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主観に依拠しない事実はあるのだろうか?


1 :2019/11/26 〜 最終レス :2020/06/08
例えば、「物体は運動の法則に従っている」というのは主観から独立した事実なのだろうか?
この場合においてまずはっきりとしなければならないのは事実とは何かということだが、ここでは辞書的定義に従って、事物の実際のありようとでもしておこう。修正する必要があれば適宜修正する。

2 :
>>1
じゃないけど、
正直な話、主観と客観の違いを言えと言われても
藻ともらしい説明をする自信がない。

3 :
主観は認識の主体で、客観は認識の主体(主観)から独立したものということでいいのではないかな。

4 :
ああ、そういう説明の仕方もあるのよね。
初めは一人か二人くらいの見方に過ぎなかったものが、
より多くの人間の支持を得ることで、
主観から客観になるという風に思っていた。

5 :
「客観」を言語の「使用」という観点から意味を捉えるべきなのでは
それの辞書的定義を用いるから、認識問題が対象の主客一致問題に還元されるんじゃないかな

6 :
事実とは、初めは何人かの経験に基づき、後に公的機関にそうだと認定される事柄を言う
という風に理解している。

7 :
>>5
つまりどのような定義づけをすればよいのだろうか?

8 :
もっと自由に感性に従って意味付けすればいいのでは?

9 :
>>7
人はどういったときに、「客観」という言葉を用いるか。それは、誰にとっても同じようにものごとが了解されるときである。それが「客観」という語の「使用」である。
では、その言葉の「使用」の本質(意味)は何か。それは普遍的に同一性のある認識のことであるだろう。つまり、「客観」とは普遍性と同一性を備えた主観である

10 :
主観性を基準に置くなら客観というの自体が不確かな物差しになってくるんじゃないか
素材を受け取るのもそれに対して正しいという評価を与えるのも全て主観が判断することに
なってしまうから

11 :
>>9
なるほど

12 :
人が理解するのは主観よ、
ものの認知も関係性も常に主観がなければ成立しないほどほとんどがそれな。
故にその力に反する逆位置にあるものを恐ろしくしらないので
客観性についても主観でしか捉えられない、
論理性こそが主観であって、非論理を扱えないお前らが論じる限界がそこにある。

13 :
自分は非論理を主観で扱っていないと妄信してるだけだろww

14 :
>>9
観客席から映画を認識させられている客の意識は客観。
同一性のある認識ではなく、客観的な認知でなければ客観とはいえない。
君の言っているのは主観からみた客観性、つまり間主観的認識なんだな。

15 :
間主観的という言葉を覚えたのは
高2の時の駿台全国模試の現代文でだった。
誰の文章を読んでだったかは覚えていないが。

16 :
フッサールか、

17 :
>>9
その説明は迷信とか俗説も客観の中に入り込むことになるね

18 :
世界がある事実、
これをどう解釈するか、
「我思う、故に我在り」、つまり我が観測するから宇宙がある、宇宙と意味づけする、
故に観測可能な範囲とその観測現象を元に説明可能の範囲を宇宙(世界)としている、

その時点で意味にならなくても、認知できなくても、遠い時間経過後に認知できれば
それは事実となる。
人類が認知できない世界やら技術やら現象があるとして、
現在認知できないからその事実はない、依存などしていないのだよ、

