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福田恒存の名言【読売文学賞・芸術選奨・芸術院会員


1 :2018/11/08 〜 最終レス :2019/01/12
福田 恆存(ふくだ つねあり)。生没年1912-1994。
文壇では相当冷遇されたまま亡くなったらしいが、
この人の文章のいくつかは、後世に残す価値があるように勝手に感じたので、スレを立てた。

なお、以下のレスの大半は、福田氏の死後にまとめられた、
文春文庫の『日本への遺言 福田恒存語録』(題名が説教臭いな)よりの引用となる。

2 :
★自由について
自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。
自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。

自由によって、ひとはけっして幸福になりえない。自由というようなものが、
ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。
方向は二つある。内に向うものと、外に向うものと。
自由を内に求めれば、かれは孤独になる。
それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。
だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、
つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。

3 :
★正義論について
他人にたいする寛容というのは現代的な美徳であるが、
昔は独りを慎む礼儀というものがあって、それは主張や表現を
事とする文章の世界をも支配していた。たとえばエロティックな事柄を
口にする場合、「デカメロン」でも「アラビアン・ナイト」でも、
ユーモアやレトリックなしではすまされなかったのである。

4 :
★民主主義の心理について
民主主義政治の原理は、自分が独裁者になりたくないという心理に
基づいているのではなく、他人を独裁者にしたくないという心理に
基づいているのである。一口に言えば、その根本には
他人に対する軽蔑と不信と警戒心とがある。

5 :
★革命について
ひとびとが考えるように、私はかならずしも反革命の徒ではない――ただ悪から逃れ、
悪を否定しようとする安易な考えから革命に期待をかける善意の破壊主義者に、
いささかの共感をも持たぬまでである。革命もまた悪の力から生まれ、悪を生む。
既存の制度の悪にたえきれぬ人種のうちから、革命の悪にたえうる革命家が
生れることを、私は期待できない。

6 :
★民主主義過信について
民主主義とは為政者の側が最も大事なことを隠すために、
つまらぬことを隠さぬようにする政治制度である。

7 :
★民主主義過信について2
私は民主主義を否定しているのではない。民主主義だけでは駄目だと言っているのである。
今日、私たちの政治体制として民主主義以外のものは考えられない。
とすれば、政治や政治理念だけで、今日の政治的混乱を処理することは不可能だということになる。
恐ろしいのは利己心と怠惰と破壊と、そしてそれらを動機付けし理由付けする観念の横行である。
考えるとは今ではそういう観念を巧みに操ることを意味するようになってしまった。
そういう世の中で本当に物を考え、物を育てていくことがどんなに難しいことか。

8 :
★民主主義について
民主主義においては、ウォータゲイト事件などその恰好の一例だが、
人々は悪の摘発に熱中するが、善の推進にはそれほどの情熱をもたない。
また「弱者」や「無能者」の救済には力を入れるが、「強者」や「有能者」に対しては、
その瑕きんすら許そうとせず、彼等の手脚を縛って、もっぱら引きずり降ろし策に腐心する。
他人が自分の頭を土足にかけはせぬかという警戒心のみが発達し、
そこから生れた規則や制度が個人の情熱や人類の生命力を抑圧する。

いや、事実はその逆かもしれない。人類が生命力を失ってゆく過程に
適応した政治思想が民主主義だと考えるべきであろう。
したがって致命的な事には、それからは「待った」の声はかかっても、
「それ、行け」の声は期待できない消極的概念なのである。

9 :
★観念語について
最も不愉快なことは、人々は表に「マス・コミ」の「害」を論じながら、
裏ではそれを除去しようという努力をほとんどしていないことだ。
それが言いすぎなら、「害」を除去するための具体的な行動より、
それを指摘したり分析したりする抽象的な操作の方を、興がっているということだ。
(後略)

10 :
★新聞週間について
新聞をたたえる標語を新聞に載せても、そこには新聞をつくる自分たちを
たたえさせたという罪の意識は出てこないのである。ここでも、新聞は神になる。

11 :
★急進主義と漸進主義について
漸進主義という言葉と急進主義という言葉について、人々はその両者の違いが
それぞれの手段にあると考えやすい。あるいは単に速度の相違にあると考えやすい。
が、そうではない。急進主義は進歩を社会改善の唯一最高の手段と見なす考え方であり、
それにたいして漸進主義はそれをいくつかの手段の一つとしか見ない考え方である。

したがって、両者は程度の差ではなく、進歩にたいする本質的な考え方の相違なのだ。
言うまでもないが、進歩主義はその発生において、また日本における在り方において、
急進主義たらざるをえぬ宿命をもっている。

12 :
★個性教育について
現在、教育界で「個性」と呼んでいるものは、むしろ「適性」あるいは「機能」と
いいかえるべきです。アメリカの教育において重視されている「適性検査」も、
つまりは「機能」の見わけであって、個性とはなんの関係もない。
(後略)

13 :
★小心について
酒を飲まず、花を愛することと汚職とは両立しうる。
村の働き者と戦争における残虐行為とは両立しうる。
「汝の敵を愛せよ」という教えと宗教裁判とは両立しうる。
要するに、あらゆる善とあらゆる悪とは両立しうる。

悪や罪などというものは、私たちがそう思っているほど、善良な市民生活から
遠いところにあるものではない。ただ、私たちがそのわなに陥らないのは
「小心」のためであり、機会がないためなのである。
格別道義心に富んでいるためではない。
見つからなければ、「きせる」くらいは誰でもやりかねない。

14 :
★代議士について
乱暴なことを言うようだが、何年目かに与えられる、それもただの一票で、
全社会人中最も低劣だといわれる陣笠代議士を選ぶという、わずかそれだけの
権利を与えられただけで、主権在民も何もあったものではあるまい。
もしその気になっている人がいたら、やはり何かにだまされているのである。

15 :
★「象徴」天皇について
「象徴」という言葉はいけない。憲法に用いるべき言葉ではない。
旧憲法でも神という言葉は用いず、はっきり、「元首」としている。
「象徴」よりは「元首」の方がよいに決まっている。「元首」というのは
政治上の性格、機能を表すものだ。国政上の一つの機関、一つの位置を表すものだ。

16 :
★レトリックについて
現代の日本ではレトリックを言葉のごまかしと解し、これを退ける傾向が一般である。
近代日本文学ももっぱらその方向を辿って来た。が、レトリック無しに言葉の芸術としての
文学は成立たない。さらに言えば、それでは言語生活そのものも成立たない。

レトリックとは言葉による建築術なのであって、たとえばnatureのように
日常生活での次元では一般に一つ乃至は二つの意味にしか使われていない語を、
何回何十回と繰返し使ってゆくうちに、その求心力と遠心力とを
相互に対立させながら強めることなのである。

そうすることによって、読者、あるいは観客は、それまで自分のうちにあって
無関係に分裂孤立していた表象が一つのものとして統合され、日常生活とは異なった次元に
完全な世界を発見する。言換えれば、秩序の快復を得るのである。

