TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
自分の先祖が有名戦国武将だった奴いる?
雑兵足軽の実状
【古都】鎌倉北条家VS小田原北条家【戦国城下町】
応仁の乱以降信長誕生前
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part16
戦国人物しりとり
【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】
【朝鮮出兵】日本人は朝鮮人に未来永久謝罪すべき
【歴史街道】 歴史雑誌関連スレ 【歴史読本】
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
二重公儀論について考察する
- 1 :2016/08/31 〜 最終レス :2020/04/14
- 笠谷和比古等が主張する関ヶ原後も関白継承権を持った豊臣家が一定以上の権威と大名への影響力を有しており、
公儀は二重体制になっていたという論について色々と考えてみましょう
- 2 :
- 私自身の考えをいえば、ちょっと豊臣家を過大評価しているかなって思います
- 3 :
- 徳川家康が征夷大将軍として命じたことは、片桐且元は恐縮して承っていたので完全なる一元的徳川公儀政体と解すべきである
- 4 :
- 笠谷和比古が「関ヶ原合戦と大坂の陣」で挙げてる二重公儀体制の意義の八項目は
一、秀頼に対する諸大名の伺候の礼
二、勅使・公家衆の大坂参向
三、慶長期の伊勢国絵図の記載
四、大坂方給人知行地の西国広域分布
五、秀頼への普請役賦課の回避
六、慶長十一年の江戸城普請における豊臣奉行人の介在
七、二条城の会見における礼遇
八、慶長十六年の三ヵ条誓詞
だろう
- 5 :
-
池田糞作のキチガイカルトが政治活動・公明党!
キチガイの集まり・創価学会・公明党!
人殺しの殺人鬼が政治活動・創価学会・公明党!
池田大作・人殺しの殺人鬼・創価学会・公明党!
あやかりドチンピラの池田糞作・創価学会・公明党!
- 6 :
- 慶長五年に九条兼孝が関白に還任した事によって
秀頼の関白就任の可能性はまだあったにせよ
豊臣家の者が代々継いでいくと言う前提は
崩されちゃったしな
- 7 :
- 二重公儀論に反対する側の論拠を列記してくれ
- 8 :
- 秀頼にはこんな城下町や特産物を作りたいという考えくらいあったの?
- 9 :
- 秀頼の時代に道頓堀の開鑿工事が進められている。豊臣政権の認可の下に。
大阪の難波、ミナミの繁栄はその結果と言える。
- 10 :
- >>9
これ出典の江戸時代の「諸由緒」には「公儀」としかなく、また大坂の港の管理を板倉勝重が行っていた点から、
江戸幕府が開削を命じた可能性が高い
- 11 :
- 追記、ただし「安井系譜」には豊臣家に命じられてとあるが、
この中の安井道頓は実在しないと、道頓堀裁判で確認されている
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104652
- 12 :
- >>7
そもそも反対側の代表的研究家って誰?
- 13 :
- >>11
正しくは「成安道頓」。彼が豊臣政権の認可を受けて開鑿していたのだが、大坂の陣が始まると、
彼は大坂城に籠城して戦い、豊臣家に殉じて戦死してしまった。
そこで戦後、彼の親類の安井氏が事業を引き継いで完成させた。
戦後に大坂城主となった松平忠明は道頓の功績を顕彰して、この開鑿運河を「道頓堀」と命名したということだそうだ。
- 14 :
- >>13
豊臣政権が命じ道頓らが私費で開削したというのは『安井家譜』が出典で、安井道頓を安井九兵衛の兄としているが、
これは道頓堀裁判で事実ではないとされている
そして『諸由緒』では開削を申し出たのは「公儀」とあり、また当時は道頓堀ではなく南堀川としている
この辺から道頓堀開削を命じたのは江戸幕府の可能性が高い
- 15 :
- >>7
二重公儀論への反論根拠・・
ないらしい(笑
- 16 :
- >>15
片桐且元署名の史料は、果たしてそれが豊臣家の指示か、江戸幕府の指示かという根本的な疑問がある
- 17 :
- >>3
慶長16年の二条城会見では、秀頼が上座(御成りの間)で家康は下座だったというけど、どうなのよ。
- 18 :
- >>17
先に秀頼が御成の間に入り、後に家康が入ったということなのだが
- 19 :
- >>18
あとから入ってきた家康が座ったのは下段の平間
- 20 :
- >>19
それは客を主人が出迎える際のしきたり
秀頼が強く固持して家康が上座に登ったようだが
- 21 :
- 笠谷和比古・黒田慶一著『豊臣大坂城』で引用された『当代記』
