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寝袋・シュラフ・スリーピングバッグの質問 50 (ワッチョイ無)
六甲山37 夏はキタ━(゚∀゚)━! 荒らし禁止
【福袋】年末恒例のあの袋【鬱袋】
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131.01m 【IP表示なし】
モンベル◇◆◇mont-bell◇◆◇Part127
ヘッドランプについて語ろう 59灯目
一人でキャンプに行く人 99夜目

☆ファミキャン総合53


1 :2018/05/19 〜 最終レス :2018/06/21
ファミリーキャンプについて楽しく語りましょう。


【アフィ転載 禁止】
登山キャンプ板にはブログ宣伝荒らしや業者が常駐しています。
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1517400210/1-53
「wi1d28jp」(栗木ハンター)などの悪質スパムは踏まずにNG登録を。
踏んでしまった人は関連cookieを削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。

■普段から対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。
勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪
スマホ通信量の節約、時短にもなります。


※前スレ
☆ファミキャン総合52 [転載禁止]
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1526680923/

2 :
 
※ 過去スレ

☆ファミキャン総合40
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1495201596/
☆ファミキャン総合41
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1496068502/
☆ファミキャン総合42
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1497523011/
☆ファミキャン総合43
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1499536740/
☆ファミキャン総合44
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1501650809/
☆ファミキャン総合45
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1503769520/
☆ファミキャン総合46
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505789131/
☆ファミキャン総合47
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1507798604/
☆ファミキャン総合48
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1510126186/
☆ファミキャン総合49
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1515210461/
☆ファミキャン総合50
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1521615119/
☆ファミキャン総合51
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1524664213/
 

3 :
キチガイ埋め荒らしは無職にもほどがあるだろ

4 :
>>1

荒らしすごいですが注意喚起のテンプレがよほど都合悪いんでしょうね

5 :
乙です
筑波山スレも粘着されちゃってます

支離滅裂な因縁をつけ埋め立てを続けてますが
結局のところ>>1の注意テンプレに困ってるようなので保守がてら立て続けます

adblock入れるとネットの見方変わりますよねー
おすすめですよ

6 :
乙キャン

7 :
被害妄想の埋め立てアフィカス君はこれを機にハロワへGO 笑

8 :
なんなのあれ

9 :
キチガイという他ないね

10 :
もはや狂気を感じるレベル

11 :
>>5
乙です
荒らしの言い訳オチっときますかw

12 :
埋めると増える法則だな

13 :
ガキの頃って理由もなく全能感とかあったじゃん
埋めカスの精神年齢はあんな感じなんだろう
実年齢は中年〜爺だと思うが

14 :
なんか発狂して飛んできそう

15 :
力尽きたようだな

16 :
ファミキャンスレまでやられてるのか。
ソロキャンスレは全面戦争みたいになってる…

17 :
MAXリナいいなぁ。裏山

18 :
http://iup.2ch-library.com/i/i1909149-1526725601.jpg

19 :
張り縄の金具が弛んで縄がたるんたるんになってしまうんだけど何故?

20 :
http://iup.2ch-library.com/i/i1909150-1526725740.jpg

焚き火たまらんわ

21 :
>>19
張り綱変えた?