17 :
★文化について
文化という言葉は大体に主に用いられている。
第一は、民族や時代の生活様式を集中的に表している建築、美術、工芸、
音楽、文学、教育などを指す。無形文化財、室町文化がそれである。
その他は第二の意味に属する。すなわち、進歩的で西洋的でハイカラで、
文明開化の響きを有している。しかし、両者ともに間違っている。
すくなくとも表面的である。では、文化とは何か。
エリオットによれば、文化とは民族や時代の「生き方」なのである。

私たちが歴史を知ろうとするとき、たとえば室町時代の人はもう存在しないから、
その「生き方」を見るわけにはゆかない。そこで銀閣寺や雪舟を取上げるわけだが、
それは当時の人間の「生き方」としての文化の頂点を示すものであって、
それだけが文化なのでもないし、それが文化なのでもない。
また、そこに室町時代人の「生き方」が表れており、察せられもするという点では、
政治も戦争もそうである。政治も戦争も文化なのである。
歴史教科書の政治、経済、文化という分類説明法は、単なる便宜に過ぎない。

18 :
★文化人について
私が非難してきた「文化人」というのは、世間のあらゆる現象相互の間に
関係を指摘してみせるのがうまい人種のことであります。
関係さえ見つければ、それで安心してしまう。
それを聴くほうも、説明さえつけば、解決されたとおもいこんでしまう。

19 :
★文化人について
第一に、反権力的抵抗者としての知識階級は、
自分たちの敵とする権力者もまた知識階級であることを忘れているということです。

第二に、自分たちは近代であって、敵方は前近代乃至は反近代とのみ思い込んでいるが、
実は、権力者の推進する現実的な近代化の凄じさに、
善かれ悪しかれ、この種の知識人の神経が適応していけなかったのではないかということ、

随って第三に、そうとすれば、それは近代と前近代との差ではなく、
神経が細いのと太いのとの差に過ぎぬのではないかということです。

第四に、そのために権力者の促進する近代化の現実に対し、彼等は近代化の理念を
対置することによって、現実から手を引こうとしたのではないかということ、

第五に、そしてそのことは、というのは現実から手を引こうとする姿勢は、
かれらが最も現実的、行動的であったときでさえ、
いや、むしろその時こそ最も顕著に出てくるのではないかということです。

20 :
★性について
よく身上相談などで、
「彼は一個の精神的人格として、私を求めていたのではなく、ただ私を通じて女を求めているだけだ」
などという憤懣が語られます。

が、ロレンスにいわせると、「それなら、まことに結構」ということになる。
男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、花子のなかから女を引きだせ、
そう、ロレンスはいいます。

もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとって
最も女をひきだしやすい女であるという理由をおいてはない。
そういう恋愛と結婚とのみが、真の永続性をかちえる。精神だの人格だのいっているからいけない。
というより、誰も彼も自分の性欲を、精神的人格という言葉のかげに、押しやってしまう。
人々は性に触れたがらない。いや、直接に触れたがらない。
精神的愛という靴の革を通して、霜焼けを掻くように性欲をくすぐっているだけだ。
そうロレンスはいっております。

21 :
★忠実について
自己に対して忠実であるというのは言葉の矛盾であって、
元来、忠実、誠実は対他的の概念であり、自己を越えたものに対するものでなければ、
それが果して忠実であるか否かの判定の基準は何処にも求められない。

自分以外にそれを判定するものが存在しない以上、何をしても自己欺瞞の逃げ道があり、
自己即芸術家になる為に書くことが最も自己に忠実であるということになる。
そこから文士の非社会化、非体制化を通じて、
反俗、あるいは虞族、そして反体制への転落が始まる。

なぜそれを転落と呼ぶかと言えば、その場合でもなお
自己に忠実という原理に忠実でありさえすればよい以上、安全地帯での
反抗の姿勢だけで満足し、自己欺瞞の度合はますますひどくなるばかりだからである。

22 :
★夫婦の理解について
「理解」はけっして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、
今後何十年、おたがいにおたがいの理解しなかったものを
発見しあっていきましょうということではありますまいか。

すでに理解しあっているから結婚するのではなく、
これから理解しあおうとして結婚するのです。

である以上、たとえ、人間は死ぬまで理解しあえぬものだとしても、
おたがいに理解しあおうと努力するに足る相手だという直観が基礎になければなりません。
同時に、結婚後も、めったに幻滅に打ちまかされぬねばり強さも必要です。

23 :
★自己実現について
おのれがおのれを表現しうる――そんな安易な考えに頼っているかぎり、
われわれはせせこましい告白のリアリズムから抜け出られぬであろう。
われわれが敵としてなにを選んだかによって、そしてそれといかに
たたかうかによって、はじめて自己は表現せられるのだ。

24 :
★教育について
教育において可能なのは、知識と技術の伝達あるのみです。
なるほど「教育好き」はそれ以上の欲望を起す。つまり、相手の人間を
造ってやろうとする。が、どうしてそんなことが教師に可能か。
幼いときから始終子供を手もとにおいている親にもできないことです。

第一、子供をこう造り変えたいという人間の理想像を、
教師はなにを根拠としてどこから拾ってきたのか。
また、どんな教師にその資格があるのか。教育においていつも変らぬ原則は、
自分が真に所有しているものだけしか、子供に与えられぬということです。

25 :
★教育について2
教育者はすべてを意識するわけにはいかない。
人間教育においては、すべてを計量しつくすわけにはいかない。
児童心理学や指導法はここではほとんど無力です。それらを知っているに
越したことはないが、知っているために起る弊害のほうが、知らぬよりははるかに恐しい。
その知識で子供が理解でき操れると思いこむからです。
それこそ、子供の人格にたいする冒?というものではないか。

そもそも子供の心が読めると思うのがまちがいですし、
それが読み切れなければ教育ができぬという考えかたもまちがいです。
教育においてもっとも大切なことは、すべてを意識化してはならぬということ、
またそんなことはできぬと諦めることであります。

26 :
★教育について3
殴る教育が悪いからといって、殴らぬ教育がいいとは申せません。
生徒を殴ってはならぬという原則があって、
しかも教師が怒りを発し、我を忘れて生徒を殴ったとする。
それは悪いことかもしれない。が、すくなくともその感情は本物であります。
殴られた生徒は本物の人間関係のうちに置かれているのです。
それにくらべて、自他を意識した教師のにこやかな説得の方が
虚偽であるという場合が、いくらでもありうる。
贋物の善より本物の悪の方が、ずっと教育的だということを、私たちは忘れてはならない。
人間を信じるというのはそういうことです。
私は単純な性善説などを説いているのではありません。

27 :
★教育について4
親たちは誤解をしています。
年をとった先生の方がいいのは経験を積んでいるからではありません。
もし経験を積んでいるとすれば、そのために諦めて不熱心になったからです。
決して自分に子供がいるからだけではない。
教師にたいして親のごとき愛情を期待するのはまちがいです。(中略)

冷淡で職業的であることは教師の最低の資格であり、たとえ最低の資格でも、
それをもたない、あるいは入口をまちがえた、熱心な「教育好き」の先生より、
ずっといいということです。素人より専門家の方がいいのは当然でしょう。

