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☆無我なのか真我なのか☆
- 1 :2017/02/19 〜 最終レス :2019/05/05
- 自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう
- 2 :
- 結論もう出てるでしょ
- 3 :
- >>2
DOCHI?!
- 4 :
- DOCHIMO!
- 5 :
- >>4
DOYUKOTO!?
- 6 :
- MUGATOSHINGA
DOCHIMO
ONAJIIMI
- 7 :
- とりあえず、無我と真我の定義は???
- 8 :
- 無我と真我は、こう理解すると分かりやすいです
無我≠自我
自我≠真我
無我=真我
仏教が「空」と語る「我」は無常である色受想行識の五蘊によって生じる、通常我々が「私」と信じている、仮初めの自我についてです
諸法無我です
では一方で、何が真に「ある」と言えるのか、と問えば
では凡夫が「ある」と思っているものが「無い」とすれば、真に「ある」ものは何かといえば、真如、法界、法性です
真如は「あるがまま」みたいな意味です
「あるがまま」は「ある」といっても、それは凡夫をそのままで容認する、という意味ではありません
全てには原因があります
悟りの状態の原因は「種」として我々の中に気付かれず微睡んでいます
その種を育てた後に得られる状態が真如なのでしょう
この真如の状態が仮初めの自我ではなく、本当の真我=無我の状態です
「一切皆空」は、実は裏をかえせば「諸法実相」という肯定的な思想に転じます
- 9 :
- まぁ、ようするに一つの真理を二つの側面から語った時に、無我や真我という形になる、というだけの話やね
- 10 :
- 五蘊無我
- 11 :
- 五蘊無我。
五蘊は無我。
五蘊”は”無我。
涅槃は無記。
- 12 :
- 無我=真我に語弊があるなら↓でもいいで
意味は変わらん
無我⇒真我
- 13 :
- ヤージュニャヴァルキヤは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』など初期のウパニシャッド(奥義書)に登場する。
彼の哲学の中心はアートマン(真我)論である。
彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。
それは唯一のものである。
しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A4
実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。
15. いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。
しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。
捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm
アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。
それは認識の主体として万物に内在している。
私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。
アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。
アートマンが何であるかを言い当てることはできない。それはただ「非ず、非ず(neti, neti)」としか表現することができないのだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-upanishads/
- 14 :
- アートマンというのは認識の主体であるから捉えることはできない。
捉えることができるのは認識の客体であり五蘊は認識の客体認識の当たる。
アートマンが世界の全てでありまたアートマンは万物に内在している、というのは密教の大日如来と如来蔵の関係と類似している。
密教がヒンドゥー教を取り込んだことによる。
一方で仏教の方でも釈迦のバラモン教を取り込んでいるのは、「非ず非ず」と「我(I am)ではない我が所有(mine)ではない我が本体(myself)ではない」の類似性からも見て取れる。
- 15 :
- 五蘊は認識の客体に当たる。
- 16 :
- >>13-15
あなたはよく勉強されていますね。
専門家の人なのでしょうか?
- 17 :
- >>16
いや、真言密教の修学をしている内にインド哲学にも興味を持ったので、趣味で本やネットで軽く文献に当たっている程度ですよ。
ちなみに混乱しがちなのが真我とブラフマンとアートマンの関係だけど、
古典的梵我一如論ではブラフマンとアートマンは一如なのでどちらも真我、
唯識の影響があるジャンカラの不二一元論でもブラフマン=アートマンで不二一元であってどちらも真我であり、
それ以外の一切は真我が創り出したマーヤ(幻影)であり実在ではないとする。
