TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】30
フス戦争
東洋史23
【三代】夏殷周を語る【理想】
北方領土を盗んだ反日侵略国家のロシアを許すな!
なぜ支那は自然科学を発見できなかったのか5
☆◎★世界史板統一雑談スレ65★◎★
【欧州の】第一次世界大戦【没落】4
ジャンヌ・ダルクについて語るスレ
海の民の正体について語るスレ

インドの起源は古代ギリシャ文明


1 :2012/10/02 〜 最終レス :2017/06/03
仏教はオルペウスとピュタゴラスが起源
輪廻転生の概念も彼らが起源

2 :
ヴェーダ

3 :
バラモン教

4 :
>>1
妄想オツ

5 :
インダス文明はいずこ?

6 :
>>1
最近の日本人が考えることはよくわからん。

7 :
>>1はこの板に居ついて白人、特に古代ギリシャに敵愾心を燃やす気違いです
本人としては多分「白人は何でも起源を主張するんだから古代インド文明だってギリシャのパクりとか言い出すだろw」
的な皮肉を言ってるつもりだと思います

8 :
ギリシャではなかろうが、根は同じだろ。
恐らく現在のアフガニスタンとイランの間らへんが大本の出身地だろうな。

9 :
ヨーロッパじゃアーリア人の発生地が
ヤマタイ国論争並みに定期的に賑わうと聞いたことあるけれど本当だろうか

10 :
アフラ・マズダーが東洋で盧遮那仏に、西洋でヤハウェになったんでしょ?
古代史ならばどんなことでも起こりうるよ

11 :
とてつもない日本
http://www.youtube.com/watch?v=oNyvFg-Y8Bo
http://www.youtube.com/watch?v=LMP-KI2Hl7E
なぜ日本はデフレを脱することができないのか
http://www.youtube.com/watch?v=2wMtqRSRs6g

12 :
阿弥陀仏もアフラ・マズダーの影響があるんじゃなかったっけ
西方浄土ってインドから見たペルシャだろう

13 :
ペルシャはキュロスの覇権が成立するまで僅かな地域でしかなかったから
それは違うと思う。エジプトじゃないの、常識的に考えて。そして
ピュタゴラス教団の戒律ってエジプトの神官の禁忌と似てねえか?
ピュタゴラスってもしかしてエジプト人かね。

14 :
大黒様も、吉祥天も、弁天様も、お釈迦様(ネパール)も。。。全部南インドが起源。

15 :
ついでに、観音様の起源は、シヴァ神の奥さんなのだ。

16 :
エジプトやギリシャがゾロアスターを知るのはペルシャの勢力が及んだ後

17 :
>>14
弁天は、かつて存在したサラスヴァティー川だから北インドであろう。

18 :
基本的な流れな。
前22〜20世紀頃 エジプトで冥界神オシリスへの信仰が大衆化、再生と復活が様式化される
前20〜前15世紀頃 古アーリアの対立する部族が北インドとイラン東北部に分かれて侵攻・入植の拡大
→ 古アーリア信仰における神アスラが、イランではアフラとして善神に、インドではアスラとして一介の悪神に
前12世紀頃 インドでリグ・ヴェーダ(神話・賛歌)が編纂され、以後、前8世紀にかけ祭儀書なども発展
前10世紀頃 イラン東北部でザラスシュトラがアフラ・マズダーを最高神としてゾロアスター教を創始
→ 終末論が史上初登場。善神と悪神の最終闘争が行われ、善神の勝利で世界が終わる
前8〜前5世紀頃 古散文ウパニシャッド(奥義書)が登場したのち、ヴェーダンタ哲学が発展へ
前6世紀 キュロス大王がイラン・メソポタミア・シリア・アナトリアを征服、次王カンビュセスがエジプトを征服
前6〜5世紀頃 イオニアで哲学・数学などが振興(タレース、アナクシマンドロス、ピュタゴラスなど)
前6〜5世紀頃 オルペウス教団成立、ピュタゴラス教団もその影響を受け成立
前5世紀 ダレイオス1世がイオニア諸都市を征服、彼の時代より遺物からアフラ・マズダーが登場するように
前5世紀 インドにおいて仏教、ジャイナ教、ローカーヤタ(順世派)などのナースティカ(異端)が登場

19 :
黒人がいたエジプトに科学はないだろうね

20 :
文明とは・・
新石器時代から鉄器時代を牽引した三種類の白人が欧州からペロポンネソス一帯に
降ってきた。そして古代ギリシャ人が紀元前7西紀あたりに
イオニアで科学的思想を生み出す。
それ以前は経験則と迷信に囚われた、エジプトに代表されるような
「現象」であった。これを白人の古代ギリシャ人が人類史上初めて
体系的に類型的に科学として現象世界を塗り替えた。
その後白人のタレスから始まる科学者が古代ギリシャに生まれ、
純粋白人のアレクサンドロス三世が世界に科学と文明と民主主義を
伝える。


21 :
イスラム教徒は今もアレクサンドロス三世に征服されて混血したことを
喜び、一ヶ月くらい祭りを行う(ヘレニズム祭り)。この遠征で仏教も
生まれたからすごい。ヘレニズムは遠い中国まで始皇帝や兵馬俑、仏像などとしても
影響を及ぼし、運慶や快慶もヘレニズム都市から来訪したギリシャ人だったという。

22 :
その唯一の直系の子孫である英国人は19西紀に新しいヘレニズム、
つまり近代化を世界中に押し広め、改めて白人のすごさを思い知らさせることになる。

23 :
ちんこ出したい

24 :
古代ギリシャはスキタイ系遊牧民とはガチで対峙していた。
そしてお釈迦さまはこの「サカ」族の系列でギリシャ系とは寧ろ仇関係の流れなんだが。

25 :
途中ちょっとレベル高くなりそうな感じだったが、やっぱりお約束どおりの流れになったなw

26 :
ウルク文明→ウバイド文明→シュメル文明→アッカド文明
→ペルシア文明→ギリシア文明→アラビア文明(現代)
この順序で推移する

27 :
やっぱりペルシア帝国がキーでしょ
領土内に右にゾロアスター教、左にユダヤ教を抱え、
隣国では左にギリシア哲学、右にインド哲学が成立する
ペルシア帝国こそが世界の思想を開花させたグレートマザーだろう

28 :
>>18
>前8〜前5世紀頃 古散文ウパニシャッド(奥義書)が登場したのち、ヴェーダンタ哲学が発展へ
これ何によってんの?
「のち」って書いてあるけど、以下のように随分のちなんだけど
http://en.wikipedia.org/wiki/Vedanta#History

29 :
>>27その時代(紀元前8〜4世紀)ってギリシャしか文献がなくね?他のとこって
文字記述さえない気がする

30 :
>>29
オイオイ、文字の起源ってどこだと思うんよ
ギリシャってエジプトとか西アジアの文化を受けてやっと野蛮から抜け出すとこでしょ

31 :
★実は怪しい人だったピタゴラス
「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗に等しい」というのがピタゴラスの定理であるが、
この定理は、前6世紀の数学者ピタゴラスが発見されたといわれている。
だが、有名な作家ヘロドトスは、エジプト人はこの定理を使って、ピラミッドを築き、無名の大工たちも家を建てている。と記している。どうやら、この定理はエジプトではすでに普及していたものらしい。
ピタゴラスが発見したとされる定理は、ピタゴラスのものではなかったという説が有力だが、では一体彼はどんな人物だったのだろうか?
ピタゴラスは、小アジアのサモス島に生まれ、イタリア南部のギリシア人植民地クロトネに移住した。
そして彼は、この地で小さな秘密教団を組織して、弟子たちに自らをアポロ神としてあがめさせた。

32 :
インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、
死後はこの六道を輪廻・転生すると考えたのです。
六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、
極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。
地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。
故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。
仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。

33 :
保守

34 :
釈迦は地獄や極楽があると言わなかったと思っていましたが?