28 :
てすと

29 :
★歴史について
「将来に向かってよりよい歴史をつくり出す」という家永三郎氏の発言は何事か。
歴史は作り出すものではない。勿論、作り出したものでもない。

30 :
歴史が吾々を作り出したのである。。日本国憲法も

31 :
民主主義、平和主義も歴史が作り出したのである。
最良の史書においては歴史が主人公になり、
その顔が見えるように描かれている。家永氏の軽視した「記紀」は正にそういうものではないか。

32 :
右に引用した家永三郎氏の「新日本史」末尾に徴して見ても明らかな通り、
この書物の主人公は歴史ではなく現代である。
現代の顔を、あるいは自分の顔を映し出す自惚れ鏡を歴史教科書と称することは許されない。
古来、歴史を鑑と称して来たのは、それによって現代、及び自分の顔の歪みを
ただす意味合いのものではなかったか。

33 :
★歴史について2
自然は私達に忍耐を教え、勇気を教え、親切を教える。思いやりや愛情を教える。
また時には冷酷になれと教え、厳しくなれと教える。
草木や山や河や、雪や嵐や、その他、自然現象のすべてが
季節の転変を通じて、私達に絶えず道徳教育を施しているのだ。

が、文明は一途に自然科学的な対自然の態度によりかかり、
自然の驚異から守るという名目で私達を自然から遠ざけることに熱中している。
おかげで私達は自然と無縁に暮せるという錯覚を懐き、
自然は人間が手を加えてやらねば、人間に何物をも与えてくれぬものであり、
人間が教えてやるだけで人間には教えてくれぬものであると思いこみ始めたようである。
私達は自然との附合い方を自然から教わることを忘れ、
したがって、自然との附合い方を知らずにいる人がだんだん多くなっている。

右の一節の「自然」という言葉を「他人」という言葉に置換えてみるがよい。
現代の対人関係がそのまま窺えるであろう。

歴史もまた自然と同様、こちらから附合おうとしないかぎり、
向うの方でこちらの都合を考えてはくれぬものである。

34 :
★良心について
現代日本では良心があったら仕事はしにくい。
が、仕事をしない良心ほど悪質なものはあるまい。
仕事をするためには虚実皮膜の間を切りぬける才覚を必要とする。
この才能こそ良心以上に貴重なものだ。才能なき者は良心にたのむことなかれ。

35 :
★国語審議会について
私は最近国語問題に口出しをし、国語審議会の人たちと何度も会談をして、
痛感したことがある。それは国語において何が正しいかという観念より、
何が易しいか、何が便利かという観念のほうが優先しており、
しかも彼等はそれを決して怪しまないということだ。

そればかりではない。彼等は何が正しいかと言う観念をもたず、
その観念の存在すら許さない。つまり、彼等にとって、正しいものは存在しないのだ。
もしそれがあるとすれば、容易、便利、それのみを考えることが、
国語における唯一の正しさの拠り所なのである。

それは何を意味するか。言うまでもなく、現実の動きに即するということだ。
そして現実は動く。なんなら進歩すると言ってもよい。
なぜなら人々は易しさを欲し、便利を欲するからだ。
たとえ間違いでもそれを欲する。なぜなら、言葉に関するかぎり、
間違いが一般に通用してしまえば、それは間違いではなくなるからだ。
国語審議会員の半ばは、国語問題は世間の間違う方向に随うべしと考えているのである。

36 :
★古典教育について
たくさん漢字を知っている人間が、その苦労を一般人から解除してやろうという善意は、
金持が貧乏人に向って、金ゆえの不幸を説いて聴かせるのに似ていはしませんか。
たとえ古典は読めなくとも、また読みっこないにしても、
そのつながりをつけ、道を通じておく教育は必要なのです。

原則はむずかしく、正しいかなづかいはできなくとも、一向さしつかえりますまい。
古典kらの距離は個人個人によって無数のちがいがある。
その無数の段階の差によって、文化というものの健全な階層性が生じる。
それを、専門家と大衆、支配階級と被支配階級、というふうに
強いて二大陣営に分けてしまい、両者間のはしごを取りはずそうとするのは、
おおげさにいえば、文化的危険思想であります。

37 :
★言文一致について
明治以来の言文一致はその動機において正しかったが、
結果的には大変な誤りを犯したと、私は考えております。
なによりの証拠は私たちの文学が詩を失ってしまったことです。
ということは、私たちが文学を失ったということです。

これは漢学者の松本如石氏に伺った話ですが、坪内逍遥は早くも明治三十五六年ごろに、
言文一致の主張が間違っていたと、述懐していたそうです。
おそらく、それは間違っていた。なぜなら言文一致ということにおいて、
音声言語の文語による鍛錬と格あげを考えることなしに、
一方的に文字言語の口語による破壊と格さげだけしか考えなかったからです。

38 :
★「見れる」について
(中略)明治以来、ことに戦後は「過去」とか「慣習」とかいう言葉は
権威を失ったが、少なくとも言葉に関するかぎり、
これを基準としなければ、他に何も拠り所は無くなってしまうのである。
全く通じさえすればよろしいということになる。

が、「通じても相手は心の中で笑っていますよ」と言われ、
その嘲笑を避けようとする殊勝な心掛けも、教育も、言語観も、
今は地を払ってどこにも見出せない。

39 :
★照れくささについて
現代の日本人が明確な理想的人間像をもたないということは、
とりもなおさず自己感性への情熱をもってないということだ。
自己感性の情熱とは、自分が偉くなろうということであり、
自分を偉くしようとつとめることにほかならない。

自分を偉いものにしようというんだって――冗談じゃない、そんな小便くさい夢は
若僧にまかしておけ、というわけでぼくたちは、たとえそんな夢をかいまみたとしても、
自分の甘さをわらわれるのがいやさに、それをひとしれず葬ってしまう。
やがて、おとなになり、そんな乳臭い野望をもらす青年のまえで、
照れくさそうにおなじような嘲笑をくりかえす。日本人ほど照れくさいという感情を
知っているものは他に類があるまい。

40 :
39の訂正
?自己感性
○自己完成

41 :
★理想と現実について
日本人には、理想は理想、現実は現実という
複眼的なものの見方がなかなか身についておりません。
自分ははっきりした理想を持っているという意識、
それと同時に、現実には、しかし理想はそのままいかせられないから、
こういう立場をとると言う現実主義的態度、

つまり態度は現実的であり、本質は理想主義であり、
明らかに理想を持っているというのが、人間の本当の生き方の筈です。
これは個人と国家を問わず同じ筈です。
これをもっと日本人は身につけるべきだと私は思っています。

42 :
★非倫理性について
なにが悪でも、なにが善でもないという現代日本人の非倫理的性格
――私の仕事のすべてはその究明に集中されてきたといっていい。
平和問題も、この日本人の非倫理的性格から発しているのです。
私はその善し悪しをいっているのではない。たんに事実を述べているのです。

平和ということの華やかなことばのかげには倫理の陰翳がすこしもない。
ただ命が大事だというだけです。こっちの命が大事なら、向うの命も大事です。
向うも生き残るつもりでやっている。なにをかいわんやであります。