22 :
山梨県内の組織である「山梨県土地利用調整会議」に事前協議書が
提出され、知事の同意が必要とされている。その同意を得た後で、
個別法令の許認可を担当する部署での手続きを行うことになってお
り、一元化した組織かつ統一したエムゾネ基準での開発のコントロール
が行われている。こうした大規模開発を含む緩衝地帯内で行われる
一定規模以上の開発行為については、「富士山世界遺産両県協議会
」へ報告がなされ、必要に応じて助言等がなされる。現時点で、緩
衝地帯内に存在するゴルエムゾネフ場・スキー場については改築の際な
どにより景観に配慮した形態にすることを個別に求めていく。また
、各市町村の景観計画の下に、各市町村は景観阻害要因の排除に努
めることとしているほか、世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺
産一覧表への記エムゾネ載の可能性のある文化資産に相応しい周辺市街
地を創出するために適切な景観の保全・改善の施策を実施すること
としている。なお、次に掲げる開発計画等の立案に当たっては、い
ずれにおいても資産への影響を最小限に留めるよう関係機関・団体
と調整エムゾネを行うことし、実施する場合にも事前に十分な協議を行
うこととしている。@観光開発(ホテル・ゴルフ場・スキー場)A
廃棄物処分場又は清掃工場B工場又は工業団地C道路整備(ブルド
ーザー道)また、資産の保全状況及び資産に与える影響の概要にエムソ
゙ネついては、推薦書本文において記述しているとおりである。これ
らの影響などについて顕著な普遍的価値の適切な保存管理という観
点から、「資産の視覚的結び付き」、「資産の関連性」、「個別資
産の保護」の3つに分類し、影響の程度を観察する指標エムゾネを設定
した。資産の顕著な普遍的価値を確実に保護するためには、資産に
影響を与える要因について、監視の方策及び負の影響が及ばない方
策を検討する必要がある。その考え方の概要については以下の表に
示すとおりである。−114−表資産に負の影エムゾネ響を与える要因
とその考え方顕著な普遍的価値を構成する諸要素資産に対する市紳

23 :
影響観察指標として考えられるもの富士山の顕著な普遍的価値眺望
・信仰知識の提供・普及活動等の停滞による影響・資産の知覚的結
び付き、関連性の未理解による影響気エムゾネ候変動による影響・酸性
雨による影響(建造物等の腐食)・温暖化による影響(植生への影
響)自然災害による影響・大雨による影響(遺跡、建造物のき損)
・噴火(遺跡、建造物のき損)・虫害、樹木の成長等による影響(
遺跡、景観のき損)観光圧力エムゾネによる影響・観光客増加による影
響(遺跡、建造物のき損、周辺環境の変化)開発圧力による影響・
周辺地域の大規模開発による影響(埋蔵部下材の消失、景観阻害要
因の設置)・住民の多様な意識による影響(統一性のない町並みデ
ザイン)資産の視覚エムゾネ的結び付きに関して・視点場における景観
を阻害する要因の数・規制(景観条例等)に適合しない要因の数資
産の関連性に関して・知識の提供、普及状況(整備の進捗、ガイダ
ンス施設、研究報告、発掘調査、パンフレット、HPなどによる各
種情報提供エムゾネ、国内外専門家による現地確認、各種研修会、セミ
ナー等の開催)・観光客数の動向(入込数、便益施設と収容能力な
ど)個別資産の保護に関して・酸性雨の状況(PHなど)・水系の
状況(水質、水量、生物など)・植生の状況(樹種とその割合など
)エムゾネ・遺構の状況(礎石の位置など)・現状変更数及び内容(2
)環境の圧力資産の価値を著しく低下させるような自然的環境の変
化として、山体の形状を変化させる噴火及びそれに伴う噴石、火砕
流・火砕サージ、溶岩流、融雪型火山泥流、降灰、降灰後のエムゾネ降
雨による土石流などによる登山道及び周辺の資産の損傷が予測され
る。「大沢崩れ」が約1000年前より始まり、現在その幅は年1
.6mの割合で拡大している(富士砂防・S45〜H20の38年
間で約60m・3400メートル地点・523万〜エムゾネ・年13.
8〜の土砂が流出)。ただし、噴火・地震等がなければ少なくとも
200年後までは富士山の景観に大きな変化はないと予測され紙路

24 :
る(大沢崩れと富士山の土石流・「富士火山」P407〜)。酸性
雨を含む大気汚染が引き起こす被害についエムゾネては、現段階では確
認されていない。白糸ノ滝については、年2cmの割合で後退して
おり、10年程度の間隔で自然崩壊が発生する。−115−砂嘴で
ある三保松原では20世紀後半に土砂供給源の川での土砂採取が活
発になり、堆積活動が減少したこエムゾネとで海流による海岸浸食が進
んでいたが、現在は土砂採取の禁止等により、堆積活動が回復節泣

