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真理の考察をしないか?


1 :2016/04/04 〜 最終レス :2018/04/05
大学・大学院の6年間、自分なりに仏教学を中心に宗教を学んでそれに沿って真理の考察をしてきたが、未だに漠然としているわけです。
自称勉強をしてきた人希望ですが、真理という概念の考察をしませんか?
よろしくお願いします。

2 :
1です。
議論を中心に様々な視点から考察していきたいので、聡明な方が来られる事を待ち望んでおります!

3 :
議論のとっかかりとして、
まずあなたの真理観を提示されたらどうですか。

4 :
ただ真理と言っても、仏教の真理なのか、キリスト教の真理なのか、
自然科学の真理なのか、何をどう話したらいいのだろうか。
 
中道、四諦八正道、十二支縁起などが真理なのかどうなのか。
龍樹の中や空が真理なのかどうなのか。
いったい何をどう話したらいいのだろうか。
 
それとも真理そのものを定義するのだろうか。
テーマが漠然としていてわからない。

5 :
ご意見ありがとうございます!
そもそも私自身の理解として、真理は一つでもなく全てでもなく、人智の及ぶものではないものだと考えてます。
人智の及ぶ時点で、それは一つの理論でしかないと言えます。理論は真理でないのは言わずもがなでしょう。
しかしながら真理を考察するには、理論を持ってそれを利用するしか考察出来ないのが現状です。
そのような前提を持って色々と語り合えたらなぁと個人的には思っているのでございます!
捉えきれない真理というものを一旦概念化して考えると、色々な議論が出来るのではないかとも考えてはいます!

また、仏教にとっての真理・キリスト教にとっての真理等々と区分して考えることは個人的には、スレッドがただただ荒れる原因にもなるかも知れないと思っていますので、各種スレッドにて専門的なお話が出来たらとは思います・・・

ちなみに余談にはなりますが、私1は龍樹の中論の研究をしていましたので、何か専門的な質問等ありましたら気軽にお願いします!w

6 :
こんにちは。私はヒンドゥー教徒です。何人かのグルは、仏教もキリスト教も同じ真理を伝えていると言います。もちろんヒンドゥー教もです。

真理は、人知を超えたものです。だから、それまでの道のりはいくつもあります。どこを歩んでも、智慧を学んで煩悩が滅却出来たらそれでいいのです。わかりますか?

禅宗のお坊さんには理解してくれましたが、ある牧師さんに上記のようなことを話しました所、「キリスト教以外を信仰しているようじゃ救われない」と言われました。理解してくれる牧師さんもいらっしゃいましたが、彼はいわゆる原理主義者だったのでしょう・・・。

確かにキリスト教の教えで人は救われます。ですが、この教えだけが正しいと言うべきではありません。私は、宗教の壁を超えて、同じ真理を探究出来ると思うのです。

真理はひとつという考え方は必ずしも正しいとは言えないでしょう。ですが、この理解を広めていかないと、宗教を原因とした争いは無くならない気がします。

7 :
ヒンドゥー教徒の方、コメントありがとうございます!
私も同じ考え?だとは思いますが、少し補足があります!

仏教徒にとっての真理・キリスト教徒にとっての真理等、真理という漠然とした普遍なる概念をアレだコレだと区分する考えを完全に否定するわけではありません。

学問的な考察をする上では上記のような区分をするのは仕方の無い事ではあるのかなぁと個人的には思います。
そうでなければ宗教学としての学問追求にならないからです。

ただ、宗教に基づいた実践生活が舞台になると、上記の理解のまま区分して生きるとなると話は変わります。
私は仏教思想をベースとした仏教徒として日頃生活を送ってますが、仏教にとっては真理はコレで、キリスト教にとっての真理はコレという区分はしておりません。

どちらかというと、漠然とした真理の追求を実践生活を通して考察する手段として各種宗教思想を利用しているだけなのであって、そのように利用するような立場でしか居られないという一人間であるという自覚を持って生活を送っております。

私は全ての宗教の目指すべき場所は、真理の追求と、排他的思考の撤廃であると考えております。
"真理はコレである"という考えによって、同じく真理を追求する立場にある他の宗教思想を排他し、自身の思想にのみに焦点を当てる。
そのような盲目的な思想が宗教ではないと考えております。

宗教は思想であり、哲学であり、文学であり、史学であり、先人の智慧と理解を超えていくためのものでもある。そのようなものであると思います。

私が"真理を考察する"という漠然としたテーマでスレッドを立てたかと言うと、真理自体我々からしたらその漠然性を孕んだ概念でしかないという事が言えるからです。

真理を追求することは、雲を掴むようなものでしかなく、この人生の全てを賭けても達することは無いでしょう。
しかしながら私も皆さんと同じく普通の人間なので、この場で真理の考察というテーマを通して何か皆さんとお話したいという知的欲求がありますので、様々なご意見等お聞き出来ればと思っております!

8 :
ウィキによれば、真理とは次のようなものになるらしい。
 
真理とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。
ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。
 
真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語
としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。
 
西欧哲学において真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。

9 :
従って、真理の定義は次のようになる。
 
@ 本当のことだとして、ある内容が言語で表現される。
A その内容が、多くの人々によって事実であると認められるようになる。
B その時、言語で表現された、その内容が真理だと言われる。
C しかし、真理にされた事実は、言語には存在しない。
D 言語は体験した事実の報告に過ぎない。
E ある事実を体験する。→ それを言語表現 → 真実か虚偽かの判定
F 大多数が真実だと判定する。→ それは真理だと認められる。
  
自然科学 ・・・ 水は高い所から低い所へ流れる。→ 真理
宗教の場合 ・・・ 神はいる(キリスト教)、神はいない(大乗仏教)
→ いまだ真偽不明 → 真理かどうかは信仰の有無に左右される。

10 :
神がいるかいないかは真偽不明だが、仮に誰かが神に出会ったとしたら、
その人にとっての真理は「神がいること」になる。霊魂も同じであり、
霊魂体験をした人の真理は「霊魂があること」になる。
  