密教だとブラフマンは大日如来、人間を含む諸法は大日如来の現れ、アートマンは如来蔵と考えると、一元論であると分かる。
密教の場合はそれよりも、怒りや欲望を公憤や大欲に変えることが教義として第一だろうけど(一切の有情には如来蔵があるのでそれは可能であるとする)。
また真我=プルシャとするのにも色々あって、サンキャ派だとプルシャ(真我)とプラクリティ(それ以外)の二元論となる。
どの宗派か分からないがある?ヴェーダ(それともほぼ全ての宗派か?)では五蘊はムーラ・プラクリティである。
http://vedacenter.jugem.jp/?eid=1044748
仏教ではアートマンはともかくブラフマンについては人格神梵天という形式でしか用いないので、
アートマンや真我について一元か二元かという問題は問われない様子。
ただ、迷悟、苦苦滅、煩悩菩提、生死涅槃を対立させる小乗仏教は二元、不二や即として一如とし空と見做す大乗仏教は一元と言えるでしょう。
大乗仏教では空を涅槃と同一視して真我のように基台視することもあれば(中観)、
全ては阿弥陀仏に帰するとか大日如来の現れであるとか、そういった基台を想定しての一元論にする傾向もある。
長文失礼
- 18 :
- アートマン
あーとまん
tman
「個体の本質」を示すインド哲学の術語。
「我(が)」と訳される。
原義については諸説あって一定しないが、『リグ・ベーダ』以後の文献においてしだいに哲学的意義を帯びるようになり、
ブラーフマナ文献を経て、生気(プラーナ)、意(マナス)、言葉(バーチュ)などの精神原理を超え、
個体を統一する普遍的な最高実在を示す語としての位置を得た。
ウパニシャッド文献において、宇宙の最高原理ブラフマンとの同一が説かれ、梵我一如(ぼんがいちにょ)思想が唱えられた。
以後、アートマンは、インド哲学諸学派によって種々に考察され、
ニヤーヤ学派、バイシェーシカ学派では、その実在性の論証に意を払い、
ベーダーンタ学派では、ウパニシャッド思想を継承して梵我一如思想を強調した。
仏教は、無我説を主張する。[松本照敬]
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3-26227
こう見ると仏教は古代インド哲学の一学派という位置づけになるな
- 19 :
- アートマンって唯識の阿頼耶識と同じって理解でいいんですかね
アートマンは真我ですが、阿頼耶識はあくまでも識なので少しだけニュアンスが違うような気がしますが
- 20 :
- まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンである(『ブリハッド 4:4:25』)。
http://sugano.us/butu/muga-0.htm
アートマン・ブラフマンは不滅で常住だが
阿頼耶識は無常で無自性で変化し続ける
だからアートマン・ブラフマンと阿頼耶識は違う
もっとも全てはアートマン・ブラフマンに帰属するというバラモン教の観点に立てば阿頼耶識もアートマン・ブラフマンの一部であるという表現は出来ると思う
ここに詳しく書いてあるよ
http://www.homyou.hello-work.jp/ron39.html
- 21 :
- 【大日如来】
「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」という如来の一尊。
摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)、大光明遍照(だいこうみょうへんじょう)とも呼ばれる。
なお、宇宙とはあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。
大日如来は、無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である。
全一者であり、万物を生成化育することで自己を現成し、如来の広大無辺な慈悲は万物の上に光被してやまないとされる。
三世(過去・現在・未来、前世・現世・来世)にわたって常に説法しているとも説かれる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
>大日如来は、
>無限宇宙に周遍する点では超越者だが、→ブラフマン
>万物と共に在る点では内在者である。→アートマン
真言宗の僧侶は三密の行により大日如来と合一し即身成仏する。
なお、大日如来は人界に現れる時は化身の不動明王となって現れる模様。
- 22 :
- >>20
参考サイト、とても詳しく書かれててよいですね
1点気になることが
↓で仏陀はアートマンに関して無記と述べている。
http://sugano.us/butu/muga-0.htm
仏陀はキリストがパリサイ派を批判するように、アートマンマンセーな当時の風潮を批判して、逆にエゴエゴになっとるがな、それよりおまい自身を見てみろよ、やることあるだろ、ってな文脈で、
非常にプラクリティカルな視点で、語りうる、誰でも観察しうる物事を足場に、この世の自我を無常である、と解体してゆく方法論をとっただけなのではないのか、と個人的には思いました
一方で上位ページの後半では結局はアートマンは否定されています
