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匈 奴3
- 1 :2018/06/20 〜 最終レス :2020/06/09
- 匈奴=世界帝国
- 2 :
- 匈 奴2 [無断転載禁止]©2ch.sc
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1494026136/
- 3 :
- 匈 奴 [転載禁止](c)2ch.sc
http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1444573109/
- 4 :
- 日本(縄文人)の方が、匈奴に近いのに・・・
トルコめ、勝手に匈奴をコーカソイド化しやがって・・・
- 5 :
- 倭奴って言われるとむしろ誇りに思うようになってしまったら、貴方も立派な匈奴フェチだw
- 6 :
- 冒頓単于はトルコではメテ、METという
取る子ではかってにメテ姓を名乗る不届き者もおるとの情報
匈奴王族のレンテイ家は劉氏に改名したんだからいるわけねーw
- 7 :
- 頭曼単于の頭曼は、一万人の長という意味で
万士長というような将軍号か?
とうじは東胡が強盛で、なおかつ秦の始皇帝がオルドス、河南地方を狙って
大軍を送り込み併呑したので、よわった匈奴は東胡にこき使われていたようだ
なお頭曼は秦からオルドスをとりかえしており、むすこ冒頓単于に
1万騎を与えて万士長とした
- 8 :
- 蒙古タンメンなどで「モンゴル=激辛」というイメージがあるが
モンゴルの味つけは岩塩のみ、
あれはまったく日本の創作、唐辛子は南方植物なので激辛料理などないとのこと。
欧風ビーフカレーがヨーロッパに無く、日本人の創作という話に似ている
ところが白人は日本カレーが大好きだから、激辛ラーメンも現地にもっていけば・・
モンゴルで最高の料理は子羊の肉を切り取っててきとうにアルミ缶に詰めて
その上から焼いた石をたくさん積んで1時間待つと蒸し焼きになる
この料理法は最高の肉と汁が味わえるそうだ
日本のジンギスカンじゃなかった・・
- 9 :
- 勉強になりますありがとう
食もその土地柄、習慣や個性の文化の違いが想像を掻き立てさせる
- 10 :
- 人間のさいしょの牧畜は定住型で、一万年まえから
中央ユーラシアの主な家畜は羊がしめていたが、人間は集落に定住しており
羊は囲いの中で飼われていた
やがて、この囲いは不要となって人間は羊を連れて移動する
野営キャンプをして大きく移動するようになった
革命だが家畜の方に遺伝子的な変化があったのか、人間が羊をコントロールするすべを会得したのか
中央アジアの遊牧民は岩塩の革袋を下げ、家畜に舐めさせることで支配するとも言う
ゴビ砂漠はピンクの岩塩がでる。ここから遊牧に最適である東アジアが大きく飛躍する
岩塩を豊富につかう料理のためげんざいでもモンゴル人は高血圧に悩まされる
- 11 :
- 肉料理に岩塩はたいへん合う。マイルドな海塩より岩塩のほうが塩味がキツイためだ
インド人が香辛料を多用するのは食あたり防止だという
熱帯だと肉が腐り食物も痛みやすくカレーのような強い味が必要だった
自衛隊は、食材が乏しくてもカレー粉をもっていけば何でも食えるという
鍋に変な肉やカエル、適当な野草ぶちこんでもカレー粉があれば何でもカレーになる
このように便利な香辛料なので、日本軍は朝鮮討伐のとき多量の唐辛子をもちこみ
食事にふりかけていたようで、これで朝鮮の人は「唐辛子」を知った
当初は舌を焼く苦痛でしかなかったので「倭芥子には毒がある」と長く忌まれた
中国には花椒という強い香辛料が有るので唐辛子はうけいれられ、激辛四川料理になるが
日本武士がアジアでもっとも早い時期からとうがらしを野戦料理として利用していたようだ
ギリシャ人は胡椒を知っておりカルダモンはアレキサンダー大王がインドから持ってきたと伝えられる
アレキサンダーが東征したのは高価な胡椒を求めてのことだったかもしれない
ゴート王が1トンの胡椒をローマに要求したのだからアッチラ大王も胡椒は知っていた
- 12 :
- バカ舌貧乏舌だけど20年前ブロンコビリーていうファミレスで初めて塩で食べたステーキがうまかった
ここで語られてるモンゴルの岩塩で紹介写真ではピンクだった(固まりは
- 13 :
- 岩塩の色はピンクが多く、ヒマラヤやモンゴルがそれで良質とされる。ピンクはミネラル豊富。
黒や赤や白の岩塩もあるけど
黒は泥で白は石灰で、赤は鉄分、パキスタンの赤岩塩は、赤粘土
人間が消費する塩の大半、7割は岩塩。つまり掘れば取れる岩塩は便利
日本では岩塩は取れないので馴染みがなく赤穂の海塩となる、
日本で輸入される海塩の殆どはメキシコと豪州が占める
ただ海にはマイクロプラスチック健康問題があり、げんざい
1キロの海塩で10粒のプラスチックが確認される。これは増えると予測される
岩塩は数億年前の海なので当然プラスチックはない
- 14 :
- 月氏のものと推定される古墳の発掘調査の結果どうやらサカや月氏は
腕や胸にイレズミをしていたらしい
文様は怪獣や魚などだがもちろん世界各地に刺青の風習は有る
中国は文様といい、野蛮として嫌い、また親から受け継ぐ身体を毀損する意味からも
道徳的に受け入れない。距離の近い匈奴もそうだったかもしれぬ
ただ日本や呉越など南方は全身にいれずみした
日本の使節による説明だと、もとは海に行く人の護身の意味だった
いまは実用味は薄れ形式的なもの、とのこと
おそらく月氏も魔除け、あるいは威嚇用に入れ墨したと思われる
モンゴル草原も夏は暑いから半裸になる、刺青した体のほうが見栄えはしただろう
白人も刺青はこのみ、ドイツの公務員は太い腕に刺青を見せびらかす
ゲルマン人も刺青したようだがローマ人はせず、やがて教会が下品として禁止した
日本だといくら禁令は出ても職人・博徒や遊女には刺青はやまなかった
遊女はお客への繋がりをしめすもの、だという。それからすると親分への忠誠をしめすため
だからかんたんに止む習慣ではない。日本に高い刺青技術があるため外国の王族まで来るという
- 15 :
- アルタイの王女のミイラとして世間に勇名なウコクの王女はイレズミをしていた
この古墳群は月氏とされる。この人達はトカラ人でブロンドの髪だ
2001年のミトコンドリアDNA解析ではサモエード人、ケット人に近縁とされる
白のシルクの下着、フェルトのスカートや靴下、毛皮の上着
これが月氏の衣装であろうか
アルタイプリンセスはアルタイ人に政治的不和をおこした
死者をあばき展示するのは王女への不敬でありすぐさま埋葬すべきとした
ロシア学者は、こいつは王女ではないと反撃した
匈奴王族はモンゴロイドだが目はグリーンで彫りが深いとされ
オルドスの西半分にいたというトカラ人月氏の血縁を伺わせる
発掘調査からすれば月氏は金髪であった。匈奴は混血民族で
よめはんは月氏から来たのである。冒頓単于のよめはんは金髪だった
東胡は金髪女を羨ましがり単于の閼氏(えんし)を欲しいといい出した
ところが匈奴は刺青した白人をキモイと思っていたのでこれさいわいとあっさりと渡した
匈奴の民は怒り、これさいわいと単于は東胡を攻め滅ぼす
- 16 :
- 東胡の勢力は10万騎。ところで東胡の特色は装甲騎士だろう