従って、誰かが神や霊魂を体験すれば、この問題を解決する糸口ができる。
それらを体験する方法が多少なりとも明らかになるからだ。
  
神がいないこと、霊魂がないことの場合は違う。実際には存在するのに、
その人がまだ体験していないだけかもしれないからだ。
神がいないこと、霊魂がないことの証明は決してできない。

11 :
真理というのは,一言で言えば,因果関係のことですね。
物事には原因がある。また,物事は結果をもたらす。
これは,何を為すべきか,為さざるべきか,ということにつながり,
それが道徳律。
外界を主として対象とすることで,科学。
感覚を対象とすることで,芸術。
哲学的に突き詰めることで,いわゆる「真理」という言葉でイメージするような真理,ということになるでしょう。

12 :
では,その突き詰めた「真理」とは何か?
となると,何事も変化していく,ということでしょう。

原因→結果(原因)→結果→・・・と留まることなく,次々と連なって変化していく。
だから,何かが生じるということはなく,滅することもない。生もなく,死もない。私もなく,他人もない。何者かという主体もなく,何物かという客体・対象もない。何か指摘できることは何もなく,何かを得たり,失ったり,執着すべき何物もない。

13 :
存在しないことの証明は不可能だ。
それにも関わらず、それをやろうと挑戦したのが竜樹である。
竜樹がこんな挑戦をしたのは画期的だが、それが不可能である以上、
中論には必ずどこかに論理の破綻がある。
それを見破るのは、中論を継承した日本人の義務になるだろう。

14 :
真理なんて無いもの考えてもしょうがないよ。
人によって判断基準が変わる「正しいこと」を考察したほうが有益。
まぁ2ちゃんだから、暇潰しに真理考察したいだけなのでしょうけど。
それにしても、暇潰しするにも最初から無い真理を考察するなんて、くだらないよ。

15 :
心は五感では確認できない。しかし心の存在を疑う人はいない。
この場合、「心はある」or「心はない」のどちらが真理なのだろうか。
 
心と同じように、命や霊魂も五感では確認できない。
五感で確認できなくても、それらが存在する可能性は十分にある。
霊と言われる存在は、物質ではないと言われている。
 
それから「真理」という言葉の使い方を間違えていないだろうか。
正しいと判断された知識を「真理」という。>>8

16 :
1です!
色々とご意見ありがとうございます!
真理という概念の定義自体で議論するのも面白いのかも知れませんね!

"真理はない"という意見もありましたが、真理を有・無の分別で理解すること自体に疑問を感じてしまいますね・・・
また、龍樹の中論に関する意見もありましたので、私の答えられる範囲で龍樹の中論における立場を述べさせていただきます。

まず、中論は龍樹と対立思想家との対論を大まかに歌調(シュローカ調)にして書き記しています。
対立思想家の偈頌と、龍樹の偈頌とで構成されており、1〜27章において龍樹の思想が対立思想家に対する帰謬論法で述べられています。

1〜25章にかけて龍樹は、対立思想家の"法(ダルマ)は実在である"という意見を、空でなければならない、空でなければ矛盾することになる、と帰謬論法を用いて批判しています。

対立思想家は、一切の本質であるダルマは実在すると考えており、そのダルマが業等によって別のダルマに成ると理解しているが、ダルマが実在である限り、ダルマは不変でなければなりません。

例を挙げると、十二支縁起の無明→行→識→・・・の変化は、無明が無明という実在で恒常のダルマであるなら、無明→行への変化は矛盾します。
対立思想家の意見のまま説明すると、無明は無明のまま恒常でなければなりません。
無明から行に変化することはないのです。
無明は恒常で不変なものでなければならないのですから。

龍樹は、対立思想家の"法は実在である"という部分を徹底的に否定します。
法は空である、空であるから縁に縁って変化が可能である。
"一切の本質が空である"という前提を説くために中論のような対論をしたのだと言えます。

なので龍樹は、決して"存在しないことの証明"をしたかったのではなく、
"有るのでなく・無いのでなく・有、無のどちらでもあるのでなく・有、無のどちらでもないのでもない"。
そのような四句分別を超えた空という真理の証明のをしたかっただけなのです。
中論に見られる龍樹の思想は、大乗仏教教団の思想の根底となる思想であるので、是非皆さんも興味がある方はお目を通してみて下さい!

長文失礼いたしました!

17 :
>>16
>そのような四句分別を超えた
>空という真理の証明をしたかっただけなのです。
 
誰も「空」という事実を確認できない以上、「空」という真理は
どこにも存在しないと思いますが、どうでしょうか?
 
それに四句分別したからと言って、それで真理になるわけでもありません。
四句分別は、論議領域を示しているだけだと思いますが?

18 :
龍樹は「中論」の中で、有と無を縁起させています。
中村元著「龍樹」〜 中論第五章第六詩参照
 
しかし、有と無は果たして縁起するのでしょうか。
有と言う以上、五感の対象になる、何かしら物質的な存在なのでしょう。
ところで、無はどうでしょうか? 無とは何もないわけだから、
自分の目の前にあるのは有だけになりませんか。
有だけしかないなら縁起は成立しません。
 
龍樹の誤りは、有と無を縁起させている所から生じているようです。
有は、無を相手にしたら空振りするばかりですね。
これはもちろん、龍樹の誤りの中の、ひとつでしかありませんが。

19 :
このことがあるとき、このことがある・・・中論1章10詩
これが縁起ですが、有と無が縁起してるなら「有があるとき、無がある」
ということになるわけです。しかしこれはありえません。
有があるときは有しかないからです。
 
かの有名な中論24章18詩
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたもので
あって、それはすなわち中道である。
 
龍樹は有と無を縁起させます。四句分別から、有もなく無もない。
有かつ無は矛盾する。従って、空とは後に残った非有非無(虚無)になる。
空は同時に中道でもあります。ただ、無と非有非無(虚無)は違うようです。
虚無を喩えれば、夢や蜃気楼のようなものらしいのですが、
龍樹が何を言いたいのか今ひとつすっきりしません。
人生には実体がなく、夢、まぼろし、蜃気楼の如しでしょうか。