>永遠不変の実在という概念は、ものが原因と
>条件から生起変滅することを否定するものだからである。
様々な神秘主義はテオーシス(神人合一)を語ります
結局は「一」に収束されますが、神人合一までは、「より普遍」みたいな比較でしか語れないのは分かりますが、とは言え永遠不変との連続性はあり、近づくわけだよなー、と思います
その意味でも、仏陀の無我は当時の風潮に対する方法論でしかないと思うし、無我が誤解されているからこそ、仏教徒は涅槃に消えた後の仏陀の足取りを追えないのではないか、と思います
- 23 :
- 如来(修行完成者)の滅後については毒矢の喩えでは無記としそれよりも毒矢を抜くための修行をせよと説いているけど、
スッタニパータのウパシーヴァ経では少し踏み込んで学生ウパシーヴァに解説していて
http://suttanipata.com/acyaafaafafaaea/
>ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。
>かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
>あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。
と如来には測る基準が存在しないことを説いているね。
これは解脱者については測る基準がないということだけど、測る基準がないから滅後の議論の道もないということだと思う。
さらに中部経典のヴァッチャ火経には何故測る基準がないのか仏説として書いてあるけど
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62268074.html?__ysp=44O044Kh44OD44OB44Oj57WM
五蘊を草や薪、修行者を火に喩えて、草や薪が尽きれば(煩悩の)火が消えるように、
(煩悩の因となる)五蘊は如来には捨てられているので五蘊で如来を認識しようとする者には如来は認識できない、と言ってるのだと思う。
しかし、五蘊への囚われを捨てた如来の「大海のように深く、無量であり、底が知られない。」とは何なのかという疑問は残る。
ヴァッチャは聡明だからそれを意に介さずにブッダに帰依したのだろうけど、凡夫の自分にはすんなりと納得は出来ないw
blogのコメントにはそれこそアートマン・ブラフマンであるとバラモン教からは言われるでしょうね、と書いてあるけど、自分もそう思うw
ただブッダは非ず非ずでしか捉えられないアートマンを何とか掴もうと頑張ってみたが結局掴めなくてアートマンについてあるともないとも語るのをやめたんではないかと穿ってみたりww
個人的にはアートマンのような永遠のものを信じた方が苦悩からは解放されやすくなるし、だからこそ仏教以外では何かしら永遠の存在を認めてるのだと思う。
仏教でも永遠のニルバーナという表現はよくされてるけどね。
でもニルバーナもアートマン同様に信じるか信じないかなんだよね、個人的には。
- 24 :
- >>23
>個人的にはアートマンのような永遠のものを信じた方が苦悩からは解放されやすくなるし、だからこそ仏教以外では何かしら永遠の存在を認めてるのだと思う。
そうかな。むしろアートマンとか無我みたいな「跳躍」があるせいで、凡夫は思考停止になるような気がしてます
仏陀がレベルを凡夫に合わせてアートマンや無我までの道筋を整備したのは正しいように思われる
一方で無我もジャンクな思想に成り果てて、凡夫があーでもない、こーでもない語り、釈迦が生きていた時のアートマンと同様の害悪を生んでいる、とも思うが
- 25 :
- >>24
>そうかな。むしろアートマンとか無我みたいな「跳躍」があるせいで、凡夫は思考停止になるような気がしてます
死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。
仮に思考停止していたとして、思考停止が凡夫の苦しみを助長させているのならともかく、
死後の不安や苦しみからの解放への満足からの思考停止だったら問題はない。
- 26 :
- >>25
>死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。
これ、本当ですか?
- 27 :
- 宗教の起源
有史以前の宗教の証拠
ホモ・サピエンス以前の宗教的行為の証拠は明確ではない。
宗教的な思考のもっとも初期の証拠は死者の儀式的な埋葬である。
大部分の動物は同種個体の死にさりげない関心を向けるのみである。
したがって人間の死へのこだわりはユニークである[11]。
儀式的埋葬は人間行動の進化において重要だと考えられている。
儀式的埋葬は生と死の認識、来世や死後の生命の信念を意味している。
(以下略
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
ちなみにネアンデルタール人も遺体に花を添えて埋葬していたという説が有力。
- 28 :
- >>27
いや、そういう意味ではなく、宗教の根源を物的証拠によってのみ探求する学問を宗教に適応するのはカテゴリーエラーなんじゃないですか?
