古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。
昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)には、サトウハチローがコロムビアの専属に。
そして、昭和14年4月には、3年の契約が切れた藤山一郎がテイチクから、コロムビアに移籍。
昭和15年(1940)には、佐藤惣之助がコロムビア専属に。
(昭和17年5月に、この世を去る。)
こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。

207 :
佐藤惣之助    〜歌謡曲普及の功労者〜
古賀メロディーの作詞家をみて驚くのは、[名曲]と言われる歌に「佐藤惣之助・作詞」というのがなんと多いことか。
古賀メロディーのヒットは、西條八十とともに、佐藤惣之助の日本人の心に訴える名詞があったことを否定できません。
昭和の日本人の古き良き哀歓を謳いあげ、今も延延と根強く愛唱されています。
一般庶民の生活を題材とした詞によって、歌謡曲を身近な音楽として大衆に普及させた功績は大きい。

藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」     
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
楠木繁夫・・・・「緑の地平線」「人生劇場」「白い椿の唄」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」    
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
伊藤久男・・・・「馬」
             
                                      など
72年前、太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年(1942)5月15日、 佐藤惣之助(51歳)が、外出先の東京都大田区雪谷で、脳溢血のため亡くなりました。
2日前に義兄の萩原朔太郎の告別式があり、 佐藤はそこで葬儀委員長をやったばかりだった。
佐藤惣之助 (1890〜1942)  詩人。神奈川県川崎生まれ。民衆詩派系の人道主義詩人として出発。
大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
http://designroomrune.com/magome/daypage/05/0515.html
http://touyoko-ensen.com/syasen/tudukiku/ht-txt/tudukiku21.html

208 :
>>207
☆佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品
その1
・藤山一郎
[男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「さらば青春」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」   
・井上静雄(藤山一郎)
「鳩笛を吹く女の唄」
・関種子
「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
・淡谷のり子
「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
・長谷川一郎
「放浪の唄」              
・楠木繁夫
「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
・ディックミネ
「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」「波止場がらす」、   

209 :
その2
・丸山和歌子
「月夜の恋」
・松島詩子
「思い出の雪」
・中野忠晴
「武雄の唄」
・音丸
「会津磐梯山」(日本民謡)
・奥田瑛子
「緑の月」「浜辺の哀唱」
・霧島 昇
「新妻鏡」  
・伊藤久男
「海の豪族」「馬」
・酒井弘
「働く力」(国民皆労の歌)

☆八十と惣之助
大正期の詩人として、西条八十(1892 - 1968)と佐藤惣之助(1890 -1942)のふたりが、 なぜか気になる。
八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。
もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあらず)がないところがものたりないと云えるが。
もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家として名をなしたところ。・・

なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎、古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)

210 :
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22760276
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22760176
カワユス(・´ω`・)

211 :
古賀政男は、自伝「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。
詩人・佐藤惣之助の簡潔にして適切な名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる。時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。
佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡が多くみられる。
その中には、「新作おわら」(おわら歌詞)、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり」「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア )などがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。
また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。

新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。

参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。
http://burari2161.fc2web.com/satousounosuke.htm
・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 http://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html
・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料

212 :
http://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

213 :
>>212
PROGRAM
1 「春の海」  作曲:宮城道雄(尺八:森川友博、ピアノ:吉野りん子)
Spring Sea music by MIYAGI Michio
syakuhachi:MORIKAWA Tomohiro,piano:YOSHINO Rinko
2 「アランブラ宮殿の思い出」  作曲:F.タレガ(ギター:中子祐二)
Recuerdos de la Alhambra music by Francisco T&aacute;rrega (guitar:NAKAKO Yuji)
3 「バルカローレ」  作曲:A.タンスマン(ギター:中子祐二)
Barcarole music by Alexandre Tansman(guitar:NAKAKO Yuji)
4  「影を慕いて」  作曲:古賀 政男(ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAI TE music by KOGA Masao(guitar:NAKAKO Yuji)
5  「ダニー・ボーイ」  作曲:アイルランド民謡
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ギター:中子祐二)
Danny Boy Irish traditional (soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko,guitar:NAKAKO Yuji)
6  「エーデルワイス」  作曲:R.ロジャース 作詞:O. ハマースタイン2世
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ウクレレ:中子祐二)
Edelweiss music by Richard Rodgers & words by Oscar Hammerstein II
(soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko, ukulele :NAKAKO Yuji)

214 :
>>213
【曲目解説】
4 影を慕いて (ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAITE(guitar:NAKAKO Yuji)
『影を慕いて』 (かげをしたいて) は歌謡曲の一つ。古賀政男作。藤山一郎の歌でヒットした。歌謡曲としては1931年発表。藤山一郎のヒット曲。作曲者古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌の最高傑作である。
この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められており、古賀政男の人生の歌ともいえよう。

215 :
☆古賀政男作品 主なCD
>>201   『古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜』 [16CD] 1998.7
>>205 『西條八十全集 生誕100年』  [16CD] (内古賀作品3CD)1992.10
>>204   『コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集』 (10CD) 2009.11
『演奏家 古賀政男のすべて』(10CD) 2008.9
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』(各20曲)
 テイチクTECE 2445925460 テイチク作品 2004.12

216 :
>>208-209
☆佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品

藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」「勇敢なる航空兵」、「山内中尉の母」    
井上静雄(藤山一郎)・・「鳩笛を吹く女の唄」
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
長谷川一郎・・・「放浪の唄」              
楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」 「波止場がらす」、   
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
松島詩子・・・・ 「思い出の雪」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
音丸・・・・・・「会津磐梯山」(日本民謡)
奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
松原操・・・・・「勤労乙女」
李香蘭・・・・・「北京の子守唄」
由利あけみ・・・ [愛国六人娘]
伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
糸井しだれ・・・「おもいでの都」
酒井弘・・・・・「働く力」(国民合唱・国民皆労の歌)

217 :
参考
☆戦前の流行歌
 http://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt

218 :
目ン無い千鳥は放送禁止曲なのでしょうか。
大川栄策がデビュー時にカバーしそこそこヒットしましたが最近は全く歌いませんし
ラジオでも全く流れません。CDの歌詞カードには不適切な表現云々書かれています。

219 :
同じく古賀政男作曲「目ン無い化粧(霧島・島倉)」にも不適切云々書かれています

220 :
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞)は、日米開戦前年、昭和15年(1940)に公開された,小島政二郎原作、東宝映画「新妻鏡」の挿入歌です。 (主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)のB面)
戦前戦後2回映画化され、戦後テレビドラマでも3回放送されています。
映画化(1940,1956) 
TVドラマ化(1966,1869.1974) ・1969年挿入歌「目ン無い千鳥」 歌・大川栄策

♪目 ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡に いたわしや 曇る今宵の 金屏風 誰のとがやら 罪じゃやら・.・
「目 ン無い千鳥」とは、目隠し鬼ごっこのこと。子供の空気銃の誤射によって失明した薄幸の美女が辿る「数奇な運命と美しい愛の物語」。
目が見えぬということを、一言も触れずに,それをあらわしています。多分、今ではこういう歌はできないでしょう。この美しい歌が、放送禁止曲とかになったということはありません。
この名歌については、「新妻鏡」と一体で、ぜひこちらを一通りお読みください。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html
太平洋戦争前に、こうした青春歌謡ができていたことは驚きです。日本がまだまずしかった時代、貧しくもこころ豊かな時代だからこそ生まれた歌でしょう。
でもやはり、霧島昇、ミスコロムビア夫妻が歌うからこその青春歌謡であって、大川栄策が歌うとド演歌になってしまうのは残念です。歌いこなせる歌手がいなくなってきているのは残念なことです。
飽食の時代といわれ久しいですが、日本が豊かになるにつれ、こうした歌が歌われなくなっていると言うことは残念なことです。
また最近、なんでも「言葉狩り」がまかりどおっているようなのは残念なことでは有りますね。

221 :
新妻鏡は今でもテレビで歌われるが
目ン無い千鳥は近年聞いた覚えがない

222 :
http://www2.ocn.ne.jp/~stms/index.html/2006folder/tidori1.html
2006年11月
目ンない千鳥
テレビで「目ンない千鳥」という歌が流れていました。視覚障害を持つ私に この言葉が心に残りました。
「目ンない」とは当然、目が見えないことを意味していると考えたのです。
では、「目ンない千鳥」とは何を言うのでしょうか。
この歌の作詞家は何を意味して このタイトルをつけたかが知りたくなったのです。
この歌の作詞はサトウ・ハチロー、作曲は古賀政男です。歌「目ンない千鳥」の歌詞は次の通りです。
「新妻」とは今や死語となっていますが、この時代を生きた方々にはおわかりと思いますが結婚して間もない、どこか初々しい若妻のことです。
また、車中で化粧を行う現代の女性とは異なりこの当時の女性は鏡は女の命であった時代です。我が家も妻の嫁入り道具で最初に家の門をくぐったのは慣わしに従った鏡台で、これが現在まで私を圧し続けた女王の紋章を受け入れた瞬間でした。
「新妻 鏡」とは多分、結婚をする女性の心のような意味合いがあるのではと解釈出来ます。

223 :
☆新東宝映画「新妻鏡」(1956)
「目ン無い化粧」(西條八十作詩 ;古賀政男作曲) 霧島昇/島倉千代子
「涙の白粉(おしろい)花」(西條八十作詩 ; 古賀政男作曲) 島倉千代子
島倉千代子は、別に「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)/「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞)をカバーしている。(1965、日本コロムビア/SAS-626)
http://blog.livedoor.jp/yousayplanet/archives/7405763.html

224 :
吉祥寺の「目ン無い千鳥」
http://umigamenote.com/blog-entry-150.html
暖かさを感じる日だった。
というよりも、昨日までが寒すぎたのだ。
今日はなにもやらずに過ごそうと思っていたのだが、どうしても書き留めておきたいことができた。
夕刻に吉祥寺に寄ったところ、駅の近くのアーケード商店街の前のバス停留所のベンチのところで、変わったストリートミュージシャンが演奏していた。少しはなれたところを歩いていた私の耳にアコーデオンの音楽がとびこんだ。
続いて歌う声が聴こえた。とっさに、ああ「目ン無い千鳥」だとわかった。

225 :
>>223
1956年版は古賀政男役でご本人が登場していますね。
古賀さんが指揮棒を振って島倉さん、池内さんが唄うシーンを見たことがあります。

226 :
小島政二郎原作による東宝「新妻鏡」(1940)の戦後リメーク版が、新東宝「新妻鏡」(1956)。
島倉千代子も、このリメーク版映画に本名名ででていて、この歌は島倉千代子のために作られたような歌ですね。

227 :
実際に失明の危機に襲われたことが説得力を増していますね

228 :
佐藤千夜子さんに見出されたからね。

229 :
誰が?

230 :
そりゃ古賀政男さんでしょう

231 :
数え切れないほど多くのヒット曲を持つ「古賀メロディ」。「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものもありません。
そして、その多くは「映画主題歌」でもあります。    
「古賀メロディ」ほど、多くの映画主題歌を持つものもないのです。
「古賀メロディ」は、まだ無声映画の時代から多くの映画主題歌を世に送り出しています。
その多くは、今流に言えば「青春」を歌ったもの(青春歌謡)です。「古賀メロディ」というは、元祖青春歌謡ともいえるものでしょう。
その主題歌の多くは佐藤惣之助、西條八十、サトウハチローなどの珠玉の名詞によるものです。
酒は涙か溜息か(想い出多き女)、丘を越えて(姉)、あけみの唄(佳人よ何処へ)、さらば上海(上海)、緑の地平線(緑の地平線)、東京ラプソディー(東京ラプソディー)、
男の純情(魂)、二人は若い(のぞかれた花嫁)、ああそれなのに(うちの女房にゃ髭がある)、人生の並木路(検事とその妹)、
新妻鏡(新妻鏡)、目ン無い千鳥(新妻鏡)、熱砂の誓い(熱砂の誓い)、紅い睡蓮(熱砂の誓い)、・・麗人の歌(麗人)
昭和SP歌謡の時代、日本がまだ草深く、そして貧しかった時代、まだテレビも無かった時代、昭和の初めから30年代にかけては「日本映画黄金時代」。どんなちいさな街にも、小さな映画館があって、その映画を心待ちにしたことでしょう。
ヒット曲、それは、それだけ多くの人々に支持され愛され歌われたということです。

232 :
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

233 :
古賀さんと親しい作曲家は誰だったのかなあ?

234 :
親しいといえば、コロムビアの同期でもある古関祐而。古関は古賀政男とよく比較対比される。
古賀と古関はコロムビア専属となったのは昭和6年(1931)。(古関は10月、古賀は3月。)
でも古賀と古関は、コロムビアでまったく対極の位置にあった。このことについては、
次を参照。
「日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史」の328 検索その2
>>106-101、古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される
ここ(古賀政男総合スレ)の >>217
参考 戦前の流行歌  http://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
を見てもわかるように、このあたり、どこにもスルーされているのだが、古関祐而は古賀政男と対照的に、一番大切なメジャーな曲(ヒット曲)がずっとでないで、専属契約破棄(解雇)の危機にあった。
それを救ったのが古賀政男だった。
古賀は古関の最大の理解者であり擁護者でもあった。
そして、苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。
コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったばかりか、作曲家としても危うかったであろう。
それと対照的に古賀政男は、レコード会社を渡り歩くかのように、華麗な転進を果たし、いつもそこで黄金時代を築く。

235 :
でもあのキンキン声は嫌い

236 :
古賀政男と古関裕而とでは、作風や世界が全く違う。
古賀は最後まで歌謡曲にどっぷり漬かっていたが、古関はミュージカルなどの舞台音楽や、東京オリンピックマーチ、六甲おろしなどのスポーツ関係の曲など、歌謡曲以外の傑作も目立つ
歌謡曲ヒットは古賀にはかなわないが、歌謡曲に固執しなかった古関の才能は服部良一も認めるところ。

237 :
いやそりゃ違うだろw

238 :
影を慕いて
カラオケで歌います?

239 :
「むらさきの慕情」(西沢 爽作詞、古賀政男作曲)島倉千代子 コロムビアSAS-10 1963.5
早川真平とオルケスタ・ティピカ東京演奏
ティピカ東京伴奏の本格タンゴ 曲も歌も素晴らしい!。和製タンゴ第一号『日本橋から』
に始まる日本のタンゴに大きな影響を与えた古賀メロディ。古賀政男の本格タンゴ曲の島倉千代子歌唱。

240 :
SAS-10ということはステレオシングルの10枚目か。

241 :
>>239
歌手生活60周年記念島倉千代子全集が発売
歌手生活60周年記念島倉千代子全集 CD38枚+DVD1枚 全600曲
販売元 日本コロムビア2014.4
http://www.u-canshop.jp/shimakura/
和製タンゴ第一号『日本橋から』など古賀メロディを含む島倉千代子全600曲
(参考) >>181-183
http://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html

242 :
>>241
全集の内、古賀作品はオリジナル50曲、カバー9曲
地方盤などを入れれば更に数十曲はあるだろう

243 :
古賀政男企画・監修のコロムビア舞踊歌謡シリーズとは何ですか
何種類かあるうちの1枚
ttp://www.disclegend.com/images/2013/06/12/I/img353.jpg

244 :
舞踊「ゲイシャワルツ」〜「ああそれなのに」.「白虎隊」・・など古賀メロディ ほど舞踊となってるものが多いものもない。
「古賀メロディー」の名曲を一流舞踊家の振付で踊ろう!・・ということもいわれ、
舞踊家のステイタスにもなっているよう。
http://www.fuji-ryu.com/ayumi2.html
昭和39年12月10日、東京・宝塚劇場で『古賀政男還暦を祝う会』が開催され、豪華メンバーが出演。後に古賀政男に続いて3人目の国民栄誉賞を受ける長谷川一男が日本の名曲『影を慕いて』を踊っている。
『影を慕いて』はいろいろな形で演奏されているもの。
旧古賀邸には、日本間があり、「古賀政男音楽博物館」に移設されているが、古賀政男は舞踊家との付き合いも長く、自ら良く舞踊を踊っていたということが自伝に載っている。

245 :
(参考)
古賀財団設立30周年記念
「長嶺ヤス子 古賀メロディーを舞う!」
http://www.k-kikaku1996.com/yasuko/event/090927koga.bak
記念公演の第3段としまして、日本を代表する舞踊家として名高い長嶺ヤス子さんによる、古賀メロディー舞踊公演を開催いたします。今回のために、振付けの池田瑞臣さんに新たに振り付けをお願いし、全曲古賀メロディーによる舞踊をお楽しみいただきます。
上演予定曲「影を慕いて」「無法松の一生(度胸千両入り)」「柔」「悲しい酒」他

246 :
タンゴと歌謡曲 http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/column/0701/0701168221/1.php

247 :
古賀作品の初期は割合エキゾチックなものが多いよね。戦後の「赤い靴のタンゴ」も、その流れの作風。

248 :
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
また、佐藤惣之助、西條ハ十など詩人と詩を大切にし、多くの名歌手を傍に育て、映画ともタイアップしたことで知られます。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

249 :
中山晋平の曲は単純過ぎるし、山田耕筰の曲は難解過ぎた。
古賀政男の曲はちょうど良い塩梅なのかね。

250 :
まさにその通りだと思いますね。
それは楽譜を一目見ればわかり、藤山一郎などを除き、
楽譜を渡されしり込みした歌手も少なくなかったと言われます。
三分間の芸術の極地を行っていたと思います。

251 :
古賀メロは独特だからね。連音符は多用するし、船村徹ほどではないがメロディが想像つかないトコに飛んだりする。

252 :
遠藤実みたいな変拍子はあまりなさそうだが

253 :
遠藤実は変拍子の名人だね。
変拍子で有名な「からたち日記」は違和感ない。
メロディが単純だからかな。

254 :
優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽でもある。
人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。
多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。
歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。
詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。
古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。
古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。
『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

255 :
昭和53年に出た古賀政男追悼本、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))(220ページ)には、古賀政男と親交の深かった歌手や作曲家、文化人、芸能人、スポーツ選手、政治家等の追悼とか思い出、
『代々木上原三丁目 古賀政男邸』と題し、昭和13年に建てられた三千坪の古賀邸の庭や豪華な内部の写真と、古賀邸における古賀政男や愛用品,年譜など貴重な写真などがある。
また、昭和13年11月、外務省音楽文化親善使節として渡米するときの、藤原義江に見送られて東京駅を発つところ、同14年に帰朝し、松坂屋での歓迎会における三浦環との握手風景など。
また、その半分のページを割いて、『古賀政男傑作曲68選』と題して、「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」から、「ひろしまの母」「浜昼顔」まで主な古賀メロディーの名曲68曲の楽譜と歌詞がまとめられていて圧巻。

256 :
古賀メロディーが突拍子もない?
例えば、どんな部分?