35 :
>>34
少なくとも地獄は言ってる
大乗を認めるなら、もちろん浄土も言ってる

36 :
あるともないとも言ってなかったとか

37 :
>>36
そういうこという学者は信用できない

38 :
輪廻を認めないなら苦しい思いをして修行する必要も、
仏教を信ずる必要も全くないことになる。
Rば終わってしまうんだから。
そういう馬鹿は釈迦も仏教も全て否定する馬鹿だよ。
輪廻があってそこからの解脱の必要性がなければ仏教は成り立ちようがない。
輪廻や地獄、六道を否定するならそれは仏教じゃない。
最終的には克服し解脱するにしても、それは地獄その他システムを前提にする。
地獄や輪廻を否定する奴は自分は合理的なつもりだが半可通の屑。
釈迦が苦心惨憺、積み上げてきたものを否定する馬鹿。

39 :
仏は道を行うものは正しい言葉を使えと言っている
むやみに罵倒するのは仏の道ではないよ

40 :
なんであれ、先ずは『西洋古典学事典』を読むことだ。
議論はそれからにしろ。
よいな。

41 :
このスレは約束の地に認定されました

42 :
メシャ碑文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%A2%91%E6%96%87
メシャ碑文(メシャひぶん、19世紀には「モアブ碑」として知られた)は黒い玄武岩の石碑で、紀元前9世紀のモアブのメシャ王によって作成され、1868年に発見された。
34行から成るこの碑文は、古ヘブライ文字(en:Paleo-Hebrew alphabet)で記述されたものとしては、古代イスラエルから回収されたもののうち最大のものである。
それはメシャによって、紀元前850年ごろ、彼のイスラエルに対する反乱における勝利とモアブの独立を記録し記念するものとして、彼の元主君であったアハブの死後に作成された。
碑文の記述
神ケモシュの怒りの故に、いかにしてモアブがイスラエル王オムリに征服されたか。メシャの勝利はオムリの息子(名前への言及は無い)に臨み、ガドのアタロト、ネボ、ヤハツの人々に臨む。
彼の公共事業。要衝の地にある要塞を修復し、宮殿と貯水池を造営する。そして、
彼のホロナイムに対する戦争。

テル・ダン石碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E7%9F%B3%E7%A2%91
テル・ダン石碑は、1933年から1934年のイスラエル北部、テル・ダンでの発掘調査で発見された石碑である。
壊れているが、発見された複数の石片を組み立てたところ、アラム文字で書かれた、祝勝の碑文が彫られていることが分かった。
この石碑はアラム・ダマスカスのハザエル王によって紀元前9世紀後半に残されたものとされている。
また、この石碑はダビデが聖書以外で初めて文献として確認されたものでもある。[1]
この石碑の発見は数多くの論議を醸したが(中には模造品か否かについての論議も)、現在は広く「正銘の石碑である」とされており、
また「ダビデ王朝とダマスカスのアラム王国を参照している」とされている[2]。現在はイスラエル博物館にて展示されている[3]。

43 :
http://www.tmba-museum.jp/page/page_02.html
聖書考古学ニュース
テル・ハツォルのエジプト王のスフィンクス
ダビデ王時代のユダの都市の発見
エルサレム近郊で青銅器時代の住居跡が発見された
死海写本がオンラインで公開された
2本の角のあるペリシテ人の祭壇
大祭司カヤパの孫娘ミリアムの骨壺と判定
エルサレムの地下深くを流れる川あり
紀元1世紀のエルサレムの排水路と道路
乳と蜜の流れる地で発見された養蜂場
エラの谷の遺丘で発見された数十枚の硬貨

44 :
これは「ガト」だね
http://en.wikipedia.org/wiki/Gath_(city)

>>43
聖書考古学ニュース
「2本の角のあるペリシテ人の祭壇」
バル・イラン大学のA.メイアー教授は、テル・ツァフィー(ガテ)で「一本の石で造られた、二本の角(突起)のある祭壇」(前9世紀)が発掘されたと報告した。
これまでにイスラエルで発掘されたのは、「四本の角」のある祭壇だけであり、これは非常に珍しい。
この祭壇は、高さ・幅・奥行きが100センチ、50センチ、50センチであり、旧約聖書から知られる祭壇とほとんど同じ大きさである(出エジプト30:2)。
ペリシテ人の祭壇は、横の三面に帯状の飾りがある。
発掘者の中には、この祭壇はペリシテ人の起源を示すのではないかという見方もあり、祭壇の一つの側面と最上面とが未完成であること、
イスラエルの祭壇との関係など今後の研究が期待される。(提供:Jack Sasson氏)。

45 :
>>42
http://en.wikipedia.org/wiki/Mesha_Stele
http://en.wikipedia.org/wiki/Tel_Dan_Stele

神ケモシュ
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200000936
モアブ人の主神。モアブ人は「ケモシュの民」と呼ばれています。(民 21:29; エレ 48:46)一部の学者たちはこの神をペオルのバアルと同一視していますが,
それはペオルのバアルがモアブ人と関連しているからです。(民 25:1‐3)
普通に行なわれていたわけではないにしても,少なくとも極度の重圧を受けた場合には,子供たちがケモシュに犠牲としてささげられたようです。―王二 3:26,27。
モアブのメシャ王がイスラエルに対する自分の反逆を記念するために立てた,一般にモアブ碑石として知られる黒玄武岩の石碑を見ると,
モアブ人が自分たちの神ケモシュをどう見ていたかをさらに洞察することができます。

46 :
>>45
この記念碑によれば,ケモシュは戦いの勝利を与え,戦争はケモシュの命令で行なわれました。
メシャ王は,イスラエル人による圧制から救出されたのはケモシュのおかげであるとし,
イスラエルの王オムリの手で現に受けた苦しみは,ケモシュが自分の地に対して怒ったためであると考えました。
エフタはケモシュをアンモン人の神として言及しています。(裁 11:24)他の箇所ではケモシュが常にモアブ人と関連づけられているため,
エフタの言葉が正確かどうかを疑問視する学者たちもいます。しかし,アンモン人が多くの神々を崇拝したことを忘れてはなりません。(裁 10:6)
さらに,アンモン人とモアブ人はアブラハムのおいロトを共通の祖先とする,隣り合う民族でしたから,両方の国民がケモシュを崇拝したとしても少しもおかしくありません。
ケモシュの崇拝はソロモンの治世中にイスラエルへ持ち込まれたようです。モアブ人の妻たちの影響によるものと思われますが,
ソロモンは「エルサレムの前にある山の上に」ケモシュのための高き所を築きました。
(王一 11:1,7,8,33)3世紀余り後のヨシヤの大規模な宗教改革の際に,この高き所は礼拝のために用いられないようにされました。―王二 23:13。

預言者エレミヤはモアブに臨む災いを予告した際,モアブの主神ケモシュとその祭司ならびに君たちが流刑の身となることを示しました。
十部族王国のイスラエル人がベテルのことで,恐らくその子牛崇拝との関連ゆえに恥を被ったように,
モアブ人も自分たちの神のことでその無能さのゆえに恥をかかされることになりました。―エレ 48:7,13,46。

47 :
神ケモシュ
http://en.wikipedia.org/wiki/Chemosh_(Biblical)
In the Hebrew Bible, Chemosh (/?ki?m??/; from Hebrew: ????????? [ke?mo?]), was the god of the Moabites (Num. 21:29; Jer. 48:7, 13, 46).
The etymology of "Chemosh" is unknown. He is also known from Ebla as Kamish.
Chemosh was the national deity of the Moabites whose name most likely meant "destroyer," "subduer," or "fish god."
While he is most readily associated with the Moabites, according to Judges 11:24 he seems to have been the national deity of the Ammonites as well.
His presence in the Old Testament world was well known, as his cult was imported to Jerusalem by King Solomon (1 Kings 11:7).
The Hebrew scorn for his worship was evident in a curse from the scriptures: "the abomination of Moab." King Josiah destroyed the Israelite branch of the cult (2 Kings 23).