20 :
さて龍樹は、中論2章で、説一切有部の論理的な矛盾を突き、
去るものは去らず、という奇妙な主張を展開します。
運動を否定するわけですが、これは事実に反する詭弁でしょう。
 
さらに19章では時間を否定します。
これは運動を否定することの当然の結果だろうと思われます。
 
この世から運動と時間を取り除くわけですが、そんなことをすれば、
夢、まぼろし、蜃気楼のような現実になることでしょう。

21 :
「有があるとき無がある」という意味は,死は生による,といったことなんですね。生まれたものはついには滅する。
何かを獲得したと思っても,それは結局は失われるよ,ということ。
獲得の結果,喪失がある。喪失の原因に獲得がある。

22 :
上の,変化,因果関係という意味が最も本質的に意味のあることなのですが,
言語・概念的な意味でもやはり,有無は相互関係しています。
例えば,病気とは健康の不在ですが,このように有無は関係しているわけです。健康を失わないと健康に気づかないんですね。
これは言語機能的なもので,あることを認識するには,反対概念を中心とした,「そうでないもの」「そこから排除されるもの」が必要で,それらはどうしてもお互いにお互いを必要とする関係にありますね。

23 :
人生、夢、まぼろしと来れば、信長が好んだ幸若舞の「敦盛」でしょう。
 
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
 
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

24 :
日本人は古来、仏教にも深く影響されてきました。
人生を夢、まぼろしと観じるのは、仏教の影響かもしれません。
でもそれはキリスト教も同じです。
あの世を目指すキリスト教は、仏教の世界観と酷似しているのです。
 
その人が救世主になるか、売国奴になるかは紙一重です。

25 :
知りうる対象は実在ではなく
知られないものこそが実在する

知の否定によって
あるがまま
起こるがまま

知ることとはどういう事か?
という

26 :
中論3章2詩・・・実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。
自己を見ないものが、どうして他のものを見るのであろうか。
  
龍樹は、人間の眼は<見る主体>である自己を見ることができないと
主張します。これによって彼は<見る主体>を否定します。
見る主体がなければ、見る働きもなく、見る対象もないと話を展開します。
 
つまり龍樹によれば、人間はこの現実において、夢、幻、蜃気楼を見てるに
過ぎないのです。過ぎ去ってしまえばまるで夢、幻のようだし、
歴史の中に消えて行った人々のことを思えば尚更です。
理屈はともかく、こういう感性に共感する日本人は多いことでしょう。

27 :
では3章2詩の場合、龍樹のどこが誤りなのか。
実際には、自分で自分自身<見る主体>を見ることが可能なのです。
もちろん簡単ではありません。しかし可能です。
 
人間の心は、意識、マナ識、アラヤ識という三重構造になっています。
信じ難いでしょうが、その意識それぞれに身体があり、
五根(眼耳鼻舌身)が存在するのです。
さらにアラヤ識の先に、透明な丸い球体である霊魂が存在します。
霊魂には意識があり、必要に応じて触覚も視覚も聴覚も出現するのです。
これが、究極の<見る主体>であり、究極の自我です。
 
ちなみに、坐禅中に滅尽定を経て脱魂、坐禅中のマナ識が意識を取り戻せば、
脱魂した霊魂を上空に見上げることができます。
ただし、死ぬ可能性があるので指導者の下で挑戦してください。

28 :
身体から霊魂が抜けても、身体はすぐには死にません。
身体にはマナ識が残っていて、これが空中の霊魂を見上げます。
瞬間的ですが、自分が二つに分かれるのです。
 
その結果、マナ識にある見るはたらきで、<見る主体>である霊魂を
見ることができるのです。
見るはたらきは、自らの自己を見ることができる ← これが真理です。

29 :
まだ霊魂体験をした人はほとんどいません。
しかし、霊魂体験をする方法はすでに明らかにしました。 
従って、霊魂が存在する ← これも真理です。
 
人間の中に霊魂という実体が存在する以上、 
→ 龍樹の「中論」に基づいた大乗仏教はどれもこれも成立しない。

30 :
中論18章1詩・・・もしも我(アートマン)が五つの構成要素(五蘊)で
あるならば、我は生と滅とを有するであろう。
もしも我が五蘊と異なるならば、我は五蘊の相をもたぬであろう。
(注)五蘊とは色受想行識をいう。
 
人間の中には、常住の我(アートマン)である霊魂が存在します。
しかし、龍樹は霊魂体験がないため、8詩後半の我の定義を間違えます。
身体(色)がなくても、霊魂には受想行識があります。← これが真理です。
龍樹の定義では、霊魂が排除されています。
 
身体があるから生と滅がある。身体がない霊魂には生と滅がないのです。
この霊魂が、キリスト教で言われる「永遠の命」に該当します。
それはイエスと無関係であり、坐禅によって体験できるものなのです。
逆に言えば、坐禅以外では絶対に体験できません。 

31 :
中論27章17詩・・・もしも一部分は神的で、一部分は人間的であるなら、
無常でもあり、常住でもあることになるであろう。
しかし、そういうことは理に合わない。
同章18詩・・・もしも無常と常住の両者が成立するならば、常住でもなく、
無常でもないということが、欲するがままに、成立するであろう。
 
人間は霊魂と肉体から構成され、霊魂は常住であり肉体は無常なので、
龍樹が理に合わないと考える17詩と18詩が常に成立します。
 霊魂(神的) → 常住 → 無常ではない・・・常見とも不断とも
 肉体(生滅) → 無常 → 常住ではない・・・断見とも不常とも
 
仏教は「不断不常の中道」を宗旨とします。
従って、人間に霊魂があることは、仏教の宗旨に沿ったものなのです。
霊魂を否定すれば、断見外道に落ち、仏教の否定になります。

32 :
良心こそが真理

33 :
非有非無の「空」など存在しないのです。 
大乗の「空」は、事実の裏付けがないので、虚偽ないし誤謬になります。
もうこんな話は卒業しようじゃないですか。
こんな所で停滞していてはいけない。 
まだまだ先があるのです。