一般論の話なら別にいいですが、今は一般論の話をしてるわけじゃあないので
- 29 :
- >>28
死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。
仮に思考停止していたとして、思考停止が凡夫の苦しみを助長させているのならともかく、
死後の不安や苦しみからの解放への満足からの思考停止だったら問題はない。
- 30 :
- >>29
私が知ってる限りは、神的世界に関する知覚能力を人類が失ったことが宗教の始まりですけどね
一部のまだ形而上学的事柄を知覚できる人から啓示をもらうしかなくなってから
- 31 :
- >>30
ブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、「一切」とはなにか、次のように教えたと記述されています。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。
よく聞いて下さい。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
http://sugano.us/butu/muga-0.htm
なるほど、ブッダも神的世界に関する知覚能力はないね。
それで仏教が始まったと。
- 32 :
- >>31
一切とは、三科(五蘊、十二処、十八界)のこと。
一切は無常であり、苦であり、無我。
涅槃はそこからの解脱。
言語で表現できないものとして無記。
- 33 :
- 仏道は極端や決めつけ(断見と常見)を排した中道。
あると決めつけるのも思い込みによる決めつけだし、
ないと決めつけるのも思い込みによる決めつけ。
そして、>>31の解釈は断見。
- 34 :
- 宗教には、大きく二種類に大別できる。
妄想や迷信の類と、真実。
前者は、人間が考えて(頭のなかに)生みだした思考概念に過ぎない。
後者は、人間自我の枠組みのそとにあるもの。
人智を超えた真実は、人間自我のなかには生じない。
それは自我のそとにある。
- 35 :
- 実は、宗教を批判する人の宗教観というものも、実は思考概念にすぎず
頭のなかに生みだされた妄想でしかない。
- 36 :
- そして彼は科学を信仰している。
たいてい、唯物論が前提になっている。
そして、我が身が自分だと思っているだろうな(有身見)。
- 37 :
- >>33
それは>>30にいう言葉だろう
- 38 :
- >>34
「それは自我のそとにある。」と言っているのが自我なのだから
ナンセンスになってしまうでしょう。
- 39 :
- >>34
>宗教には、大きく二種類に大別できる。
>妄想や迷信の類と、真実。
>前者は、人間が考えて(頭のなかに)生みだした思考概念に過ぎない。
>後者は、人間自我の枠組みのそとにあるもの。
>人智を超えた真実は、人間自我のなかには生じない。
>それは自我のそとにある。
そういうのを自説という。
ま、押し付けなければ自説を述べるのは勝手だが。
- 40 :
- あるかないか分からないものについて、あると決めつけるのは常見。
あるかないか分からないものについて、ないと決めつけるのは断見。
あるかないか見て確かめて、ないと確認したものについて、ないと言うのは中道。
あるかないか見て確かめて、あると確認したものについて、あると言うのは中道。
- 41 :
- 瞑想は、精神現象を対象とした観察。
観察に基づいて、あるものはあると言えるし、ないものはないと言える。
仏教の方法論は、実は自然科学と矛盾していない。
違いは、近代科学が観察対象を物質のみに限定している(物質還元主義)
のに対して、仏教の瞑想は、精神現象と身体現象(名色)を対象としている点。
- 42 :
- 仏教について、頭で考えた概念だけで理解しようとする人たちは、
上記の点をまったく分かっていない。
仏教の実践者たちは、自然科学と同じ観点で仏教を語っているのに、
批判者の多くは文学の観点、したがって妄想概念を批評する観点で
ものを言っている。
- 43 :
- >>40
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は「比丘たちよ」と呼ばせたまい、彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのようの説いて仰せられた。
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。
比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
さてはて、涅槃とはありもしないものなのか?
それとも涅槃とは一切の外であるとブッダが明確に言ってるのか?
- 44 :
- 自我そのものが、そもそも錯覚なのに
錯覚であるところの自我が頭で色々考えて、その頭のなかの妄想概念を
こねこねしているに過ぎない。
それは、巷に溢れる迷信の宗教と何も変わらない。
- 45 :
- >>40
断見と常見というのは死後の霊的主体についてのことではなかったかな?