東胡の子孫である烏桓は鉄の鍛造を得意としたくみに鎧を打ち上げる
鮮卑も鉄騎も有名で、20世紀まで西欧の主力だった重騎兵ははるか東方の
鉄騎(東胡)が元祖だとされる
サカやスキタイも重騎士でしられ、ペルシアの最精鋭部隊である不死隊
イモータルズは、たった一万だが屈強な鎧を着ていた。これもサカが多かったという。
東胡10万は重騎士で、月氏20万騎もおそらくガチンコの装甲隊、
匈奴やフンは革よろいのみ、軽量な軽騎兵である。
これでは匈奴1万ではかちめがない・・と思われるが優れた機動力と弓術で圧倒した。
匈奴は金で雇われ秦末の各地の戦乱に首を突っ込む、プロ傭兵隊長だった
これにくらべると月氏はお金持ちで交易で肥え太り白人デブで
東胡は勇猛だがやや、おっとりして文化が遅れていた
のちにローマをおそったアランは装甲騎士、フンは軽騎兵だったが王者はフンだった
フンの突撃はすさまじくローマ装甲歩兵はとうていたえられない、と述べてる
要するに戦闘慣れの問題だろう
九州や四国の兵は勇猛だったが、秀吉に率いられた上方軍は歴戦の兵で、あっさりやぶり
参謀の黒田如水は「田舎者ども、なんともお気の毒な感じがする」と吐き捨ててる
- 17 :
- 月氏の入れ墨と日本の刺青は一見関係ないようだが北方アイヌや
蝦夷もイレズミをこのんだことは一考を要する
シベリア極東部のギリヤーク、コリヤーク、チュクチなどので顔や腕にいれずみをする
アイヌではいれずみは成人女性の証とされ、ローマでもトラキア女性の風習
インドの例を見てもむしろ女性の成人儀式の利用が着目される
アルタイ王女でも、一人前の証、あるいは身分の証としてイレズミはこのまれる
ロシアシベリア北東の端のチュクチ半島に住む野蛮のチュクチ民族ではあるが
トナカイ遊牧と海岸漁労民族にわかれる
北辺の民族として植物も乏しいのでもちろん南方交易は望まれたが
この相手は日本ルートがおもで、チュクチは日本の鎧甲や武器道具、産物を頼りにした
つまりシベリア北東は日本の勢力圏でもあった。というと「えっ知らない」「そんな歴史がない」
という学者がほとんどだが、アイヌと択捉アイヌはたしかに沈黙貿易していた
- 18 :
- 沈黙貿易は・・ヘロドトス 歴史(ヒストリアイ)でもしるすが
カルタゴ人はアフリカ人との交易にこれを応用していた
直接接触は避けるというのが沈黙貿易のキモである
まずアフリカ沿岸にカルタゴの舟が来てさだめられた場所に商品を置く
黒人は白人が去ったのをたしかめて横に黄金を置く
カルタゴ人は黄金をしらべ不足ならまた消える
黒人は黄金を追加していく。これが繰り返されて十分な対価だとカルタゴが思えば
黄金を領収して品物は置いていく
おそらくこの形式だと「ケチなやつ」「今回はせこい」など色々な不満が出たのは想像がつくが
この沈黙貿易はきわめて礼儀正しく、横奪や暴行はなかった
トラブルや商品横奪があればカルタゴの船はもう来ない。アフリカ黒人にとって
交易船は有り難いもので、交易の優位はカルタゴになった
また文明国のガラクタが大量の黄金に変えてくれるのであればもちろん、旨味は十分である
カルタゴがアフリカ人との接触をきらったのは、ローマ時代にアフリカ黒人は伝染病の大元だと
認識されていたのでだいたい説明がつく。
- 19 :
- 日本のアイヌと択捉アイヌ(ギリヤーク)の交易は、
アイヌが米・味噌・鉄製品などならべ、ギリヤーク人はラッコの毛皮で交換
礼儀正しく長らく行われた
またアイヌは日本人と交易市でへいきで接触したので
人の接触を嫌う、これはもちろんギリヤーク人がのぞんだものだったらしい
ところが匈奴が中国との交易を望んだのはもちろん植物相の貧困で手に入らない
中国のコムギやコメやビタミン源の茶や野菜、文明の利器は
とにかく遊牧民が欲しいものだった
つまりギリヤーク人やシベリア民は、日本との交易はとてつもなく望んできた
しかし彼らにはケガレ思想ががあり、外界人や日本人を激しく拒んだという
ゆえに沈黙貿易しか接触がなかった。だから言語も文明もつたわらない
糞尿を満たしたバケツをあらって食料を容れても朝鮮もドイツ人も平気である
皮肉だがケガレ思想を持ってるのは世界のなかで日本だけで
むしろ日本の潔癖やケガレ思想、刺青の習慣は、シベリアからきたものではないかとおもえる
- 20 :
- 特産品からその土地柄、文化、風俗がわかりそこに繋がる話がとても面白かったです
田舎にある無人販売機みたいなのも立場の違い、必要性、顔を合わせてないのに信頼関係
面白かった
渤海と日本も交易があったとのこと
なにか機会があった時にでもお話があれば宜しくお願いします
- 21 :
- 渤海国はツングース系できわめて国際感覚に富んでおり日本と同盟を結び、
新羅を攻めようと計画した。さらに唐や突厥とも友好関係を結ぶ
渤海国の領域は朝鮮半島より遥かに大きく2倍は有る
また北朝鮮のかなりの部分、平壌のちかくまで渤海国の領土はひろがり
新羅はこれをおそれていた。渤海の攻撃を防ぎ国境に数千の弩兵を置いた
「渤海人は長人で、黒い毛皮をまとい、鋸牙鉤爪
火を知らず獣肉を生食する。人を捕らえたべる、婦人を捕らえ衣服を縫わせる」
この異国視は、朝鮮との断絶をあらわす
渤海人はツングースであり朝鮮人より背が高く、八重歯で爪が長く恐怖を与えたのは間違いない
しばしば人を拉致したのはのちの女真もそうなので驚くに当たらない
日本との関係は極めて良好で渤海の上都より日本道ルートを開いたのは注目される
のちの満州のホンタイジ太宗も朝鮮を攻め「日本との直接交流を許すこと」を条件にあげる
満州人が、高度文明の日本との友好に執着したのはとうぜんだ
渤海と日本との関係は「おじと甥」であり
上都は日本の平城京と同寸法で作られ、むしろ唐より、日本との交流がおもであったという
ただ最終的に渤海はモンゴル系の契丹にほろぼされる
- 22 :
- 東胡王がオルドスの匈奴に要求したのは
良馬、美女、広い土地であった
良馬は汗血馬といって西域から手に入れるのでわかる
またドスコイ顔の東胡は金髪白人のよめはんを珍重したのもわかる
東胡の東はツングースであり険しい山で、渤海国も「その地は峡なり」としてる
馬も進めず道もなく遊牧民には美味しい土地ではなかった
- 23 :
- 択捉アイヌやシベリアのトナカイ遊牧民が日本との交易を重んじたのは
なんといっても、味噌が挙げられる
今では想像し難いが大豆を原料とする味噌は日本ではタンパク源でも有る
そのまま食べたり酒の肴にした
うまみ調味料としても使えたのはもちろんだが、醤油は意外なことに江戸後期まで
あまり普及せず、ほとんどの時代で活躍したのは味噌だった
味噌を買うのはバカ、浪費家、とされて江戸時代まで自家製がおもになる
醤油は専用の絞り機が必要なので大きな農家や寺しか製造できないのも要因だ
舟で輸送するにしても液体の醤油は重く、味噌は軽い利点がある
かんじんなことに、大豆栽培の北限は北海道あたり
択捉アイヌ・シベリア遊牧民はもとより、北欧でも土壌の違いで大豆栽培できない
いまは北欧で空前の味噌ブームになりチーズのような発酵食品として捉えられる
東シベリアの遊牧民が自家製造できない日本味噌を欲しがったのは当然で
塩だけでは味気ない
戦国武将も野営に味噌や醤油がないと「味噌はどこですか」と詰問したという