34 :
個は存在しない
全てが消滅しても残る
破壊され得ず、触れられず、変化しないそれ

実際それだけが唯一の実在であり、究極の救いなのだ

35 :
>>25 >>34
謎めいた文章ですね。
凡人にもわかるように語ってくれると有り難いです。

36 :
不断不常の「中道」とは何か。
 
人間は霊魂と身体(物質)を生きているのだから、
霊的なことばかりに没頭するのではなく、身体の世話もしなければならない
ということでしょうね。
 
そういった意味で、信者の布施に頼って生活する仏教の在り方は疑問です。
十一献金で生活しているキリスト教の神父や牧師も同じ。
どんな人であっても、世間で働けるうちは働くべきなのだと思います。

37 :
僧侶にしても、神父や牧師にしても、
お金が貰える方に心が向い、媚びへつらい、ウソをつき始めるのです。
世の中で誰が一番堕落するかと言えば、
仏教の僧侶とか、キリスト教の神父とか牧師になるでしょうね。
 
彼らは因果な商売をやっているのです。
世間はつらいけど、世間で生きる方がよっぽど幸せです。

38 :
>>36
【タイの民衆はなぜ熱心に僧の托鉢に応えるのか】

タンブン(功徳を得る、徳を積む)にはさまざまな行為があるが、寺院を建て、土地を寄進することが最高のものである。
これはかつて王侯貴族が盛んにおこない、現在は富豪にのみできることだが、
村の祠堂の修繕や新築に少額の寄付を寄せ合ったり労力を提供することは、庶民も日頃おこなうところである。

毎朝、托鉢僧に食物を捧げることや、折にふれて僧に衣や日用品を供与することは、庶民に一般的なタンブンである。 
僧の方からは托鉢を、「衆生を喜ばせる行」とよんでいる。
在家者にタンブンの機会を与えるために僧がわざわざ出向いていくという発想である。
http://www.alter-magazine.jp/index.php?%EF%BD%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%86%B1%E5%BF%83%E3%81%AB%E5%83%A7%E3%81%AE%E6%89%98%E9%89%A2%E3%81%AB%E5%BF%9C%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BD%9E
信者の布施に頼って生きてるのではない。
信者のほうが功徳を得る機会を僧の托鉢という布施行に頼っているのだよ。

39 :
>>38
微妙な問題ですね。かりに信者の側は純粋だとしても、
僧侶の側には甘えが生じます。
 
その甘えから、信者へのウソや媚びが始まるのではないでしょうか。
僧侶も神父も牧師も兵糧攻めには弱いのです。
そしてここから、宗教の腐敗が始まるのではないかと思います。
 
布施や献金に依存しなければ、毅然として真理を語れるはずです。
財界の政治献金が、政治を歪めるのと同じ構図ですね。

40 :
>>1 さんはどうしたのでしょうか。
 
中村元氏は次第に、龍樹から原始仏典へと軸足を移したようですね。

41 :
ではここで、わたしの考える四区分別を示しましょう。
 
@ 神(命)は存在する。
A 物質も存在する。
B 神かつ物質が生き物である。生き物には霊魂(形ある命)が存在する。
C 神でもない物質でもない世界もある。それは霊界である。
 
これが正しい四区分別であり、真理です。
神と物質は縁起しており、本当の「空」はここにあるのかもしれません。
しかし、神や物質がある限り、世界は「空」にはなりません。
ビッグバンで、神と物質が「空」から誕生したのです。

42 :
ボクは真理というか神というか悟りというか
そういうものについては垣間見た、というか一応の理解はしたつもりなんだけど
これをネットで、特に2ちゃんねるで議論・考察するのは難しいと思いますね

それでもあえて言うなら真理とは神の導きですかね・・・
ちなみに真理から最もかけ離れているのが自我(エゴ)になるのかなあ?
ここらへんは言葉の解釈でまったく違う意味で捉えられることもあるので、なんとも難しいですが

43 :
>>42
事実や体験によって正しいと判断された知識が真理ではないでしょうか。
水は高い所から低い所に流れる。これが真理です。
そういった事実が観察され、体験できることが真理の必要条件です。
十分条件は、多くの人々がそれを認めることです。
 
ですから、言葉だけ議論だけで真理に到達することは不可能です。
その反対に、それが真理であることを事実や体験から知っている人々は、
議論する必要も考察することも必要ないわけです。
ではなぜ真理か否かが問題になるのか。
 
真理は、その事実やその体験をする道や方向を教えてくれるからです。
イエスは神である → これは真理ではなく虚偽になります。
誤謬ではなく、パウロによる意図的なウソです。

44 :
http://www.welovecayce.com/astronomy/wakuseitaizai.htm

45 :
>>43さん、それは宗教的な意味での真理ではなく科学分野での真理です。
このスレをちょっと読めばわかると思いますが、ここで定義される真理というものは哲学や宗教における真理であると判断できます。

ちなみに水は必ずしも高いところから低いところへは流れません。
それは重力があるからです。地球の重力が働かないところで観察すればそうではないことがわかります。
我々より遥か高いところにある月や太陽が下に落ちてこないのと一緒です。
そのことから観察された事実が必ずしも真理に沿っているとは言えないのです。

まあ、いずれにしてもこれだけレスがつかないうえに、>>1氏の書き込みも見受けられないということは
このスレはあまり必要とされていないということでしょうか。
真理というものは知らないほうが幸せなこともたくさんありますからね。

46 :
>>45
そうおっしゃるが,「月が下に落ちてこない」のをあなたは観察して
「水は必ずしも高いところから低いところへは流れません」というのだし,
観察し,事実認定するからこそ何かが真理かどうかが分かるんでしょうね。

47 :
>>1さんの考える真理は、中論を研究していたわけだから「空」ですね。
中論は仏教議論スレでかって盛んに議論されました。
しかしこの板には、中論を読んだ人が少なすぎます。5〜6人程度でしょう。
理解できた人となると、2〜3人いるかいないかでしょう。
だからレスがつかないのだと思います。
 