だから、「あるかないか見て確かめて」などいうことは不可能ですよ。
>>44
それはあなた自身が言っていることにもそのままあてはまるのですよ。
- 46 :
- 一切は無常であり、苦であり、無我。
われわれの考える一切のものは無我。
いま貴方が考えている、その思考も無我。
釈尊が説いた四諦は、苦諦、集諦、滅諦、道諦。
無常であり、苦であり、無我である一切から解脱する道を説いたのが、
お釈迦さまの四諦八正道。
仏教は、ただの断滅論ではない。
- 47 :
- 五蘊が自我だけど、自我である五蘊を生みだしている諸現象は観察で確かめられますよ。
その手法が止観の禅ですから。
- 48 :
- >>46のレスも無常であり苦であり無我、よって却下。
- 49 :
- 言葉を発するのは、常に身体ですから、そこには必ず自我が介在します。
瞑想が三昧の域に達すると、自我は消えてしまいますが、しかし、話をする時は
自我が話さざるを得ません。
だから、瞑想から見えてくる真実について、話を聞いている方は、
常に誰かの自我が無我について話す光景をみる羽目になるのです。
こうした事情があるので、禅僧は禅について聞かれても、あまり外で話を
したがらないのだと思います。
- 50 :
- ID:Xo9QHM9Mさんはまだ仏教というものが分かっておらんね。
そんな仏教の教科書に書いてあるようなことで説明がつくのなら、
大乗仏教は必要ないのですよ。
- 51 :
- わたしは自身の瞑想体験に基づいて話をしています。
経典は、あとから読んで、やっぱりそうなのかと確認するような形です。
本で読んだ知識を話していると思っているのかもしれませんが、それは
聞き手の勝手な思い込みに過ぎません。
聞き手の自我に、思い込みのフィルターがかかっているだけです。
- 52 :
- 瞑想でみえてくる、人智を超えた真実は、智慧と呼ばれているものです。
この智慧は無分別智ですから、分別智である言葉や思考で表せるものではありません。
話されたものは、あくまで智慧についての間接的な表現でしかありません。
また、智慧は体験智ですから、学問や思弁による概念智では、智慧そのものを
知ることはできないのです。
- 53 :
- >>51
私も自身の瞑想体験に基づいて話をしていますよ。
あなたもあなたのフィルターで人の話を聞いていることに気付くことが大切でしょう。
- 54 :
- >>51
ほう、ではその瞑想の体験を自我でも無我でもなんでも良いから語ってごらん。
どんな体験をしてそれがどの経典の内容と一致したのかを。
- 55 :
- 概念智で体験智を批評しようとしても、前提が噛み合っていないので、エラーにしかなりません。
- 56 :
- >>55
そうか、では話は終わりだ。
自説展開お疲れ様。
- 57 :
- >>54
そんな義務はないので、お断りします。
- 58 :
- >>57
いや、俺との話は終わりだということだ。
後は勝手にどうぞ。
- 59 :
- 自分の境地を誇りたいような気持ちがあるようでは、どんなに深い瞑想体験をしても
空しいものです。智慧は苦しんでいる人を助けるときにだけ発揮すればよいのです。
それ以外のときは石ころでいいのです。もともと何もないのですから。
- 60 :
- >>47
何故観察で確かめられるのか?
それは観察する主体があるから
その主体こそがアートマン(>>13)つまり真我
- 61 :
- >>59
自分の境地を誇りたいというより、仏教に執着しているんだと思います。
正法としての仏教が世間に広まって欲しい、という執着です。
- 62 :
- ひどいなーw
まさに↓じゃないかw
>無我もジャンクな思想に成り果てて、凡夫があーでもない、こーでもない語り、釈迦が生きていた時のアートマンと同様の害悪を生んでいる
- 63 :
- >>8
深層心理学の言葉で、自我、自己、身体、魂みたいなのがあるけど、これで無我、真我を説明するとどうなります?
- 64 :
- >>63
いくら言葉で説明しようともそれは分別智で世俗諦であり勝義の真理ではありません。
真理は言葉では表現できないので誰にも教えることはできないのです。
己の自我をもって自我に属する言葉では説明できないのです。
正法としての仏法では、自分自身で瞑想して言語で示される世界を超えた無分別智の世界に入って無我や真我を観察するのです。
金星の表面を観察しようと思ったら天体望遠鏡なり探査機なりで観察するでしょう。
真理を観察するときには瞑想で観察するのです。
言葉の壁は瞑想で超えるのです。
- 65 :
- >>63深層心理学に、自我、自己、身体、魂みじゃと?!
聞いたことがないのう
- 66 :
- また、まことのデマか?!
こういうとき、1割5分の確率で本当だったりする
- 67 :
- 初めに言葉(ロゴス)があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は、光を理解しなかった。
(ヨハネ福音書 1:1〜1:5 )
言葉(ロゴス)こそが絶対真我ブラフマンです
言葉のうちにある命がアートマンです
- 68 :
- 結局、デマだったわけかwwww
- 69 :
- >>63
トランスパーソナルとかが多分定義してると思うよ
ケンウィルバーとかのモデルを調べてみたらいかがでけうか?
