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エホバの小説
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JKなんだけど親でどうしたらいいなわからない
- 1 :2015/09/21 〜 最終レス :2020/06/05
- 初心者です初めてのスレ立てごめんなさい
- 2 :
- 初めての2ちゃんスレ立てわくわくだぜ。心臓バックバク
- 3 :
- >>1
いつ頃産んだの?
父親は何やってるひと?
- 4 :
- ごめん親の宗教でって書きたかったのに間違えた…。うわ…、
- 5 :
- >>4
親の宗教のどこが問題で、どうしたいわけか?
- 6 :
- >>4
親に強制されてるのなら、高校卒業までは我慢するのが無難だな。
- 7 :
- ごめんなさいスレタイ間違えたので新スレ立てましたもしよろしければそっちで相談乗ってください
- 8 :
- >>7
IDちがうやつに言われてもな。
で、その新スレのスレタイは?
- 9 :
- >>8
名前変えられた!!
初心者です!JKだけど親の宗教に関わっちゃって話聞いてほしいってやつだけど、スレタイ変えられたのでこっちで大丈夫です。
IDはなんか規制されたのでWi-Fiきりました。
- 10 :
- >>9
話し聞くから、カキコしろよ。
- 11 :
-
- 12 :
- >>2
そうだなぁ、おじちゃんも中学2年生の頃に心臓がバックバクになったことがあるよ。
あれはたしか谷崎潤一郎の名作「卍」が僕の住んでいいる街で上映になったんだよ。
ところがその映画は成人指定でね、僕は未成年だから一応は観るのは諦めかけてたんだが・・
まあそういうことなんだけど、試しに切符を買おうとしたら、驚いたことに切符切りのおばちゃんが売ってくれるんだよ。
この時はさすがに驚いたね、なにしろ僕は中学生だからね。
まあ、おばちゃんもある意味においては心臓バックバクだったんだろうけど、
僕も心臓バックバクだったね。
おばちゃんは周囲を伺って、目撃者はいないと確認してから、僕に「早く館内に入っちまえ」ってジェスチャーしたんだよ。
それで僕もおばちゃんの好意に感謝しながら館内に入った。
そしたら銀幕に映ってたのは、かの若尾文子の後ろ姿だった。それも総天然色。
自分の裸体を岸田今日子に晒しているシーンだった。これで僕は二度目の心臓バックバクになったんだけど、
で僕は落ち着くために、館内の売店でジュースを買おうとしたんだけど、
なにしろ上映中だし、周りは暗いのでその売店には店員がいないようだった。
僕は小さな声で「ジュースを下さい」っていったらね、下の方から突然に顔がニューって出てきたんだよ。
あの時はさすがに驚いたね、まさか下から顔が出てくるとは思わないからね。
これが三度目の心臓バックバク。
まあ、なんというか、青春というもんはそういうもんだよ。多感な時期とかいうだろ。
いろんなことを経験することが人格形成に役立つ、ってことだとおもうね。じゃあ。
- 13 :
-
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長 パオ・セヤドー
「我々が密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれる
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません
同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャは永遠に変化することがない
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/reincarnation/
チベットの場合は
すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている
一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続する
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
- 14 :
- >過去と未来を掴もうとしている想いに依存して
> 今ここに戻ることが難しい
今というのを体得・会得している方はどれほどいるだろうか?
例えばですが、掃除している時は「今」ではない。
掃除するというのは、その目的のための手段の過程であろうし、それは今ではなく
目的の実践なのだ。こういうことを真剣に考えたことがあるだろうか?
(この修行を動中禅というが)
言葉の表面だけで理解したつもりであるなら、それは早計というものであろう。
ニーチェもよく勘違いされるのは「ニヒリズムに生きる」ということだ。
これも大間違いなのだ。
こういった言語に関する論理というのは、言語哲学というジャンルが扱ってきたが、
言語における無価値化・価値逆転化など、それは読む側のスキルに殆んど依存せねばならんだろう。
では道元における「只管に生きる」は、その本義は一体なにか?
あまり禅を舐めすぎてはいけない。
例えば「禅は常識的なもの」とか。とんでもごじゃらんせん。
それどころか、その常識を全く破壊しちまうのです。
この続きをまた暇なときにでも。
- 15 :
- >>14のつづき
>掃除するというのは、その目的のための手段の過程であろうし、それは今ではなく
> 目的の実践なのだ。こういうことを真剣に考えたことがあるだろう
掃除していても五感や思慮は働いてます。たえまなく休むことはありません。
だけどそれが一瞬すべてが吹っ切れる。
つまり日常という流れ(実は流れてはいない)が刹那に止まったそのとき。
廓然無聖の「廓然」というのは、この瞬間なんでしょう。
つまり僕がここで言いたいことは、坐禅をしてても五感は働いているでしょうし、思慮も浮かぶこともある。
これが人間ですね。
ですから「人間とは何か?」をまず前提としまして、それで「只管に生きる」を考えていきましょう。
ああそれからですね、業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ。
だからそういったことが正しいのか間違いなのか?この是非を考えあぐねるのも人間そのものでありますね。
とにかくその正邪については、禅では不問であります。
こういったこともこれから皆様で考えていきましょう。
- 16 :
- >>15のつづき
>とにかくその正邪については、禅では不問であります。
禅では「不問」と書いたが、それは表向きであって、実際は全て解明される。
だからこその禅であろう。
禅宗が「常識教」である。というのは大間違いなのだ。
こんな認識だから、まともなコミュニケーションも成り立たない。これが現実なのだ。
「今に生きる」とは、こういったあらゆることを凌駕せしめる無限なるスケールと言っても過言ではない。
それほどまでに究極的意味合いがあるにも関わらず、そのフレーズは、
なんと!!「今に生きる」。
これほどまでにシンプルなフレーズがあっただろうか!!