それを否定すれば未来という事実は無いと 断言している精神障害者と同じだ。

おまえらのことだよ

19 :
>>18
がんばれ

20 :
>>18
そんだけ馬鹿だと苦労なさそうで羨ましいですね

21 :
>>18
馬鹿以下はほえる

22 :
自尊心たかすぎる、無能は無能の立場を悟れ。

23 :
『現実を求めて―――一物理学者の視線』において、ベルナール・デスパニャは、量子論を基盤に、
現実それ自体について語るのは不可能であることを示している。現実がわれわれの前に潜在態から
現実態へと現れ出るのは、われわれ固有の視線に関係づけられ、それによって条件づけられた時に限られる。
「強い」客観性というものがあるとすれば、そこでは現実が主体から完全に独立していて、
「人間である観察者の共同体に対する、いかなる本質的指向性」をも持ち得ないことだろう。
このような客観性はわれわれの身体的・精神的枠組みの内部では不可能である。同様に、
「強い」現実ないし内在的現実というものは「時空の枠の外部に位置し、われわれの持つ概念では
記述不可能である」。科学実験の場合ですら唯一可能なのは弱い客観性であり、そこでは、対象は
確かに個々の観察者の変化に対しては不変だが、にもかかわらず人間である観察者の共同体との
関係に依存している。現実はこの関係づけによって課されるヴェールを通してしか認識されない。
すなわちこれは弱い客観性の範囲内に限定された、ヴェールをかぶった現実である。
この弱い客観性を、デスパニャは共同主観性と比較して捉えている。
『風土の日本』オギュスタン・ベルク(ちくま学芸文庫)P175〜P176


オレはそんなに理解できてないけど参考になれば
ところで、前にVIPでもこんなスレがよく立ってたけど>>1は同じ人ではない?

24 :
客観の方が事実に向いてるけど、主観じゃないと事実の時間が動かない。

25 :
主客合一が近い。

26 :
観測したとき初めて主観的が現れる、
観測しなければ、それは確率的に存在する事実があっても任意の情報は取り出せない。

27 :
客観は時間になっていない。求める失われたときが主観。

28 :
時間など主観が生み出す幻想

29 :
幻想譚ボルヘスなんかもエッチでいいね。哲学的だ。その面も。

30 :
客観は実在するが我々の認識は「客観と同質の主観」になるのが限界。要するに事実という実像と重なり合う虚像を作り出すのが精一杯である。
例えば、我々の視界(ひいては、五感を総合した認識世界)は、光や音の波を感知して、それを処理した結果出来上がる。
この時、我々の認識の材料は情報であり、その情報は、さらに言えば物体に反射した光等に依拠している。反射元となる物質は確実に存在するが、我々がそれを真に(客観的に)認めることは出来ない。
科学等にも敷衍すると、我々が求めるのは「客観的事実」だが、我々の限界は「間主観的真理」、つまりは多くに認められた主観であり、これの元を辿ると「主観的真実」となる。
我々は今まで、そしてこれからも事実(客観)にたどり着くことはなく、間主観的真理をなんとか証明しようと努力して自分たちにそれが事実だと信じ込ませることしか出来ない。
というのが自論だが、どうだろうか。

31 :
連投になるが、>>1の具体的な疑問にこれを用いて答えると、我々の探し当てた物理法則は「真理」にあたる。間主観的に認められ、便宜上事実として扱っているものである。
人間が事実だと思っているものは全てこの、「便宜上、事実として扱う」の域を出ず、またこれを脱する方法もないため「人間が客観的事実にたどり着くことはなく、よって今のところ我々は事実を持っていない」といえる。
但し、先程の視界の例を用いるが、視界があるためには光、ひいては光を反射する元となる物質が無くてはならないから、客観的事実自体は存在する。
質問や反論があればどうぞ。

32 :
>>31
>視界があるためには光、ひいては光を反射する元となる物質が無くてはならないから、客観的事実自体は存在する。

「視界があるためには光、ひいては光を反射する元となる物質が無くてはならない」という事柄は「客観的事実自体」が存在することを保証してはいないと考えます。
なぜなら「光、ひいては光を反射する元となる物質」もまた観察者に固有の知覚方法により関係づけられているため認識主体から独立してない為です。

33 :
論理的に考えることはすべて主観であり主体的なんだよ、何もわかっとらんな。
術を術をなさずに、術をなすとか考えろよほげ。

すべて観測者(なんらかの主体的意味を得る)がいる因果関係で全てを捉えている
それが理解できていないアホだろ。
意味がある、意味を授ける為に主がいないとかオカルトじゃないか、
オカルトを扱う次元ならいいが、それ否定しているだろ?