ユングとかだと集合的無意識の「セルフ」が真我にあたるんかな
- 70 :
- マズローの自己実現はユングの個性化で
その先にあるのがマズローの自己超越でユングのセルフでもあるのかな
自己超越からは宗教の領域でつね
- 71 :
- 帰納法的に考えると、世界の至る所にある神秘主義を始めとしたガチ宗教は一との合一、テオーシスを志向してて、それは仏教の真如とも等しい考え方で、さらに心理学も同様の事を語るわけだ
ユングは自我と自己の差異を語る
自我は仮初め(幻想)の我で、セルフから生じている
これも自我が無我であり、有と無の二元論を超えた有としての真如が真我に対応するのだと思うわ
- 72 :
- ユング的には、凝り固まった自我ではなく、
自己に開かれた自我を求めてるんだよね?
で、はてはて、本来的なあるがままのはずの自己とは、どんなものなんだろう?
社会化される以前の赤ちゃんの意識に近い?
- 73 :
- >>64
瞑想以外には手がないの?
>>69
調べてみるよ
- 74 :
- 仏教における諸概念と心理学上の概念を比較するのは無意味でしょう。
前者は悟りの体験から生まれたものであり、後者は知識人が頭で想像
したものなのですから。
- 75 :
- ↑こういうこという椰子がいるわけだよな
だから仏陀はアートマンに無記の姿勢を貫いたんだろうな
- 76 :
- 心理学上の概念をいくら追求したところで、何らかの体系的理解を得て
分かったような気になるだけで、何の実存的問題が解決される訳でもはありません。
宗教上の概念は中観や唯識の研究中に悟りが現われることがあるように、追求する者
の意識を変容させる力があります。当然なのですが、似て非なるものということです。
- 77 :
- なんか、凄くカテゴリーエラーなこと語ってるね
ようは「行」の要素がないことが不満なの?
- 78 :
- >>73
>瞑想以外には手がないの?
合一
梵我一如は瞑想で達成するが熱烈なる帰依(バクティ)でも智に到達できるみたいよ
あなたは神を信じますか?
必要なことはただひとつ、神を知ることだ。
なぜあなたは、世界、宇宙の創造、科学などというものに首をつっこんで、 人生を無駄にしてしまうのだろうか。
あなたの仕事はマンゴ−を食べることだ。
マンゴ−林に何百本の木があり、何万本の枝があり、 何百万の葉があるかなどということを知る必要はない。
あなたは、マンゴ−林にマンゴ−を食べるために行く。 行って、それを食べなさい。
人はこの世に、神を知るために生まれる。
ほかのことに心を奪われて、それを忘れてはいけない。
あなたはマンゴ−を食べるためにやってきた。
まっすぐそこに行って、マンゴ−を食べなさい。
そして、「幸せ」になりなさい。
(ラーマクリシュナ)
- 79 :
- >>77
「行」は何の関係もありません。
仏教の「悟り」の体験から生まれた概念には、学ぶ者を悟らせようという意図が含まれて
いるのです。ですから、中観思想や唯識思想のように、それを頭で学ぶだけで「悟り」が
現われることが多いのです。「悟り」を知らない学者が頭で考えた概念とは表面的に似て
いても全く異なるものなのです。
- 80 :
- >>79
うん、だからカテゴリーエラーだよね
純粋な評論本に絵画の実践方法が記載されてないから腹を立てるようなもんだ
- 81 :
- >>80
貴方がまだ宗教・仏教というものがわかっていないということです。
一生空しい議論をしていたい人はそれでよいでしょう。
- 82 :
- >>81
水族館に行って刺身が出ないことに腹を立ててる人みたい
- 83 :
- ブラフマンとは宇宙の真理であり アートマンとは自我の魂であるとするのがヒンドゥ教である。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が合一することを梵我一如(ぼんがいちにょ)とするのであるが
