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1 :2016/05/19 〜 最終レス :2016/06/06
土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、
本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが
安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、
ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、
また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、
「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、
徳川家康・上

2 :
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4 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ

5 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

6 :
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7 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ

8 :
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で  争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。
その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。
道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法励(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素(625年 - 698年)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、
空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。
また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。
後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。
更に京都泉涌寺の俊?が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊?の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。
この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、
中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
中国において、大乗仏典のひとつ『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派である。
開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。
この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。
また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘(ウィサン)によって広められる。
日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像

9 :
躍し、多くのイコンを聖
堂等のために描いた。一部作品は日本正教会にも献納されている。この他に、ロシア正教会所属の教会がフィンランドにいくつか設立されてお
り、こちらに所属する信徒数は約2000人となっているアレクサンドリア総主教庁は、パパ・アレクサンドリア総主教の機関・座所を言う。ア
レクサンドリア総主教は現在2人いる。ギリシャ正教・東方正教会とも呼ばれる正教会の総主教コプト正教会(非カルケドン派)の総主教また、
カトリック教会にアレクサンドリア総大司教がいる。古代5主教座のひとつ、アレクサンドリア教会の流れを汲む。長くエジプトのアレクサン
ドリアにおかれたが、現在の所在地はカイロである。ギリシャ正教のアレクサンドリア総主教も、コプト正教会のアレクサンドリア総主教も、
いずれもパパ(ギリシャ語:π?πα?、英語:Pope)の称号を有し、その称号はアレクサンドリアおよび全アフリカのパパならびに総主教であ
る。なお「パパ」は「教皇」と訳される事があるが、「教皇」は日本のカトリック教会における「パパ」の日本語訳であって、日本正教会ではあ
まり用いられない(完全に用いられない訳ではなく、用いられている媒体も稀に存在する)。初代アレクサンドリア主教が誰であるかは史料によ
り異なる。福音記者マルコであるとする史料と、マルコが宣教し初代主教を任じたとする史料の二種がある。いずれにせよ、ギリシャ正教側も
コプト正教会側も、福音記者マルコを初代アレクサンドリア総主教に数えている。また、東西教会の分裂以降、ローマ・カトリックの傘下に、
アレクサンドリア総大司教座とコプト典礼の総大司教座が存在する。ギリシャ正教とも呼ばれる正教会のアレクサンドリア総主教は、殆どの場
合ギリシャ人が務めており、コンスタンディヌーポリ全地総主教との結びつきのもとにある。アクレサンドリア総主教庁は活発にアフリカ各地
及びマダガスカルに宣教活動を行い、一定の成果を挙げている。現在の教皇アレクサンドリア総主教はセオドロス2世である。コプト正教会は、
カルケドン公会議から生じた非カルケドン派(単性論派とも呼ばれる事があるが、コプト正教会は単性論派と呼ばれる事を拒否する)の教会で
ある。コプト正教会の現在の教皇アレクサンドリア総主教は2012年のシェヌーダ3世の死去に伴い同年に選出された、第118代教皇のタワド
ロス2世である。大都市アレクサンドリアのパパ・大主教、聖マルコの聖にして正しく神を讃美する使徒の教区たるエジプト・ペンタポリス・
リビア・ヌビア・スーダン・エチオピア・エリトリア・および全アフリカの総主教聖致命者福音記者聖マルコの、大都市アレクサンドリアの聖
座にある後継者アンティオキア総主教庁(アンティオキアそうしゅきょうちょう、現代ギリシア語:Πατριαρχε?ον ?ντιοχε?α?, 英語:
Greek Orthodox Patriarchate of Antioch and All the East, アラビア語:アラビア語: ???????? ??????? ????? ?????? ????? ??????????)は正
教会に属する教会。古代の五総主教座のひとつである。正式名称は「アンティオキアおよび全東方の総主教庁」。アンティオキア正教会と呼ばれ
ることもある。シリアにおける教会の中では最大多数派。初代総主教を使徒ペトロとしている。現在の総主教はイオアン10世(2013年 - )で
ある。アンティオキア総主教庁は公式には現トルコ領内のアンティオキアに置かれるが、実際の執務はシリアのダマスカスでなされている。古
代のアンティオキア教会の流れを汲み、現存するキリスト教会のなかでも最古の教会に属する。現在はシリアのほか、アメリカ・ヨーロッパ各
国にも教区をもつ。信者はアラビア語使用者および英語使用者を主とする。正教会のなかでも活発な宣教活動で知られる。なお、非カルケドン
派のシリア正教会にもアンティオキア総主教が存在する。2011年末以来のシリア騒乱において、非カルケドン派(アルメニア使徒教会・シリア
正教会)、東方典礼カトリック教会とともにラム系過激派による破壊活動を受けている。聖堂の破壊といった物的損害にとどまらず、2012年初頭
には司祭が殺害され、2013年4月にはアンティオキア正教会の主教とシリア正教の主教の計2名が誘拐されるなど、人的被害も拡大している。
エルサレム総主教庁(エルサレムそうしゅきょうちょう)は正教会の9つの総主教庁の一つ。古代5総主教座のひとつであるとともに、新約聖
書「使徒行伝」 で初代教会とされるエルサレム教会につらなるキリスト教世界最古の歴史をもつ。451年までエルサレムには正教の主教座が置
かれていたが、カルケドン公会議でエルサレム主教に総主教の地位が認められたため、以後は総主教を名乗っている。記録に残る最古のエルサ
レム総主教は62年のヤコブであり、こ

10 :
末寺帳』が事実上の初見である。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、
念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して
念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、
同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、
順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。
主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。
一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。
1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。
過ぎること昭和になった1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争(大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。
戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。
戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍の出身である河野家の家紋。
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、
日本においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。
中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南岳懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、
黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も
元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度

11 :
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、
特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、
のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。
智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍

12 :
日蓮宗一致派初代管長)らの活動で、身延山久遠寺(山梨・身延門流)、長栄山本門寺(東京池上・比企谷門流)、正中山法華経寺(千葉・中山門流)、具足山妙顕寺(京都・四条門流)、大光山本圀寺(京都・六条門流)、妙塔山妙満寺(京都・什門流)、
長久山本成寺(越後・陣門流)を七大本山とする制度を実施した。しかし、これに京都要法寺を始めとする興門派及び八品派や一致派本山から異論が噴出する。教部省に訴えた結果、七本山の企ては頓挫し、
管長は一致派・勝劣派に拘らない年番交代となった。その後1874年 (明治7年) 3月、宗教行政の無理さや教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれたため、管長も各派別におくこととなる。
前者は一致派全門流の合同教団となり、身延山久遠寺の新居日薩が初代管長に就任した。現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、
日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊跡寺院は日蓮一代の重要な事跡、
由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する。祖山、霊跡寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主、会長は飯田本興寺浅井日彰貫首、
事務局長は北野立本寺上田日瑞貫首。融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)は、浄土教の宗派の一つ。大阪市平野区にある大念仏寺を総本山とする。平安時代末期の永久5年5月15日(1117年6月16日)に天台宗の僧侶である聖応大師良忍が大原来迎院にて修行中、
阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。
良忍が始めた融通念仏は当初は勧進行脚が主で、仏教宗派としての組織を持たず集団運動の中から発展したものであった。大阪の平野の大念仏寺をはじめ、京都の清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになり、壬生寺や清凉寺、千本閻魔堂、
神泉苑には融通念仏の中興者である円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。寿永元年(1182)に第6世良鎮が没すると、元亨元年(1321)まで139年間法統が途絶えたが、第7世法明によって中興された。
法明は宗門の中断中に石清水八幡宮に預けられていた宗の法宝物を再び受け取り、大念仏寺住職を選出する六別時制度を定めたとされる。戦国時代の頃から宗派としての色合いを帯びはじめたが、大念仏寺の法統が何度も絶え、
融通念仏の寺も他宗派の寺院となり勢いは振るわなかった。元禄年間(1688〜1703)に、融通念仏再興の祖とされる大念仏寺第46世の大通が融通念仏の復興に努め、「融通円門章」等により教義を明文化し、一宗としての制規を定め、
学寮も設けるなかで融通念仏宗として整備されていった。「融通円門章」は漢文体で難解なため、その弊を補うために和文形式で書かれた「融通念仏信解章」も広く普及した。江戸時代、信州善光寺別当・等順上人が、浅間山大噴火、
天明の大飢饉における民衆救済に尽力した時に、融通念佛血脈譜を簡素化(通称・「お血脈」)、
参拝者に免罪符のように配布し、全国各地を回った。簡素化された融通念佛血脈譜は評判を生み、等順は生涯で約180万部配布、善光寺信仰の普及に大きな役割を果たし、落語の「お血脈」の題材になった。
江戸中期以降の善光寺の発展は、当時の権力者の庇護と、等順を頂点にした念仏勧進聖の活躍、 そして融通念佛の民族宗教性とによるところが大きいとされる。
本山に伝えられた絵巻に『融通念仏縁起』がある。融通念仏の最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、
その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、
一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行

13 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ

14 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

15 :
といった現象は、西欧・米国をはじめとして全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられたが、日本

正教会もその例外ではなく教会に亀裂が生じた。問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命

ロシア人が中心になって結成した小さくない教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Срем

ски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていたことにも起因していた。セルギイ・チホミーロフ府主教

は1929年の時点では母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正

教会の動向に対しても分派的であるとして否定的であった。また年を経るに従って府主教セルギイはソ連の下で弾圧されるロシア正教会の

状況認識に甘さを見せるようになった。ソ連当局による検閲を経て届くモスクワ総主教庁からの手紙の内容を鵜呑みにし、実際にはソ連の下で

激しく弾圧されるロシア正教会が「正常な道を歩んでいる」とまで述べた、弾圧の実情からかけ離れたものとなった府主教セルギイの認識の変

化は、1931年にはセルギイの説教などにも表れて巷間に知られるに至った。こうしたセルギイの認識は亡命ロシア人には到底受け入れられるも

のではなく、亡命ロシア人のみならず反共産主義の気運の高かった日本人信徒の間からも広範な反発が起きるに至った。このような状況下で、

日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教

会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。1940

年(昭和15年)、セルギイ・チホミーロフ府主教は引退を余儀なくされ、後任の人選を巡って紆余曲折を経たのち、ニコライ小野帰一主教が日本

正教会に着座した。それでも当局の監視は緩むことなく、高齢のセルギイ・チホミーロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受

け、約1ヶ月拘留された。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったとい

われる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に

居住していた在日ロシア人は許可を得て参列することができた。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の

隣に埋葬された。戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日

本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展することになる「北米メトロポリア」と関係を持つよ

う指令されたからである。在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、在外ロシア正教会の

下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場が微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持ってこなかった北米

メトロポリアの指導下に入ることについても日本正教会に動揺が起こり、この経緯において、ごく少数ではあったが、北米メトロポリアの指導下

に入らず、モスクワ総主教庁の直接の管轄を受けるグループが形成された。全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続してい

た以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本

正教会に安寧が訪れることはなかった。戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代

の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述す

ることは、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。このような状態にありながらも日本正教

会の奉神礼は継続され、新聖堂の建立・新たな聖歌譜の出版等もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内

の西方教会が戦後すぐのころから教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、

停滞を余儀なくされることとなった。ニコライ列聖・自治教会成立-現在1970年に至り、 モス

16 :
少子化を防ぐには、中絶税をかけるといい。その理由。

日本は先進国の中で最も貞操観念がなく、アメリカなどよりもずっと婚前交渉の多い国として知られている。
年間20万人が中絶で亡くなっていてこれは先進国最大。中絶殺人は隠された日本人の最大の死因といっていい。
これを減らせば大きく出生数が増える。
Rや出生前診断などでどうしても中絶しなくてはならなかった人は、その人の価値観で許容するべきだと思うが、
単に子供を育てる環境を準備(結婚など安定した環境を準備)してないのに、
自分たちの性欲を優先して、恋愛の延長でセックスをして中絶した人は、ただ快楽を優先した結果の殺人でしかない。
これは社会で許容するべき価値観ではないと思う。

高度経済成長やバブルといった経済が豊かになっていっていた時でさえ、
出生率は下がり、離婚率は上がっていた。
つまり、貧困はそれほど出生率低下の原因ではない。
出生率低下の本当の理由は貞操観念の崩壊。
これはデータとしても出ていて、
時代につれ20歳の性交経験率が高くなっていくほど、出生率は低下している。
男は結婚しなくてもセックスできると、結婚理由があまりなくなるせいだろう。
その結果、婚姻率も出生率も下がるわけだ。
童貞や処女が恥ずかしいことっていう、
モテなかった男女と、ヤリチンと、失い済みの女が広めてる強迫観念みたいな意識をまずおかしいと思わないと。