257 :
>>255
『古賀政男傑作曲68選』(「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))

258 :
『古賀メロディー』、『男の純情』『東京ラプソディ』『人生の並木路』『春よいずこ』『サヨンの鐘』・・など、その数え切れないほど沢山あるヒット曲の殆どを占める多くの映画音楽。
そのそれぞれに、当代随一の詩人の、心を込めた短い詞(詩)の一つ一つを大切に、曲が出来るまでの、半端じゃない思い入れ・格闘の跡が伺える楽譜である。
たとえば、『丘を越えて』、歌詞が出てくるまで、沢山の音符で構成された楽譜一枚分の前奏である。ひとの心をとらえないはずがないのだ。
これが当時の主流であった『晋平“節”』と一味も二味も違う、新鮮な『古賀“メロディー”』というものかと気ずかなければおかない楽譜である。

259 :
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海〕、その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の「節」にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。
大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれた。
「晋平節」=晋平流の四七抜き五音短音階(ラ・シ・ド・ミ・ファ)の曲
これに対し、セコビアなど、ギター音楽と奏法を徹底的に研究し尽くした古賀政男。
ギターの流暢な音の特徴を活かして、青春の息吹をそのメロディーに載せた。
古賀政男は、もう『○○節』の時代ではなく、「“メロディー”の時代」だと主張。
「“メロディー”の重要性」を訴えたのだ。
新聞は、「『晋平節』の時代から『古賀メロディー』の時代へ」と大きく書いた。

ここに、今も生きている『古賀メロディー』という愛称が広く定着してゆくのだ。
そして、歌の流れが中山晋平(晋平節)のビクターから、『古賀メロディー』のコロムビアへと移ってゆく、戦後に至るまで。
昭和9年『皇太子さまお生まれなった』(北原白秋作詞)を最後に晋平は、戦後に至るまで、ほぼ空ろな悠々自適の生活を送る。  

畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

260 :
藤山一郎は自伝の中で「古賀政男の曲は古関裕而の曲に比べてレベルが低い」って書かれていたんだよな

261 :
藤山一郎はいくつかあるけど、作曲家というわけではないからな。

262 :
メジャー曲が殆ど無いのと、《古賀メロディ》は一緒にならんだろう!。

263 :
>>262
古関裕而にメジャーな曲が殆どないとか無知にもほどあるよ旦那(苦笑)

264 :
アントニオ古賀著『音霊(おとだま)─古賀メロディとともに』(講談社2009.6)

265 :
古関は歌謡曲で数では古賀政男に匹敵する数の作曲数を公言しています。
でもその殆どは知られていないようです。
そのため、古関はコロムビアにいられなくなる瀬戸際まで追い込まれるのです。
そして古賀に救われます。これについては>>234参照。

266 :
>>264
昭和歌謡の巨人・古賀政男没後30年。最後の愛弟子が語る師の面影。受け継いだメロディ・音霊がキューバで新たな生を受けるまでの感動ドキュメント。
アントニオ古賀は、1956年、作曲家の古賀政男に弟子入りし、歌唱法を学ぶ。芸名は古賀政男が名付けたものである。古賀政男がアルゼンチンを訪問した際に
ギターの弾き方を直接指導してくれたギタリストのアントニオ・シノポリの「アントニオ」と、古賀政男自らの「古賀」を足して、「アントニオ古賀」とした。
幅広いジャンルの歌・ギターをこなしたその才能を古賀政男に認められて、1959年に日本コロムビアと専属契約を結び、同年6月に日本相互ホールにてデビューリサイタルを開いた。
同年10月にLPアルバム『フラメンコ・スタイル 古賀メロディ』で歌手デビューした。
愛の劇場『新妻鏡』 1969年 主題歌を担当。主題歌「新妻鏡」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)
&middot;『ギターソロのための古賀メロディー作品集』 CD・タブ譜付き(楽譜) 現代ギター社、2010年(改訂新版)。ISBN 4874714854

267 :
アントニオ古賀著『ギターソロのための古賀メロディー作品集』 CD・タブ譜付き(楽譜) 現代ギター社、2010年(改訂新版)。ISBN 4874714854

268 :
古賀先生はまれにみる人格者だったんですね!。
格が違うというか。

269 :
>>265
あんたバカのふりをしているのか、それとも本物のバカなのか?

270 :
東京電機大学中学校評判 万引き少年S君ザキシマ
http://i.imgur.com/dgwjGLd.jpg
稲城市立向陽台小学校評判Y子パパS友商事近親相●
http://i.imgur.com/dgwjGLd.jpg
稲城サッカースポーツ少年団評判稲城SSS評判万引き仲間S君(TDU)
http://i.imgur.com/dgwjGLd.jpg

271 :
>>269
しらなかったの!

272 :
ああ、本物のバカなんだな(苦笑)

273 :
利口な人は、ちゃんと知るべきことをしってるんじあないの。

274 :
だろ?古賀政男の曲なんて今となっては古臭いだけ。
時代を越えた魅力を湛えた古関裕而や服部良一の足元にも及ばない。

275 :
逃げちゃってるな!

276 :
要は時代を超えようにもなにも、殆どなにもないんじゃ、おはなしにもならないとちがう!。

277 :
SPレコード歌謡を中心とした長い昭和の歴史、馴染みの深いその分野で、その創世期、佐藤千夜子の時代から戦後40年代に至るまで、
満遍なく、よどみなく、
数多くの名曲を世に送り続け、
今に至るも繰り返し根強く支持されている、
多くのヒット曲を持つ作曲家。
それを満たすのは、《大御所》と呼ばれ、他を圧倒する随一の著作権を持つといわれた古賀政男、それをおいて他にないですね!。
残念ながら・・。
他にいますか。

278 :
>>277
あのさぁ、古賀政男の曲で今の若い人でも知っているような曲があるか?
いちいち曲名まで挙げないけど、古関裕而の曲はたくさんあるぞ。
それだけ飽きられずに、時代を超えてたくさんの人たちに愛されているという何よりの証だ。
音楽としてどちらが格上か語るまでもないのだよ。

279 :
格が違うんだよ!

280 :
古賀政男という巨人と古関一緒にしたってだめ!
上にもあるごとくに、そもそも格が違うんだから。

281 :
日本音楽著作権協会(JASRAC)は、クラッシックを含めた日本のすべての著作権を管理するため法律に基ずく団体。
この会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が第3代会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など錚々たる作家が交代で会長となっている。
古賀政男は、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウハチロ‐に次いで、昭和49年から亡くなるまで第7代会長。
参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、西新橋から小田急線代々木上原駅前の現「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに移って来て建つ。
因みにいずれも、「古賀政男音楽文化振興財団」(古賀財団)の管理するビルである。

282 :
日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介  作曲 古賀政男
昭和6年
1 お江戸日本橋 師走も暮れる
  橋の上から あちらを見たりゃ
  あちら葭(よし)町 人形町で
  ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓
2 お江戸日本橋 今年も暮れる
  橋の上から こちらを見たりゃ
  ならぶ建物 ほこりの雲で
  ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)
3 お江戸日本橋 さいふが空で
  橋の上から 遠くを見ても
  どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
  ヤレサ お江戸の 思案橋
テレビで日本橋のことが取り上げられるとき、流される音楽。
それは江戸古謡「お江戸日本橋」に代わって、「日本橋から」。
昭和のはじめ、80年以上前に作られた曲、浜田広介作詞、古賀政男作曲。
日本におけるタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。
なお、巴里・ムーランルージュ楽員が、バクナデル[編曲]でダンス音楽「日本橋から」を、昭和7年8月に、コロムビアに吹き込んでいる。

 
昭和6年1月 佐藤千夜子(ビクター)
昭和7年3月 関 種子 (伊田一郎編曲)(コロムビア)
(参考)お江戸日本橋
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ こちゃ高輪(たかなわ)・・

283 :
にいちゃん?

284 :
思えば古賀政男とは日本におけるラテン系音楽の創始者みたいな人だとも言えるだろう。
南欧起源の文化である大学マンドリン・オーケストラ(スペイン語でestudiantina)に身を置き、民謡・都市大衆音楽・クラシック音楽の境界領域にある西欧近代音楽のスタイルを吸収し、
ギターとマンドリンが奏でるラテン趣味を日本的叙情歌謡と融合させた。
それが古賀の仕事の一側面ともいえる。
「影を慕いて」「悲しい酒」なども、日本流バルス・クリオージョ((南米風もしくは土地っ子のワルツ)と呼べなくもない。
弟子筋には、アントニオ古賀や鶴岡雅義など、「ラテン畑」の音楽家として日本ポピュラー音楽史に貢献した人びともいる。

285 :
 昭和9年(1934)5月、大阪に創立されたテイチク(帝国蓄音機)は、昭和はじめに外国資本で設立された日本コロムビアやビクターなどのレコード会社に追いつこうと、<重役兼、文芸部長兼、作曲家>として新進のヒット・メイカー古賀政男を招聘し制作の全権を委ねた。
古賀は、マンクラの「7人の侍」と呼ばれる側近を呼び寄せ、5月15日、銀座にテイチク東京文芸部《古賀文芸部》を組織し、仕事をスタートさせる。
このとき、淡谷のり子の紹介で専属契約したのがディック・ミネである。テイチク文芸部が反対するのを古賀のツルのひと声で昭和9年11月に録音、翌年1月に発売された「ダイナ」と「黒い瞳」は空前の大ヒット。このことに味をしめて、以後、テイチクはジャズに力を入れていく。
 古賀はディックの声を高く買っていた。だから「二人は若い」(玉川映二作詞・古賀政男作編曲)や「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞・古賀政男作編曲)のような日本調の流行歌をうたうのと引き換えに、ディックがやりたいようにさせてくれた。
ディックはジャズやポップスなどの外国曲を探してきては、これらにみずから日本語詞を付けてうたった。こうして発表されたカヴァー曲は、戦前だけで優に100曲を超えるという。ここに、世に言う「テイチク黄金時代」が築かれてゆく。

286 :
 ディックは、ギターやドラムスもよくした。
なかでもスティール・ギターはインストのレコードを出すほどの腕前だった。
また、編曲にも多く手がけ、さらに、南里文雄(トランペット)、トーマス・ミスマン(サックス)、杉原泰蔵(ピアノ)、
中沢寿士(トロンボーン)、大久保徳二郎(サックス)、小泉幸雄(アコーディオン)ら、一流のミュージシャンを引っぱってくるプロデューサー的な役目もこなす
というマルチぶり。
 中村とうようの企画・選曲・監修による“再発見・ニッポンの音/芸”シリーズ全10タイトルの最終集をかざる盤には、『洋楽ポップスの系譜』とあるように、ジャズあり、タンゴあり、シャンソンあり、ハワイアンありの外国曲のカヴァー集。
戦前、これら外国曲は“ジャズ”または“ジャズ・ソング”と総称されていた。つまり、この場合の“ジャズ”とは音楽スタイルというよりフィーリングをさす。
そして、戦前にこのジャズのフィーリングを身に付けていた数少ない日本人のひとりがディック・ミネだった。

287 :
古賀政男によって育てられ、テイチクで力を発揮して行くディックミネ、昭和10年(1935)10月発売の「君いずこ」では、ディック本人が訳詞と編曲を担当。
原曲は'SOMEBODY STOLE MY GAL' といい、ビックス・バイダーベックやベニー・グッドマンの楽団の演奏で知られる軽快なナンバー。
「ジーラ・ジーラ」は、フロリダなど日本のダンス・ホールでよく演奏されたアルゼンティン・タンゴで、昭和10年(1935)9月(10月とも)の発売は淡谷のり子とならんでもっとも古い日本語カヴァー。
ディックはこの直後、古賀政男が書いた和製タンゴ「夕べ仄かに」(島田芳文作詞、古賀政男作曲、トーマス・ミスマン編曲)を歌っている他、数多くのタンゴ曲をとりあげている。

288 :
《丘を越えて》など、《影を慕いて》に始まるたくさんのヒット曲を持つ《古賀メロディ》。それは、一流詩人とのタグなしで出来えない、古賀政男ならではの、青春・人生をテーマとした映画音楽でもある。ここに多くの人に愛され、今でも歌われる秘密がある。
戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化され、その主題歌《青い山脈》(西條八十作詞、服部良一作曲)、そして、昭和30年代以降、進学率の上昇とともに戦後の「学園ソング」が沢山作られるが、
《古賀メロディー》はその「青春歌謡」の先駆でもあったのである。

289 :
>>287
>原曲は'SOMEBODY STOLE MY GAL' といい、ビックス・バイダーベックやベニー・グッドマンの楽団の演奏で知られる軽快なナンバー。
この文章で検索するだけでも元ネタ確定。
コピペの情報ってあんまありがたくないんだよなー

290 :
・アントニオ古賀著『音霊(おとだま)─古賀メロディとともに』(講談社2009.6)
・アントニオ古賀著『ギターソロのための古賀メロディー作品集』 CD・タブ譜付き(楽譜) 現代ギター社、2010年(改訂新版)。ISBN 4874714854

291 :
昭和6年(1931)、まだ東京音楽学校の学生だった若き「藤山一郎」によって歌われた《丘を越えて》、いつの時代でも青春を謳歌する青春の息吹を感じさせる歌。
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。
山田耕筰はヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持って行き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。
日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、《古賀メロディー》を高く評価、その最大の理解者であった事は特質に値する。

292 :
山田耕筰は誰でも知っている、誰でも認める「作曲家」だからね!。

293 :
音楽のわからない者ほど有名無名とか権威に弱いもの(苦笑)

294 :
なに?
山田耕筰は音楽のわからないって!!??

295 :
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある若き作曲家・山田耕筰。
山田耕筰はヨーロッパに行く時、この若き古賀政男の《丘を越えて》のレコードを持って行き、《日本の代表的音楽》として、誇らしげに聴かせていた。

296 :
ソースは?
単なる伝聞じゃ意味を成さないのだよ。歌謡曲の世界って伝聞が多すぎるし。

297 :
「影を慕いて」とともに、なんといっても日本の名曲、日本の財産だからね!。

298 :
日本を代表する音楽家で、日本における交響楽団の雄たる山田耕筰が、詩人・萩原朔太郎がそうであったように、
《古賀メロディー》を高く評価、その最大の理解者であった事は特質に値する。

299 :
日本における交響楽団の雄・・・意味がわからない
萩原朔太郎がそうであった・・・何が“そう”なのか?
特質に値する・・・特筆に値するでは?

300 :
知らなかった!?

301 :
JXyHDDf7 の無理やりねじ伏せるような物言いで
「山田耕筰は古賀メロディーを評価した」と事実化するやり方には拒否感を覚える。
出典を示さないと誰も納得しないよ。少なくとも研究的な態度ではない。
2ちゃんにはふさわしいけどねw

302 :
うん、悔しいだろうね!
けど、それが歴史的事実なんだよ!。

303 :
山田耕筰は、東京音楽学校に作曲科がなく、始めてドイツに留学した人で、当時の日本の作曲界の大御所とされていました。また、日本で最初の交響楽団を作りました。
またクリスチャンで、東京音楽学校で佐藤千夜子に中山晋平を紹介したひとで、黎明期の昭和歌謡の発展にも貢献しています。

304 :
オナニーしたいんなら自分のノートにでも書いとけやジジイ!

305 :
語るに落ちる!
山田耕筰も知らぬとは!
ついに八方塞ぎ、・・わかる、わかる・・

306 :
いいの、いいの
泣かなくてもいいんだよ!
でも、お勉強しましょうね!

307 :
“日本における交響楽団の雄”ってなぁに?
“萩原朔太郎がそうであった”何が“そう”なのぉ?
“特質”に値するってなぁにぃ?

教えてぇ、おじいさ〜ん

308 :
まだ懲りないの!

309 :
NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」には、佐藤が、作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、
小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に激動の時代を駆け抜けてゆく姿が描かれていて貴重ですね。

310 :
>>308
都合の悪いことにはダンマリかよ。調子のいいジジイだな(笑)

311 :
大正から昭和の初めにかけて、「晋平節」を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本の大衆音楽史において決定的役割を果たすことになる、レコード歌手第一号佐藤千夜子。その影には、クリスチャン山田耕筰との意外な出会があったんだね。

312 :
この生活保護じいさんには関わらないほうがいいよ

313 :
退散!、退散!《笑い!》
無理!・・・手も足もでないね・・いいんだよ!

314 :
子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、英語の勉強をするため、キルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園、フレンド学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことで音楽を志す。
大正9年(1920)、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に入学。ここで、作曲家の山田耕筰、中山晋平らと運命の出会いを果たす。

315 :
作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、・・
こうした芸術家たちは
佐藤を通して知り合い、つながっている・・のです。

316 :
大正10年(1921)、24歳のとき、中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」《全国歌の旅》に賛同、歌手兼講師として参加。
この運動の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)5月、昭和2年にできたばかりのビクターから、「日本ビクター創立第一回新譜」として発売。
これが日本の商業レコード第一号とされる。

317 :
自分のブログでやれよな。

318 :
退散していいよ!《笑い》

319 :
ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた、
佐藤の歌で世にでた二つの名曲、《影を慕いて》と《波浮の港》・・・、
いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏されているのです。

320 :
>>319
746 :昔の名無しで出ています:2014/05/11(日) 22:55:14.20 ID:???
うぜえっつってるだろ
長文野郎は荒らしなんだよ覚えとけタコ

747 :昔の名無しで出ています:2014/05/11(日) 22:56:40.34 ID:???
長文つかそういう上から目線の文章よく投稿し続けられるな
バカじゃねえの? 目障りだわどっか行け

321 :
退散!、
退散していいんだよ!(笑い)

322 :
>>320 下品で日本語になっておらず意味不明だね!