According to the Hebrew Bible, the worship of this god, "the abomination of Moab," was introduced at Jerusalem by Solomon (1 Kings 11:7),
but was abolished by Josiah (2 Kings 23:13). (Note: The Talmud quoted by Rashi says that his wives built the temples and he is considered responsible for not stopping them.)
On the Moabite stone, Mesha (2 Kings 3:5) ascribed his victories over the king of Israel to this god, "And Chemosh drove him before my sight."

48 :
王の道 (パレスチナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E9%81%93_(%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ed/Ancient_Levant_routes.png/800px-Ancient_Levant_routes.png
王の道(おうのみち)はヨルダン川の谷と死海の東を南北に走り、エジプトとメソポタミアを結ぶ幹線道路で、
アカバ湾岸のエラテからディボン、ヘシュボン、ラバテ・アンモン、ラモテ・ギルアデ、アシュタロテなどの町をへてダマスコに至る道。旧約聖書にも登場する。
王の道の周辺には、青銅器時代からすでに住居や要塞が発見されているので、この道路は前23世紀から20世紀の間には使用されていたと考えられる。
創世記14章でケドルラオメルと彼にくみした5人の王と戦った時に、王の道を通ってきたと考えられる。
モーセを指導者としてエジプトを出たイスラエル民族は、エドムの王とエモリ人の王シホンに彼らの領土を通ることを申請して拒絶された。
この時、イスラエル民族はシホンと戦い、その地を占領した。
ソロモン王の治世においては、アカバ湾岸のエツヨン・ゲベル(エラテ)とユダとアラム(シリヤ)を結ぶ重要な交易道路であった。

49 :
モアブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%83%96
モアブとは、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、
死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシェミット王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域を指す。
この地域は、現在のヨルダン・ハシェミット王国のカラク高原地域(カラク県)にほぼ等しい。
なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Ma?b)と呼ばれていたことが、9世紀のアラブ人地理学者ヤクービ(al-Yaqubi)の記述から分かる。
旧約聖書によれば、ロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブ(???? ヘブライ語で「父によって」の意)に由来し、
その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている[1]。

考古学による検証[編集]
モアブ人の存在は多数の考古学調査の結果によって証明されている。
モアブ人は鉄器時代にはカラク地域に王国を築いており、同地域がイスラム教の影響下に置かれる前には「モアブ」と呼ばれていたことも突き止められている。
カラク高原地域に存在するBalu'a等の鉄器時代の集落遺跡が、モアブ王国の集落であったと考えられている。
また、ヨルダン川東岸の地域、つまりアルノン川より北の地域のうちヨルダン川を西の境界としヤボク川を東の境界とする地域については、「モアブの野」「モアブの平野」[2]などと表現される。
この地域はかつてアンモン人の支配下にあり[3]、後にアモリ人の支配下に移ったとされる。
モアブ人の実在を証明する最大の証拠は、メシャ王の時代に作成されたとされるメシャ碑文で、
紀元前850年の「イスラエルの王オムリ」に対するモアブ人の勝利が記され、モアブの主神ケモシュが称えられている。
メシャ碑文に加えて、1958年にはヨルダン南部の都市カラクでモアブ文字で書かれた碑文の断片が発見されている(カラク碑文)。
この碑文にもモアブの主神ケモシュの神殿に関する言及がある。
カラクは聖書のキル・ヘレス(Kir Heres)であるとされるが、ここがモアブの首府であったとする説もある。
カラク碑文は現在、カラク考古博物館(カラク城内)に展示されている。

50 :
http://en.wikipedia.org/wiki/Ammon
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Kingdoms_around_Israel_830_map.svg/502px-Kingdoms_around_Israel_830_map.svg.png

Ammon (Hebrew: ???????, Modern Ammon Tiberian ?Ammon ; "People"; Arabic: ?????, translit.: ?Amm?n; Greek: Αμμονιοι),
also referred to as the Ammonites and children of Ammon, was an ancient nation best known from the Old Testament,
which describes Ammon as located east of the Jordan River, Gilead, and the Dead Sea, in present-day Jordan.[1][2][3]
The chief city of the country was Rabbah or Rabbath Ammon, site of the modern city of Amman, Jordan's capital.
Milcom and Molech (who may be one and the same) are named in the Bible as the gods of Ammon.[4]

うーん、ミルコムか

51 :
カラク (ヨルダン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AF_(%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3)
カラクには少なくとも鉄器時代から人が住んでおり、イスラエル人とは隣人ながら対立もしていたモアブ人の重要都市(モアブの首都でもあったとされる)・キル(Qir)があった。
1958年には、カラクからモアブ文字で書かれた碑文(カラク碑文)の断片が発見されており、モアブの主神ケモシュの神殿に関する言及などがある。
キルは旧約聖書ではキル・ハラセテ(キル・ヘレス、Qer Harreseth, Kir Heres)と呼ばれていた。
イザヤ書15章から16章はモアブの行く末に関する預言が語られており、その中でモアブが敵に攻め滅ぼされるさまが語られ、
16章11節では「わがはらわたはモアブのためにわが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように嘆く」とある。
キルはシリア地方に攻め込んだアッシリア帝国の侵略にさらされた。
アモス書1章5節・9章7節では、キルはシリア人(アラム人)がパレスチナの北に住む前に住まわされていた地であるとされ、
列王記下の16章9節ではティグラト・ピレセル王がダマスコ(ダマスカス)を征服した後、その住民をキルに強制移住させたことが記されている。
またこの時期には、古代エジプトからアカバ、マアーン、アンマン、ダマスカスを経てメソポタミアに至る「王の道」(King's Highway)と呼ばれる街道がキルを通っていた(民数記20章17節-20説)。

カラク城[編集]
カラクの十字軍の城は、シリアにあるクラック・デ・シュヴァリエなどと並び保存状態が非常に良い。
ケラク城は1142年、エルサレム王フールクの部下ペイヤン・ル・ボーテイエ(Payen le Bouteiller)の手によって建設が始まった。
十字軍の間ではこの城はクラック・デ・モアビテ(Crac des Moabites、モアブの城)またはモアブのケラク(Kerak in Moab)などと呼ばれていた。
城は古くからこの地にあった高名な教会・ナザレ教会の周囲に築かれている。
カラク城からの眺め。死海のみならずヨルダン川西岸まで見渡せる

52 :
付録 旧約聖書成立の概要(その3)
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/old-testament4.htm
のサイトより
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/images2/promise.jpg
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/images2/ex-map.gif

53 :
ラクダの家畜化は紀元前10世紀
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140212004
Mairav Zonszein for National Geographic News
February 12, 2014

 イスラエル、テルアビブ大学の2名の考古学者が発表した最新の研究結果によると、
地中海東岸部では、ラクダが最初に家畜化された時期は紀元前10世紀ごろまで遡ることがわかったという。
旧約聖書に記述された推定時期より数世紀遅いことになる。
 聖書が編纂された年代についてはさまざまな説があるが、今回の調査によると、通説よりもかなり後という可能性が高いという。
以前から歴史的資料としての信憑性に乏しいという研究結果が発表されていた旧約聖書だが、それを改めて裏付ける結果となった。
 今回の研究では、イスラエル南部、アラバ渓谷の銅精錬所でラクダが家畜化されていたという記述に言及している。
 聖書には、ヒトコブラクダが47回登場する。また、ユダヤ人の始祖アブラハム、ヨセフ、ヤコブといった人々が登場する物語には、家畜のラクダに関する記述がある。
例えば創世記24章11節は、「彼はラクダを町の外の、水の井戸のそばに伏させた。時は夕暮で、女たちが水をくみに出る時刻であった」となっている。
 専門家はその時期について、創世記の内容や、シュメール人の都市ウル(現在のイラク)の遺跡で見つかった考古学的情報、
または都市国家マリ(現在のシリア)の遺跡で出土した粘土板の記録などに基づいて、紀元前2000?1500年の出来事と判断している。

