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明治維新の時に山本五十六がいたら
次の紙幣の肖像画を予想するスレ 其の弐

永田鉄山


1 :2014/10/20 〜 最終レス :2020/06/18
語れや

2 :
対支一撃論

3 :
生きていれば太平洋戦争は無かったって本当かねえ。

4 :
井上寿一の『危機のなかの協調外交』を読めば、
昭和九年〜10年の時点の日本の外交にとって、
永田の存在がいかに重要だったかが分かるよ。

5 :
森靖夫と川田稔で永田の評価がまったく違うな

6 :
>>3
東条の上位互換に過ぎない。総力戦体制の推進者であり、それに反対する世論を
「小児病」とよぶなどタチの悪さでは東条以上というべきだろう。

7 :
秦郁彦は「所詮は永田も一官僚の域を脱し得なかった」
と言っている。妥当な所じゃないの。

8 :
>>6
>総力戦体制の推進者であり、それに反対する世論を「小児病」とよぶなど

荒木貞夫が昭和8年ころに吹聴していた「竹槍三百万あれば列強恐るるに足らず」なんて発言は
小児病と表現する以外にどう呼んだらいいんだ?

竹槍三百万論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E4%B8%89%E7%99%BE%E4%B8%87%E8%AB%96

永田が批判した「小児病的」という態度は、近代的な軍備が無ければ列強と事を構えてはいけないという
総力戦体制を見据えた軍事的思考に対して、「竹やりと大和魂さえあれば大丈夫!」とか言ってのける
アホどものことを念頭において捉えるべきだろ。


「永田は一九三三(昭和八)年十月の書簡において、「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、
青龍刀式頭脳、まだ残っていること、及び過度に日本人の国民性を自負する錯誤に陥っている者の
多いことが危険なり」として、「邦貧乏にして思う丈のことが出来ず、理想の改造の出来ないのが
欧米と日本との国状の差中最大なるものなるべし、此の欠陥を糊塗するため粉飾する為に、まけ
惜しみの抽象文句を列べて気勢をつけるは止むを得ぬ事ながら之を実際の事と思い誤るが如きは
大いに注意を要す」と述べていた。
皇道派に対する根本的な批判であった。 」
北岡伸一 『官僚制としての日本陸軍』(p84)

9 :
>>7
坂野潤治も明治の指導者に比べればやはり国際的視野は狭いって言ってた

10 :
>>7
>>9

ちゃんと出典をかけてほしい。
なんて本の何ページ目の記述?

11 :
>>10
ちょうど引用しているブログを見つけた

永田鉄山だ、東条英機だ、石原莞爾だってみんな過大評価しすぎだと思う。(略)それ以前の陸軍のリーダーから比べたら、状況認識も政治力もガタッと落ちているんだ。在野的勢力になれば、世界認識も狂うし、局部的になってしまうのも当然。(略)
山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・宇垣一成あたりまでは保持されていたエリートとしての国際認識と冷徹さみたいなものが、陸海軍から失われてしまった。と同時に、日露戦争以後の中国の満州権益奪回熱に対する警戒心というものも、日本のエリートからなくなっていく。
http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20140919

12 :
>>11
なんだ、ただの事実誤認じゃん。
東条はともかく、永田も石原も「陸軍のリーダー」なんかになったことは無いよ。

永田は生前の最終階級は少将で、閲歴も軍務局長どまり。
石原も最終階級は中将どまりで、一番出世しても参謀本部の作戦部長どまり。

比べるんだったら、山縣は別格にしろ、桂や寺内や田中や宇垣が軍務局長や作戦部長だったときの
状況認識や国際認識と比べるべきだろ。

13 :
>>12
比べるとどう見ても石原・永田側が劣るわけだが

14 :
>>13
寺内正毅はシベリア出兵を決断したときの陸相だし、田中義一はその下で、シベリア出兵を強硬に主張した人物だよ。
軍事費九億円を投じて4年間も兵を駐屯させ、国際的な不信を被った挙句に尼港事件で陸軍の威信を失墜させたのがシベリア出兵だ。

日露戦争での全経費が18億円ぐらいだから、その半分ぐらいの金がかかってるけど、この軍事行動のどこに国際認識だか政治力だからあったってんだ?


それから、軍事課長だったころの宇垣は「軍部大臣武官制」を強硬に主張して怪文書をばら蒔いたりして左遷されている。
自分が強硬に主張していた軍部大臣武官制でその後に首相になれずに足元をすくわれてしまうような見識の足りなさを露呈してるのに、
こうした若手時代の彼らの判断のどこを評価すれば「国際認識」だの「状況認識」だのを揚言できるっていうのかな?

15 :
永田鉄山コウッ!

16 :
鉄山の親に何故鉄山と名付けたのかとひたひ

17 :
>>14
現役武官制がなくても永田の作った下克上式中堅支配によって宇垣はブロックされるわけだが?
宇垣が断念したのは宮中情勢の決定打となったわけだし。

18 :
>>17
下剋上を始めたのは満州事変を起こした板垣征四郎や石原莞爾だよ?

そしてその下剋上気質が陸軍の中に広まってしまった原因は、
石原たちを処罰できなかった南次郎をはじめとした陸軍中枢の弱気な態度であり、
その南の後を受けて陸相の座についた荒木貞夫による皇道派人事と、
それによって引き起こされた青年将校におもねった陸軍中枢の派閥意識だ。

下剋上を永田が作ったなんてのは言いがかりでしかないよ。

19 :
>>18
しかしその板垣や石原を組織していたのが永田でした。

20 :
>>19
一夕会というのはただの親睦会・研究会のような団体であり、頭首の下に参集して
部下がその指示のもとに動く、みたいな組織ではありませんよ?

もうすこし史実を勉強してから出直してきなさい。

21 :
>>20
いや二葉会時代から。さらに遡ってバーデンバーデンの誓いの頃から陸軍支配を狙っていたよ。
反藩閥で東条を味方につけたり中国進出で支那通を煽ってグループを形成。
そして人事制度を研究して中堅支配体制を築いた。

22 :
>>21
なんというか、陰謀論に凝り固まったネトウヨみたいな論調だね。

>遡ってバーデンバーデンの誓いの頃から陸軍支配を狙っていた

単に、戦争の大規模化が進んで総力戦という新しい概念が誕生した現実を見据えて、
陸軍の改革と近代化を実現する方法を検討したってだけ。

そのために、無能な人間でも要職に就けるような人事体制を改善せねばってだけ。

そしてその狙いは、バーデンバーデンの後に形成され始めた宇垣閥が、
学閥化=非長州閥化を果たしつつある中で徐々に達成されつつあった。

下剋上なんてことをしなくとも、永田は軍事課長に就任する前の時点でも周囲から
「将来の陸軍大臣候補」って目されていたのだから、宇垣閥の末席に座っているだけで
何ら問題は無かったろうさ。

むしろ青年将校を抱き込むことで政治力を拡大し、宇垣閥を打倒して陸軍を支配しようと
目論んでいたのは荒木や真崎らの行動はグループだろ。

>中国進出で支那通を煽ってグループを形成

逆だよ。
支那通の方が、実力を持っていた連中にすり寄ることで自分たちの政治的野心や
謀略をやりやすくしたいと思っていただけだろ。

>人事制度を研究して中堅支配体制を築いた。

不勉強なのもいいとこ。
陸軍っていうのは軍事組織なんだから、上官の支持命令が強い力を持つ以上、
中堅がどう頑張ったって上がしっかりしている限りは支配することなんてできゃしないよ。

下剋上という現象が起こったのは、あくまで上に立つ陸相や参謀総長が何もできない
無能な人間であった時に下を統制する力が弱まったからだ。

南次郎とか、荒木貞夫とか、川島義之とか。
こういう人間が下の人間の暴走を抑え力を持っていなかったり、自身の権力維持のために
そうした暴走を煽ったりしたことが、下剋上の気風が醸成された一番の原因だ。

23 :
>>22
なんか親父がしっかりしていなかったから息子が不良になって犯罪犯したみたいな論理だな
そういう理屈はネットでほえるのはかまわんが社会に出たら馬鹿の一言で一喝されるよ?

24 :
>>23
軍事組織と一般家庭の親子関係とを同一線上で並べているあたり、
知恵足らずな人だなぁ、という印象しか持てませんな。

マトモな反論を提示できないんだったら引っ込んでな。

25 :
>>24
組織論じゃなくて責任論の話ですよ
ニートでいると頭もにぶくなるんだね

26 :
>>25
まったくトンチンカンな返答にしかなっていないことに気が付いていないみたいだね。

いいからまともな反論を返して見せろ。
出来ないんならとっとと失せな。

27 :
またまた永田マンセーさんの御登場!

下克上陸軍を計画して実行していった人物なのに。数々の研究から目を逸らし、空想を見ていては、史実は見えませんよ。

28 :
>>27
>下克上陸軍を計画して実行していった

根拠の薄弱な思い込みの開陳をするのはいいけど、きちんと史料なり論文なりを提示しなけりゃ
説得力は生じないよ?