34 :
思考は主観的な作業だ、しかし正確な事実の論理的アウトプットは、主観によって見出される客観的事実でもある。
心象や気持ちに関する内容は真偽でしか図れず、その内容に事実か否かを当てはめる自体ナンセンス。
主観に依拠しない事実とは結局のところ、正確な事実の論理的アウトプットということでしかない。

35 :
しかしね客観には失敗が多いが主観は成功への道だ。どちらも選べないということが
主客合一の無理な意味だ。客観には熟練度があり、主観には経験があるといったところ。

36 :
客観に失敗が多く、主観は成功への道になり
客観には熟練度があり、主観には経験があるといったところで
どちらも選べない主客合一の無理な意味だという主観的な結論の
正しさは証明されないわけで、何も言えていないに等しいと思うのだが

37 :
俺って何にも言ってないのはすちゃだらぱー。時間がないのが死だ。時間が流れるのが生だという人生の本質の根本問題は順不同だ。主観の外に客観があるわけでなく、
客観の中に主観があるわけでもない。交叉し、混ざり合っている、形態があり、
形骸化している。廃人LV99といったら分かり易い。

38 :
意味を元に思考をして理解しようとしている君には、
主観の外にはでることはできない、全て主観がなす意味論の中が全ての世界で
それ以外の世界はない。なぜなら意味になりえない何かを認知できないからだ、
言葉を捨てられない君は、永遠に言葉の論理の中で生きるしかない、
そんなの当たり前だろ?否定できるなら反論してくれ。でも
言葉をつかって言葉を否定する論理は論理ではないことも自覚してな。

39 :
主観の外で生まれたものはどうなる。客観の中で死んだ奴はどうなる。

40 :
>>1
何で「物体は運動の法則に従っている」という例を出して来たのか
例えば、「目の前の石の重さを天秤で測定したら100gだ」とかではダメなのか?
私はこれは事実と思うが?
どこが論点なのかよく分からない

41 :
「東京のxx年1月4日の天気は晴れと気象庁は発表している」
これは事実でいいよね?
主観が入るところある?

42 :
>>41
>「東京のxx年1月4日の天気は晴れと気象庁は発表している」
これは”主観的”な事実だよ
また別の主観では「これは1月3日の天気についての発表ではない」とか
「曇りとは発表していない」とか「これは株価についての発表ではない」とか
いろいろな主観的な事実がある(こんな捻くれた解釈をする人はめったにいないけど)
個人の見方であれ、集団で共有された見方であれ、何らかの観点(主観)により「気象庁は発表している」
という”事柄になるような”切り取られ方をしている点でこれは主観的事実ということになる
気象庁の人達が「東京のxx年1月4日の天気は晴れと気象庁は発表している」というのは事実だと認めていても
気象庁の行った”その行為”を気象庁がその人達の見方(主観)で「・・・発表している」と”認識している”
というだけであって、主観を上回るものではない

43 :
「東京のxx年1月4日の天気は晴れと気象庁は発表している」という客観的データは
人が観測した主観であると言うことはできるし事実ではあるけど
それこそ、主観に依拠しすぎた表現でしかない

44 :
すべてを疑ってかかってたら生活できないからある程度のとこで線引はひつようだな
懐疑主義者も飯を食う度にいちいち毒が入ってないか分析などしないだろ
過ぎたるは及ばざるが如し

45 :
うむ、同意

46 :
>懐疑主義者も飯を食う度にいちいち毒が入ってないか分析などしないだろ

贈り物が食べ物であれば、必ず誰かにおすそ分けするか、誰かにあげて、
毒が入っていないか、その都度確認するよ。誰かが食べ物をくれたら、
その人と分け合って食べるし、人が集まって食べるときも同じ皿から
盛り分けて食べるようにするのも、そういう意味も含んだ、昔からの
人々の知恵だ。

47 :
スーパーなどで買う食品は、不特定多数の相手に向けて販売されている。
だから、購入した食品や食材に、自分個人を標的にした毒が含まれる可能性
は極めて低い。外食で食堂に入るときはそうはいかないので、同じ皿から
盛り分けて食べる会食以外は、なるべく外食を避けるのが吉

48 :
ゆえにそれがある程度の妥協点であって線引きだろ

49 :
主観に依拠しない事実というより、客観を証拠としない事実はないというスレタイにしていない時点で、このスレミスリードでしかないな

50 :
1が求めるものが何か次第だろ
厳密な意味では人間は客観には到達できない
客観的と言われることも、主観の集合でしかない
でも日常生活では気象庁の発表した天気は客観的事実とされる
「彼女がかわいい」なんてのとは区別されてる
1がただ厳密に客観というものが存在するか、しないかだけ知りたいのか?
あるいは何か別のことなのか、それ次第で考えるべきことがかわる