323 :
>>236-238
>>236
ひとこと
何言ってるんだ・・・どうこう言うつもりは無いが、戦前、結果を出すことができず、クビにされる処までになった不名誉は作曲家は彼一人しかいないんよ!。>>234
レコード会社(コロムビア)が求めたのは、そうした特殊な(マイナーな)分野ではないんだよ。!

324 :
朝、テレビを付けたら、飛び込んできた「ザックジャパン敗退!」のニュース。あれほど騒がれた渋谷の交差点の警官も撤収、閑古鳥が鳴くとテレビは伝えている。

なお、野球やサッカーその他、オリンピックを含めて、スポーツそのものが嫌いだ、関心がない、オリンピックの間が苦痛という人も少なくないという。
スポーツは万人の讃える崇高なものとされがちだが。

325 :
あの興奮して長〜く伸ばすスポーツ中継、スポーツはまさに狂気だもんね!。

326 :
東京五輪音頭全否定(笑)

327 :
2020東京オリンピック招致、賛成は22%だとか!。

328 :
古関裕而作曲の東京オリンピックマーチは使えそうだが、東京五輪音頭は微妙。
時代錯誤の感がある。

329 :
お知らせ
コガ・ミュージアム講座「蓄音器とSPレコードで楽しむ、日本の流行歌」
1877年、トーマス=エジソンが蓄音器を発明し、人々は音楽をレコードで聴くことができるようになりました。
この講座では、大変貴重な米国ビクタ−社製機械式蓄音器(ビクタービクトローラクレデンサ)と、SPレコードを使用して、日本で流行した幅広い音楽を紹介するレコードコンサートを行います。
講師は飯田久彦さんと金沢蓄音器館の八日市屋館長、ゲストには菅原都々子さんをお迎えします。
開催日 平成26年8月24日(日)
場所  古賀政男音楽博物館 けやきホール
(入場券で、館内ご覧いただけます。)
開場 13:30 開講 14:00
入場料 2,000円(指定席制 要予約)
主催 (一般財団法人)古賀政男音楽文化振興財団
※開催日朝10時から、座席指定券を配布します。
(問合わせ先)
東京都渋谷区上原三丁目6−12
古賀政男音楽博物館 
http://www.koga.or.jp/
小田急線・東京メトロ代々木上原駅前
(ホ−ムと斜め交差する井の頭通り、駅前交番直前)
TEL 03−3460−9051

330 :
何言ってるの?
あんたバカなの(笑)

331 :
参考
「ビクター ビクトローラ クレデンザ」は、米国ビクター社製で“蓄音器の王様”と呼ばれる、銘機中の銘機。ビクターが開発した蓄音機の高級機種。
キャビネット内に約2mものホーンを収納する画期的な設計によって、幅広い音域とそれまでにない音量でレコードを再生することが可能となった。
http://www.youtube.com/watch?v=kqspcqgoF7A

332 :
オリンピックはいいよ!
ここは懐メロ邦楽スレだし。

333 :
あたまのおかしい人死んだか?

334 :
ここの元スレです・・
   【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
   http://i-ikioi.com/th/natsumeloj/1122559619/

335 :
>>216
参考
由利あけみ (1935東京音楽学校 アルト歌手)
美しき鷹  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.10テイチク
愛国六人娘 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.12.1テイチク
茶房の花  (海野七郎=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)藤山一郎1938.6
心の雨   (海野七郎=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1938.6 テイチク
黒いパイプ (倉仲住人=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1940 コロムビア

336 :
>>335
「美しき鷹」・・ 日活(多摩川撮影所)1937.10.01 千葉泰樹監督「美しき鷹」主題歌
「愛国六人娘」・東宝映画(京都撮影所)松井稔監督1937.12.01「愛国六人娘」主題歌
挿入歌 勇敢なる航空兵(藤山一郎)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
「茶房の花」「心の雨」・・日活多摩川「茶房の花々」(春原政久監督)1938.06.01 主題歌  

337 :
キクチもういいよ

338 :
キクチもういいよ

339 :
NHKアーカイブス          NHK

NHKアーカイブス・スペシャル
幾山河は越えたれど 〜昭和の心 古賀政男〜

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2002/h021229.html

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

NHKアーカイブスは、埼玉・川口NHKアーカイブス施設、NHK放送博物館、各放送局等で無料で見ることが出来ます。
NHKアーカイブスの他、古賀政男音楽博物館で、毎年定期的に鑑賞会が開催されているようです。問い合わせください。

340 :
(参考)朔太郎と古賀メロディー

●2006年10月
29日(日) 萩原朔太郎生誕120年記念 で住職が 朗 読 しました前橋マンドリンフェスタ2006 (リンク)


28日 マンドリン四重奏の全国コンクール
29日 午前 県内56団体の演奏     午後 県外6団体          
ゴンドラマンドリーノの「朔太郎コーナー」

・朔太郎遺愛曲
・朔太郎と古賀メロディー
・朔太郎愛唱歌「野火」「ふるさと」

秋山直之・オーケストラと朗読:「広瀬川」村上泰賢、「大渡橋」神野文子  など

会場:前橋市民文化会館 大ホール (前橋駅南口)

関連ページ
◇前橋マンドリンフェスタ2006の開催(リンク)

□第一回マンドリンフェスタは盛会のうちに終わりました。萩原朔太郎生誕120年で初めておこなわれたマンドリンフェスタ。
「これから前橋をマンドリンの街にしてゆきたい」という高木市長の言葉が、力強く胸に響きました。
群馬交響楽団を育てた高崎市、についでこれから朔太郎の縁で生まれたマンドリンフェスタの街前橋、を大事に育てていってほしいものです。
文化を育て上げるには時間と手間がかかります。ゆっくり息長く。
http://tozenzi.cside.com/news2006.html

341 :
>>340
http://tozenzi.cside.com/news2006.html

342 :
>>340
前橋マンドリンフェスタ 2006
2006年が生誕120周年にあたる郷土の詩人・萩原朔太郎はマンドリンの演奏家としても知られることから、
「前橋マンドリンフェスタ2006」が開催されました。福岡マンドリンオーケストラは、県外からの招聘団体として参加いたしました。
http://www.geocities.jp/fkmo1966/2006/2006maebasi/2006maebasi.htm
開催期間:平成18年10月28日(土)、29日(日)
開催場所:前橋市民文化会館、前橋市内中心街

343 :
>>340-342
前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。

一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、
昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。>>157,>>162,>>167

344 :
昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半月後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、

4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977

345 :
訂正 太平洋戦争に突入して半年後の

346 :
>>344

(参考)

世田谷散策記 せたがや地域風景資産 No.2-3
代田の丘の61号鉄塔

http://www.geocities.jp/the_traveler_of_wind/setagaya/fukei/2_01_10/203_fukei.htm

347 :
(参考)
つれづれ 萩原朔太郎
http://higashinum.exblog.jp/16429910/

「父・萩原朔太郎」を読み終えた。
長女である作家萩原葉子の著である。

萩原朔太郎は詩人である事は知っていたが、作品を読んではいないし、どういう人物かも知らなかった。この著書を読んで、実に多くの著名人との交流を知った。
室生犀星、三好達治は無二の親友とある。他に朔太郎の家に出入りしていたとして次のような人物が上がる。
北原白秋、芥川龍之介、川端康成、横光利一、尾崎士郎、広津和郎、衣巻省三、志賀直哉、古賀政雄、佐藤惣之助(朔太郎の妹と結婚)宇野千代等々。
宇野千代は桜の着物で知られるが当時はひっつめの髪に洋装だった(モダンガール)とあるところが興味ふかい。
朔太郎設計の家の二階は洋間で、毎晩のようにダンスをしていたと書かれている。

348 :
マンドリン奏者でもあった詩人、萩原朔太郎は佐藤惣之助の義理の兄で、萩原葉子著「父・萩原朔太郎」に佐藤惣之助のこととして、朔太郎宅における惣之助、古賀政男との歓談の様子がうかがえます。
 http://blog.goo.ne.jp/qazmandolin/e/cd6c77bc1d684f4e3c1d402cf3d7ceb1

349 :
萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館
http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/

350 :
(参考)

"「影を慕いて」の前奏曲は父の得意中の得意で…指をギターに打ちつけるほど情熱的に感情をこめて弾いた(萩原葉子)"


・群馬マンドリン楽団(GMG) プロフィール
 http://www.page.sannet.ne.jp/msw4681/gmg.htm


・群馬マンドリン楽団 過去のコンサート
 群馬マンドリン楽団 東京公演 演奏会
 http://www.gunma-mandolin.com/concert.html

351 :
(参考)
☆追悼の森 =古賀政男さん死去=
ttp://memory-jp.com/pc_memory/pc_container/memory_etc/data_84.html

  作曲家 古賀政男 さん死去
   1978年(昭和53年)7月25日 死去 享年73歳
      ◆ 古賀政男 / 主な作品

352 :
>>351
http://memory-jp.com/pc_memory/pc_container/memory_etc/data_84.html

353 :
>> 339

2002-12-31 「幾く山河は越えたれど、昭和のこころ古賀政男」
http://homepage2.nifty.com/tkeizo/20021231.html

354 :
>>350-352

>>351
> 1928年(昭和3年)夏には自殺を図るが未遂に終わる。蔵王の夕暮れを見て「影を慕いて」の詩が浮かんだと言われている。

宮城県かわさき町ホ−ムページ
過去の挨拶 平成24年11月 
 広報かわさき「町長がゆく」に掲載したものを抜粋しています。

ここに
古賀政男の見た夕日
http://www.town.kawasaki.miyagi.jp/16,0,74,253.html


日本の歌謡史上最高傑作・“日本の名曲”「影を慕いて」

詩人・萩原朔太郎が愛してやまなかった名曲『影を慕いて』

『影を慕いて』が生まれることになった、青根温泉での出来事が詳しく述べられていて貴重です。

355 :
>>351-352

◆ 青年期
>1930年(昭和5年)秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱によって吹込む。この時は、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。


大正から昭和の初めにかけて、晋平の歌《晋平節》を世に広めた歌手、レコード歌手第一号・佐藤千夜子。

少し遅れて佐藤千夜子と同時代を生きた若き古賀政男。

佐藤千夜子は古賀の『影を慕いて』を吹き込んだ直後、晋平から離れ日本を後にするのだが、その後の歌の世界は『丘を越えて』『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』・・《晋平・節》の時代は、《古賀・メロディー》の時代へと移ってゆく・・。

古賀政男は後に、自伝『我が心の歌』で、佐藤千夜子について、『私に作曲家としての路を拓いてくださった終生の恩人』と書いている。

今から80年以上前、レコード歌手第一号・佐藤千夜子(ビクター)の力添えで、昭和6年(1931)3月にメジャーデビューを果たすこととなった若き作曲家・古賀政男27歳。


2014年02月05日00:29
佐藤千夜子の『影を慕いて』― にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
http://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/51571665.html

満州事変と東北大凶作、その暗い世相の中、「古賀メロディー」が彗星の如く登場。その時代と時代背景については、『写真・昭和30年史』(毎日新聞社1956.3)に詳しい。

『丘を越えて』『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』・・青春を謳歌する多くの「古賀メロディー」、それを歌った「藤山一郎」は、まだ20歳の若き東京音楽学校の生徒だった。

古賀によってレコードデビュー、溌剌とした若き歌声の「藤山一郎」は、今では当たり前の元祖「芸名」だったのだが、学校に内緒で歌うために真剣に考えられたようだ。

その後も「藤山一郎」はビクターの一時期を除き、コロムビア、テイチク、コロムビアとほぼ古賀政男と歩みを供にしている。
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ);>>77 (の141参照)

356 :
(参考)
日本の歴史は飢饉の歴史とも言われる。「古賀メロディ」の登場した83年前、日本がまだ草深く、そしてまだ貧しかった時代。
昭和6年、日本は、飽食の時代には考えることも出来ない、太平洋戦争に至る遠因ともいわれ、日本における最後の飢饉、昭和恐慌の下、日本の不幸、昭和東北大凶作に苦しんでいた。
日本の農村は疲弊してゆく。

その重苦しい世相の中で人々に迎えられた「古賀メロディ」。

参考に昭和東北大凶作とは・・

・山下文男著「昭和東北大凶作」
ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
・娘ことごとく売られし村
ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html

357 :
>>356

・山下文男著「昭和東北大凶作」
http://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html

358 :
☆インテリ層と古賀メロディー

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして9月18日未明、満州事変勃発。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、80年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。

(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。

359 :
☆《丘を越えて》古賀メロディー最大の理解者・山田耕筰

楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。
山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)    
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html

360 :
>>359
古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。
こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。

四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。
山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。

361 :
(参 考)萩原朔太郎「流行歌曲について」

教科書で誰でも知っている詩人、萩原朔太郎も「流行歌曲について」で、次のように述べている。

「この十年来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。
例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。
これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、
その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。」と述べている。

一方、その後の「酒は涙か」から、勝太郎の「ハア小唄」」や,所謂「股旅小唄」等への流行的推移について、
「流行歌曲の種属は二つに別れる。
即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての“明朗性”もなく、センチメンタルとしての“抒情性”もない。」
「これもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。」と。

萩原朔太郎「流行歌曲について」(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社1997)

362 :
古賀政男生誕100年記念 島倉千代子 古賀メロディを唄う (14曲)
島倉千代子
2014/2/12 | フォーマット: MP3
オリジナル盤発売日: 2003/12/10
レーベル: COLUMBIA
収録時間: 51:29

363 :
(参考)
>>340-350

〜マンドリンのまち前橋〜朔太郎音楽祭HP  http://www.sakutaro-m.jp/

364 :
明治大学 大学史の散歩道
 明大人の昭和歌謡史群像 ―古賀政男から阿久悠、宇崎竜童に到る系譜―
 http://www.meiji.ac.jp/koho/desukara/sanpomichi/2009/31-shouwa.html

365 :
(参考)代々木上原駅南口通り http://www.uehara-minamiguchi.com/
小田急線代々木上原駅の南口、ホーム沿いの路を『音楽村通り』といいます。
古賀政男音楽博物館は、代々木上原駅(南口1)、『音楽村通り』を右に進み駅前交番前、交差する「井の頭通り」沿いです!。

なお、「井の頭通り」は拡幅され、当時の古賀政男邸のあったころの面影はそこに見当たりません。

366 :
古賀政男邸 代々木上原の思い出
 http://lunaken.com/e/08030118.htm

   古賀政男音楽博物館 見学
    http://kushikey1941.at.webry.info/200801/article_10.html

367 :
>>366

古賀政男邸のスケッチ 代々木上原
http://lunaken.com/e/08070101.htm
古賀邸の辯天さん
http://blog.goo.ne.jp/kctk1/e/f8563d67591ca3406c881b79076302b6

368 :
(参考)
『青春よ永遠に 明治大学マンドリン倶楽部80年の歩み』(同倶楽部OB会、2002)
『大学史の散歩道』M-style No.027(2009年6月20日発行)

369 :
>>367

古賀政男氏の宗教体験 日々雑感

http://blog.goo.ne.jp/kctk1/e/e053d4823f6bb12a909e8fe89c9bc86c

370 :
<古賀メロデーの青春・抒情歌>

「古賀メロディ」とは青春を歌った元祖青春歌謡と言うことができるが・・

影を慕いて(古賀政男)
丘を越えて(島田芳文)
月の浜辺 (島田芳文)
ハイキングの唄(島田芳文)
夕べ仄かに(島田芳文)
人生の並木路(佐藤惣之助)
白い椿の唄(佐藤惣之助)
さらば青春(佐藤惣之助)
誰か故郷を想わざる(西条八十)
あの花この花(西条八十)
青い牧場(サトウハチロー)
故郷の白百合(サトウハチロー)
雲のふるさと(大木敦夫) 国民歌謡
やすらいの歌(百田宗冶)  国民歌謡、ラジオ歌謡
ピレネーの山の男(西条八十)
りんどう峠(西条八十)




371 :
<古賀メロデー 青春・叙情歌>  藤山一郎歌

東京ラプソデイー (門田ゆたか)1936年6月(映画「東京ラプソデー」主題歌)
 ♪花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で・・
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
 ♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
回想譜(今城請児)1936年10月  (日活「女の階級」挿入歌)
 ♪星みれば はろかに遠く 雲見れば つきせぬ思い
青春カーニバル(青春の謝肉祭)(島田欣也・野村俊夫)  1936年11月
 ♪若き日の憧れを胸に抱き・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
 ♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・
歓喜の丘 (島田芳文)1938年3月
 ♪あこがれの丘にきて 萌ゆる瞳に仰ぎ見る 空は青空 日はうらら・・
春よいずこ(西条八十)
 ♪おもいでは おもいでは 青い背広の・・

372 :
歌で巡るながさき
長崎の歌(16)蝶々夫人を歌う

1.「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌)
昭和8年1月早々、コロムビアはライバル(ビクター)の看板作詞家・西条八十(さいじょうやそ)さんと、自社の看板作曲家・古賀政男(こがまさお)さんにコンビを組ませるというショッキングな企画を発表、世間をアッと言わせます。
その“百万ドルコンビ”第1作で、5月に発売されました。
歌ったミス・コロムビアは同年3月「浮草の唄」でデビューしたばかりの覆面歌手。
本名は松原操(まつばらみさお=のちの霧島昇夫人)さん。
アイマスクを掛けた覆面写真に「これは誰でしょう」のというキャッチコピーで宣伝、話題を集め、歌もヒットしました。
戦後、長崎復興に観光が第一と考えた文化関係者が“グラバー邸はお蝶夫人ゆかりの地”のお墨付きを与えた際、この歌も有力な材料になりました。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/030121/index.html