- 24 :
- シベリアの眠れる美女…貯水池の中から見つかった約2000年前のミイラ
シベリア連邦管区トゥヴァ共和国のエニセイ川上流の巨大貯水池で水量が低下した先週、
なんとミイラ化した女性の遺体が見つかったと報じている。
これはロシア科学アカデミー物質文化歴史学研究所の考古学者チームが発見したもので、
まるで埋葬に用いられたかのような長方形の石造物が見えたことから調査された。
ミイラ化した若い女性の遺体は石棺の中に納められていた。
蓋がしっかり閉じられていたため、遺体は中で自然にミイラ化したものとされ、
保存状態はよく、柔らかい組織や皮膚、布なども残っている。この女性は2000年前に
埋葬されたものと考えられる
その遺体はシルクのスカートを履いており、胸には死後の世界用に松の実の入ったポーチ
そのほかにもビーズで彩られたベルトのバックル部分は樹木の化石である黒玉など、
数々の装飾品や、白樺の皮で作られた化粧箱の中にはフェルトで包まれた中国鏡が入れられていた
また女性の付近には容器もあり、フン文化風のものだったという。
- 25 :
- スキタイ・サカといえば生活形態は匈奴で金髪碧眼の白人だとされる
ヘロドトスによれば、スキタイはもとはアジア奥深く原住地で
マッサゲタイに攻め悩まされた結果、故郷を捨てて西進
黒海沿岸のキンメリア人をほろぼして乗っ取ったという
またバルバロイ、周辺蛮族の多く、ギリシャ人もこの説を信じており
ヘロドトスもこれには自信がある
スキタイはロシア人の先祖とされるが、もともとロシアあたりに居た学説
あるいはアジア奥深くにいたという学説は、スキタイ論争として
西欧人の興味を引いておりソ連時代の発掘調査がすすんだ
ヘロドトスの言う通り、スキタイの遺跡はやはりアジアがふるく、西アジアは
それよりあたらしいものだと確かめられる
エニセイ川上流のトゥバ共和国にスキタイの最も古い遺跡があるとされる
ミヌシンスク盆地のやや南だ
エニセイ川上流といえば匈奴や突厥、キルギスの発祥地とされる
さらに金髪碧眼のスキタイ・サカまでエニセイ川上流のトゥバあたりが原点とすれば
西欧人ならずとも興味を引かれる
- 26 :
- エニセイ川は冬季は凍結して洪水を引き起こすので
ソ連ではダイナマイトで爆破して北極海にながすという事業をやっていた
一万年前はエニセイ川は氷河期の影響でさらにさむくカチカチで北極海に流れないので
シベリア巨大湖に形成し黒海に注いでいたとされる
多くのユーラシアの民が黒海からシベリア巨大湖にかけて羊の群れを連れて移動したとみられる
ただこの頃は人間は馬に乗るということはできず、西アジアでは牛のように鼻輪付けて使役した
やがてカザフスタンで小型戦車が発明され馬に引かせるようになる
これが印欧族でヨーロッパでは日本で言う卑弥呼の墓論議よりも興味関心をひいてるとされる
スキタイ・サカといえば騎馬と弓の民だが、騎馬の術はやはりアジアで発祥した
東アジアで磨いたすぐれた弓騎兵が、石器時代から農耕をおもとしてるキンメリア人を
駆逐したのは想像に難くない
スキタイがさいしょから金髪碧眼だったのかよくわからない、あるいはトルコのように
西進するにつれてしだいに強姦して白人化したのかもしれない
ともあれ黒海沿岸のキンメリア人はスキタイを恐れ民族移動することにきまったが
キンメリアの王族は反対して自害したので民衆は埋葬して逃げたとある
おそらく先祖の霊や墓を捨てて逃げれないという理由だろう
- 27 :
- ソビエト連邦では、スキタイ人はもとからそこに居た、と決定された
ソ連の社会説では、共産主義の発展は。もとからそこに居たスキタイ人たちが
石器時代から進歩発展して農業を営み、さらにロシア人となり
ソビエト社会を建設する
ヘロドトスはスキタイは東アジアから来たと指摘してるのにかかわらず、だ
やがて西欧の影響でソ連の学者たちもおかしいと言い始めた
発掘資料が出そろうにつれてスキタイ原住地の東アジアは動かし難くなったが
エニセイ川の上流はモンゴルのすぐ北隣である
ひとつにはモンゴルの田舎から金髪碧眼のロシア人の父祖が来たとは信じ難い
という気分的な問題もあるので、なかなかソ連では認めることはできなかったようだ
このあたりはふるくはエニセイキルギス人、南サモエード人が住む
シベリアのトナカイ遊牧民のサモエード人の遺伝子は北欧およびロシア人のかなりの割合を
占めてるから容易に想像がついたはず、なのだが。
- 28 :
- 印欧族のヒッタイト人はアナトリア半島(トルコ)のさいしょの文明とされるが
鉄器を発明しエジプトと対決した超巨大帝国としてもしられる
このヒッタイト帝国の都からは巨石が多くヒッタイト人や王侯の彫刻があるが
いずれも非常に長い尖った帽子をかぶってる
長い帽子といえば尖り帽子のサカ、スキタイ人、また月氏も長い帽子を
かぶり、また月氏の末裔のタージク人も長帽子をかぶる
月氏の遺骨発掘によれば木の張り型で布や革の長帽子の形を保つようだ
ヒッタイト人は3500年前にトルコに来たようだがサカや月氏の血族だったのか?
3200年前に海の民に滅ぼされて異民族のフュリギア国が取って代わった後も
民族衣装は女神の衣装としてローマ人に影響を与え
フュリギア帽子はフランスの自由の女神がかぶりフランス革命の象徴となる
またスキタイがキンメリアを追い払ったのおおよそ2700年前とされる
ヒッタイトの遺跡から埴輪のような牛を模した土器が出たことは日本古墳との
つながりもかんじさせる・・ヤマタイとスキタイのつながりも
ヒッタイトやフュリギアの信仰は天神だそうで、これも遊牧民に多いタイプだ
またヒッタイト人は死後の世界は地下にあると信じておりこれも日本と同じだ
- 29 :
- スキタイの主神はかまどの女神ヘスティアであった
アニメでは勢力を伸ばしてる?ギリシア女神ヘスティアさまだが神話は殆ど無い
ヘスティア=ウェスタはローマ最高位神であって建国者ロムルスの母はウェスタ神官長だった
かまどの女神ウェスタの神官は処女でなくてはならず違反すると殺される
だが女性ながらウェスタ神官長として最高席をあたえられた
遊牧民スキタイのかまどの女神がギリシァローマに侵入したのかそこは定かでない
メソポタミア文明はかまどの進化に支えられていた
パンは初期は大麦を練ったものをそのまま焼くことが多く薄いパンだった
げんざいでもインドではタンドールで焼く発酵パン、ナンは一般的でなく
一般家庭にはタンドールはなく、小麦粉をねって薄く焼いたチャパティが
食べられることがほとんどだ。とインド料理店では主張する
コムギのチャパティは北であり当然南インドではコメの食事となる
かまどをアッカド語でテュヌール、アラビア語でタヌール、インド語でタンドール
すなわち古代語であるが、燃料を節約できる日本式かまどは最近後進国の
森林乱伐をふせぐためアフリカなどに指導されて大好評という
メソポタミアは大河による沖積平野であり、大麦などの農業には困らなかったが
石材や木材は不足気味だった。そこでペルシャ湾河口にちかいウル・バビロンなどの
城塞都市がさかんに交易をおこない、舟で多くの食材、石材、金属を入手して隆盛した
パンを焼く燃料も節約する必要がありそこでかまどが生まれる
- 30 :
- 丸いパン焼き窯もこのころつくられ、十分に燃料をいれて燃やして熱くなったとき