 しかし、研究を主導したイスラエルの考古学者エレズ・ベン・ヨセフ(Erez Ben-Yosef)氏とリダー・サピル・ヘン(Lidar Sapir-Hen)氏は、
放射性炭素年代測定法と発掘物の調査から、この地域(地中海東側の沿岸国)でラクダが家畜化された正確な年代を特定。
聖書の記述は、想定よりさらに後の時期に書かれたという事実を突き止めた。
 ベン・ヨセフ氏は、「アラバ渓谷の銅精錬所跡で見つかった考古学的な証拠から、
家畜化された時期を世紀単位ではなく数十年単位の精度で特定した」と、テルアビブ大学が先週発表した声明で述べている。
 サピル・ヘン氏は、「紀元前930?900年の30年に絞ることができた」と語る。

54 :
>>53
◆銅とラクダの関係
 アラバ渓谷は、死海から紅海のアカバ湾まで伸び、イスラエルとヨルダンの国境を成す。
紀元前14世紀?9世紀後期ごろまで、同地域では銅の精錬が盛んだった。
 研究チームは、渓谷の遺跡で見つかる動物の遺骸に興味深い傾向があることを発見。
大量のラクダの骨が、ほぼすべて紀元前930?900年代のものだったのだ。
 紀元前925年、古代エジプト王シェションク1世が同地域を侵略した時期とも重なっている。
 研究チームは現在、この史実とラクダの関係性について調査中だ。
エジプトがユダ王国とイスラエル王国を征服した後、銅精錬事業を再編、
その過程でそれまで利用されていたロバやラバよりも効率的な輸送手段として、ラクダが導入された可能性がある。
 地中海東側の地域では、ラクダの家畜化によって経済的、社会的に大きな変化が訪れたはずだ。
活動範囲も、広大な砂漠地帯を越えてかつてないほどに広がったとみられる。
 アラバ渓谷の発掘現場からは、新石器時代(紀元前9700年ごろ)の骨もみつかっている。
しかし野生種と推定されており、銅の塊を背負っていた痕跡はないという。
 今回の研究結果は、「Tel Aviv: Journal of the Institute of Archaeology of Tel Aviv University」誌で昨年末に発表されている。

55 :
>>53
http://en.wikipedia.org/wiki/Arabah

History[edit]
Wadi Arabah. Sunset.
In Biblical times, the Arava was a center of copper production; King Solomon is believed to have had mines here.
The Arabah was home to the Edomites (Edom was called "Idumea" in Roman times).
East of the Arabah was the domain of the Nabateans, the builders of the city of Petra.
Kibbutz Yotvata founded in 1957, was named for an ancient town in the area mentioned in the Bible. Kibbutz Lotan has a bird-watching center.
The oldest moshav in the central Arava area is Ein Yahav.
The Israel?Jordan Peace Treaty was signed in the Arava on October 26, 1994. The governments of Jordan and Israel are promoting development of the region.
There is a plan to bring sea water from the Red Sea to the Dead Sea through a canal (Red?Dead Seas Canal), which follows along the Arabah.
This (long envisioned) project was once an issue of dispute between Jordan and Israel, but it was recently agreed that the project shall be constructed on and by the Jordanian side.
http://en.wikipedia.org/wiki/Petra

56 :
2. 富裕なアラビアと呼ばれたイエメンの古代王国
(Ancient Yemen Kingdoms of Arabian Felix)
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-2.html#2.

57 :
http://en.wikipedia.org/wiki/Category:Lists_of_monarchs

http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_rulers_of_Pre-Achaemenid_kingdoms_of_Iran
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_rulers_of_Elam
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Jewish_monarchs
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_kings_of_Ancient_Epirus
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Athens
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Pontus
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Macedonia

58 :
http://en.wikipedia.org/wiki/Districts_of_the_Achaemenid_Empire
Herodotus divided the Achaemenid Empire into 20 districts.
The following is a description of the ethnic makeup of the districts and the amount they paid in taxes, translated from Herodotus' Histories.

うーん、確かティルスの税金が最高額だったとあった気がしたんだけど
もしかしてアッシリアだったかなぁ。

59 :
http://en.wikipedia.org/wiki/City_of_David
1 Archaeology
1.1 Chalcolithic (4500?3500 BCE)
1.2 Early Bronze Age (3500?2350 BCE)
1.3 Middle Bronze Age (2000?1550 BCE)
1.4 Late Bronze Age (1550?1200 BCE)
1.5 Iron Age I (1200?980/70 BCE)
1.6 Iron Age IIa (1000?900 BCE)
1.6.1 Necropolis
1.7 Iron Age IIIb (8th century ? 586 BCE)
1.8 Babylonian and Persian periods (586?322 BCE)
1.9 Hasmonean and Herodian periods (167 BCE ? 70 CE)
1.10 New Testament references for the City of David being Bethlehem
1.11 Byzantine and early Islamic Periods (324?1099 CE)

60 :
>>58ふむふむ
ダレイオス帝の徴税
The List of Tributes for Darius
http://www.efendi.jp/rq/script/economy/fiscus/tributes_for_darius.html
Satraps and satrapies
http://www.livius.org/sao-sd/satrap/satrap.htm

61 :
三雲南小路遺跡
平原遺跡
http://inoues.net/ruins/mikumoshouji.html

62 :
http://www.tt.rim.or.jp/~shr/nl/index.html

63 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4
にある、読み替えに関して調べてみることにする。

宗教[編集]
スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティアー(かまどの女神)で、
ついでゼウスとゲー(大地の女神)で、スキタイはゲーをゼウスの妻としている。
さらにアポローン、ウーラニアー・アプロディーテー(天上のアプロディーテー)、ヘーラクレース、アレースがある。
これらはスキタイ全民族が祀る神であるが、王族スキタイはさらにポセイドーン(海の神)にも犠牲を供える。
これは王族スキタイがアゾフ海沿岸に住んでいるためだと思われる。
以上の神々はギリシア風に訳したものであり、スキタイ語にすれば以下のようになる。

ヘスティアー→タビティ
ゼウス→パパイオス
ゲー→アピ
アポローン→ゴイトシュロス
ウーラニアー・アプロディーテー→アルギンパサ
ポセイドーン→タギマサダス
基本的にスキタイでは神像や祭壇や社は造らないのであるが、アレースだけには神像や祭壇を設ける。

64 :
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_rulers_of_Pre-Achaemenid_kingdoms_of_Iran
1-00件 Aratta kingdom, c. 2700 BC
2-00件 Elamite Empire, c. 2700 ? 519 BC
3-10件 Western Kingdoms, c. 2550?c. 700 BC
4-20件 Northwestern Kingdoms, c. 2550 ? 521 BC
5-07件 Southern Kingdoms, 27th century?550 BC

65 :
>>63
ものはここにありそうだが、はたして?
http://en.wikipedia.org/wiki/Scythian_religion

66 :
>>65は出典が良く分からないが、王侯スキタイのようだ。
Hittites and Scythians: Slavic Roots in Antiquity?
http://modrodnovery.com/the-scythians-and-thracians-slavic-roots-in-late-antiquity/
ここに何かあるだろうか?
第3から第4段落あたりに記述はあるのだが、、、

67 :
エツヨン・ゲベル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%AB
エツヨン・ゲベルは旧約聖書に登場するパレスチナの町の名前である。「男の背骨」という意味で地形から出た呼び名であると推定される。
1934年F・フランクによりテル・エル・ケレーフェがエツヨン・ゲベルであると同定された。
また、1938年にN・グリュックは、エラテが南ユダ王国時代にエツヨン・ゲベルになったと推定している。
出エジプト後のイスラエル人がカナンに向かう途中で宿営した場所として、民数記に登場する。エラテの次に宿営した場所である考えられる。
エイラト湾(アカバ湾)に面した都市で、ソロモン時代には港町として栄えた。
エツヨン・ゲベルとエラテは、前1200年頃後期青銅器時代の終わり頃に、エドム人かミデヤン人によって開発された。
ヨシャパテ王時代に、オフィルに行こうとした船団が難破した。
また、ウジヤ王の時に、エラテが再建されたが、ヨタムの子アハズの時代に、エドム人に奪い取られた。

