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☆人気企業ランキング★PART11


1 :2019/04/19 〜 最終レス :2019/04/20
PART10 https://mao.2ch.sc/test/read.cgi/ranking/1555658245/

マイナビ、楽天みん就、Dudaなどのランキングを平均してみた。
人気度だから、残業、有給、知名度、総合職年収 等の内面も考慮されているかと思われ。
意見があれば少しずつ変えていこうとおもいます

↓〜〜〜〜Sランク〜〜〜〜↓ 名実共に世界トップクラス

[73] Google JAXA

[71] トヨタ自動車 ANA 三菱商事 日本マイクロソフト

↓〜〜〜〜A+ランク〜〜〜↓ 日本代表クラス

[69] 日本銀行 電通 JR東海 ソニー サントリー 野村證券 JAL 伊藤忠商事 任天堂
 
[67] ホンダ 東京海上日動火災保険 三井物産 三井不動産 パナソニック JR東日本 フジテレビ Yahoo! 資生堂 JTB 博報堂 日立製作所 味の素 NTTドコモ 楽天 
 NTT東日本 ソフトバンク 日産自動車  

↓〜〜〜〜Aランク〜〜〜↓ 人気企業TOP100常連クラス

[65] 花王 キーエンス AppleJapan 三菱UFJ銀行 デンソー NTT西日本 IBM アサヒ リクルート オリエンタルランド NHK アマゾンジャパン キリン JR西日本 日本生命保険
 テレビ朝日 三菱重工 日本中央競馬会 KDDI 日清食品 武田薬品 住友商事 キヤノン 日テレ 明治 NTTデータ バンダイ TBSテレビ 富士フイルム 
 
[63] マツダ 丸紅 LINE アステラス製薬 新日鐵住金 富士通 カルビー 未来工業 日本たばこ産業 東京ガス タニタ 東芝 国際協力機構 日本電気 テレビ東京 東レ 
日本郵便 九州電力 京セラ 集英社 カゴメ 三菱電機 ファーストリテイリング 野村総合研究所 ヤマハ 小田急電鉄 第一三共 ベネッセ 阪急電鉄 イオン みずほ銀行 
大阪ガス ファナック エーザイ クックパッド 三菱地所 キリン 旭化成 SUBARU ダイキン工業 東宝 ニトリ 講談社 村田製作所 川崎重工

↓〜〜〜〜B+ランク〜〜〜↓ 一部上場上位クラス

>>2に続く・・・

2 :
↓〜〜〜〜B+ランク〜〜〜〜↓ 一部上場上位クラス

[61] 三井住友銀行 TOTO リコー コニカミノルタ スクウェアエニックス スターバックス ナイキジャパン 読売新聞 東燃 サイバーエージェント JA全農 ブリヂストン 東京電力 日本コカコーラ 小松製作所 東北電力 ヤクルト本社
 JR九州 P&G サイボウズ 良品計画 京王電鉄 三菱ケミカル ゴールドマン JFE サッポロビール 日本マクドナルド 日本電産 シャープ 中国電力 江崎グリコ 信越化学 ロッテ ゆうちょ銀行 ヤマハ発動機 朝日新聞社 富士ゼロックス
 清水建設 JX金属 関西電力 東京地下鉄 オムロン 積水ハウス 大日本印刷 沖縄電力 星野リゾート 森永製菓 東京都庁 大成建設 PixarAnimationStudios

[59] ハウス食品 ヤマト運輸 ワコール FacebookJapan アクセンチュア NTTコミュニケーションズ 東京急行電鉄 電源開発 スタートトゥデイ 吉本興業 大塚製薬 DeNA サンリオ 凸版印刷 カシオ計算機 小林製薬 帝人 住友鉱山 アシックス
 HIS 財務省 ネスレ日本 USJ 山崎製パン エイベックス DMM 日清製粉 中部電力 ミズノ 島津製作所 四国電力 キユーピー ブラザー工業 マッキンゼー セガサミー CCC スズキ 日本郵政 ジャパネットたかた 六花亭製菓 ボストンコンサル
 ヤマダ電機 NASA 伊那食品工業 SCSK ニコン カプコン セイコーエプソン DIC 鹿島建設 JXTGエネルギー コストコホール 日本赤十字 アイリスオーヤマ ソニーモバコミュ イケアジャパン テルモ コクヨ タカラトミー アイシン精機
 太陽日酸 国際連合 メルカリ 野村不動産 ルイヴィトンジャパン 朝日放送 マイナビ LION オリンパス

↓〜〜〜〜Bランク〜〜〜〜↓

[57] 小学館 いすゞ自動車 有限責任監査法人トーマツ ソフトオンデマンド セブンイレブン 近畿日本ツーリスト シャネル ダンロップ 京浜急行電鉄 名古屋鉄道 三越伊勢丹ホールディングス ユニリーバ 明治安田生命 ゼンリン ウォルトディズニー
 高島屋 日本経済新聞 竹中工務店 ジャニーズ事務所 楽天野球団 ファンケル ダスキン 大和ハウス工業 国土交通省 学研 かねか 日本郵船 DOWA NEC ポーラ 日揮 法務省 ローソン 大創産業 JR北海道 日立金属 Rーリジャパン
 三井住友海上火災保険 讀賣テレビ放送 理化学研究所 ほぼ日 佐川急便 総務省 東ソー 日本光電工業 JCB 防衛省 アディダス 旭硝子 日本通運 日本オラクル ユナイテッドアローズ ロート製薬 日本交通 コナミ 日建設計 ヤンマー
 サマンサタバサ 小野薬品工業 日立化成 宮内庁 西武鉄道 福岡ソフトバンク 経済産業省 安川電機 パソナ KPMG AbemaTV ユーグレナ シマノ ソニーミュージック 再春館製薬所 ブラザー工業 プラス 大分県庁 シティバンク アスクル
CookingStudio フジクラ ジュンク堂書店 川崎市役所 サンエー ペッパーフード 日野自動車 スギ薬局 日本軽金属 日本旅行 ニプロ 住友ベークライト 日本公文教育研究会 外務省 HSBC トリンプ