発酵パンをさし入れて余熱でふっくらしたパンを焼き上げる
原理はオーブンと同じでメソポタミアはこれでようやく美味いパンを食えるようになった
下から加熱したのではパンは焼けない
パンは形に工夫が凝らされ魚や獅子を模したものもあった
たい焼きと同じく陶器の型で抜いた型抜きパンで紋章があしらわれることもある
乳製品やはちみつ、ヨーグルトを練り込むこともあった。現在の菓子パンである
基本メソポタミア料理は肉と野菜を煮込むシチューで、これはイラン料理もそうだ
玉ねぎ、ねぎ、にんにくが人気あり、レタスやキュウリ、かぼちゃ、かぶもあった
パンをシチューにつけて食う
都市の野菜取引は大変な量になったようだが都市人口が多いため依然高価で
貧民はしばしばビタミン不足で病気になり悩まされた
- 31 :
- 交易で富んだウルやバビロンの北方でアッシュールという都市宗教ができる
アッシュール市そのものが神格化された神
シュメールの記録には気違いじみた野蛮人として記録される。
シュメール人のいう猿。礼儀しらずのマルトゥである
アッシリア大帝国は強大な軍事力でウラルトゥという北の王国を滅ぼしたあと
オリエント世界を全て併合しようとした
アッシリアの帝王はよほど憎まれた。異民族にはプルという蔑称で呼ばれる
彼は平民から成り上がり、平民だったときの本名だともいう。藤吉郎のようなものか
メソポタミアを統一しアッシリア王とバビロニア王を兼ね
これはおおむね上手く行ったが、ただし東には宿敵エラム帝国がのこってる
イラン系のエラム人はシュメールから東の混血やろうと罵られた
顔立ちも月氏やサカのような民族が混じり違ったのかもしれない
エラム王家の兄弟相続、末子相続を保持した。サウジアラビア王家もそうだが
匈奴やモンゴルのような遊牧民の風習と言える
アッシリアの軍事は正に完璧であると教科書でも教わるほど軍事特化タイプの帝国だ
3人乗りの大型戦車、兵員輸送車の発明、攻城兵器をそろえ、農民兵士を常備軍に替えた
軍事はプロの傭兵にまかせる。駅伝制度や幹線道路の整備もした
首都ニネヴェは膨大な粘土板が出土して世界初の巨大図書館と言われる
アッシリアの文化は婦人にベールをかぶせる。いまの中東にものこってるが
花嫁にベールをかぶせる西欧の風習もアッシリア由来とされる
ただし強制移住政策や重税などあまりに過酷な統治でにくまれて謀反が絶えない
とくにバビロニアの反乱は裏にエラム帝国がついていた
そこで征服王アッシュールバニパルはついにエラムを滅ぼす
エラム王は斬り殺され、全てのイランの都市は略奪されて宝物は持ち去られる
だが、これで終わりではなかった
- 32 :
- 唇が滅べば歯が寒し
エラム帝国はほろんだがエラム語はやがて、アケメネス朝ペルシアの重んじる所
でありペルシア帝国の公用語はエラム語となる。
後世のアレキサンダーの破壊でエラム語はたえたが、それほど高度な文明がある
イラン系のエラム帝国をほろぼしたアッシリア帝国はこんどは直接、猛烈かつ無尽蔵の
スキタイ遊牧民の侵攻圧力をうけることになった
軍事強化は尽くしたアッシリア大帝国だが弓を主体にした重装甲騎兵スキタイ・サカの攻撃は
全くの想定外であった
おそらく混血野郎のエラムはスキタイ遊牧民ともなんらかの連携・コントロールをもっていた
多分、エラム王は遊牧民とも濃い婚姻があったのではないか。末子相続制度まで同じだ
もちろんエラムが消えれば都市国家からうけていた野菜ビタミンの供給もなくなる
これら交易の旨味がなくなれば遊牧民が動き出す
農民スキタイ、農耕スキタイ、遊牧スキタイ、王族スキタイの四天王ラスボスである、
スキタイでも最強の王族スキタイがアッシリア制服にのりだした
しかもスキタイにやぶれたキンメリア人も嬉々としてアッシリア征服に付き従ったとされる
スキタイはアッシリア軍を交戦し「弱い」とみえるや総攻撃に移り首都ニネヴェを破壊する
彼らはエジプトまで進撃したがエジプトのファラオは泣き落とし戦術に出る
スキタイはしばらく30年ほどアジアを支配するが、とにかくひどい略奪と暴政であったとされる
聖書にスキタイの一文だけ挿入されてるがユダヤ王国には典型的な野蛮人として扱われる
- 33 :
- 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
X0N
- 34 :
- フンヌはフン族
- 35 :
- ロシア学者の遺骨調査によればスキタイ人は森林スキタイと草原スキタイに大別でき
森林スキタイは頭蓋骨が長く、顔も彫りが深い
草原スキタイは頭蓋が短く大きく、鼻は高かったらしい。また背は並外れて高いという、
バカでかいというのは赤狄っぽいが月氏などがまざっているのかもしれない。
キンメリア人は黒海北岸から小アジアに追い落とされる。王は土地を死守すべきと主張したが
もちろん国民は死にたくはなかった。そこでスキタイ王と奴隷都市という階層が生まれる
都市との緊密な関係、牛、パン、毛皮、奴隷による大量の物資はスキタイ社会の変化も促す
身分差は大きくなった
スキタイ人は肥満体であり、ぽっこり腹が出ていた、とヒポクラテスはいう
革製の外套、カフタン、前開きのガウンをはおり、、羊毛もしくは革のズボンを履いてる
高貴なものは、ゴールドや金属のプレートを革服に無数に打ち付けていた。一種のお洒落か
またスキタイ騎兵は龍の紋章をこのんだ
これがギリシア世界には鱗のような印象を与え、スキテュア、蛇神の子孫ともされる
スキタイの社会は王族、これは匈奴モンゴル同様に血で永久に伝承すべきものとされた
日本天皇やロシアのツアーもやや似てる
組合評議会、国会、軍事専門職の軍貴族、兵士、聖職者などの階層がある
組合評議会には敵を殺した戦士のみが出席できる
敵の頭の皮を剥いで、手拭いとし、あるいはガウンに縫い付けた
もっとも恐るべき野蛮な敵のものは、記念として頭蓋を切り取り髑髏杯にされた
これに酒と血をまぜあわせ、友人の誓いや結婚の誓いとした
- 36 :
- ロシア人は西欧にはスキタイ人の子孫そのものとされたがロシアはこの称号を嫌う
せいぜい東スラブ人、ハザールがスキタイの子孫だとロシアはいう
帝政ロシアではスラブの騎士が、棍棒をふり回すスキタイの大男と戦う絵の題材も好まれた
つまりスラブ人=文明、スキタイ=野蛮としてる
- 37 :
- さてスキタイの上位互換、スキ隊より更に野蛮とされたサマルティア人だが、
かれらはまったくのテント生活で、匈奴や蒙古と変わるところはない
やがてアラン族、阿蘭国とされる名高い重騎兵はボルガ河の西側に住む
なぜマッサゲタイがアランと改名したかというと・・新しい名のアランとは
多くの部族が寄り合いアーリア組合というような意味だとロシアの学者はいう
ペルシア王がエーラーンの王と称したのはアーリア王という意味である
つまりアドルフ・ヒットラーもエーラーンの王もしくはアラン王となる
アランは重装甲騎兵で有名だが、また1メートルをこえる長剣をも好む
馬上で斬るのだから長剣が有利でもあった。手から柄が抜けないように半円の金具がある
スキタイの聖剣伝説も有名であって聖剣は常に隠されており
ロシアの聖剣伝説はクォデネンツ「魔法剣」、「隠された剣」、「鋼鉄の剣」などと意訳される
サモショーク「自動で振るわれる剣、自動剣」とおなじであるとされる