68 :
http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/

「神話と伝説のふるさと」といわれる宮崎は、古事記や日本書紀に記されている日向神話をはじめ、
歴史ロマンをほうふつさせる数多くの伝説や史跡にあふれ、歴史資源の宝庫となっています。
これらの神話や伝説とともに、地域の人々によって、さまざまな暮らしが営まれ、その土地の風土をかたちづくってきました。
 晩秋の山里に響く神楽(かぐら)の音、祭、踊り、唄…。これらは営々と続く地域の生活の中から、生み出されてきたものであり、宮崎の文化そのものです。
ひむか神話街道は、神話や伝説に彩られたまちや村をつなぐ道として平成十五年六月に誕生しました。
沿線には、天孫降臨、海幸彦・山幸彦などの神話や、平家落人、百済王などの伝説が数多く残され、その魅力を今日に生き生きと伝えています。
「ひむか神話街道五十の物語集」では、沿線に語り継がれる神話や伝説五十話と、物語に関連する伝承地百ヶ所を紹介しています。
 五十の物語は、「神話編」と「伝説編」に分け、関連する逸話などは「こぼれ話」として紹介しています。
これらの物語は、時代を超えて私たちの心にそっと舞い降り、悠久の歴史とロマンをささやいています。
 この物語集を手にされた方が、宮崎の神話と伝説に触れ、そのロマンを少しでも感じていただければ幸いです。

69 :
書けなくなったかも

70 :
ヤズィーディー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
ヤズィーディー(Yazidi、ヤジーディー、ヤズィード、ヤジディ)は、中東のイラク北部などに住むクルド人の間で信じられている民族宗教。
Mishefa Re?やKiteba Cilweといった独自の聖典を持つ。ミスラ信仰等のイスラーム化する以前の諸宗教の系譜を引く、クルド人の宗教と言われるが、
元来山岳部が信仰の中心ということもあり、未だ明らかにされていない部分も多い。
イラクの他に、周辺のシリア、ロシア、アルメニア等にも見られる。イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教の影響を受けており、
七大天使、就中、孔雀天使マラク・ターウースを信じる。
歴史的に見ればスーフィズムの影響から始まったように見られるが、輪廻転生を教義の根幹に持つなど、イスラムの教義体系からは逸脱が目立つ。
そのため、多数派のムスリム(イスラム教徒)から邪教扱いされている。
啓典の民から除外されるのでジズヤを支払って見逃されることはなく、コーランか剣かの対象となる[1]。
近年、イラクの治安悪化と長年の迫害から、ドイツ等欧州諸国へ大規模に移住している。

71 :
イラクで迫る危機、ヤジディ教徒とは
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140811002

ヤジディ教徒はイラク北西部の山岳地帯に何世紀にもわたり居住してきた。
また、この地域はヤジディ教徒にとって聖地や神殿、先祖が住む村などが存在する場所でもある。
シンジャル以外では、モスル北部の地区や、クルド人が支配するドホーク県に固まって住んでいる。
ヤジディ教徒にとって、この地は宗教的に大きな意味を持っている。
ヤジディ教はトルコやドイツなどに小さな信徒のコミュニティーが残っており、世界中から信奉者が巡礼のためイラクにある聖都ラリッシュを訪れる。
だが今では、ISISの前線がこの聖なる町から65キロ足らずのところに迫っている。

◆絶え間ない誤解にさらされてきたヤジディ教
 ヤジディ教は、多様な宗派がモザイク状に入り交じるイラクでも、その図式にうまく収まらないため、誤解されることが多い宗教だ。
ヤジディ教徒の大半はクルド語を話し、民族的には自らをクルド人と考える者が多いが、ヤジディ教徒は宗教の面で、スンニ派が多数を占める一般のクルド人とは異なっている。
 ヤジディ教は長く続く信仰で、イスラム教の教えにゾロアスター教や古代ペルシャの宗教、さらには地中海東部に起源を持つ謎の多い宗教のミトラ教が入り交じり、口伝えによる豊かな伝統を持つ。
このようにさまざまな信仰体系が混合された宗教はシンクレティズム(混交主義)と呼ばれるが、この点もイスラム教徒から異端の烙印を押される理由の1つとなっている。
その正確な起源については依然として議論があるものの、一部の研究者の説によれば、ヤジディ教は12世紀に形成されたという。
この時期にはスーフィー(イスラム教神秘主義)の指導者、アディ・イブン・ムサフィル(Adi ibn Musafir)がクルディスタン地域に居を構え、
イスラム教徒と地元に残るゾロアスター教の信仰の要素を合わせたコミュニティーを創設している。

72 :
聖都ラリッシュ build 1986 BCE
District Shekhan
http://en.wikipedia.org/wiki/Lalish
http://en.wikipedia.org/wiki/Shekhan_District
Lalish (Kurdish: Lali?, also called Lali?a Nurani), is a small mountain valley village situated in the Shekhan District of Nineveh Province in northern Iraq.
It is the location of the tomb of Sheikh Adi ibn Musafir (?ex Adi), the main figure of the Yazidi faith.[1]
The village is above the town of Shekhan, the town with the second largest population of Yazidi Kurds.[2]
The village is about thirty-six miles north-east of Mosul.[3]
At least once in their lifetime, Yazidis are expected to make a six-day pilgrimage to Lalish to visit the tomb of ?ex Adi and other sacred places.[1]
These other sacred places are shrines dedicated to other holy beings.
There are two sacred springs called Zamzam, which is in a cave below Skeikh Adi's sanctuary, and K?niy?.
Lalish is also the location of pirr? sel?t (?er?? Bridge) and a mountain called Mt. ?Araf?t sites significant in other faiths.
Yazidis living in the region are also expected to make a yearly pilgrimage to attend the autumn seven day Feast of the Assembly,[3] which is celebrated from 23 Ayl?l to 1 Ta?r?n I.

73 :
イラク、聖地を追われるヤジディ教徒
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140904001

 ヤジディ教徒にとって、イラク北部クルド山岳地帯にある町ラリッシュは、イスラム教にとってのメッカ、
あるいは3大一神教であるイスラム教、キリスト教、ユダヤ教にとってのエルサレムのような存在だ。
そこはいにしえより続くクルド少数民族の信仰にとって、最も神聖なる地である。

◆信仰の中心地
 ラリッシュは、緩やかに波打つ丘陵地帯に取り囲まれた緑豊かな谷の奥深くに隠され、今のところは安全である。
ほとんど目立たないので、そばを通る主要道路からは簡単に見逃してしまいそうだ。
 しかしここに点在する宗教的神殿の数々が、少なくとも6700年の歴史を持つと言われるヤジディ教徒たちの最大の懸念対象となっている。
 イスラム教徒がメッカへ巡礼するように、ヤジディ教徒もできるなら一生に少なくとも一度はラリッシュへ巡礼することが求められている。
イラクに住んでいれば、少なくとも年に一度は巡礼しなければならない。
 ヤジディ教へ対する迫害は今に始まったことではない。彼らによると、長い歴史の中で少なくとも72回はそのような迫害を経験しており、今回で73回目となる。
信者の数は、100万とも70万とも、あるいは30万人とも見積もられている。
ドイツには、ヤジディ教徒の住む大きなコミュニティがあり、そのほか北アメリカ、トルコ、シリアなどにも在住している。
しかし、ほとんどのヤジディ教徒はラリッシュを中心とするイラク北部に居住している。

74 :
>>73
◆厳しい信仰体系
 ヤジディ教は誰でも受け入れる宗教ではない。改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制度を守っている。
これは、ヤジディ教のルーツが数千年前のインドにも関わりがあったことの名残である。ヤジディ教徒以外との結婚や、カーストを超えた結婚も認められていない。
 ゾロアスター教とメソポタミアの伝統儀式が入り混じり、キリスト教、ユダヤ教、スーフィー教(イスラム教神秘主義)の影響を受け、その信仰の中心にはターウース・マラクを頂点とする7人の大天使が存在する。
ターウース・マラクはまたの名を孔雀天使、もう少し聞こえが悪い名前でシャイターン(悪魔)とも呼ばれている。
 しかし、悪魔を堕天使であるとみなす3大一神教とは違い、ヤジディ教では悪魔は罪を赦され、その大量に流された悔恨の涙が地獄の火をかき消してしまったと信じられている。
 そしてイスラム教徒がメッカに向かって祈るように、ヤジディ教徒は太陽に向かって祈りを捧げる。
 これらのことから、ISをはじめ他の宗教は、ヤジディ教を悪魔崇拝、太陽崇拝の背教者とみなしている。