わたしの興味は、中論を否定したらスレ主がどう反論するのかでした。
しかし、何も反論がないので拍子抜けしました。
中論はそれだけ難解なのでしょう。
 
水の話は、もちろん地球の重力が前提になっています。
この話で言いたかったのは、科学的真理も宗教的真理も同じであり、
真理は外的現実や心的体験に一致すべきだということです。
神も霊魂も、心的に体験できるので真理になります。

48 :
>>47
ふむふむ、なるほど。言わんとしていることが分かったような、分からないような…
私はそんな頭はよくないので、相手の言わんとする意図やどういう人物像であるかがはっきりわからないと混乱するだけです。
やはりこのような場所での真理追求は難しいですな。
あなたと私だけでの話し合いなら少しは話しが進むかもしれませんが、それはスレや時間の浪費でしょうし、そこに意味があるとも思えません。
やはりこのスレはここまでか。1氏がもう少し音頭と方向性の舵取りをしてくれればまた違った展開になるかもしれませんが。

49 :
つぐないのセックスは、聖母を冒涜しているの
ではなく、聖母に捧げる霊的花束なのに!

50 :
形式知を有効にするには暗黙知が不可欠
って言う事は、、、コミュ力(嫌い・苦手人
時には粗暴的人との対峙)(修業)、身体性
男性性、知行一致、経験主義、文武両道
「書を棄てて街へ出よう」、、、、、東大引き隠り
なんかもっての他、、、、、って言う事は
2chでの議論は、、、、、形式知(お勉強知識)は、、、、、
現場、同和部落、ブルーカラー、第一次産業、警察、自衛隊
消防、職人、芸人、サーカス、スポーツ
の言語、相似性を体現しなくちゃ。高いレベルの真理
の運用し誤る。理屈人間に身体性付けるより
身体性ある(素直な)人にチエ付けさした方が
運用上はやい。

51 :
暗黙知。非言語化を下に見るなかれ
一子相伝、(宗教以外でも)儀式、、、、、
民話伝承なんか公務員労働組合の覚え書き。
裏〇●と同じ、、、、、今や労働形体の激変もあるが
徒弟制(奴隷制)が修業そのもの、だから
〜世代、戦争第一世代、第二世代辺りまで
は身体性の不足、知識偏重の人間。〜の引き隠り問題が
ほぼなかった。逆の問題はあったが、今は当然減った終わり

52 :
しょぎょうむじょうじゃ💛

53 :
[拡散希望!]
参考になりそうなURL送っておきます
電磁波による拷問と性犯罪
http://denjiha.main.jp/higai/archives/category/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E
公共問題市民調査委員会
http://masaru-kunimoto.com/
この方たちは集団訴訟の会を立ち上げてマスコミに記事にしてもらう事を目的に集団訴訟を被害者でしようという試みを持っている方達です
訴訟は50人集めてしようという事なのですが50人で訴訟をすると記事に書けるそうです
記事には原発問題を取り上げてテク犯被害を受ける様になった大沼安史さんらが取り上げて下さるそうです
大沼安史さんがテク犯に遭っているという記事
http://ameblo.jp/hilooooooooooooo/entry-11526674165.html
大沼安史の個人新聞
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/4/index.html
この方たちは電話相談等も受け付けている様で電話番号を載せている方達は電話かけ放題の契約をしていますのでこちらから電話して本人にかけ直してくれと頼むとかけ直してくれます
音声送信被害等を受けている「電磁波による拷問と性犯罪」の記事の水上さんは年金暮らしなので時間には余裕があるそうで被害内容の話等を聞いてくださると思います
もう一人の電磁波犯罪には遭っていない国本さんという方は電磁波犯罪をしっかり理解されている方で年金暮らしの方なので長電話も大丈夫です
大沼さんはこちらのページからメールを受け付けておられる様です
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電話をかけたい場合は人によってはメールで電話番号を訊くと教えてくれると思います
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54 :
結局、身体性ないから相手の増長を許し悪を促し
悪を増長させる

55 :
チカンで大声あげると言う身体性
まあ、カツあげ相手にタンカきるのも身体性
だから、匿名性内弁慶自称理論家は(苦手な)身体性

56 :
縁起再考 〜 その1 <主体・働き・対象>

まず見る主体があって、そこに見る働きが生じ、見る対象を識別します。
これが見るという行為のプロセスになります。
見る主体 → 見る働き → 見る対象 という流れですね。

この流れは、坐禅おける滅尽定によって明らかにされます。
滅尽定は、意識から五感の対象を消滅させ、意識さえも消滅させることによって生じます。その時、まったくの無我かと言えばそうでもないのです。

滅尽定からは、何も意識できない状態から、突然見る対象を目の前にして、
そこから受ける強烈な感覚を意識します。従って、
見る対象 → 見る働き → 見る主体 という流れになります。
どういうことかと言えば、見る対象の有無によって、見る働きの有無が左右
されるわけです。見る主体は滅尽定の間も存在しているのです。

57 :
表面的に言えば、滅尽定は全身麻酔とよく似ています。
意識を失ったからといっても、見る主体は存在しているのです。
しかし滅人定と同じではありません。

坐禅における滅人定は、神界を通過し、自分の意志で地上に帰還します。
これに対して全身麻酔は、薬を使って最初から最後まで受動的に
進行します。これが滅人定と全身麻酔の違いです。

全身麻酔では悟りになりません。麻薬では決して悟れないのです。
サイケデリックな夢を見ても、それは悟りではありません。

58 :
縁起再考 〜 その2 <釈尊の縁起>
 
釈尊の教えに四諦八正道(苦集滅道)があります。
苦諦 ・・・ 一切は苦であるという真理
集諦 ・・・ 苦には原因があるという真理
滅諦 ・・・ 苦は滅するという真理
道諦 ・・・ 苦を滅する道があるという真理 → 八正道
 
これは、原因があるから結果があり、原因がなければ結果もない、
という原因結果の関係であり、時間的な縁起です。
これなら普通にわかりやすいでしょう。
龍樹の難解な相互依存の縁起とは明らかに違います。