25 :
キチガイは荒らし対象が増えすぎて散漫になっとるな
廃人まっしぐらw

26 :
模倣犯くさいけどな

27 :
ID隠して自演するためだけに浪人を買うとかさすがキチガイアフィ厨w
述鶴

28 :
このスレは、「転載禁止!」と言いながら、ちゃっかり自分のアフィサイトには転載しているアフィ太郎こと、アフィリエイト厨の立てた重複スレです
不正な目的のために立てられたので埋め立てます
★荒らしにより改変される前のスレッドタイトル、テンプレに直して立て直されるまで埋め続けられますので

ばいばい
キチガイアフィ荒らしさん
盲傍

29 :
FKELZdq0
埋め立てキチガイのIDだね
荒らすのが追いついてないんだよ

30 :
★キチガイ荒らしアフィ厨とは?
小学校入学してすぐに同級生に虐められ、わずか3週間で引きこもりになったアフィ太郎も既に引きこもり歴30年以上
極度の対人恐怖症のアフィ太郎は当然働けるわけもなく、登山キャンプスレの書き込みを勝手に転載したアフィリエイトサイトで唯一の収入を得ていた
そこに現れたライバルが「wi1d28jp」と「ワイエディ」
wi1d28jpとワイエディは、アフィ太郎よりもはるかにうまくアフィリエイトサイトを作りあげ、その影響でアフィ太郎のアフィ収入はみるみる減っていったということじゃ
それに激怒したアフィ太郎はアフィ厨と名前を変え、登山キャンプスレの歴史あるスレのスレタイやテンプレを次々に改変
全ての住人に忌み嫌われながら、アフィ厨にしか見えない敵との戦いを今でも繰り広げているという
めでたしめでたし(迷惑迷惑)

■テンプレ改変で実際に被害を受けたスレの例
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/

元の正常なテンプレのスレ
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1494391137/

誰も賛同してないのに勝手にスレタイ改変、テンプレを切り刻んで批判を受け、バレバレの自演で擁護を始める様子
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1494391137/971-

案の定、アフィ厨が勝手にタイトルを変えて立てたゴミスレは誰も使わず、わずか12レスでdat落ちw
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1503153314/
貪薪

31 :
それを2ちゃんねる運営の陰謀だと逆恨みしたキチガイアフィ厨はますます頭のあたりがおかしくなり、あらゆるスレのテンプレ改変を始める富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、エムゾネ静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高37
76.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風
貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られエムゾネている。数多く
の芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく
、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線
の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の
海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特にエムゾネ山頂部は浅間大神が鎮座
するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家
により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山
修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識さ
れるようになり、登拝が行わエムゾネれるようになった。これら富士信
仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シ
ーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百
名山、日本の地質百エムゾネ選に選定されている。また、1936年(
昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後
、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年
)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連す
る文化財群エムゾネとともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名
で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目で
ある。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤
りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も
呼エムゾネび方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常陸国風
土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも
多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もあ
る。また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」といエムゾ召番

32 :
長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説
もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラーは、名前
は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来す
るとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中にエムゾネ鎮座する火
の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論があ
る。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシ
ア語説等がある。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては
駿河国富士郡に由来するとするものがありエムゾネ、記録としては都良
香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり
」とある。富士山に因む命名富士山が日本を代表する名峰であるこ
とから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富
士山の麓として静岡県に富士市・エムゾネ富士宮市、富士郡、山梨県に
富士吉田市・富士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものと
して富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠す
る例(信濃富士など)がエムゾネある。日本国外に移住した日本人たち
も、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富
士見」および「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、
321座を超える数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士
と呼ぶ。詳細はエムゾネ「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士
」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名
として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富
士山周辺の地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層
火山でエムゾネあり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富
士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成
されたものだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小
御岳(こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)エムソ
゙ネ火山この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世に思政