51 :
べきことがわかる

52 :
デカルトだって飯食う度に疑っちゃいなかったろ。哲学は生活とは切り離すべきだ。
して、事実とはそもそもとして客観であり、我々が事実として主観的に認識しているものはただの真実である。では事実は存在するか?
これは、ヒトの能力で終わらせることは不可能な問いである。何故なら、答えを出した時点で主観だからだ。故にこそ、我々は客観に近づくべく努力すべきなのだが、ともかく事実が存在するか否かの答えは不可知である。
そして不可知であるという認識も主観的であり、突き詰めれば万物万象は不可知である。さらにそれも不可知で、さらに……と続けても無駄だ。という文章も無駄で……このへんでやめておこう。
我々の現実は全て主観的な虚像であり、我々はそれをおのが主観の中で練り上げながら同時にその中に住んでいる。
主観と客観は完全な別物であり、我々に出来ることは、真実を見て、真理(間主観的になった真実。この言葉は真実と事実のあわいにあるものとして作られたが、その実真理を経ても真実は事実にならない。)を作り出し、それで自分を納得させることだけだ。
我々は永久に、渇きの中で、答え合わせの出来ぬまま彷徨うことを義務付けられているのだ。
それがあっていようと間違っていようと、答え合わせは絶対にできない。だから話しても無駄、という短絡的なニヒリズム的結論ではなく、故にこそ自身の矮小さを受け入れて生きることで幸福を得ようとすることこそ、あなたを救うだろう。
そうして初めて、常にかならず間違い続けるこの哲学という営為も主観的に意義深いものとなるだろう。

53 :
>>50
逆に人間が定義した意味以外に客観など存在しないわけで
到達できない客観という想定が非論理的な主観に依拠しすぎた思い込みだろ
1が何を知りたいかなんて主観的な問題すら自覚していないなら
どうしょうもなくね?

54 :
>>53
>到達できない客観という想定が非論理的な主観に依拠しすぎた思い込みだろ

という事も主観による思い込み

という事も主観による思い込み

という事も主観による思い込み





と無限に自己言及する構造を持っているから、原理的に解決不可能な哲学的難題(アポリア)となる
このことを自覚しておくのは無意味ではないので、ひとまず頭の片隅に置いといて、その後どう展開するか?

55 :
>>54続き
例?
この手の問題は大体が「問いを立てる際に無自覚なまま前提としている条件」に間違いがあったりするから
なぜ1(や私達)は「純然たる客観的事実=<ほんとう>は有るのか?無いのか?」なんて問いが成立すると考えたのだろう?
つまり問題が間違っているので、この問い立てにおける所与の条件に対して焦点を合わせて掘り下げていく方向に進める
例?
全ての事実が主観的なものでしかないとしても、その主観的事実を共有しているからこそ私達はコミュニケーション可能だし、社会生活も成立している
では、”どのような”主観的事実を共有することが社会をより良いものにしていくのか?あるいは「理想的な間主観性」を求めることは危険なのか?
現在の私達が共有している主観的事実はどのように作られてきた(作られている)のか?このままで正しいのだろうか?という方向に進める
例?
たとえ「<ほんとう>は有るのか?無いのか?」という問いの立て方が間違っていたとしても、この疑問は今も昔も多くの人々によって抱かれてきた以上
人間の本質に根差した核となる部分があると見做してもいいはずだ、だから別のアプローチを考えてみよう、では、どのような方法が可能だろうか?
という方向で進める
例?
その他(?〜?以外の別な何か)
まだ1がいるならどうしたいか聞きたいけど、いなければ適当に成り行きのままにwww

56 :
>>54
思い込みじゃないならそれを論理的に説明するという展開になり
思いこみであるならそれでお仕舞いってだけの話なんだが

57 :
所与の条件…神か!!!