の「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」によれば、
「(三月)廿八日辰刻、秀頼公入洛、則家康公の御所二條ぇ御越、
家康公庭上迄出給、秀頼公慇懃礼謝し給、家康公座中ぇ入給後、
秀頼公庭上より座中へ上給、先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後
家康公有出御、互の可有御礼之旨、家康公曰ト云共、秀頼公
堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し、秀頼公遂礼給(後略)」
- 22 :
- これを笠谷は、「秀頼を御成之間に出した上で平間(下座)の
家康が互いの礼(両敬)を提案した」と読んでいる、
ただ、『先秀頼公を御成之間ぇ入申、其後、家康公有出御、
互いの可有御礼之旨』と平間の家康が平間の秀頼に提案した
とも読める(?)ので要注意。
- 23 :
- 参考論文:徳川家康の征夷大将軍任官と慶長期の国制 笠谷和比古
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/nike/1992-09-30/s001/s008/pdf/article.pdf
- 24 :
- >>22
無理なのでは
『当代記』には「先秀頼公を御成之間ぇ入申」とあるから、秀頼が「御成の間」に通されて、そこに座したことは疑問の余地なし。
また「秀頼公堅有斟酌、家康公を御成之間ぇ奉出し」とあるから、家康が最初は御成りの間にはいなかった。つまり平間であったことがわかる。
笠谷氏の『豊臣大坂城』や『歴史の虚像を衝く』に、両者の座配と、その動きが図示されて解説されている。
- 25 :
- >>24
家康が客を迎える主人として下座に座ろうとしたら、上座の秀頼がそれを誇示して、
家康が上座になったとある
普通に儀礼的な話で、特に秀頼が主君だからという訳ではないかと
精々、信長自身が家康に膳を出した安土饗応時の信長と家康の関係でしょう
- 26 :
- 普通には、秀頼は家康に呼びつけられて、臣下の礼をとらされたということになっているけど、
この件はどうなの
- 27 :
- 大御所は秀頼が現実を踏まえて二条城に赴き、しかも主計頭や紀伊守が蒼くなって止めようとしていた膳物を平然と平らげたところに、
並々ならぬ器量を見てとり、却って目の黒いうちに大坂方を潰さねばならぬと決意したのだ
- 28 :
- 秀頼の上洛を万民が喜んだという記述をどう受け取るかで、評価が異なると思う
- 29 :
- >>27
一から十まで逸話
- 30 :
- 「御成りの間」の意味が分かってないな。
これは単なる客間、応接間とは異なる特別貴賓室。
「御成りの間」に通されるのは主君、ないし主君クラスの者でしかない。
- 31 :
- >>28
大衆受けするのと政治家として権力、権威があるのかは別物だろう
- 32 :
- >>31
いや、秀頼が上洛したのを、秀頼人気とみるか、家康に臣従したことで平和が続くことを喜んだとみるか
- 33 :
- 家康が将軍就任後は家康自身が秀頼に伺候する事がなくなって
秀忠が将軍就任後は大名達が秀頼に伺候する事がなくなったって言うからね
勅使や公家が参向しているって言っても肝心の大名たちがそれではね
- 34 :
- しかし秀頼が、将軍秀忠に伺候するというのは無いのでは
- 35 :
- しかも家康とこへ行ったら、臣下どころか主君のような待遇を受けている
- 36 :
- 二重公儀ってどうしても豊臣だけは秀吉の方針を踏襲した全国的な内政や独自の外交を行えた状態だと思っちゃう
- 37 :
- 将軍就任以降、ごみずのお天皇せんその儀以外で家康が宮中に参内したことはあるか?
- 38 :
- >>37
何が問題なの?
- 39 :
- >>37
慶長10・11・19年、元和1年に参内している
- 40 :
- 二重公儀論に反対する側から、有力な議論とか資料とか何か出ない?
- 41 :
- 史料が無いのが証拠
二重公儀というほど公儀としての仕事はしてない。後半は全くしてない。って感じかと
気を付けないといけない事は二重公儀否定派は二重公儀自体を批判しているのではなく過大評価を否定してるというところ
よく使われたのある時期(将軍就任等)を境に豊臣が一大名に転落したという表現を行き過ぎとして批判するのはうなずけるが
大坂の陣直前まで公儀性を有したという評価については異議申し上げるといったところ
- 42 :
- 徳川の考えであれこれやってるのを「豊臣は徳川と対等以上だった」ことにするのが二重公儀論
- 43 :
- 大坂の陣は対等な最終決戦だったと考えていいんだよね?