しかしながらその奥義とは、シンプルの対極をなすものであろう。
<机龍之介>
- 17 :
-
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅 ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図 ウ・ジョーティカ著 12〜13ページ参照
動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧))
過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください
http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経 第二十八章
何ものにも囚われることなく
植えさせて頂く功徳が必要である
- 18 :
-
>日常という流れが刹那に止まったそのとき
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
業(ごう)
(前世からの)
(過去からの)
心の流れ(心相続)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)
第一能変
異熟というのは
阿頼耶識(根源的な識)のことであり、あらゆる種子を内蔵している
感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する
感受は不偏であり
かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である
そして、根源的な識は 『 激流のごとく活動している 』 『 暴流の如し 』
_ _ _
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていくために
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?と
そこで、意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想は消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』
- 19 :
-
>業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/22/155033
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長 パオ・セヤドー
貪愛は
無明に依存して、初めて生起します
我々の菩薩を例にとると
彼は菩薩の生命に未練がありましたが、これは貪愛です
彼が菩薩は菩薩(という実体がある)と思っていたのは、無明です
…
(実有・実体ではない)無常という本質によって、仏陀も般涅槃に入るのです
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
- 20 :
-
>「常識教」である。というのは大間違い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
八正道(はっしょうどう)
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀法品第十八
(何かを掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察して)
八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する
- 21 :
- http://asdlkj43.blog.fc2.com/
- 22 :
- >>15のつづき
>ああそれからですね、業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ。
では何故にかような妄念が自分に示現するかというと、それは明らかなのであります。
それは人生を深く生きていないからであります。
禅ではこれを脚下照顧と言います。
先ず自分の足下から考えよう、ってことですね。
今を真剣に生きようとせば、もはや全ての妄念が寂滅します。
何故ならば、ずっとそこにあるものを自分では気づくことができない。
それを気づくことにおいてしか、それは解決できない。ってこってすね。
「今」というのは、なかなか自分では気づくことはありません。
何故ならば本来は今というのが無いからであります。
それでもなお今はずっとそこにあるのですから。
この論理矛盾を合理的に整合性を追求したのが「有時の巻」です。
ではまた・・
- 23 :
- >>22のつづき
妄念というのは霧に包まれておるような状態です。
ですから輪廻転生の是非を考えるだけでも心は疲弊してきます。
心は常に未知の領域を考えあぐねぐだけで日々は経過し、そのことだけに生きるようになります。
これでは「生きている」とは言えませんね。
ただただ亡霊に憑りつかれておるのと同じことです。
輪廻転生の是非を考える前に、先ずは脚下照顧です。
脚下照顧とは、今まで霧に包まれている状態がスッキリしてくる、その方法論です。
同じ光景を、100日・1000日見続けても、気が付かないものは10000日見続けても気がつくことはない。
ようは何らかの切っ掛けです。
>そして、根源的な識は 『 激流のごとく活動している 』 『 暴流の如し 』
暴流が、やがては表層意識にまで噴出することがある。つうことですね。
唯識的に言うなら・・・
- 24 :
-
http://budo.livedoor.biz/archives/17537944.html
脚下照顧(きゃっかしょうこ)
これは、少林寺拳法独自の教えではなく、仏教の教えでもあります
意味を簡単に言うと、「足元をよく見なさい」ということです
少林寺に関わらず、すべての武道においては
道場に入って靴を脱ぐときに、必ずきちんと靴を揃えて置くことを厳しく教えられます
靴を揃えて脱ぐ、というのも脚下照顧
でも、この教えは、もっと深い意味があります
つまり、自分の生活において、足元をよく見なさいよ、という事です
夢や理想を追うのも大事なことですが
自分の現在の姿や、置かれた位置をよく見直すことが大事だと思います
幸せを掴んだり、成功するためには
まずは自分の足元をしっかり見て、現状に対し、感謝することが大事だと思います
日々の生活に感謝していく
- 25 :
-
>表層意識にまで噴出することがある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)
種子は
阿頼耶識から
→ 末那識
→ 第六意識
→ 前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)
→ 外界へ
外界からの縁を受けて
→ 前五識
→ 第六意識
→ 末那識
→ 阿頼耶識に種子として薫習される
これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行)
このサイクルを阿頼耶識縁起と言う
- 26 :
-
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
瑜伽行唯識
有相唯識派
認識は対象の形相を有していると考えます
玄奘以降の中国・日本の法相宗は、この系統です
無相唯識派
認識は対象の形相を有していないと考えます
スティラマティは、アサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟が究極的には
識の実体性を否定したことを受け継ぎ、かつ、如来蔵思想の影響を強く受けました
無相唯識派は中観自立論証派の影響を受け
シャーンタラクシタが瑜伽行中観派を形成し、カマラシーラらに受け継がれます
- 27 :
- >>24
>夢や理想を追うのも大事なことですが
> 自分の現在の姿や、置かれた位置をよく見直すことが大事だと思います
ええ全くそのとおりですね。
輪廻転生に興味があるのは大いに結構なんですけど、それが是であっても非であっても
それにおいて心が左右されるのであれば、それは本末転倒ということであります。
禅とは、つまり「不動心」なるが故の心の解放を最高の境地とされておるんです。
まあこういう書き込みは、かの縁起一代氏と僕は真っ向に対立するのでありますが、
縁起氏などは、「輪廻があるのと無いのは偉い違い」などと言うておるようです。
僕はここのとこがどうも分からんですね。
あのですね、机龍之介が是なのか?縁起氏が是なのか?それを考える以前に自分を省みよ。
そういう意味を含んでおるのが脚下照顧なんざます。
- 28 :
- 超簡単なお話ですね。
- 29 :
- なぜ簡単な話を難しくしてしまうのかというと
頭で理解しようとしているからです。
- 30 :
- そもそもが頭で理解できないものを
さも頭で理解できるかのように述べられたものに振り回され
そして延々とその頭のままドツボにはまっていく。
しかしどこまで行っても信じられない。
- 31 :
-
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
「空」の本当の意味を深く知るには
中観帰謬派と中観自立派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです
チベットの伝統では
中観帰謬派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています
これに次ぐのが
中観自立派の見解です
それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより
究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです
では、何が両学派の見解の差なのでしょうか?
よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう
これは、両学派の呼称にもなっています
けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です
自相とは
「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで
誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いです
- 32 :
-
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
中観自立派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
− これに対して −
中観帰謬派は
そのような自相を、世俗の次元でも否定します
従って中観帰謬派の立場からすると
私たちが
(無明の暗闇に覆われて、そして
誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いに依存して)
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります
- 33 :
- >「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで
> 誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いです
ええそうです。
思い込みというのは誰にでもありますが、その「思い込み」を
自覚するのは大変なことです。
「気づき」というのは、この思い込みを気づくことにその本意があるのですが、
「気づく」ことは連鎖していくのであります。
つまり、「思い込み」だと気づいても、その「気づいた」ことが思い込みであったりするんですね。
こういった繰り返しこそが、つまり「今に生きる」ことであります。
現成公案ですね、生きることそのものが公案であると・・
- 34 :
-
机先生の場合は
何を主張したいのか? わからない
− これに対して −
>縁起氏などは、「輪廻があるのと無いのは偉い違い」などと言うておるようです
例えば
おじゃるの場合は
前世の記憶はないけど
「輪廻を繰り返している!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
(これを本当に実践するのか? は別として、考え方としては)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく
という説明の方がわかりやすい
(でも輪廻を否定してる人には通用しないでしょ?)
- 35 :
- >机先生の場合は
> 何を主張したいのか? わからない
ええ、それで結構なのであります。
禅というのは、同じ道を何度でも、それこそ100回だろうが1000回だろうが10000回だろうが、
同じことの繰り返しであります。
同じ光景が何度でも繰り返す訳ですが、そこである拍子に「なんだ、これだったのか」と気づく者もいれば
全く気づくこともない者もいる。
これは道すじに咲く花を見つけるようなもんです。
路傍の花は、おそらくは見逃してしまうかもしれません。
そういうもんですね。人生というのは。
人の出会いと同じようなもんですよ。
何でもない、ある切っ掛けを縁として男女が結婚することすらあるんですから。
チャンスみたいなもんでしょ?男女なんて。
仏縁も同じことなんですよ(笑
- 36 :
- >(でも輪廻を否定してる人には通用しないでしょ?)
僕は輪廻を否定している訳ではない。輪廻があったら大いに結構じゃないですか?
ただ輪廻というのは、それだけで価値があるものか?ということですね。
無価値なものであるならば、輪廻があっても、輪廻がなくても、無価値であることは間違いない。
ただそれだけを人生の基軸として生きるには、あまりにも勿体ない。とこう思うのです。
せっかく生きてきたのですから。
でもしも輪廻があるとして、今を精一杯生きることの方が第一優先なんじゃないですか?
輪廻というのは属性ですからね、
後からオマケで付いてくるものです。
オマケですから、精一杯生きれば輪廻の是非はもはや考えあぐねる程もなかろう。
- 37 :
-
>ただ輪廻というのは、それだけで価値があるものか?ということですね
(これを本当に実践するのか? は別として、考え方としては)
それ故に
掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に
八正道(はっしょうどう)
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される
(という説明がわかりやすい)
- 38 :
- >無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく
たぶんこういう方というのは、輪廻からの呪縛をされたままに生きておるのかと思います。
本来の自由解放というのを知らないんじゃないでしょうか?
縁起氏などは、僕のことを「一生苦しむ」などと言っておるようですけど、
考えようによっては非常に恐ろしいことです。
こればかりは考え方の違いが、その人の人生観を作りあげてしまう典型でしょうね。
そもそも仏教というのは自由解放への道筋を示したものです。
バラモン教とかヒンドゥー教とはそこが違いますからね。
もう苦しむことはありません。
どうか輪廻からの呪縛から解放されることをきぼんぬします。
本来の自由とは何か?を知るであろう。
- 39 :
-
>もう苦しむことはありません
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執に依存して
「自我(我・我所)はあるはずだっ!」と掴もうとしている想いに依存して
「過去からの心の流れ(心相続)もあるはずだっ!」と掴もうとしている想いに依存して
生老病死
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五蘊盛苦
を掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
− これを対処するために −
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく
(という説明がわかりやすい)
- 40 :
- >無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく
> (という説明がわかりやすい)
そのような結論にいたったのでしたら、その「解脱へと導いていく」そのものズバリが
禅そのものですよ。結果論ですけど
僕は自分では輪廻から解脱しているかとおもいます。
輪廻からの解脱というのは、もはや輪廻から解放された位相そのものを意としておるんじゃないでしょうか?
あのですね、こういう場合はもはや輪廻の是非は全く無問題なのですよ。
そこのところをお気づきになられましたでしょうか?
輪廻があっても、輪廻がなくても、それに全く関係ない。
これこそが輪廻解脱です。
ですから輪廻の是非そのものが戯論である。とそのように書いてあるのが中論なんです。
縁起氏の中論解釈は「戯論寂滅」までは正解でしたが、その後の中論解釈は滅茶苦茶ですよ。
いや、ここは「隠れスレッド」ですから、貴殿にだけ教えるんですけどね。
- 41 :
-
http://muisinjinn.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司
「六根六境が『滅尽』した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも
そこにおいて『ある』とか『ない』とかいった判断を成立させる根底にある『分別相』
即ち、拡散・分化・幻想化の作用である
『世界の終わり』で起こることは、認知の消失ではなくて『戯論寂滅』であるということだ」
_ _ _
_ _ _
[PDF]ダウンロード - translation-buddhisttextのJimdoページ
パオ・セヤドーの
サマタ・ヴィパッサナー瞑想 47ページ参照
十二処とは、
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)
十八界とは、
十二処に
六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)を加えたもの