33 :
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以
来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が
現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが
蓄積している(活火山である)現れとエムゾネされている。プレートの
観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又
はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静
岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラエムゾネフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点
(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン
海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山
のマグマは、東日本エムゾネにある島弧火山と同様に太平洋プレートに
由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんどが安
山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩マグマを
多く噴出すエムゾネること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂
山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「
大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神
峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名
はエムゾネ、富士山。標高3775.51m2014年4月1日改算)
、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は
、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、火エムゾネ口
の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は
130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富
士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定で
ある。2014年1月の富士山世界文化遺産協議会エムゾネ後の記者会
見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を魚集

34 :
ないことを明言している。国土地理院がインターネット上で公開し
ている地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると
住所、緯度・経度、標高が表示される機能エムゾネが加わったが、帰属
未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると
静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、
これを受けて富士山頂の住所表示エムゾネについては非表示になるよう
変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は
宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山
)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693mである。宝
永山の西側には巨大な噴エムゾネ火口が開いている。これらを間近で見
ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山」を
参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参
照最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火
が始まり、溶岩エムゾネを大量に噴出した。この溶岩によって、現在の
富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が
新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見
られるが、約2,500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の
山頂部エムゾネが大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして
崩壊した。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千
年前〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部かエムソ
゙ネらの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から
の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的
に発生している。延暦19年−21年(800年−802年)に延
暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出しエムゾネた貞観
大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火進制

35 :
が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気がエムゾネ観測されており
、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立
した『竹取物語』にも、富士山が作品エムゾネ成立の頃、活動期であっ
たことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の
『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録はエムゾネ、新井白石による『折りたく柴の
記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後
も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間
かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3
00年にわたって噴エムゾネ火を起こしていないこともあり、1990
年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし
先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気
象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に
区分されてエムゾネいる。2013年7月20日、産業技術総合研究所
は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま
とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016
年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過エムゾネ去2000年間に少なくとも43回あったとしている。山体
崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑がんせつ
なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側
に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、エムゾネ直
下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7ク
ラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴約2900年
前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メートル)辱栄

36 :
体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄エムゾネ平野へ、南
へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。
1331年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生
。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についてエムゾネの検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表するこ
とはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催壁尻

37 :
かなく、ケッペンの気候区分では最暖エムゾネ月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月
や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を
占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未
満の日も過去に数回観測されエムゾネていて−30℃を上回ることがな
い1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて
気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となってお
り、自動気象観測装エムゾネ置による気象観測を行っている。詳細は「
富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げら
れ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には
、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から
富士山の砂エムゾネが巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えら
れると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形
に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶
作エムゾネとなるという言い伝えがある。富士山では山岳波が発生する
こともあり墜落事故も起きている(英国海外航空機空中分解事故な
ど)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物として、「富士山
原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月2エムゾネ4
日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」
(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水
白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流
水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地エムゾネ点から湧き
出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合
目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メート
ル以上だという。しかし、近年湧出量の減エムゾネ少が確認されて敵呈

38 :
例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流)、小浜
池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の
滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(
国指定の天然記念物)またの、一エムゾネ部で駿河湾や富士五湖の西湖
(水深25m付近)で湧出があるとされている。富士山を源とする
伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業
が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富
に含んでいるため、ミネエムゾネラルウォーターとして瓶詰めされ販売
されている。溶岩洞窟西湖コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小1
00以上の溶岩洞窟が形成されている。その中でも総延長2139
mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを
誇る。また、山エムゾネ麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモ
リ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指
定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の
他の高エムゾネ山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富
士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系か
らの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいエムソ
゙ネくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ
ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)
が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ
帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマエムゾネツ帯は
欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮
浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神
体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信
仰と言われるようになった。特に富士山の神霊エムゾネとして考えられ
ている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅式芝

39 :
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある
富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富エムゾネ士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の
高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」
「富士山は駿河の国の山で(エムゾネ省略)まっ白な砂の山である虜紳