サモショーク剣はバビロニア王のネブカドネザルが壁に塗り込めて隠し
「エルスラン・ラザレーヴィッチ」主人公は、燃える盾と炎の帝王(ペルシア王)を倒すことができる剣を手に入れる
賢いアッチラは、伝説の聖剣を見つけたとと称して、まぬけなスキタイ族を心服させたという
- 38 :
- 現在のアラン族はオセチア人とされる総人口はおよそ60万人
オセチア国はアラン国に改名したいという動きもある
遺伝子調査ではやや否定的だが、長い混血も経てるので何とも言えない
オセチア人はただのスラブ人であるという
そもそもアラン族はロシア人であるともされるから、えっ何が悪いのか?と
プーチン政権だから政治的な見解も否定できず・・
アランと言えばフンに付き従った騎兵としてあまりに有名だが
アランの末裔アスト人はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた
モンゴル帝国もアラン重騎兵の名声には目を留めたらしくモンゴルに連れ帰りモンゴル皇帝の親衛隊に編成した
アスト人親衛軍である
阿速親衛軍は14世紀前半に頻発したモンゴル帝国の後継者争いを巡る政変において重要な役割を負う
アストの人々は1368年に元の皇帝が中国を放棄してモンゴリアに帰るとモンゴル遊牧民の一集団となる
- 39 :
- 匈奴の人口は、漢の一郡ほどでしかなく、大目に見積もっても数百万というところだが
税収は、秋に大会を催し、そこであつまった遊牧民は一部の家畜を取られるだけだった
あまりきびしくすると国も崩壊するのでかなり緩かったと思われる
国家のためには外部に収入を求めることが必要で、お金持ちである漢にたいして
冒頓単于が甘い態度に終始したのは、なんとか金を引き出そうという計算でしょう
- 40 :
- そのあたりの冒頓の感覚は絶妙だったな
稀代の天才だよ、チンギスより上かもしれん
- 41 :
- 燕麦は健康食のオートミール(流行のグラノーラも)としてよく食べられてるが
作物利用は遅く5000年前の北欧ではじまる
ゲルマン人が栽培していたがローマ人は軍馬の飼料として利用
小麦と違い粉屋で挽く必要がないため安上がりな食事だったため、中世では
貧しい農民の物とされた。このため廃れたがスコットランドでは寒冷で小麦が取れず
例外的にオートミールやオートケーキが主食となる
米国でもスコットランド移民が持ち込み「キリスト教会の健康法」として宣伝したために
オートミールが大流行した。昭和天皇も好んで食べた
燕麦は東方にも伝えられてパミール高原においていわゆる裸性を獲得ハダカエンバクになる
ほとんど馬の飼料で、例外に主食としてるのはスコットランドとモンゴルであるが
モンゴルでは麺として食べるという
蒙古遊牧民も燕麦の主食は2500年前からやってるというから、匈奴や東胡も食べたということになる
北方に居住していたゲルマン人はやはりエンバクを栽培し、人間の食用としていた
やはり植物相が貧困であるから匈奴にしても選択の余地はないと思われる
- 42 :
- 中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専らアワ
アイヌにとって最も重要な主食穀物がヒエ
- 43 :
- 現在のモンゴルで羊肉を煮込んだスープに粟を入れて食べるが羊肉は脂肪に富むので
かなりおいしい
粟は古代東ヨーロッパのの伝統的な食事でシルクロードを通してモンゴルに入ってきた
つまり月氏やスキタイの食事が匈奴に伝えられたようだ
モンゴル人の飲む茶ツァイは、ナイフでレンガ茶を切り出し、ミルクにいれて煮る
モンゴルでは馬、牛、羊、ヤギ、ラクダを「五畜」と言いますが、この五畜の乳を使用する
クリーミーな味わい。乳茶にバターとアワを入れると朝食となる
古代には茶はまだなかった、そこで匈奴や東胡はミルクに岩塩をいれて煮立ててのみ
さらにアワをいれ軽食にしたと想像される
塩ミルク→塩ミルクティーに進化した。
さらに塩ミルクティーの鍋に具材ぶち込んで煮て食べるのがモンゴル家庭料理、鍋茶だ
- 44 :
- >>42
靺鞨、勿吉もそうだったの?
- 45 :
- >>44
満州の農民は大豆と小麦を売却して、アワを主食としていた
中国との交易が盛んで、海西女真がその利益でさかえていたが
野蛮な建州女真に征服される。更に野蛮な野人女真、これが靺鞨、勿吉らしい
金の正史によれば、女真(金人)は粛慎の遺種、渤海は別種に当たるという
東アジアも遊牧民の影響で族長選出は合議制という民族が多いが
めずらしいのは、族長は大人といい、血で伝承される
なんとなく日本の大王(おおきみ)を思わせる
まぁ東胡の末裔であるモンゴルもチンギス統治原理をとったが
東夷の影響であると思えばおもしろい
- 46 :
- 大王=大人(族長)
鮮卑・東胡・粛慎と
さらに
大人=可汗となる
- 47 :
- カマ・タルカンのタルカン(達汗)とカン(汗)の関係は?
- 48 :
- 鮮卑は大人(ダレン)という称号で、東夷のツングース族長でも大人と称した
日本の大王(ダイオウ)や大臣(ダイジン)も大人(ダレン)が変化したものか
なお
やがて鮮卑拓跋部は可寒。可汗号を採用、これはイエニセイ碑文で「カガン」と発音することが
判明しており、漢字以外では最も古い、日本のかな文字と同じくらい古いルーン文字で記述されていた
やがてカン、カーン、カアンなどに変化
- 49 :
- 大人(ダレン)の由来だが満州地方の伝承では
華北の長人(長狄)と同じ意味で、たんに並外れた巨人、超人の意味だ
大人(ダレン)は身長9メートルあったという
- 50 :
- 王大人
- 51 :
- >>24
この女性どんな感じだったんだろう
写真はさすがにご遺体だから見るのは怖いけど絵でなら見てみたい気がする
- 52 :
- 良スレage
- 53 :
- >>50
大人の死亡を確認しなきゃなw
- 54 :
- ワン・ターレン
- 55 :
- >>24
DNA検査結果が待たれます
西ユーラシア系なのか東なのか
目は青かったのか
- 56 :
- エニセイ上流あたりの原民族といえばエニセイキルギス・サモエードで入れ替わった様子もない
突厥・トルコの先祖でもあり、匈奴の祖先とも同根だとも言う
なお中国の史書ではキルギスは青い目で金髪で、ヨーロッパ系民族を思わせる
しかし時代が下ったげんざいのキルギス人は南下して混血の末か黒髪化してる
2000年前では、混血化する前なのでおそらく真っ青な目でしょう
このエニセイ川上流は、緑目のパシュトーン人の祖先がいた、とも言われてる
匈奴は緑目であったからグリーンの可能性も否定できない
グリーンの目はブルーより発生が遅く、故に欧州白人ではすくなく中東に多いため
差別対象になったりするがその源流はエニセイ川なのでおもしろい
- 57 :
- そもそも突厥は匈奴の別種・・・みたいに言及されていたんじゃなかったっけ
- 58 :
- 突厥人は匈奴の古くに分かれた同種異族で、姓はアシナ氏という
これだと貴族だったアシナさんが単に匈奴の一族だったというふうにもとれる
その昔はシベリアの丁零も、冒頓単于に服従していた。匈奴の支配貴族も送り込まれる事もありそう
ちなみにフン語はテュルク語だしシベリアから流れてきた。アッチラ=アシナ氏だと思うんだよな