29 :
>>26
お前こそまともな永田擁護論を返して見せろ
できないんならとっとと失せな

30 :
色々とおかしくなったのは田中義一からだろな。
同族企業(長州藩閥)は三代で滅ぶのいい例。
二枚舌の優柔不断さが関東軍を暴発させたし(張作霖)、最後の鶴の一声であって欲しかった昭和天皇のご聖断をあんなくだらないことで終戦まで引っ込めてしまった。

31 :
>>29
すでにさんざん提示している。
長めの文章を書き込みしているうちの大半は私が書いたものだ。

反永田の立場で書かれた書き込みに、どれだけちゃんとしたものがあるってんだ?
提示してみなよ。

32 :
生きていれば太平洋戦争は無かったというのが出発点なのでしょうが
それ自体が鈴木貞一の言なわけで

永田鉄山の思想や所業や地位や実績の中で、国家戦略を示す優れた内容が何かあったかというと
>>7の結論に至るのは妥当な気がしますがね

33 :
大抵の研究書には永田がグループを形成して陸軍を支配していく過程が史料をもとにかれているわけだが?

そう言えばNスペでも永田の陸軍支配をやってたよね。取材班が研究者のコメントもつけて書籍化しているし。
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』

34 :
永田を神格化することが人生の目標なんでしょその人は

35 :
>>32
>それ自体が鈴木貞一の言なわけで

それを言ってるのは、なにも鈴木貞一だけじゃないんだが。

「以上で察せられることは、永田が政治問題に関心を有した事実であるが、
しかもその政治的意見は、少しも脱線していない。民主主義の政治家が構想
するところと同一の線を歩いている。
 一言にして評すれば、彼は円満なる政治常識をもつ軍人であった。
 この常識があったから、昭和九年末、統制派の中佐級幹事、兵力の威嚇を
用いて軍本意の政権を獲得するという原案を拒否し、「軍の要望は、現憲法
下において陸軍大臣を通してのみ期生する」方針に改めさせたのである。
 そうして革新的要請は、新官僚の協力をまって成案し、陸相をして閣議に
要求させることになったのだ。
 相当に鼻息の荒かった統制派の将校が、永田の方針に文句なく従って固く
一本となったのは、即ち彼の指導力と統制力を照明するものであって、残る
問題は、いかなる「革新政策」を 作成要求するかの一点にあった。
(中略)
 不幸にして永田はこのテストの日まで生きなかったのである。幹事達が
作った暴力案を陸相一本主義に修正し、これから政策の作製指導というとこ
ろで殺害の悲運に会ったのである。だから永田が生きていたら軍はどうなっ
たかの問題は、すべて想像ではあるが、しかし彼の知力と統制力とは、軍を
立派に建て直したろうというのが衆評の一致するところだ。」

(伊藤正徳「「永田がいたら」の声」『軍閥興亡史 2昭和軍閥の形成まで』)


>永田鉄山の思想や所業や地位や実績の中で、国家戦略を示す優れた内容が何かあったか

無軌道な下剋上の風潮を抑制して、軍事組織にとって絶対的に必要な規律の
回復を図ったこと、つまり「統制の回復」に努めたこと、だろうね。

永田は、総力戦という新しい戦争形態を認識して、軍の近代化を実現しなければ
ならないという認識に立ち、その為には国家運営の仕方を現状から改めなければ
ならないという結論に立ち至った。

そうした認識に立った時、内閣と連携した陸軍中央の統制を無視してわがまま
勝手に現地軍が暴走するような事態を抑え込む必要がある。
また、自分の派閥に属する人間だからというだけの理由で無能な人間を軍政の
要職に就ける皇道派の人事運営を排して、公正な人事評価を行って有能な人間を
要職に就けるという正統的な人事慣行を回復する必要があった。

こういう理性的・合理的な考えを持っていたのが永田だったってこと。

36 :
>>33
>大抵の研究書には永田がグループを形成して陸軍を支配していく過程が

君の読んでいる「大抵の研究書」ってのが、骨董品みたいな古臭い教条的なもの
ばっかりだってだけじゃね?

最新の研究の動向について来れていない自分の脳みその硬さを何とかした方が
良いと思いますよ。

>そう言えばNスペでも永田の陸軍支配をやってたよね。
>取材班が研究者のコメントもつけて書籍化しているし。
>『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』

ああ、あれは良い番組でしたね。
書籍化したものが手元にありますけど、「番組に協力して頂いた専門家の方」として
森靖夫のインタビューが収録されておりますよ。
その一部を引用しましょう。

 ――それまでも一夕会のような若手の勉強会はあったといわれていますが、具体的
な活動に移ることとは大きな差があると思われます。あの時代の若手将校が具体的な
アクションを起こしたことには、どんな理由があるのでしようか。

森 一夕会という一つの集団が一丸となって満州事変や具体的な事件を起こしたとす
る意見には賛成しかねます。一夕会のなかから出てきた永田鉄山などは、アクション
を起こすうえで、先ほどの「総力戦」の問題を、国民や軍だけではなく、日本の政治
が一丸となつて解決すべきと考えていた。ところが、ほとんど誰もついてこないとい
う状況が変えられない。そこで、石原莞爾や板垣征四郎などは、「われわれがアクシ
ヨンを起こせば国民はついてくる、むしろ引きずつていく」ということで、彼らは行
動を起こしたのです。(p142)


 ――永田鉄山は、関東軍の暴走をどんな気持ちで聞いたと想像されますか。

森 「なぜ、この時期に」という気持ちだったと思いますね。永田自身も満州問題の
軍事的な解決を考えていたといわれています。しかしそれは陸軍だけではできない、
つまり内閣の承認を得てからでないとできないから、準備期間を設け、計画していた
ところだったと思います。それを無理やり引きずってやろうということで、石原が立
ち上がったことは、永田たちの計画をつぶすものであつたことは間違いない。石原た
ちが不穏な動きを見せていたことを、永田はある程度知っていただけに悔やまれたで
しょう。(p152)

37 :
あと、外務省側が永田の行動や思想をどのようなものとみていたのかについて
検討した文章も張り付けておこう。

永田が華北分離工作を推進して中国との戦争へと日本を持って行ったとか世迷言を
抜かすやつがいまだに多いが、歴史学の領域では20年も前に否定されている話だ
ってことが理解できて居ないらしい。。

下記の引用はいずれも、1994年に山川出版社から刊行された井上寿一の著作、
『危機のなかの協調外交-日中戦争に至る対外政策の形成と展開』よりのもの。



第五章 広田外交と政府内諸政治勢力
  一 外務省と陸軍中央

(略)

 以後、広田は提携相手として統制派に接近してゆく。広田は翌年初頭の林(銑十郎)陸相の
登場を歓迎して、原田に「これは極秘だけれども、実は陸軍大臣もだんだん非常によく判って
来てくれて……大体において林陸軍大臣は、非常に常識の発達したいい人だ」と林の印象を
語っている。
 このような広田の統制派=陸軍中央への接近は、外務省の局課長クラスと陸軍中央の
局部長クラスとの実務レベルでの提携を、トップレベルでも支持、確認することを意味した。
西によれば、北満鉄道買収交渉後も満ソ国境画定問題等の対ソ関係の諸問題について、
永田軍務局長などと協議を重ねて、日ソ関係の安定化の必要性について、「軍中央もこれを
だいたい了解」してきたという。対ソ戦を戦略的目標としながらも、戦術的に早期開戦を
不利と判断して、当面緊張緩和を志向する統制派=陸軍中央と、イデオロギー的反ソ反共の
立場から軍事的対決姿勢を崩そうとしない皇道派との二者択一が明らかになった時、広田の
選択は自ずと定まった。広田の林への評価に示されているように、統制派こそ「非常に常識の
発達した」好ましいパートナーだったのである。
 さらに統制派主流の陸軍中央が、少なくとも一時的には対ソ戦のための資源供給地、戦略的
軍事拠点としての満州国支配の確立を最優先させて、対外関係については現状維持を旨として
いたことは、対ソ以外の対外政策の形成においても、外務省の陸軍中央への政治的接近を一層
促進した。特に重要なのは中国政策に関してであるが、この点について守島伍郎アジア局第一
課長は、後年「当時の陸軍々務局……辺りは、満州国建国一本、これに全力をそそぎ、支那
本土では出来得る限り事を起さぬという考方であったように私は見る。従って広田外相の対支
政策には、必ずしも反対はなかったと思ふ」と述べている。
 要するに外務省は、統制派=陸軍中央の軍事戦略構想を、暫定的なものであれ「北守南守」論
として認識し、その限りにおいて中国政策に関しても提携可能と考えるようになったのである。

(略)

いずれにせよここに示されているのは、外務省が認識していたのと大差のない統制派の構想で
あった。そうである以上、こうした構想を抱く統制派が陸軍内派閥抗争に勝利を収めて、政策
形成の中核的地位に上昇してゆくことは、外務省にとって望ましかったのであろう。
 統制派と外務省との接近は、以後明確なものとなつてゆくのである。
 ところで、統制派と外務省とが提携への方向性を見出し、インフォーマルな政策協議の場と
なったのが、矢次一夫や大蔵の国策研究会であった。この国策研究会への永田の関与については
よく知られているが、外務省の側からも関係を深めていた。たとえば国策研究会設立当初の会員
名簿には、大蔵らとともに理事の一人として天羽情報部長、また守島も名を連ねている。
 またこの年末に原田邸で広田の「平和外交論」に接した大蔵は、翌年三月末に、広田に国策
研究会での講演を依頼して、承諾を得ている。大蔵はさらに来栖三郎通商局長や松嶋鹿夫通商局
第一課長にも、加入を求めたが、両名とも引き受けている。
 このように外務省は、実務レベルの関係者を中心として、外相をも含めて、国策研究会を
通じて統制派との提携を模索していた。国策研究会の設立、広田新外相の登場と相前後して
両者は次第に接近しそれに伴って政策距離も縮小して、認識のギヤップも埋められていった
のである。
(p178〜p183)