- 42 :
-
[PDF]ダウンロード - translation-buddhisttextのJimdoページ
パオ・セヤドーの
サマタ・ヴィパッサナー瞑想 50ページ参照
(1)サンカーラ(行、形成作用)の性質である
消失、崩壊、解体、消滅を直接の智慧で観察しながら「無常、無常」と繰り返して観ます
(2)サンカーラの恐るべき性質である
消失、崩壊、解体、消滅を直接に智慧で観察しながら「苦、苦」と繰り返して観ます
(3)サンカーラの性質である
実体がないこと、無我、魂がないことを直接の智慧で観察しながら「無我、無我」と繰り返して観ます
(4)この間に
サンカーラの厭うべき本性ついても観察します
名色分離智を育て見清浄を得たときに
精神性の集まりとルーパ・カラーパ(物質微粒子の集まり)について究極の真実を洞察し
すでに精神性と物質性(名色)の密集を打ち破っているので
ルーパ・カラーパはもう明確ではありません
ヴィパッサナーの洞察智が非常に鋭敏で速いので
サンカーラ(行、形成作用)についての究極の真実(勝義諦)が
智慧の中に急に明らかになってきます
サンカーラの生滅が非常に高速なため
生じ、住するのを観察することはできず、消滅のみを観察します
この消滅を観察する智慧を壊滅智といいます
- 43 :
- 宗教は古代の自然科学が
形骸化したものだと最近分かった
- 44 :
-
実有・実体ではないからこそ
それ自体の自性だけで成立しているのではないからこそ
自分だけでもなく周囲環境だけでもないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
精神性の集まりと物質微粒子の集まりの仮和合が
色受想行識の仮和合が
現れ
そして、いつかは、やがて儚きものとして
地水火風空識に還元して逝くけど
仮設としての
我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る
− これを対処するために −
何かを掴もうとしている想いを手放し
微粒子を知覚して
今ここに戻って、今ここに目覚める
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長 パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
- 45 :
-
>科学
今の現代科学においても
宗教関係者も携(たずさ)わっているらしい
(宗教関係者が、今の現代科学に携(たずさ)わっても良いと思うけど)とりあえず↓これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
ジョルジュ=アンリ・ルメートル(1894年7月17日 - 1966年6月20日)
ルメートルは
イエズス会の学校で人文科学を学んだ後、17歳でルーヴェン・
カトリック大学の土木工学科に入学した
カトリック司祭で膨張宇宙論を提唱した
ルメートルは宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者とされている
_ _ _
これ以外の宇宙論もあるらしい。とりあえず↓これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96
プラズマ宇宙論(Plasma Universe、Plasma Cosmology)
宇宙的スケールの現象は
電気伝導性の気体プラズマの運動に起因する、巨大な電流と強力な磁場の影響を大きく受けている
http://wired.jp/2010/02/02/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%87%8F%E5%AD%90%E6%B5%81%E4%BD%93%E3%80%8D%E2%80%95%E2%80%95%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%96%89%E6%B0%8F%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%80%81%E8%B6%85%E4%BC%9D%E5%B0%8E/
宇宙の謎を解明するべく東大に設立された研究機関、数物連携宇宙研究機構(IPMU)の機構長である
村山斉氏は
宇宙は一種の超伝導状態になっているとの説を唱えている
http://wired.jp/2012/05/20/geeks-guide-brian-greene/
理論物理学者ブライアン・グリーンが語る「人間もホログラフィの一種」という可能性
「われわれは3次元のイメージでしかなく
このイメージはわれわれの周囲にある2次元の表面上に存在する
より根本的な情報が投影された姿かもしれない、ということだ」
- 46 :
- >>30
>さも頭で理解できるかのように述べられたものに振り回され
> そして延々とその頭のままドツボにはまっていく。
人間というのは振り回されますね。
例えば縁起氏と僕では考え方が真逆ですよ。
僕はここでどちらが正論なのか?を問い続けることはないですが、
人間というのは、振り子細工のように考え方も揺り動かされます。
人間の理性というのは、限りなく条理を求め続けます。
それはあたかもそこに真理があるかの如く、その欲求だけで心は疲弊してきます。
そして何らかの結論を見出さなければ、それこそ自分自身に耐えられなくなるんじゃないでしょうか?
そして必ずそこに自分なりの結論を出すのです。
もともとが中途半端な結論なのですから、自分はその結論にしがみついてしか自分のアイデンティティを保てない。
これが人間の本性です。
そういった人間の本性を前提としまして、先ずは原点に立ち返り、頭が知識で満杯状態を一端クリアすることが大事ですね。
つまり情報を捨てる、ということです。
そうしないと、新鮮な情報が頭に入りこむ余地さえもないですから。
「思いの手放し」ということは、こういうことなんじゃないですかね?
- 47 :
-
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
想いを手放し
次のことを始めていく
- 48 :
- >>46のつづき
>そうしないと、新鮮な情報が頭に入りこむ余地さえもないですから。
頭がクリア(澄んだ)な状態ですと、なにからなにまで新鮮そのものであります。
童心というのでありましょうか?感受性も鋭くなってきまして、心にスゥーっとなんでもストレートに入ってくるのです。
そりゃあもう、なんと言うのでしょうか?
世界がこれほどまでに美しかったのか、との印象もあるかもしれません。
しかしこんなことで驚いてはなりません。
それは序の口でして、まだまだ未知なる旅路は続くのであります。
そして何かにお気づきになるかもしれません。
でもその「気づいたこと」も、どんどんクリアされていきます。
もう僕がここまで書きましたら、僕の主張したいことがハッキリするでしょう。
つまりですね、心が何かに固執してしまったら、それから先の心は澱んでくるんですよ。
つまり腐ってくる、ということですね。
そういう腐ってる連中が掲示板にいかように書こうが、それは人の心を動かすことはできない。
なあに、それどころか、そういうレスを読む人間の心も次第に腐っちまう、という恐ろしいことにもなります。
こういうことは皆様おそらくは、ぼや〜〜っと感じているんじゃないでしょうか?
しかしその根源までは明確ではない。そうなんでしょ?
やはり因果ということですから、その原因まで深く探らなければ、その結果までは掴めんのです。
まあ、話は長くなりましたけど、これからは大丈夫です。そのような腐った書き込みはしないですから。
ではまた・・・
- 49 :
- >>48のつづき
>つまりですね、心が何かに固執してしまったら、それから先の心は澱んでくるんですよ。
> つまり腐ってくる、ということですね。
ドストエフスキーの「罪と罰」において、政治犯が処刑される場面がありまして、
その処刑前に突然減刑される。
こういった筋書において、その処刑犯の心情をつらつら書き連ねた箇所があり、これは人間の心理を上手く露呈している。
処刑前では、もう考える余裕もなく、それは緊張していると推測されるが、
毎日輪廻転生のことを考えてる連中は、このようにアタマは緊張状態です。
アタマが緊張している状態ですと、それ以外のことを考える余裕さえもなくなる。
もしかしたら、これは誰にでもあるかもしれません。それを気づくことは先ず大変なことですからね。
実は、処刑犯の突然の減刑は、我々に何を伝えようとしておったのか?