これらを回避するには、
中絶に税金をかけ、中絶したら1件当たり300万円以上の税金をかける。
(金額は変えてもいい。払えない人は生活保護レベルの月収で労働についてもらって完済してもらう。)
そうすれば、自分の性欲任せに性交をして中絶という殺人をすることが減るし、
安易な気持ちで性交はできなくなるので、
ちゃんと結婚してから子供を作るようになって、貞操観念が昭和初期ぐらいに戻る。
そうすれば欧米とだいぶ近い貞操観念が戻り、婚姻率と出生率が正常に戻る。
日本は欧米のようにキリスト教などがなく、
メディア媒体での性の氾濫によって貞操観念が崩壊している、世界でも特殊な地域のため、
人口の逆ピラミッドがひどくなってしまった。
(キリスト教の婚前交渉禁止は、性欲優先して中絶殺人をするような愚かな人間を減らす効果があって、

17 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

18 :
クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ

19 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

20 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

21 :
クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ

22 :
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、
特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、
のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。
智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍

23 :
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン

24 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

25 :
れは伝承によれば「主の兄弟ヤコブ」と同一の人物である。 イスラム教登場後、パレスチナがアラブ人
に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。
十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムか
ら追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳
墓教会に置かれている。ルジア正教会(正式名称:グルジア使徒伝承独立正教会、グルジア語: ??????????? ??????????????? ??????????
???????; Saqartvelos Samotsiqulo Avtokepaluri Martlmadidebeli Eklesia, 英語: Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)
は、現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独
立教会である。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(グルジア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正
教会、ロシア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。4
世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀
のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。 他の聖伝では、熱心党のシモン(聖使徒シモン・カナニト)がコーカサスへ旅してグルジア西部へ
宣教し、コマニ Comani 村のソフミ Sokhumi の近くへ埋葬されている。また、マティアス(聖使徒マトフィイ)がグルジア南西部へ宣教してい
たとも言われており、こちらはバトゥミの近郊のゴニオ Gonio 村に埋葬されている。使徒バルトロマイ(聖使徒ワルフォロメイ)とタダイ(聖
使徒ユダ・ファデイ)がグルジアに来ていたことを主張する文書が幾つかある。史料によって疑問の余地なしとされる大規模な宣教は、啓蒙者
グレゴリオスと、グルジアの光照者:聖ニノ(ニーナとも)により4世紀の前半に行われた。4世紀には独立正教会の地位を得たが、19世紀初
頭にロシア帝国にグルジアが併合されると、その地位は破棄され、グルジアの教区はロシア正教会のもとに編入され、グルジアのエクザルフの
職位が設けられた。1917年のロシア革命時に、グルジア正教会は独立を回復し、1943年にモスクワ総主教庁から、1990年にコンスタンディヌ
ーポリ総主教庁から独立正教会としての承認を得た。ロシア正教会やアルバニア正教会と同様、20世紀に共産主義政権によって弾圧を被ったが、
ソ連崩壊後は復興を遂げている。現在の総主教は全グルジアのカトリコス総主教・ムツヘタとトビリシの大主教イリヤ2世である。2009年、ア
ブハジア正教会(英語版)は自ら独立教会であると宣言した。ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミ
ュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。正教会は一カ国に一
つの教会組織をそなえることが原則だが(ブルガリア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外
もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。スラヴ系教会のなかでは最も古く独立正教
会となった(9世紀末に成立)。ブルガリア王ボリス1世のキリスト教への改宗に起源を持ち、927年、次代の王シメオン1世の指導下にコンス
タンディヌーポリ総主教座から独立した正教会が確立された。現在、ブルガリア国内に約650万人、他のヨーロッパ諸国や北米に100万から
200万人の信徒を持つ。現在の最高指導者はマクシム総主教で、1971年に前任者の死没に伴って総主教に選出された。マクシム総主教は2009
年12月現在で、全世界の正教会で最も高齢の首座主教である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であると
し、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガ
リア人のための2つの教区がある。ブルガリア正教会の主教区は58の管轄区に細分され、2600の教会にさらに分けられて構成されている。
ブルガリア正教会の全領域における最高の聖職・教会司法・管轄の効力は、聖シノドによって行使されている。聖シノドには総主教、教区における
高位聖職たる府主教が含まれる。教会における教会生活は教区司祭によって指導されるが、教区司祭の数は1500人である。ブルガリア正教会

26 :
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン

27 :
https://pbs.twimg.com/media/CKRtSKsUkAEQMzK.jpg:large

28 :
27 よく出でくるがちkり屋さんで

29 :
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て

30 :
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31 :
れは伝承によれば「主の兄弟ヤコブ」と同一の人物である。イスラム教登場後、パレスチ ナがアラブ人
に征服された後、イスラム教徒はエルサレムはこの地方におけるキリスト教の中心地でありエルサレム総主教がその指導者であると認識した。
十字軍のエルサレム攻囲戦後の1099年、ローマ・カトリックによる十字軍はエルサレムに西方教会の司教を任じ、正教の主教をエルサレムか
ら追放し、1187年に到るまで正教のエルサレム総主教はコンスタンティノポリスに在住した。今日ではエルサレム総主教庁はエルサレムの聖墳
墓教会に置かれている。ルジア正教会(正式名称:グルジア使徒伝承独立正教会、グルジア語: ??????????? ??????????????? ??????????
???????; Saqartvelos Samotsiqulo Avtokepaluri Martlmadidebeli Eklesia, 英語: Georgian Apostolic Autocephalous Orthodox Church)
は、現在のグルジア共和国の中心部に「全グルジアのカトリコス総主教」を長とする聖シノド(英語:Holy Synod)を置く、正教会の一員たる独
立教会である。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(グルジア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ルーマニア正
教会、ロシア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。4
世紀に国教化した歴史の長い教会で、伝承による起源は初めてコーカサス地方(古代のコルキス Colkis、イベリア Iberia)へ宣教した1世紀
のアンデレ(聖使徒アンドレイ)まで遡る。 他の聖伝では、熱心党のシモン(聖使徒シモン・カナニト)がコーカサスへ旅してグルジア西部へ
宣教し、コマニ Comani 村のソフミ Sokhumi の近くへ埋葬されている。また、マティアス(聖使徒マトフィイ)がグルジア南西部へ宣教してい
たとも言われており、こちらはバトゥミの近郊のゴニオ Gonio 村に埋葬されている。使徒バルトロマイ(聖使徒ワルフォロメイ)とタダイ(聖
使徒ユダ・ファデイ)がグルジアに来ていたことを主張する文書が幾つかある。史料によって疑問の余地なしとされる大規模な宣教は、啓蒙者
グレゴリオスと、グルジアの光照者:聖ニノ(ニーナとも)により4世紀の前半に行われた。4世紀には独立正教会の地位を得たが、19世紀初
頭にロシア帝国にグルジアが併合されると、その地位は破棄され、グルジアの教区はロシア正教会のもとに編入され、グルジアのエクザルフの
職位が設けられた。1917年のロシア革命時に、グルジア正教会は独立を回復し、1943年にモスクワ総主教庁から、1990年にコンスタンディヌ
ーポリ総主教庁から独立正教会としての承認を得た。ロシア正教会やアルバニア正教会と同様、20世紀に共産主義政権によって弾圧を被ったが、
ソ連崩壊後は復興を遂げている。現在の総主教は全グルジアのカトリコス総主教・ムツヘタとトビリシの大主教イリヤ2世である。2009年、ア
ブハジア正教会(英語版)は自ら独立教会であると宣言した。ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミ
ュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。正教会は一カ国に一
つの教会組織をそなえることが原則だが(ブルガリア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外
もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。スラヴ系教会のなかでは最も古く独立正教
会となった(9世紀末に成立)。ブルガリア王ボリス1世のキリスト教への改宗に起源を持ち、927年、次代の王シメオン1世の指導下にコンス
タンディヌーポリ総主教座から独立した正教会が確立された。現在、ブルガリア国内に約650万人、他のヨーロッパ諸国や北米に100万から
200万人の信徒を持つ。現在の最高指導者はマクシム総主教で、1971年に前任者の死没に伴って総主教に選出された。マクシム総主教は2009
年12月現在で、全世界の正教会で最も高齢の首座主教である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であると
し、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガ
リア人のための2つの教区がある。ブルガリア正教会の主教区は58の管轄区に細分され、2600の教会にさらに分けられて構成されている。
ブルガリア正教会の全領域における最高の聖職・教会司法・管轄の効力は、聖シノドによって行使されている。聖シノドには総主教、教区における
高位聖職たる府主教が含まれる。教会における教会生活は教区司祭によって指導されるが、教区司祭の数は1500人である。ブルガリア正教会

32 :
土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、
本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが
安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、
ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、
また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、
「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、
徳川家康・上

33 :
http://twitter.com/MJ52121/status/709177125996089344/photo/1

34 :
33 てっペン恋人か

35 :
どこも
ビデオ撮影禁止
動画撮影禁止
で厳しいイベントばかりになったね

36 :
が日本に入った。
次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。
最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。
最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。
また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、
菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、
僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、
南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。
論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、
その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、
密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、
空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、
円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。
したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、
智の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。
井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に
発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。
さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、
平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗な

37 :
 我、奇襲ニ成功セリ。太平洋戦争緒戦・真珠湾攻撃の成功を報告する電文である。
報告を受け、極秘裏に作戦を進めていた(積もりだった)関係者は、大きな開放感を
感じたことだろう。しかし、後の経緯は御存知の通りだ。奇襲とは結局、弱者の戦法
だ。多くの弱者は、当たり前の話だが、負ける。それ故か、弱者の軍勢には、裏切り
者が出易い。寄らば大樹の蔭とか云うが、「大樹」とは征夷大将軍の異称でもある。
幕府に楯突こうとしたが、裏切り者の密告によって失敗した奇襲事件を、読者は知っ
ている。<大塩平八郎の乱>だ。

 八犬伝読みの先人たちは、<画虎事件>に<大塩平八郎の乱>をも重ねて見てきた。
私も、半分だけ賛成している。事件解決後、一休宗純が唐突に現れて、虎の戻った画
幅を燃やす。そのとき一休さんは、事件の意味する所を彼一流に解釈する。画虎の出
現は、義政の驕った悪政が原因としつつも、虎自体に就いては否定的見解を示す。点
晴により画虎が実体化した事件は、学問を得たために従来は見えていなかったモノが
見えだし以て社会に不満を抱いた者が暴動を起こすのだ、と説明した。確かに平八郎
は、当時の篤学であったし、暴動を自ら経営する私塾の門弟によって組織した。一休
さんは、学問が社会不満を惹起した一例として捉えているのだろう。無知無学ならば、
社会に不満すら抱かないとの論理だ。必ずしも賛同できないが、まぁ、それは措く。
 一休さんが政治腐敗を批判する箇所と、学問によって社会不満を抱いたハネっ返り
を批判する部分とは、甚だ接続が悪い。まるで<取って付けた>ような印象だ。また、
登場人物の発話に著者は責任を持たねばならないが、著者の真意であるとは限らない。

ところで、画虎実体化事件に対する馬琴の態度を示した言葉「苛政は虎より酷しと
ぞいふなる、古人の格言思べし」は、礼記・檀弓下第四にある有名な句「苛政者猛於
虎(苛政ハ虎ヨリモ猛キ)」を出典としている。「檀弓」である。まぁ、この字句自
体は人名で、別に重要な人物でも何でもないのだが、「礼記檀弓」は言葉として有名
だったりする。また、礼記は武道の中で弓術を勧める書でもある。唐突だけど、そう
なのだ。戦争は別だが弓道の試合は、相手が如何に動こうと関係ない。競技者は相手
ではなく、的に向かっているからだ。激しい闘志を秘めつつ、相手に順番を譲るとか
何とか、<礼>を尽くすことが出来る。しかも、勝とうが負け

38 :
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興し?た。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、
特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、
のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。
智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍

39 :
クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ

40 :
>>35
それがなんと一眼もスマホも撮影禁止だってよ
でもサンバはローアン動画OKだってよ

05月29日(日) タキタロウまつり https://www.city.tsuruoka.lg.jp/event/kankou_matsuri/assangyo0120160426.html
05月29日(日) エンコントロ・ヂ・アルモニア
06月03日 (金)  そのだ金曜ナイター 園田競馬場 http://www.sonoda-himeji.jp/news/detail.html?id=U4p4pV
06月04日(土) 印西市民まつり http://www.inzai-topic.com/event-inzai-shimin-matsuri-2016/
06月04日(土)(〜5(日))  AJ Kagawa モーターフェスティバルinまんのう http://www.bike-union.net/
06月05日(日) Section5 East Japan http://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1619891
06月19日(日) アリオ西新井サンバカーニバル http://www.ario-nishiarai.jp/web/event/7671d7a0-3686-43d9-8650-5e3be04b93ef.html
06月25日(土) アリオ深谷サンバカーニバル http://www.ario-fukaya.jp/web/event/7f6f212d-0ffc-4095-bac5-0509cf040be7.html
06月25日(土) Carnaval da Sala ラゾーナ川崎 プラザ・ソル
06月25日(土) 飯坂deサンバ!飯電deサンバ! http://www.iizaka.com/sankasuru-campaign/
07月03日(日) アリオ亀有サンバカーニバル http://www.ario-kameari.jp/web/event/e2dedeb0-12e5-4ecb-b559-956b4be6f344.html
07月03日(日) 大江戸問屋祭り http://tonyamatsuri.com/
07月09日(土)(〜10(日)) 名古屋オートフェスティバルhttp://www.n-autofestival.jp/
07月10日(日) おっぱままつり http://oppama.info/?p=1401
07月16日(土)(〜17(日))Slide the City FES 2016 http://slidethecity.jp/
07月16日(土) 新松戸まつり http://matsudo.mypl.net/mp/eventreport_matsudo/?sid=44627
07月16日(土) サマーカーニバルin鶴ヶ島
07月17日(日) 習志野きらっと2016 http://www.city.narashino.lg.jp/konnamachi/maturi/kiratto/kiratto2016.html
07月18日(祝) 湯島サッカー通りサンバパレード
07月21日(木) ちょっとよりみちライブ vol.153 http://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/bunka/0001/0002/0003/p032999.html
07月23日(土) 町ぐるみ三田納涼カーニバル http://mitashotengai.jp/index.html
07月23日(土) (〜24(日))草加よさこいサンバフェスティバル http://www.soka-yosakoi-samba.com/index.html
07月24日(日) 経堂まつり
07月24日(日) 五反田オーシャン祭 https://www.facebook.com/gotandaocean 
07月30日(土) ゆがわらサンバパレード http://www.yugawara.or.jp/event/details.php?log=1365139466
07月31日(日) 柏まつり http://www.kashiwa-cci.or.jp/kankou/kashiwamaturi
08月01日(月) 大宮夏まつり 第29回スパークカーニバル
08月07日(日) グランシップ音楽の広場2016 http://www.granship.or.jp/audience/event.php?id=1471
08月11日(水) 旅祭2016 http://sekaishinbun.net/2016/04/14/tabimatsuri2016/
08月27日(土) 浅草サンバカーニバル http://www.asakusa-samba.org/
09月03日(土) http://festa.tateishi-syo-ren.com/
09月24日(土) あいちトリエンナーレ 虹のカーニヴァル http://aichitriennale.jp/artist/rainbowcarnival.html

VIBES FOX https://www.facebook.com/vibesfox/
CYBERJAPAN http://www.cyberjapan.tv/
VIVIAN NUDY http://www.vivian-nudy.jp/
まにーがーるず https://www.facebook.com/maniketgirls/
まにけっと https://twitter.com/maniket_jp
ロー協 https://twitter.com/lowlegrise_jpn

41 :
が日本に入った。
次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。
最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。
最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。
また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、
菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、
僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、
南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。
論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、
その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、
密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、
空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、
円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。
したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、
智の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。
井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に
発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。
さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、
平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗な

42 :
(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。
鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされている。法相宗と並ぶ、南都六宗の一つで、「十三宗五十六派」の一つである。
華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっている。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」などが有名。
東大寺の大仏も本経の教主・毘盧舎那仏であり、日本仏教の黎明期に重用されたが、大乗仏教の中でも独特の教学を持つため宗勢は徐々に衰えていった。
時代的にも地域的にも広範なので、様々な変容がある。
華厳思想の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあっているという考え方(重々無尽の縁起)である。
この実相を4つの見方・四法界に分ける。我々の通常のものの見方は事法界で、無自性・空の見方の理法界は仏の世界である。
この両者を止揚した無自性・空の世界と具体的個物や現象が妨げあわず共存する理事無礙法界が、修行をすると顕れるが、これは天台の考え方で理と事を分けている点が不徹底である。
この分裂をなくせば、最後に、「理」すなわち「無自性・空」も消え去り、ただ事物と事物が融通無碍に共存する事々無礙法界という仏の見方に到達し、これが本来の真実一如の世界である。
また、華厳では仏の立場になって見るので、三性説もまた唯識とは逆に、仏の側から順に円成実性、依他起性、遍計所執性と説かれる。
仏になることをゴールと考えるのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想であるから、華厳経の一部の十地品に説かれるとおり、
菩薩初地で信不退転となれば、あとは菩薩第十地までは自ずから到達するはずで、結局菩薩の初心にあるべき金剛の信が決定的に重要だと考える。
性起説
仏性についての考え方では天台宗が性具説を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、
目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では性起説を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、
それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。鎌田茂雄はこの考え方が道元の仏性観、修行観(修証一味)に影響していると指摘している。
しかし、これは、たぶんに華厳宗側から見た見方で、公正とはいえず、これからの検討が必要であろう。
華厳経の位置づけ
天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(天台大師智による)では、華厳経は最初に説かれ、
仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。
華厳宗では賢首大師法蔵が華厳五教章のなかで五教十宗判の教相判釈を行い、華厳経および華厳宗を最高の教え(別教一乗)と位置づけ、そもそも仏が悟った一乗真実は、
理として頭で解する必要はなく、ただ肉体で体験すべきものだと考える。
よって天台宗は、華厳宗やその影響の下に成立した禅宗の立場からは、心身不可分ということが不徹底な、学問仏教であるという批判がなされる。
一方天台宗側からは、この華厳宗の立場は、学問的に理で解するという方便がないと凡夫には入門しがたく、
その意味で華厳宗は現実と遊離しがちな理想論だという反論がなりたつ。
浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教宗旨のひとつで、法然を宗祖とする。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とする。
浄土専念宗とも呼ばれる。浄土真宗の別称もある(親鸞を開祖と仰ぐ浄土真宗とは別である)。
承安5年(1175年)、法然は43歳の時に、善導撰述の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏の道に進み、叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えをひろめた。
この年が、浄土宗の立教開宗の年とされる。その『観経疏』にある立教に至らしめた文言は、
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故
一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。
「南無阿弥陀仏」は、
阿弥陀仏に帰依(南無)しますの意。阿弥陀佛の選択によって、浄土宗における念仏はここから始まったと言っても過言ではない。
法然撰述の『選択本願念仏集』が、浄土宗の根本聖典となっており、教義の集大成となっている。
日常勤行で読まれる法然の「一枚起請文」は、死の直前に書かれ、浄土宗の教えの要である称名念仏の意味、心構え、態度について、簡潔に説明している。
法然在世時の歴史は、法然の生涯を

43 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

44 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

45 :
8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。
徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。
元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。
平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。
1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、
また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。
律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。
中国では、日本と異なり、正式な僧となるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。
東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡が四分律宗を開宗した。
その後、地論宗に属する慧光(468年 - 537年)が律宗の勢力を拡張した。
唐代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。
道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。
一方、法励(569年 - 635年)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素(625年 - 698年)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。
その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。
日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。
天平勝宝5年(753年)、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。
鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、
空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。
また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。
平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。
後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。
更に京都泉涌寺の俊?が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊?の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。
この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、
中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。
なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900年(明治33年)律宗として独立した。
中国において、大乗仏典のひとつ『大方広仏華厳経』(『華厳経』)を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派である。
開祖は杜順(557年-640年)、第2祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。
この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。
また朝鮮半島(古代新羅)にも伝わり、義湘(ウィサン)によって広められる。?????
日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。
金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像

46 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

47 :
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン?

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ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

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クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ

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ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

51 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇

52 :
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン?

53 :
ああああっ、もうダメッ! 
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!! 
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!! 
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ! 
ブババババババアアアアアアッッッッ!!!! 
んはああーーーーっっっ!!!ウッ、ウンッ、ウンコォォォッッ!!! 
ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!! 
おおっ!ウンコッ!!ウッ、ウンッ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もう 
ダメッ!!はうあああーーーーっっっ!!! 
ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!!! 
いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! 
ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!! 
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!! 
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!! 
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ! 
ブババババババアアアアアアッッッッ!!

54 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

55 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

56 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェー?デン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、

57 :
テクノ(英: Techno)とは、アメリカのミシガン州デトロイトを発祥とするエレクトロニ
ック・ダンス・ミュージックである。また別の概念として、1978年から1980年初期の日本
国内において、主に海外や国内のシンセサイザーを取り入れた音楽全般、特にニュー・ウ
ェーヴとクラフトワークに代表されるシンセ・ポップもしくはエレクトロ・ポップ、ヨー
ロッパの前衛音楽であったプログレッシブ・ロックの一部から現代音楽的な電子音楽その
もの、またはドイツやイタリアのユーロディスコといったディスコ音楽やハウスなど、多
岐にわたる音楽ジャンルを「テクノポップ」、ないしはその省略形として「テクノ」とま
とめて呼ぶムーブメントがあった[1]。それら「いわゆるテクノ」については別項テクノ
・ポップを参照すること。1980年初頭、アメリカのシカゴでは、その大半がゲイの黒人で
占められるクラブにおいてDJによるダンスミュージックのさまざまな実験的DJプレイが試
されていた[2][3](ハウス・ミュージックを参照)。そのような中、それまでのダンスミ
ュージックの歴史にはみられなかった画期的な出来事が起こっていた。音楽作成の素人で
あるDJや、作曲の知識がなく楽器の演奏もできないクラブ通いの少年たちがDIYでレコー
ドを作り始めたのだった[4][5]。それは当時DJプレイでも使われていたドラムマシンの単
調な反復のビートの上に、彼らの好きなレコードからベースラインやメロディを持ってき
て組み合わせるという非常に稚拙なつくりではあったが[6]、シカゴのDJたちはこぞって
それらのレコードを採用した。こうしたいわゆる「シカゴ・ハウス」や、そのサブジャン
ルであり偶然に生まれた「アシッド・ハウス」によるムーブメントが当時の地元シカゴで
は隆盛を極めていた[7][8]。1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり
、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によ
りこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる[9][10]。この音
楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集
団も組んでいたホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンらの、い
わゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区
であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつ
つも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな
音楽を志向し[11]、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。
特に第1人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通
して一定の名声を得ており、テクノの上においてもエレクトロの根底に通じる電子的な音
のギミックやファンクのベースラインを、思想としてアフロ・フューチャリズムと呼ばれ
る黒人特有のSF・未来志向を強調していた[12]。ハウス・ミュージックに触れる以前のデ
トロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったの
で、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジ
ョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見
られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流して
いたためとされる[13][14]。転機[編集]1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発の
レコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編
集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌「ザ・フェイス
」内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽
をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテ
クノと呼んでいる!」と答える。アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルが
つけられ、「テクノ!ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno!
- The New Dance Sound Of Detroit)は発売された[15][16][17]。このアルバムはヒッ
トし、さらにシングル盤として分けられた「インナー・シティ」の「ビッグ・ファン」(
英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚

58 :
は、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命
以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新し
い技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類
にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使い
こなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味
で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた[29]。一方で、世界で初め
てテクノと言う単語を電子音楽に当てはめたのは、クラフトワークやYMOが旋風を巻き起
こしていた1978年の日本の阿木譲であるという説もある。阿木が命名したのは「テクノポ
ップ」だが、ホアン・アトキンスが初めてTechnoという言葉を自曲に使ったのは、阿木の
「テクノポップ」命名から6年後、YMOのTechnopolisから5年後にあたる、Cybotron名義の
1984年のシングル「Techno City」である[30]。日本の国内事情[編集]1993年、日本人ア
ーティストのケン・イシイが学生時代に制作したデモテープがベルギーの有力なレーベル
R&Sに採用される。彼による1993年の「Pneuma」や1995年の「EXTRA」はヨーロッパの音楽
雑誌のヒットチャートにも登場し、日本発の初めてのテクノの成功者と言える。また1993
年から1995年にかけて、日本国内でもテクノやいわゆるIDMのレーベル活動が始まった。
代表的なレーベルとしてサブライム・レコーズ(Sublime Records)、フロッグマン・レ
コーズ(Frogman Rrecords)、サブボイス(Subvoice)、とれまレコード(TOREMA RECOR
DS)、サイジジー・レコーズ(Syzygy Records)などが挙げられる。1994年、それに答え
るかのように大手レコード会社のソニー・ミュージック(Sony Music Entertainment (Ja
pan) Inc.)から「ソニーテクノ」と名づけられたプロジェクトによりヨーロッパのテク
ノのレーベルの音源が大量にライセンスされ国内で販売された。翌年の1995年、今度は出
版界から「世界初のテクノ専門雑誌」と銘打たれた「ele-king」という雑誌も発行された
。ソニーテクノ、ele-king共に1990年代末には終息している。このように1990年代前半か
ら1990年代中盤の日本においてテクノが流行した。主なテクノ・ミュージシャン[編集]ク
ラフトワークMデリック・メイフランキー・ナックルズムーディ・マンセオ・パリッシュ
参考文献[編集]アルビン・トフラー 『第三の波』 日本放送出版協会、1980年。野田努
『ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』 河出書
房新社、2001年。ISBN 978-4-309-26494-3。美馬亜貴子 『テクノ・ポップ』 シンコーミ
ュージック、2004年。ISBN 978-4-401-61851-4。ビル・ブルースター、フランク・ブロー
トン 『そして、みんなクレイジーになっていく : DJは世界のエンターテインメントを支
配する神になった』 野田陽子訳、プロデュース・センター出版局、2003年。ISBN 978-4-
938456-64-1。ローラン・ガルニエ、野田努 『エレクトロ・ショック』 プラット・アレ
ックス、河出書房新社、2006年。ISBN 978-4-309-26911-5。^ 美馬 2004, p. 14^ ブルー
スター & ブロートン 2003, pp. 457-458, 471-472^ 野田 2001, pp. 92-93^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 472-477^ 野田 2001, pp. 102、107^ 野田 2001, p. 114^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 481-482^ 野田 2001, pp. 106-107^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 504^ 野田 2001, pp. 242-248^ 野田 2001, pp. 250-253^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 496-497, 507^ ブルースター & ブロートン 2003
, p. 498^ 野田 2001, pp. 196-202^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 497^ 野田
2001, pp. 264-265^ discogs^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 508^ ガルニエ &
野田 2006, pp. 32-37^ ガルニエ & 野田 2006, p. 130^ ブルースター & ブロートン 20
03, pp. 509-510^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 615-616^ 野田 2001, pp. 210
^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 506-507^ 野田 2001, pp. 330-331^ 野田 2001
, pp. 368-369^ 野田努「ブラック・マシーン・ミュージック」^ ブルースター & ブロー
トン 2003, pp. 505^ トフラー 1980, pp. 216-223^ discogs

59 :
は、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命
以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新し
い技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類
にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使い
こなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味
で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた[29]。一方で、世界で初め
てテクノと言う単語を電子音楽に当てはめたのは、クラフトワークやYMOが旋風を巻き起
こしていた1978年の日本の阿木譲であるという説もある。阿木が命名したのは「テクノポ
ップ」だが、ホアン・アトキンスが初めてTechnoという言葉を自曲に使ったのは、阿木の
「テクノポップ」命名から6年後、YMOのTechnopolisから5年後にあたる、Cybotron名義の
1984年のシングル「Techno City」である[30]。日本の国内事情[編集]1993年、日本人ア
ーティストのケン・イシイが学生時代に制作したデモテープがベルギーの有力なレーベル
R&Sに採用される。彼による1993年の「Pneuma」や1995年の「EXTRA」はヨーロッパの音楽
雑誌のヒットチャートにも登場し、日本発の初めてのテクノの成功者と言える。また1993
年から1995年にかけて、日本国内でもテクノやいわゆるIDMのレーベル活動が始まった。
代表的なレーベルとしてサブライム・レコーズ(Sublime Records)、フロッグマン・レ
コーズ(Frogman Rrecords)、サブボイス(Subvoice)、とれまレコード(TOREMA RECOR
DS)、サイジジー・レコーズ(Syzygy Records)などが挙げられる。1994年、それに答え
るかのように大手レコード会社のソニー・ミュージック(Sony Music Entertainment (Ja
pan) Inc.)から「ソニーテクノ」と名づけられたプロジェクトによりヨーロッパのテク
ノのレーベルの音源が大量にライセンスされ国内で販売された。翌年の1995年、今度は出
版界から「世界初のテクノ専門雑誌」と銘打たれた「ele-king」という雑誌も発行された
。ソニーテクノ、ele-king共に1990年代末には終息している。このように1990年代前半か
ら1990年代中盤の日本においてテクノが流行した。主なテクノ・ミュージシャン[編集]ク
ラフトワークMデリック・メイフランキー・ナックルズムーディ・マンセオ・パリッシュ
参考文献[編集]アルビン・トフラー 『第三の波』 日本放送出版協会、1980年。野田努
『ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』 河出書
房新社、2001年。ISBN 978-4-309-26494-3。美馬亜貴子 『テクノ・ポップ』 シンコーミ
ュージック、2004年。ISBN 978-4-401-61851-4。ビル・ブルースター、フランク・ブロー
トン 『そして、みんなクレイジーになっていく : DJは世界のエンターテインメントを支
配する神になった』 野田陽子訳、プロデュース・センター出版局、2003年。ISBN 978-4-
938456-64-1。ローラン・ガルニエ、野田努 『エレクトロ・ショック』 プラット・アレ
ックス、河出書房新社、2006年。ISBN 978-4-309-26911-5。^ 美馬 2004, p. 14^ ブルー
スター & ブロートン 2003, pp. 457-458, 471-472^ 野田 2001, pp. 92-93^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 472-477^ 野田 2001, pp. 102、107^ 野田 2001, p. 114^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 481-482^ 野田 2001, pp. 106-107^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 504^ 野田 2001, pp. 242-248^ 野田 2001, pp. 250-253^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 496-497, 507^ ブルースター & ブロートン 2003
, p. 498^ 野田 2001, pp. 196-202^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 497^ 野田
2001, pp. 264-265^ discogs^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 508^ ガルニエ &
野田 2006, pp. 32-37^ ガルニエ & 野田 2006, p. 130^ ブルースター & ブロートン 20
03, pp. 509-510^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 615-616^ 野田 2001, pp. 210
^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 506-507^ 野田 2001, pp. 330-331^ 野田 2001
, pp. 368-369^ 野田努「ブラック・マシーン・ミュージック」^ ブルースター & ブロー
トン 2003, pp. 505^ トフラー 1980, pp. 216-223^ discogs

60 :
テクノ(英: Techno)とは、アメリカのミシガン州デトロイトを発祥とするエレクトロニ
ック・ダンス・ミュージックである。また別の概念として、1978年から1980年初期の日本
国内において、主に海外や国内のシンセサイザーを取り入れた音楽全般、特にニュー・ウ
ェーヴとクラフトワークに代表されるシンセ・ポップもしくはエレクトロ・ポップ、ヨー
ロッパの前衛音楽であったプログレッシブ・ロックの一部から現代音楽的な電子音楽その
もの、またはドイツやイタリアのユーロディスコといったディスコ音楽やハウスなど、多
岐にわたる音楽ジャンルを「テクノポップ」、ないしはその省略形として「テクノ」とま
とめて呼ぶムーブメントがあった[1]。それら「いわゆるテクノ」については別項テクノ
・ポップを参照すること。1980年初頭、アメリカのシカゴでは、その大半がゲイの黒人で
占められるクラブにおいてDJによるダンスミュージックのさまざまな実験的DJプレイが試
されていた[2][3](ハウス・ミュージックを参照)。そのような中、それまでのダンスミ
ュージックの歴史にはみられなかった画期的な出来事が起こっていた。音楽作成の素人で
あるDJや、作曲の知識がなく楽器の演奏もできないクラブ通いの少年たちがDIYでレコー
ドを作り始めたのだった[4][5]。それは当時DJプレイでも使われていたドラムマシンの単
調な反復のビートの上に、彼らの好きなレコードからベースラインやメロディを持ってき
て組み合わせるという非常に稚拙なつくりではあったが[6]、シカゴのDJたちはこぞって
それらのレコードを採用した。こうしたいわゆる「シカゴ・ハウス」や、そのサブジャン
ルであり偶然に生まれた「アシッド・ハウス」によるムーブメントが当時の地元シカゴで
は隆盛を極めていた[7][8]。1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり
、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によ
りこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる[9][10]。この音
楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集
団も組んでいたホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンらの、い
わゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区
であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつ
つも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな
音楽を志向し[11]、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。
特に第1人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通
して一定の名声を得ており、テクノの上においてもエレクトロの根底に通じる電子的な音
のギミックやファンクのベースラインを、思想としてアフロ・フューチャリズムと呼ばれ
る黒人特有のSF・未来志向を強調していた[12]。ハウス・ミュージックに触れる以前のデ
トロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったの
で、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジ
ョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見
られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流して
いたためとされる[13][14]。転機[編集]1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発の
レコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編
集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌「ザ・フェイス
」内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽
をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテ
クノと呼んでいる!」と答える。アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルが
つけられ、「テクノ!ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno!
- The New Dance Sound Of Detroit)は発売された[15][16][17]。このアルバムはヒッ
トし、さらにシングル盤として分けられた「インナー・シティ」の「ビッグ・ファン」(
英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚

61 :
は、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命
以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新し
い技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類
にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使い
こなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味
で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた[29]。一方で、世界で初め
てテクノと言う単語を電子音楽に当てはめたのは、クラフトワークやYMOが旋風を巻き起
こしていた1978年の日本の阿木譲であるという説もある。阿木が命名したのは「テクノポ
ップ」だが、ホアン・アトキンスが初めてTechnoという言葉を自曲に使ったのは、阿木の
「テクノポップ」命名から6年後、YMOのTechnopolisから5年後にあたる、Cybotron名義の
1984年のシングル「Techno City」である[30]。日本の国内事情[編集]1993年、日本人ア
ーティストのケン・イシイが学生時代に制作したデモテープがベルギーの有力なレーベル
R&Sに採用される。彼による1993年の「Pneuma」や1995年の「EXTRA」はヨーロッパの音楽
雑誌のヒットチャートにも登場し、日本発の初めてのテクノの成功者と言える。また1993
年から1995年にかけて、日本国内でもテクノやいわゆるIDMのレーベル活動が始まった。
代表的なレーベルとしてサブライム・レコーズ(Sublime Records)、フロッグマン・レ
コーズ(Frogman Rrecords)、サブボイス(Subvoice)、とれまレコード(TOREMA RECOR
DS)、サイジジー・レコーズ(Syzygy Records)などが挙げられる。1994年、それに答え
るかのように大手レコード会社のソニー・ミュージック(Sony Music Entertainment (Ja
pan) Inc.)から「ソニーテクノ」と名づけられたプロジェクトによりヨーロッパのテク
ノのレーベルの音源が大量にライセンスされ国内で販売された。翌年の1995年、今度は出
版界から「世界初のテクノ専門雑誌」と銘打たれた「ele-king」という雑誌も発行された
。ソニーテクノ、ele-king共に1990年代末には終息している。このように1990年代前半か
ら1990年代中盤の日本においてテクノが流行した。主なテクノ・ミュージシャン[編集]ク
ラフトワークMデリック・メイフランキー・ナックルズムーディ・マンセオ・パリッシュ
参考文献[編集]アルビン・トフラー 『第三の波』 日本放送出版協会、1980年。野田努
『ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』 河出書
房新社、2001年。ISBN 978-4-309-26494-3。美馬亜貴子 『テクノ・ポップ』 シンコーミ
ュージック、2004年。ISBN 978-4-401-61851-4。ビル・ブルースター、フランク・ブロー
トン 『そして、みんなクレイジーになっていく : DJは世界のエンターテインメントを支
配する神になった』 野田陽子訳、プロデュース・センター出版局、2003年。ISBN 978-4-
938456-64-1。ローラン・ガルニエ、野田努 『エレクトロ・ショック』 プラット・アレ
ックス、河出書房新社、2006年。ISBN 978-4-309-26911-5。^ 美馬 2004, p. 14^ ブルー
スター & ブロートン 2003, pp. 457-458, 471-472^ 野田 2001, pp. 92-93^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 472-477^ 野田 2001, pp. 102、107^ 野田 2001, p. 114^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 481-482^ 野田 2001, pp. 106-107^ ブルースタ
ー & ブロートン 2003, pp. 504^ 野田 2001, pp. 242-248^ 野田 2001, pp. 250-253^
ブルースター & ブロートン 2003, pp. 496-497, 507^ ブルースター & ブロートン 2003
, p. 498^ 野田 2001, pp. 196-202^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 497^ 野田
2001, pp. 264-265^ discogs^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 508^ ガルニエ &
野田 2006, pp. 32-37^ ガルニエ & 野田 2006, p. 130^ ブルースター & ブロートン 20
03, pp. 509-510^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 615-616^ 野田 2001, pp. 210
^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 506-507^ 野田 2001, pp. 330-331^ 野田 2001
, pp. 368-369^ 野田努「ブラック・マシーン・ミュージック」^ ブルースター & ブロー
トン 2003, pp. 505^ トフラー 1980, pp. 216-223^ discogs