59 :
縁起再考 〜 その3 <龍樹の縁起>
 
龍樹の縁起は、善悪や清濁や美醜など、対になって相互依存する
対義語(相依性)を問題にしています。
善があるから悪があり、善がなければ悪がない、という此縁性ですね。
こういった縁起は「空」であると宣言します。中論24章18詩
 
また、運動や時間、主体や作用や対象を否定してしまうので、
この世界には有性のある実体などどこにも存在せず、
その結果、此縁性は成立しないとも宣言します。中論1章10詩
縁起とは無関係に、この世界は「空」なのです。
言い換えれば、この世界は夢や幻のようなものなのです。

60 :
縁起再考 〜 その4 <本当に実体がないのか>
 
人間は、対象になる事物の善悪を判断しながら生きています。
その判断が「空」であるなら、判断自体の意味が消滅し、
生きることができなくなってしまいます。
 
それよりもなぜ、最初から善悪や美醜などという判断基準が
人間の中に存在するのでしょうか。
これは、人間が最初から何らかの実体を持っている証拠なのです。
人間は潜在的に、真善美などのイデアを知っているのです。

61 :
縁起再考 〜 その5 <人生は夢や幻なのか>
 
龍樹は、人生は夢や幻のようだと言います。中論17章33詩
でもこの主張は大間違いです。
 
時間は過去から未来に向かって流れています。
人間は、その流れの先頭に立ち、今という一瞬を生きているのです。
この現実においては、そこが常に人間の居場所です。
 
刻々と流れ去る時間は、記憶の中にしまい込まれるのです。
それによって生々しい現実が、夢や幻のように変化して行くのです。
時間の変化を無視、現実を夢や幻のようにしたら大間違いです。
まるで死人のように生きることになります。

62 :
龍樹は縁起をどう考えていたか。

中論1章10詩 それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には
有性(有ること一般)が存在しないが故に、
<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。

この詩から、龍樹が縁起自体を否定していることがわかる。
犬と猫は縁起していない。にもかかわらず、犬も猫も空であると言うのは、
犬も空、猫も空だからであって、別に縁起しているからではない。
縁起とは関係なく、犬も猫も空なのである。

この宇宙のあらゆる事物は、相互に縁起しているから空なのではなく、
有性がない、実体がないから空だと言っている。

63 :
龍樹の主張には普遍性があるのか。

彼は、説一切有部を論敵とし、有部の言語矛盾を指摘することで、
自説の空論を展開した。すなわち有部の、一切の法には実体がある、
という主張を批判することによって空論を作り上げた。

要するに龍樹は、事物に実体があるかどうかを、実際に体験した
わけではなく、頭の中で想像したに過ぎないのである。
そのため、法には有性ありという有部の欠点が、反対に鏡に映るように、
法には有性なしという龍樹の欠点になって復活している。

64 :
有部の問題は、概念にも実体を認めたことではないだろうか。
龍樹はその矛盾を不去不出などによって突いている。
しかしかりに、この世に実体のある事物が1つでも存在するならば、
中観派の空論は崩壊してしまうわけだ。

その例をひとつ挙げよう。あなたには信じられないだろうが、
人間には霊魂という実体が存在する。
坐禅の滅尽定に入ることで、霊魂を体験することができる。
しかしもちろん、実践しなければ体験できない。

65 :
霊魂は、坐禅の滅尽定を通過しないと体験できない。
それは丸い透明な球体であり、そこに極めて鮮明な意識や感覚が存在する。
霊魂は意識や感覚の入れ物になっている。

認識する対象があれば、意識も触覚も視覚も聴覚も即座に出現する。
それも日常レベルの何百倍何千倍の繊細さだ。
周囲は痛いほど清浄な世界なので嗅覚はまったく働かない。
食べる必要がないので、口がなく、味覚も働かない。

その状態に不安を抱いた瞬間に、意識は坐禅中の身体に戻り、
斜め上空に浮かんでいる自分の霊魂を見ることになる。
これが人間の究極の実体だね。これが体験できれば成道だよ。

66 :
そこは白い霧の世界だよ。
その世界を透明な霊魂が猛スピードで走り抜ける。
猛スピードなのに、霧の一粒一粒が数えられるぐらいの触感がある。
無数の霧が霊魂にぶつかり、何とも爽快で気持ちいい。

67 :
バラモン正統派は、人間には実体がある(アートマン)と考える。
しかし仏教(非正統派)は、人間には実体がない(空)と考える。

坐禅の滅尽定から霊魂体験ができたということは、
人間には実体があったということになる。
人間の身体には、霊魂という物質ではないものが存在する。

つまり、空を説く仏教の誤りが証明されたわけだ。

68 :
釈尊が何を体験したのかは定かではない。
しかし、成道した時に満月を見たとも伝えられている。
この満月が霊魂であった可能性は高い。

輪廻の機微に関しては未だはっきりしない。
シルバーバーチ霊やマイヤーズ霊などの霊界通信によれば、
霊界では輪廻を支持する霊がかなりいるという。
他方、それを信じていない霊もいる。

釈尊の修行は、輪廻からの解脱を目的に行われた。
が、霊界でも結論が出ていない問題だから、現段階においては、
輪廻やカルマに関しては無記でもいいと思う。

69 :
中論1章1詩 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、
自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、
また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
*中村注(縁起が<不生>であることを説明している。)

難解な話だね。でも、事物の実体のことを話しているのだとすれば、
おぼろげにわかってくる。もともと事物の実体がないのだから、
原因(縁)によって、実体が生じるということはない、と言っている。

事物は原因と結果の関係によって表面的には変化するが、実体がないから、
その変化は夢や幻のようなものだ、ということなのだろう。

70 :
中論1章2詩 〜 原因(縁)は四種あると言っている。
3−10詩は、これら四種を、原因(縁)ではないと否定している。
11−14詩は、原因(縁)がないのだから結果もないと否定している。
龍樹によれば、要するに原因も結果もないことになる。