これが文豪ドストエフスキーの魅力ですよね。
まあつまりですね、アタマがイッパイの人間が、突然にそのアタマがクリアされてしまう、ということですよ。
そんなことは我々は考えもしないですが、ドストエフスキーはそれを、文学を通して我々に追体験させてあげよう、
ってんですから、これはどうしてもその作品を読まずにはおられんのと違いますか?
まあ禅というのは、こういったことの連続なんですね。
僕の好きな禅語は「無可無不可」です。
「想いの手放し」とか、そういったフレーズにおいても、文字列を追うだけではその本意というもんが掴めんということですよ。
- 50 :
-
>根源
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)思想の特色
仏教の中心教義である無常・無我を体得するために
インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した
瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である
心の動きを分類して、八識を立て、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に注目した
『法華経』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた(五性各別)
『般若経』の空(という性質)を受けつぎながら
まず識は
(空という性質に依存して
因と縁の双方の縁起に依存して
『仮設としての』という意味で)
仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする
(意識の階層について)
外界の現象から縁を受けて
→ 前五識
→ 第六意識
→ 末那識(まなしき)
→ 阿頼耶識(あらやしき)に種子として薫習される
(阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ))
- 51 :
-
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを空なりと観ぜよ
そうすれば
(『生じてくる・滅していく』という想いを手放し、そして)
死を乗り越えることができるであろう
中論觀法品第十八
八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
☆しかし
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている。真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
仮設としての、我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので
それ故に、『解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい
(例えば、唯識(ゆいしき)の場合は
誰もが(この現世において即身)成仏するわけではないことを説いた(五性各別))
- 52 :
- >>49のつづき
トルストイの晩年も哀愁に満ちてますけど、どうもトルストイ本人にとってはそうでもなかったのかな?
と、これは興味をそそりますね。
人生を長く生きてきたらこその、その受け止め方も十人十色なんでしょうけど、
もしもこういったことに関心がありましたら、是非とも研究の対象にしてください。
トルストイと妻との関係とか、晩年は清貧に暮らしたとか、それよりも根底にある彼の思想とか。
かれは一応は無政府主義者と言われてますけど・・・
トルストイの人生というのは、文化的にも非常に日本人に馴染みやすい。
何故なんでしょう?ロシア文学に嵌っちゃうのは、もしかしたら根底にはこういった親近感があるのかもしれませんね。
あともし映画に興味がありましたら、是非とも「ドクトル・ジバゴ」をお勧めしたいですね。
この作品は叙事詩的に描かれてまして、作風は「ニーチェの馬」と似ています。
退屈になるか、それとも印象に残るか、そのどちらかです。
日本人には、どちらかというと抒情的作品が好まれますね。
イタリア映画は、こういった日本人の感性にはよく合うんじゃないでしょうか?
まあそれはさておき、生きているうちに沢山の作品を読書したり、鑑賞するのが良いかもしれません。
ただ何もしないで一生を終えてしまうのは勿体ない気がしますね。じゃあ。
- 53 :
- >>52のつづき
あれは僕が小学生の頃です。当時↓の映画が上映されてましてね、僕は映画タイトルに非常に興味がわきました。
https://www.youtube.com/watch?v=05kutNCA2jc
禁じられた遊び Romance de Amor
「禁じられた遊び」って何だろう?それだけを考え続けておったのです。
これだけはどうしても僕は知りたかったのです。その好奇心は湧きいずる泉のごとし、
いてもたってもいられず、僕は金を握りしめて映画館にいきました。
そして映画を観ている状況において、僕はその「禁じられた遊び」の内容を知っていくのであります。
「なんだ、そういうことだったのか」。と、僕が想像してたのとは違ってましたが、
あのマルチェロ・マストロヤン二の哀愁を帯びたギターに心はうっとりするばかりでした。
人生というものはそういうもんです。
人間の憶測とか推測なんて、本当に狭いもんです。そういうことを僕は小学生のときに学んだのです。
当時はそんな印象しかありませんでしたけど、
大人になって改めてこの映画を観てみますと、これは反戦の映画なんですね。
ドクトル・ジバゴもそうですが、当時の映画音楽は素敵なものばかりですね。
https://www.youtube.com/watch?v=BT0qd0vTOoE
Maurice Jarre 映画「ドクトル・ジバゴ」 Lara's Theme
- 54 :
- × マルチェロ・マストロヤ
○ ナルシソ・イエペス
マルチェロ・マストロヤンニは、イタリアの男優です(汗
- 55 :
- 他スレより
> 机先生とかが
> 「止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践は必要ない」とか言ってた気がする
禅定というのは”実践”するものではない。
これは中国禅からの法灯で、日本禅においても盤珪を筆頭に道元においてもその脈絡は受け継がれている。
只管打坐もそれだ。只管に生きる、もそれだ。
ただひたすらに、一筋に、を含意するものの、それは”実践とは意を異にすることに他ならない。
非常に機微ではあるけど、またこれは非常に重要なことだ。
これは禅宗に限ったことではないけど、浄土系や日蓮宗系においても通用する。
修行においての何らかの目的意識が基底にあるとすれば、もはやそれは一切が空虚である。
<机龍之介>
- 56 :
-
[PDF]『五百頒般若経Jのサンスクリット写本 - 龍谷大学学術機関… 12/17ページ参照
『解深密経』「無自性相品」の主張の背景には