373 :
>>358
古賀政男音楽博物館
ぐるパスを使い古賀政男音楽博物館に行ってきました。

古賀政男音楽博物館は千代田線の始発である代々木上原駅から徒歩5分の距離にある。5000曲に上る歌謡曲を生み出した昭和の日本を代表する作曲家である古賀政男さんが、この地に音楽村を創ろうとし、その遺志を引きついで誕生した大衆音楽の博物館です。・・

その中でおやっ?と思ったのが、古賀春江さんの「音楽」という作品。古賀春江さんは日本のシュルレアリスムを代表する画家であるが、古賀政男さんと同郷(福岡)ではあるが直接的な血の繋がりはなかったらしい。

ある時、古賀政男さんを訪ねた際に、感銘を受けたという「酒か涙か溜息か」という曲をイメージにしたこの「音楽」という作品を渡していったという。古賀政男さんもこの作品を気にいったらしく、古賀邸に永く飾られることとなりました。

「音楽」は撮るのをうっかり忘れてしまいブログに載せられませんでしたが、常設展示なので興味のある方は是非、訪れてほしいと思います。
http://sinkun0717.blog.fc2.com/blog-entry-9.html

374 :
代々木上原の古賀政男邸は、昭和13年に明大マンドリン倶楽部仲間後輩らを呼び寄せ、音楽村を作ろうと、松林だったこの場所を近くに住んでいた古賀政男が気に入り、地主に掛け合い三千坪を買取り、清水建設の安藤喜八郎に設計を依頼し建築したもの。
「日本の洋館18館」にもなっている歴史的名館、(「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」 講談社 (2003/3/19))
かって、本居長世、山田耕筰、西條八十などや、今も大きなお屋敷が多い成城地区でも、某船舶財団の敷地(三千坪)を超えるものは存在しなかった。
今年、美空ひばりの「ひばり御殿」が一般公開されたが敷地174坪。都内、小田急線駅前の一等地3000坪の大きな0屋敷、「記念博物館」として公開されていた当時のうっそうとした駅前の静かな光景は今見られない。
昭和53年(1978)の逝去後より代々木上原の邸宅をそのまま記念博物館としていたが、老朽化が激しくなったため、1997(平成9)年にその一部を移築・再現し、新しい博物館に生まれ変わった。
その際、コロムビアの顔として古賀自身もその設立に関わった「日本音楽著作権協会」の本部が、この古賀財団のビルに入っているのは象徴的である。

375 :
>>374
(参考)
参考までに、タッキーや翼が中二の時出演した最初のTV、フジTV『木曜の怪談』(怪奇倶楽部 小学生編)1995年10月19日〜 1996年9月12日(全32回放送)は、
まだ記念博物館として公開されていた、旧古賀政男邸で撮影されたもので、当時の古賀邸の中や庭が使われていて貴重です。ビデオも出ました。
木曜の怪談 怪奇倶楽部~小学生編3 [VHS] 1997 

376 :
>>373
私はかねて古賀春江がその画才の傑出している割に知られていないことを残念に思って彼の絵を探し廻った。
出身地の久留米には数枚の油絵があった。然し数は少なく譲って貰えるものはなかった。
大作の多くは二科展に出品されたもので、東京方面に所蔵されているのである。
その愛蔵家の一人は川端康成氏であった。作曲家古賀政男氏も「音楽」と題する一枚をもっていられる。
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/know/kanpo/no012/1201.html


古賀 春江(こが はるえ、1895年6月18日 - 1933年9月10日)は大正期に活躍した日本の初期のシュルレアリスムの代表的な洋画家である。本名は亀雄(よしお)。後に僧籍に入り「古賀良昌(りょうしょう)」と改名する。「春江」はあくまでも通称である。

377 :
>>370
<古賀メロデーの青春・抒情歌>

緑の地平線 (佐藤惣之助)
慈悲心鳥 (佐藤惣之助)
真実一路の唄(佐藤惣之助)  
ゆかりの唄 (佐藤惣之助)  
新妻鏡 (佐藤惣之助)
人生劇場  (佐藤惣之助)  
春まだ浅く (石川啄木)   
啄木の歌  (島田欣也)   
女の階級  (島田欣也) 
目ン無い千鳥(サトウハチロー)
あけみの唄 (原阿佐緒)
サーカスの歌(西條八十)
サヨンの鐘 (西條八十)
サヨンの歌 (西條八十)
崑崙超えて (西條八十)
相呼ぶ歌  (西條八十)
麗人の唄  (西條八十)
三百六十五夜(西條八十)
旅役者の唄(西條八十)
娘船頭さん(西條八十)
 
みな元祖青春歌謡!,第一級の作詞家・作曲家コンビの第一級青春歌謡!

378 :
    ゆかりの唄
日活『緑の地平線』1935挿入歌
  作詞:佐藤惣之助
  作曲:古賀政男
http://mojim.com/twy112718x1x27.htm

379 :
    慈悲心鳥の唄(愛の勝利)
(菊池寛原作 日活「慈悲心鳥」1936主題歌)
  作詩 佐藤惣之助  作曲 古賀政男
  
http://takurou.co-site.jp/natumero/11-15/zihisintyo.html

380 :
白い椿の唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
http://mojim.com/twy114263x1x3.htm

381 :
>>380
白い椿の唄

菊池寛原作 新興キネマ「貞操問答」1935主題歌
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にも値するような哀調を帯びた名曲。

382 :
>>380-381
「古賀メロデー」というのは、いろいろあるが、映画と積極的に提携して映画主題歌が多い。
東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときだそうです。
この歌ができた時は母がなくなってた時で、佐藤惣之助作詞の三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」
と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたそうです。

383 :
たくさんのヒット曲で知られる「古賀メロデー」、「古賀メロデー」の時代、それは日本がまだ草深く、貧しくも心豊かだった苦難の時代と重なる。
その多くは永遠のテーマである人生・青春をテーマとした「古賀メロデー」。
特に『影を慕いて』『人生の並木路』や『新妻鏡』など、詩のテーマが人生の、青春の苦悩をテーマとしたものにより名曲が多いとされる。

古賀政男は亡くなる前、・・「古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ、これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ。
今はハピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。」・・といっていたことがある。
そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の古賀政男音楽博物館に展示されている。 >>167

古賀政男音楽博物館 歌の舞台を訪ねる〜東京編
http://blogs.yahoo.co.jp/genba1215/62021559.html

384 :
>>383
「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハピーな歌が受け入れられているんだ。そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、「僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。
そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ、先生には。」・・と書いている。
(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))

385 :
ダンス音楽:「酒は涙か溜息か」
ダンス音楽:「酒は涙か溜息か」(古賀政男作曲、アレクサンダー・ダンス管絃楽団)1935-06
「酒は泪か溜息か」 作曲:古賀政男 演奏:東京フロリダダンスホール パリ・ムーランルージュ楽員 樂長 ジエーン・ジエラール

古賀メロディはなんでも舞踊になる!。

386 :
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。

387 :
藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))

388 :
新妻鏡
1940東宝映画『新妻鏡』主題歌
作詞 佐藤惣之助 作曲 古賀政男

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ

389 :
>>388

物が有り余る時代、最近の歌には、感動できる歌がめっきりすくない。一方昔の歌も歌われる機会が少なくなりつつある。

「新妻鏡」・・昭和15年、太平洋戦争開戦直前、東宝映画『新妻鏡』は、目の見えない薄幸の新妻が苦労の果てに結ばれると言う話(小島政二郎原作)で、霧島昇、二葉あき子(戦後、島倉千代子)歌。

まだテレビも無かった時代、昭和は「日本映画黄金時代」。どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々は続編を心待ちにしていたのでした。

録音されていないが2番と3番の間にもうひとつあって、

  強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は 幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐に あてらりょう

この歌は、すごい重みのある、男女年齢を問わず勇気ずけられる人生の応援歌です。
これを歌えば、今流行の育児放棄虐待などありえないことでしょう。

簡潔な詞のなかにわすれかけている大切なことが、さりげなくちりばめられた惣之助の詩、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。
ぜひ、オリジナルで聞いてください。

なお、挿入歌に「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (霧島昇、ミス・コロムビア歌) がある。

390 :
>>386
藤山一郎は、昭和4年(1929)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学 。昭和6年(1931)、3年生、20歳の時、アルバイトで「キャンプ小唄」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」など歌った。昭和8年(1933)3月に東京音楽学校を主席で卒業、ビクター専属になった。

コロムビアでアルバイト中、アルバイト禁止で困ってる時に、ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていたのだ。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。

391 :
>>390
藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

なお、20代を、若き古賀政男とともにし、溢れるように、「古賀メロディ」を、青春を、高らかに謳いあげていた、全盛期の若き藤山一郎。

一方、抑留復員後に復活した戦後の、すでに30代も後半になっていた藤山はさすがに全盛期の溌剌とした若き藤山一郎ではなかったろう。

そして昭和29年、この「歌う昭和史」藤山一郎はレコード歌手を引退し、NHKの嘱託となった。

392 :
古賀政男記念博物館地下1Fで、古賀メロディを歌手別、歌手別、年代別にパソコンで1000曲以上選んで聞ける。

なお、それ以外博物館に顕彰されている作曲家、詩人・作詞家、歌手、演奏家など別にパソコンで選んで、8000曲聞くことができる。

http://www.koga.or.jp/

393 :
>>392
博物館に顕彰されている作曲家、詩人・作詞家、歌手、演奏家など
平成25年度までに、山田耕筰、弘田竜太郎、など含め大衆音楽に貢献した
殆ど221人が顕彰されています。

大衆音楽の殿堂 顕彰者一覧
http://www.koga.or.jp/information/sanctuary/sanctuary_h25.html

394 :
>>393
☆主な顕彰者(参考) (平成25年現在)

藤原義江、佐藤千夜子、徳山 l(たまき)、関種子、藤山一郎、松原操、楠木繁夫、淡谷のり子、二葉あき子、東海林太郎、上原敏、霧島昇、
ディックミネ、松平晃、伊藤久男、中野忠晴、菊池章子、安西愛子、松田トシ、近江俊郎、坂本九、美空ひばり、三橋美智也、島倉千代子、北島三郎、・・・

野口雨情、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチロー、島田芳文、藤浦洸、長田幹彦、高橋掬太郎、島田欣也、佐伯孝夫、野村俊夫、星野哲郎・・

滝廉太郎、岡野貞一、本居長世、山田耕筰、中山晋平、弘田竜太郎、梁田貞、杉山長谷夫
堀内敬三、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、佐々木俊一、仁木他喜雄、万城目正、竹岡信行、
服部良一、古関祐而、米山正夫、八洲秀章、吉田正、宮川泰、遠藤実・・・
その他(,計221名)

395 :
☆古賀政男と人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、藤原義江、三浦環
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、山田耕筰、

396 :
戦後の古賀政男は、歌謡界の『大御所」というだけでなく、既に押しも押されもしない『日本の名士』になっていた。
近くには多くの日本の名士がいた。
棟方志功、長谷川一男、森繁久弥・・もそのひとりでしょう。

397 :
郷土の先達G古賀政男―大川の人、歌謡界の巨人(福岡県人会会報「東京と福岡」2005年05月号)
http://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2005/2005-05/p-15.html

398 :
佐高 信「酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ 」(角川文庫)

https://k.dokawa.jp/webapp/CK0131.do;jsessionid=7C25913DD405FF2AF505F259B6E78501?pcd=200805000096

399 :
「古賀メロディーの思い出エッセイ集: 古賀政男生誕100年記念。」古賀政男顕彰会, 2004 - 155 ページ
つらかったあの日楽しかったあの頃、すぎさった遠い日々を古賀メロディーによせた思いをエッセイで綴る

400 :
400

401 :
>>380-382

「古賀メロディー」の「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩)や、「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)や、「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)、3分間という短い時間の中で、前奏・間奏・後奏それぞれが独立した一曲にも値し、人を曲の世界に引き込む。 ...

「白い椿の唄」は、このような「古賀メロディー」の代表的な曲です。

昭和10年2月、此の歌は楠木繁夫が感傷的な哀愁を切実に唄っています。

此の歌は菊池寛の小説「貞操問答」を新興キネマが映画化して、それの主題歌として古賀政男が作曲したもの。

独立した一曲にも値するような前奏・間奏・後奏それぞれが鏤められ、
特に2番と3番の間には、三番目に入るにあたり、1曲にも値する様な長が〜い間奏が続いて、そして三番に入ります・・

呼べど返らぬ 面影は
消えて遙かな 山の上
月に捧げて ひとり泣く
あわれ涙の 白つばき

聞けば聞くほど味わいの深い良い唄です、
ぜひSPオリジナルで聞いてください!。

「白い椿の唄」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)
 http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=OYkv-0IexzAJ&p=%E7%99%BD%E3%81%84%E6%A4%BF%E3%81%AE%E5%94%84&u=mojim.com%2Ftwy114263x1x3.htm

402 :
http://touyoko-ensen.com/syasen/tudukiku/ht-txt/tudukiku21.html
住職夫人の後ろの人が詩人で作詞家の佐藤惣之助。
その左後方の女性は佐藤惣之助夫人、「現代詩の父」といわれた詩人・萩原朔太郎の実妹。その左前の女性と男性が先代住職の雲井孝夫妻です。

403 :
北海道以外の日本全国に自生する、日本原産の花、椿。椿の花言葉は「理想の愛」。一重の花びらの中におしべが顔を出す、素朴な表情です。京都の古寺には椿が多く植えられています。

白い椿は、女性の高潔さの象徴だと言います。椿の持つ気高さをいかした、花嫁の髪飾りがあります。

戦前から流行歌に女性を白椿や紅椿にたとえる歌がかなりある。

「白椿・紅椿」など椿が題名や歌詞の中に入った、最初のヒット曲は、昭和10年に、楠木繁夫が歌った「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)です。

菊池寛原作の映画「貞操問答」の主題歌で、「あわれ乙女の 白椿」と歌われている。

この年に、楠木繁夫は「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)という大ヒット曲があり、ともに多くの人に歌われた。

翌年、昭和11年に、小島政二郎原作の松竹映画「人妻椿」の主題歌「人妻椿」(高橋掬太郎作詞、竹岡信幸作曲、)で、松平晃が歌う三番の歌詞の中に紅椿が歌われている。

清楚で日本的な女性を椿にたとえることとして、流行歌の歌詞の中での「椿」のイメージが固まったのではないかとみられる。

404 :
>>162,>>255

私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。

代々木上原三丁目 古賀政男邸
   「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))

上記書には他に、
『古賀政男傑作曲68選』(楽譜付)
「古賀家の庭」、「古賀家の内部」写真
『古賀資料館』・・日常愛用品、賞、ディスクアルバム、コレクションの写真
古賀政男自筆色紙

その他年譜、写真など貴重な内容!

405 :
旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、
廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。
古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。
上記の本にも、それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵などコレクションの一部がのっている。

406 :
(参考)
(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館36」(いずみ書房2012.6.)
 宮沢賢治、湯川秀樹、- 菊池 寛 芥川龍之介 吉川英治 松下幸之助 宮城道雄 川端康成 小林多喜二 棟方志功 古賀政男 林芙美子 朝永振一郎 太宰治 黒沢明 三島由紀夫
 

407 :
〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/

@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。
http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。

408 :
代々木上原、坂と商店街とお屋敷、緑の街
小田急線と東京メトロ千代田線が重なる渋谷区内でも有数のお屋敷街代々木上原。庶民的な商店街やしゃれた店もある、坂の街代々木上原の住み心地を隅から隅まで歩いてチェックしてきました。
http://allabout.co.jp/gm/gc/31366/

409 :
>>406

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館」(いずみ書房2012.6.)全36巻 別巻人物事典 他付
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki.html

410 :
(参考) 『知ってるつもり?!』

『知ってるつもり?!』は、1989年10月8日から2002年3月24日まで、日本テレビ」系列にて、毎週日曜日21:00〜21:54に放送された。

1990年の一部/
·7月29日 カーネギー
·8月5日 棟方志功
·8月12日 古賀政男
·8月19日 バロン西(西竹一)
·8月26日 湯川秀樹

横浜情報文化センター放送ライブラリーで視聴可。

横浜情報文化センター放送ライブラリーは、NHK以外の民法の記録されているラジオやTV放送を無料でみることができる施設。
NHKについてはNHKアーカイブスや各放送局、放送博物館。

411 :
>>404
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,

古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違いなんだね。

因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。

412 :
古賀メロディーを愛したというあの角さんの、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)だそうですね。
参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。

413 :
秘書の早坂茂三によると、田中は古賀メロディの中でも特に『人生劇場』が好きだったようですね。

414 :
☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)      2000坪
麻生太郎邸(渋谷)  1500坪
孫正義邸(港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪

415 :
古賀政男邸のスケッチ 代々木上原
http://lunaken.com/e/08070101.htm

416 :
よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。
私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、
車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
http://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html

417 :
古賀政男「影を慕いて」に関する現地調査での新発見、その2  2012/7/24(火) 午前 8:19
http://blogs.yahoo.co.jp/je7pyh/30887656.html

松島に一泊した二人は、2泊目を、青根温泉の佐藤仁右衛門旅館に投宿しました。当時はその佐藤旅館しか青根温泉にはなかったということです。
現在の「不忘閣」という旅館です。
この温泉は伊達政宗の時代からの温泉で、当時は、様々な建物が廊下で繋がり、素晴らしい佇まいの旅館だったようです。
今でのその名残を建物や庭園に伝えています。その旅館に二人は投宿したのでした。
そこで何があったかは、知る由もないのですが、夏の終わりの日、古賀は散歩を偽り、山中に入って行ったのです。
青根温泉から山中に入った、現在の歌碑のある辺りで、古賀はナイフで手首を切り、自殺を図ったのでした。
いつまでも帰ってこない古賀が心配になり、幸七は探しに出かけたのです。
やっと探し当て、山中で自殺を図って倒れている古賀に必死で呼び掛け、応急処置をして一命を取り留めることができたのでした。