これも難解な話だね。しかし、過ぎ去ってしまえばその通りかも。
すべては夢や幻であったとしか思えない。
こういった龍樹の話に影響されたのか、この現実を夢や幻の如くに思い、
絵具で描いた絵画のように見る訓練をしているという方もいた。

そうじゃないだろうw 人間は時間の最先端にあって、時間の一瞬一瞬を
有という世界の中で生きている。時間が過ぎれば、それは記憶になり、
夢や幻の如くに思えるだけだ。今という一瞬の中に有という世界があるのだ。
若い人を虚無的にしてしまう空の思想は罪が重い。

71 :
真理を発見しました
http://p.booklog.jp/book/106489/read

72 :
中論2章1詩 ・・・ <現在去りつつあるもの>も去らない。

何だこれは? これを見たら龍樹が詭弁家ではないかと思うだろう。
ここら辺は、説一切有部の言葉の矛盾を突いているだけだから、
落ち着いて読んだ方がいい。龍樹は相互依存の縁起ではなく、
三時門破という独特の詭弁で有部を攻撃している。

過去はすでに過ぎ去ったのだから、そこを去ることはできない。
未来はまだ来てないのだから、そこを去ることはできない。
現在は過去と未来に分けられ、いずれにしろ去ることはできない。

龍樹の誤りは、時間を細分できると仮定する所にある。
この三時門破が空理空論の土台にある。

73 :
運動が止まれば、時間も止まってしまう。
その行き着く所は空である。

龍樹は、この現実は夢や幻や蜃気楼のようなものであると言う。
まさかねえ(^^)

74 :
中論3章2詩 実に見るはたらき(視覚、眼)は、自らの自己を見ない。
自己を見ないものが、どうして他のものを見るのであろうか。

説一切有部は、見る働きにも実体があるとした。そこで龍樹は、見る働きが
独立して存在するのに、見る主体を見ないではないかと非難する。
確かに見る働きを実体視したのは有部の誤りだが、それによって見る主体を
否定してしまったのは龍樹の誤りだ。なぜなら坐禅を深めることによって、
見る主体(霊魂)を見ることができるからである。

75 :
中論3章6詩 <見るはたらき>を離れても、
離れなくても、<見る主体>は存在しない。<見る主体>が存在しないから、
<見られるもの>も、<見るはたらき>も、ともに存在しない。

龍樹は結局、見る主体、見るはたらき、見る対象の全部を否定してしまう。
すなわち、六根(眼耳鼻舌身意)は存在しない、と言っている。

しかし、坐禅によって霊魂体験ができるからには、
霊魂という主体が存在し、霊魂のうちに六識が潜在的に存在し、
われわれが認識する対象も存在していることになる。

76 :
中論24章18詩 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。
それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

この個所は特に有名だが、これをどう解釈するかは簡単ではない。
龍樹は、中論1章で相互依存の縁起を否定し、2章で運動を否定し、
3章で人間の主体も、六根・六識・六境も否定している。
龍樹にとっては、地上におけるあらゆる関係はすべて空なのである。

そうであるならば、「どんな縁起でも」と言っている個所は、
相互依存の縁起、因果関係の縁起、その他縁起と言われている関係は、
どんなものであっても、すべてが空だと言っていることになる。
なぜならば、あらゆる事物には実体がなく、
実体がなければ、どんな関係であっても空だからである。

77 :
中論24章18詩 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。
それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

龍樹の縁起は相互依存の関係だと言われている。
たとえば、長短、大小、上下、浄不浄、善悪、美醜、苦楽などである。
こういった関係は、事物を比較する時に生じる認識である。
つまり、事物を分別する際の判断基準なのである。

善も悪も相対的なものであり、その実体は存在しない。
善も悪もその実体はなく、空であると考えたのが龍樹である。
しかし、ほんとうにそうなのだろうか。

78 :
中論24章18詩 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。
それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

それが善であり、それが悪であるという基準は、
いったいどこからやって来たのか。空から降って来たのだろうか、
自然に湧いて来たのだろうか。

そうではなく、人間には最初から善悪の基準が備わっている、
と考えた方が自然ではないだろうか。
そうだとすれば、人間は空ではないし、無でもない。

龍樹の主張する相互依存の縁起が、そのままそっくり龍樹の縁起を
否定しているではないか。何という皮肉だ。

79 :
真理って、人によってそれぞれ違う気がする。
あなたの真理は僕にとっての真理ではない。
僕の真理はあなたにとっての真理ではない。
万人に通用する唯一の真理は存在しないと思う。

80 :
E=mc^2

81 :
意識と想受滅 〜 その1

坐禅の最中、非想非非想処を維持すると魔境に入るが、
魔境を無事渡り切れば想受滅(滅尽定)になる。
この時、意識は消え、時間が経過してるのに、その間の記憶が飛ぶ。
何の記憶もないから何も思い出せない。これが想受滅である。
自分の意志で想受滅に到る所が、全身麻酔と異なる。

これが大乗で言う無や空に近い状態ではないだろうかと思う。
わたしの場合は2時間近くが消えた。

82 :
意識と想受滅 〜 その2

ここで問題なのは、消えてしまった意識の行方である。
それを明らかにするには、想受滅の前に何をやっていたのか、
想受滅の後に意識がどうなったのかを調べたらいい。

想受滅の前は、外界の刺激(光・音など)を避け、数息観を利用して雑念を
封じ、ひたすら意識を心の奥底に向けるように努力している。
そして魔境に現れたアラヤ識を捨てることで想受滅に到達することになる。

ということは、意識の対象である、外界、内界のすべてを切り離すことで
想受滅に到達するわけである。すなわち、意識と対象との関係が全部
切断された時に想受滅に到るのである。
ここまででは、まだ意識が消滅したのかどうかは明確ではない。

83 :
意識と想受滅 〜 その3

想受滅の後だが、神界(白い霧の世界)に霊魂が突然出現する。
霊魂は透明な球体であり、そこに自分の意識がある。
その霊魂が白い霧の中を猛スピードで走り抜けて行く。
神界は痛いほど清浄であり、底抜けに爽快だ。