個人の生命より大事なものはないという生きかたは、窮極には自他のエゴイズムを
容認することになる。個人が死ぬにたるものがなくては、個人の生の喜びすらないのです。
相対主義の考えかたでは、どうしても、そこから抜け出られません。
それが積極的な理想にまで高まるには、個人倫理の絶対性と相ふれなければならないのです。
現代の平和論者が内村鑑三とまったく異るゆえんです。

さらにまずいことに、倫理観の稀薄さと平和論とがなれあいになるという事実です。
よく揚げ足とり的にいわれることですが、愛を標榜するクリスト教が、
残酷な宗教裁判をやったり、十字軍を起したりするといって非難する。
そういう非難は宗教というものに対する無理解から生じたものです。
あるいは、相とかエゴイズムとかいうものに対する無理解から生じたものです。

43 :
★芸・道について
テレビどころか、あらゆる芸術は実用の世界の詰らなさ、辛さからの
逃避という動機を含んでいるもので、その意味では玩具なのである。
だから、それはいっそ大人用の玩具として、その気で盛大に遊んだほうがいい。

しかし、日本人には一種の心の狭さからであろうか、
玩具は大人の威厳をそこなうという通念があって、茶湯でも生花でも、
せっかく実用の世界から逃げだしておきながら、すぐうしろめたくなって
深刻な芸や道に昇格させてしまう。

44 :
★行司について
私は勝負の写真判定優位説に反対する。
写真よりも行司の目のほうが正確だというのではない。
行司の差違いはしばしば起る。が、それでよいではないか。
弱い力士が間違って勝つことがあるのと同様に、
行司が間違って軍配を差すことを許してもよいはずである。
そこが日本の相撲と西洋のスポーツと違うところで、
相撲では勝負は力士同士だけのものではなく、行司も参加しているのだ。
だから行司の黒星という言葉も生じたのであろう。

行司は見物代表であって、審判ではない。相撲の勝負を決めるのは見物であり、
その見物が勝負に参加する形式は日本独特のものなのである。
ストップ・ウォッチやテープで「科学的」に優劣を競う西洋のスポーツと一緒にしてはいけない。
勝負を見ていて、あれは行司の差違いではないか、いや、あれでいいと
見物がぶつぶつ文句を言い、行司に与えた代表権を問題にする余地を残しておいてこそ、
相撲は他のスポーツと異った魅力を持続しているのではないか。

たとえ行司が間違えても、その間違いを絶対として受入れるべきである。
いくらでも文句は言うがよい。が、言うだけ言ったら、
力士も見物も審査員も、最後はその不合理なる神に服従すべきである。
それが厭なら、一勝負ごとに裁判でもやるほかはない。
物的証拠に写真を何枚も出して、証人をそれぞれ登場させて、
力士の背中の砂の附着部分を検証して、いや、それでもやはり文句は防げまい。

45 :
★繰り返し論法について
「お前の言い分はもっともだ」と言い出したら際限が無い。何も彼ももっともになる。
一応もっともでなければ、人は自分の言い分など持出しっこないからだ。
いずれにも分がある二つの「もっとも」のうち、いずれかを選ぶこと、
時には分の悪い方を選ぶこと、大げさに言えば、それが決断であり行為というものです。

46 :
★「女が主役」について
(中略)
なるほど「嫁しては夫に従うべし」という徳目がありました。
が、それは役割の分担を明らかにする約束に過ぎません。
それがすべて男に有利に出来ていたことは確かです。が、だからといって、
男がつねにそれを有利に用いていたかは別問題です。約束は原理です。
原理からただちに作用を類推し、両者を同一視することは危険です。
(中略)

47 :
★権力否定について
日本の近代史においては、政治的関心というのは常に政治批判を、
というよりは権力否定を意味して来ました。その最も通俗的な表現は、
「それは政治が悪いからだ」という形を採ります。また国鉄の大事故などが
起きると、その責任を最高の地位にある総裁にまで持っていきたがります。

しかし、これは最高権力や最高地位に対する憧憬と期待とを裏返しに
したものに他ならず、「お上を頼りにしていたのに」という感情を
裏切り示すものと言えましょう。上の者は下の者の面倒を見、下の者の過失を
庇うべきだという、それこそ封建的な縦の人間関係に基づく考え方だと言えそうです。

48 :
★大東亜戦争について
端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だったのである。
失敗と解っていなければならぬ戦争を起したことに過ちがあったのに過ぎない。

吾々は多額の月謝を払った。が、それを罪悪とし、
臭い物には蓋をせよという考え方によっては、その月謝は取返せない。
もしあの戦争を悪とする綺麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、
それを善に高めようとする居直りを生じるであろう。

皮肉なことに、この綺麗事も居直りもアメリカの占領と安全保障条約とによって、
その微温的性格を破られずに今日まで保たれて来た。もしそれが無ければ、
吾々は疾くにヴィエトナム、あるいはインドネシアの悲運を経験していたであろう。
大事な事は吾々は吾々の国家を如何にして何処に見出すかということである。

49 :
★「立派な国」について
日本はなぜ西洋と優劣を競わねばならないのか。日本人が日本を愛するのは、
日本が他国より秀れており正しい道を歩んできたからではない。
それは日本の歴史やその民族性が日本人にとって宿命であるからである。

人々が愛国心の復活を願うならば、その基は宿命感に求めるべきであって、
優劣を問題にすべきではない。日本は西洋より優れていると説く愛国的啓蒙家は、
その逆を説いてきた売国的啓蒙家と少しも変わりはしない。
その根底には西洋に対する劣等感がある。というのは、両者ともに
西洋という物差しによって日本を評価しようとしているのであり、
西洋を物差しにすることによって西洋を絶対化しているからである。

50 :

愛は自然にまかせて内側から生まれてくるものではない。
ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。

51 :

自然のままに生きるという。だが、これほど誤解されたことばもない。
もともとも人間は自然のままに生きることを欲していないし、それに堪えられもしないのである。
程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。

52 :

現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。
現実の生活では、主役を演じることができぬ。
いや、誰もが主役を 欲しているとはかぎらぬし、
誰もがその能力に恵まれているともかぎらぬ。
生きる喜びとは主役を演じることを意味しはしない。
端役でも、それが役であればいい、なんいかの役割を演じること、
それが、この現実の人生では許されないのだ。

53 :

舞台をつくるためには、私たちは多少とも自己を偽らなければならぬのである。
堪えがたいことだ、と青年はいう。
自己の自然のままにふるまい、個性を伸張せしめること、それが大事だという。
が、これはたんに「青春の個性」というありきたりの役割を
演じているのではないか。私にはそれだけのこととしかおもえない。

54 :

個性だどというものを信じてはいけない。
もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。

55 :

私たちが真に求めているものは自由ではない。
私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。
そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、
なさねばならぬことをしているという実感だ。
なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。

56 :

他人に必要なのは、そして舞台のうえで快感を与えるのは、
個性ではなく役割であり、自由ではなくて必然性であるのだから。
(中略)生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。
その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。

57 :

私たちは、その鉱脈をほりあてたいと願っている。
劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、
一個の芸術作品に仕たてあげたいとうことにほかならぬ。
(中略)人間はただ生きることを欲しているのではない。
生の豊かさを欲しているのでもない。
ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。