- 44 :
- 大坂の陣は徳川「おめー何したいの」だからなw
満州事変後の日本を見る列強みたいな感じ
- 45 :
- 全国の大名 VS 浪人の決戦だろ
豊臣側にまともな大名がいないのに対等は無いな
- 46 :
- >>45
加藤清正とか豊臣につきそうな大名たちが相次いで死んだから、ヤスは戦争を仕掛けたんだろう。
死ぬ二年前まで豊臣滅亡に踏み切れなかったのは、豊臣の存在が大きかったことの裏返し。
- 47 :
- 豊臣恩顧の大名なんて全員家康のケツの穴
を喜んで舐めてる状態だったろ
- 48 :
- >>47
家康「俺の尻をなめろ」
- 49 :
- 二重公儀論というのは、京都を境に東国と西国とに分けて統治する東西分治の棲み分け論のことだろう。
- 50 :
- 関ヶ原も大坂も毛利がヘタれたというか自重したことがアレなんだよね
- 51 :
- >>50
そういえば幕末も毛利の殿様はそうせい侯
よばれてあの時点でできるせいいっぱいの
保身をしたな
- 52 :
- >>51
ドラマで毛利輝元と毛利敬親は同じ役者でできる(笑)
- 53 :
- 家康が豊臣に対して扱いが慎重過ぎたから、変な論が出てくるんだろう
是が非でも豊臣を滅亡させる気ならもっと早くやったろう
家康当時としては大分高齢だったんだから
- 54 :
- まぁ、とうに死んでいて不思議でなかったよな
- 55 :
- 豊臣を潰せるぐらい権力基盤が安定したのが家康最晩年だったという見方もできるわけで
- 56 :
- 豊臣大名をふくむ全国の大名が幕府の法令に従うという服従誓約をするのが、ようやく1611年になってから。
家康と秀頼の二条城会見を経て、はじめて幕府の権力が豊臣家を上回る
- 57 :
- 大坂の陣まで加藤清正が生きていたって豊臣につくわけないじゃん
徳川頼宣の護衛をしていた二条城の対面の時だって秀頼からの饗応の誘いを断わっている
- 58 :
- age
- 59 :
- 頼宣は秀頼のお出迎えのために家康から伏見まで派遣されただけ。
- 60 :
- 浅野幸長も二条城の会見の時は、婿になる徳川義直の御供をしている
- 61 :
- 義直も頼宣も、秀頼の身の安全を保証するための人質だろう
- 62 :
- 清正も幸長も秀頼の護衛。だいたい清正が、秀頼の身は絶対に護るといって淀殿を説得して実現した二条城会見だろ。
その清正が秀頼の護衛をしないなどといったら、会見が成り立つはずがない。
- 63 :
- そもそも淀殿が清正や幸長の必死の説得により
秀頼の上洛を承知したとか、清正が終始秀頼の側を
離れなかったって話は何が出典なんだ?
清正が頼宣の幸長が義直の御供をしてたのは
忠興の書状や慶長見聞録案紙にあるけど
- 64 :
- 俺の妄想だけどあかんのか?
- 65 :
- 清正や幸長が秀頼の護衛しなかったら、秀頼の身の安全は誰が護ってくれるのだ。
そんな危ない所に行けるはずがないだろうが。
- 66 :
- 徳川のために秀頼を説得する方便だな
身の安全を保障するから徳川の下であることを認めろという降伏勧告だ
- 67 :
- >>65
で、秀頼や淀殿がそう考えたという史料は?
- 68 :
- >>66
降伏? 降伏した人間が主君の座す「御成りの間」にすわるのか
- 69 :
- >>68
御成りの間に通されたけど最終的に秀頼は空気読んで臣下の礼とったじゃん
- 70 :
- >>69
臣下の礼? 翌月の三ケ条誓詞にも秀頼は入ってない。依然として特別待遇
家康も先は長くないだろうから、適当に頭下げとけといったところか
- 71 :
- 臣下の礼はとっていない適当に頭下げただけと言っても、お前以外は皆徳川に服従している状況で
そんな態度とっても自己満足以上のものは得られないんじゃないかい?
- 72 :
- 正直、豊臣家は自分達にしか通用しない論理で、特別扱いが永遠に続くと思い込んでいたからな
- 73 :
- 家康が死んでしまった時、あの秀忠で天下は持つの?
無理なのでは。
- 74 :
- あの秀頼で秀忠に対抗できると?
無理なのでは。
- 75 :
- 秀忠ではとても持たないと思ったから、大坂の陣を仕掛けざるをえなかったということでしょう
- 76 :
- >>75
別に徳川家は仕掛けていない
勝手に豊臣がキレただけ
- 77 :
- ≫76
キレた、って何のこと?