その後、幸七は約50年後、死ぬまで古賀政男が自殺を図ったことは、一言も喋らなかったということです。
この自殺未遂を起こしたことは、何と古賀の口から話されたことだということでした。
古賀が当時を回想して、日経の雑誌に語ったことがきっかけで、これが世に出ることになったということでした。

古賀が亡くなる1年ほど前に、幸七は71歳で他界することになるのですが、幸七の葬式には、遥々東京から古賀が黒塗りのベンツで、
両腕を抱えられながらやってきたと話していました。
古賀が、最後まで幸七のことを、いかに心に掛けていたということが伺えるような気がしました。
古賀はそれから約1年後、昭和53年に亡くなりました。あの青根温泉への投宿した同じ夏の暑い日でした。

昭和の金字塔「影を慕いて」は、こうして生み出されたのでした。古賀の幸七への想い、韓国に就職で旅立つ幸七に愛用の名器を託したこと、
そして幸七は、死ぬまで古賀の自殺を明かさなかったことなどでも、二人の生涯を通した強い絆が感じられるのです。
「影をしたいて」には、古賀の幸七に対するそんな思いが、全ての琴線に溢れているような気がしてならないのです。

「影をしたいて」には、古賀の幸七に対するそんな思いが、全ての琴線に溢れているような気がしてならないのです。

418 :
>>417
「影を慕いて」の「大沼氏」を訪ねて、蔵の街、村田の「大沼幸七」の現地調査を終えて、道の駅「むらた」で美味しい「そらまめうどん定食」を頂き、遠刈田温泉から青根温泉の「影を慕いて」歌碑に向かいました。
全てが明らかになった上での歌碑は、また違った印象をもって受け止めることができました。石碑に刻まれた「大沼氏」の名前が、やっと明らかになったからです。
これほど深い付き合い、絆があったからこそ、永年の石碑に刻まれたことが分かりました。石碑は昭和55年建立とありました。古賀が亡くなって約1年半後のことでした。
いかにこの地域の人々が、古賀のメロウィーに思いを寄せ、青根温泉と古賀政男とのゆかりが深いかということを物語っているような気がしました。
さらに古賀政男の記念館「青根洋館」にも立ち寄り、様々な資料を改めて眺めてみると、今までとはまた違った感慨も生まれてきたのでした。
「影を慕いて」の創作の原点は、やはりこの宮城にあったことを、改めて知ることができたのでした。

419 :
>>418
帰りは時間が押していたので、温泉には入らず、青根街道から286号線に出て、まっしぐらに仙台に戻ってきました。
スタジオに戻り、ヴァイオリンを積み込んで、今度はカルチャーセンターのヴァイオリンのレッスンに出かけていきました。
ヴァイオリンの1時間のレッスンも、何かしら今日一日の余韻を感じながらのレッスンでした。
88年も前の村田の蔵の街や青根温泉での二人の事実が、ヴァイオリンの音色のすぐ前にあるような気がしていました。

420 :
映画『丘を越えて』 
http://intro.ne.jp/contents/2008/03/26_1855.html
http://intro.ne.jp/contents/2008/03/26_1855.html
猪瀬直樹原作 西田敏行 池脇千鶴 西島秀俊 
2008年5月17日、シネスイッチ銀座


「真珠夫人」の人気作家であり、芥川賞・直木賞の創設者でもある菊池寛。
“時代のパトロン”菊池とその周囲の人々が織りなす、何もかもが新しさに満ちていた時代の物語。
原作は、東京都副知事でもあり、昭和をテーマに著作を展開する猪瀬直樹。
菊池寛賞を受賞したテレビマンユニオンの言葉の達人、今野勉が脚本を手掛け、「火火」の名匠高橋伴明がメガホンをとる。
本作は、菊池寛生誕120年、没後60年に贈る文芸大作である。


西田敏行、西島秀俊、池脇千鶴、余貴美子という日本映画界屈指の名優たちと、監督・高橋伴明、脚本・今野勉、原作・猪瀬直樹。
主題歌・つじあやのと豪華クリエーターが結集し、ファッション、言葉遊び、音楽ととことんこだわって作り上げた文芸大作。

挿入歌として流れる原盤の「丘を越えて」ほか、「君恋し」「アラビヤの歌」など昭和歌謡の傑作の数々と、
当時の面影を残すロケセットでの撮影や美術、衣裳へのこだわりが、観客を華麗なワンダーランドへと誘い込む。

421 :
>>420

昭和歌謡
丘を越えて(作詞:島田芳文、作曲:古賀政男、歌唱:藤山一郎) 日本歌謡曲の生みの親ともいえる古賀政男を代表する青春賛歌。
1929年(昭和4年)、古賀によってマンドリン合奏曲「ピクニック」として作曲された。2年後の1931年(昭和6年)、日本コロムビアから「丘を越えて」(作詞:島田芳文)として
藤山一郎の歌唱で発売されるや大ヒットとなり、不世出の国民的歌手藤山一郎の人気を決定づけた。後世に歌い継がれる名曲として、矢野顕子や氷川きよし等のカバーも有名。(藤山一郎@YouTube)

422 :
◎宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 
 古賀メロディのファンでも持っていない人が多く、当時すでに一種の稀覯本だったと思います。
 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。
 復刻本には、著者の宮本旅人の復刻の言葉と同氏が撮ったらしい晩年の古賀政男の写真があって貴重です。

423 :
白 い 椿 の 唄

作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
昭和10年 

1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

424 :
ゆかりの唄 (1935日活「緑の地平線」)

作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
唄 ディックミネ 星玲子


都の灯 愉(たの)しく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく はつこいも
ああ 短期は 乙女の命

高嶺(たかね)の白雲(しらくも)  ほのかになびけど
わが夢は
淋し浅間の 煙りの影
嘆(なげ)けど うつつに 消えゆきて
ああ短きは 乙女の命

425 :
訂正
ああ 短きは 乙女の命

426 :
古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

427 :
☆古賀政男と『七人の侍』
・・古賀邸の秘書兼運転手兼作曲編曲家だった清水保雄など


古賀政男には『七人の侍』という、懐刀とも言うべき、常に古賀政男の身近にいて、一切の、内部、外部の切り盛りを、滞りなく恙なくやって行く才腕がいた。

いわば強力な秘書軍団が居て陰に陽に古賀を支え続けたのだ。

古賀の苦難時代から起居を共にし行動を共にして、常にその直接相談役補佐役たりし人。 

あまり自動車が一般的でなかった昭和10年代から積極的に外車を駆使していた古賀政男。戦前戦後にかけて、その豪華なパッカードやリンカーンを縦横に操縦する人、古賀政男の意見を、対外的に自由に駆使する人が常にいた。

戦後に書かれた古賀政男自伝にも、清水保雄は古賀政男の自家用車を運転しており、アメリカなど海外に行った時も古賀の乗る車を運転していたことが記されています。

古賀政男は、「古賀文芸部」と言われた「テイチク東京文芸部」発足にあたり、小山令道、東堂守三。茂木了次、清水保雄など、明大マンドリンクラブ以来の『七人の侍』を呼びいれたのだった。

 いずれも、古賀政男が主催していた明大マンドリンクラブのメンバーで、古賀の子分衆であり、伝記類にもちらほらと名前の出てきて、古賀がコロンビアからテイチクに移った際に一緒にテイチクに入った人たちです。

清水保雄は、古賀政男の六歳下で、明大マンドリンクラブの学生時代から古賀に憧れて部下になり、秘書兼、書生兼、自家用車の運転手兼、雑用係で、かつテイチクで企画を担当していた。

さらに後の古賀自伝から、清水保雄は秘書兼書生だっただけでなく、古賀メロディの編曲を名前は出さずに相当やっていた事も分かります。

『七人の侍』は、古賀がテイチクを辞めて、再びコロムビアに移った時も、古賀とともにコロムビアに移った。

このように、古賀政男には『七人の侍』という、陰に陽に古賀を支え続けた「懐刀」とも言うべき、いわば強力な秘書軍団が居た。これが数え切れないほど沢山のヒット曲のある「古賀メロディ−」大成の秘密ともいえるのではないでしょうか。

428 :
>>427
清水保雄は明大在学中に作曲家古賀政男に師事し、大学卒業後の1940年にビクターレコードの専属作曲家となる。
南方メロディにヒントを得て作った「マニラの街角で」、「バダビアの夜は更けて」がヒット。

小畑実と藤原亮子の東宝映画「婦系図」主題歌「婦系図の歌(湯島の白梅)」、同じく東宝「伊那の勘太郎」主題歌「勘太郎月夜唄」が戦時下の中大ヒットし、一躍人気作曲家となる。楽曲のほとんどを佐伯孝夫が作詞し、数々の作品を世に送り出した。
だが戦前に歌った二つの大ヒット曲『婦系図の唄』と『勘太郎月夜唄』の作曲者は清水保雄と、レコードにも楽譜にも書いてあるのだが、「じつは、本当の作曲者は古賀政男ではないのか。」 ――という噂が、前々から流れていた。
小畑実は、昭和16年、ポリドールでデビューした頃から古賀邸の門を叩き、教えを受けていた。古賀は小畑の美声に惚れた。しかし、古賀政男はコロンビア専属、小畑実はビクターやキングなのでコンビを組む事が難しかった。

昭和40年代に日本音楽著作権協会の常務理事も務めた作曲家吉田信は、『湯島の白梅(婦系図の唄)』『勘太郎月夜唄』は古賀政男が小畑のために弟子の名を借りて(ビクターで)作曲、レコーディングしたものだと言っている。
『オリジナル版・古賀政男大全集』の解説を書いた森一也も、「この二つの歌の真の作曲者は古賀政男である。」と記している。

429 :
小畑は戦後、昭和25年(1950)に晴れて古賀のいるコロムビア専属となった。
古賀は「彼は僕の唄が唄いたくて専属契約を結んだのだから、大いにヒットを出さにゃならん。」と大変喜んだという。そして小畑実コロムビア専属第一作が『銀座シャンソン』(1950.5)だったのだ。
『婦系図の唄(湯島の白梅)』昭和17年(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子)

『勘太郎月夜唄』昭和18年(ビクター/詩:佐伯孝夫/曲:清水保雄/歌:小畑実・藤原亮子)

『銀座シャンソン』(門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)小畑実1950.5コロムビア

430 :
人は古賀政男を大作曲家、歌謡界の帝王とよんだ。
五千曲に及ぶ作曲生活の中で、数多い名曲、ヒット曲を生み、それが築いた富は数十億円とも言われている。

広大な邸宅に住み、晩年に到るまで名声と富に囲まれて暮らしていた古賀政男。死後は国民栄誉賞に輝き、彼が生んだ古賀メロディーは、今後とも日本人の心の中に生き続けるだろう。
―人間として、作曲家として文句のつけようのない生涯であったと誰しもが考える。

だが、この華やかさとはうらはらに、古賀政男は心を許した親しいものに
「ぼくは寂しいのよ」と、よく打ちあけたことは知られている。

少年時代から死ぬまで古賀政男にとって、確かなものは、音楽への情熱しかなかった。

その心を歌に託せば、“哀しみ”と“寂しさ”になり、人々の心をうつのであろう。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ わが想い

古賀政男を作曲家としてスタートさせた処女作『影を慕いて』の
あの“哀しみ”と“寂しさ”。

そして晩年に到るまで古賀政男の心に宿り、いつの時代の作曲活動にも活力となった
“寂しさ”と“哀しみ”とはなんだったのだろうか。・・


貧困の中での生い立ち,父の死、母と兄の確執、自殺未遂・・、
暗い青春にある日突然訪れた栄光。
古賀作品の本質と彼の青春は深くかかわりあっているのだ。

第一部 流転の旅 ― 人間 古賀政男 その青春
  「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))

431 :
☆古賀政男生誕110年記念 明治大学マンドリン倶楽部演奏会☆

1904年11月18日、古賀政男は誕生しました。本年も古賀政男に大変関わりの深い明治大学マンドリン倶楽部の演奏会を開催します。
明治大学マンドリン倶楽部の皆さんの若々しい演奏で、古賀メロディーの世界を十分お楽しみ下さい。
ゲストにはアントニオ・古賀さんをお迎えします。

開催日 平成26年11月2日(日)
場所  古賀政男音楽博物館 けやきホール
(入場券で、館内ご覧いただけます。)
開場 13:30 開講 14:00
入場料 2,000円(指定席制 要予約)
主催 (一般財団法人)古賀政男音楽文化振興財団
開催日朝10時から、座席指定券を配布します。

(問合わせ先)
東京都渋谷区上原三丁目6−12
古賀政男音楽博物館 
http://www.koga.or.jp/
TEL 03−3460−9051

小田急線・東京メトロ千代田線 代々木上原駅前 (南@出口右,突き当り )
(ホ−ムと斜め交差する井の頭通り、駅前交番直前)
新宿駅より、小田急線急行4分

循環バス >>407
渋谷区コミュニティバス(ハチ 公バス)渋谷駅西口発 古賀音楽博物館20分
丘を越えてルート(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)

432 :
交通
・新宿駅より小田急線・地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 急行4分、歩3分
・地下鉄:渋谷―(銀座線2分)―表参道―(千代田線6分)―代々木上原 同
・地下鉄:北千住―(千代田線35分)―代々木上原 同
(西日暮里駅で山手線、京浜東北線と連絡。新御茶ノ水にて中央・総武線と連絡。)
・渋谷区コミュニティバス(ハチ 公バス)丘を越えてルート(上原・富ヶ谷ルート)>>407  渋谷駅西口発 古賀音楽博物館 約20分
(京王バス 電話:03-5300-6011)

433 :
(参考)
財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)

434 :
>>422
明大マンドリン倶楽部の古賀の愛弟子でテイチクで仕事をしていた宮崎良治氏が、宮本旅人のヒット歌謡『旅姿三人男』の企画を担当していた。
宮本旅人には「ほたる」(作詞 宮本旅人、作曲 本居長世)などの作品がある。
この宮崎氏の葬儀に病をおして出席した古賀政男を、宮本旅人が撮影した写真が、上記の貴重な写真のようです。
この時古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

435 :
>>434

宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939

436 :
宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978): 序文 古賀政男

437 :
(参考)

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館36」(いずみ書房2012.6.)
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939
宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978): 序文 古賀政男
財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)

438 :
(参考)
☆古賀政男に関する文献☆
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>362-369 古賀政男に関する文献
>>423,>>429-430,>>432-433



435 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:25
>>417
>>353

>
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

439 :
訂正

(参考)
「古賀政男」に関する文献はたくさんあります。
 以下参照

>434 @
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

440 :
9月14日朝、李香蘭(山口淑子)さんが、自宅で心不全で亡くなられたそうです、94歳。
ご冥福をお祈りいたします。

李香蘭は、「夜霧の馬車」「サヨンの歌」「紅い睡蓮」「迎春花」など以下多くの古賀メロディーを歌っています。


さらば上海   (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮       (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車       (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1941.7
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲) 李香蘭 1942
夕月乙女    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8
荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542
宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542
若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌      (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5

441 :
>>440
☆李香蘭と古賀メロディ

李香蘭(山口淑子)は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、
李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。
そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、
「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。
ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、
中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )

442 :
>>441
この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)

443 :
>>440
「サヨンの歌」と「サヨンの鐘」 http://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080426/1209212432
この「サヨンの歌」は、渡邊はま子がレコードの吹き込んだ「サヨンの鐘」とともに今でも台湾の人々に愛唱されている曲である。
李香蘭の出演した映画が凡てそうであったように、映画そのものよりも主題歌の方が生命力を持っているようだ。
サヨンの歌は、映画のことなど知らなくても十分に楽しめるし、その明るい牧歌的なリズムは記憶に残る。映画そのものは、ビデオ化されているし、フィルムセンターなどでも見ることが出来る。
日本の台湾に於ける皇民化政策がいかなるものであったかを知るための歴史的資料として上映されることもある。

歌謡曲「サヨンの鐘」の謎(2,000・12・25転記)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no47.htm

444 :
>>123
☆「荒城の月」について


「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。

(参考)

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲

445 :
「荒城の月」は、「紅い睡蓮」、「夕月乙女」とともに、映画『熱砂の誓ひ』挿入歌でもあったのですね。
http://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/3022/
·紅い睡蓮(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·夕月乙女(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)
·荒城の月(映画『熱砂の誓ひ』挿入歌)

446 :
戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるもので、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物;だと感心させられるもの
ですね。

447 :
「荒城の月」を、何と勘違いしているのか、オペラでも歌うつもりか、あらん限りの力を振り絞って、頭の芯に突き刺さるような激しい声(音)を張り上げて歌う今のクラッシックを標榜する若手歌手。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。
そして歌い終わってかけつけ、すばらしい声量で・・とか持ち上げる若い司会者。ぜひこの映画を見せてあげたいですね。

448 :
>>440,>>442
北京の子守唄 (1941 陸・海軍礼式歌)(詞:佐藤惣之助 曲:古賀政男)
青い屋根金の屋根 夢のお城に 三日月が ..