40 :
都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国
うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)
のように駿河国・甲エムゾネ斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線
で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジ
ョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたとエムゾネ考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口
である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山
道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。エムゾネ神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と
考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例とし
ては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ
、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物エムゾネで
ある『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩
」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を
「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−
1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八エムゾネ葉の嶺あり
」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合
目以上を寄進された経緯で、現在富士山のエムゾネ八合目より上の部分
は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山
の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰
を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、
新興宗教として旧来の登山道ではエムゾネ発展できなかったために吉田
口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18点肯

41 :
後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参
詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年
(1500年)の記録にエムゾネ「此年六月富士導者参事無限、関東乱
ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先
導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文
書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以
後慶応4年(1エムゾネ868年)に神仏分離令が出されると、これら
神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山にお
ける仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日
堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口エムゾネ本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名
も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1
906年(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成エムソ
゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に
指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡
富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾
野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富エムゾネ士河口
湖町・鳴沢村である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺
、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有
地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入エムゾネり混じっており
、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5
98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士
山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹
の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)エムゾネを神馬であると見抜き、
同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、
富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと館暮

42 :
ったり、たとえ社寺参詣であってエムゾネも寄り道することは許されな
いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年
を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬
返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を
下りて山に登るという所エムゾネ)そこで宗秀は嘉永6年(1852)
6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を
登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂鍵散

43 :
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186
0年英国公使オエムゾネールコックが外国人として初登頂。『古事類苑
』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に
提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成
り、廿エムゾネ五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い
たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り
登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解
かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ
゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登
山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人
のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を
出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治エムゾネ28年
1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1
2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日
の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登エムゾネ山後、8合目以
上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行
った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍
仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到
着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1エムゾネ927年中村テルが冬季
女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6
3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登
山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇エムゾネ太子徳仁親王が登頂。8月7日に
富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には
各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来票娘

44 :
山道であり、その登エムゾネ山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起
こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり
やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた
といい、一エムゾネ戸に約一両が配当される計算になるという。内院散
銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ
て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において
は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に
よエムゾネり内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(
天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の
内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14
年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭のエムゾネ取
得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役
銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し
ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士エムゾネ信安など富
士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する
にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可
を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登
山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こエムゾネし、「大宮」と「吉
田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。
元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須
走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で
ある。須走村側は東口本宮冨士浅エムゾネ間神社の神主や御師らが、浅
間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出
た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽
の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した
薬師堂の棟札に「富士本エムゾネ宮が入仏を勤める」という旨の記餓手

45 :
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複しな
い一合目以上御中道エムゾネに至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コ
モンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあり
ます。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国
土交通省関エムゾネ東地方整備局が関東の富士見百景として、20陳甲

46 :
年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便など
では富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するア
ナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧
飛エムゾネ行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、
和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは
別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西
にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日エムゾネに
福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離にあ
る)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山からも眺望さ
れる。富士山の見える都道府県は、理論上可能とさエムゾネれていた京
都府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県と
なった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季
節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿
がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝エムゾネ、露出した山肌が朝
焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士
」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で
紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenro
t)が用いられる場合がある。逆エムゾネさ富士波立ちが少ない水面に
映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ
富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇
った時又は沈む時、太陽エムゾネが富士山の頂上と重なり、富士山の頂
上付近がダイヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東
の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士
山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上エムゾネに見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、揺東

47 :
に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「裏富士」
『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小屋や登山道の
道標とエムゾネして「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に
静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認
知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680
年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」というエムソ
゙ネ表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、
(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲斐国志』
他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓をエムゾネ表、北
麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別
に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『
冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山
裏富士』など、作品名に採用されている例がみエムゾネられる。富士山
の文化美術における富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩
野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャ
ラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまエムゾネり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として
描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献
納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐のエムゾネ黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の
山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌
倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽エムゾネ我物語富士巻狩図』など物語文学の成立と
ともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては慎雷