>51-57
出典
『人間・この劇的なるもの (新潮文庫)』

58 :
★懐疑主義について
確かなものが一つもない世界で唯一の確かなことは、
その確かなものが一つもないということだけだ。
確かなものが一つもないということが確かなら、懐疑主義は成り立たぬ。
確信に満ちた独断が、確かなものは一つもないという判断の存在を知りながら
知らぬふりをしているのだとすれば、懐疑主義もまた、確かなものは一つもないということだけは
確かだという判断の存在に気づかぬふりをしているといわねばならない。

59 :
★和洋の比較について
西洋の近代文明を楯に日本の過去を裁くときはもちろんのこと、
西洋にたいして日本の伝統文化の優越性や特異性を明らかにしようとするときにさえ、
そこに用いられる方法はつねに西洋的であるということ、そこに問題がある。

日本的なるものの優越と存在の証明が西洋的なるものによってしか行われないとすれば、
そのようにして証明された内容、対象としての日本的なるものよりも、
むしろそうして証明してみせた形式、主体としての西洋的なるもののほうが
優れているということになりはしないでしょうか。これは一見、逆説的な論理の遊戯のように
見えるかもしれませんが、それどころか大層重要な問題なのです。

60 :
★名医について
胃腸にかぎらぬ。かぜをひいたときでも同様だ。私は自分の病気が
かぜにすぎぬことを知っている。わたしのかぜはいつも一週間で治ることを知っている。
だが、私は仕事の都合上、三日で治りたいのだ。

そんなときも医者が第一に示す関心は肺炎や肺結核の可能性である。
ありがたいことだが、困るのは、その心配が無いと決まったときに示す医者の無関心、
興味なさである。腕のある医者ほどそうらしい。たんなるかぜと知った瞬間、
かれにとって患者は無用の存在となるらしい。恐ろしい病気を背負っている人間だけが、
情熱をもって対しうるものなのである。色事師が美人にぶつかったようなものだ。
私のような単純な虚弱体質は醜女なのであろうか。

61 :
★レジャー・ブームについて
人は自分のしたいことをするために、他人と仕事の拘束から逃れ、
自分の自由になる時間、すなわち暇を獲得しようと努めてきたが、
それが手に入ってみると、眼前に開けた自由の領域の大なるのに目がくらみ、
そうして自由になって、何をする気であったか、何がしたかったのか、
それが甚だあやふやになってきたらしい。

始末に悪いのは、人は何もせずにはいられぬということである。
何かが出来る暇があって、何をしてよいかが解らなくて、しかも何もせずには
いられないという訳で、こう三拍子揃えば、人のまねをする以外に手は無くなり、
それが一番無難だということになる。

この種の受動的な反射運動をレジャー・ブームと呼び、日本人の勤勉と旺盛なる好奇心とを
自画自讃しているばかりが能ではあるまい。これもまた国民を骨抜きにする一種の
愚民政策に過ぎぬのである。元来、閑暇と自由とは何の関係もないものなのだ。
自由を閑暇という数量的な時間に還元して、それを生み、それを楽しむ経済力と
同一視したところに、近代の錯乱が始まったのである。

62 :
★若さについて
(引用者註:1970年前後のエッセイ)

戦争は、少なくとも敗戦は大人の責任だという奇妙な理窟が大手を振って通るようになり、
戦後は「若さ」が売物になり始めた。勿論、昔から父と子との対立は幾らでも
小説や劇の主題として扱われてきたが、戦後はそれが度を越して、質的変化を呈してきたようだ。

第一に、若い者が「若さ」を売物にしてくるなら、大人は敢えてそれに
対立するなどという野暮なことはせず、むしろ買いに廻って、
大いに商売してやろうという気になったことである。
手取り早く言えば、大人は猿廻しになって、若い者は猿にされたわけだ。

第二に、戦後の若い者は昔の若い者と異なって、ただ単に結果的に特定の大人と
対立するに至るというのではなく、、始めから大人一般という抽象概念を敵と見做し、
青春という抽象概念の特権を主張し守ろうという先入観をどこかから仕入れて来たことである。

ところが、ここ数年、若い者の間では、第一の事実に気付き、第二の事実にも何等
根拠は無いことに多少うろたえだしている者も時折見かける。大いに結構だと思う。
この機会に最後の一撃を与えるとすれば、私は次の事実に注意を促しておきたい。
二十歳の青年は五十歳の壮年より、個体としては若いが、民族や人類の年齢としては
三十年年老いているのである。原始人より近代人のほうが若さも生命力も乏しくなっている。
「若さ」の名誉に賭けても、時にはこのくらい壮大な規模で自分を眺めてみることも必要であろう。

63 :
★人権亡者について
基本的人権というといかにも近代的で聞こえがよいが、
その基底に個人としての人格が無ければ、
基本的という言葉は最低のという消極的概念に過ぎなくなる。
事実、基本的人権というのはその意味に他ならないが、
それをあたかも鬼の首でもとったような気でご大層な積極的概念に
誤訳して用いてきたため、人格無しの人権亡者が輩出したのである。

64 :
★「現代の悪魔」について
(中略)
それにもかかわらず、原水爆はやはり「現代の悪魔」である。
なぜなら、人々はこの「大悪魔」の威力に恐れて、世に「悪魔」と呼びうるものは
それのみと思いこみ、その他の「中悪魔」「小悪魔」の存在を
何程のものとも思わなくなってしまったからである。

「大悪魔」の威力を封じる運動が、ただそれだけで最高の美徳となり、
世界戦争を避けるための努力が、局地戦争の犠牲を蔽い隠す。
この、いわば価値に対する無感覚と混乱こそ、「悪魔」との取引にほかならない。

65 :
★棄権について
選挙のたびによく言われることだが、なぜ棄権してはいけないのか。
棄権してもよいということになれば、政治に不熱心な、あるいは政治の解らない市民は
気楽に棄権するだろう。そうなれば、政治に熱心な、あるいは政治の解っている市民は
相対的に二票分の権利を得たことになるではないか。

医者にもふぐ料理の板前にも資格試験がある。自動車の運転にも免許状がいる。
主権在民のその主権者が無条件無免許とは、そして誰もそれを疑わないのは、
考えてみたら不思議な話である。封建時代の君主のほうが、むしろ自分を脅す内外の
競争者を前にして、おのずとその資格と実力とを絶えず問われていたように思われる。

66 :
★憲法について
マグナ・カルタに関するジョンソン氏の見解は卓抜である。
今日、マグナ・カルタを英国憲政史の礎石として
誇っている人が多いが、決してそんなものではない。
そもそも一体何人があの一二一五年制定時の原文の全部を読んでいるかと反問し、
一九七〇年に米国オハイオ州のクリープランドで起こった挿話を紹介している。

米国独立宣言書を通行人五十名に、それが何であるかを伏せたまま読ませ、
同感の者に署名を求めたところ、ただ一人だけが署名し、他は全部拒否したそうである。
しかも、その理由がふるっている。これは「共産主義の宣伝文だ」とか
「ヒッピーの書いたものだ」とか言って相手にしなかったという。
が、彼等は日頃、聖書と同格に、独立宣言書に懸けて宣誓を行う。
どうやら何処かの国の憲法に似てきたようで気が退けて来た。