「一切法は無自性である」等の経句を字音どおりに理解することにもとづいて
「一切法はすべて無い」と損滅してしまう者たちや
『般若経』を「仏語ではない」と誹誇する者たちの存在があった
『解深密経』はこうした『般若経』の誤解者たちに対して
「一切法は無自性である」というのは決して文字どおりの意味で理解してはならないのであり
相無自性・生無自性・勝義無自性の三無自性を意図したものであると説く
その三無自性のうち
相無自性は絶対的な非存在(無)であるが
生無自性と勝義無自性は強い否定をうちに含みながらそれぞれに存在するものとみなされる
つまり「一切法は無自性である」という経句は
すべては存在しないと説くものではなく
生無自性と勝義無自性の存在性を言外に意図したものである
というのである
- 57 :
- >「一切法は無自性である」というのは決して文字どおりの意味で理解してはならないのであり
> 相無自性・生無自性・勝義無自性の三無自性を意図したものであると説く
これはそもそも間違い。中論が正しい。
無自性というのは、「自性ではない」というだけの文意しかない。
例えば「縁生ししかも縁滅す」においての定義とすれば「縁生・縁滅ではあるが、縁生・縁滅する訳ではない」となる。
これが「自性ではない」の論拠。
そもそも論理的に仏教は定義することは困難なのだ。
>龍谷大学学術機関…
とあるから、珍説を書いただけの話なのだw
- 58 :
-
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B8%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86
遍計所執性
まったく(遍く)分別(計)せられ
しかも実体あるものとして執着された性質ということであり
概念的構想によって実体のあるごとく妄想されたものをいう
依他起性
他に依って起る性質ということであって
因縁によって生起するものをいう
それは固定した実体はなく、ただ現象としてあらわれているものである
円成実性
完全(円成)にして真実なる性質ということであり、諸法の真如をさす
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%80%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86
相無自性
遍計所執性の否定的側面をいい
言葉でとらえられたもの(相)には実体性がないことをいう
生無自性
依他起性の否定的側面を言い
他の縁によって生起したものは自らの力で生じたものではないことをいう
勝義無自性
円成実性の否定的側面をいう
円成実性はあらゆる存在の究極の真理であり、そのような真理は最高の価値をもつもの
すなわち勝義であるから、また、勝義においては
すべての実体的なるものが存在しない、すなわち無自性であるから、円成実性を勝義無自性という
- 59 :
- >>58
第一義空経においては、「自性ではない」と書かれておっても、その論拠においては何も書かれていない。
また第一義空経に基づき中論は書かれたとしても、中論においてもその論拠については何も書かれていない。
つまり「縁生・縁滅」においての矛盾性を中論においては指摘したものの、
それ以上の論理整合性は今だかつてないのだ。
それはなによりも、世俗論理でもって勝義の論理性を追求するのは無理、ってことを、
中論そのものの「戯論寂滅」において既に論証済なのだ。
だから相無自性とか生無自性とか勝義無自性とかをもってしても、もはやそれ自体が戯論でしかない。
「否定的側面」があろうとどうと、それをトータルに含んだものが「戯論寂滅」なのだ。
- 60 :
- >>59のつづき
自性であるものとか、自性でないもの。とか
あるいは、実践するものとか、実践しないもの。とか
ある語意を否定するには、その語意自体を把握していなければ所詮は無理なのだ。
禅定とは実践しないものだ。と言っても、禅定はしない、という意味ではない。
むしろ実践という日常そのものの断絶こそ禅定なのだ。
とは言っても、果たして「日常とは何か?」まで言及せねばならんだろうし、そこまでやるのか?
という話になる。
しかしそれは暗黙の了承というのがある。
それが無いのであれば、もはや禅定と日常が並列であろう。どうだ。
だったらもはやそれでは禅定の意味はない。
日蓮宗の勤行でも、それはない。
もしも勤行が日常という連続性においてあるのなら、もはやそれは「乞食信心」にまで
堕するであろうし。
いくら日蓮宗(正宗も)でも、それは暗黙の了承というのがあるだろう?
それはキリスト教にしても、禅宗にしても、日蓮宗にしても共通なのだ。
- 61 :
- (つづき)
http://toyokeizai.net/articles/-/371
谷山豊:「楕円曲線はモジュラーである」
>碁盤を目の前に碁というゲームのルールを自ら考えながら遊んだというのだ。
>そばにルールブックがあるにもかかわらずである。それはルールは必然的にあるものであり、
>ならばそれを見つけられるはずだと、
>そのルール探しをせずにルールブックをみるなどとはしたくないと豊は言っていたそうだ。
>これはまさに数学者の思考そのものである。
道元の而今も、而今というルールがある訳ではない。それは自分が発見することだ。
<机龍之介>
- 62 :
- >>61のつづき
禅においては生死というのは等価としてあります。
ですから死後とかの発想はそもそもない。もしあるのであればそれは迷いでしかない。
生老病からの最終的救いは、もう死しかありませんから、むしろ死を受け入れてこそ生老病ありき、ですね。
ですから道元の而今においても、実存そのものこそ自分という世界観がそこに見て取れるのでありますが、
ここまできますと無私というのですか、もはや自分そのものが世界と一体という境涯ですね。
祖師西来意というのは、そういう境涯を言ってる訳ですから。
ここの板でいろいろ書き込みしている連中は、少し思慮深くなって真面目に考えた方が良いんじゃないか?
考えが浅いから、いつまでもアタマが纏まらんのですよ。
ではまた・・
- 63 :
-
>世俗論理でもって勝義の論理性を追求するのは無理、ってこと
それ故に↓『段階的な説明が必要である』ということ
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
世俗諦(せぞくたい)と、勝義諦(しょうぎたい)
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない
- 64 :
- >>63おじゃる氏
貴殿は「実践」という言語を何気に使っているようですけど、
実際に、実践について検索(国語辞書)かけたらいかがですか?
観行ならともかく、禅は止行ですから、止行というのはそもそも実践するかどうか調べたらいいんじゃないですか?
禅では言語の一つひとつが大変重要です。
何故なら、ちょっとした誤解が大きな誤解に発展するからです。
また、ちょっとした気づきであっても、それが切っ掛けとして大きな発見にもなることがある。
この繰り返しこそ禅なんじゃないですかね?