58 :
>>54
主観でしか見れない貴方には非主観的思考(非論理)が100%できないわけで、
その貴方の論理思考では誰のそれも例外なく主観だと貴方の論理が説明できる、
つまり貴方が否定するかぎり、世界は貴方を中心として回るのは変わらないし、
貴方の思考では、主観以外の思考は不可能で井戸の中の蛙が主観以外の
思考をしたことがないのに、そのぐらいできるぞとか言い出すのと同じ。
非論理をもって意味や結論を成して証明してみろ、それができないなら黙っていろ。

59 :
主観主義的思考は客観や真理を否定するものかもしれないけど、現象学的思考はそれらをどのようにして構成するかを示すものだろうね。ちょっと違うかもね

60 :
G. Spencer-Brownって何か架空のキャラぽい感じがするが、
"Probability and Scientific Inference"は、
類書がなかなかない面白い著作だよ

61 :
主体ともって思考する奴は、観測しえない対象を思考できない、無能である。
これが本質だ、一般的には創造力という才能だ、貴方のは常に他者の劣化コピーでしかない。

62 :
>>58
>主観でしか見れない貴方には
"誰であったとしても(誰かであるならば)"客観で見ることは不可能なんだよ(見た時点で主観になってしまう)
「見る主体」と「見られる客体」という構造(関係)を脱した場合はその限りではないものの
その構造から脱するということは「私が私である」とか「あなたがあなたである」といったような<誰か(主体性)>が不成立となり
知覚も、認識も、思考も不可能になるという事態を意味する

>非主観的思考(非論理)
非主観的なものは、もはや思考ですらないから非主観的状態(≠思考)とした方が、より正確な表現になると思う(完璧な表現ではないけど)
あとこれは非主観的ではあっても、だからといって客観的というわけでもないってことでいいよね?

えーと、もし、あなたの言う「非主観的思考(非論理)」というものが「”コードなき”差異の戯れへの指向」だとか
「形式(枠組み)を持たないがゆえの概念(対象)として生成(共起的分節化)されてない思惟以前の状態への指向」だとか
「<非存在≠無>あるいは<顕在化以前の無分節な連続的潜在態>への指向」だとかに類似した意味ならば
私とあなたの考えはそれほどズレてないって事になるのではないかと思うんだけど、どうかな?
(本来これは<対象>たりえないものなので<何か>の方向へ向かうといった意味での”指向”という語の使用は
語義矛盾を引き起こすが、論理を超えた領域を言語化するという無理の為、無矛盾ではいられなくなったと了承してほしい
そして、おそらくではあるけれど、あなたの「思考」という語の使用による語義矛盾もまた、同様のものではないかと問いたい)

>そのぐらいできるぞとか言い出すのと同じ
「”(誰かである限り)誰にも”できないよ」と言ってるんだよ
私が私として成立する限り私にはそれは出来ないし、あなたがあなたとして成立する限りあなたにもそれは出来ない
知覚するとか認識するとか思考するとかいった行為は「主体」と「客体」という構造(関係)を必要とするために
その行為自体に主観を超えることに関する原理的な不可能性が内在されてしまう

63 :
>>61
>観測しえない対象
(「それ」という指示詞の使用は不適切だけど)”それ”は「対象」でもないし「存在」でもない、故に「観測しえない」という事態になる
観測に関する技術的問題でもなく、観測に関する能力の欠如でもなく、観測行為から不可分の根本的な原理上の問題により「観測しえない」

>一般的には創造力という才能だ
ここは良い線いってると思うよ、才能かどうかはさておくにしても
このテーマは論理的思考力はもちろんのこと、それ以上に想像力が問題になってくるからね
さて、では想像して欲しい「存在する」ことも否定され、「存在しない」ことも否定された<根本的な存在否定>=<非存在>を!
「無」でもなければ「不在」でもなく、もちろん「存在」でもない事を想像できれば「主観に依拠しない事実はあるのだろうか?」という問い
つまり「純粋な意味での客観現実はあるのか?ないのか?」と問う事自体が不可能であると理解できるはずだよ