38 :
 三 広田三原則の形成過程

 華北分離にもかかわらず、広田外交の基本的な枠組は破綻を免れることができたが、それは
日中関係についていえば、蒋政権「親日派」の対日妥協路線が堅持されたからでもあった。
華北の新事態に直面した国民政府は、蒋大使を一時帰国させ、善後策を協議したが、その結果
について、現地で須磨が蒋大使から直接、次のような情報を得ている。すなわち大使が蒋介石に
「日本政府ノ真意ヲ委細報告シタルニ河北問題ニ依リ相当失望シ実ハ今後ノ処置ニ困リタル
蒋介石モ俄然勇気ヲ得タリト語リ日支親善具体方策ニ付帰国後……折衝ヲ開始スへキ旨熱心ニ
申出テ居リタリ」と。

(略)

 一方、日本側ではすでにこの年春に、広田が「外務省と陸軍との対立関係を是正して、その
対支協和外交を平穩裡に遂行するため」の具体策の立案を、東亜局に指示していた。
 東亜局は数ケ月の準備作業を経て、七月二日に試案「対支政策に関する件」を提示した。この
案に対し陸軍はニ〇日に、また海軍は八月三日に、それぞれ修正意見を提出した。外務省は
これらの修正案を勘案の上、五日に再提出し、陸海軍も再度修正を求めて、その結果、広田
三原則の原型が出来上がるのであるが、ここでは以上の過程を外務省試案の起草者東亜局第一
課長守島伍郎の回想と、外務省調書「対支政策決定の経緯」とに依拠して、再構成してみる。

 守島が試案の作成に当たって、外相の意を体したことはいうまでもないが、その際に守島は
広田の構想を次のように理解していた。「日本は南京政府に対し努めて好意的態度を執り、
北支等においてもツマラヌ軍事行動に出ない。他方支那側も……挑発的軍事行動をやめ、国民
一般に広がって居る排日運動を鎮め、日本との親善を計る。満州国に関しては、支那側は暫く
これを不問に付する。かようにして日支両国相互に融和親善を計って行けば、年月を経るに
従って、満州問題に関しても、何等かの形で日支間の妥決の道が開けて来るというのが、
まあ広田さんのヴイジョンであった」(『守島回想』六六頁)。

 つまり満州問題の棚上げと華北の現状維持とを前提とした漸進的関係改善ということであり、
このような基本方針の具体化が、東亜局試案の三原則の特に(一)「支那側に於て排日言動の
徹底的取締を行ふと共に……相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に
努め(経済的文化的方面より着手す)」との一節や、(二)「支那側は少く共接満地域たる北支及
察哈爾地方に於て満州国存在の事実を否認することなく」との一節に表されたのである
(『調書』一〇三頁)。

39 :
 ところでこの私案が提示された時、陸海軍中央は、すでに事実上これを了承していた。
 守島によれば、陸海軍当局との事前協議を重ねる中で、橋本群陸軍省軍事課長や喜多誠一
参謀本部支那課長によく了解され、海軍側には大した異存もなかつたので、「私は気をよくし、
あとは彼等が本省、部に帰つて話をするのに便利なようにと、わざと、説明的文字をつけた」
(『守島回想』八一頁)のであつた。この点については、『調書』においても同様に、陸海軍の
修正案といっても、「根本的に異見を挿むものにあらずして主として表現方法及条項の按排等」に
関するものでしかなかつた、と指摘されている(『調書』一〇ニ頁)。
 守島が「気をよくし」て、外務省試案の線で合意形成がなされると楽観できたのは、一つには
永田の統率下にある陸軍中央への期待があつたからである。守島は永田の対中国戦略を「満州国
建設一本、これに全力をそそぎ、支那本土では出来得る限り事を起さぬ」考え方であったとみて
おり、したがって広田の対中国政策には「必ずしも反対はなかったと思ふ」と述懐している
(『守島回想』六七頁)。

 つまり守島は、永田の対中国限定的勢力拡大路線に外務省の基本方針との一致点を見出し、
これに一定の評価を与えていたのである。このように認識していた以上、華北分離工作に陸軍中央が
直接関与していたかについて、守島は否定的で、「それは恐らくは永田の気持には反するものでは
なかったか」と、同情的な見方をしている(『守島回想』五一頁)。要するに、外務省試案に対して
陸軍中央に強い反対論があったわけではなく、その限りにおいて、広田三原則をめぐる三省間の
意見調整は、比較的容易だったのである。
 困難はむしろ陸軍中央における永田らの局部長、課長クラスと、現地陸軍と強硬論を共有する
その他の中堅層との対立にあつた。守島は橋本や喜多が外務省試案を本省、部に持ち帰ると、
「いろいろ異論が出たらしい」と推測している(『守島回想』八一頁)。

(p202〜p204)

40 :
第六章 広田外交の解体過程
 一 限定的勢力拡大路線の後退

 華北分離工作のインパクトは、広田外交の国内的基盤に大きなダメージを与えたものの、
それによって直ちに崩壊したわけではなかった"広田外交は形勢を立て直して、広田三原則に
よる日中関係改善に進もうとした。その広田三原則の原型である八月五日の守島試案は、その後、
陸海軍からの最終的なチェックを受けて、正式な政府決定となるのを待つばかりになっていた。

 ところが、守島が「ホッとした矢先に」、外務省にとって重大なアクシデントが起こってしまった。
八月一二日、いわゆる相沢事件によって、永田が皇道派の陸軍中佐相沢三郎に斬殺されたのである。
相沢事件は、外交政策の形成に、深刻な影響を及ぼすことになった。事件直後の状況を、守島は
次のように回想している。「私はがっかりした。鈴木貞一に電話をかけて『陸軍の不統一も
甚だしい。駄目ではないか』とナジッたことを、今でもオボエて居る。それから暫くは陸軍との
交通中断のような形であったし、永田局長の後任もなかなか決まらなかった……私は永田の死で
広田三原則は駄目になったのではあるまいかとまで考えた」。守島がこれほどまでに思い詰めたのも、
広田三原則の形成に当たって、陸軍中央における永田の果した役割を高く評価していたからであった。
守島は「外務省でもいろいろ問題があったが、陸軍省ではヨリ以上の困難があったらしい。それを
何とかクグリ抜けて妥決したのは、陸軍では永田の力であった」と、その政治的リーダーシップを
称えて、永田の不慮の早逝を惜しんでいる。

 このような永田に対する評価は、外務省内で一人守島だけのものではなかった。この点に関連
して、東郷が、事件前の永田との折衝の様子をめぐって、興味深い回想を記している。
「対『ソ』温和派であった永田軍務局長と一部対『ソ』強硬論者との対立は激甚を加へ、直接には
別の原因であったが同軍務局長は一九三五年夏陸軍将校の為め暗殺せらるる惨事を見るに至った。
因に右事件の発生前同少将は自分を来訪し、国際局面の安静化を希望する旨を述べ予に努力方を
求むると共に陸軍部内は自身意見の取纏めに尽力する旨を切言したので、右の方針を以て進む
ことに約束し、自分は一週間の休暇を得て軽井沢に赴いたが、忽ちにして同地で暗殺の悲報を
耳にし悲嘆の念に堪えなかった」。

 この劇的な内容の回想によれば、永田は対外緊張緩和のための政策協調を外務省側に求め、
華北分離工作後も従来の方針に立ち返って、現地軍を抑制しようとしていた。
 この方向で永田と東郷との間で合意がみられた直後に、相沢事件が起こった。その結果、
外務省にとっての提携相手が失われ、広田三原則に対する陸軍中央の最も有力な支持勢力に
致命的打フが加えられたのである。

 相沢事件については、広田も不快の念を隠そうとはせず、皇道派への不信感をあからさまに
語っていた。「要するに真崎とか荒木とかいふのは、陸軍の大部を占めている不平分子に迎合
してゐるやうなわけで、或る意味からいへば、さういふことが寧ろ統制を紊す因になるといっても
よい」と。
 かくして「軍務局長一点張りで連絡しているようなふう」であった外務省は、その陸軍中央
との太いパイプを断ち切られることになった。相沢事件を分岐点として、広田外交をめぐる
政府内政治の力学は、大きく変動してゆくのである。
(p208〜p209)

41 :
長文引用だらけにするのは
これすごいから読めって言いたいの?
単にスレを流したいの?
個別に反論してもらいたいの?

42 :
>>35
それのどこにも「太平洋戦争は無かった」に関わる部分が無いんだけど
全方位と対峙するというのが永山の一夕会時期から変化のない構想で
むしろその構想の通りに多正面作戦に突き進んで敗北したのが太平洋戦争でしょうよ

欧州中央で列強に挟まれた大陸国家である独国の情勢に合わせた総力戦論を
海洋国家の日本にそのまま持ってきて、狭い陸軍視点で戦略立てただけじゃないの
工業力差を知ってるくせに軍縮は反対するし近代兵器への深い洞察があるわけでもなし
広域総力戦なら深い兵站調査研究は必須でしょうにそれの形跡はどこに?
対米対峙を勘案するならなぜ早期から海軍を巻き込んでないの?