3 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

4 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

5 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

6 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

7 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

8 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

9 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

10 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

11 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

12 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

13 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

14 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

15 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

16 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

17 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

18 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

19 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

20 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

21 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

22 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

23 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

24 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

25 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

26 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

27 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

28 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

29 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

30 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

31 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

32 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

33 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

34 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

35 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

36 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

37 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

38 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

39 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

40 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

41 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

42 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

43 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

44 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

45 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

46 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

47 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

48 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

49 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

50 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

51 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

52 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

53 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

54 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

55 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

56 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

57 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

58 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

59 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

60 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

61 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

62 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

63 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

64 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

65 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

66 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

67 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

68 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

69 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

70 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

71 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

72 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

73 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

74 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

75 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

76 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

77 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

78 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

79 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

80 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

81 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

82 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

83 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

84 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

85 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

86 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
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たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

87 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

88 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

89 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

90 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

91 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

92 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

93 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

94 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

95 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

96 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

97 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

98 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

99 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。

100 :
新元号が「令和」に決まり、日本中がお祭り騒ぎである。
慶事であるし、個人的にはよい元号だと思うので嬉しいかぎりであるが、
あえて問題点を指摘しておきたい。
まず、元号制定に関しては安倍内閣の方針が既定のものとなり、
いささかの異論も差し挟めないような空気が醸成されたことである。
たとえば、出典を和書にするということである。6つの原案は、令和(万葉集)、
英弘(古事記)、広至(日本書紀、詩経)、久化(中国古典)、万和(文選)、
万保(中国古典)と、国書と中国古典が半々である。
結局は、万葉集が出典の令和に決まり、巻5、梅花の歌32首の序、
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」の
「文字が採用されたと説明された。
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、
風も和らいでいるという意味である。災害の多かった平成の時代の後、
平和で穏やかな時代を迎えたいという思いがこめられているようである。
中国ではなく、日本の古典からは初めてということが大きなセールスポイントとなり、
日本人の愛国心を満足させたし、海外からはナショナリズムの宣揚だという批判も寄せられた。
安倍首相も日本の国書だということを強調した。
その点に関連して、「政治から離れた立場」を堅持されている天皇陛下は、
新元号決定についても自らの意思を一切外部に示されなかったが、
政治の側は興奮気味で露出過剰な印象である。
平成の元号発表のときと違い、今回は官房長官の説明のみならず、安倍首相自らが談話を発表した。
さらに、首相は様々なテレビ番組などのメディアに数多く出演して、新元号の意義について説明している。
統一地方選挙中でもあり、天皇の政治利用という批判が出てきても不思議ではない。
ところが、セールスポイントの日本古典からの引用について、漢文学者から、
8世紀に作られた「万葉集」よりも先の6世紀に編まれた中国の詩文集「文選(もんぜん)」にも
「仲春令月、時和気清」の句があると指摘された。
「仲春令月、時和し気清らかなり」と読み下すが、後漢・張衡「帰田賦」・文選巻十五が出典である。
このことは、新日本文学大系『萬葉集(一)』の補注にも記されている。
私も事前に元号の専門家らと議論をしたが、「漢字で書けば、元々は中国から渡来したものなので、
必ず源が出てくる」という結論であり、和書か漢籍かに重きを置く必要はないのではないかと考えている。
どうしても日本の古典からというなら、平仮名で探すしかなくなる。
しかし、日本人が漢文や漢詩で書いた作品も数多くあり、西郷隆盛が愛読したという佐藤一斎の
「言志録」もそうである。日本語は、漢字、カタカナ、平仮名から成っており、
漢字は日本文化の重要な構成要素である。
その意味で、漢字に拘るのなら、漢籍も和書の区別など意味をなさなくなる。
余りに国書を強調するのは、安っぽいナショナリズムである。
幕末明治維新のとき、西周ら日本人が、科学用語などの欧米の言葉を漢字にしたが、
それを中国も輸入して使っている。たとえば、人民、共和国、共産主義、社会主義、革命、科学、
哲学、思想、文明などで、実に多数であるが、
中国人が自らの国名すらも和製漢字で構成されていることを意識することもなければ、それを批判することもない。
日本も漢字文明圏の一角を占めているのであり、それは、イギリスもフランスもドイツも、
その言語、文化の淵源がラテン語やギリシャ語であることと同じである。
しかし、このような指摘や批判は、日本のマスコミにはほとんど登場しない。
何か言論統制が効いているようで気味が悪い。過度のナショナリズムは意味がない。
30年前の昭和天皇崩御の前後には、日本国中で歌舞音曲を自粛し、それに従わない者は非国民扱いされ、
失業した芸人も出た。今度は、その裏返しで、初の日本古典でめでたいという祝賀ムードに
水を差すのは顰蹙を買うことになる。
書店では万葉集が売り切れになり、九州の太宰府が脚光を浴び、新元号を冠した商品が飛ぶように
売れている。マスコミ報道も新元号一色である。しかし、慶事すら強制されるようなムードは、
どうして醸成されるのだろうか。
政府の情報操作の巧みさもあるかもしれないし、日本のマスコミの横並び体質もあるだろうが、
これは大衆の自発的意思だとされるだけに、国民にマスゲームを強制する北朝鮮よりも厄介かもしれない。
日本は、お祭りごとですら異論を許さない「空気の支配」の国であり続けている。


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