自我を無と為(な)して大宇宙の一部となり 自分の中に大宇宙を取り込むことを解脱とも言う。
例えば 大海の中に塩で作った人形を入れるとする。
当然ではあるが塩は水に溶けて流れ出し 大海の一部と化す。
海には塩分があり 塩人形は自然に海に合一すると考えるのが梵我一如である。
座禅も同じであろう。只管(しかん)に打座(だざ)し無となる境地 これが梵我一如である。
鎌倉時代に一世を風靡した踊り念仏 それを始めた一遍上人も同じ考えであった。
衆生は全て阿弥陀如来の誓願により 極楽往生は決定しているとし その計らいに対する喜びを踊りで表現したのである。
無我夢中で踊り狂えば一種のトランス状態に陥り 煩悩多き個体が無と化して大宇宙に帰一すると考えたのである。
「唱うれば我も仏も無かりけり」の心境であろう。
神道で言う巫(かんなぎ)も同じである。
祝(ほうり)とも言うが神に仕え雅楽(がらく)を奉じ 神降ろしをする意味を持つ巫は表形文字である。
T字型の木型を人が2人でギッコンバッタンを繰り返すうちにトランス状態に陥り 神懸(かみが)かりなって託宣を告げる。
或いは憑依して神に替わって指令を下すのである。
この神職を務めたのが卑弥呼であり日巫子(ひみこ)とも書く。
即ち 梵我一如を達成した人間が大宇宙を司どる神の心中に入り そのご託宣を承って告げるのである。
その意味を考えればモーゼ、ノア、キリスト、ムハンマドたち一神教の預言者も 神の言葉を承るには梵我一如となる修行を積んだのであろう。
http://ameblo.jp/nobuyuki22/entry-11288237388.html
- 84 :
- >>83
と紹介したブログには書いてあるけど
一遍上人の合一は踊り念仏以前に念仏を唱える時に既に合一されてるね
梵は阿弥陀仏
我は念仏を唱える衆生の阿弥陀仏への念
一遍『十一不二頌』
十劫正覚衆生界(じっこうしょうがくしゅじょうかい)
一念往生弥陀国(いちねんおうじょうみだこく)
十一不二証無生(じゅういちふにしょうむしょう)
国界平等坐大会(こっかいびょうどうざだいえ)
(意味)
十劫の昔、阿弥陀仏は、仏となる前の法蔵菩薩の時代に、すべての衆生が救われなければ私も成仏しないと誓いをたて、その誓いが叶って正覚し成仏した。
だから、衆生は一たび阿弥陀仏の名を念ずれば救われて弥陀国(極楽浄土)へ往生できる。
十劫の昔、法蔵菩薩が仏になったことと、現在の衆生が一回の念仏で極楽往生するのは同時である。
阿弥陀仏の極楽浄土と衆生の娑婆世界は一つであり、どちらの世界にいても阿弥陀仏の法会に坐していることになる。
この頌は時宗及び一遍上人の念仏観を見事に表現したものだと言われています。
特に十一不二証無生の後には『死』という言葉が省略されているといわれ、
「生もなければ、死もない、我々も無ければ佛もない。
我々は阿弥陀如来とお念仏によって向かい合うのではなく、生死や偶像的仏をも超越した名号世界の中で一つになっている。」
と理解されている。
http://fusyoin.com/jisyunituite.html
- 85 :
- 最近、とても面白い記事を読みました。
人は、無我を悟ると苦しみが無くなるのだそうです。
その理由を、読んでビックリ…
苦しみを受ける(感じる)自分というものが消えて無くなれば、
その苦しみも無くなってしまうはずた、と言うのです。
この話を読んで、次のようなことを連想してしまいました。
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/eaef4818c31d647af1259d47d0511d69/?cid=e6a843192fde408837fd303105d67d3d&st=0
- 86 :
- (これはアートマンに)「非らず、非らず」でしか捉えることができないアートマンは大乗仏教の空に似てないかなあ?