結局は己の所掌範囲でのみ答えを出してそれの実現を図る官僚の域を脱してない
その分野や政治闘争分野や組織主導能力では圧倒的に有能だと思いますが
でも国家戦略の破綻についてはむしろ自分野の立場強化力が高いだけに有害ともいえる
永山から大きくグレードダウンの東條が同じ構想に乗って失敗したのは当然でしょ

世界情勢に沿った可塑性のある国家戦略を立てられる人が上に立ったなら圧倒的だったでしょうけど
てか宇垣で十分だった気もしますが

何にしても>>35さんは自分のいいたいことだけ声高に語りたい人のようなので
もう関わらないつもりですが

43 :
>>41
永田がいかにクソかをごまかすために煙幕を張っているに過ぎない。
永田信者は陸軍パンフレットやクーデター計画の「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」
を避けるなど永田の軍国主義者の面をそらして皇道派へのカウンターとして聖化して
統制派のその後の軍国体制への批判をそらしたい北岡のような自称良識派の
尻に乗っかっているだけだよ。

44 :
永田マンセーさんはマタマタ都合の良い特定の著者の言葉だけ読んでるね。

45 :
>>41
>長文引用だらけにするのは
>これすごいから読めって言いたいの?

え?
井上の「危機のなかの協調外交」は当該期の日本外交史では基本文献なんだから、
当然読んでいるでしょ?


>単にスレを流したいの?

いいえ?

平和志向の広田外交の柱である「広田三原則」という外交政策に関して、
永田がどのような役割を果たしたのかについて理解が不足している人が
多いようだったので、井上の論文の内容を引用しただけだよ。

>個別に反論してもらいたいの?

反論したいのであればすればいいんでない?

井上の学術論文を却下できるような内実を持った反論を君が提示できるのであれば
面白いね。

46 :
>>42
>それのどこにも「太平洋戦争は無かった」に関わる部分が無いんだけど

ああ、全部を乗せるのはおっくうだったんで摘記してしまったけど、
なんだったらこの文章を含む一つのパラグラフ(「永田がいたら」の声」)ごと、
丸々貼り付けてあげようか?

>全方位と対峙するというのが永山の一夕会時期から変化のない構想

は?
この時期の外交は議会で「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して
居ります」と述べるような外相をトップに据えているんだけど?

そして永田がそうした外務省の実務レベルの担当者である欧米局長の東郷重徳と
歩調を合わせて平和外交の実現に尽力していたという史実が>>40の書き込みで
引用されているんだけど、目に入らなかった?

>むしろその構想の通りに多正面作戦に突き進んで敗北したのが太平洋戦争でしょうよ

永田の死後に有象無象の連中が舵取りを間違った結果として招来したのが
太平洋戦争だよ。
だからこそ、「永田がもし生きていたら」という仮定の話が出てくるんだけど
粗雑な脳みその持ち主には理解できないみたいだね。

>欧州中央で列強に挟まれた大陸国家である独国の情勢に合わせた総力戦論

まったく見当はずれもいいところ。
総力戦というのはドイツがどうだこうだとかいう問題ではなく、第一次大戦という
歴史的事件を経て惹起された新しい概念なんだよ。

第一次大戦を経過して以降、アメリカだろうがイギリスだろうがソ連だろうが、
総力戦という概念とは無縁ではありえない。
少しは歴史と軍事に関する知識を身に着けてから出直してきたら?

>工業力差を知ってるくせに軍縮は反対

日本に工業力をつけるために「広義国防」という概念を永田は提唱しているんだけど、
そもそも浅薄な知識しか持っていない人には理解できないようだね。

>広域総力戦なら深い兵站調査研究は必須でしょうにそれの形跡はどこに?

それを行うための場所こそが、岡田内閣下に組織された内閣調査局という部署だよ。
総力戦を行うための膨大な量となる兵站を賄うのは軍部だけでできる話じゃないからこそ、
総合的な国力運営を行うための調査機関が必要になったんだ。
そのために内務省や商工省や農林省といった実務省庁の中堅どころの「革新官僚」と
連携を取っていこうとしていたんだけどもね。

>何にしても>>35さんは自分のいいたいことだけ声高に語りたい人のようなので
>もう関わらないつもりですが

ああ。
そもそも議論についてこれる自信が無いから、ハナから逃げを打とうという戦略ですか。
みっともない負け犬っぷりですこと。 

47 :
>>43
>クーデター計画の「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」

ちゃんと言及しているが?

<35>
 一言にして評すれば、彼は円満なる政治常識をもつ軍人であった。
 この常識があったから、昭和九年末、統制派の中佐級幹事、兵力の威嚇を
用いて軍本意の政権を獲得するという原案を拒否し、「軍の要望は、現憲法
下において陸軍大臣を通してのみ期生する」方針に改めさせたのである。
 そうして革新的要請は、新官僚の協力をまって成案し、陸相をして閣議に
要求させることになったのだ。
 相当に鼻息の荒かった統制派の将校が、永田の方針に文句なく従って固く
一本となったのは、即ち彼の指導力と統制力を照明するものであって、残る
問題は、いかなる「革新政策」を 作成要求するかの一点にあった。


>統制派のその後の軍国体制

永田死後の有象無象はそもそも統制派と呼びうるような代物じゃないよ。
統制派というのはそもそも「アンチ皇道派」という性質をもつもので、その意味では
皇道派以外の陸軍軍人は全員が統制派という範疇に入る。
北岡伸一の言っている通りさ。

「軍は命令と服従を基礎とする集団であって、統制を強調することは当然であるため、
統制派と言うと、皇道派に反感を持つもののすべてを含んでしまうことになる。」
「通常統制派と言われる人に、みずからを派閥と認めることに抵抗し、派閥は皇道派
一つだけだったと回想する人が多いのは、このことと関係している。」
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(p85)

48 :
>>44
>永田マンセーさんはマタマタ都合の良い特定の著者の言葉だけ読んでるね。

あなたの方は、特定の著者どころか、誰の著書の内容すら読まずに巷間に流通している
俗説を信奉しているだけのようだが?

まぁ、ちゃんとした学術書をまともに読みこなせるだけの知能も知性も持ち合わせが
ないようだから、俗説におもねることしか出来ないという限界があるのはわかるけど、
あなたのそうした偏狭で陋劣な認識をこちらに押し付けてくるのは勘弁してもらいたいね。

49 :
なんだ
すごい内容の文章書くな、これで素人かと思ったらコピペかよw
感心して損した

50 :
>>49
>感心して損した

あなたの場合、まず引用元の出典がちゃんと明記されている文章を読んでいるのに
「コピペじゃないと思ってしまう」という、早合点をしがちなおっちょこちょいな部分を
治す方を先にした方がよろしいのでは?

51 :
太平洋戦争が米国を含めた連合国との総力戦なわけで

米国とは枝葉条件で妥結できるって間違った結論で走ったのが陸軍対外諸策
その根源にあるのが、満蒙のことで米国は総力戦してこないだろうという
一夕会の誤った分析に根ざしているのだから
枝葉の部分で穏健派とか強硬派とかは意味ないのですよ
行き着くところは同じ
根本認識で合わなくなって抜けてった人もいるみたいですが

その枝葉部分を表現するのに何レスもコピペで埋め尽すしかできないってのに
議論の相手してもらえるとでも?

52 :
>>51
>その根源にあるのが、満蒙のことで米国は総力戦してこないだろうという
>一夕会の誤った分析分析に根ざしているのだから
>枝葉の部分で穏健派とか強硬派とかは意味ないのですよ

現に満州事変を行った段階では、米国も英国も日本と戦争しようなんて判断は
していないんだが?

対米・対英関係が悪化していったのは日中間が全面戦争状態へと突入していった
盧溝橋事件を発端とした支那事変が勃発してから以降のことだよ。

あなたが足りない脳みそで下した判断よりも、当該期の日本外交に関する学術研究の
積み重ねの方を重視するのが当然ですね。

現実には対米戦は回避できる余地があったし、そうするべきだった。
それをできなかったのは、見識のあるリーダーを失ったことによる陸軍の暴走と、
その陸軍の暴走を体を張ってでも止めようという気概を持った政治家の不在が原因。

だからこそ「永田がいたならば」として彼の存在を惜しむ声が上がったということが
理解できないあたり、どうにも度し難いですね。

53 :
一般的な総力戦論でないことを示すために接頭説明をつけてるのになんでそこを無視してんの?
大陸問題も収束しておらず不利な工業力の時点において建艦競争に突入することのどこが国防なの?

永田鉄山の人物評や業績を評価したいわけではなくて
好評価を得られそうな部分を取り出して何となく好印象にしたいというだけなんだねw
何にしてもレス不要なので
丸コピペでも何でもやればいいのでは?わざわざ改めて見たりしませんがw

54 :
ああ今いたのですか
53はそうとは思わずに書いたので噛み合ってなかったら失礼
もう来ませんごきげんよう

55 :
わざわざ一夕会で括ったのもスルーなんだねw

56 :
>>53
>一般的な総力戦論でないことを示すために接頭説明を

あなたの勝手な思い込みである「一般的な総力戦論でない」説明にこちらが拘束されなければならない謂れはなないよね?

こちらにそれを要求するのであれば、永田が実現しようとしていた「日本の総力戦体制」が、「欧州中央で列強に挟まれた
大陸国家である独国の情勢に合わせた総力戦論」であることを立証してからにしてくれないかな?


>大陸問題も収束しておらず不利な工業力の時点において建艦競争に突入することのどこが

永田が大陸問題の収束に向けて蒋介石政権との妥協や提携を模索し、ソ連との緊張緩和を目指して東支鉄道買収交渉に
協力していたのは井上の「危機のなかの協調外交」を読めばちゃんとわかるよ?

そもそも建艦競争に突入しようとしたのは皇道派と思想的に共鳴していた海軍内の艦隊派の連中たちだけど?
何をトンチンカンな言いがかりをつけているの?