62 :
テクノ(英: Techno)とは、アメリカのミシガン州デトロイトを発祥とするエレクトロニ
ック・ダンス・ミュージックである。また別の概念として、1978年から1980年初期の日本
国内において、主に海外や国内のシンセサイザーを取り入れた音楽全般、特にニュー・ウ
ェーヴとクラフトワークに代表されるシンセ・ポップもしくはエレクトロ・ポップ、ヨー
ロッパの前衛音楽であったプログレッシブ・ロックの一部から現代音楽的な電子音楽その
もの、またはドイツやイタリアのユーロディスコといったディスコ音楽やハウスなど、多
岐にわたる音楽ジャンルを「テクノポップ」、ないしはその省略形として「テクノ」とま
とめて呼ぶムーブメントがあった[1]。それら「いわゆるテクノ」については別項テクノ
・ポップを参照すること。1980年初頭、アメリカのシカゴでは、その大半がゲイの黒人で
占められるクラブにおいてDJによるダンスミュージックのさまざまな実験的DJプレイが試
されていた[2][3](ハウス・ミュージックを参照)。そのような中、それまでのダンスミ
ュージックの歴史にはみられなかった画期的な出来事が起こっていた。音楽作成の素人で
あるDJや、作曲の知識がなく楽器の演奏もできないクラブ通いの少年たちがDIYでレコー
ドを作り始めたのだった[4][5]。それは当時DJプレイでも使われていたドラムマシンの単
調な反復のビートの上に、彼らの好きなレコードからベースラインやメロディを持ってき
て組み合わせるという非常に稚拙なつくりではあったが[6]、シカゴのDJたちはこぞって
それらのレコードを採用した。こうしたいわゆる「シカゴ・ハウス」や、そのサブジャン
ルであり偶然に生まれた「アシッド・ハウス」によるムーブメントが当時の地元シカゴで
は隆盛を極めていた[7][8]。1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり
、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によ
りこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる[9][10]。この音
楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集
団も組んでいたホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンらの、い
わゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区
であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつ
つも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな
音楽を志向し[11]、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。
特に第1人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通
して一定の名声を得ており、テクノの上においてもエレクトロの根底に通じる電子的な音
のギミックやファンクのベースラインを、思想としてアフロ・フューチャリズムと呼ばれ
る黒人特有のSF・未来志向を強調していた[12]。ハウス・ミュージックに触れる以前のデ
トロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったの
で、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジ
ョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見
られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流して
いたためとされる[13][14]。転機[編集]1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発の
レコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編
集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌「ザ・フェイス
」内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽
をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテ
クノと呼んでいる!」と答える。アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルが
つけられ、「テクノ!ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno!
- The New Dance Sound Of Detroit)は発売された[15][16][17]。このアルバムはヒッ
トし、さらにシングル盤として分けられた「インナー・シティ」の「ビッグ・ファン」(
英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚

63 :
ア正教会渉外局長でありロシア正教会のナンバー2と
目されるキリル府主教(肩書当時)が弔問に訪れてもいる。駐伊ロシア大使館の敷地内に新しく建てられたロシア正教会の聖堂である、アレク
サンドリアの聖エカテリナ教会を2006年5月19日に成聖するためにキリル府主教がイタリアを訪れた際には、ローマ教皇ベネディクト16世
とキリル府主教が会見を行った。また前日の18日の記念演奏会で、教皇庁正義と平和評議会元議長ロジェ・エチガライ枢機卿が教皇の名にお
いて祝辞を述べ、キリル府主教はこれに対し共に祈ることと対話・協力の大切さを強調する言葉で応じた。また歴史的に、ロシア正教会は一貫
して反西方教会一色であった訳ではない。神学上・教会法上の一定の親和性があったこと、ロシアのロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴ
ァー朝が親戚関係にあったこと、ウクライナにおけるローマカトリック教会との深刻な管轄対立に類するような問題がないこと等から、聖公会
との関係深化の話し合いはロシア革命までは継続されていた。ただし2010年現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくな
っている。日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭(のち大主教)ニコライである。正教会は、三国干渉、日露戦争などにより日本におけ
る対露感情が悪化していく悪条件の中、一時期はカトリック教会に次ぐ教勢を獲得するに至った。しかしながらニコライ死後、ロシア革命の勃
発により、宗教弾圧を行う共産主義政権の下で監視下にあるモスクワ総主教庁の指導下にあり続ける事への不安や疑義から、日本の正教会内に
おいてもロシア正教会と距離を置くべきとする議論が高まった。この流れの中で、戦前には日本正教会は在外ロシア正教会で主教が叙聖される
などしてこれと関係をもち(ニコライ小野帰一)、戦後はGHQの圧力もあってアメリカ正教会の身である北米メトロポリアの指導下に入った。
1970年になり、北米メトロポリアがモスクワ総主教庁との関係を回復して独立正教会になるに際し、日本ハリストス正教会もモスクワ総主教庁
との関係を回復して自治教会となった。首座主教である全日本の府主教の認可はモスクワ総主教によって行われる一方、財政と信仰生活は完全
にロシア正教会から独立しており、教会運営においてほぼ完全な自治を行っている。ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、ロシア正
教会駐日ポドヴォリエ(国家における大使館的な役割を果たす、正教会における組織の種別)がある。元来は、原始キリスト教の五大総主教座
(ローマ、コンスタンディヌポリス、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)のひとつで、きわめて古い伝統をもつ。かつては東ロ
ーマ帝国の首都の教会として、また東方正教会の首長として、東ローマ皇帝に任命された総主教が東ローマ帝国領だった現在のトルコ・ギリシ
ャからブルガリア・セルビア、さらにはロシアまでを管轄し、ローマ教皇とキリスト教会の首位の座を争うほどの地位を誇っていた。また、東
ローマ皇帝が幼帝のときに総主教が摂政となった例も複数あり、聖俗に渡って影響力を持っていた。当時の総主教座はアギア・ソフィア大聖堂
(現・アヤソフィア博物館)に置かれていた。東ローマ帝国では皇帝教皇主義がとられていた、皇帝が総主教を兼任していたという説が流布し
ているが、いずれも誤りである。建前上は総主教と皇帝は聖俗の役割分担が規定されており、また実質的にもコンスタンディヌーポリ総主教が
皇帝レオーン6世の再婚問題に際して、アギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた事例にもみられるように、常に皇帝が教会に対して絶対
的な権力を行使できたわけではない。また、コンスタンディヌーポリ総主教を東ローマ帝国皇帝が兼任したこともなかった。詳細は「皇帝教皇
主義」および「ビザンティン・ハーモニー」を参照オスマン帝国統治の時代は、東方正教会に属するギリシャ人、セルビア人、ルーマニア人、
ブルガリア人、ヴラフ人(アルーマニア人)、正教徒アルバニア人、正教徒アラブ人を管轄する行政区分(ミッレト)の長となり、総主教の下の
大主教や主教が、正教徒の行政・司法・教育を担当し、宗教税を徴収した。現代では、各国の正教会が独立したために、主にトルコ国内のギリ
シャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみとなっているが、コンスタンディヌーポリ総
主教は「全地総主教(エキュメニカル総主教、世界総主教)」[5][6]という称号を持ち、正教会の各教会の中でも第1位の格式を持っている。
敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛するこ
とに成功したが、北フィンラン?

64 :
          /'゙´,_/'″  . `\
          : ./   i./ ,,..、    ヽ
         . /    /. l, ,!     `,
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           (´゛ ,/ llヽ            |
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         / ...│  ゙l,  l゙゙t, ''ii_    :.!
        : /.._ /    ヽ \\.`゙~''''''"./ 
        .|-゙ノ/   : ゝ .、 ` .`''←┬゛
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       . | ./ l      ”'、 .゙ゝ........ん
       l  /     ヽ .`' `、、  .,i゛
       .l|  !    ''''v,    ゙''ー .l、
       |l゙ .il、  .l  .ヽ  .?---イ
      .ll゙, ./    !            ,!
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65 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

66 :
.16 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO vol.2 RIZE 東放学園アトリエクマノ wait..
.2016.10.30 中部 DANCE@LIVE 2017 KIDS CHUBU vol.2 KIDS pineapple studio 名駅
wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKKAIDO CLIMAX KIDS sapporo a-
life wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKKAIDO HIPHOP HOUSE B
REAK ALLSTYLES sapporo a-life wait...2016.11.13 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KA
NTO vol.4 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.11.19 九州 DANCE@LIVE 2017
4STYLES KYUSHU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE 未定 wait...2016.11.20 九州 DANCE@
LIVE 2017 4STYLES KYUSHU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES 未定 wait...2016.11
.20 北海道 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKKAIDO vol.2 RIZE wait...2016.11.23 東北
DANCE@LIVE 2017 KIDS TOHOKU CLIMAX KIDS wait...2016.11.23 東北 DANCE@LIVE 2
017 RIZE TOHOKU CLIMAX RIZE wait...2016.11.26 中部 DANCE@LIVE 2017 4STYLES
CHUBU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE LAWL NAGOYA (旧PLUS PARK) wait...2016.11.27
関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI vol.2 KIDS 未定 wait...2016.11.27 中部 DANC
E@LIVE 2017 4STYLES CHUBU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES LAWL NAGOYA (旧PLU
S PARK) wait...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKURIKU CLIMAX KIDS wa
it...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKURIKU CLIMAX RIZE wait...2016.
11.xx 北陸 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKURIKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wa
it...2016.12.05 関東 DANCE@LIVE 2017 HOUSE KANTO vol.4 HOUSE Shibuya eggman wa
it...2016.12.06 関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.4 HIPHOP Shibuya eggman
wait...2016.12.07 関東 DANCE@LIVE 2017 ALL STYLES KANTO vol.4 ALLSTYLES Shib
uya eggman wait...2016.12.10 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO CLIMAX RIZE ベル
エポック美容専門学校第二校舎 wait...2016.12.11 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KANT
O vol.5 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.12.11 中部 DANCE@LIVE 2017 RI
ZE CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2016.12.xx 東北 DANCE@LIVE 2
017 4STYLES TOHOKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wait...2017.01.08 中部 DANC
E@LIVE 2017 KIDS CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2017.01.09 関東
DANCE@LIVE 2017 HOUSE KANTO vol.5 HOUSE Shibuya eggman wait...2017.01.09 九州
DANCE@LIVE 2017 KIDS KYUSHU CLIMAX KIDS the Voodoo Lounge wait...2017.01.10
関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.5 HIPHOP Shibuya eggman wait...2017.01
.11 関東 DANCE@LIVE 2017 ALL STYLES KANTO vol.5 ALLSTYLES Shibuya eggman wait
...2017.01.13 九州 DANCE@LIVE 2017 RIZE KYUSHU CLIMAX RIZE B-THREE wait...201
7.01.14 北海道 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKKAIDO CLIMAX RIZE wait...2017.01.15
(未定) 関東 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANTO CLIMAX KIDS ベルエポック美容専門学校第
二校舎 wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI CLIMAX KIDS 未定
wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 4STYLES KANSAI CHARISMAX HIPHOP HOUSE B
REAK ALLSTYLES 未定 wait...