霊魂はシャボン玉のように儚そうであり、水晶玉のように硬そうでもある。
その表面に無数の霧があたり、その一粒一粒を数えられるぐらいに
鋭敏な触覚がある。またそれを見ている視覚もある。
つまり霊魂には意識も感覚もあるわけだ。

意識、触覚、視覚、聴覚は確認した。しかし嗅覚と味覚は未確認。
神界は清浄だから嗅覚不要。霊魂は何も食べないから味覚不要。
聴覚については別の機会にいずれ説明しよう。

84 :
意識と想受滅 〜 その4

想受滅の前と後から、想受滅の間も意識や感覚が存在しており、
それらは潜在的に存在していたことになる。
ただ、対象が全くないから意識や感覚が働かなくなるだけ。

これが何を意味するかは微妙なものがある。
1 神であっても、対象が全くないなら想受滅に落ち込む?
2 神は神ひとりでは存在できない?
3 神と大地が同時に誕生したビッグバン説の可能性が濃厚になる?
4 存在にとって常に対象が必要なら、龍樹の縁起説が成立する?

5 霊魂と意識との関係は、入れ物と中身の関係になる。
6 言葉は、対象 → 意識 → 判断 → 言葉 の順序で登場する。

85 :
>5 霊魂と意識の関係は、入れ物と中身の関係になる。
これが本質的な、存在と意識の関係だと思う。
 
>6 言葉は、対象 → 意識 → 判断 → 言葉 の順序で登場する 
言葉だけを頼りに真理を探究しようとしても、
意識そのものにも、霊魂そのものにも迫れないような気がする。

86 :
真理をついに発見 驚愕の真実
http://www.dailyshincho.jp/article/2015/10050815/

87 :
もうすでに神も霊魂も発見されたみたいよ。
新しい時代がやっと到来したね。

88 :
 テーマの壮大さに比べてレスが少ないので、投稿。

 百万巻の経典を読んでも真理は得られない。

 言葉の解釈は、読む人自身が過去に学習して得た知識を超えることが出来ないから。

 スワヒリ語しか分からない人が日本語の本を読んでも分からないのと同じ。

89 :
 上は、このサイトからの受け売り。
 http://breath-awake.com/

90 :
面白いのは最初だけなスレ

91 :
宗教における真理とは道です

92 :
宗教イコール真理イコール悟り

93 :
在家の働きによって既存宗教、地上の教会には真実からズレたものも沢山混ざっています。

94 :
 真理を、言葉や論理で追求することに興味がある人は、哲学板へどうぞ。
 
 ここは宗教板だろ。信仰とか悟りとか。
 

95 :
真理を第三者に伝えるには、
残念だが、言葉とか論理とかで語る以外にない。
本質的に真理って個人的なものなんだね。
最終的には、君も体験すればわかるとしか言いようがない。
 
しかし、真理そのものは語れなくても、
こうすればいい、こう考えたらいい、この本がいいなどと、
お互いにアドバイスはできると思う。
それが言葉や論理で追求することの意味ではないだろうか。

96 :
>>1
仏教では、真理の探究は、ほどほどに
して後は酒でも食らって眠るのが通り
相場になっているように思います。
法華経には、
     「唯仏与仏」
という有名な言葉があります。得道・解
脱・成仏して如来に成らなければ、
     「ホトケ」
がどのようなものかは分からない。
要するに、
  「真理の探究よりも、
    仏道修行の方が先だ」
ということです。
私は若い時に左翼を半年やり(元日本共
産党員)、その後、宗教に目覚めてから
はキリスト教のカトリックを約20年や
って卒業しました。今は日蓮系の伝統
仏教をやってます。日蓮さんは天台教
学を前提としますので、当然、法華経
根本の立場です。日蓮さんは道徳・倫
理・戒律にはウルサく無いので、私とし
ては気に入ってます。

97 :
>>1
キリスト教では、今でも真理の探究を
大事にしていますね。酒でも食らって
寝ろなどと言うフザケタことは言いま
せん。
イエス・キリストは裁判の場で、ポンテ
オ・ピラトに言いました。
  「私は、道・真理・命です。」
ピラトは言いました。
  「真理とは何だ!?」
イエスは無記の態度でした。この無記
は、維摩居士の「一黙」に匹敵すると思
います。
ローマ総督であるが故に裁判官でもあ
るピラトとしては、被告人から、いき
なり
    「ワイが真理じゃ」
などと言われても困ってしまいます。

キリスト教では、三位一体の神そのも
のが真理の「全て」であり、イエスは三
一神の第2のペルソナなので、敢えて
    「私が真理だよ」
と言ったのです。
宗教の世界では、「純然たる哲学によっ
てでは、宗教上の真理には到達し得な
い」と言うと思います。

98 :
沈黙こそが最強の真理だろ
これで理解できない奴やピンとこない奴はどれだけ言葉を費やしても無駄だと思うわ
そういう人らはまず真理以前の問題で、真理を本気で求めるためにはどうしたら良いのかを真剣に考えないといけない
そのためのスレであると考えた場合、俺は2ちゃん見たって答えなんて出ないよって言うわ
2ちゃんは特に有害だと思わないけど、ただの暇潰しにしかならないよ
せめて本を読むか、後は行動しろ実行しろって言うかな

99 :
一つ言えるのはこの世の真理は真逆ってことかな
これはキリストも似たようなこと言ってるからなんとなく理解はできると思うけど
望むものを求めているうちはそれは手に入らなくて、諦めたときに初めて自分のモノになるっていう
もちろん、現実はこんな単純ではないけどね
でも死があるからこそ生きている喜びがあるわけで
自分でも何が言いたいのかわからなくなってきたけど、生きているということはそれだけで素晴らしいと実感できる日が必ず来ます

100 :
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キリスト教初心者です。いろいろ教えて
東北のエホバの証人★第1会場
▼▼▼仏教は不幸な死は前世が悪いと言う▼▼▼
大川隆法が怒っている
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聖書を根底から学ぶスレ11
イスラエル ✨ エルサレム 🔯 ヤハウェ ☆ YHWH
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