◆土地に強く根ざした信仰
 ヤジディ教の深遠な信仰は土地に複雑に根ざしているため、その土地を集団で追われるということは、単に自分の家を失う以上に深い痛みを伴うものである。
避難生活によって、彼らの信仰を支えてきたいにしえの生活習慣や伝統が姿を消してしまう可能性がある。
 例えば、信者が洗礼を受けるには必ず、たとえ外国に居住していたとしても、2つの聖なる泉のどちらかへやってこなければならない。
 その泉から汲んだ水は、ラリッシュから採れる土と混ぜ合わせて泥団子を作り、結婚式や葬式などの儀式で欠かせない重要な祭事品として用いられる。葬式では、この泥が死者の目、耳、口に塗布される。
 他にも、春に行われる新年の祝いなど、主に祭事にまつわる多くの儀式が、ラリッシュとその周辺の土地に深く関係している。

75 :
ここもダメなら諦める

76 :
78万〜56万年前頃のウマのゲノム解読
http://sicambre.at.webry.info/201311/article_10.html
この研究では、
カナダのユーコン準州で78万〜56万年前頃の永久凍土層から発掘されたウマの骨から得られた低カバー率の概要ゲノム配列と、
更新世後期のウマ、
現代の家畜ウマ5品種、
モウコノウマ(モンゴルのステップ原産で絶滅が危惧されている亜種)および
ロバ
の概要ゲノム配列とが比較されました。

http://www.nature.com/nature/journal/v499/n7456/fig_tab/nature12323_F3.html
進化: 古代のウマのDNAからウマ属系統を解明
カナダのユーコン準州で約78万〜56万年前の永久凍土層から発掘されたウマの骨から、低カバー率の概要ゲノム配列が得られた。
これは、解読された全ゲノム塩基配列としては、これまでで最も年代が古い。
得られたデータは、更新世後期のウマ、現代の家畜ウマ5品種、モウコノウマ(モンゴルのステップ原産で絶滅が危惧されている亜種)およびロバの概要ゲノム配列と比較された。
比較ゲノミクスにより、現代のウマ、シマウマおよびロバの全ての起源となるウマ属系統が生じたのは、
約450万〜400万年前であることが示唆された。この年代は従来の想定よりもはるかに古い。
またこのデータは、モウコノウマが最後の現存する野生ウマ集団であるという説を裏付けている。

77 :
>>76
https://trace.ddbj.nig.ac.jp/DRASearch/sample?acc=SRS438345
Title
Ancient Sample for Equus caballus, CGG10022 (43 Ky BP)
Description
from Krasnoyarsk, Taymyr Peninsula, Russia calibrated date:
42,012-40,094 BP Radiocarbon accession UBA-16478

Taymyr Peninsula
http://en.wikipedia.org/wiki/Taymyr_Peninsula
タイミル半島
タイミル半島(タイミルはんとう)はシベリア北部に位置する北極海に突き出た半島。
西はカラ海に注ぐエニセイ川が河口で形成するエニセイ湾、東はラプテフ海に注ぐハタンガ川とハタンガ湾で限られる。
半島全域がロシア連邦、クラスノヤルスク地方に属するタイミル自治管区に含まれる。
半島の最北端はチェリュスキン岬(北緯77度43分、北極点から約1,300km)。
チェリュスキン岬はユーラシア大陸の最北端でもある。その北にヴィリキツキー海峡を隔ててセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島がある。
半島の中央部を高さ1,000mほどのビルランガ山脈が走り、山脈の南麓にタイミル湖がある。
住民の数はわずかであり、ロシア人のほかに、ドルガン人、ネネツ人、ガナサン人などがいる。
2012年、このあたりに住む11歳の少年により、永久凍土のなかからマンモスの死骸が発見された。
非常に保存状態が良く、知らせを受けた専門家によると約3万年前に死んだ15-6歳程度の雄のマンモスと推定されている。[1]
Russian Arctic showing Fridtjof Nansen's route
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Nansen_Fram_Map.png

78 :
アシュケナージ系ユダヤ人の起源
http://sicambre.at.webry.info/201409/article_13.html
 アシュケナージ系ユダヤ人の起源についての研究(Carmi et al., 2014)が公表されました。
この研究によると、アシュケナージ系ユダヤ人集団は800〜600年前頃にヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団が融合して出現したそうです。
そのさいの遺伝子プールに占める両祖先集団の割合はほぼ同程度だった、と推測されています。
アシュケナージ系ユダヤ人集団が形成された時期と近い頃に、集団ボトルネックが起きたようです。
また、ヨーロッパ系祖先集団が最終氷期極大期の頃の22100〜20400年前に中東系祖先集団から分岐した時に、
創始者集団のボトルネックが起きた、と推測されているようです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。

79 :
>>78
【遺伝】アシュケナージ系ユダヤ人のルーツ
 現代のアシュケナージ系ユダヤ人集団については、最近のいくつかの遺伝学的研究によって、特徴が明らかにされているが、
今週掲載される論文によれば、この集団の出現は、約600〜800年前のことであり、ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合の結果であった可能性が非常に高いとされる。
 過去の研究で、アシュケナージ系ユダヤ人は、他のユダヤ人集団と現代の中東系、ヨーロッパ系の人々に近縁な遺伝的に独立した集団とされていた。
独立した集団には、独特な遺伝的特徴が見られることが多く、アシュケナージ系ユダヤ人の独特な遺伝的特徴の1つは、パーキンソン病、乳がん、卵巣がんなどの遺伝性疾患の罹患率が高いことだ。
 今回、Itsik Pe’erたちは、アシュケナージ系ユダヤ人の128件の完全ゲノムの高深度配列解読を行い、
その結果を用いて、過去の研究によって報告されていた集団ボトルネック(集団内個体数の激減)があったことを確認し、
それが25〜32世代前だったことを明らかにした。
 また、Pe’erたちは、現代のアシュケナージ系ユダヤ人が形成されたのが600〜800年前(集団ボトルネックが起こった時期に近い)で、
ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合によるものだったことを示すモデルを作成した。
また、ヨーロッパ系祖先集団が20400〜22100年前(最終氷期極大期の頃)に中東系祖先集団から分岐した時に、創始者集団のボトルネックが起こったことも明らかになった。
ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団のそれぞれの祖先も独自のボトルネックを起こしたことも判明し、それが「出アフリカ」事象に対応している可能性が非常に高いと考えられている。
 今回の研究は、ヨーロッパ人と中東人の歴史に関する手掛かりをもたらしているだけでなく、
アシュケナージ系ユダヤ人集団の基準ゲノムを明らかにしており、これまでより容易に有害な遺伝的変異を同定できるようになった。

Sequencing an Ashkenazi reference panel supports population-targeted personal genomics and illuminates Jewish and European origins
http://www.nature.com/ncomms/2014/140909/ncomms5835/full/ncomms5835.html
元にはたいした情報は無さそう

80 :
こっちのは結構おもしろかったはず

ユダヤ人のゲノムと他集団との比較
http://sicambre.at.webry.info/201007/article_14.html
 ユダヤ人の全ゲノム構造についての研究(Behar et al., 2010)が公表されました。
この研究では、14のユダヤ人共同体から得られたゲノムのデータが、アフリカ・ユーラシアの69の非ユダヤ人集団のそれと比較されていますが、
この69の非ユダヤ人集団のうち25集団は、この研究以前には報告されたことがありません。
この比較の結果、現代のユダヤ人の大半とレヴァントの非ユダヤ人集団とが近い関係にあることが明らかになりました。
この結果は、現在のユダヤ人の大半が、レヴァントにいた古代ヘブライ人およびイスラエル人の子孫である、とする歴史学の見解と整合的です。
 対照的に、エチオピアおよびインドのユダヤ人共同体は、後者とレヴァント人との父系での明確な関連にも関わらず、
それぞれエチオピアおよびインド西部の隣接する非ユダヤ人集団と密接な遺伝的関係が認められました。
この説明として、エチオピアやインドにユダヤ人共同体が確立されたときに、かなり大規模な遺伝的・宗教的・文化的な交差が起こった可能性が指摘されています。
インドやエチオピアでは、移住してきたユダヤ人の数が少なかった、ということでもあるのかもしれません。