- 59 :
- キルギス人男性の過半は白人の遺伝子ハプロの持ち主だから
その昔はアファナシェヴォ文化の担い手だったのだろう
しかし東から押し寄せるモンゴロイドのトルコ系に同化されて
今はモンゴロイドの風貌
ただ緑色の目の人はちょくちょくいるみたいだね
- 60 :
- アシナさん柔然の鍛鉄奴隷だったから・・
柔然は、鮮卑の一騎卒とか
完全にドスコイ顔のモンゴル朝昇竜系ですな
- 61 :
- 中華文明の策源地は、黄河下流の南岸にある鄭州などだ
黄河は氾濫が多く治水は大変な時間を要し、帝しかできない仕事とされる
だから時代が下ると支流の洛水や渭水の都市のほうが栄える
西に洛水の南岸の洛陽、もっとずっと西に渭水の南岸に長安
鄭州が栄えたのは五穀、つまり米も麦も何でもとれる絶妙の位置からだ
中国の都市は北緯32度あたりに点在する。日本の京都も34度だ
多くの中国の都が、大河の南岸にあるのはもちろん、水利を得るためだが
河を盾にして北方異民族を防ぐ目的がある
黄河はたいへん長い河でそのかたちは龍に似てる
黄河上流はチベット高原で、中流域は北に大きく屈曲してオルドス地方になる
したがってオルドス屈曲部、オルドスループといい
北緯40度で寒く植物相は貧困だ。だから農耕民族は進出しにくい
オルドスが匈奴や狄など遊牧民の歴史が4千年もあり古い策源地だ
おなじ黄河にすむ民族ながら、漢族と匈奴は言語が異なった
大河で言えばナイル上流の黒人と下流のエジプト人種が違うようなものだろうか
全く異民族なのだが中国人も黄河中流のオルドスを、河南と称する
中国もせめて黄河南岸のオルドスはほしい。始皇帝はオルドスを奪う
オルドスの回復と戦乱の介入、これが軍事機会として匈奴大帝国をうむ一つのきっかけになる
- 62 :
- もし始皇帝が早世しなかったら・・・
- 63 :
- 匈奴の北には丁零(テュルク)西のミヌシンスク盆地には
堅昆(イエニセイキルギス)がいた
堅昆についてはよくわかってない
匈奴の北に阿謗歩(アッチラ)を大人(族長)とする堅昆があったが、彼が愚痴であったため、滅ぼされた。
阿謗歩(アッチラ)の兄弟は17人いて、その1人に伊質泥師都という者がおり、のちにこの2人の子から
契骨(キルギス)と突厥(トルコ)が生まれた
突厥の語は、かれらがすむ山地が尖った兜に似ていたともあるいは碧い天空を表してる
堅昆は金髪と赤い顔をもっていた。
顔は、主に白人の特徴および一部にモンゴロイドの特徴を有する。
史書は「人々すべてが赤い髪と緑の目をしている」と述べている
男は耳輪をした。また全身に入れ墨(古代日本や月氏もそうだった)
貴族は白いフェルト帽子、貧乏人は帽子はかぶれない
中国の記録によると、彼らはライ麦、エンバク(オート麦)大麦、小麦、キビを栽培して鉄を精錬した
小麦は石臼でひく。彼らの作る金属武器は鋭利である
魚も食べるチョウザメは特に好まれる
また優れた馬を持ち、足も早い
花嫁を買うときに100頭の馬を支払う(お金持ちは100頭〜1000頭)
10世紀のペルシアの文献では火を崇拝し死者を焼くとする(ゾロアスター、あるいは仏教の荼毘か)
- 64 :
- スキタイとミヌシンスク盆地の関係は?
- 65 :
- 周書によれば突厥の先祖はサカだという
サカとスキュタイは同じもの(ギリシャとイランによる呼称)とヘロドトスは言う
スキタイの起源地の議論は、日本の邪馬台国論議と同じで
白人の祖先にもあたるからヨーロッパではたいへん関心を集めてるが
やはり東方はるかアジアから移動してきたというヘロドトスの記述を
スキタイ文化の発掘結果が裏付けており、ただ殆どが旧ソ連邦の奥で
ソ連はスキタイ人がもとからそこにいて、文明化して
共産主義ソビエトを築いたと主張し、これは握り潰された
スキタイがモンゴルの北、エニセイ川の起源であると遺跡が裏付けるなら
もとを辿ればスキタイ=堅昆でもあったのだろう
堅昆の身体特徴は金髪で赤ら顔、あるいは赤毛で緑目という
まさに白人特徴を持ち、初期の突厥族長も青い目に、赤い顔であった
匈奴の冒頓単于は北方に住んでいた堅昆・丁零・屈射・などを従える
堅昆の大人(ダーレン)である阿謗歩(アゾフ?)が匈奴に滅ぼされて
キルギスやトルコはその子孫であるとの記述は一致する
- 66 :
- プロティノスの師アンモニオス・サッカスはサカ人
- 67 :
- 現在のモンゴルの料理は、
・焼きうどん(羊肉やきそば風
・ラーメン(羊肉スープのうどん風
・焼き肉定食(羊焼き肉にごはん定食風
だいたいこの3種であるという
お米は寒いと取れないから必然的に最後のメニューのご飯は南方からの輸入品
であるが(そのむかしはヒエやアワ、あるいは麦めしか
モンゴル遊牧民といいつつ、いがいに農耕を前提とする、粉物の食事が多いのがわかると思う
もちろん麦はかなり北でも取れるし
更に過酷な環境に強い燕麦ですら2500年前から食べたという
(燕麦のおおくは馬の飼料としてであり、人がエンバク食うのはスコットランドとモンゴルのみ)
しかもエンバクの麺なんて、かなり変態的でもある。おそらくモンゴルのみだろう
シベリアの堅昆がエンバクを栽培したのも麺で食ったのだろうか
- 68 :
- キルギスのアカエフ大統領 = 横山ノック
- 69 :
- 匈奴の郷土はどこやねん
- 70 :
- >>68
赤Fの祖先が赤谷城の出自だったら烏孫の末裔ってことになるな
- 71 :
- 堅昆はアファナシェヴォ文化人の末裔に間違いない
匈奴をサカに結びつけるのはやや暴論ではないかなあ・・・
- 72 :
- 匈奴は、黄河屈曲部、オルドス高原の族長で
西半分は月氏がいたという
オルドスは長安から500キロほど北になる
このオルドス屈曲部は日本の半分くらいの大きさ
ほとんど砂漠であるが昔は森や草原であった
月氏は遊牧王ではあるが、西域に点在するオアシス都市国家も月氏のものだった
西域の補給基地とされた敦煌は月氏が建設した都市
だから遊牧騎士でもあり都市民でもあり農耕民族でもあった
月氏20万騎といわれるのだから大帝国だ
匈奴の頭曼単于とは「万士長」の意味であったとされ
月氏において匈奴は辺境の1万人の軍、傭兵ていどにおもわれていたようである
- 73 :
- もっと古くは厳允や犬戎もオルドスらへんに居た
- 74 :
- 冒頓単于が月氏を滅ぼすと西域のオアシス都市はすべて匈奴に属する
遊牧民は肉は豊富だが野菜・ビタミンが少ない
エスキモーのように生肉を食らうのであればビタミン豊富だが
彼らの料理には基本的に火で焼き、モンゴル岩塩をふりかける
モンゴル最上の料理は、子羊をつぶして肉を蒸し焼き
表面だけ焼いて中は血の滴る生肉というのであればビタミンは取れる
とくに辺境の遊牧人は野菜の交易市場はないから、生肉を引き裂いて食うほかないだろう
臭いとされて自称文明人の南匈奴やら鮮卑拓跋氏に差別されたようだ
現在のモンゴルでも大都市では野菜も豊富に手にはいるが、地方の雑貨店では
芋ぐらいしか置いてない、つまり致命的に野菜がないのである
ソ連の首都モスクワでいちばん羽振りがよかったのはグルジア人の野菜商人で
駅で南方の野菜や果物をおろし売りさばき、若い妾を何人も囲っていたという
そういえば秋葉原駅も、もとは神田青果市場だったね・・
げんざいロシアではトルコ産の野菜や果物が人気で若いロシア娘はトルコ人の嫁になりたがる