64 :
主観には自分がいないが客観には自分がいる。

65 :
よって主観が優位だ。自分イラナイ。

66 :
しかし失われたときじゃないけど、守護神が死んだ去った後、また新たな神に仕えるとか、哲学は堕落した客観性の中にいて、主観には文学も必要かと思う。

67 :
我は、人に対する引け目として現れる。
引け目とは、指数におけるマイナスだ。
そのとき、我が自らを比較の対象とする人をDas Manとして、
Das Man=e^1のように捉えるなら、我は自らを人に劣るもの、
例えば、我=e^(1/2)=半人前、のように数量化して
認識することになる。そのように自らをDas Manと
比べられる数量的なものと認識することによって、
我は、Das Manを参照基準とする数量的なシーソー
ゲームに捕らわれたり、その数量的な性質が剥奪
された相において、つまり、Das Man=e^1の1も、
我=e^(1/2)の1/2もともに0に帰した"privation"の
相において、自らがDas Manと数量的に等しく
対等となった状態を夢想する。そこで「天国には
地上の富を持っていくことはできない」という
教えが効果を発揮するわけで、ルサンチマンを
うまく利用するなら、喜捨の効果を信じ込ませて、
漁夫の利を得ることも可能となるだろう。

68 :
共産主義というのは現世で夢を実現するための喜捨の全体的なシステム化だろうか?

69 :
日常的に格差を思い知らせるように仕組み、格差が拡大しているという
認識を維持するように働きかけることは、喜捨の効果を信じ込ませる
ための積極的な働きかけと矛盾しない。

70 :
マルクスくんなよ

71 :
まず定義しろよ、それができないなら自分の無能さをのろえ

72 :
と、無能が言っております

73 :
※彼は自分の無能さを呪ってます

74 :
と、ド高卒は語る

75 :


76 :
主観は、身体という主観から独立した事実に
依拠しているんでは。

77 :
主観は命にともる炎のようなものでは。客観世界があっても主観世界がないと
その中で生きることはできないだろう。

78 :
純粋な客観世界というのは主観がない限りナンセンスなものだ。

79 :
人間は客観になれないのはそうだけど
客観的な想像は出来る
普通はそれで充分だろう

通常は客観的とされていることに、「それは主観でしかない」と言ったところで、それは役に立たない

むしろ通常言うところの主観と混ぜてしまうことで、その区別をなくすので有害だと言える

80 :
アコースティック哲学:神と金4:お釈迦様とイエス様
https://www.youtube.com/watch?v=72fqM2rx7hM

81 :
馬鹿学者

82 :
>純粋な客観世界というのは主観がない限りナンセンスなものだ。
ナンセンス?
いえ
個の主体が個集団の主体がという主観は、主体がもつ意味評価や意味認知そのものである
意味をもたないのは無意味である、そんなことを比喩するとかアホの説明でしかない。
意味を持たせないそれは論理にもなりえない、現象がっても混沌と秩序に差などなく、
意味をつける側の妄想でしかない、だが主体を持たないそれが結果的に主体のように
働き、第三者に意味を持たせることは普通にある。物事の物は目に見える観念であり、
事は目に見えない観念を言う、事実は目に見えない観念ゆえに評価者が何も評価できずとも
事実を計れる計れないとは無関係に事実は生じる、地球がマグマの火の玉だった40億年以上
まえのその事実はその時点では主体が存在しない意味事実であっても、時間が経過した
それが意味をもつそれに時間の一致はない、あるなしで判断されるそれは現在過去未来で
計りえるものではないし高い確率でそうではなかったかという妄想にすぎない。
人がそんなことまで神のような立場でナンセンス言う時点で、それのほうがナンセンスである。

83 :
論理性に依存しないってこと?

84 :
>>82
でも、それも極論を言えば「事実が存在すると想像している」に過ぎない

85 :
主観があって初めて客観世界が意味を持つように思うが、最初は客観世界だけだったのだろうか、客観それ自体で意味を持つといえるのか。

86 :
意味もなくただあるのか。

87 :
生物はまだ力を有してはいず、主観を持ってもまだ、恐怖と混沌の中にいるだろう。

88 :
答え合わせは絶対にできない。人間を超えたスケールの問題を人間が終わらせることは不可能である。
故にこそまず、「結論を出す」という姿勢そのものが間違っている。
偶然客観的事実と主観的真実が重なる可能性も否定できないし、重なっていない可能性もあるからだ。
思考は常に主観の上に成り立っているから、人間スケールの哲学においてはその絶望を括弧に入れて主観主義的に思考するのが妥当である。
そして客観的事実の存在等の純粋な哲学問題に関しては、我々は判断するなどという傲慢なことはせず、各々の答案を作り自分なりに高めることに終始すべきだ。
そこでは、他者の意見に触れ影響し合うことも大事だ。
しかし同時に間違っているなどという断定は絶対的に不可能である(この不可能性の自覚すらも分からない。が、無限に後退出来るためここで止める。)。
宇宙が四角い丸である、ということすら可能性の否定は出来ないのだから、自らの、ひいては人間の無能さを自覚してから考えるんだな。