>もう来ませんごきげんよう

敗北宣言乙。
なんともみっともない負け犬っぷりですこと。 

57 :
>>47
「円満なる政治常識をもつ軍人」が陸軍パンフレットを承認とは笑わせる。永田Loveの北岡でも擁護不能か。

極右の中野正剛や極左の社会大衆党に支持され、美濃部達吉に批判される陸軍パンフレット永田が円満なる政治常識を持つとは
北岡の政治的スタンスが危ぶまれるな。こんな奴が解釈改憲をするのも当然か。北岡を美濃部と同類の学者とみなすのは
学者というものに対する侮辱だな。

58 :
永田も大海軍を主張していたわけだが?

59 :
>>47
>永田死後の有象無象はそもそも統制派と呼びうるような代物じゃないよ
永田以外は有象無象とかここまでひどい物言いもないな。梅津も東條も浮かばれんな。
永田が死のうが陸軍パンフレットが求める総力戦体制への動きは規定路線で
変わらんのだが、それは無視かね。個人が歴史を特に陸軍のような組織を動かすとか
ロマン地ズムこじらせすぎだよ。

どうも統制派と皇道派の構想における統制派と戦時体制推進者としての統制派を
都合よく使い分けすぎだな。陸軍パンフレットを見ても分かるように総力戦体制・全体主義は近衛の新体制運動がいいように
ナチと同様の国民生活への干渉をともなうまさにファシズム(永田Loveの人間には最も忌み嫌う言葉だろうからあえて使うw)
なのだが歴史的に全否定された体制思想が当時の官僚組織という畸形集団内では正当化されたことに焦点をあてること
が学者に求められることで敗戦後現在に至るまでの責任のなすりつけあい研究など聞いていないのだよ。

60 :
>>57
>「円満なる政治常識をもつ軍人」が陸軍パンフレットを承認とは笑わせる。

当時の陸軍の主張をまとめただけの文章なんだから、承認するのが当たり前の話。
この陸軍の主張に対して、政治的に勝ちを収め得る政治的見解を当時の政党が
持っていなかっただけのことだ。


>極右の中野正剛や極左の社会大衆党に支持され、
>美濃部達吉に批判される陸軍パンフレット永田が円満なる政治常識を持つとは

美濃部はあくまで自説の憲法観を守るための発言であって、政治的な妥当性を
持った主張かどうかとは話が別。

だから、翌年の天皇機関説問題に置いて、学理上は正しい自説を政治的に葬られた。

学理上正しいかどうかと、その時点における政治的正当性とは一致しない。

天皇機関説は、あくまで密教として大日本帝国憲法を運用する上で有効な解釈として
明治政府が取り扱っていただけで、明治憲法を字句通りに解釈する顕教としては
天皇親政が明治憲法の立場。

美濃部は学理上の正しさを主張したがゆえに、政治的に葬られた。
この事実を認めることだ。

まぁ、美濃部を葬ったのは永田と対立していた皇道派なんだけどね。

61 :
>>58
>永田も大海軍を主張していたわけだが?

建前上の主張として、海軍を削れなんて主張できるわけないだろw
陸軍と海軍の対立を先鋭化してしまうだけだ。

ちっとは政治的常識ってものを持てw

62 :
>>59
>永田以外は有象無象とかここまでひどい物言いもないな。
>梅津も東條も浮かばれんな。

現に、碌に陸軍内部をまとめきれずに亡国の道へと突っ走っていった連中なんですが。

梅津も東條も、支那事変を拡大させた戦犯と呼ばれるべき存在。

梅津は陸軍次官として陸軍省を主導し、不拡大派の参謀本部側を抑え込んで
拡大への道を開いた責任者の一人だし、東条は現地の関東軍で強硬策を推進して
事態の拡大を煽ってた。

こいつらは浮かばれるどころか、支那事変が泥沼に陥って失敗が明らかになった時点にでも、
天皇陛下に対して「申し訳ない」っつって腹を切って詫びるべき連中だったんだよ。

それを自分のミスを認めたくないばっかりに対米戦にまで突っ込ませてしまった
ってんだから、それこそ獄門打ち首がふさわしい連中だ。


>永田が死のうが陸軍パンフレットが求める総力戦体制への動きは規定路線

総力戦体制を取らない限りは戦争なんて出来やしないんだから、外交上の選択肢を
増やすためにも総力戦を取りうる国家体制の構築を推進するのは当時の時代の要請。
そのうえで、相手国との国力差を勘案して勝てる戦争か勝てない戦争かを冷静に判断し、
国家として戦争という選択肢を取るか否かを判断するのが政治の役割。

国家が「戦争しかない」という判断をしたときに、軍が「総力戦体制が整ってないから
戦争できません」と言わざるを得ない状態に立たされるようであれば、それは軍人の怠慢
でしかないから可能な限り総力戦体制を整えなければならない。
そのうえで国家が戦争しかないと判断する際に「勝てるか勝てないか」を軍事的な見地から
判断して進言するのが軍人の役割。

政治の役割と軍事の役割をごっちゃにするなよ。


>個人が歴史を特に陸軍のような組織を動かすとか

宇垣軍縮という形で、個人が陸軍という巨大な組織の意思をねじ伏せた例があるんだが。
君の偏狭な視界には入ってこないだけで、組織というのは人によって動くものなんだよ。


>陸軍パンフレットを見ても分かるように総力戦体制・全体主義

陸軍パンフレットが全体主義?
君の勝手な妄想はどうでも良いが、まずは何が全体主義に当たり、何がファシズムに該当するか、
それぞれの用語をきちんと定義してからモノを言ってくれないかな?

63 :
>>61
永田マンセーさんには残念かもしれないな。
常識の問題でなく永田はアメリカの干渉を防ぐために大海軍を作れと主張していた。
中国を侵略して資源を確保して総力戦体制を確立する主張と同じで実力に見会わない構想を振り回したのに成り立たなかったね。
政治も外交もわかっていないのに他人の職分を乱したりと永田は根本的なことを間違っていた。

64 :
>>63
>常識の問題でなく永田はアメリカの干渉を防ぐために大海軍を作れと主張していた。

あほか。
大海軍を作る、というのは海軍の主張であって、永田はその主張を紹介してやっただけの話だ。

「陸軍の軍備を増強する必要がある」って言った人間が、「海軍の軍備は削れ」なんて主張をすることが
出来るわけねーだろw
それでなくとも仲の悪い陸海軍の喧嘩を誘発するだけの話にしかならん。

要は陸軍なり海軍なりが要望を出した政策や予算を、政府がどのように受け入れて採用するか、
受け入れずに却下するかを決めればいいだけのこと。

個別の政策を立案して、要望を出すのが官僚の仕事。
それを弁別して取捨選択して国家政策を決め、その結果に責任を取るのが政治家の仕事だ。


>中国を侵略して資源を確保して総力戦体制を確立する

こちらが長々と張り付けてあげた文章をまるっきり読んでいないことが丸わかりだねw

「守島は永田の対中国戦略を「満州国建設一本、これに全力をそそぎ、
支那本土では出来得る限り事を起さぬ」考え方であったとみており、
したがって広田の対中国政策には「必ずしも反対はなかったと思ふ」
と述懐している (『守島回想』六七頁)。

華北分離工作に陸軍中央が直接関与していたかについて、守島は否定的で、
「それは恐らくは永田の気持には反するものでは なかったか」と、
同情的な見方をしている(『守島回想』五一頁)。


因に右事件の発生前同少将は自分を来訪し、国際局面の安静化を希望する旨を述べ
予に努力方を求むると共に陸軍部内は自身意見の取纏めに尽力する旨を切言したので、
右の方針を以て進むことに約束し、自分は一週間の休暇を得て軽井沢に赴いたが、
忽ちにして同地で暗殺の悲報を耳にし悲嘆の念に堪えなかった」。

 この劇的な内容の回想によれば、永田は対外緊張緩和のための政策協調を外務省側に求め、
華北分離工作後も従来の方針に立ち返って、現地軍を抑制しようとしていた。
 この方向で永田と東郷との間で合意がみられた直後に、相沢事件が起こった。その結果、
外務省にとっての提携相手が失われ、広田三原則に対する陸軍中央の最も有力な支持勢力に
致命的打フが加えられたのである。

65 :
広田自体が侵略的なんだが?小説寄りで再評価の研究を見てないの?

66 :
>>65
広田の採用した外交政策の指向に侵略的な傾向のものがあったとしても、それが首相が指名した外務大臣であり、
その政策を外務省が組織として採用した政策である以上は、それに協力して歩調を合わせるのが当然だろ。

少なくとも荒木や小畑のような対ソ強硬派の好戦的な主張を退けて、より穏健な政策に向かおうというだけの
バランスを持った方向性だったのには間違いないのだから。

そして、そもそも侵略を許容するような志向を持った広田のような人間が外相に推されるようになったのも、
外務省の中でより穏健な幣原喜重郎のような人物が後ろにひかざるを得ないような状況が現出したからだ。

そういう方向が生まれたのも、現地軍の下剋上によって引き起こされた満州事変による侵略を是認する空気と、
それを追認して拡大の方向へと舵を切り、テロを起こすような軍人たちの行動を称賛するような
荒木貞夫のようなアホな陸軍の指導者の不見識な態度に起因していることも忘れるべきではない。
舵を切って下剋上をやらかした連中を論功行賞で

67 :
はあ?大好きな小説ばっかじゃなく、学者が書いた中公新書で読んだら?