48 :
状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描
かれ、特別エムゾネな存在として認識されていた。室町時代の作とされ
る『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化
財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間
神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。
まエムゾネた、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北
斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けエムゾネた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨
嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技
法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺
や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏エムゾネの赤富士を
描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の
1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広
重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスエムゾネケッチを重ね作品に
活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が
多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏
富士を画題として開拓していったエムゾネ。工芸品としては本阿弥光悦
が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と
銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影
した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品
や工芸、写真、デザインエムゾネなどあらゆる美術のモチーフとして扱
われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が
日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近並霊

49 :
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フラエムソ
゙ネンツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。
フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパ
ではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろう
か〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインエムゾネとして
漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたし
たちにはお馴染みだ。〜〜8月15日付戦時下には国家により富士
は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様
々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてエムゾネのイメージから
解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡
球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士
を描く傾向も見られる。深田久弥は『エムゾネ日本百名山』の中で富士
山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」と
いう。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士
山を豆粒のような人物(僧、エムゾネ西行法師)が見上げるという構図
で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデル
となった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用
いられている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くあ
る。古くは1913エムゾネ年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山か
らの富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円
札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの
富士山であエムゾネる。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11
年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・
山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富士桁弧

50 :
和エムゾネ歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中
には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.31
8)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、こエムゾネの
反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火
を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「
(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪
を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士エムゾネ山が火山活
動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』から。富士の
煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしら
ぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な
山として認識され、古典文学では都良香『エムゾネ富士日記』が富士の
様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語後半で富士が舞台
となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことにな
っている。それからその山は数多エムゾネの士に因んでふじ山(富士山
)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の
静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている
場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士
に言及される箇所があるエムゾネものの、主要な舞台となるケースは少
ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河
側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側
の富士についてエムゾネ触れられている。また、「八面玲瓏」という言
葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美し
い形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が
往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には
鉄道なエムゾネど交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受奉怖

51 :
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり
、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書
き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓にエムソ
゙ネ滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞
台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後
に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島
佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモエムゾネデルに
、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山
―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義
文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それ
ぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖はエムゾネ地域文芸の振興
にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小
説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよ
く知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山エムゾネ頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞
受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作
品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた
際、美しい富士山を見て歌をエムゾネ詠んだ。駅前にはその歌碑が建て
られている。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降り
る子連れ花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、
富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。
しかし、富士山麓にエムゾネは温泉地として成立する規模の湯量は湧出
していない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護
を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており
、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題エムゾネ等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の
相違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登植緒

52 :
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山
開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外エムゾネは、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」
を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所は著名
な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士山が望エムゾネめ
るうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物が妬江

53 :
ル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートルエムゾネ。
日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレス
ト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode
6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表でエムゾネ、「ふ」を
送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続けら
れている。これは「近江の土を掘り富士山エムゾネを作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注
ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを
「お水取り」という[82][83]。2014年には日本富士山
協会と中華民国山岳協会との間でエムゾネ、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾
の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山
と呼ばれ、日本最高峰でエムゾネあった。標高3,952メートル。雪
山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い
山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い
山。標高3メーエムゾネトル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84
4メートル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧
ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含
まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山
のフ」エムゾネという。文字コードのUnicode6.0では、携帯
電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU
NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺産
平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記エ始渉

54 :
゙ネ載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置
する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述
))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所エムゾネ在地に
ついては以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座
標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口吹丈

55 :
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲エムゾネ及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍
における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産
面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積
、資産の総面積及びその緩衝地帯の総エムゾネ面積については、以下に
記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構
成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の
説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さ
を誇る独立峰である。高度をエムゾネ増すごとに山腹の傾斜が急になる
美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し
た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、
日本列島のほぼ中央エムゾネに位置し、フィリピン海プレート、ユーラ
シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異
な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火
山噴出物かエムゾネらなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先
小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口
はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レエムゾネートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け
ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行
ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物はエムゾネ、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、
山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲に広
がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩
流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とエムゾネする豊縁飛