- 78 :
- >>77
徳川への臣従を求める徳川家に両属する片桐且元を殺害しようとして果たせず追放
その上で浪人を集めて籠城の準備
- 79 :
- 豊臣内で起こっていたのは、片桐を追放するということ。徳川と戦争することなどは考えていない。
- 80 :
- 片桐は追放するにしても徳川の意見も聞かずにやったら攻められても文句言えない
- 81 :
- >>80
これが家康の理屈だな。何でもいいから、とにかく豊臣に対して戦争を仕掛けて潰すことしか考えてない。
- 82 :
- 家康の勝手な理屈と突っぱねる権威ももう残ってない段階だもの
- 83 :
- 秀忠は糞将軍、秀頼が関白となって天下を治めるべき
でも家康には逆らえないよ〜家康死んでたら秀頼についてたのに〜って大名は誰なの?
- 84 :
- 3万の大軍をもちながら上田城一つ落とせず、天下分け目の一戦にも遅刻するようなアホに従うやつ、徳川譜代以外どこにおるか(笑
- 85 :
- >>81
両属しているとは言え、自身の家臣を勝手に殺されかけ、追放されたら、
封建制の根幹に関わることでしょ
- 86 :
- >>84
第二次上田合戦はありませんし、攻める前に家康から上洛命令が下りました
- 87 :
- 生活再生支援ならNPO法人STAで
多重債務でお困りの方!
過去のトラブル等で借入が難しい方!
ヤミ金で借入れがある方!
総量規制オーバーや、過去のトラブル等で借入れが難しい方!
電話でのお問い合わせは無料ですので、会社にお勤めの方、自営業、フリーター、風俗・水商売など業種にかかわらずお気軽にご相談ください。
東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方優遇です。
詳しくはHPもご覧下さい。
- 88 :
- さっさと攻撃開始しないでグズグズしているからでしょう
- 89 :
- >>88
そういうレベル以前で6日に上田へ着いて、8日に上洛命令が届いた
- 90 :
- >>89
その間、たんぼの稲刈りやってただけか(笑)
- 91 :
- >>90
そこで(笑)を入れるのがあなたの無知
数万の大軍が攻城戦をするのには、それなりの段取りが必要なのだから
- 92 :
- 忠の部隊は9月2日には小諸に着陣してる。それで8日まで上田城に対して
何の攻撃もしてないって。グズにもほどがある。
- 93 :
- 砥石城攻めてたりしてなかったっけ?
- 94 :
- >>92
3日に秀忠が上田に到着したら昌幸が頭を剃って降伏を申し出たが、
4日にそれは嘘と返答したので、5日に上田へ出陣した訳
で、6日は刈田を発端とした小競り合いをしたとされる
- 95 :
- >>93
それは単なる真田の出来レース
- 96 :
- >>94
要するに、真田にいいようにされてるだけ(笑
- 97 :
- >>96
というより程度の低い詐術を真田が行っただけ
あのまま順当に行けば上田城は落ちただろうし
で、昌幸への厳罰はそういう程度の低い騙しも
含まれたと思うので、自業自得
- 98 :
- いくら秀忠を貶めても引きこもりの秀頼よかいいだろw
- 99 :
- そんな真田に翻弄されてるだけだからグズいと言われてしかたない
- 100 :
- そんな真田に翻弄されてるだけだからグズいと言われてしかたない
100〜のスレッドの続きを読む
やる夫の関が原戦線異常あり
真田信繁を幸村と呼ぶ奴は失礼過ぎる
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 5 【徳川】
【茶器バカ】松永久秀【爆死】
IDに出た数字の分だけ知行を貯めて百万石80
【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2
【14代】 足利義栄 【阿波公方】
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その26
実は創作だった通説・俗説3【コピペ・レッテル貼禁止】
--------------------
【歪み】エレキ機材について語ろう【part5】
小学生からの発達障害を考える【u18】11
【ババシャツワインと】映画盗撮クレクレ泥棒ちえこpeat49【阿波の佐村河内】
【急騰】今買えばいい株13217【覆水とサンクコスト】
親が嫌いな孤男
古いスピーカーの方がコスパがいい法則
新日本監査法人 その65なの
シーチキソ
ごちうさで可愛いキャラ打線組んだった
石原詢子の股の下をくぐりたくて気が狂いそう
【写真で】ボケてを語れ85【一言】
◆ポークビッツ嘘つき喫茶◆PART2
徳永善也その2
インティとは何だったのかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
【太陽と】消えるながんがれ信田美帆【シスコムーン】
【家族か?】誰が介護すれば親孝行か【施設か?】
テスト用3
【ワ有り】2chにある無駄な知識を集めるスレ305
伝説のバンド SADSについて語るスレ
L'Arc-en-Ciel 2943 本スレ
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