じゃあ・・
- 65 :
-
>観行ならともかく、禅は止行ですから、止行というのはそもそも実践するかどうか調べたらいいんじゃないですか?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長 パオ・セヤドー
止禅
刹那定(予備定)、近行定、安止定
刹那定
似相(たとえば、安般念似相)を縁にして対象としたもので、近行定の前の定において生起します
これは止観行者について述べたものです
純観行者においては、また別の刹那定があります
純観行者は通常、四界分別観から修行を始めなければなりません
もし系統的に四界分別観を修行して
彼が色聚と、一つの色聚毎の中の四界が見えたならば、彼は近行定または刹那定に到達したと言えます
_ _ _
止禅 → 刹那定 → 近行定の前の定において生起します → これは止観行者について述べたものです
純観行者 → また別の刹那定があります → 四界分別観から修行を始めなければなりません
→ 彼が色聚と、一つの色聚毎の中の四界が見えたのならば
→ 彼は近行定または刹那定に到達したと言えます
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある
- 66 :
-
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3
サマタ瞑想(漢訳 : 止行)
「戒定慧」における「定」に相当するものでもある
サマタとは心を落ち着けるということである
まず、サマタ瞑想(止行)によって禅定を得ることが修行の根本となる
その準備段階としてサマタ瞑想の一種である慈悲の瞑想が行なわれる
最も一般によく使われるサマタ瞑想は呼吸を対照するもの(安般念、アーナーパーナ・サティ)である
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten5.htm#%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%88%E7%A6%85%E5%AE%9A%EF%BC%89
禅定(ぜんじょう):定(じょう)、褝那(ぜんな)とその訳語の定(じょう)とを合わせたもの。慮りをやめて心を平静にたもつこと
三昧は心を統一して目的に向かうことであるから
一見異なるようでもあるが心が散乱しないあるいは波打たないことから考えると、三昧は禅定に含まれることが分かる
独楽が澄む状態
禅定(ぜんじょう):定(じょう)とは三昧(さんまい)ともいい、心を定めて揺れ動かさないことで、禅定はこの一分である
褝那(ぜんな)とは、静慮ともいい、一つの対象を深く思惟審慮すること
さらにそれが進むと思惟審慮は停止し、完全な三昧に入る
1)生得定(しょうとくじょう):色界無色界に生れただけで備わる定
2)修得定(しゅとくじょう):欲界に於いて修行して得られる定
3)有心定(うしんじょう):色界の四禅、四無色定をいう
4)無心定(むしんじょう):無想定、滅尽定をいう
共に心、心所を滅尽するものであるが
凡夫の定を無想定(むそうじょう)といい
聖者の無余涅槃の境地を滅尽定(めつじんじょう)という
- 67 :
-
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
彼は、滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである
滅に触れ、心作用の滅が生起する、想滅定を実践して逝く
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀
坐禅をするときは、静かな部屋ですべきであり、
飲食に節度をもって、雑事を忘れ、全ての関わりから離れ、事の是非、善悪を思わず、
心に念が浮かぶことも意識に想像することも、
何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、
また
『仏に成ろう』と掴もうとしてもいけない
「『仏に成ろう』と思ってもいけない」という普勧坐禅儀を実践して逝く
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%8F%AA%E7%AE%A1%E6%89%93%E5%9D%90/m0u/
余念を交えず、ただひたすら座禅する、只管打坐を実践して逝く
- 68 :
-
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
− これを対処するために −
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践し、そして
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
ヨーガ(瑜伽)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
とりあえず心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
- 69 :
- >止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践し、そして
> この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
止行も観行も、そう簡単には出来んのですよ。簡単に出来るんでしたら誰も苦労はしない。
止行というのはつまり心を落ち着かせることが前提ですから、
心を落ち着かせるには先ず、呼吸というのが大変重要になってくる。
呼吸が乱れていたのでは、そもそも禅定なんて所詮は無理ですから。
で、よく精神疾患患者はそもそも坐禅は無理、と言われるのは、呼吸が浅いから落ち着いていられんのです。
深い呼吸というのを先ずマスターしませんと、そもそも止行は無理です。
ましてや観行となりますと、止行が出来ませんと無理です。
で止行というのは基本的には、日常という時間における、非日常を追体験することと言われている。
つまり時間という流れを切断した空白の空間を作為的に示現するわけですから、
もはやそこに一切のノウハウを無にした、無なるが故において、それを止行という訳ですから。
ただただ無であることが肝要なり。
「想いの手放し」とはそういうことで、それは何らかを実践することではない。
むしろ実践という心の方向性もなにも無い、無、これこそが止行であろうし、
只管打坐とはそういうことで、これは南宗禅の法灯です。
- 70 :
- (つづき)
「実践」を国語辞書で調べてみたところ、簡単な説明では
>《名・ス他》実際の情況のもとでそれを行うこと。
つまり止行というのは「行う」こととは違います。
止行というのは「行わない」ことです。
言語というのは、それ自体が既に何らかを指し示すことにおいて、それで言語が成り立つ訳ですけけど、
その言語を通して、何かを指しし示すことについての疑を呈すことを疑団ともいう。
こういった疑団の積み重ねこそ、禅においては重要になってきますし、
これなくばもはや駄目かもしれんですね。
という訳で、駄目だ、駄目だ、を言っても分からんものには一喝する訳ですよ。
人間というのは一喝されて、それで気づく者のいる、つうことですね。
小さな気づきは重要なんです。それがやがては大疑となりまして
大疑は悟入へといずれ導くことになる。では。
- 71 :
-
>止行も観行も、そう簡単には出来んのですよ。簡単に出来るんでしたら誰も苦労はしない
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正
思いの手放し
坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません
(中略)
この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか?
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう
- 72 :
-
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践は難しい、それ故に
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長 パオ・セヤドー
純観行者は通常、四界分別観から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
四界分別観は止禅の修行に属しますし、観禅の修行方法でもあります
もし段階を追って四界分別観を修行したならば
修行者は浄色(透明な物質)を見る事ができます
密集を看破する前、浄色は氷の塊のように見えます
この段階は止禅です
次に
修行者が浄色の中の空間に注目すると
彼らは浄色が細かく砕けて
色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という
- 73 :
- >>71
ええ、そのとおりです。
止行ですから止”です。止めることですね。何から何まで止める。なにもしない。
これが止行です。
そもそも南宗禅は、瓦を磨いても仏にはなれない。つうか
瓦そのものが仏であるのなら、何もあえて磨くことはない。
磨こうとするそのものこそ邪道である。とこのようなことですから。
しかし禅定をしちゃ駄目、ってことではない。
そういった可でもなければ不可でもない、というような非言語の領域にて信解了承することに本懐がある訳ですから、
これをどう説示するか、ってところが禅のダイナミックなんじゃないでしょうか?