68 :
>67
ほう。
では、学者が書いた新書から抜粋しておきましょうか。

井上寿一 『アジア主義を問いなおす』(ちくま新書)

第二章「アジア主義」外交はどのように形成されたのか
 6 アメリカはなしにはやっていけない満州国

  ・アジア主義的経済共同体としての満州国

 満州事変の目的の一つは、対ソ戦、さらには対米戦のための重要国防資源を確保
することだった。この目的は、満州国の建国によって、達成されたのだろうか?
(略)

  ・国際経済のきびしい現実

 しかし日満ブロック経済は、国際経済のきびしい現実に直面し、自給自足体制を
保つことができなくなっていく。
 ブロック経済は、ブロック内の国に利益をもたらす。日満ブロックも同様である。
日満ブロック経済の下、満州国の通貨が円にリンクされた。これによって両国間では
為替リスクがなくなる。日満の通商貿易は飛躍的に拡大した。
 ところが円ブロック内での通商貿易関係の拡大は、当然のことながら、外貨の獲得
にはつながらない。それどころか外貨の減少を招く。満州国の経済開発のためには、
日本からの投資が必要だった。日本の投資拡大を図る上で、外貨を増やさなければ
ならなかったが、外貨は円ブロックから調達することができない。結局のところ、
満州国も日本も外貨不足に悩まされることとなった。事実、日本の国際収支は、昭和
九年に悪化している。海外輸出を上回る対満投資が国際収支の均衡を逆転させたから
である。
 こうなると「財閥入るべからず」などと理想主義的なことをいってはいられなく
なった。背に腹は替えられず、関東軍は、本国からの投資拡大を求めていく。
 しかし財閥資本にとって、満州国はリスクを伴う不安定なマーケットだった。
昭和十一年になると、投資額が前年比マイナスに転じている。同時代の新聞が指摘し
ているように、「満州の経済的価値が判明すればするほど対満投資が渋り勝ちになる
のが事実」だったようである。
(略)

  ・アメリカ資本の参入を求めて

 しかしたとえ新興財閥の投資を導いたとしても、それだけでは日満ブロック経済の
ジレンマは解消されない。日満ブロック経済以外の国との通商貿易関係を拡大し、
外貨を潤沢に蓄えないことには、国際収支の悪化が進み、日満経済が立ち行かなく
なるからである。
 ブロック外の貿易相手国とはどこだろうか? それはもちろんアメリカだった。
アメリカとの戦争に備えるための自給自足圏は、アメリカ経済に依存しなければ
成立しない。日満ブロック経済は、国際経済のもう一つのきびし現実に直面する
こととなった。
 止むに止まれず、現地軍は、アメリカ資本の参入を求めた。
(略)
 こうしてアジア主義的な経済共同体でありながら、満州国は、アメリカなしには
やっていけないことが明らかとなった。

69 :
第三章 「東亜モンロー主義」外交とはなんだったのか

 1ブロック経済か自由経済か?

  ・この章の課題
 国際連盟脱退後の日本の外務大臣を引き受けることは、だれもがためらった。
猟官運動に忙しかったあの吉田茂でさえ、このタイミングで外相のポストを狙う
ことは避けている。白羽の矢が立ったのは、吉田と同期入省の広田弘毅である。
 引き受け手のない外相を引き受ける以上、広田は二つの注文をつけた。一つは
外交の主導権を外務省の手に奪い返すこと。もう一つは、国際協調の精神に立ち
返って外交を立て直すこと。首相の齊藤実は、この条件を受け入れた。広田の外
相就任は、新聞などから好感をもって迎えられる。幣原外交の復活と報じる雑誌
もあった。
 しかし前途は多難だった。広田は満州事変以来、軍部に引きずられ後手に回る
外交を批判した。ところがその広田といえども、対外的には満州の新事態を正当
化する以外になかった。その上で国際協調外交を立て直すという困難な課題を、
広田は背負うこととなる。
 ブロック経済による自給自足圏では、満州国が経済的に立ち行かないことは明
らかだった。しかし世界経済のブロック化の潮流は、輸入制限措置や貿易障壁と
なって日本の行く手を阻んでいた。
「ブロック経済か自由経済か?」この二者択一を迫られた広田は、どのようにして
国際協調外交を立て直そうとしたのか? 広田の試みは成功したのか? 
 この章ではブロック経済と自由貿易との間で揺れ動いた広田外交が、アジア主
義的な志向を強めていく過程を追跡する。

(中略)

・なぜ日本外交は対米関係の修復が必要だったのか?
 
 (略)国際連盟脱退後、日本外交は「東亜モンロー主義」を強めるというよりも、
対米関係の修復を志向するようになった。対米関係修復の試みを三つ列挙してみる。
 第一に国際連盟を脱退して半年も経たない六月から、ロンドンで開催された世界
経済会議に出席している。世界の六四カ国が参加したこの国際会議は、世界恐慌の
克服対策を主題とすることになっていた。日本は、この国際会議に出席する。
 経済危機から脱却するための手がかりを得ようとしたからである。他方で多くの
国から日本は、国際連盟を脱退したとはいえ、その世界経済に占める重要な位置ゆ
えに、参加が欠かせないと認識されていた。
 この国際会議では、当初の予想どおり、欧州諸国とアメリカが「ブロック経済か
自由貿易か」の争点をめぐって、激しく対立する。イギリスなどの欧州諸国は植民
地との間の排他的な経済ブロックの強化を主張した。これに対してアメリカは、多
角的な自由貿易体制を世界に拡大することで、世界恐慌からの脱却を図るとの立場
を譲らなかった。
 日本政府全権の石井菊次郎元外相は、アメリカを支持すると強調した。
(略)
 これが国際連盟脱退後の最初の対米関係修復の試みである。
 第二に、翌年三月、広田外相とハル国務長官との間で、メッセージの交換が公開
された。広田が日米の「親善関係の増進」を図りたい旨の希望を伝え、これをハル
が歓迎するというものである。これは満州事変によって失われた信頼関係の回復に
向けて、ささやかながらも一歩踏み出そうとする日本側の意思表示だった。
 第三に、同じ年の五月の「日米共同宣言」案である。広田は齊藤博駐米大使にこ
のプランを託した。齊藤はこれを私案と断りながら、ハルに示している。そこには、
太平洋の東はアメリカ、西は日本がそれぞれ「安定要素」であることを相互に承認
する、との一節があった。広田はこの「太平洋協定」とでも呼ぶべき宣言の実現に
向けて渡米予定の近衛文麿貴族院議長に助力を仰いでいる。
 以上の三つの試みを通して、日本外交は、日米の経済協調を中心に関係改善を進
めるために、最小限必要な外交関係の信頼回復に努めていた。

70 :
 これには大きな理由があった。
 当時、日本政府は、恐慌克服政策として、高橋(是清)財政を展開しつつあった。
高橋財政のメカニズムは、要するに、金本位制から離脱し、円安を誘導して、輸出
を拡大するというものである。
 それでは主な輸出先はどこだったのだろうか? 満州事変に伴う排日貨(日本品
不買)運動によって、中国市場は失われた。最大の貿易相手国となったのは、アメ
リカである。そのアメリカは、自由貿易によって、恐慌からの脱出を試みていた。
日本は、アメリカの自由貿易体制が欧州諸国のブロック経済体制を解体していくこ
とに期待しながら、アメリカ経済への依存を強めていた。
 私たちは、満州事変が国民に支持されたのは、恐慌克服への期待があったからだ、
と考えている。しかし実際には順序が逆で、恐慌を克服できれば、満州国も成り立
つことができる。それでは恐慌克服はどうすれば可能だったのか? 
 それはブロック経済体制による自給自足ではなく、自由貿易によって可能となる
のだった。


・広田外交はアジア主義外交か?

(略)
 広田の経済外交とはどのようなものだったのだろうか? アジア主義外交だったの
だろうか。そうではなく、欧米協調主義だったのではないか。
 この点に関して前節でみた対米関係以外に、対英関係の修復をも広田外交が試みて
いたことにふれておきたい。広田は、昭和九年の七月に、日英不可侵協定を結ぶ用意
があると提案している。この日英不可侵協定案は、当時、争点化していた軍縮条約改
定問題に対する海軍の強硬論を抑制する意図を持ちながら、他方で対英緊張緩和を
志向する広田外交の具体的な構想の一つだった。

(p79-99)

71 :
また都合のいいところだけ抜き読みか

72 :
なんだか一行レスばかりで、批判や反論というのには程遠い発言しか出てこなくなったな。

相手の発言に対して質と量を伴った批判を返せない以上は、無視するしかないねぇ。

73 :
結局永田スレをつぶすのは永田信者か
皮肉なもんだな(笑)

74 :
永田鉄山は陸軍大学校で「日露戦争は僥倖の勝利である」と講義していた
石原に目をつけて一夕会に入会させた。これは本当?

75 :
結局永田が生きてても太平洋戦争は避けられなかっただろうな

76 :
権力闘争に長けていても政治音痴だからなー

77 :
""満州事変""《知る覚悟が出来ている方のみ御読み下さい》
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78 :
満州事変後の暴発は陸軍老害のポスト作りなだけだったところを何が何でも押し留めなければならなかったな。もう少し早く満州事変の時に永田が陸軍上層部だったとして、板垣、石原に暗に冷や飯を食わせていれば、それに続こうとするバカもいなかったかもしれない。

79 :
つっても荒木を推したのが永田だし
すぐに梯子はずしたけど

80 :
>>79
満州事変を企てて陸軍の地位をあげならがら成り上がり。
荒木や真崎を担いで南を追い払った後は宇垣と組んで林を使って・・・

こんな露骨で強引な遣り口で権力奪取に走っていたのでは、誰から刺されても不思議ではない。

81 :
>>72
1行で反論される永田信者の文章整理力の低さが問題だろw

82 :
おお、おれが適当に立てた永田鉄山スレがまだあるとは。しかも議論になっているw

83 :
更新

84 :
東條英機や武藤章が人のプランに沿って、泥沼の中国大陸での事変拡大をしたが

残りの統制派の人達が、本人の意思を解釈して進めたのでは?