89 :
>>88
君は掴めないものを掴もうとしている、
つまり掴めないと定義したものを、その真逆の矛盾が合同であるという方程式の
証明ができうるという願望である。

部分的に、類似的に、側面部分だけ、そういう掴みはできるだろうが、それは
全体を掴み得ることとは違うことである。

>「結論を出す」という姿勢そのものが間違っている。
これがそもそも、間違っている。
結論を出せない、不可能だと判明していものは、その前提を捻じ曲げて
不可能を可能にすることが結論を出す本当の姿勢である。
これを実現するには、全ての否定、すなわち既知を例外なく革命すること、
論理の否定の才が必要である、貴方は非論理を扱う方法すらしらないからだ。

90 :
結論を出すと言うのは、「真」を見つけるということではなく、お互いの関係を合理的な関係に作り替えることであり、お互いが納得出来る可能性を作り上げることだろうね

91 :
意味というのが生命で生命以前の環境の方が進んでいるだろう。
無意味なものが意味を持っためでたいこともあった。
意味がない世界へ帰る方が安らいだものさ。
人生を肯定する意味で凝縮された人生の意味と、振り返って人生が無に飲み込まれる意味のなさが死だ。
生の意味に比して死はナンセンスなものだという立場に変わりはない。
生命の意味論 多田富男 他。

92 :
意味というのが生命で生命以前の環境の方が進んでいるだろう。
無意味なものが意味を持っためでたいこともあった。
意味がない世界へ還る方が安らいだものさ。
人生を肯定する意味で凝縮された人生の意味と、振り返って人生が無に飲み込まれる意味のなさが死だ。
生の意味に比して死はナンセンスなものだという立場に変わりはない。
生命の意味論 多田富男 他。

93 :
主観は生をつかさどり。客観は死をつかさどる。永遠のテーマの真理だ。順序は逆ではない。

94 :
罪滅ぼしに生きなおしが子や孫のために出来るかな。食べ残し 呑み残し 着のこしおおいから。メタファーな意味が死に寄与されるだろうか。

95 :
>>90
馴れ合いは思考することではない

96 :
>>95
「自説の絶対視を止めて、柔軟に物事を考えて互いが納得可能な余地を探ろうとしなければ、各人は同じ結論を得られない」
これだけの簡単な話なんだけど、理解できませんか?返信内容も日本語が不自由な人の書いたものにしか見えません、ちゃんと相手の言っている内容を理解してから返信してみてはどうでしょう。
自分本位を続けたいのなら、別にこのレスに返信しなくてもいいですよ。どうせ攻撃欲が抑えられないのでしょうし。

97 :
「聞く耳を持たない」ことが下された命令に重力を与える
返す言葉が通じるなら、命令指揮系統の階層性を組織化することはできない

98 :
>>89
典型的な「袋小路の哲学者」だな君は。
いいか、君の言う結論は「真理」、つまりは間主観的な結論だ。
これを出すことは人類にとって有益だし、哲学としても「納得のいく結論」は重要だろう。その探求は続けるべきだ。
だが、それは人間スケールに囚われた者の論理でもある。
不可知論的諦観、ニヒリズム的絶望を自覚し、率直に世界の冷たさを理解した上で、逆に積極性を得る。
このような逆説に至れないうちは、君は糞詰まりのつまらぬ哲学者のままだろうね。
君のその意見も、事実かもしれないし、そうでないかもしれない。
我々はひたすら答案を作ることしか出来ないのだよ。
諦めたまえ。

99 :
https://www.youtube.com/watch?time_continue=8&v=KGbFhp7rnmg&feature=emb_title
http://troopcafe.jp/ もよろしく。 飲んで踊れや。舞踏にも哲学アリ。

100 :
事象を連続性として扱おうとするときに、「どのように」、「どのような」
困難が生じるのかを忠実に記述しようとすること


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