参考文献:
Behar DM. et al.(2010): The genome-wide structure of the Jewish people. Nature, 466, 238-242.
http://dx.doi.org/10.1038/nature09103

81 :
ここにはまだ載ってないね

「アシュケナジム・ハザール起源説」について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB#.E9.81.BA.E4.BC.9D.E5.AD.A6.E7.9A.84.E7.A0.94.E7.A9.B6

また、アシュケナジムの使用言語であるイディッシュ語の系統が西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語(標準ドイツ語)の一つである点もハザール起源説に無理がある理由である。
ハザールはテュルク系と考えられているが、イディッシュ語にはテュルク諸語との類縁関係が全くない。
アシュケナジムがハザール起源なら当然イディッシュ語にはテュルク系言語の特徴が残っているはずである。
ハザールがユダヤ教に改宗したのは(それがどの程度の規模であったかはともかく)確かであるが、それまで母語としてきたテュルク系言語まで捨てたとは到底考えにくい。
しかもハザールの故地にはカライ派ユダヤ教徒がいるが、彼らの使用言語であるカライム語はテュルク諸語の一つである。
このようにカライム人のカライム語はテュルク系言語として残っている一方で、アシュケナジムのイディッシュ語にはテュルク系言語的特長が全く残らずゲルマン系言語になっている。
この理由についてハザール起源説は何ら説明がない。

82 :
「0」と「無限」はアレクサンドロス三世がインドを征服した際にもたらせたと
アメリカの数学者が言ってたよ

83 :
>>82
ごめんな
リサイクルしたものを廃品回収したんだ

84 :
正しく知りたかったら、
『西洋古典学事典』を読め。

よいな。

85 :
ナッ爺の推薦図書なら読まない方が良いな

86 :
歴史なんてロバの学問だと
ユークリッド精神がずっと受け継がれていた欧州人はすでに見破っていた。

87 :
最古の洞窟壁画か? インドネシア
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20141009005
October 9, 2014
 人類最初の壁画アーティストが現れたのは先史時代のヨーロッパと長年考えられてきたが、スラウェシ島の壁画が年代測定されたことで、その範囲が大きく広がりつつある。
今回測定された壁画には、手形のステンシルとバビルサ(インドネシア語で“豚鹿”を意味する)が含まれる。
「ヨーロッパやスラウェシ島では、獰猛な大型哺乳動物が圧倒的な迫力で描かれました。おそらく当時の人々の信仰に重要な役割を果たしていたのでしょう」と、
研究を率いたオーストラリア、クイーンズランド州にあるグリフィス大学の考古学者マキシム・オーベール(Maxime Aubert)氏は述べる。
 人類の祖先がアフリカ大陸から世界中へ伝播したのは6万年以上前とされるが、スラウェシ島にあるマロス洞窟遺跡の壁画はそれより古い可能性がある。
◆最古の芸術
 1950年代以降、スラウェシ島の洞窟から数百もの手形のステンシルや動物の壁画が見つかっている。
描かれた年代は先史時代、島に狩猟採集民が渡って来た1万2000年前以降と推測されていた。
 今回の研究で、研究者らは7つの洞窟にある壁画を覆っていた1センチメートルに満たない鉱物の層を調査した。
鉱物層のウラン含有量を測定することで、鉱物が水によって壁面に運ばれた年代が明らかになる。これら堆積物の年代から、壁画の描かれた年代が絞り込めるというわけだ。
 最も古い手形のステンシルは3万9900年と測定されたが、あくまでも壁画を覆っていた鉱物の最小年代に過ぎない。つまり、その壁画はそれより数千年古い可能性がある。
 スペインのエル・カスティージョ洞窟にある赤い円は、同じ年代測定法で少なくとも4万800年とされ、現在知られている洞窟壁画としては最古のものだ。
また、同じ洞窟にある手形のステンシルは3万3700年前のもので、スラウェシ島の壁画と同時期にあたる。
「洞窟壁画の起源に関して、これまで“ヨーロッパ中心”の見方であったことをこの研究は示しました」と、イギリス、サウスハンプトン大学の考古学者アリステア・パイク(Alistair Pike)は語る。
◆アフリカから?

88 :
そろそろやろう

西シベリアの45000年前頃の現生人類のゲノム
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_26.html
より

遺伝学:シベリア西部で発掘された4万5000年前の現生人類のゲノム塩基配列
遺伝学:4万5000年前の現生人類のゲノム
 2008年に、シベリア西部のウスチイシム近郊にあるイルティシ川の土手で現生人類の大腿骨化石が見つかり、約4万5000年前のものと推定された。
J Kelsoたちは今回、この標本から得たゲノムの塩基配列を解読し、
この個体が、ユーラシアに移動した現生人類が西部集団と東部集団に分かれる前か、分かれたのと同じ時期に生きていた男性であることを明らかにした。
解析から、この個体が、ネアンデルタール人由来のゲノム塩基配列を現代ユーラシア人に見られるのと同程度の量保有していることが分かった。
ネアンデルタール人由来のゲノムセグメントの長さに基づき、この男性の祖先にネアンデルタール人の遺伝子が流入したのは、彼が生きていた時期の1万3000〜7000年前だと見られる。
現生人類とネアンデルタール人の交雑時期は、従来の見積もりでは8万6000〜3万7000年前とされていたが、今回の研究で、交雑はおよそ6万〜5万年前に起こったことが示唆された。
この年代は、現生人類のヨーロッパ(そしておそらくアジア)への拡散時期と一致する。

参考文献:
Callaway E.(2014D): Oldest-known human genome sequenced. Nature, 514, 7523, 413.
http://dx.doi.org/10.1038/514413a

89 :
36000年以上前のヨーロッパロシアの現生人類のゲノム
http://sicambre.at.webry.info/201411/article_9.html
より

この研究は、ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で
1954年に発見された若い男性(以下、コステンキ人と省略)の人骨(尺骨)からDNAを抽出し、ゲノム配列を確定することに成功しました。
この男性の年代は38700〜36200年前とされており、肌や目の色は濃いことが明らかになりました。
解析された現生人類のゲノムとしては、現時点では2番目に古いものとなります。
ちなみに、現生人類のゲノム配列として現時点で最古のものは、西シベリアの45000年前頃の人骨から得られています(関連記事)。

 ゲノム解析の結果、コステンキ人と遺伝的に近縁なのは、
・中央シベリアの24000年前のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)
・ヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民・一部の現代西シベリア人
・多くの現代ヨーロッパ人であり、
現代東アジア人とはこれらの系統よりも遺伝的に疎遠であることが明らかになりました。
このことから、西ユーラシア人と東アジア人とは36200年以上前に分岐したのではないか、と推測されています。
また、コステンキ人のゲノムには、後のヨーロッパ新石器時代の中東起源の農耕民とも関連する領域も確認されました。
この研究は、上部旧石器時代にヨーロッパから中央アジアまで局所的集団が多数存在し、
それぞれの局所的集団が拡大と消滅を繰り返しながらも存続しているという状況を想定し、
そうした中でヨーロッパ人が形成されていったのではないか、との見通しを提示しています。