449 :
(参考)
CD 李香蘭(山口淑子)全曲集
李香蘭 形式: CD 2006/3/22 日本コロムビア 1CD
1. 紅い睡蓮
2. 夜霧の馬車
3. 迎春花
4. 私の鶯
5. 北京の子守唄
6. 月下の胡弓
7. 春鶯曲
8. 何日君再来
9. 蘇州夜曲
10. 蘇州の夜
11. 夜来香
12. 海燕
13. 売糖歌
14. 浜辺の歌
15. 宵待草
16. 荒城の月
17. 花はなんの花
18. 珊瑚礁の彼方
19. ロンドンデリーの歌
20. ふるさとのない女
21. 黒い百合
22. 七人の侍

団塊の世代に贈る、思い出の曲特集盤。本作は李香蘭(山口淑子)の全曲集。「紅い睡蓮」「夜霧の馬車」「北京の子守唄」「迎春花」他、全22曲を収録。
とにかく全部が良い曲です。
「赤い睡蓮」「夜霧の馬車」「蘇州夜曲」「夜来香」は言わずもがな、李香蘭の歌う「宵待草」や「荒城の月」といった抒情歌も極めて良いです。歌とはこういうものなのだという感動が湧きおこってくるのです。
映画のテーマ曲である「七人の侍」もすこぶる良いです。

450 :
李香蘭は、デビュー時から古賀政男とは縁がある。彼女の作品29曲のうち13曲が古賀作品。彼女のデビュー映画「蜜月快車」の主題歌「二人は若い」は古賀政男作曲。
二人ともテイチク所属だった頃は、「さらば上海」「影を慕いて」(満州語版・支那語版)を吹き込んでいるわけだから、デビュー時から古賀政男と縁がある。

古賀政男は「熱砂の誓ひ」のロケにも同行。李香蘭の事を「蘭ちゃん」と呼んだ。昭和15年、古賀のコロムビア移籍当初は古賀政男とコンビを組むことが多かった。

特に「夜霧の馬車」は西條八十・古賀政男・李香蘭が古賀邸に集まり、曲想を豊かにする為に、コーヒーやブランデーを飲みながら、3人で協力しながら作られた曲と言われる。

451 :
李香蘭 - 我們的青春 〔二人は若い〕


我們的青春 (1938)
(映画《蜜月快車》主題歌)

詞:孫翅 王默然  曲:古賀政男
ttp://www.youtube.com/watch?v=NpCj6av3Id0

李香蘭のデヴューとなった映画。
この映画は日本でヒットした「のぞかれた花嫁」(昭和10年日活)の翻案

452 :
代々木上原 古賀政男音楽博物館
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/POI/tokyo/18KogaMasao.htm

11月18日は古賀政男の誕生日で、今年は《生誕110年》です。

明治大学マンドリン倶楽部演奏会(11月2日 古賀政男音楽博物館)をはじめ、明治大学マンドリンクラブOB倶楽部第34回定期演奏会(10月18日 日比谷公会堂)などいろいろあります。

453 :
古賀政男邸 代々木上原の思い出
 
師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 
「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。 

古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。 

そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。
坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。
麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。 

坂を登った左側には車庫があってリンカーン、ベンツ、など高級車が並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。 

練習ではこぶし千回と言われ、何回も練習したものです。
古賀政男先生から「ギターがしっかり弾けて、演歌の歌える歌手は他にいないから頑張りなさい。」と声を掛けて頂いたことを、今でも印象深く覚えています。(ようこそ歌手 ルナケンゾ-の世界へ)

454 :
 古賀政男先生との出会い

苦しい家計を助けるため、昼間は会社勤めをしながら夜の街で流しをしていた頃のことです。力試しをしたくていくつかのテレビの歌番組に挑戦していました。
「歌まね読本」という番組に出場して勝ち抜きチャンピオンになり、当時審査委員長をしていた古賀政男先生に「うちへいらっしゃい。」とスカウトされ、レッスンを受けることになります。 
古賀政男先生にスカウトされたんですね。胸がワクワクしたことを今でも覚えています。

それまで勤めていた会社を辞めて歌手になると宣言する私に、兄弟たちからは「夢を見てる場合か。」と諌められ、強く反対され、特に父親からは「河原乞食になるのか。」と猛烈に反対されました。
でも誰に何といわれようと決心は変わりませんでした。この頃から頑固だったんですね。 古
古賀政男先生から「私の弟子のところへ行ってギターもやりなさい。」と言われ、アントニオ古賀さんを紹介されました。

私はずっとアイ・ジョージさんの弟子になりたいと思っていたのですが、古賀政男先生の言葉に従ってアントニオ古賀さんの元を訪ねました。
しかし「おれは弟子はとらないから。」とあっさり断られ、そして銀座7丁目にあった古賀プロダクションに行くようにと言われたのでした。 
銀座七丁目の古賀プロダクションへ通うよりになり、掃除やお茶くみなど事務所の手伝いをしながら、アントニオ古賀さんにアタックする機会をずっとうかがっていました。
アントニオ古賀さんのスケジュールを知ることができましたので、出演場所に押しかけては進んで重い楽譜カバンや楽器、衣装運びの手伝いをしたり、自宅へも何度も弟子入りのお願いに行きました。
時には生活のために夜の街で流しをしたりと厳しい毎日でしたが、決してあきらめたりはしませんでした。 
やっとアントニオ古賀さんに弟子入りを許され、住み込み修行をするようになってからも、堀の内の家から週に一度、バスと電車を乗り継いで古賀政男先生のご自宅へ歌のレッスンに通わせていただきました。・・・・ 。(ようこそ歌手 ルナケンゾ-の世界へ)

455 :
嘆きの夜曲

昭和七年 芸術的歌謡をめざし作曲された。悲しさに自殺者が出たという。 
    
    嘆きの夜曲    西岡水朗 作詞  
               関 種子 唄 /  

   呼んでみたとて かえらぬ人よ 
  なぜに儚い 夢じゃやら
  
  想いつかれて 心に秘めて 
  暮れりゃさみしい 雪ばかり 

  泣いてみたとて かえらぬ恋よ 
  なぜにつきせぬ 涙やら  

456 :
窓に凭れて

昭和6年作曲。米軍キャンプで一位のメロデイに選ばれたと言う。

    窓に凭れて    島田芳文 詞
               関 種子 唄  

  行きて帰らぬ 若き日を 
  窓に凭れて 思いみる 
  夢多かりし かの頃の 
  雲のかからぬ 清らかさ 
  ああ過ぎにし 過ぎにし春の 
  思い出よ 
  
  ただやすらけく ありし日の 
  胸のあこがれ 泡と消え 
  たけての今日の この胸の 
  地上の愛の なやましさ 
  ああ涙に 涙にくるる 
  このこころ 

457 :
緑の地平線

昭和10年作曲。映画の主題歌。楠木が生涯ステージで歌った。

    緑の地平線     佐藤惣之助 詞
                楠木繁夫 唄  

  なぜか忘れぬ 人故に 
  涙かくして 踊る夜は 
  ぬれし瞳に すすり泣く 
  リラの花さえ なつかしや 

  山のけむりを 慕いつつ 
  いとし小鳩の 声きけば 
  遠き前途に ほのぼのと 
  緑うれしや 地平線 

458 :
あけみの唄

昭和7年、サイレント映画「佳人よ何処へ」の関連曲。

    あけみの唄     原阿佐緒 作詞
                関 種子  唄

   あけみ悲しや いずこへ往く
   酒場の花と ひとはいうが
   酔うては醒める 酒のよな
   恋はすまいぞ ひとが泣くもの

   あけみ悲しや 何処へ往く
   いまさらさらに 思う我が子
   ゆりかごゆりて 笑みし日を
   恋ては泣くよ 母なればこそ

   あけみ悲しや 何処へ往く
   恋にも世にも 敗れ果てて
   せめて子のため 永らえよ
   あああ あけみ 何処へ往くよ

459 :
夕べ仄かに

昭和10年 松島詩子のB面で出された。
女学生に愛唱されたという。後、裕次郎も歌った。

    夕べ仄かに   島田芳文 作詞

  夕べ仄かに 窓辺に立てば
  山の彼方の 空のいろ
  遠いあの日の 夢に似て
  かいなき君の 偲ばるる

  夕べ彩なす 茜の雲よ
  何故に思いを 焦がすやら
  山の遠さよ 過ぎし日の
  儚なき君の 思い出よ

460 :
白い椿の唄

昭和10年 前年に亡くなった母を慕い作曲したといわれる。

    白い椿の唄    佐藤惣之助 作詞  

楠木繁夫 唄 
  
雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの 
  風にさびしく 泣きぬれし 
  あわれ乙女の 白つばき 
 
  宵の酒場に 咲く花は 
  燃えてほのぼの 誰を待つ 
  ながきまつ毛の 横顔も 
  夢にやつれし 白つばき 

  呼べど返らぬ 面影は 
  消えてはるかな 山の上 
  月にささげて ひとり泣く 
  あわれ涙の 白つばき 

461 :
三百六十五夜

昭和23年の作曲、 同名映画の主題歌。 

    三百六十五夜   西条八十 詞、 
              霧島 昇 ,松原操 唄、

  みどりの風に おくれげが
  やさしくゆれた 恋の夜
  初めて逢うた あの夜の君が
  今は命を 賭ける君
  
  たそがれ窓に 浮ぶのは
  いとしき人の 旅すがた
  我ゆえ歩む 道頓堀の
  水の夕陽が 悲しかろ

松原操はこの歌を最後に歌手を引退、家事に専念、以後歌を歌うことは無かった。

462 :
愛の小窓

昭和11年作曲、 
   愛の小窓    佐藤惣之助 詞。 デイック・ミネ 唄。   

  花の都に 身をすねて 
  若き命を 散らすやら 
  夜の巷を 流れゆく 
  君がパイプの ああうす煙 
  
  街のホールで 見る月は 
  弱いむすめの 泣く涙 
  夢の光も さびし気に 
  なぜか今宵も ああ更けてゆく 

463 :
         人生の並木路
        デイック・ミネ 唄 
    作詩  佐藤惣之助 作曲  古賀政男
          昭和12年


1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い 二人して
  故郷を捨てた 甲斐がない


2 遠い淋しい 日暮れの道で
  泣いて叱った 兄さんの
  涙の声を 忘れたか


3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
  やがて輝く あけぼのに
  我が世の春は きっと来る


4 生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛 高らかに
  この人生の 並木路

464 :
「人生の並木路」は、昭和12年(1937)1月、正月映画、日活映画《検事とその妹》(竹田俊彦原作「検事の妹」)主題歌。
もう一つ、藤山一郎「聖処女(きよおとめ)の唄」、いずれも佐藤惣之助作詞がある。


465 :
悲しき竹笛

昭和21年作曲。近江俊郎、奈良光枝のデュエット。

    悲しき竹笛   西条八十 詞

  ひとり都の たそがれに 
  想い哀しく 笛を吹く 
  ああ細くはかなき 竹笛なれど 
  こめしねがいを 君しるや 
  
  そぞろ歩きの たわむれに 
  購いてわかちし 想い出よ 
  ああ花の笑顔も やさしく浮び 
  われを泣かせる 歌のふし 

466 :
         麗 人 の 歌
    
    作詩 西条八十  作曲 古賀政男
    昭和21年  歌:霧島昇



1 夢はやぶれて 花嫁人形 
  はでなたもとが 恥しや  
  覚めて 浮世の 窓見れば  
  みんな泣いてる ああ 人ばかり

2 告げぬ想いを さみしくこらえ  
  君とゆく夜の 小糠雨  
  いとしお方の 肩たたく  
  雨がわたして ああ あったなら

3 籠に飼われた 緋総(ひぶさ)の鳥が  
  強い女と なる朝は  
  こころ筑紫(つくし)の 波の上  
  うかぶ白帆に ああ 虹が立つ 

「麗人の歌」(東宝映画『麗人』の主題歌(1946年5月)...
戦前に作られた佐藤紅緑原作の『麗人』再映画化に伴って、監督渡辺邦男は、戦前に作られ未発表だった曲をぜひ主題歌にとのことで、
西條八十が新しい歌詞をつけて出来上がったものである。

曲中のギター伴奏を行っているのは、作曲した古賀政男自身と弟子 古屋雅章(山本丈晴)である。
.

467 :
雅万歩 雅夫の一日一万歩の散歩
代々木上原〜渋谷

h ttp://nabe-masao.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-218c.html

468 :
《兄弟(兄妹)の絆》を歌った永遠の名曲 人生の並木路

昭和12年(1937)日活映画 渡辺邦夫監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)主題歌


「人生の並木路」ディックミネ 佐藤惣之助作詩 古賀政男作・編曲  伴奏 古賀政男オーケストラ テイチクレコード 1200

「聖処女(きよおとめ)の唄」藤山一郎 佐藤惣之助作詩 古賀政男作・編曲  伴奏 古賀政男オーケストラ テイチクレコード 1200



飽食の時代と言われ久しい今、この歌は、かって日本がまだ草深く、そしてまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代があったことを教えてくれる。

469 :
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は親のかわりとなって、弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で、簡潔かつ適切に歌い上げています。
「飽食の時代」といわれる今の世ではありえない歌詞だと想います。


「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。20代の若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。(テイチク1200)

『検事とその妹』は、昭和10年に竹田敏彦の『検事の妹』の映画化作品で、幼くして両親を失った二人の兄妹が、貧しい故郷を捨て、助け合い、支えあって生きてゆく姿を描いたもの。
長い貧しい時代から今日の豊かな時代へと、いわば近代日本史の一コマともいえるもの。

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしているようで、詩を何回も何回も添削して何回試みてもどんどん長くなってゆくばかり、何言ってるんだかわからなくなる。

そしてついに『簡潔で、適切で、これを超えるものはない。』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何とこの『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で知られるが、詩人・佐藤惣之助から銀座のテイチク東京文芸部(古賀文芸部)におくられてきたこの詩を目にするや、「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。
http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat11975100/

470 :
>>469

人生の並木路
佐藤惣之助 作詞 古賀政男 作曲

http://www.tei3roh.com/jinseinonamiki.htm

471 :
>>468-470
参考までに、この時代、「人生の並木路」の時代―SPの時代をよく表しているのは、壷井栄の昭和27年発表の小説『二十四の瞳』ではないでしょうか。

1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれていて昭和3年に始まるSP歌謡の時代と重なる。

小説の舞台は、壺井栄が、その冒頭で「瀬戸内海べりの一寒村」としている。

小学校卒業を待たずに「奉公」に出される遊びたい盛りの幼い子供たち。

昔はどんなに頭が良くても、勉強したくとも、「中学校」に進めるものは恵まれたごくごく少数でしかなかった。 

高等小学校に行かせてもらえれば幸せだったろう。「教育の機会均等」が保証されるのは戦後の学制改革を待たなければならなかったのだ。

10年前に千円札になった「野口英世」。その生家の柱には、「志を得ざれば再びこの地を踏まず」と彫ってある。
篤志家の援助で高等小学校を出させてもらった英世。

このあと、この固い決意で貧しい故郷を捨てて世に出て行く。

「検事とその妹」も固い決意で、幼くして故郷を捨て、世に出て検事を目指す。・・

472 :
>>471
60年を超える激動の「昭和」の時代が「平成」に変わった頃、テレビで「『人生の苦悩』を歌った歌」の特集があった。しかしもはや「昭和」は遠くなりにけり。

内容は『神田川』など、とても『人生の苦悩』とは程遠いものでした。
自由と飽食の時代のまっさかり、昭和40年代、自由と豊かさを謳歌する今の若者のフォークソングだった。

古賀政男の言葉を借りれば、今は昔の人から言えばとても『ハピーな時代』ではないでしょうか。
四畳半で男女が同棲する・・“四畳半フォーク”と呼ばれる一連の若者ソング、それが、人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなります。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。

「人生の並木路」は、たとえ映画は知らなくとも、映画を越えて生きていますが、昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、
幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく“兄弟の絆”、“人生の苦悩”を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う「人生の並木路」(テイチク1200)。

この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

4 生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛 高らかに
  この人生の 並木路

どんなに苦しくとも貧しくとも、
まじめに生きていればきっといいことがある!。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいですね。

473 :
>>472
昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を奉公にださねばならなかった。そんな苦しい選択をしなければならない貧しく苦難の時代であったことでしょう。
しかし、このころの歌には、優しさと温かさがあるのは救われます。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。
まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったことでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、自分の人生は自分で開くしかなかっただろう時代、幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の真摯な青春の葛藤の姿と言えるでしょう。
その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩でしょう。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。

474 :
月 の 浜 辺
作詩 島田芳文  作曲 古賀政男
昭和6年 河原喜久恵

1 月影白き 波の上  
ただひとり聞く 調べ告げよ千鳥  
姿いずこ かの人  
ああ なやましの夏の夜  
こころなの 別れ

2 月はやかげり 風立ちぬ  
われすすり泣く 浜辺語れ風よ  
姿いずこ かの人  
ああ 狂(くる)おしの夏の夜  
永久(とこしえ)の 別れ

3 月永遠(とわ)に落ち 波立ちぬ  
胸あやしくも 乱る返れ心  
姿いずこ かの人  
ああ さびしやの夏の夜  
一人泣く 浜辺


古賀政男初期の名曲、昭和6年(1931年)6月発売。ジプシー音楽を取り入れた曲、ギター伴奏は古賀自身。
作詞は野口雨情門下の詩人・島田芳文で、昭和6年に他に、「キャンプ小唄」「丘を越えて」、「窓に凭れて」「スキーの唄」がある

河原喜久恵は、1927年(昭和2年)東京音楽学校。オペラ「堕ちたる天女」「椿姫」や、「麗人の唄」など。

475 :
>>468-473

昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(昭和10年、竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク東京文芸部宛に郵便で届いた。
封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、
誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。
デイックミネ27歳のときである。

476 :
>>475
古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。
「検事とその妹」オリジナル原版(昭和12年)のもので聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない。この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある 。

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。

主題歌「人生の並木路」は、藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。
最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。

戦後、デイックミネの第一の持ち歌となり、デイックミネと言えば『人生の並木路』、全国や、テレビなどでよ盛んに歌われた。


(参考)

「大衆文学大系20」(講談社1972)・・竹田敏彦他、 竹田敏彦:「子は誰のもの」「検事の妹」他 解説 解題 年譜
   (全国書誌番号75009890)
国会図書館、日本近代文学館その他図書館にある。

477 :
>>475

最近、歌番組で重い言葉であるべき「名曲」という言葉が頻繁に飛び交う。「昭和の名曲」というのは、今や飽食の時代,昭和の末期、昭和50年代頃のをさすらしい。

「人生の並木路」は、竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化―日活映画「検事とその妹」(1937)の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。

