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朝鮮出兵のタブーでメジャーになれない武将
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part23
◆◇◆幻の戦国大名 出雲尼子氏(其ノ六)◆◇◆
小早川秀秋を悪く言いすぎ!!!
戦国ちょっといい話46
上杉謙信の真の宿敵は北条氏康・氏政
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【室町時代】 織田信長の乱 【大事件】
弱小・北条氏康が今川・上杉・武田・里見に大敗
戦国ちょっと悪い話45
- 1 :2017/07/17 〜 最終レス :2018/07/25
- 戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話44
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470783230/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話45
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1496875371/
- 2 :
- >>1乙に候
- 3 :
- 朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた
「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」
宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。
翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた
『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』
(応仁記)
義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね
- 4 :
- 戦国時代の男色にまつわる話を書いて下されい。
方々よろしうに、お頼み申す。
- 5 :
- ・鎌倉杉(岐阜県大井町)
大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。
豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、
切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。
奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。
その杉には、今なお斧痕をとどめている。
――『恵那郡史』
- 6 :
- 武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く
『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』
この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には
『天上天下唯我独尊』
の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。
(随意録)
- 7 :
- >>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。
1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より
- 8 :
- 提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな
- 9 :
- にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。
- 10 :
- >>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど
- 11 :
- 蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。
天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。
季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。
彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。
――『北海道史』
- 12 :
- 夜話の時、ある人が言った
「これは人が仮託した物なのだが、その人の情実によく当たって居るのではないかと思う」
・時鳥を贈って参った人あれども、鳴かざりければ
鳴かぬなら 殺してしまへ時鳥 信長
鳴かずとも 鳴かして見せう時鳥 秀吉
鳴かぬなら 鳴くまで待てよ時鳥 家康
これを語った後、さらに二首を添えた。
ただしこれは憚りのあることであり、元より事実ではなく仮託の事でもあるので、作者は記さない。
鳴かぬなら 鳥屋へやれよ時鳥
鳴かぬなら 貰って置けよ時鳥
(甲子夜話)
有名な時鳥の歌の原典ですね
- 13 :
- まとめサイトの10393「連歌その心自然に顕るる事」で既出
(板仕様が変わったのかリンクが貼れない)
- 14 :
- >>13
確認不足でした。かわりに
織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。
この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。
この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた
「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」
信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」
「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」
この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。
(近古武事談)
- 15 :
- 小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は
「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」
周防守はこの意見に従った。
ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。
しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。
(士談)
- 16 :
- ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった
「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?
また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」
(武野燭談.)
- 17 :
- >>16
どうでもいいけどなんで悪い話に投稿したん?
- 18 :
- 近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で
関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。
近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。
正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』
輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。
- 19 :
- 大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を
召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。
(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)
権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。
(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)
だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。
――『武功雑記』
- 20 :
- >>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし
- 21 :
- >>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。
――『俺の想像』
- 22 :
- 城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。
古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。
物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。
(士談)
- 23 :
- 阿波と讃岐に伝わる昔話で、篠原長房の息子が没落したあと猟師になって物の怪を退治するも
誤解から村人たちに殺されてしまったって話があるそうだけど
やっぱり長房が粛清されたあと残党はロクな目に合わなかったっていう暗示なのかね
- 24 :
- 穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。
そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。
(士談)
- 25 :
- 妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな
- 26 :
- 曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか
- 27 :
- >>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい
- 28 :
- ・唯落の城の事 本名高城
立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。
大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、
当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、
小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。
敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、
今に至ってもその称あり。本名は高城という。
――『伯耆民談記』
- 29 :
- そんな城いっぱいあんのに
- 30 :
- バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし
- 31 :
- 伯耆が放棄
- 32 :
- 国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?
- 33 :
- 督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で
兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg
平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg
内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』
督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。
- 34 :
- 伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実
「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」
このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。
伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。
これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。
(士談)
- 35 :
- 成敗しちゃったの!
- 36 :
- おおごとにならないうちにな
- 37 :
- 性売!