67 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
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.16 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO vol.2 RIZE 東放学園アトリエクマノ wait..
.2016.10.30 中部 DANCE@LIVE 2017 KIDS CHUBU vol.2 KIDS pineapple studio 名駅
wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKKAIDO CLIMAX KIDS sapporo a-
life wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKKAIDO HIPHOP HOUSE B
REAK ALLSTYLES sapporo a-life wait...2016.11.13 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KA
NTO vol.4 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.11.19 九州 DANCE@LIVE 2017
4STYLES KYUSHU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE 未定 wait...2016.11.20 九州 DANCE@
LIVE 2017 4STYLES KYUSHU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES 未定 wait...2016.11
.20 北海道 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKKAIDO vol.2 RIZE wait...2016.11.23 東北
DANCE@LIVE 2017 KIDS TOHOKU CLIMAX KIDS wait...2016.11.23 東北 DANCE@LIVE 2
017 RIZE TOHOKU CLIMAX RIZE wait...2016.11.26 中部 DANCE@LIVE 2017 4STYLES
CHUBU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE LAWL NAGOYA (旧PLUS PARK) wait...2016.11.27
関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI vol.2 KIDS 未定 wait...2016.11.27 中部 DANC
E@LIVE 2017 4STYLES CHUBU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES LAWL NAGOYA (旧PLU
S PARK) wait...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKURIKU CLIMAX KIDS wa
it...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKURIKU CLIMAX RIZE wait...2016.
11.xx 北陸 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKURIKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wa
it...2016.12.05 関東 DANCE@LIVE 2017 HOUSE KANTO vol.4 HOUSE Shibuya eggman wa
it...2016.12.06 関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.4 HIPHOP Shibuya eggman
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uya eggman wait...2016.12.10 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO CLIMAX RIZE ベル
エポック美容専門学校第二校舎 wait...2016.12.11 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KANT
O vol.5 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.12.11 中部 DANCE@LIVE 2017 RI
ZE CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2016.12.xx 東北 DANCE@LIVE 2
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E@LIVE 2017 KIDS CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2017.01.09 関東
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(未定) 関東 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANTO CLIMAX KIDS ベルエポック美容専門学校第
二校舎 wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI CLIMAX KIDS 未定
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.2016.10.30 中部 DANCE@LIVE 2017 KIDS CHUBU vol.2 KIDS pineapple studio 名駅
wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKKAIDO CLIMAX KIDS sapporo a-
life wait...2016.11.03 北海道 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKKAIDO HIPHOP HOUSE B
REAK ALLSTYLES sapporo a-life wait...2016.11.13 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KA
NTO vol.4 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.11.19 九州 DANCE@LIVE 2017
4STYLES KYUSHU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE 未定 wait...2016.11.20 九州 DANCE@
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E@LIVE 2017 4STYLES CHUBU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES LAWL NAGOYA (旧PLU
S PARK) wait...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKURIKU CLIMAX KIDS wa
it...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKURIKU CLIMAX RIZE wait...2016.
11.xx 北陸 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKURIKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wa
it...2016.12.05 関東 DANCE@LIVE 2017 HOUSE KANTO vol.4 HOUSE Shibuya eggman wa
it...2016.12.06 関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.4 HIPHOP Shibuya eggman
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uya eggman wait...2016.12.10 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO CLIMAX RIZE ベル
エポック美容専門学校第二校舎 wait...2016.12.11 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KANT
O vol.5 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.12.11 中部 DANCE@LIVE 2017 RI
ZE CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2016.12.xx 東北 DANCE@LIVE 2
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E@LIVE 2017 KIDS CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2017.01.09 関東
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(未定) 関東 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANTO CLIMAX KIDS ベルエポック美容専門学校第
二校舎 wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI CLIMAX KIDS 未定
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.16 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO vol.2 RIZE 東放学園アトリエクマノ wait..
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NTO vol.4 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.11.19 九州 DANCE@LIVE 2017
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017 RIZE TOHOKU CLIMAX RIZE wait...2016.11.26 中部 DANCE@LIVE 2017 4STYLES
CHUBU (HIPHOP&HOUSE) HIPHOP HOUSE LAWL NAGOYA (旧PLUS PARK) wait...2016.11.27
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E@LIVE 2017 4STYLES CHUBU (BREAK&ALL STYLES) BREAK ALLSTYLES LAWL NAGOYA (旧PLU
S PARK) wait...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 KIDS HOKURIKU CLIMAX KIDS wa
it...2016.11.27 北陸 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKURIKU CLIMAX RIZE wait...2016.
11.xx 北陸 DANCE@LIVE 2017 4STYLES HOKURIKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wa
it...2016.12.05 関東 DANCE@LIVE 2017 HOUSE KANTO vol.4 HOUSE Shibuya eggman wa
it...2016.12.06 関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.4 HIPHOP Shibuya eggman
wait...2016.12.07 関東 DANCE@LIVE 2017 ALL STYLES KANTO vol.4 ALLSTYLES Shib
uya eggman wait...2016.12.10 関東 DANCE@LIVE 2017 RIZE KANTO CLIMAX RIZE ベル
エポック美容専門学校第二校舎 wait...2016.12.11 関東 DANCE@LIVE 2017 BREAK KANT
O vol.5 BREAK 東放学園アトリエクマノ wait...2016.12.11 中部 DANCE@LIVE 2017 RI
ZE CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2016.12.xx 東北 DANCE@LIVE 2
017 4STYLES TOHOKU HIPHOP HOUSE BREAK ALLSTYLES wait...2017.01.08 中部 DANC
E@LIVE 2017 KIDS CHUBU CLIMAX KIDS pineapple studio 名駅 wait...2017.01.09 関東
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DANCE@LIVE 2017 KIDS KYUSHU CLIMAX KIDS the Voodoo Lounge wait...2017.01.10
関東 DANCE@LIVE 2017 HIPHOP KANTO vol.5 HIPHOP Shibuya eggman wait...2017.01
.11 関東 DANCE@LIVE 2017 ALL STYLES KANTO vol.5 ALLSTYLES Shibuya eggman wait
...2017.01.13 九州 DANCE@LIVE 2017 RIZE KYUSHU CLIMAX RIZE B-THREE wait...201
7.01.14 北海道 DANCE@LIVE 2017 RIZE HOKKAIDO CLIMAX RIZE wait...2017.01.15
(未定) 関東 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANTO CLIMAX KIDS ベルエポック美容専門学校第
二校舎 wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 KIDS KANSAI CLIMAX KIDS 未定
wait...2017.01.21 関西 DANCE@LIVE 2017 4STYLES KANSAI CHARISMAX HIPHOP HOUSE B
REAK ALLSTYLES 未定 wait...

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ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

74 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

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べて見る4 9318 アジア開発キャピ 現在値 14  前日比(%) +2 (+16.67%)04/27 17:
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うのストップ高銘柄=10日―19銘柄(気配含まず/一時含む)関連ニュースをすべて
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見る7 6338 タカトリ 現在値 1,296  前日比(%) +168 (+14.89%)05/13 15:30タカ
トリ<6338.T>:16年9月期中間単体 黒字転換1.87億円、16年9月期予想2.3億円の黒字05/1
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19:30タカトリ、医療関連で注目―「モバイルCART装置」に関心 <6338.T>関連ニュ
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0日鍛バル<6493.T>:連結、16年3月05/10 16:00日鍛バル<6493.T>:16年3月期単体決算予
想、当期利益2.6億円、下方修正05/10 16:00日鍛バル<6493.T>:16年3月期連結決算予想関
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+11.68%)05/16 10:05レーティング情報(目標株価変更・その1)=大和ハウス、アコー
ディアなど05/13 15:30アサヒインテック<7747.T>:16年6月期9カ月連結関連ニュースを
すべて見る10 5398 日本研紙 現在値 96  前日比(%) +10 (+11.63%)05/13 16:00
日研紙<5398.T>:16年12月期第1四半期連結04/25 08:44信用取引情報=テラスカイ、エデ
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1)=大和ハウス、アコーディアなど05/13 13:20上村工業<4966.T>:連結、16年3月05/1
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.02億円、17年3月期予想27.0 %減4.4億円関連ニュースをすべて見る14 5856 東理HD 現
在値 77  前日比(%) +5 (+6.94%)05/16 16:00東理HD<5856.T>:単体、16年3月当
期 310.0 %増4.71億円、17年3月期予想4.6 %減4.49億円05/16 16:00東理HD<5856.T>:
連結、16年3月関連ニュースをすべて見る15 4766 ピーエイ 現在値 164  前日比(%
) +10 (+6.49%)05/16 15:30ピーエイ<4766.T>:16年12月期第1四半期連結関連ニュース
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日伸銅<5753.T>:単体、16年3月当期 黒字転換8.44億円、17年3月期予想91.7 %減7000万
円04/27 16:00日伸銅<5753.T>:16年3月期配当予想04/27 16:00日伸銅<5753.T>:16年3月期
単体決算予想、当期利益8.4億円、上方修正関連ニュースをすべて見る17 6137 小池酸素
工業 現在値 247  前日比(%) +14 (+6.01%)05/13 17:00小池酸工<6137.T>:連結、
16年3月05/13 17:00小池酸工<6137.T>:単体、16年3月当期 利益11.11億円、前年比26.4
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<7460.T>:連結、16年3月05/13 16:00ヤギ<7460.T>:単体、16年3月当期 利益14.14億円
、前年比17.8 %増関連ニュースをすべて見る19 5103 昭和HD 現在値 97  前日比(

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ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

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17年3月期予想30.5 %増4億円関連ニュースをすべて見る34 6061 ユニバ園芸 現在値 2,5
18  前日比(%) +111 (+4.61%)05/12 15:30ユニバ園芸<6061.T>:16年6月期9カ月連
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%) +109 (+4.45%)05/12 15:00ミズホメディー<4595.T>:16年12月期第1四半期単体 利
益1.27億円、16年12月期予想36.7 %増3.52億円関連ニュースをすべて見る39 9696 ウィ
ザス 現在値 330  前日比(%) +14 (+4.43%)05/13 15:15ウィザス<9696.T>:連結、
16年3月05/13 15:15ウィザス<9696.T>:単体、16年3月当期 利益4.36億円、前年比37.8 %
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月期予想2.16億円の黒字関連ニュースをすべて見る41 2185 シイエム・シイ 現在値 2,5
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D<6942.T>:単体、16年3月当期 損失2.74億円、赤字幅縮小関連ニュースをすべて見る43
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シーコア 現在値 996  前日比(%) +36 (+3.75%)05/13 15:10アールシーコア<7837.
T>:連結、16年3月05/13 15:10アールシーコア<7837.T>:単体、16年3月当期 利益4.66億
円、前年比18.4 %減関連ニュースをすべて見る47 2813 和弘食品 現在値 285  前日比
(%) +10 (+3.64%)05/10 14:00和弘食品<2813.T>:連結、16年3月05/06 14:00和弘食
品<2813.T>:16年3月期連結決算予想関連ニュースをすべて見る48 7169 ニュートンFC
現在値 1,446  前日比(%) +50 (+3.58%)05/13 17:56東証2016年3月期決算発
表スケジュール=5月19日(木)関連ニュースをすべて見る49 6416 桂川電機 現在値
118  前日比(%) +4 (+3.51%)該当するニュースはありません。関連ニュースをすべ
て見る50 9647 協和コンサル 現在値 149  前日比(%) +5 (+3.47%)該当するニュー
スはありません。値上がり率上位(%)(名証)更新1 3032 ゴルフ・ドゥ 現在値 391
  前日比(%) +33 (+9.22%)05/16 15:40GOLFDO<3032.NG>:連結、16年3月05/
16 15:40GOLFDO<3032.NG>:単体、16年3月当期 利益3800万円、前年比127.2 %増関
連ニュースをすべて見る2 3419 アートグリーン 現在値 507  前日比(%) +29 (+6.0