空もあらゆる存在を否定して否定しぬいたところに出てくるもので
サンスクリット語でプラバースラワ
その意味は難しくは本性清浄光明だが要するに「光輝くもの」である
龍樹の大智度論によると空とは
空即是涅槃。涅槃即是空。
である
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm
要するに空とは「光輝くもの」であり「涅槃」である
空とアートマンの類似性はともに一切を否定したところで捉えることができるのもので光浄で涅槃であるところ
正しくはアートマンはブラフマンと一如になって涅槃だけど一如になるというのも無分別で空であるといえるかな(仏教側からの見方だけど
というよりも密教に先駆けて般若経などの空の理論の時点でバラモン教をけっこう取り入れてるのかもしれないね
- 87 :
- 般若理趣経
十二段 (有情加持の法門) 外金剛部の巻
ここで、大日如来は自らの姿に戻られて、「世の一切の有情(生きとし生けるもの)は互いに加持し合う」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
これは現象界にある諸々の低い次元の神々(外金剛部の諸天)に力を与えて悟りを獲得させるための「四種の蔵性」と呼ばれる。
@ まず、一切の有情は、その本質において、如来となりうる清浄な可能性を内に蔵している。
これは如来蔵と呼ばれる。
なぜならば、大日如来のあまねくゆきわたる光明は、一人一人を離れて、全一なる一切我として、広くあちらこちらにゆきわたっているからである。
これは普賢菩薩の徳として人格的に表現されている。(大円鏡智)
略
かくて、如来や菩薩のはるか外にある仏法の守護神である外金剛部の諸天も、
自己の本質において、宇宙そのものである大日如来の化身であることを悟り、大日如来自身の境地に入り、歓喜の声をあげ、
より一層に「有情みな加持す」という真理を明かにしようと考えて、「金剛のごとく不壊にして自由なる真理」を一字で表わす聖音「チリ」を唱えたのであった。
- 88 :
- http://www.ab.auone-net.jp/~masami/risyukyoyaku.html
より
この般若理趣経十二段により
大日如来がブラフマン
如来蔵がアートマン
という関係如来蔵あることが何となく分かる
それよりも素晴らしいのは
仏法の守護神である外金剛部の諸天
(明王や金剛薩埵に調伏され仏教に帰依し仏教の守護神となった天部の神々だが、元々外教の神なのでマントラの外側に描かれる立場の低い神だった)
も自分達も如来蔵があり大日如来の化身であることを知って歓喜のあまり清音「チリ」を唱えるところ
この諸天は我々凡夫の象徴と言っていい(仮にも天部に住する諸天には失礼ではあるが)
我々凡夫にも如来蔵があり本質的には大日如来なのだからそれに目覚めて仏道を成じることを勧めているわけだ
- 89 :
- 大日如来はキリスト教でいうところのキリストっすね
- 90 :
- 67 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/02/27(月) 11:36:42.54 ID:N/lxA3B4
初めに言葉(ロゴス)があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は、光を理解しなかった。
(ヨハネ福音書 1:1〜1:5 )
言葉(ロゴス)こそが絶対真我ブラフマンです
言葉のうちにある命がアートマンです
- 91 :
- 言葉のうちにある命ってなんなんすかね
命って語源的には「霊の息」ですよね
生命とは少しだけ違う
キリストの語る「いのち」がまだ掴みきれてない
- 92 :
- まず、口語訳では言葉と訳されてるロゴスの解釈からですかね。
ロゴスはギリシャ語ですが、全世界のどの人でもその訳に苦労したそうです。
日本では「言」と訳するまでは、カシコイモノ、真理、叡智、力、知恵などの候補が上がったそうです。
ヨハネ以外は創造主とか主とかの言葉を用いています。
ブラフマンは宇宙、宇宙の真理・法則、人格神ブラフマー(梵天)になると創造主ですかね。
そしてヨハネの福音書では、ロゴスである創造主によって命が創られたのを言葉のうちに命があったと表現し、
命は人間を照らす光であったとありますから、見ようによっては真言宗の自性清浄論と同じと言えるかもしれません(笑)
- 93 :
- 90.
言葉は記号である。
命、真我、とかは記号である。
- 94 :
- 僕の中でははじめに言葉があった、の言葉はイデアと同義ですね
いのちは霊魂を指すんだろうけど、そこに生命も足されてるような気がする
- 95 :
- >>93
それは仏教的な観点
- 96 :
- あ、自性清浄論をちらと調べてみたらなんとなく今より分かりそうな気がしました
ありがとうございます
- 97 :
- 95.
存在は記号として表現されることになる。
それらを否定したものが仏教である。
- 98 :
- じゃあ記号とった後にそこに残るもんを観察すればいいじゃまいかw
- 99 :
- 98.
それは科学である。
宗教は、それらを否定することになる。
そのための記号が、無我、である。
- 100 :
- 仏教もある意味で科学でそこが仏教のいいところなのに仏教を語る人間がそれを知らないのはどうかと思うわw
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