1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
1956.5.18 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、「法の裁きのなかにも人間の情がある」ことをテーマとしたもので、自分と同じ、両親を早々と失い、唯一の妹と貧しい生活を支え合うという経験をしてきた、「被告」を裁く検事は、
そのため同じような立場にある「被告」に対して同情の念を禁じ得なかった。

映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて生きています。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の草深く貧しかった、まだ教育の機会均等もなかった時代、しかも公の援助も期待できなかった時代、
そして支えあいながら自らの人生を切り拓いていく近代日本の縮図ともいえる二人の兄弟の苦悩と葛藤、そして美しい兄妹愛。

こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

478 :
写真Life  h ttp://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat11975100/

日活 1937『検事とその妹』岡譲二、原節子のスチール写真他。


479 :
古賀政男ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない.。同時に古賀政男ほど映画主題歌の多い作曲家もいない。

他社をはるかに引き離した数の映画主題歌を出したのが、テイチクレコードだった。

昭和12年の、各社の曲数を並べてみると、テイチクの半端じゃない圧倒的な強さが判ってくる。テイチクの発展ぶりは数ばかりでなく、70年たった今でも、よく知られているヒット主題歌が多いことからも納得できる。

12年に出たテイチクの主題歌90曲のうち、古賀政男の作曲が43曲もあり、約半数を占めていた。 昭和9年に古賀政男がBクラスだったテイチクに招聘され、その後急速に業績が伸ばした救世主の由縁が、この作曲数でもよく判る。

「古賀メロディ」は、映画と言う人々に馴染み深いものを通じて多くの人に愛されたのだ。

各社別 昭和12年 映画主題歌数
テイチク    90曲     
ポリドール  49曲     
コロムビア   44曲        
ビクター   41曲      
キング    21曲
タイヘイ  19曲
その他   27曲
 
昭和12年 テイチク歌手別 映画主題歌数
デックミネ      16曲      
美ち奴     15曲      
藤山一郎    14曲   
楠木繁夫    14曲     
奥田英子    13曲
杉 狂児     8曲
その他     10曲

480 :
>>416
リンカーンって全幅2m超え、全長6m弱の巨大なやつだね!。

481 :
>>455
古賀政男作品『嘆きの夜曲』
http://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/51274790.html

482 :
>>481
初期の古賀政男作品『嘆きの夜曲』については>>198も併せて参照されたい。

483 :
>481-482,>>199

2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.htm

484 :
http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

485 :
>>481-482,>>199.>>455

2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』

http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

486 :
昭和の歌手シリーズ『ミス・コロムビア(松原操)』
2011-09-23 02:02:45

http://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11026519314.html


ミス・コロムビア(松原操)の「古賀メロディー」の最初は、昭和8年(1933)「「お蝶夫人」の唄」(西條八十作詞)に始まる。
「茜の雲の燃ゆる時」(大木 惇夫作詞)、「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞)、「誰も知らない」(サトウ ハチロー作詞)、「そうだその意気」(西條八十作詞)、「日本良い国」
「故郷の白百合」(サトウハチロー作詞)、「いさをを胸に」(サトウハチロー作詞)、「三百六十五夜」(西條八十作詞)など。

487 :
「祖国の花」昭和二十年一月発売。東宝映画『勝利の日まで』挿入歌。
  轟夕起子、奈良光枝、真木絢代、渡辺一恵、東海林壽代。

作詞 サトウハチロー
作曲 古賀政男

花の香りにふと目が覚めて
窓を開けば垣根の小菊
拝む遥かな代々木の社
送りましょうか 祖国の花を
愛し懐かし故郷の花を

梅に鶯蝶々に牡丹
菖蒲咲く日は五月の空を
護る姿とあの鯉幟
送りましょうか 祖国の花を
愛し懐かし故郷の花を

月と語るは宵待ち草か
露と囁く小路の竜胆
河原撫子小風と歌う
送りましょうか 祖国の花を
愛し懐かし故郷の花を


丁度今から70年前、太平洋戦争の最末期、昭和19年から20年にかけて、日本は敗戦の坂道を転げ落ちるように総力戦を展開していた。
この苦難の時代に作られた慰問映画、東宝映画『勝利の日まで』。

「勝利の日まで」とともに映画の主題歌・挿入歌。

戦争の最中、戦争を忘れるようなこのような歌があったことは驚嘆に値する。

488 :
国民合唱 「勝利の日まで」
    昭和20年1月
作詞:サトウハチロー 作曲:古賀政男

1
  丘にはためく あの日の丸を
  仰ぎ眺める 我等の瞳
  何時かあふるる 感謝の涙
  燃えて来る来る 心の炎
  我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

2
  山で斧ふる おきなの腕も
  海の若者 櫓を漕ぐ腕も
  町の工場の 乙女の指も
  今日も来る来る お国のために
  我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

489 :
3
  雨の朝も 吹雪の夜半も
  思うは一つ ただただ一つ
  遠い戦地と 雄々しき姿
  浮かび来る来る ほほえむ顔が
  我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

4
  空に飛び行く 翼に祈り
  沖をすぎ行く 煙に誓う
  国を挙げての この戦に
  湧いて来る来る 撃ちてし止まん
  我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

490 :
国民合唱「勝利の日まで」は、1944年、日本放送協会に委嘱して作られ、
映画に先立ち、1944年3月10日に霧島昇歌唱版で発売された。

東宝映画公開と共に、8人の歌手(波平暁男、近江俊郎、志村道夫、高倉敏、菅沼ゆき子、奈良光枝、池真理子、渡辺一恵)によって吹き込まれ、1945年(昭和20年)1月に再発売されている(合唱版)。

円谷英冶の特撮映画第一号と言えるコミカルで荒唐無稽な慰問映画であるが、主題歌は前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にも値するような、哀調を帯びた行進曲風の軽快な曲、日本のもっとも苦難の時代に作られた古賀メロディ―の隠れた名曲。

この歌は全国に散った多くの疎開学童によってうたわれたという。

491 :
昭和19年から、20年にかけていわゆる軍歌と一線を画し歌われたNHK(JOAK)「国民歌謡」から変わった「国民合唱」がある。

学童疎開をうたった「勝ち抜く僕等少國民」や、「僕は空へ君 は海へ」、「お山の杉の子」、それに「勝利の日まで」などがある。

「勝ち抜く僕等少國民」
昭和20年1月21日 放送 作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 歌 東京放送合唱団 東京放送児童合唱団

「僕は空へ君 は海へ」昭和19年11月, 日畜
(サトウハチロー作詞/佐々木すぐる作曲).

「お山の杉の子」(吉田テフ子作詞、サトー ハチロー補作。佐々木すぐる作曲)安西愛子、加賀美一郎、壽永恵美子、日畜児童合唱団)日畜



なお、「東京放送児童合唱団」、「日畜児童合唱団」は、いずれも「音羽小国民合唱団」(音羽ゆりかご会)。

492 :
[勝利の日まで」はNHKラジオで放送された国民合唱でレコードでもあった。そして全国に散らばった疎開学童によって歌われたといわれる。

昭和19年から29年にかけて行われた学童疎開。親元を離れた子供たち、最初は遠足気分であっても、次第にひもじさ空腹、ホームシック、いじめ、シラミ・・それらを紛らわすために知っている限りの歌を歌ったそうだ。

そして最後に歌うのが「勝利の日まで」、早くお母さんのもとに帰りたい・・頑張ろう、勝利の日までがんばろう、その気持ちにぴったりの歌それが「勝利の日まで」だったのだ。

そして歌い始めるが、この歌だけは歌っててなぜか涙が出てきて、途中で歌えなくなってしまう、学童疎開を経験した世代には忘れられない歌という。

493 :
訂正
 日畜・・・日蓄(コロムビア)
 昭和19年8月から20年にかけて行われた学童疎開。

494 :
今日11月18日は古賀政男(1904年11月18日生まれ)生誕110年です。

495 :
南の花嫁さん
 作詞 藤浦 洸
  編曲 古賀政男 (原曲 任光「彩雲追月」)
  歌  高峰三枝子
  昭和18年(1943年)1月


 (一)
ねむの並木を お馬のせなに
ゆらゆらゆらと
花なら赤い かんなの花か
散りそで散らぬ 花びら風情(ふぜい)
 隣の村へ お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
 言葉もたったひとつ いついつまでも




原曲は中国の任光の二胡曲「彩雲追月」。古賀政男が歌詞のないこの唄のメロディーもとにして日本の歌にしたもの。中国では授業終了の合図に流している。

496 :
(二)
 椰子の葉かげに 真赤な夕陽が
くるくるくると
 まわるよ赤い ひまわりの花
たのしい歌に ほほえむ風情
 心はおどる お嫁入り
『おみやげはなあに』『籠のオーム』
 言葉もたったひとつ いついつまでも

(三)
  小川のほとり お馬をとめて
 さらさらさらと
 流れにうつす 花嫁すがた
 こぼれる花の 花かんざしに
 にっこり笑う お月さま
 『おみやげはなあに』『籠のオーム』
  言葉もたったひとつ いついつまでも

497 :
古賀政男の編曲曲としてはほかに

会津磐梯山  (日本民謡、佐藤惣之助作詞)
アリランの唄 (朝鮮民謡、佐藤惣之助作詞)
        日本におけるアリランが歌になった最初の曲とされる。
のぞかれた花嫁(アメリカ民謡、サトウハチロ―作詞)
荒城の月   (土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲、無伴奏)
などがある。

498 :
>>491
参考
お山の杉の子
1944年(昭和19年)、少国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第1位入賞歌であった。
当初は、戦死した父を持つ子どもを励ます歌であった。 1944年(昭和19年)12月に、ニッチクレコード(コロムビアレコード)から発売され、作詞は吉田テフ子、作曲は佐々木すぐる。

 歌は安西愛子、加賀美一郎、寿永恵美子。 1944年(昭和19年)11月6日に国民合唱で、東京放送合唱団と東京放送児童合唱団によって行¬われた。

 終戦後、内容に戦時色があったので、放送やレコードの販売が禁止になり、この歌をもう¬一度復活させようと、サトウハチローが改作した。

499 :
(参考)
CD 李香蘭(山口淑子)全曲集
李香蘭 形式: CD 2006/3/22 日本コロムビア 1CD
1. 紅い睡蓮
2. 夜霧の馬車
3. 迎春花
4. 私の鶯
5. 北京の子守唄
6. 月下の胡弓
7. 春鶯曲
8. 何日君再来
9. 蘇州夜曲
10. 蘇州の夜
11. 夜来香
12. 海燕
13. 売糖歌
14. 浜辺の歌
15. 宵待草
16. 荒城の月
17. 花はなんの花
18. 珊瑚礁の彼方
19. ロンドンデリーの歌
20. ふるさとのない女
21. 黒い百合
22. 七人の侍

団塊の世代に贈る、思い出の曲特集盤。本作は李香蘭(山口淑子)の全曲集。「紅い睡蓮」「夜霧の馬車」「北京の子守唄」「迎春花」他、全22曲を収録。
とにかく全部が良い曲です。
「赤い睡蓮」「夜霧の馬車」「蘇州夜曲」「夜来香」は言わずもがな、李香蘭の歌う「宵待草」や「荒城の月」といった抒情歌も極めて良いです。歌とはこういうものなのだという感動が湧きおこってくるのです。
映画のテーマ曲である「七人の侍」もすこぶる良いです。

15. 宵待草 ,16. 荒城の月 は、古賀政男編曲になるもの。

500 :
李香蘭は、デビュー時から古賀政男とは縁がある。彼女の作品29曲のうち13曲が古賀作品。彼女のデビュー映画「蜜月快車」の主題歌「二人は若い」は古賀政男作曲。

二人ともテイチク所属だった頃は、「さらば上海」「影を慕いて」(満州語版・支那語版)を吹き込んでいるわけだから、デビュー時から古賀政男と縁がある。

古賀政男は「熱砂の誓ひ」のロケにも同行。李香蘭の事を「蘭ちゃん」と呼んだ。昭和15年、古賀のコロムビア移籍当初は古賀政男とコンビを組むことが多かった。

特に「夜霧の馬車」は西條八十・古賀政男・李香蘭が古賀邸に集まり、曲想を豊かにする為に、コーヒーやブランデーを飲みながら、3人で協力しながら作られた曲と言われる。

501 :
李香蘭こと山口淑子(以降は「李香蘭」で表記)がうたう戦前流行歌の中で、『夜霧の馬車』はとりわけ哀愁味のある歌である。昭和16年7月コロムビア新譜で、作詩は西條八十、作曲は古賀政男。編曲者の記載はない。

ある日の夜、古賀政男邸の応接間で、詩人の西條八十と古賀が一緒に作ったものだという。そこには李香蘭もいて、作曲者のギターに合わせて作詩者が詩を綴ると、そばにいた李香蘭が詩を口ずさむといった、和やかなムードの中で出来上がった曲だそうである 。

502 :
かた思い

 昭和7年(1932)6月 (コロムビア51519)
 詩、浜田広介 曲、古賀政男 歌、関 種子

1.ハアー
  山は山晴れ
  野は野で晴れた
  鳴くぞ ポーポーと
  山鳩が

2.ハアー
  ないて鳴かれて
  め鳩に お鳩
  飛ぶぞ 並んで
  ぱさぱさと

3.ハアー
  さても わたしは
  あの娘を すいた
  すいて逢わなきゃ
  かた思い

4.アー
  浜のあわびの
  とどかぬ思い
  野良は晴れても
  気はふさぐ

古賀政男、最初期の名曲の一つ。昭和6年(1931)6月 古賀正男作曲、佐藤千夜子歌(ビクタ−19316)片想い

503 :
>>502
訂正
4.ハアー

「文のかおり」をはじめ、古賀正夫時代、佐藤千夜子によってビクタ―で吹き込まれた7曲のうちのひとつ「片想い」。

佐藤によって昭和4年12月に吹き込まれ昭和6年6月発売、昭和7年に、「かた思い」として関種子によってコロムビアで再吹込みされた。

80年をこえる時代を超えて新鮮な民謡風、童謡風の抒情歌曲、関種子の歌う素晴らしい佳曲。

504 :
テレビで今年亡くなった有名人を報じている。なかでも李香蘭は忘れてはならない人でしょう。

李香蘭は単なる美貌のスター歌手というだけでなく、あまり知られていないが、本格的に幼時から声楽を学んだ本格的歌手でもある。

特に、ぜひ聞いてほしいのは李香蘭の歌う「荒城の月」だろう。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、
中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。
マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。
ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。


また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。(COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭 )

505 :
☆古賀政男と人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、藤原義江、三浦環
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、長谷川一男、山口淑子(李香蘭)、森繁久弥

506 :
古賀政男「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔らの写真があります。

507 :
訂正

古賀政男著「我が心の歌」(展望社1965)(全国書誌番号65002736)

復刻版も出ている。

508 :
新装増補版

古賀政男著「自伝 わが心の歌」(展望社2001.4)Amazon

509 :
丘を越えて


  作詞:島田芳文
  作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


  丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。

510 :
NHKは歌手をオーディションによって、出演できるできないを明確に決めていた、そして70年代から藤山一郎審査員の一人でした。藤山一郎は昭和29年にレコード専属をやめてNHK嘱託となっていた。

ある女性歌手は、審査委員長だった藤山一郎の前で「丘を越えて」を変拍子で歌ったことから逆鱗に触れて、NHK出入り禁止となった。


審査の際にアルバムに入っていた『丘を越えて』のカバー曲を歌ったのですが、これが藤山一郎の逆鱗に触れてしまったのです。
『丘をこえて』のオリジナル歌手・藤山一郎で、自由に崩して歌う歌唱法で歌ったことに激怒して、「この曲は健全な曲だ、お前の歌い方はその印象を著しく汚す!」と、その場で正しい歌い方の指導までしたそうです。

511 :
丘を越えて

作詞:島田芳文、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎
昭和6年12月 コロムビア



1 丘を越えて行こうよ
  真澄の空は 朗らかに晴れて
  楽しい心
  鳴るは胸の血潮よ
  讃えよ わが青春(はる)を
  いざゆけ 遙か希望の丘を越えて

2 丘を越えて行こうよ
  小春の空は 麗(うら)らかに澄みて
  嬉しい心
  湧くは胸の泉よ
  讃えよ わが青春(はる)を
  いざ聞け 遠く希望の鐘は鳴るよ

512 :
影を慕いて
 詩・曲 古賀政男


まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く

昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。

513 :
東京大衆歌謡楽団
h ttp://tpmb.jp/
 h ttp://chesterfield-records.com/release/ttkg/


今、日本人として唄わなければならない歌がある。

 昭和歌謡はメロディにやすらぎがあった。
 歌詞に心があった。
 昭和の時代には夢があった。
 希望があった。

 古き良き日本の時代、古賀メロディー等を唄う。

514 :
コガ・ミュージアムコンサート
東京大衆歌謡楽団 永遠の古賀メロディー コンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
昭和生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら
古賀メロディーの世界をお楽しみください。

古賀政男音楽博物館けやきホール>>329
東京都渋谷区上原3−6−12
小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅前
 TEl.03-3460-9051

2015年5月30日(土)14:00〜
指定席制 料金 2000円

515 :
人は古賀政男を大作曲家、歌謡会の帝王と呼んだ。五千曲に及ぶ作曲生活の中で数多い名曲、ヒット曲を生み、それが築いた富は数十億円とも言われている。

広大な邸宅に住み、晩年に到るまで名声と富に囲まれて暮らしていた古賀政男。

死後は国民栄誉賞に輝き、彼が生んだ古賀メロディ―は今後とも日本人の心の
中に生き続けるだろう。― 人間として、作曲家として文句のつけようもない生涯であったと誰しもが考える。

だが、この華やかさとはうらはらに、古賀政男は心を許した親しいものに、
「僕はさびしいのよ」と。よく打ちあけたことは知られている。
少年時代から死ぬまで古賀政男にとって、確かなものは、音楽への情熱しかなかった。