中国の商人が交易で、気前のいい遊牧民の足元を見て暴利を貪ったのは疑いなく
漢帝国と和議をした匈奴もしばしば市場で暴行したようだ
- 75 :
- 冒頓単于の時代に右賢王が漢に乱入
単于は「漢の役人が右賢王を侮辱したゆえに乱暴してしまったのであるが
しかし和親条約に反したのは事実、右賢王には罰として月氏の攻撃を命じた」
匹夫の謝罪は口だけで、君子の謝罪は実を持っていなくてはいけない
この礼法を意識してか同時に冒頓単于は名馬を送ってる
かなりの気の使いようだ
左賢王が皇太子ナンバー2で右賢王はナンバー3にあたり
このものが皇族というか冒頓単于の家のもの、次男であることは疑いない
なぜならば骨都候が外戚の地位とされたからであるが
左賢王のほか4王、左右大将軍、左右大都尉、左右当戸、そのしたが骨都候
この順位からすると匈奴帝国は単于の一族がほとんどの軍職を持っており
外戚、つまり他家の軍事地位はかなり低く抑えられた
冒頓単于が皇帝で息子たちが将軍、尉官という独裁であったようである
- 76 :
- 黄巾の乱が起こると、単于は右賢王於夫羅の率いる援兵をおくり、後漢を援助した
単于の暴政、度重なる徴兵に耐えかねた10万余人が叛き、単于を殺した。
あとを継いだのは子の右賢王於夫羅であったが、国人たちはこれを不安視して
遠戚の骨都侯を共立して単于とした。
そこで於夫羅は自ら洛陽の宮城の門にまで来てこのことを訴えた
なお五胡十六国時代を開いた匈奴大族長の劉淵は、於夫羅の孫である
- 77 :
- 冒頓単于が死んだ後も漢と匈奴の和親は継続された
70歳だったとされる。極北の遊牧民ではかなり長命したほうだ
家康が天下を取ったのも長生き競争だし、統治者が長く生きることは重要な政治である
梁の武帝のように長生きして恥を晒すこともあったが・・
右賢王である稽粥がたち老上単于となる、ラオ単于とは、賢い意味であり
賢明と言われることを好んだ人物だったようだ。
突厥のカンも「ビルゲ」つまり賢い王と称することが多い。族長の資質として
賢明と評判をとることは重要だった「バカ殿」ならたちまち配下は逃散する
月氏王の首をはねて頭蓋骨を盃にするなど相当の武闘派だが
また烏孫王昆莫も武将として育てた人物である
本人はすくなくとも、体の弱い、繊細なインテリと気取ってた
あくまで本人の理想であるが・・恐ろしい冒頓単于、恨みを買うことも多い
これまでの匈奴単于とは違う人物だと言いたいのだろう
フリードリヒ大王もインテリきどりで音楽に耽溺し
父王に杖で殴られてるから一種の変わり種だが、家業への反発であろうか
そんなちょっとアンニュイな二代目でも冒頓単于は容赦なくこきつかい月氏攻撃の
担当としてるから、もともと匈奴は家としても厳しく反抗は許されない
匈奴の集会で族長に少しでも逆らうと死刑だ
家が続いたのはやはり二代目が重要ということで徳川秀忠や足利義詮が注目されてるが
やがて老上単于も歴史マニアに人気!ということになるのかもしれない
- 78 :
- 老上単于が即位すると漢は皇族の子女をえらんで閼氏としておくり
宦官の中行説がつくことになる
中行氏は、晋の宰相荀林父の家であって中軍の将であることを栄誉として
改名したとされる。晋には三軍がありそれぞれ二名の将軍で指揮され
晋は六卿の国と言われ中軍の将がその筆頭に当たる
ふつう宦官は下層の出だが趙高は趙の王族だったとされる
中行説が荀林父の子孫であるかは不明だがそのように称した可能性はある
また蒙古ではオルドスの族長が「晋王ジノン」とされ高位であった
宦官の中行説は匈奴に読み書きをおしえ、単于の側近に札をもたせ
家畜の数を記録するようにさせた
また中華の着物を愛する単于に「自国文化を捨てては国は弱まる。
革の服が、絹の服より優れてるとお示しください」と進言
「ほしいものがあればいつでも漢から武力で奪えばいい」とすすめる
また匈奴は野蛮であるという漢人には「中国の礼節はうわべだけで
家臣が主君を滅ぼすではないか。匈奴のほうが道徳は優れる」と反論した
匈奴は軍事体制だからそく死刑で、不穏分子や下剋上などはないわけだが・・
- 79 :
- 軍臣単于って名前がマジでカッコいい
- 80 :
- 周の成王が弟の虞と庭の木の枝を使って「これを以てお前を封じよう」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた
周公旦がはるか北方のTang (唐)を征伐して、虞を唐公に封じた。唐叔虞である
このとき家臣として鬼方一族が付けられた(容易に従わない蛮族ともされる)
あとになって晋水にちなみ唐から、晋(JIN)と変える。これがのちの大国晋である。
周と同じ血筋である晋公は春秋戦国でおなじ姫姓の国家をほろぼしてゆく。そして超大国になる
これはいかにも奇怪なことからまったく異民族でないかと言われるが・・
Tang (唐)
Tang (天乙)
天乙は商朝の初代王。殷墟出土の甲骨文占卜には、名は唐、と見える。
湯王、太乙、成湯、成唐とも
殷の建国者として実在の可能性が高い。聖王とされその徳は鳥にまで届くと
Tang (湯王)はテュルクの王。天乙とは、単于のような天帝の転写ではないか
月氏も甘粛に大きな城塞都市をいくつも持っていた。遊牧民だから野蛮、というわけではない
ただ中国とは人種や言語が異なるから意思疎通できず恐怖であり野蛮とされた
殷の湯王は北方の唐(晋)に盤踞したテュルク遊牧民であった可能性がある
そして殷をほろぼした周も、唐の土地は無視ができず、弟など重要な血縁のものをおいた
植民した晋人は農耕に精を出したが北方の植物相が貧困で、
食事も全く変わったはずである。貧しい土地の漠北ではむしろ遊牧生活も悪くない効率になる
晋の文公は春秋の五覇王のひとりだが、重耳といって母親は異民族の狄の姫であった
北方の民の大多数は現地人であり代を重ねるうちに晋の公室も圧倒的に現地の色に染められて
妻は狄をめとるなど遊牧民の色が濃くなる・・晋は三国に分割してもっとも北方の趙は
異民族の建設した都市、代国を攻め、代王を殺し、領土を広げる
- 81 :
- 中行説は漢の領土に偵察を送り侵攻にそなえ地理を検分させた
匈奴は謀をめぐらしついに単于は14万騎を率いて関中の簫関をやぶり北郡都尉を殺した
その斥候の兵は甘泉宮にいたる。長安まで少しである
さすがに文帝も騎兵10万をひきい渭水の北に布陣した
長安は河の南岸になるから、北岸に軍を集め決戦して長安をまもる二段構えだ
劉邦が歩兵でたたかい、冒頓単于の騎兵40万に包囲された頃に比べれば
漢の騎兵も10万そろえるまでには、充実していた
史書によれば文帝の配下の将軍は代わりに戦い匈奴を追い払ったとも
戦闘などおこらず、匈奴は退散して、漢軍は恐れて追撃できず城に縮こまっていたとある
これは後者が正しいであろう
匈奴は相手がそれなりの戦力で手を焼きそうなら戦闘はさける
勝っても大きな損害が出ては高くつく。野生動物が無用な怪我を恐れるのと同じだ
なお文帝が死んで景帝になると七国の乱がおこり、反乱側の燕王が匈奴と密約を結ぶ
燕王は雲中を平定し単于は長安を直行するというものだった
成功すれば単于が皇帝になれる
つまり中行説の謀は、いつでも長安を突ける匈奴騎兵の力を示したねらいがあった
- 82 :