80 :
17年3月期予想30.5 %増4億円関連ニュースをすべて見る34 6061 ユニバ園芸 現在値 2,5
18  前日比(%) +111 (+4.61%)05/12 15:30ユニバ園芸<6061.T>:16年6月期9カ月連
結関連ニュースをすべて見る35 7922 三光産業 現在値 390  前日比(%) +17 (+4.5
6%)05/13 16:00三光産業<7922.T>:連結、16年3月05/13 16:00三光産業<7922.T>:単体
、16年3月当期 91.7 %減2200万円、17年3月期予想4.8億円05/02 16:00三光産業<7922.T>:
16年3月期連結決算予想05/02 16:00三光産業<7922.T>:16年3月期単体決算予想、当期利益
2000万円、下方修正関連ニュースをすべて見る36 3042 セキュアヴェイル 現在値 720 
 前日比(%) +31 (+4.50%)05/12 18:30セキュアヴェイル<3042.T>:単体、16年3月当
期 36.8 %増4400万円、17年3月期予想63.3 %減1600万円関連ニュースをすべて見る37 49
20 日本色材 現在値 326  前日比(%) +14 (+4.49%)04/18 16:5619日のカラ売り
規制銘柄、ゲンキー、Eガディアン、アトネイチャなど04/18 14:20ナガオカが一時スト
ップ安しジャスダック値下がり率トップ、16年6月期損益が一転して赤字に04/18 10:5
6ゲンダイAGがジャスダック値下がり率上位、17年3月期は減収減益に年間配当は減
額を計画関連ニュースをすべて見る38 4595 ミズホメディー 現在値 2,559  前日比(
%) +109 (+4.45%)05/12 15:00ミズホメディー<4595.T>:16年12月期第1四半期単体 利
益1.27億円、16年12月期予想36.7 %増3.52億円関連ニュースをすべて見る39 9696 ウィ
ザス 現在値 330  前日比(%) +14 (+4.43%)05/13 15:15ウィザス<9696.T>:連結、
16年3月05/13 15:15ウィザス<9696.T>:単体、16年3月当期 利益4.36億円、前年比37.8 %
増関連ニュースをすべて見る40 6314 石井工作研究所 現在値 316  前日比(%) +13
(+4.29%)05/13 16:00石井工研<6314.T>:単体、16年3月当期 黒字転換1.53億円、17年3
月期予想2.16億円の黒字関連ニュースをすべて見る41 2185 シイエム・シイ 現在値 2,5
85  前日比(%) +105 (+4.23%)05/13 15:00シイエム・シイ<2185.T>:16年9月期中
間連結05/06 17:25東証2016年9月期第2四半期決算発表スケジュール=5月13日
(金)関連ニュースをすべて見る42 6942 ソフィアHD 現在値 154  前日比(%) +
6 (+4.05%)05/16 16:00ソフィア HD<6942.T>:連結、16年3月05/16 16:00ソフィア H
D<6942.T>:単体、16年3月当期 損失2.74億円、赤字幅縮小関連ニュースをすべて見る43
6266 タツモ 現在値 1,207  前日比(%) +47 (+4.05%)05/13 15:30タツモ<6266.T
>:16年12月期第1四半期連結関連ニュースをすべて見る44 5997 協立エアテック 現在値
533  前日比(%) +20 (+3.90%)05/13 15:10協立エアテク<5997.T>:16年12月期第1
四半期連結関連ニュースをすべて見る45 2481 タウンニュース社 現在値 402  前日比
(%) +15 (+3.88%)04/28 15:00タウンニュース<2481.T>:16年6月期9カ月単体 20.1 %
減2.41億円、16年6月期予想18.0 %減2.5億円関連ニュースをすべて見る46 7837 アール
シーコア 現在値 996  前日比(%) +36 (+3.75%)05/13 15:10アールシーコア<7837.
T>:連結、16年3月05/13 15:10アールシーコア<7837.T>:単体、16年3月当期 利益4.66億
円、前年比18.4 %減関連ニュースをすべて見る47 2813 和弘食品 現在値 285  前日比
(%) +10 (+3.64%)05/10 14:00和弘食品<2813.T>:連結、16年3月05/06 14:00和弘食
品<2813.T>:16年3月期連結決算予想関連ニュースをすべて見る48 7169 ニュートンFC
現在値 1,446  前日比(%) +50 (+3.58%)05/13 17:56東証2016年3月期決算発
表スケジュール=5月19日(木)関連ニュースをすべて見る49 6416 桂川電機 現在値
118  前日比(%) +4 (+3.51%)該当するニュースはありません。関連ニュースをすべ
て見る50 9647 協和コンサル 現在値 149  前日比(%) +5 (+3.47%)該当するニュー
スはありません。値上がり率上位(%)(名証)更新1 3032 ゴルフ・ドゥ 現在値 391
  前日比(%) +33 (+9.22%)05/16 15:40GOLFDO<3032.NG>:連結、16年3月05/
16 15:40GOLFDO<3032.NG>:単体、16年3月当期 利益3800万円、前年比127.2 %増関
連ニュースをすべて見る2 3419 アートグリーン 現在値 507  前日比(%) +29 (+6.0

81 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

82 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

83 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

84 :
が日本に入った。
次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。
最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。
最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。
また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、
菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、
僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、
南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。
論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、
その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、
密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、
空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、
円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。
したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、
智の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。
井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に
発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。
さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、
平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗な

85 :
クワ総主教庁と北米メトロポリア、そして日本正教会との間で合意が取り交わされ、北米メトロポリアはアメリカ正教会として独立教会となり、
モスクワと関係を回復した上で日本正教会は自治教会となった。ニコライ・カサートキンは亜使徒として列聖された。この直前(1969年9月)、
経緯説明のためにアレクサンドル・シュメーマン神父が来日している。若干の混乱はいまだ続いていたものの、ここに日本正教会は一応安定す
ることとなった。ウラジミル・ナゴスキーが府主教・東京の大主教に、フェオドシイ永島新二が京都の主教に、セラフィム・シグリストが仙台
の主教に就任した。一方、モスクワの直接管轄下にあったグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。ほどなくしてウラ
ジミル・ナゴスキー府主教が引退すると、フェオドシイ永島新二が府主教に就任。長く日本正教会の指導にあたった。ことにフェオドシイ永島
府主教の下で日本正教会は長らく懸案であった財政基盤を安定的なものとすることに一定程度成功し、自治教会に相応しい内実が整えられてい
った。細々と続いていた出版活動も拡大が図られ、「時課経」「大斎第一週間奉事式略」等の再発行、「主日奉事式」「徹夜祷(聖歌譜)」「諸聖略
伝」の発行等が日本正教会内部向けに行われ、外部向けには長司祭高橋保行、高井寿雄、川又一英などにより活発な著述活動が行われた。日本
正教会の歴史については長司祭牛丸康夫が教団内の研究・史料整理に大きな役割を果たした。フェオドシイ府主教の永眠の後、2000年5月、モ
スクワ総主教アレクシイ2世が来日。モスクワ総主教の訪日は歴史上初めてのものである(逆に言えばロシア正教会は日本正教会の母教会であ
るにもかかわらず、歴史上一度もモスクワ総主教の来日がそれまで無かった事を意味し、亜使徒ニコライ時代から日本正教会が日本人主体で運
営されてきた事がここにも示されている)。アレクシイ2世は、函館・東京・京都を訪れている。アレクシイ2世は京都では京都正教会のほか、
二条城も訪れた。東京では今上天皇と会談。東京復活大聖堂(ニコライ堂)ではアレクシイ2世司祷のもと、ダニイル主代郁夫の府主教選立式
及び首座主教着座式が挙行された。着座式にはアレクシイ2世総主教とダニイル主代府主教のほかに、ロシア正教会の主教2人、アメリカ正教
会の主教2人、日本正教会の主教1人(仙台の主教セラフィム辻永)も参加した。東京の大主教および全日本の府主教ダニイル主代は西日本の
主教を兼任している。現在、ダニイル主代府主教の下で伝道活動の復興が図られている。特にダニイル主代府主教は毎週日曜日に自らの執筆に
よるトラクトを配布し、数々のブックレットを発行するなどして、正教会の精神性についての啓発に力を入れている。代表的なものに『聖神入
門』(2005年、日本ハリストス正教会教団発行)、『聖ディオニシオス・聖マキシム・新神学者シメオン』、『聖師父のこころのあゆみ』がある。
モスクワ総主教庁の直接の管轄下にあって日本正教会と微妙な関係にあったモスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエとの関係はソ連崩壊後、フェオ
ドシイ永島府主教によってポドヴォリエの聖堂が成聖されるほどにまで関係が改善した。ダニイル主代郁夫府主教に日本正教会の首座主教が代
わり、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ管轄下にある修道院でダニイル府主教も参加した聖体礼儀が行われ、2008年9月12日には目黒の新
聖堂である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式には、府主教ダニイル主代郁夫も参加した。東京復活大聖堂教会の成立主の降
誕聖堂(荻窪の山手ハリストス正教会)明治の宣教拡大期から東京にはいくつかの教会が置かれていたが、明治時代から大正時代、昭和初期に
かけて、さまざまな教会が設立されたり統廃合が行われたりするなどしていた。これらの各教会は関東大震災や戦災による混乱も伴った紆余曲
折を経た後、都内の教会は杉並に現存する山手ハリストス正教会の他は、ニコライ堂:東京復活大聖堂を中心に連合した。ただし本格的な組織的
統合は1974年に至ってからであり、この年、都内5つの教会が統合されて「中央教会」が発足した(「ニコライ堂」は大聖堂の通称であり、教
会名ではない)。中央教会は1983年には「東京復活大聖堂教会」と名称を変え、現在に至っている。2004年には「東京復活大聖堂教会創立30
周年記念式典」が執り行われた。宣教師ニコライの全日記刊行亜使徒大主教聖ニコライとして列聖されたニコライ・カサートキンについて、そ
の日記が存在していたことそのものは日本正教会の内部にも知られていたものの、おそらく関東大震災で散逸し失われたものと思われていた。
ところが1979年9月、中村健之介により、レニングラード(現サンクトペテル ブ

86 :
どの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。末法観と法華経日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。
そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。
そして法華経にとかれた久遠本仏の常住遣使還告の譬勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。
そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、
日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。
「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた。
つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、
末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、
「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、
こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる
日蓮は、天台教学を「迹門の法華経」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。
日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。
また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切みとめない仏法絶対の立場に立った。
日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、
たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた。
江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、
「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、
寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった。
檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。
また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、
行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、
各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている。
近代では、1872年 (明治5年) 教部省布達「一宗一管長」制に基づいて成立した教団を端緒とする。これには、一致派の身延門流、比企谷門流、中山門流、日昭門流、四条門流、六条門流などの他、
勝劣派全門流が合同。初代管長には顕日琳 (勝劣派・陣門流)が就任した。この時、新居日薩(1874年(明治7年)、身延山久遠寺73世、

87 :
んどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して
本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。
越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。
1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、
家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、
顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、
現在の名称に影響している。また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、浙江省天台山国清寺と湖北省?州玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。
初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。
慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承された。
智は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。
しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。
天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。
玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。
その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。
智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、
特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、
のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。
智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。
このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍?

88 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

89 :
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で
、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティ
で行われていたブロックパーティから生まれた文化。hipはかっこいい(スラング)、hop
は(ぴょんと)跳ぶ/跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスの
みならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」とい
う意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。この
ことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。単に「ヒップホッ
プ」と言った場合、文化から派生したサンプリングや打ち込みを中心としたバックトラッ
クに、MCによるラップを乗せた音楽形態を特に指すことが一般化しているが、これらは本
来はヒップホップ・ミュージックあるいはラップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。目次
[非表示] 1 ヒップホップの要素2 ヒップホップ・ミュージック2.1 ヒップホップ東西
抗争2.2 代表的なレコードレーベル2.3 サブジャンル3 日本だけで使われる用語と解釈4
代表的なアーティスト4.1 MC4.2 DJ4.3 グラフィティアーティスト5 死去したヒップホッ
プ関連人物6 ヒップホップ関連映画7 脚注8 関連項目ヒップホップの要素[編集]スプレー
缶(エアロゾル)によるグラフィティヒップホップにおいて、ラップ、DJプレイ、ブレイ
クダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれている。これらはアメリカのストリートギャ
ング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりと
してブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャング達の縄張りの主張や情報交換
の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。ラップ、DJプレイ、ブ
レイクダンスは、フリースタイルバトルと呼ばれる対決方式が存在する。現在は発祥地ア
メリカだけにとどまらず、ダンスのジャンルとしてブレイクダンスを踊ったり、グラフィ
ティをアートとしてとらえる動きもあるほか、ストリートカジュアルの様式としてファッ
ション業界に影響を及ぼすなど、多方面において世界各国に広まっている。これにアフリ
カ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビート
ボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ば
れる[1]。ヒップホップ・ミュージック[編集]ラップするナズDJクール・ハーク詳細は「
ヒップホップミュージック」を参照その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に
生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(
スクラッチ技術の流布者)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親
)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として
広がり始めた。曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スク
ール(Old School、1970年代 - 1980年代)、ニュー・スクール(New School, 1990年代
以降)と呼ぶ。1980年代後期 - 1990年代前期は音楽面で革新的な技法・作品が多く生み
出されたことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップとも呼ばれる。当時隆盛を極め
ていたニュージャックスウィングの影響を受けた楽曲もこれに含まれる。日本ではこの時
期をミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。オールドスクールのヒ
ップホップミュージックは、DJとMCの融合が完全にされていない時代であったため、歌詞
よりリズムを主体とする。ファッションはRun-D.M.C.に象徴される、(イエロー)ゴール
ドアクセサリーにアディダス製のジャージとスニーカーなどである。ニュー・スクールは
現代までだが、実際のところヒップホップが全世界的に認知される直前の、90年代までを
指す場合が多い。 ファッションは、シルバー(銀製品に限らず、ホワイトゴールドやプ
ラチナなど、シルバーカラーの)アクセサリー、特に近年は成功者の象徴としてダイヤモ
ンドをあしらった装飾具が好まれる傾向にある。サイズの大きな衣服や、バギースタイル
のパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着こなすアーティストが
多い。大きい服を着るようになったのは、刑務所の囚人服は、走ることや格闘が困難にな