67 :
★太宰治について
太宰治は恥でもないものを恥と仮設した。悪でもなんでもないことを悪とおもいこんだ。
それゆえ、かれの十字架や神は、はなはだ低い位相に出現する。
あたかも自然主義の作家たちが情欲を醜悪と見なすことによって、
低級な精神主義を発想せしめたのと似ている。
もし十字架や神がぼくたちのまえに、出現すべくして出現するならば、
それは神を否定する徹底的な合理主義を前提としなければならない。

68 :
★史実について
疑いを捨てるところから歴史は始まる。
歴史というのは過去との附合いであり、「人の振り見て、我が振りなおせ」
というような啓蒙の仕事は、ただ歴史研究の結果として生じてくるだけのことであって、
それを目的とするのは間違っている。

家族や他人と附合うのは、相手の行動から自分に対する教訓を引っ張り出すためではない。
同様に、過去と附合うのも、それ自体が目的である。
従って、特定の過去を背負っていることは、私たちのあずかり知らぬことでありながら、
やはり背負わねばならぬ廻り合わせと考えるべきで、
その意味で、過去はいまだ消滅せざるもの、現在と同時存在しているものなのだ。

69 :
★教養について
ゲーテの修行と遍歴とは、畢竟、形成(Biludung)以外の何を意味していたのでもない。
それは環境のうちに埋没したたんなる生活者ではない。
ひたすら自己を完成し、人間性の頂点に達しようと意思する精神である。

奇怪なことに、日本ではこうした教養への意思が、
生活を遊離し書斎のうちに閉じこもり、あるいは衒学的なペダントリとむすびつき、
あるいはいわゆる自由主義的なディレタンティズムとむすびついてしまったのである。
それは尊大な事大主義であり、現実を無視した態度なのだ。

70 :
★前衛について
前衛の根本は何か。その必然性は何処にあったのか。
それは言うまでもなく、芸術不信ということに外ならない。
そこまで行かなくとも芸術家であることの不安から発したものには違いありません。

絵の場合でも音楽の場合でも、本物の前衛芸術家はその苦痛から出発したものです。
俺のやっていることはもはや芸術でも美でもないかも知れぬ、
俺は芸術家などと呼べる筋合いの物ではないかも知れぬ、
そういう不安をもって一歩を踏み出した、というよりその外に手が無かったからです。

それが今日ではどうか。皆、好い気な顔をしてやにさがっています。
先覚者にとって外に手が無かったその足掻きが、今では手になっている。
芸術でも芸術家でもないかも知れぬという不安の表現が妙に安定した様式を持ち、
しかも不安の表現であるが故に、それこそ最も現代的な芸術なのだと、
自他共に思い込んでいるらしい。この甘たれたロマン主義、即青春謳歌は
「親の苦労、子知らず」以外の何ものでもありません。

71 :
★きまじめについて1
真にむずかしいこと、真に勇気の要ること、それは誠実ではない。うそをつくことだ。
うそをつくとは、自分に誠実であることより、
他人に誠実であることを重んずる流儀にほかならない。

72 :
★きまじめについて2
諧謔や虚偽をきらう精神、それがきまじめであります。
それは人間を、自己を、つねにその限界内に閉じこめようとする精神であります。
きまじめな人間ほど、この限界が目についてしかたがないのです。
のみならず――すなわち、限界がじっさいに見えるだけではなく――
限界をのりこえることによってこっぴどく報復されるのがこわいばかりに、
なるべく動かぬようにこころがけるのです。
動きさえしなければ、限界をのりこえるような間違いはしないですみます。

こうなると限界がみえるというよりは、みずから限界を小さく設定してしまうのにひとしい。
そのいちばんいい方法は、欲望に忠実であるよりは、結果に忠実であるということだ。
みずからがなにを欲するかに耳をかたむけようとはせず、現実はいかなる欲望を
ききとどけてくれるかにのみ、ひたすら意を用いることだ。
現実が許容しそうもない欲望をいだき、これを実現しようとはかる人間にたいして、
きまじめなひとはむしょうやたらに腹を立て、ふきげんになります。
きまじめなひとというのは、実生活上のリアリストということであります。

73 :
★個性について
人間にとって個性とは何か、まずそこから考えて貰いたい。
その手掛りは戦後の教育にあります。それは強制と禁止を排し、個性を尊重した。
その結果、個性のある人間はかえって少なくなったようです。
なぜなら、個性は強制と禁止によってしか生じないからです。

人は強制され禁止されてはじめて、自分は何を強制され禁止されたら最も辛いかということを、
言い換えれば、己れが最も欲するものが何かを自覚させられ、
その強制と禁止の枠に如何に対処し、如何に抵抗するか、
その努力の仕方によって徐々に個性が形造られていくのです。

教育する者の立場から言えば、真に個性を尊重するなら、むしろ強制と禁止とによって
それを押し潰そうとすべきで、それで壊滅してしまうような個性なら、
尊重したり、育てたりするに値しないただの性癖か小主観に過ぎません。

74 :
★教育について
子供は教師や親が教えようとしたものを学ばないで、
かれらが教えようとしなかったところで、なにものかを学びとるものだ。

なるほど教師は生徒に知識や技術を教えることはできましょう。
そういう教育においては、所期の目的はまず果たされる。
が、教師はそれ以上のものを教えることはできません。
「人間的なるなにものか」を教えることはできない。
が、真に教えるに値するものは、その「人間的なるなにものか」なのです。
とすれば、教育にもっともその効力を期待したいところでは、
教育は完全に無力だということになる。

といって、私は知識や技術の教育を軽視しているのではありません。
それを私は重視します。重視するどころか、それが教育のなしうるすべてだと考えます。
今日の教育はそこにとどまるべきだというのが私の持論であります。

75 :
★幸福について
唯一のあるべき幸福論は、幸福を獲得する方法を教えるものではなく、
また幸福のすがたを描き、その図柄について語ることでもなく、
不幸にたえる術を伝授するものであるはずだ。

76 :
★俗物礼賛
俗物とは自分を現実の自分以上のものに見せかけたい人間のことである以上、
かれは本質的に理想主義者なのである。見せかけるだけでなく、
それにたいする努力と反省とがともなえば、尊敬すべき人物になりうる。

77 :
★へつらいについて
処世術的教訓――諸君がもし誰かに真向からへつらわれたとき、
それで気を良くする俗物からまぬかれようとして、不機嫌な顔を見せぬこと。
諸君はそれでいいかもしれぬが、相手は辛い。なぜなら、かれは諸君を
俗物と呼ぶことができず、自分の俗物性のなかn立ち往生しなければならなくなるから。

78 :
★おだてについて
下手に世辞を言われれば、そんな下手な世辞で気を良くする奴と
見做されているということになり、当人は不機嫌にならざるを得まい。
それでもなおかつ嬉しそうにしてみせるというのは余程修行を積んだ大人物であろう。
しかし、元来、勿論、私をも含めて、世の中に世辞の嫌いな人は存在しないはずで、
あるいは世辞のみが古今東西を通じて全人類共通の嗜好品といって良いものかも知れぬ。