指一本でこれを表わした優れた禅師もいる訳ですから、
これをどう受け止めるかは全部個人個人の裁量ですよ。
禅というのは、あくまでも”自分ひとり”ですから。つまり対象がない。
対象がない、ということは、そもそも行じるとか、行じないとかの範疇から逸脱しているわけです。
無可無不可。
- 74 :
- そうかちょんこ湧いてて気持ち悪い(=_=V
- 75 :
-
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅 ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図 ウ・ジョーティカ
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2013/10/24/230312
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院 パオ・セヤドー
生滅随観智
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 中村 元訳
- 76 :
-
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經(勝義空經、真実空經、勝義空契經)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
上座部である部派仏教徒の一部は
実体我の存在は否定するけれども
五蘊、十二処、十八界などの法は存在するという「我空法有」を主張し
その法は現在だけでなく
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという
説一切有部の「三世実有法体恒有」の思想を展開させた
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/susima.html
心にしみる原始仏典
『サンユッタ・ニカーヤ』12.70(PTS Text,Vol.II,pp.119-128)
スシーマ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%B8%89%E9%83%8E
衛門三郎(えもんさぶろう)
http://yamisoku.com/jinkaku/754.html
うっかり地雷を踏もうものなら、その日はもう台無し
【人格障害の嫁を持つ旦那】
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page240.html
帰依三宝 道元禅師
この上ない正しい悟り・阿耨多羅三藐三菩提
- 77 :
-
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-122.html
エンサイクロメディア空海
真魚という小宇宙(人間)が大宇宙(虚空蔵菩薩という宇宙の仏)と無二一体となった
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-art/cat25/post-50.html
空海は
天皇と高僧たちの前で
手に印 契を結び、口に真言を唱え
心を仏の三昧に住するという三密行を示し
自身金剛身(大日如来)となり
即身成仏の境地に入ってみせ、体から黄金の光を放ちます
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html
曹洞宗の僧侶 内山興正
死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?
(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
こんな算術に対しては
はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
- 78 :
-
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6329/1/003-%E8%A6%8B%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9F.pdf
法門寺地宮出土の真身宝函に表される八大明王について
http://yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩の思想は
インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという思想に至ったと解説する
さらに
拝火の起源はバラモン教や釈よりも古いゾロアスター教にもある
とその歴史を解説する
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正
「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀 道元禅師著 現代語訳
http://www.j-theravada.net/sakhi/thera-g-1.html
テーラガーター 和訳
http://www.j-theravada.net/sakhi/therii-g-1.html
テーリーガーター 和訳
- 79 :
-
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院 パオ・セヤドー
もし段階を追って四界分別観を修行したならば
修行者は浄色(透明な物質)を見る事ができます
密集を看破する前、浄色は氷の塊のように見えます
この段階は止禅です
次に
修行者が浄色の中の空間に注目すると
彼らは浄色が細かく砕けて
色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
- 80 :
-
http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話
http://www.onedhamma.com/?p=5200
15/08/09 右の掌で微細なエネルギーが感じられないひとへ
http://www.onedhamma.com/
15/12/06 エイリアンに乗っ取られないための「感謝」
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることがない智慧を以て客観的に
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
色受想行識の仮和合は
地水火風空識に依存している仮の現れなので、それゆえに
自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを空なりと観察して
「無明がある、渇愛がある」と掴もうとしている想いを手放して逝きましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです
- 81 :
- とりあえずパンティうp
- 82 :
-
http://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2014/11/%E6%B0%B4%E6%BA%90%E7%A6%85%E5%B8%AB%E6%B3%95%E8%A9%B1%E9%9B%8624.pdf
13ページ参照
すべてを捨てるというサドゥー(全てを投げ捨てる)
http://www.j-theravada.net/raihai.html
ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サンマー サンブッダッサ
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼したてまつる
ブッダム・サラナム・ガッチャーミ
バーナーティパーター ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
カーメース ミッチャーチャーラー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
ムサーワーダー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
スラーメーラヤ マッジャパマーダッターナー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
- 83 :
- >机先生
> 「仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
> 我々が修行したり、悟り証したりすることもないはずである
> 仏に成ろうと思ってもいけない」
ええそのとおりであります。
道元もこのことについて非常に悩んでおりました。
本来仏であるのならば、どうして修行するのでありましょう?
しかし道元は、宋に渡りある僧と出会うことによって、自分の考えが間違いであると悟る。
実はここが肝心であります。
誰でも疑問に思うことは、それは悟りへの切っ掛けであります。
疑なくして開悟はありません。
つまり悟る、ということは疑の氷解なのであります。
何らか新発見をすることではない。
自らの疑なくば悟りなし。
またこの続きは暇な時にでも。
- 84 :
- (つづき)
例えば「石のかけら」があったとする。それはただの「石のかけら」に過ぎません。
で、「木の棒」があったとする、それはただの「木の棒」に過ぎない。
そこに何ら関係ないような二つの概念でもあっても、それが無意識のうちに関連付けられていくと・・・
「ヤリ」という新たな概念(上位概念)がうまれることもある。
これは人間特有のメカニズムなのだ。
ある文脈におけるその解釈も、それらの意とするところの直観と客観によって仮設をたて
それを丹念に検証し、発想力を最大限に生かしきったなら、
それは新たな発見になるはずだ。
発想力の乏しさの好例が、某真言阿闍梨の言説であろう。
「死後の世界があるのと、ないとではエライ違い」というものだ。
ものごとの一面性だけ捉えようとすると、その発想力は極端に結論つけられ、そしてそれに固執しちまうのだ。
- 85 :
- JK→JD
- 86 :
- w
- 87 :
- o
- 88 :
- 大阪府三島郡島本町は大阪の糞ダメとも呼ばれているガラも程度も悪い暴力とイジメの町?
- 89 :
- 本スレ(?)
http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/
はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、
スレ主さんは元気にしてるだろうか?
- 90 :
- 明日は雪
- 91 :
- 花粉症
- 92 :
- 潔癖症
- 93 :
- 3月
- 94 :
- 証人喚問
- 95 :
- 寒い
- 96 :
- 最重要証人を出せない教団(教祖の強姦、確定)
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/11/blog-post_14.html
私は以前、大川隆法氏が不倫で傷つけた女性の個人相談を受けました。
最近、さらにその被害が広がっていることを確認しました。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_12.html
最初はおそるおそる手をだしていたのが
意外に簡単に女性が思いのままになることに気をよくした隆はだんだんと
行動が大胆になっていきました
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/41
過去世悪用の強姦
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/37
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/36
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/35
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/34
大川の日常生活に 触れる職員はほぼ全員が女性である
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/33
【恐怖!霊障の科学】
知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/30
エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/28
- 97 :
- 桜
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- もも尻
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- おそロシア
- 100 :
- あげ
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