90 :
土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。
ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。
近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、
本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが
安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名之儀、自今真宗ト改名可致旨」の布告が発せられ、
ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。?
親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。
こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。
この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、
また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。
この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、
「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、
徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。
やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、
本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。
しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった
(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、
北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。
一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、
天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、
蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍と
その周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、
元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は
尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、
ほと

91 :
ただし各国の正教会は対等であり、コンスタンディヌーポリ教会およびコンスタンディヌーポリ総主教が筆頭とされるのは、あくまでも席次の
上でのことである。コンスタンディヌーポリ全地総主教は、日本ハリストス正教会の自治教会としての地位を承認していないが教会法上の合法
性は認めており、一定の交流が行われている。日本ハリストス正教会をたびたび訪問する香港のニキタス府主教は、コンスタンディヌーポリ総
主教庁に所属している。1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを占領してラテン帝国を建国した際、カトリック教会は亡命した正教
会のコンスタンティノポリス総主教の代わりにカトリックの総大司教座を置いた。その後、1261年に東ローマ亡命政権のニカイア帝国がコンス
タンティノポリスを奪回して正教会の総主教座が復活し、カトリックの総大司教は追われた。しかし「コンスタンティノポリス総大司教」の職
名だけは残り、1964年まで名目上ながら存続していた。フィンランド正教会(フィンランド語: Suomen ortodoksinen kirkko, スウェーデン語:
Finska Ortodoxa Kyrkan, 英語: Finnish Orthodox Church)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。
信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福
音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外
の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教
義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。フィンランドにおける正教の歴史を概観する。ただしフィンランド正教会の草創は、帰
属が著しく変動したカレリア地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国とノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和
国)との間で、近代以降はスウェーデン・フィンランド大公国・ロシア帝国との間で国境の変動の大きかった地域であった。現代における国家
としてのフィンランド共和国の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。12世紀とい
うほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教は東西教会の両方から伝えられた。正教はカレリア地方へのルーシからの修道士を通して、
カトリック教会はスウェーデンからの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリッ
ク教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ(ノヴゴロド)と隣接する地理関係により正教が浸透した。草創期においてはラドガ湖
のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあた
って大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院がラドガ湖の別の島に建設された。
創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山での数年間の修道生活の経験があった。16世紀にはカレリアのみならず北フィン
ランドにも伝道が行われ、修道士トリフォンによりラップランドに多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモに修道院が建てられた。また
トリフォンは修道士テオドリトと協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。東西両
教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェー
デンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力
から弾圧を受けることもあった。聖アレクサンドル・ネフスキーのイコン12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北
方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これに
よりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィン
ランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率
いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇
行われ、一定の交流が継続されている。前教皇ヨハネ・パウロ2世の永眠の際には、ロシ

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末寺帳』が事実上の初見である。?
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、
念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して
念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。
一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿真教である。それ以後続く歴代の遊行上人は、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、
同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、様々な困難を伴った。教団が発展する中で、
順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が「時宗」という単一の宗派に統合され、その中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。
主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。
一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。
1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。
過ぎること昭和になった1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争(大東亜戦争)中は時宗報国会を組織し、満州の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。
戦争中の1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。2004年(平成16年)、遊行73代・藤沢56世他阿一雲上人が病気により引退した。
戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍の出身である河野家の家紋。
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、
日本においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。
中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南岳懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、
黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も
元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。
臨済宗は、その名の通り、会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄に始まる。臨済は黄檗希運の弟子であり、河北の地の臨済寺を拠点とし、新興の藩鎮勢力であった成徳府節度

94 :
といった現象は、西欧・米国をはじめとして全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられたが、日本

正教会もその例外ではなく教会に亀裂が生じた。問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命

ロシア人が中心になって結成した小さくない教会組織が1922年9月13日にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Срем

ски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていたことにも起因していた。セルギイ・チホミーロフ府主教

は1929年の時点では母国ロシアでの共産主義革命に深い嫌悪感を隠さず、各種著述でも痛烈な言辞で全否定しているが、同時に在外ロシア正

教会の動向に対しても分派的であるとして否定的であった。また年を経るに従って府主教セルギイはソ連の下で弾圧されるロシア正教会の

状況認識に甘さを見せるようになった。ソ連当局による検閲を経て届くモスクワ総主教庁からの手紙の内容を鵜呑みにし、実際にはソ連の下で

激しく弾圧されるロシア正教会が「正常な道を歩んでいる」とまで述べた、弾圧の実情からかけ離れたものとなった府主教セルギイの認識の変

化は、1931年にはセルギイの説教などにも表れて巷間に知られるに至った。こうしたセルギイの認識は亡命ロシア人には到底受け入れられるも

のではなく、亡命ロシア人のみならず反共産主義の気運の高かった日本人信徒の間からも広範な反発が起きるに至った。このような状況下で、

日本政府から日本人主管者を選ぶよう圧力が高まった時、日本正教会は抗すべくもなかった。この時代には日本正教会のみならず国内全ての教

会が何らかの抑圧を受けており(「日本キリスト教史」の「昭和から平成へ」を参照)、この点でも日本正教会は例外では有り得なかった。1940

年(昭和15年)、セルギイ・チホミーロフ府主教は引退を余儀なくされ、後任の人選を巡って紆余曲折を経たのち、ニコライ小野帰一主教が日本

正教会に着座した。それでも当局の監視は緩むことなく、高齢のセルギイ・チホミーロフ府主教は1945年に特別高等警察に逮捕され拷問を受

け、約1ヶ月拘留された。釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。拷問による衰弱死だったとい

われる。74歳であった。11日に遺骸はニコライ堂に安置され、二日後に埋葬式が行われた。牧島省三の憲兵隊との交渉により、軽井沢方面に

居住していた在日ロシア人は許可を得て参列することができた。その後、セルギイ府主教の遺骸は、谷中のニコライ・カサートキン大主教の墓の

隣に埋葬された。戦後すぐ、日本正教会は当局の圧力によって歪められた教会秩序を正常化しようとしたが、容易ではなかった。GHQから、日

本正教会はソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展することになる「北米メトロポリア」と関係を持つよ

う指令されたからである。在外ロシア正教会と北米メトロポリアの間の関係も第二次世界大戦前後の時期にこじれており、在外ロシア正教会の

下にあった主教に叙聖され主教に着任したニコライ小野主教の立場が微妙なものとなった。また、これまであまり関係を持ってこなかった北米

メトロポリアの指導下に入ることについても日本正教会に動揺が起こり、この経緯において、ごく少数ではあったが、北米メトロポリアの指導下

に入らず、モスクワ総主教庁の直接の管轄を受けるグループが形成された。全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続してい

た以上、ソ連邦の影響下にあるロシア正教会との関係を巡る諸問題は世界的に全正教会に共通したものであり、上述の通り戦後になっても日本

正教会に安寧が訪れることはなかった。戦後すぐから1970年まで、自らの管轄等の諸問題を巡って日本正教会の動揺は大きく続く。この時代

の日本正教会の混乱は極めて大きく全国各地の正教会に及んでおり、様相は二転三転して複雑である。その全貌を公平な立場から俯瞰し記述す

ることは、今なお極めて困難である。この間、日本には北米メトロポリアから主教が派遣されていた。このような状態にありながらも日本正教

会の奉神礼は継続され、新聖堂の建立・新たな聖歌譜の出版等もなされるなど一部では依然として活発な教会活動も継続していたが、日本国内

の西方教会が戦後すぐのころから教勢を大きく拡大していく中、かつてカトリック教会に次ぐ教勢を誇った正教会は教勢を拡大する機会を失い、

停滞を余儀なくされることとなった。ニコライ列聖・自治教会成立-現在1970年に至り、 モス

95 :
ドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士によ

り1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、
カレリア地方のみはノヴゴロド共和国に最終的に編入されることとなり(1323年)、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロ
ド大主教からは半ば独立していた。1400年までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教
を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶
することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。1617年、カレリ
アの大半の領域がルター派を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争
が、ルター派から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下に
あって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。1721年にカレリアの大半がロシア帝国に領有され、1809年には全フィンランドがロシア帝国領と
なったことにより、18世紀・19世紀を通じてカレリアの正教会も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会のもとに入った。19
世紀末に入ると、ナショナリズムがカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義に対応するものであり、カレリア人・フィンラ
ンド人は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショ
ナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語に代えてフィンランド語を奉神礼の言語として採用し、奉神礼における祈祷
書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年にはフィンランド教区が設
立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。1917
年にロシア革命によりフィンランドが独立すると、フィンランド教会は自治教会としての地位を宣言した。フィンランド正教会におきていたナ
ショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年から援助が行
われ神学校が設立された。フィンランド教会の自治教会としての地位は、モスクワ総主教ティーホンにより1921年に承認された。しかし1923年
にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下に入ることを決定すると、1924年にモスクワ総主教からのフィンランド正教
会の自治正教会位承認は破棄された。その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行
っていたが、1957年に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。両大
戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、
これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。1940年代、冬戦争・継続戦争の戦禍やモスクワ講和条約による国境変動
に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局によ
る宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士達はフィンランドのヘイナヴェシ(Heinavesi)に移り、当地に新ヴァ
ラモ修道院を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院となっている。その後、フィンランドの二つ目の国教となっ
たフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院とリントゥ
ラ至聖三者女子修道院の、二つの修道院がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。黎明期にあって大きな役割を果たしたヴ
ァラーム修道院は、ソ連時代には共産主義政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦の領土内にあって再開されて
いる。ただし所属はロシア正教会である。日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌はフィンランド正教会で活

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99 :
富士山静岡空港開港7周年祭
http://www.mtfuji-shizuokaairport.jp/news/7thanv/

玉川マッチデー
http://www.tamagawa.jp/news/news_release/detail_10439.html

伊勢崎スマーク’にてイベント開催
http://jhs.kiryu-u.ac.jp/news/3580.htm

交通公園ふれあいまつり
http://www.city.urayasu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/419/28.proguramu.pdf

総合関関戦前夜祭
http://sports.geocities.jp/kghonbu/events/kwankangames.html

おりひめ健康ポイントオープニングイベント
http://www.city.katano.osaka.jp/docs/2016050900038/files/kenkoupoint418.pdf

名大祭
http://www.meidaisai.com/stage/index.php

第84回北海道音楽大行進
http://www.atca.jp/ongaku/

金沢百万石まつり
http://100mangoku.net/

ホームステーションらいふ海老名あじさい祭
http://www.townnews.co.jp/0402/2016/06/03/334681.html

熊本大学BLAZES 学内チアお披露目会
http://www.kumadai-ohendan-ob.org/

熊本地震復興応援イベントJR大分駅
http://www.yomiuri.co.jp/local/oita/news/20160530-OYTNT50044.html

首都大戦演技
http://www.yokohama-cu.ac.jp/life/activity/32teikisen_result.html

祭これ*フェスこれ*Fescolle
https://twitter.com/fes_collection

100 :
ああああっ、もうダメッ!&#160;
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!!&#160;
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!!&#160;
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!!&#160;
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ!&#160;
ブババババババアアアアアアッッッッ!!!!&#160;
んはああーーーーっっっ!!!ウッ、ウンッ、ウンコォォォッッ!!!&#160;
ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!!&#160;
おおっ!ウンコッ!!ウッ、ウンッ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もう&#160;
ダメッ!!はうあああーーーーっっっ!!!&#160;
ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!!!&#160;
いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ!&#160;
ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!!&#160;
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!!&#160;
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!!&#160;
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!!&#160;
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ!&#160;
ブババババババアアアアアアッッッッ!!


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