85 :
今でこそ社会主義なんて失敗することがわかってるけど、当時は知識人の間ではかなり支持されていた。
近衛も永田も知識人だったから、多かれ少なかれ影響を受けてる。
財閥が巨利を得る一方で、民衆の困窮も甚だしかったから、社会主義的な主張は人気があった。

食料生産や資源分配も国家主導で決められるから、総力戦体制とも相性がいいことに軍人が注目したのは自然。
実際、ソ連は陸軍国としては当時最大規模を実際に運用投入してのけた。

それを軍として主張すること自体が政治関与なのはそのとおり。永田は政治関与を強めることで陸軍と国家改造を成し遂げようとしていた。
クーデターが起こった時にはカウンタークーデターでさらに権力を取ればいいといった考え方で、見方によれば露骨に権力闘争主義。
皇道派が「無私誠忠」として人気を得ていたのとは対照的だが、一方で戦略的構想も何もなかった。

永田は政治干渉や内部工作をやる一方で、政治的妥協や折衝も行っていたという点では評価に値する。
永田の構想が太平洋戦争に向かう道筋に影響したというのも正しいが、永田が生きていればもう少しなんとかなったのではというのも事実。

86 :
日本軍の病理は、軍港主義それ自体と、軍国主義でありながら政海陸どころか陸軍内部でも統制に問題があったところ。
これは、制度的欠陥に主に由来する。
首相の権限は弱すぎ、軍部の権限は強すぎたし、軍内の陸相、海相の権限は弱すぎた。
これでは元老の様に個人的に強大な政治力がある人間が各方面にいないと機能しない。

87 :
>>85
永田が生きてたら、1945まではどう変わったんだろ?
日中戦争は支持してるだろうけど、あそこまで泥沼化はしなかったのかな?
米国との戦争は反対したんだろうか?
生きてたら、次官、大臣としてその時代に影響を及ぼしてるよね。

88 :
>>87
相沢事件で生きていても226でやられる可能性も高いので相当な天運が必要ですが、
石原や東条といった考え方の違う陸軍の面々を統制していけた可能性はありますね。
林陸相の時点で、陰で永田陸相と言われていたほどらしいですから。

どういう立場で動いたかによって、歴史を変えられたかどうかも変わってきますね。
後輩の東条と同じルートで行っても、第一次近衛内閣の板垣陸相の時の陸軍次官、その後第二次近衛内閣で陸相、開戦時の首相ということになりますが、
軍務局長から陸軍次官になることも多いので、梅津美治郎の代わりに226後の陸軍次官として粛軍を担当していた可能性は高いのでは。
相沢事件が起こらず、永田も殺されない226事件がありうるのかという問題はさておき、皇道派の放逐ということなら永田は大いに適任でしょう。

陸相就任が、板垣征四郎よりも先か、後任になるかで相当変わってくると思いますが、永田が陸相としてならもう少し不拡大派の主張も飲み込んで、
和平交渉を継続させたまま実質支配領域の拡大を狙って行けたのではないかと思います。
例えば、多田参謀次官は不拡大派で、東条と対立して双方更迭されていますが、永田なら長期戦を懸念する多田の意向も組んで政府と折衝に当たったのではないかと思います。

89 :
>>88
面白い分析ありがとうございます。
確かに日中戦争はもう少し違った展開だったのかな?
日中戦争が違えば、対米開戦すらも怒らなかったんでしょうか?
南方進出でアメリカとの衝突が避けがたいとしたら、もう少しスマートな戦い方もあったのかな?

90 :
>>88
>相沢事件で生きていても226でやられる可能性も高い

相沢事件の公判を通じた法廷闘争によって青年将校たちの中の過激派が
気勢を上げることで2・26に突っ込んでいったという側面もあるので、
もし相沢事件が無かったら2・26事件自体が起こらなかったか、
5・15事件程度のテロ事件で済んだ可能性もあるのではないでしょうか。

2・26事件の青年将校たちを突き動かした合言葉に「相沢さんに続け!」という
ものがあったそうですし。
「自分たちより10才以上も年齢が上の相沢さんが決起したのに、若い自分たちが
安穏としていて良いのか!?」みたいな雰囲気があったと、多くの決起将校が
手記や回想に記しています。

91 :
>>85
>今でこそ社会主義なんて失敗することがわかってる

この辺、社会主義と共産主義とをごっちゃにしている部分があるんじゃないでしょうか。

社会主義というのは、大雑把にいえば経済的平等や政治的平等といったものを要求する思想で、
その極北に位置するのが共産主義です。
社会主義の中には共産主義に近い左派もいれば、資本主義に近い右派もいます。

戦後の自民党政権が「世界で最も成功した社会主義」と呼ばれるのは、社会主義思想の
経済的平等と政治的平等を高いレベルで達成した国家運営が評価されてのこと。

所得の再分配や貧困層への手当てといった社会主義的な考え方が要求する政策は、
国家全体の運営を考えた際に必要となるものなわけで、一概に「社会主義は失敗した」
とあっさり考えてしまうことはできないと思います。


>永田は政治干渉や内部工作をやる一方で、政治的妥協や折衝も行っていた

こうした「妥協や折衝」という行為こそが「政治」なんですよね。
参謀本部が軍令を担当し、陸軍省が軍政を担当するというのは、陸軍省側が
こうした「政治」を担当しているからこその話。

陸軍省内で整備局・兵器局・人事局・医務局といった各部局が要求する政策や予算の
中で必要なモノを採って不必要なものを却下するのも「政治」。

陸軍が要求する政策や予算を、大蔵・外務・内務・商工・鉄道といった他省庁との間で
国家にとって必要か否かという観点から必要なモノと不必要なものとを選別するために
妥協や折衝という作業を行うのも「政治」。


軍政というのはそうした「政治」的な行為を必要とするので、陸軍省内の軍務局
軍事課という軍政を担当する部局に勤務して、長年経験を積んだ人間でないと
上手く仕事を回してゆくことが出来ないからこそ、陸軍大臣という軍政のトップに
立つ人間はそうした仕事について熟知した人間でないと務まらない。

満州事変以降の陸軍では、現地で無茶をやらかした武人肌の人間が幅を利かせて、
政治的な折衝や妥協というものの必要性を理解できない人間が中央の要職に
付くことが多くなったので、余計に永田のような政治的な技術を持った人間に
対する風当たりが強くなっていったし目立ってしまう結果になったんでしょう。

92 :
>>90
そうですね。226は相沢事件の影響も大きいので、相沢事件が起こらなければ回避できたかもしれません。
ただ、青年軍人に人気のあった皇道派が勢いを失ったのも226なので、それが起こらないと、
皇道派と対立する永田は、いつかは誰かに襲われた可能性も高いのではと思います。
ここら辺が派閥と暴力を広めてしまった皇道派の罪でしょう。

>>91
当時の社会主義は、共産主義的な計画経済の色合いが濃いものが一般的に念頭に置かれていたと思います。
永田が想定していたのも、戦時の配給制、総動員体制に近い仕組みを平時から取り入れようというもので、
陸軍パンフレットはそういった思想に基づいているのでは。

装備インフラが貧弱な対中国の影響で前近代的な武人タイプが幅を利かせるようになったのはその通りかと。
永田が軍政の中央を進んでいたのに対して、東条は関東軍参謀長や兵団長なんかもやってるのが面白いですね。
そこら辺で変な精神論や無茶な作戦を「学習」してしまったのかもしれません。

>>89
対米開戦が回避できたかどうかは正直わかりません。永田さえ生きていれば全ては解決、という生易しい情勢ではなかったですし。

ドイツが欧州で覇権を握るのは動かないでしょうから、ナチと接近して日独伊3国同盟を結んでしまうと、どのみち英米との対立は先鋭化するでしょう。
当時は日ソ不可侵、独ソ不可侵条約が結ばれていて、日本もドイツの外相もソ連を同盟に組み込むという構想だったので
永田が生きていたとしても、参戦義務のない3国同盟締結に関して反対の立場ではないのでは。

その後、独ソ開戦により枢軸国が孤立を深めた時に、日中戦争の情勢如何によって南進論が抑えられるかどうかが変わってくるのでは。
それでも米国が圧力をかけてくるシナリオも考えられますが。。。

93 :
>>92

>青年軍人に人気のあった皇道派が勢いを失ったのも226なので

皇道派の勢力衰退自体は、荒木陸相の辞職による昭和9年から始まっていて、
林陸相による永田の起用によって本格化し、柳川陸軍次官・山岡軍務局長・山下軍事課長、
鈴木作戦課長、秦憲兵司令官といった皇道派幹部の更迭によって進められていき、
その総仕上げだったのが真崎教育総監の更迭でした。

相沢事件が起きた時点で、すでに皇道派の勢力衰退は明らかであったと言えます。


>皇道派と対立する永田は、いつかは誰かに襲われた可能性も高いのではと思います。

これはその通りですね。
永田に限らず、穏健的な主張を述べる人間に対しては、政府の閣僚や宮中の重臣に
対してものべつ幕無しにテロ未遂事件や暗殺計画が企てられていましたから。