- 匈奴を追いつめたら馬を全部取り上げてやったら以後脅威となることは
無かっただろう。
- 83 :
- 文帝が10万の騎兵で14万騎の単于を追い払ったあとも数年の侵攻が続き
被害が深刻なので単于に親書したところ和親を回復したいということで
ふたたび和議はむすばれ、文帝は「匈奴と漢は隣どうしの大国で仲良くしたい
ついては匈奴の地は恐ろしく寒いので、これを憂いて役人に命じ毎年一定の
衣類や食を送る。モチアワ、麹、金、絹織物、などである」
モチアワは現在の雑穀米などに入れて炊くアワでおいしい
「米」の漢字はもとはアワを指した。中原の漢民族にとって古来からのアワの食事で
げんざいでもアワの雑炊などは食べる機会が多い
アワを使った麺は4000年前の黄河流域から見つかっており鉄糸麺とされる
前漢ではモチアワがまさに漢民族の主食で、匈奴にとっても望ましい食料だった
コメはもともと華南の食で、後漢のころに黄河流域でも多く栽培されるようになった
景帝でも和親がかわされ国境の交易市場を匈奴の望み通りに開く
これで匈奴の民と単于もすっかり漢に随喜してなつき、国境近くにすんだという
武帝の代も方針は同じで贈り物も手厚かったので大満足だった
ただこれまでの経緯から、和親を結んでから辺境を荒らしまた贈り物をもらって
というサイクルで無数で繰り返されており、ロシアの北方領土の対話のようで
意味がない恥辱、と感じる中国の士人は多かったはずで、そこでいよいよ
武帝は「匈奴を追い詰めて馬を取り上げる」というこれまで試してない懸案に
とりかかるわけだが・・
- 84 :
- アワ麺はまったく違和感なく中華ラーメンに使うことができ美味しい
前漢の武帝の政策で西域との交流で小麦がはいってきて、小麦がアワより生産性がよいため
小麦麺がとってかわる
ウイグルのラグメンは、とても人気ある料理だがラグメンはラーメンの始祖だとウイグル人は自負する
キルギスでも麺料理に馬肉をのせるベシバルマックが国民食とされる
羊肉でもいいのだが正統派は馬肉でいかにもシベリア遊牧民らしい
もちろんラグメンもキルギスに人気あるがびみょうにちがい外国料理だと思われる
おそらく匈奴が食った麺料理は馬肉をのせるベシバルマックがちかい存在のではないか
またキルギスではパロー、肉を炒めてコメをたくピラフも人気ある
ピラフはトルコ料理の代表だが(日本では西洋料理としてしられる)
中央アジア全域でピラフは食べられる
匈奴は南方食コメが入手できるまえは、モチアワを使ったはずなのだがピラフにしたかは不明だ
- 85 :
- 匈奴の地は恐ろしく寒いってあるが、タリム盆地なんかは寧ろ恐ろしく暑いぞ 特に夏
- 86 :
- 匈奴の首都はノインウラと代とされるが前漢の全盛期は
単于を始め、代あたりに住んだと思われる
文帝は「万里の長城のむこうは匈奴のおさめ長城の内側は
漢が治める」としてるが、前の通り
始皇帝はオルドスを奪い万里の長城をきずいたものの
匈奴はオルドスを奪回してる
このいきさつから黄河中域の長城は放棄されてる
それでもおおむね大同(代都)の北を覆うように、燕国まで
つながる長城はあったはずだが
このころ多くの城壁はくずれて荒れ果てたが景帝まではすくなくとも
匈奴和親条約があったので、北方を敵視した補修もされなかった
匈奴が強大の頃は代あたり、北緯40度の南に単于は住んでおり
漢と関係が悪くなり北に帰ったころは北緯50度のバイカル湖(北海)の東に単于はいたのだろう
- 87 :
- 長城の破壊の要因は近在の農民が家を作るために石材を盗もうと
狙ってることで、国家権力が弱まって長城の兵士がいなくなれば
たちまち盗まれ放題になってしまう
匈奴の帝国は広大で、東は烏桓、西は烏孫としたら、その国境は
インド(身毒国)のはるか北から北朝鮮に至ることになる
なお万里の長城は北朝鮮沿岸に食い込んでおり、ちょうど平壌が
長城のすぐ外に当たる
後漢には東方の長城もあれはてており烏桓が多く住んでいた
幽州の田疇(でんちゅう)はこれに激しく抵抗し山に登って隠棲した
おおくの民が田疇に従い大勢力になり各国の使節が訪れるほどで
やがて曹操が烏桓征伐にでると田疇はその案内役になる
その大きな功績から爵位を与えるとしたが固辞してる
役人が固辞する態度が頑なで不快として、死刑に値すると
曹操に進言したが、曹操は問題にしなかった。
- 88 :
- 匈奴は遊牧帝国なので小麦など農作物の入手は、中国のような交易市場で得るか
あるいは自分の領土で農作するかの手段がある
西域諸国の最大規模である車師は、オアシス国家においてふるく国力も大きく
数千の兵士をもっていた。ほかのオアシスが百人ほど兵にくらべて10倍ほどおおきい
首府である交河城は世界最大の版築できずかれた巨城だ
この巨城は1000年後にモンゴルの攻撃で破却された
車師人は西洋の文献ではヨーロッパ人種だとはっきりしるされる
匈奴の日逐王の配下であり西域諸国に賦税し豊かであった
国が大きいゆえに西方貿易で、匈奴に多くを輸出しており漢はこれをさしとめる
目的で匈奴と切り離すべく攻撃したとされる
スキタイ帝国も、農耕スキタイ(原スラブ人)は東方の王族スキタイに作物を輸出しており
構造としては同じと言っていい
- 89 :
- ニューヨーク・タイムズ紙によると白人至上主義者は、牛乳などに含まれる乳糖を消化する酵素(ラクターゼ)の働き方が
民族や地域によって異なることに注目。
白人は牛乳を飲んでもおなかを壊さないが、それに比べアジア・アフリカ系では壊す人が多いことから、
集会で牛乳を一気飲みする動画を撮影し、「牛乳を飲めないなら(米国から)立ち去れ」などと投稿しているという。
なるほど白人は遊牧民の子孫だ
- 90 :
- この苗字って・・・乾隆帝(ヌルハチ)?
https://pbs.twimg.com/media/DqAWQNKVAAAWM9m.jpg:orig
https://pbs.twimg.com/media/BbIKWmHCEAAi6ZQ.jpg
- 91 :
- ドルチ、北海道またくるらしいな。
なんたって日本の親分並みだからなw
- 92 :
- >>89
下痢しても飲んでるけどw
- 93 :
- 白鴎の精神は見習うところばかりだな。
なんであんなに精神が強いかって、神に近いからだよ。
- 94 :
- 特別信仰するものがないのになんで神に近いのか不思議だよな。
日常の生活が沿って生きてるからだろう。
黒人の神の近さとおなじだけど、モンゴルの方が厳しい環境下だから強いんだと思う。
それでも恵まれてるのは食べ物だろうなあの体格を保つんだから。
- 95 :
- 野蛮なモンゴルを目指さないと腑抜けのままになる日本人は。
- 96 :
- >>90
愛新覚羅姓は金だとか他の苗字に変わったんじゃなかった?
- 97 :
- >>91
ドルジと大鵬じゃ全然違うなw
- 98 :
- >>96
戻した人も多いみたいよ
- 99 :
- >>97
時代が違うって?あまりにも違いすぎるw
- 100 :
- >>97
大鵬はテレビでも見てないけど、朝青龍の方が強かったって思うよ。あの時代だからなw
感情を表に出す力士はあまりいなかったしね。
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