79 :
★便利について
私たちが自分にとって損になるものを切り捨てる時は、
必ずそれに伴う得になるものも一緒に切捨てることになり、
その反対に、なにか得になるものを入手するときには、
必ずそれと抱合わせに損になるものも一緒に背負いこむことになる。

損だけを捨て、得だけを貰うというわけにはゆかない。
それは取引の原理である以上に、附合いの原理である。
なぜなら取引の場合には、差引勘定が出来る。
が、附合いの場合には、それが出来ないからである。

昔はあったのに今は無くなったものは落着きであり、
昔は無かったが今はあるものは便利である。
昔はあったのに今は無くなったものは幸福であり、
昔は無かったが今はあるものは快楽である。
幸福というのは落着きのことであり、快楽とは便利のことであって、
快楽が増大すればするほど幸福は失われ、便利が増大すればするほど落ち着きが失われる。
まったく奇妙なことだが、人は暇をこしらえて落着きたいと切望し、
そのために便利を求めながら、その便利のおかげでやっと暇が生じたときには、
必ずその暇を奪い埋めるものが抱合わせに発明されているのだ。
つまり、便利は暇を生むと同時に、その暇を食潰すものをも生むのである。

80 :
★一夫一婦制について
私の考えによれば、道徳もまた自然科学上の諸原理と同様、仮説に過ぎない。
もともと絶対的な善というものはないのである。
だが、仮説にしても、それがあるのとないのとでは大違いだ。
一夫一婦制も仮説である以上、あらゆる結婚の現実に適用できる鍵にはならないし、
論者の言うように大部分の結婚がこの仮説に反している。
しかもなお相変らずこの仮説は生きているし、役に立っている。

なぜなら、私たちは一夫一婦制のもとでは浮気も出来るし、
雑婚に近い性の放縦を楽しむことも出来るが、反対に雑婚社会では
一夫一婦制の長所を享受することは出来ないからである。
言いかえれば、一夫一婦制には貞潔と放縦とがあるのに、雑婚には放縦しかなく、
それも、貞潔という反対概念のない放縦だけでは、放縦にすらならず、
要するに元も子も失ってしまうのである。どう考えても損ではないか(中略)

一夫一婦制は普遍的理念として存続せしめなければならない。
ただし、これに反逆するのは個人の自由である。欲するもの、能力あるものは
ドン・フアンにでも、ドンナ・フアンナにでもなるがいい。望むらくは、
それに理窟をつけないことだ。同志を募らないことだ。よろしく孤軍奮闘すべきである。

81 :
★隣人愛について
救世軍の共同鍋に銭を投げこむものにだけ生きる権利を認めるという一切の思想は、
疑いもなく愛の否定である。ところが、おのれの欲望を殺して
共同鍋に銭を入れる意思を称して、ひとびとは愛と呼んでいる。
そこで、たれもかれもがその仲間入りをしようと
あせる――ただただ最後の分け前に預かりたい一心で。
ここまでくれば、愛とはさもしさであり、エゴイズムの奸計にすぎない。
奸智にたけたエゴイズムが愚直なエゴイズムを罵倒し
処刑せんとする――ひと呼んで、これを啓蒙という。

82 :
★善意について
人間のうちには、善意と悪意と二つの心の働きがあるのではなく、
ただ生きたいという一つの心の働きがあるのだと、私には思われるのです。
そうだとすれば、私たちは善意が周囲の条件の違いによって、
悪意に転じうることを知っておかねばならないし、
それがどこまで転落しうるか、どこでとどまるかということ、
つまり落ちうる悪意の底の深さは見とどけておかねばならないと思うのです。

83 :
★エゴイズムについて1
自己のエゴイズムを否定的に省察の俎上にのせ、剥皮の苦しみを
演じてみせること――これは自己批判ではなく、
つまりは他人にたいする暴力にほかならぬ。

なぜなら、エゴイズムはぜったいに否定できぬからだ。
それは生そのものであって、それを否定するとなれば、
生そのものすら否定しなくてはならぬ。
エゴイズムがついに否定し抹殺しきれぬものであるとすれば、
たとえ自分を苦しめることによってにしろ、これを否定せんとする身ぶりは、
いたずらに相手を脅迫することにしかならない。

84 :
★エゴイズムについて2
欧米の自由主義から譲り受けた観念的な表象と、儒教の道徳観とは、
わが国においては単なる分銅の役割しか果たしえなかった。

悪という現実の実態を解決せんとして、その内部から高くもちあげられたものとしての
善、ないしは理想ではなく、それは悪の外部にあり、悪と対立して精神の均衡を
計ろうとする形式的な存在としての意味しかもちえなかったのである

ひとの耳を楽しませる鳥の声は、その肉体的なエゴイズムから発している。
ぼくたちの目を喜ばせる花の美しさは、その根の強烈な生存欲の昇華にすぎない。
とすれば、人間の心理のみがこの自然の法則の例外であるはずはない。

85 :
★エゴイズムについて3
人それぞれにおける他人との附合い方は、
その人の自分自身との附合い方とまったく一致します。
誰とでも反りの合わない人というものは、結局は自分自身と反りの合わない人、
自分で自分を扱いかねている人であります。
言い換えれば、自分のエゴイズムをどこで発散させ、
どこで抑制したらよいか、その手心を心得ていない人です。

86 :
★死について
私たちは、平生、自分を全体と調和せしめようとして、それができずに疲れはてている。
いいかえれば、生理的には必然かもしれぬが、倫理的には偶然な事故にしか過ぎぬ死以外に、
なんの完結も終止符もない人生に、倦み疲れているのだ。

私たちの本能は、すべてが終ることを欲している。フロイトやロレンスにならっていえば、
人間のうちには生への欲求と同様に死への欲望がある。
いや、私たちは生きようとする同じ欲求のうちに死なんとしているのだ。
この二つの欲望は別のものではない。死は生を癒すものであるばかりでなく、
それを推進させるものなのだ。終止符が打たれなければ、全体は存在しないし、
全体を眼のまえに、はっきりと見ることができない。

87 :
★孤独について
私は北京で秋を発見し、旅情というものをはじめて知った。
同時に、私は北京において、完全な孤独というものを、生れてはじめて経験した。
私はそのときみごとにこの世界から消滅してしまえたのだ。
私が北河沿や天橋や陶然亭の付近を歩いているとき、私は誰からも失われていた。
そして私もすべてを失っていたが、これほどぜいたくな所有は、他にありえないであろう。
私はすべてを失いながら、すべてを所有していた。なぜなら私は完全に自分自身でありえたから。
だれかと別れて、ふたたびだれかに会うまで、いいかえれば、だれかに見失われて、
ふたたびだれかに発見されるまで、その間における孤独の自由、
私はそれを北京ではじめて経験したが、なにも海外旅行にかぎらぬ、多かれ少なかれ、
私たちのうちにひそむ旅情には、そういう状態にたいする憧れがあるのであろう。

88 :
★無について
ぼくはいかなる作品にたいしても、自己の機能的役割を適応させることによって、
肯定的な敬意を引き出すこともできれば、その反対に徹底的な否定の斧を
ふるうこともできる自分をひそかに感じている。他の批評家と意見が相違することなど
たいした問題ではない――ぼくはつねにぼく自身にたいして反対意見を提出することができる