その心を歌に託せば“哀しみ”と“寂しさ”になり、人々の心をうつのだろう。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ わが想い

古賀政男を作曲家としてスタートさせた処女作『影を慕いて』のあの“哀しみ”と“寂しさ”。

そして晩年に到るまで古賀政男の心に宿り、いつの時代の作曲活動にも活力となった“寂しさ”と“哀しみ″とはなんだっただろうか。

ー流転の旅,第一部 人間古賀政男、その青春(昭和の日本の心 古賀政男 わが歌は永遠に 平凡出版1978)ー

516 :
貧困の中での生い立ち、父の死、母と兄の確執、自殺未遂・・
暗い青春にある日突然おとずれた栄光、古賀作品の本質と、彼の青春は深くかかわりあっているのだ。(同)


「古賀メロディー」の底流に一貫して流れる“寂しさ”と“哀しみ″・・

古賀メロディーとは、《影を慕いて》に始まる人生・青春(の苦悩)をテーマとした素晴らしい「青春歌謡」の原型ともいえる。

「古賀メロディー」は、その心にしみる優しい“メロディ―”に《青春の息吹》(いぶき)を載せたもの。

この時代を超えた永遠のテーマであるからこそ、いつまでも色あせない新鮮さ!。

517 :
>>4
市販盤では既出の「ひろしまの母(島倉千代子)」ですが
委託盤を含めると「川崎大師讃歌(近江俊郎)」です。

518 :
>>517
ありがとう。川崎大師讃歌は、初詣の京急川崎大師駅の電車接近メロディにもつかわれてるようですね。

519 :
川崎大師境内に立派な銅像で「古賀政男先生像」(1984建立)があります。

520 :
古賀政男の単音符の使い方は、バッハの影響が出ている様に
思います。

521 :
今朝、4月12日のNHKニュースによると、戦時中戦地を慰問した李香蘭の歌で、レコード会社が、涙とか哀しみとか戦争にふさわしくないとして発売を自粛したと思われる未発表のレコード二曲が見つかったという。

大木敦夫作詞、古賀政男作曲で
 月のしずく
 雲のふるさと

今月4月29日発売の「李香蘭の世界」として発売されるという。

522 :
李香蘭 未発表曲2曲発見
デイリースポーツ2015年4月12日


未発表曲が発見された李香蘭
拡大写真はこちら
 女優、歌手として国際的に活躍し、昨年9月に死去した元参院議員の山口淑子さんの未発表曲2曲が収録されたレコードが発見されたことが11日、分かった。
「李香蘭(りこうらん)」の名で活躍していた第2次世界大戦中に、東京都内で録音された音源で、日本コロムビアが29日に発売するCD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収録される。

 見つかったのは、いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」。
同社の記録によると、1944年11月に都内のスタジオで録音されたテスト盤という。「古賀政男音楽博物館」(東京都渋谷区)が保管していた古賀の遺品から見つかり、今年1月、山口さんが李香蘭時代に歌った音源であることを同社が確認した。

 日本コロムビアの担当者は「戦時中にはそぐわない歌詞として、発売を自粛したか、国や軍部に止められた可能性もある」と推測している。

523 :
2015年4月12日放送 7:00 - 7:45 NHK総合
NHKニュース おはよう日本 (ニュース )

戦時中、日本人であることを伏せて、李香蘭の名前で女優として活躍し、去年亡くなった山口淑子さんの未発表の歌が見つかった。
見つかったのは「月のしずく」と「雲のふるさと」の2曲。雲のふるさとには、戦地へ赴き涙ぐむ兵士の姿が描かれている。この歌は今月発売されるCDに収録される予定。

524 :
04/12 07:11  NHK総合 【おはよう日本】
“李香蘭”未発表の歌・2曲見つかる

戦時中日本人であることを伏せて李香蘭の名前で女優として活躍し去年亡くなった山口淑子が、戦時中に録音したとみられる未発表の歌2曲(「月のしずく」「雲のふるさと」)があることがわかった。
戦地に赴いた兵士の涙を描いたとみられる歌詞もあり、レコード会社は“戦時中にはそぐわない”として発売を自粛した可能性もあるとしている。
古賀政男音楽文化振興財団に言及。
この歌は今月29日に発売されるCDに収録されるという。
日本コロムビア・男性のコメント。
♪未発表の歌「月のしずく」、「雲のふるさと」/山口淑子(作詞・大木惇夫、作曲・古賀政男)。

525 :
>日本コロムビアが29日に発売するCD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収録される。>>522-544,>>499(参考)

未発表音源2曲を含む、激動の昭和を生きた「李香蘭」の魅力を凝縮したアルバム!

戦前の中国で生まれ、激動の昭和を生きた伝説のスター、李香蘭こと山口 淑子。

その波乱万丈の生涯は1989年、2007年と2回ドラマ化、2000年からは劇団四季でミュージカル化され大ヒットを記録しました。
本作品では、代表曲、貴重音源を集大成、さらに昭和19年に録音され、未発売となっていた『雲のふるさと』、『月のしずく』の2曲を加えた永久保存盤です。また李海燕と共演の「迎春花」など貴重音源も特別に収録します。
女優、歌手として日本、香港、ハリウッドでも成功を修めた、李香蘭 - 山口淑子の魅力をご堪能いただける作品です! 。

http://www.billboard-japan.com/goods/detail/486360

526 :
李香蘭、戦時中に録音した未発表曲みつかる 日本での最後の録音曲
2015年4月13日 23時7分
ミュージックヴォイス

http://news.livedoor.com/article/detail/10002621/

527 :
>>526
http://www.sankei.com/photo/story/news/150411/sty1504110016-n1.html

528 :
【話題沸騰中】戦中は女優・歌手 #李香蘭 として国際的に活躍、昨年9月に死去した元参院議員の #山口淑子 さん。
戦時中の1944年、李香蘭時代に録音されたとされる2曲の未発表音源が発掘されました。
「雲のふるさと」「月のしづく」はいずれも作詞・大木惇夫さん、作曲は古賀政男さんが手がけた作品で、古賀政男さんの遺品より発見されました。

未発表となった理由は不明。
ただし「雲のふるさと」については"作詩不良の為発売不能"と書かれていたそうです。
戦地へ赴く兵士の思いを歌う『故しらず 涙落つるを』
発売自粛?国や軍部に止められた?様々な推測がなされていますが、今この時代に奇跡的に復活を遂げたこの楽曲に、何か意味やメッセージを感じてなりません。

専門家も「奇跡的だ」と評する、戦後70年を経て発見された戦時歌謡。
昨日は朝日新聞夕刊・読売新聞夕刊とピックアップされ、Amazonでは歌謡曲チャート1位を獲得、その反響はとどまることなく日本中に拡がっています。
====================
Amazonヒットチャート急上昇!!
4/29(水)発売『伝説の歌姫・李香蘭の世界』
http://amzn.to/1akr8CK
====================

時を超えて蘇る伝説の歌姫、幻の二曲。
皆さん是非ともご注目くださいませ。
--
[NHK News] http://bit.ly/1I4pXmu
[Huff Post] http://huff.to/1yn3lxz
[日本経済新聞] http://s.nikkei.com/1I4pUHd
[朝日新聞デジタル] http://bit.ly/1FA1kvg
[Columbia Official Page] http://bit.ly/1aUUHfo

529 :
(参考)>>517-519
 http://muiantaroh.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-df47.html

530 :
李香蘭の未発表曲2音源発見 古賀政男作曲、漂う厭戦感
米原範彦
朝日新聞デジタル2015年4月11日15時18分


写真・図版
兵庫・西宮で開催された「大東亜建設博覧会」で「父よあなたは強かった」を歌う李香蘭時代の山口淑子さん。この催しについては1939年4月13日付大阪朝日新聞朝刊で「素晴らしい満映の花 唄のうまい李香蘭」などと報じられた


 戦中は時代の波に左右された俳優・歌手、戦後は政治家としても活躍した山口淑子(よしこ)さん(1920〜2014)が戦時中の1944年、李香蘭(りこうらん)時代に録音したとみられる2曲の未発表音源が見つかった。
「雲のふるさと」「月のしづく」で、いずれも作詩は大木惇夫(あつお)、作曲は昭和を代表する作曲家の古賀政男。発売されなかった理由は不明だが、戦後70年を経て埋もれていた戦時歌謡が発見され、専門家は「奇跡的だ」と評価する。

山口淑子さん死去(2014/9/14)
特集:山口淑子さん

 山口さんが昨年9月に亡くなったのを受け、日本コロムビア社が音源を調査。古賀政男音楽文化振興財団(東京都渋谷区)が所有する古賀の遺品のSP盤を整理する過程で、確認した。

 SP試聴盤の裏表に1曲ずつ収録されていた。盤中央には、各曲名と「李香蘭」の文字が書かれている。
包装紙には「未発表」「S19」などの文字が見える。

531 :
>>513-514

5月30日(土) 満席となりました!「永遠の古賀メロディー」コンサート


皆様、こんにちは!東京大衆歌謡楽団事務局です。

5月30日(土)に古賀政男音楽博物館[コガ・ミュージアム] けやきホールで行われる「永遠の古賀メロディー」コンサート は、満席となりましたので
予約受付を締め切らせていただきました。

たくさんのご予約、お問合せをいただき誠にありがとうございます。(HP
より)

532 :
歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
 販売価格: ¥3,240
予約受付中
 CD2枚組 E6378 COCP-39074
 2015年04月29日発売

533 :
>>487-493
古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その五「勝利の日まで」。−ブログ高知

「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。(コメント)・・

http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_6c1b.html

534 :
酒は涙か溜息か

作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
昭和6年9月

1 酒は涙か溜息か
  心のうさの捨てどころ

2 遠いえにしのかの人に
  夜毎の夢の切なさよ

3 酒は涙か溜息か
  かなしい恋の捨てどころ

4 忘れた筈のかの人に
  のこる心をなんとしょう

これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた。

同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。


満州事変の勃発と東北大凶作、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。

このあたり、「写真・昭和三十年史」(毎日新聞社1951)に詳しい。

535 :
歌手「藤山一郎」というのは、この「酒は涙か溜息か」(1931.9)を吹き込むためであった。

なお、正確にはその前に「キャンプ小唄」(同、1931.6)があるが。

536 :
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発。」


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
  岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
  など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


 この若き「藤山一郎」の歌う怒涛の如き「古賀メロディ」の青春の息吹。


 「酒は涙か溜息か」(1931.9)に続く、藤山一郎の「丘を越えて」(1931.12),「影を慕いて」〈1932.3)、

  人は敬意を表して「古賀メロディ」と呼んだ。

そして、「晋平節」にかわり「古賀メロディ」が主流になって定着していく。


 (参 考)
 毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

 「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真。

537 :
長いし悪文で迷惑なんですが笑

538 :
60年を越える昭和の歴史、その歴史の中の古賀メロディ、ずしんとした重みを感じないわけにはいかない!。

539 :
日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


 宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

 詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

  そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

 大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)。

これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。

540 :
☆戦前の流行歌〈1928-1943〉


http://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt

541 :
☆戦前の流行歌〈1928−1943〉

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt

542 :
古賀政男生誕何年だか忘れた

543 :
>>542
そういえば今月の2日で生誕111周年目だったんだ…

544 :
あ、間違えた

2日ではなく18日だった

545 :
もうそんなになるのね。
今も生きてても、作曲は無理だわな。
古賀メロディも遠くなりにけり。

546 :
古賀政男生誕111周年記念カキコ

547 :
新妻鏡をレンタルしようと思ったらオリジナル盤がないのですが
下記の誰がお勧めですか?
石川さゆり、大川栄策、島倉千代子、細川たかし、美空ひばり、都はるみ、八代亜紀

548 :
二葉あき子と霧島昇一択

549 :
ヤフオクに、楠木繁夫が歌った「白い椿の唄」の作曲者が清水保夫になっているSPが出品されていた
誤ってB面の作曲者と同一にしてしまったのだね

550 :
〉〉346
オリジナルに勝るものなし!

551 :
夫婦の歌だからデュエットがいいと思うが
後年のステレオ再録音では霧島盤ですら単独歌唱なのはなぜだろう
カバーは一通り聴いたがやはり新妻感のある島倉盤が抜きん出ている

552 :
新妻鏡のB面が目ン無い千鳥ですね

553 :
戦後版映画新妻鏡に古賀さん本人が出演したらしいけど見たことある人いるかな

554 :
東京大衆歌謡楽団が最高

555 :
>>553
近江俊郎が監督のドライ夫人と亭主関白という映画に
古賀政男が出演しているのは見た

556 :
>>555
近江俊郎監督ってのが何とも。新東宝だろう

557 :
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

558 :
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
 Thepleiadian2012

 2014/06/01 に公開 You Tube
 (上の表題で検索のこと)


 美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
 (TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)

559 :
【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
 .

 Himatsubushi Channel

 2015/01/10 に公開 You Tube
 (上の表題で検索のこと)



 美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男さんや、作詞家の佐藤惣之助さん、
 歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。

 ※曲は省略していますm(__)m

 美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より

560 :
作曲家・古賀政男 You Tube

 dummy

 2015/10/14 に公開







 作曲家・古賀政男 You Tube

 ・・で検索(コピーして貼り付け)してください。

561 :
古賀政男先生とはまったく無関係に、福岡県大川市の歴史を調べていたら、
大川市兼木(三丸)に、昭和5年に健立された古賀家の墓碑があり、
この祖先は。ここからすぐ近くの現在、田口小学校(古賀先生の母校でもある)
に室町時代からの名門、西田口城城主田口刑部、この地にその居城があった。
元々福岡には「古賀姓」がやたら多いが、祖先の墓標や、その居城跡から数十メートル
程度に生家のある古賀政男先生との関係は、かなりおおきな興味を感じさせる。

「天正五、六年から七、八年(1577〜1580)にかけて龍造寺隆信の筑後侵入に刑部の
子孫は、ひとたまりもなく滅亡したのであろう。…
西田口城が滅びた後、田口氏の一族は退いて西田口南方に隠遁し、やがて古賀姓を名のって
土民化していったであろう…」
「大川風土記/西田口城跡考-石橋兎三郎」(昭和57年)_より

562 :
貴重な資料ありがとう。

563 :
古賀政男との思い出〜りんどう峠(島倉千代子)
 .

 2015/09/25 に公開 You Tube

 (この表題で検索のこと)




 昭和54年 古賀政男追悼3時間ドラマ

  渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』 (前編・後編)

       (1979年4月14日、NHK総合TV)

 でのインタビューです。

564 :
1月25日、今夜のNHKTVニュースによると、昨年亡くなった[原節子]の出演映画の一つ、昭和11年  渡辺邦男監督 日活映画「検事とその妹」のワンシーンが修復に成功し、10秒間ほどが公開となり放影された。

 スチールはあったが、10秒とはいえ貴重である。

なお、この主題歌が「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)である。

565 :
>>564
NHK 2016年(平成28年)1月25日[月曜日]

 「伝説の女優」原節子さん幻の映画一部復元

 原節子 永遠に美しく



 「伝説の女優」と呼ばれ、去年9月に95歳で亡くなった原節子さんが16歳の時に出演した映画のフィルムが残されていたことが分かり、劣化したフィルムから一部の映像が復元されました。
専門家は「原さんの初期の映画は失われたものが多く、復元できたことは意義がある」と話しています。

 このフィルムは去年9月、95歳で亡くなった原節子さんが昭和12年、16歳の時に出演した映画「検事とその妹」です。

 これまで神戸市の資料館に保管されていましたが、フィルムの劣化が激しく内容が分からない状態となっていました。
このほどNHKなどが最新のデジタル技術を用いて修復したところ、およそ10秒間のシーンを復元することに成功しました。

 映画「検事とその妹」は、検事になった兄と原さん演じる妹のきずなを描いた作品です。
復元された映像は、裁判所の傍聴席とみられる場所を映した場面で、カメラが移動すると原さんが着物姿で前を見つめながら座る姿が映し出されます。

 原さんは、このあと出演した別の映画をきっかけに大スターとなりましたが、それ以前のフィルムは多くが失われているということで、映画評論家の佐藤忠男さんは「ただきれいなだけでなく非常にそうめいな昭和初期の良家のお嬢さんという感じがよく出ていると思う。
ワンカットだけでも復元できたことは意義がある」と話しています。

566 :
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌


 h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

567 :
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌


 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

568 :
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

569 :
>>561
>かなりおおきな興味を感じさせる。
そうかなー

570 :
委託盤など含めた全曲が把握されてるの?

571 :
されているかもよ

572 :
「影を慕いて」
古賀先生が歌うのを聴いて好きになりました。

573 :
意味不明

574 :
古賀政男のドキュメンタリードラマ『幾山河は越えたれど』(1979)は早坂暁&たなべまもる共同脚本。
矢野顕子が「丘を越えて」を演奏する傍らで、渥美清がコワい顔で眺めているのが可笑しかったです(^^) 

575 :
渥美清が結構古賀政男に似てて、面白かった。
寅さん臭さも多少残ってはいたが。

576 :
去年CSで放送した映画日本よいとこに古賀政男が出演してた

577 :
懐メロのように感動的にお金持ちになれるのはなぜ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

DHAGU

578 :
DHAGU

579 :2020/05/11
朝のテレビ小説『エール』に
若き日の古賀政男のモデルが出てるよね

【アシタ】キンモクセイpart42【東京タワ〜♪】
ヤマハポプコンでも語りましょう★2
一風堂
フェアチャイルド
【日本語劣化】飯島真理144【英語カタコト】
辛島美登里 vol.9
【ソプラノ】薬師丸ひろ子を歌手として語る31【ソプラノ】
織田哲郎楽曲
【ピンキラ】ピンキーとキラーズ【ニューキラーズ】
【想い出が】H2O【いっぱい】
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【血液】健康診断・人間ドック【尿検査】2
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電通社員のコロナ感染はすぐ検査 庶民がPCR検査を拒否され続けてる中、上級国民は別なのか?の声
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