真崎が閣僚や重臣から忌避されたのも、そういったテロを企図しがちな右翼団体や
青年将校たちとの繋がりが深いと目されていたからであったろうと思われます。

真崎を中心としたの皇道派、加藤や末次を中心とした艦隊派、政友会の中の久原派、
国本社の平沼といった面々がその中核で、天皇機関説事件で政府を攻撃し、
倒閣を狙って結集したこの勢力が、この時期の不穏な空気の策源地だったと
言っていいでしょう。


>永田が想定していたのも、戦時の配給制、総動員体制に近い仕組み

そういう方向に持っていきたい野望はあったでしょうが、当時の議会の仕組みや
政党政治の状況から言って、そこまで一足飛びに実現できるものでは無いだろうという
現実を認識してもいたように思います。

陸軍パンフレットには、国内の貧困層や無産政党がどのように反応するか、
財閥や地主層をバックとする政党政治家がどの程度に反発するかを測るための
観測気球的な側面も有ったように思います。


>そこら辺で変な精神論や無茶な作戦を「学習」してしまったのかもしれません

東條や武藤章を「永田の後継者」とみなして、支那事変勃発時のこの二人の行動から
永田の考えを逆算して説明する見方がありますが、むしろこうした粗暴な行動は、
軍政でキャリアを積んだ永田の思考より、現地軍で謀略に勤しんでいた板垣や
土肥原といった「支那屋」の思考の方から、より強い影響を受けてしまったのでは
無いかとも考えています

当時の陸軍では、「中央に居て穏健な発言をしていた人間が、いったん出先に行くと
強硬派になって帰ってくる」みたいなことがよく言われていました。

満州事変という謀略の成功によって、陸軍の佐官級の軍人たちに「これこそが
出世の早道」と思い込ませるような熱病が、大陸の現地ではより強く感染力の強い
疫病として猛威を振るっていたということなのではないでしょうか。

94 :
いやあ、興味深い話しがたくさん出るな。
僕は、東條が次官で中央に戻ってきたのが不思議ですね。中央の部局長経験がない人(軍事調査委員長はやったけど)がなぜ戻ってきたのか。前任の梅津の推薦らしいけど、もう少し軍政畑の人はいなかったのかな?

95 :
>>94
>東條が次官で中央に戻ってきたのが不思議

これに関しては筒井清忠が『昭和十年代の陸軍と政治』という本の中で検討を加えていて、
この時代のことについて書かれた本を色々と読む中では、一番説得力のある説だったように
感じています。

曰く、これまで主流だった「板垣が陸相になるのに憤慨した梅津が、板垣が仕事をしにくく
なるように板垣の腹心の石原と犬猿の仲の東條を次官に持ってきて、近衛や板垣の動きを
封じようとした」とする説は、かなりの部分で戦後になってからの近衛の自己弁明的な
側面が大きく、実際には板垣を引き出そうとした近衛が軍政に関して不案内な板垣の
補佐役として東條を次官に配しようと考え、板垣がその筋書きに乗った、というもの。

詳しい経緯についてはかなり込み入っているので、同書の記述にあたってみてください。
第五章の「第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現」(p149-175)で、板垣の
陸相就任の経過とともに、東条の次官就任の経緯が述べられています。


板垣と石原は、ともに満州事変の立役者であり、昭和十二年の宇垣内閣流産事件の後に
石原が林内閣での板垣陸相の実現に動いたようにかなり密接な関係でもありました。
その石原を差し置いて東條を次官に据えるのはそれなりに奇異な印象もあります。

しかし、板垣は関東軍参謀長時代に憲兵司令官として2・26事件後に際立った働きを
見せたの東條の仕事ぶりに目をかけており、その能力を評価して自分の後任の関東軍
参謀長へと据えています。

そして昭和十二年七月の北支事変勃発時には、関東軍の東條と北支那方面軍第五師団長の
板垣は、ともにチャハル作戦に出動しており、参謀本部作戦部長だった石原の制止を
振り切って一緒に戦線の拡大を進めて綏遠省や河北省など(華北分離工作が行われて
いた地域)へ侵攻しています。

板垣が陸相として中央に赴任する際に、東條を連れて行こうと考える理由も相応に
存在していました。言ってみれば、「この間まで一緒に戦っていた戦友」みたいな
モノですから。


>もう少し軍政畑の人はいなかったのかな

軍政系統の軍人は他にも存在しましたが、いかんせん2・26事件のあおりを受けて
派閥的な動きを見せた軍人は軒並み陸軍省から放逐されていて、残っていたのは
派閥的には無色透明なんだけど、仕事の能力的にはイマイチ、みたいな人材ばかり
だったとも言われています。

東條は局長級の職には就いてはいませんでしたが、陸軍省整備局動員課や参謀本部
編成課長といった、事務仕事の負担の多い部署で「カミソリ」と呼ばれるほどの
事務に関して練達ぶりを発揮していました。
軍政経験というよりも、事務屋として書類を処理する能力を買われたという方が
実態に近かったでしょうね。良くも悪くも「生真面目な官僚」であって、見識の
高さや度量の広さといったものの持ち合わせはなかったように思います。

96 :
>>95
緻密な分析ありがとうございます。
最近、昭和期の陸海軍に興味をもって、色々勉強してます。
しかし、永田とか梅津とか阿部信行とか杉山元を見ると、軍人というより明らかに「官僚」ですよね。
特に、恩賜でもない杉山のキャリアの華やかさは圧倒的で、最近すごく興味をもっています。

97 :
>>96
、永田とか梅津とか阿部信行とか杉山元を見ると、軍人というより明らかに「官僚」ですよね。

98 :
>>96
>永田とか梅津とか阿部信行とか杉山元を見ると、軍人というより明らかに「官僚」ですよね。

北岡伸一の著書に『官僚としての日本陸軍』って本があります。
この本もおすすめですよ。

明治のころはともかく昭和に入ってからの陸軍のありようは、官僚組織の悪い点と
軍人ならではの視界の狭さとがもたらす負のハイブリッドと言っても言い過ぎではない
ような気がしています。

>杉山のキャリアの華やかさは圧倒的

この時代特有の「上に立つ人間は無能な方が良い」という下剋上的風潮の象徴のような人物だと思っています。
経歴はすごいんですけど、在任中にやらかしたことについてはマイナス点の方がおおくてなんとも。

99 :
>>98
上の人事を下が左右できるってのが分からないんですよね〜。
基本的には三長官、三次官の会議で首脳人事は決まるんじゃないかと思うんですが。
課長級がつくった案がそのまま採用されるのかな?

100 :
>>99
>上の人事を下が左右できるってのが分からないんですよね〜。

下剋上というのは、人事を左右するという形で現れるものでは
必ずしもありません。
むしろ仕事のできない上司に対して「こんなことも知らないんですか?」
みたいに言いながら仕事のできる部下が上司に劣等感を植え付けていき、
自分の言うことを聞くように仕向けて、しまいには「この有能な部下である
自分がいなくなったら上司であるあんたはその地位にはいられなくなるぞ」
というように相手に思い込ませてロボットのように操るようになっていく
状態です。

イメージ的には時代小説や時代劇なんかでよくある「商家の大旦那が急死
して、ろくに稼業のことも分からない二代目のボンボンが跡を継ぐが、
実際には自分では何一つ現場を差配することが出来ず、優秀な番頭に
いいように引き回される状態」みたいなのが近いのではないかと。

本来、軍政の中枢である陸軍省の各局長は、自分の部下がどんな業務に
携わっていて、どんな仕事ぶりをしているのかについて、かなりの部分で
把握していなければなりません。
そうでなければ、重要な問題についての判断を下すことなどできません。

けれども、派閥人事やなんかでそうした能力も持っていないのに重要な
職に就いた人間は部下が何をやっているのかすら把握できず、また把握
するための努力すらしようとしないために、部下が持ってきた書類の
中身も精査せずにハンコを押すだけのロボットみたいになってしまう
というわけです。

もちろん、勉強をして部下がどんな仕事をしているのかを理解して、
大局的な見地から「お前の主張はこれこれこういう理由で却下する、
別な案を持ってこい」と言えるような人間が上司になって、その指示が
間違っていなければいいのですが、実際にはあとから「やっぱりお前の
案の方が正しかった、すまん」とか謝る羽目になったり、自分の考えた
案を採った結果で大失敗することになって左遷されたりということがあると、
結局は部下の力量に頼りきりになってしまうことになるわけです。


軍政畑で経験を積んだ人間がトップに付くというのは、そうやって下僚の
間に力量をつけて、上司の立場になった時にきちんと下僚を指導出来るだけの
実力を蓄えるという循環の中で才能を見出された人間が一段ずつ階梯を
あがっていくという道筋があったということでもあります。

軍事課員→軍事課○○班班長→軍事課高級課員→軍事課長→軍務局長
陸軍省にはこういう感じのラインがあり、この過程でどこかでしくじれば、
何処かの連隊長か師団長あたりに出されて中央の要職に戻らずに出世レース
から外れていきますし、この過程を上手くこなして上司たちから認め
られれば次官や大臣というルートに入っていきます。

似たようなラインは参謀本部や教育総監部にもあり、こういった複数の
出世のコースをいかに上っていけるかというのが官僚組織としての
まっとうな在り方なんですが、これがうまく機能しなくなっていった
ことを下剋上と言っていたのだと思います。


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