89 :
★窮屈について
私はここ数年、仕事をするのに椅子を用いているが、
坐るのに慣れた私の肉体的条件のせいか、それとも椅子が悪いためか、
ほんの五分くらいで、いつの間にか私は椅子の上にあぐらをかいている。

が、肘掛け椅子はあぐらには適しない。窮屈である。
私は脚の始末に苦心する。一時間、二時間と経過していくあいだに
私の姿勢はいろいろに変化の妙をきわめる。説明するのはむずかしい。
それに沽券にかかわる。要するにみっともないのである。

私ばかりではない。誰にとっても、この世は「坐り心地の悪い椅子」だといえば、
理に落ちすぎるであろうか。

90 :
★エゴイズムについて
私は、ある人が、あるいはある国が、エゴイスティックな行動に出たからといって、
それだけで不信を表明する気にはなれません。おたがいさまだと思うからです。
が、その人が、その国が、自己のエゴイズムを否定する用意がないとき、
その原理をもたぬとき、私はかれを信用できず、危険な相手だと思うのです。

91 :
★相対主義について
相対主義にとらえられた現象というものは、たえず流動している。
流動しているものしか見えないのが相対主義です。
それは量の世界しか見えない。質の世界とは無関係です。

92 :
★手段と目的について
一口に手段とか目的とかいっても、そうかんたんに分けられない。
どっちが目的で、どっちが手段などといいきれたものではありません。
さらに重要なことは、私たちがひとたび、ある行為に身をゆだねた場合、
もはや手段と目的との分離は消滅するということです。
それが生きるのは事前の議論のときだけだが、その議論すらひとつの行為であって、
手段と目的との分離のきかぬ点では同様です。

いいかえれば、私たちの手段を考えていることは、それ自身つねに目的であります。
それは、この人生では実験も予行演習もきかないという事実とおなじで、
手段と目的を分けて考え、目的のほうが大事だとかなんとかいうのは、傍観者の思考にすぎません。
民衆にとっては、いや、まともに生きているものにとっては、目的は手段のうちにあり、
手段の遂行そのものが目的なのです。したがって、手段の変更は、目的の変改であり、
裏切りであり、無節操であるわけなのです。

93 :
★習慣について
初めに私というものがあって、その私が習慣を身につけるのではない。
習慣というものがあって、はじめて私があるのである。頭を切換えたら、私はなくなる。
習慣を習慣なるがゆえに軽蔑して、頭の切換え運動を続けてきた日本の近代史は、
そのまま日本の自己喪失史である。

94 :
★言語について
言葉は手段であると同時に目的そのものである。
自分の外にある物事を約束にしたがって意味する客観的な記号であると同時に、
自分のうちにある心の動きを無意識に反射する生き物なのである。

一語一語がそういう働きをもっている。
ある人がある時に、「あわてる」ではなく「狼狽する」を選んだことには、
適否は別として、意味とは別の世界に、その人、その時の必要があるはずで、
その限りにおいては、彼自身すら充分に自由、かつ意識的ではありえない。
彼が言葉を選ぶのではなく、言葉のほうがその時の彼に近づいて来て、彼を選ぶのである。

95 :
★言語について2
よく人は言葉は自分の意や心を他人に伝える道具だというが、
もしそれが道具なら、相手の手もとまで届かぬ梯子の如く不完全なものであり、
人はそのもどかしさに悶え足掻く。意も心も他人には絶対に伝わらぬ。
伝達可能な意や心は伝達するに値しない。言葉は伝達の具ではなく、訴への具である。
そういう言葉だけが生きた言葉であり、生きた言葉で貫かれた文章だけが
有機体のリズムを持ちうる。

96 :
★芸術について
ユートピアならざる素の人生はなんびとにも芝居を許さない。演戯の自由を与えない。
ひとびとはしかたなく芸術というものにすがりつくのであります。
いくら芝居気の多い芸術家にしても、実生活では、芝居をしとおすわけにはいかぬ。
が、芝居気が多いものは、他人の芝居にすがりつくだけではがまんできないのです。
そこで、自分の芝居気をもっともよく満足させてくれるような架空の世界をつくって、
わずかに自分を慰める。それが芸術というものです。

97 :
★信頼について
大人は不純で、青少年は純粋だというのは、はなはだ粗雑な考え方のようです。
私は自分の若い頃を憶いだしてみて、
青少年がそれほどに純粋だったとは、どうしても考えられない。

私はいろいろなことを知っていました。また感じていました。
両親の口にのぼるお愛想や、その生活のしかたに、ときどきうそやずるさが混じっているのを、
けっして見のがしはしませんでした。それだからといって、かれらを責める気にはならない。

かれらはうそをつかねば生きられなかったのだし、私自身、かれらのうそによりかかって
生きていたからです。当時、青少年としての私が感じていたことは、大人たちはうそばかり
ついているのではなく、純粋な面もあり、うそはつきたくないと思っているのだということ、
さらに、そのうそのなかにも一片の真実があるということ、
最後に、私自身、その種のうそをつきかねないということでした。
私は総体として大人を信じていいとおもっていました。

そのころも今も、私は、なんどかその信頼を裏切られました。しかし、私は性こりもなく、
また信頼する。人間は総体として信頼していいのだとおもいなおすのです。

もし青春という言葉に真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。
不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。
たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。

98 :
★人生論について
人生論がときどき復活するのは、目的を見うしなったからではありません。
手段と結びつかない目的論ばかりが亡霊のように横行しすぎるからです。
目的がないからではなく、目的がありすぎるからだ。一般の民衆が社会生活のなかで、
具体的にどう手をつけていいかわからないような目的論が流行すれば、かれらはその目的と
自分との間にギャップを感じてとまどうばかりです。人生論にすがりつくのは自然でしょう。

99 :
★元号について
元号廃止の動機の一つは天皇制廃止、もしくは軽視の意図であるが、
これは開化主義と同じで、君主制は保守的であり、共和制は進歩的であるという
何の根拠もない浅薄な考え方に基づいている。

そして同様に元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。
エリザベス朝文化、ウィクトリア朝文化と同様に、
元禄・天明の文化と言わねばならぬ歴史的事実があるのだ。
それを西暦一本で片づけろといわれたら不便きわまりない。
試みにこの私の文章の江戸、明治、大正、戦前をすべて西暦で表記しなけらばならぬとしたら、
どうなるか考えて見るがいい。第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラビア人が
何でクリスト教紀元にのみ附合わねばならぬのか。現在、国際法と国内法と両建てで
行かねばならぬ限り、西暦と元号の両建ては改めて問題にするまでもなく当然のことであろう。

100 :
★文明について
文明とは、自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目ざすもので、
決してそれと丹念に附合うことを教えるものではない。
それは当然「インスタント文明」を招来する。

人々は忙しさと貧しさから逃げようとして、人手を煩わさず、
自分の手も煩わすまいとし、そうするために懸命に忙しくなり、貧しくなっている。
もちろん、今さら昔に戻れない。出来ることは、ただ心掛けを変えることだ。
人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。


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