- 38 :
- ○ 弥五郎社(旧武並村藤)
藤の北端・木曽川畔にある。往時、織田氏と武田氏の兵乱に当たり、
所在で兵盗が起こり、富者の財を奪われることが多かった。
村民は恐れて財を携えて深山澤の尻に籠り、避難小屋に集まって
兵盗が退くのを待った。そんな中、たまたま尾張津島社の御師が
信濃に行こうとしてこの地を過ぎ、駅路の兵賊を心配して木曽川を
渡り、かの避難小屋に達しようとした。
村民らはこれを見て大いに恐れ、兵盗が至ったと見なし、鉄砲を
向けてこれを殺した。
元和偃武の後、村民が山芋採取に赴き、澤の尻山中で髑髏を発見
した。その村民は家に帰って病床に伏し、続いて疫病が蔓延した。
そこで陰陽家に占わせたところ御師銃殺の祟りであることが分かり、
津島神社に至ってこれを謝罪した。
こうして疫病はたちまち消滅したため、かの白骨を埋めて碑を建て、
“弥五郎殿”と称した。時に寛保3年6月である。
以後、悪疫流行の際は近村の民でお参りする者が多かったという。
――『恵那郡史』
- 39 :
- いまでいうインフルエンザの類なんだろうな
- 40 :
- 掘田弥五郎で検索かけたら
堀田弥五郎という悪代官を農民が殺したら
疫病が流行りだして弥五郎と奥さんの藁人形を作っておまつりし
白山神社から津島神社までそれぞれの村の人形を送ったって出てきたんだが
岐阜県中津川市のがでてきた
- 41 :
- 大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て
「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」
そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。
その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した
「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」
そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。
(士談)
- 42 :
- 家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…
- 43 :
- ○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)
吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。
天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。
伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。
武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。
――『恵那郡史』
- 44 :
- >>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。
位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…
- 45 :
- 大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。
その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」
直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」
(士談)
そりゃそうだ
- 46 :
- いっ、いっ、井伊いの井伊〜
昼〜は寝床でぐーぐーぐー
- 47 :
- ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。
君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。
昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、
「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」
と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。
また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。
また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」
――『明良洪範』
- 48 :
- ○ 大将塚(旧岩村町)
伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。
その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)
なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。
○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)
天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。
姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。
同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。
やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、
「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)
○ おまん殿(信州諏訪地方)
諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。
この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。
この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。
遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。
されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)
――『恵那郡史』
- 49 :
- >小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。
スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど
- 50 :
- 戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ
- 51 :
- つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?
- 52 :
- 家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も
- 53 :
- 家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様
- 54 :
- 大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。
これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は
「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」
と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。
(士談)
- 55 :
- 大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた
「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」
しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」
そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」
この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」
(士談)
- 56 :
- 一休宗純「私が縄を打ちますから渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)様は綱を打って下さい」
- 57 :
- 城の堀辺まで綱を渡す
渡辺守綱と堀尾山城
なにか狂歌ができそうな
- 58 :
- 天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部正保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」
- 59 :
- この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。
「土佐軍記」
- 60 :
- 今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ
- 61 :
- 元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか
- 62 :
- 四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない
- 63 :
- >>58
十河民部正保→十河民部存保
に訂正
- 64 :
- 戸次川合戦における讃岐勢の悲哀
戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。
「南海通記」
- 65 :
- ブラック戦国武将
- 66 :
- 豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな
- 67 :
- そらそう書くしかないわなw
- 68 :
- この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな
- 69 :
- 仙石無能
- 70 :
- >>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ
- 71 :
- 仙石は昔も今もカス揃い
- 72 :
- 豊後勢から見た戸次川合戦渡河
大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)
- 73 :
- さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
おおよそ川を隔て陣を取るに
渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」
- 74 :
- 慌てふためいた「ように見せた」んだろうな
- 75 :
- お家芸の釣り野伏ですね
- 76 :
- 短才愚蒙ってすげえ言われようw
- 77 :
- なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。
- 78 :
- 讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの
- 79 :
- 戸次川合戦讃岐勢の最期
ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」
槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには
「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
我が思いを晴らすとしよう」
(続く)
- 80 :
- 信親に使者を馳せて曰く
「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
恥辱は先手の将帥にあり。
引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」
存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。
香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。
「南海通史」
- 81 :
- >>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに
- 82 :
- 信親と長宗我部家が不憫でならない…。
- 83 :
- 次男三男死なずにすんだかもな
- 84 :
- 茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。
佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。
この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)
人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)
- 85 :
- 下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない
- 86 :
- これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか
- 87 :
- 去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには
「権兵衛は元来強気無法の者であれば
敵を侮るな、一人駆けはするな
衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」
そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。
(土佐物語)
- 88 :
- 十河家.....。
- 89 :
- 徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。
上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。
「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」
そう言ったという。
(士談)
- 90 :
- 女謙信
- 91 :
- ほっとけばよかったんか?
- 92 :
- >>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。
- 93 :
- つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?
- 94 :
- 井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。
奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。
その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った
「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」
左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」
しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」
「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」
「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」
「私の取った頸に証拠などあるものか!」
ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。
これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。
しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。
(士談)
- 95 :
- 西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。
叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。
この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。
忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。
忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。
(士談)
- 96 :
- 基地外すぎるw
- 97 :
- >>95
さすが島津…w
- 98 :
- 平伏状態から左足?
例えじゃないのか
- 99 :
- 関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。
案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。
この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。
ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。
(士談)
- 100 :
- 尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。
浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。
しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。
実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。
(士談)
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