90 :
>>89
 この研究に関して注目されているのは、今年(2014年)9月に公表された現代ヨーロッパ人の起源に関する研究です(関連記事)。
その研究では、現代ヨーロッパ人は遺伝的にはおもに、
全ヨーロッパ古代人の祖先である西ヨーロッパの狩猟採集民・上部旧石器時代シベリア人と遺伝的に近縁な
古代北部ユーラシア人・中東起源の初期ヨーロッパ農耕民の3系統に由来している、と主張されています。
これらの系統は個別にヨーロッパに進出し、新石器時代になってこの3系統が融合した、とされています。
しかし、コステンキ人はこの3系統の遺伝子を全て有しており、この研究を率いたウィラースレヴ(Eske Willerslev)博士は、コステンキ人を「純粋なヨーロッパ人」と述べています。
ヨーロッパ人の遺伝的形成は、じゅうらい想定されていたよりもずっと早かったのではないか、というわけです。

 上記報道や解説で強調されているのが、コステンキ人の系統は遺伝的に未知だった系統と交雑した、ということです。
この遺伝的に未知の系統は、36000年以上前のコステンキ人の系統との少ない遺伝的交流を除いて、
おそらく上部旧石器時代の中東で3万年以上ヨーロッパの現生人類集団とはほぼ交流なく生き延び、
氷期が終わった後に農耕を始めて、ヨーロッパに進出したのではないか、と推測されています。
上記報道では、ヨーロッパと中東は地理的に近いように見えるが、ある種の地理的障壁があったのではないか、と指摘されています。
また、この遺伝的に未知の系統は、上部旧石器時代の間、たとえばザグロス山脈のような退避所で過ごしたのではないか、と推測されています。

91 :
>>89
http://news.sciencemag.org/sites/default/files/sn-bust.jpg

92 :
しかし、安定の一品です
貼るだけの簡単なお仕事

Genome of Kostenki-14, an Upper Paleolithic European (Seguin-Orlando, Korneliussen, Sikora, et al. 2014)
http://dienekes.blogspot.jp/2014_11_01_archive.html
http://1.bp.blogspot.com/-jlF6eSOWmnk/VFwpvCk9MjI/AAAAAAAAJ1o/lkmfDp204OU/s1600/F2.large.jpg
http://2.bp.blogspot.com/-YECMQQMgnlk/VFw0eBTGjRI/AAAAAAAAJ14/itneofdPteI/s1600/F1.large.jpg
But there is a slight kink in the story, as K14 also belonged to Y-haplogroup C which is predominantly East Asian/Ocenian/Native American today.
So, maybe there is some distant link to these populations in its ancestry.
But, there is definitely a link to much more recent Europeans:
the tiny percentage of living Europeans who have preserved K14's Y-chromosomal type (some of which were doubtlessly told a few years back that they were descendants of Genghis Khan, before the phylogenetic structure of C was known),
the La Brana hunter-gatherer from Mesolithic Spain, as well as Neolithic Europeans from Hungary.

と思ったが、mtDNAがない

93 :
>>92
S3: Samples and laboratory methodologies applied
Samples
The K14 sample used in this study was obtained from the left tibia (dorsal side of
the shaft). Note that the tibia was washed before sampling. As described in S1, the
skeleton has been directly dated to 38,684 - 36,262 cal BP. According to the complete
mitochondrial sequence of the tibia that has been characterized in previous ancient DNA
analyses,
the K14 individual belonged to mitochondrial haplogroup U2 (131).
Two other
samples, K1 and K15, were also analyzed but endogenous DNA contents and levels of
contamination by modern humans were found incompatible with the characterization of
the whole genome sequence by shotgun sequencing.

94 :
>>92
Fig. S23 を見る限り
リアルプロメテウスってやつか、、、

95 :
>>92
MA-1からアメリカ要素を大きく減らしたものがK14か。
そんでK14はMA1にはない東アジアと中東を持ってると。
この地理上の矛盾はオーパーツか、、、

96 :
>>92
K14とMA-1とも南アジアを持っているということは
中東人の形成っていうのはかなり後ってことなんだろうね。
結局、農耕の開始にともなって自然選択されるんだろうけど
K14が持ってる中東ぶんを除く必要があるんらろうなぁ。

97 :
ギリシャ文明のピークはアレキサンダーからプトレマイオス朝滅亡までだろうな
ポリス時代のギリシャはフェニキアと違ってポリス間の抗争も凄まじく、
領域が限られているし、ヘレニズム時代が一番充実している感じがある
その後のローマ時代になるとギリシャ人もコプト人もアラム人も弱兵化して
衰退化していってる感満載だ もうギリシャには新しいものは作れなくなり、次は中世イタリア

98 :
違うよ。ギリシャ文明はヘレニズム後にイスラムで開化する。
イスラム文明の起源はギリシャ白人。

99 :
これまたウキウキするやつ
http://dienekes.blogspot.jp/2015/01/ancient-dna-from-di-qiang-populations.html

Ancient DNA from Di-qiang populations in the Xinjiang
American Journal of Physical Anthropology DOI: 10.1002/ajpa.22690
Ancient DNA reveals a migration of the ancient Di-qiang populations into Xinjiang as early as the early Bronze Age
Tianshanbeilu
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/From_Neolithic_to_Bronze_Age_in_China.jpg/550px-From_Neolithic_to_Bronze_Age_in_China.jpg
Hexi Corridor
(Chinese: 河西走廊; pinyin: Hexi Zoulang; Wade?Giles: Ho-hsi Tsou-lang) or Gansu Corridor
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4e/China_Gansu.svg/220px-China_Gansu.svg.png

100 :
>>99

ワハーン回廊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%9B%9E%E5%BB%8A
http://en.wikipedia.org/wiki/Wakhan_Corridor
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Wakhan.png
ワハーン回廊(ペルシア語:????)とは、アフガニスタン北東のバダフシャーン州に位置する東西に細長く伸びた回廊地帯。ワハーン渓谷、ワハン回廊とも。
歴史[編集]
かつてはタクラマカン砂漠を通って東西を結ぶシルクロード、いわゆる「オアシスの道」の一部をなす重要なルートであった。
19世紀にはグレート・ゲームの主要な舞台となる。
地理[編集]
パミール高原を東西に連なるこの地域は、西を本土とわずかに連絡する他は
北をタジキスタン、東を中華人民共和国、南をパキスタン(カシミールの一部を含む)に囲まれた東西200km、南北15kmの狭隘な高原である。
ヒンドゥークシュ山脈を越える南部のパキスタン国境(デュアランド・ライン)には、ブロゴル峠(英語版)、カランダル峠(英語版)、イルシャード峠(英語版)、Dilisang Passがある。

ここに住んでる人はたしか極少数語派だったよ。
と思ったが、7〜10万人だったらけっこういるな


100〜のスレッドの続きを読む
【植民】ギリシア語圏・ギリシア文化圏【移民】
ドイツと日本なぜ差がついたのか 比較検証
フス戦争
世界史上最高の軍事的名将part17
アドルフ・ヒトラーを再評価する
【ホロコースト】ガス室って捏造なの?
ヨーロッパとは何か?
世界史をやればやるほどアジア人の無能さを痛感する
【侵略者】アンドロノブォ文化【原アーリア人】
なぜ東南アジアは欧州になれなかったのか
--------------------
新潟バカープ part4631[ワァチョイ・IPイラネ]
【かっさん】加藤純一ID無しスレpart1877【まんもっさん】
なんJAIKT!部★71
【パウダー】志賀高原 86【スノー】
【新型コロナ】 スペイン、新たに感染者2000人確認、計7753人・・・死者は100人超増加 288人
コナミスポーツクラブ 立川★
ミニマリズム・ミニマリス卜 34
金蔵、どこ吹く風【一原ミナは今日も壁打ち】172
続々々FF11世界設定スレ
スーパー女性作家大戦Z
【フジ木22】モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐― 28 【ディーン・フジオカ、山本美月】
【自称】北尾吉孝 【大物】 
でんでんタウンでラボでも開こうと思うんだが
立体駐車場完備!川場スキー場を語ろう 4F
【涙なしには】閉店した喫茶店【語れない】
わかったよなしスレな
クッキー・コーラス・YOU投稿者
高田馬場・新大久保のゲ-セン事情 ナンクルナイザー
エロいAA
フィギュアスケー ト実況スレ本部6051
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