56 :
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とり
わけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と
呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景エムゾネ観的には山体の
傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認
識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが多
い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に
位置する富士山体と、周辺の浅間神社エムゾネや御師住宅、霊地・巡礼
地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)と
なった地点から構成される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山
道などの重要な要素が含まれている。これらの構成資産が一体とな
った推薦資産「富士山」は、エムゾネ山に対する固有の文化的伝統を表
す物証であり、山と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本
であるとともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資
産/構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・エムゾネ村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A
4須走口登山道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神
社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖
湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B
5遺跡B6エムゾネ遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9
遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15
遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社
河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河
口エムゾネ浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津
胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山
中湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支エムゾネ援
施設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の職騒

57 :
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保エムゾネ松原は、何
度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型的な
構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である
。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上
に該当する標高1500m以上の区域でもエムゾネあり、その中でも、
他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮駆粒

58 :
大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の
一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性エムゾネを持つと認識されてきた。A
富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真
複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点
として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご
ろにかけての修行僧末代エムゾネの活動がきっかけになったと考えられ
る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が
出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の
登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口
の合計と同程度エムゾネ)によって利用された。また、1200年の資
料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ
れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要
所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富
士独特エムゾネの登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき
ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A
4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)
浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ
゙ネされた。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社など
は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、
律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火エムゾネを鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動
が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発化し始め
、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し
ていった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神エムゾネ社や富士浅間神
社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立され
るようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中痕林

59 :
流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内エムゾネし、宿泊の世話や祈祷を
行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B
2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神
社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河
口浅間神社B7冨士御室浅間エムゾネ神社(写真複数、地図挿入)(改
頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山
に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風
穴や湧水地などを巡エムゾネり、巡礼や修行を行っていた。富士講の開
祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五
湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また
、長谷川角エムゾネ行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)
元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀
ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、
特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B
9エムゾネ山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍
野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺
跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富
士山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設をエムゾネ始
め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ
た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う
範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高エムゾネい。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す
る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世
界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境賞尚

60 :
の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅
くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山
本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山エムゾネ頂部に薬師堂(現在の久
須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像
は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変局販

61 :
ることなく、上記の行為は現エムゾネ代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.
大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間
神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活エムゾネ動により、富士山南麓における登山が本格
的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山
が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊
」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の
管理を行うエムゾネとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を
行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と
言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19
世エムゾネ紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00
0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した
。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口エムゾネ利
用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を
経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2
600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19エムゾネ70年に標
高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富
士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で
ある。その起源は明確ではないが、文字資エムゾネ料の中で1486年
にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた
。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝
所)としても使用された。道者にエムゾネついては詳しい研究が進預現

62 :
いないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった
。1883年、須山口二エムゾネ合八勺(標高2050m)に接続する
御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御
殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年
、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの
登拝(登山)はエムゾネ衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山
道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現
在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊
歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道
富士山エムゾネ東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道
と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが
、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ
゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の
権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世
紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権エムゾネ利は幕
府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設
及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の
支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀
後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行でエムゾネ道者数は年平均
約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた
。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000
m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認
ができない区間がある。(推薦範囲はエムゾネ現在も利用されている新
五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神領苛

63 :
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要エムゾネな道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1
1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
にエムゾネ名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢
崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台
風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定されるエムゾネ予
定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られてい
た浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ
ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮エムゾネ本殿、15
94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との
つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社エムゾネ入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を
もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本未隣

64 :
展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929
年の国宝保存法エムゾネ制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年
の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19
53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定
された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196
2〜6エムゾネ3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19
81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ
゙ネとともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8.精
進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖
である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつのエムゾネ時代も
変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口
湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と
ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も
使用された写真の撮影地点であり、重要な展望エムゾネ地点(view
point)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真家に
愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続
けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名エムゾネである。この写真は、1
984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を
構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士
山とほぼ同じ姿のまま現在もエムゾネ残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富
士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により磨割

65 :
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古くエムゾネから富士山南麓地域の中心的神社であった
。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご
ろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社
(興法寺)エムゾネとともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が
周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604
年エムゾネ現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造
営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を
得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり
、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配エムゾネ権
が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974
年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され
た。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅
間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えエムゾネや、富士山
を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均
14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である
。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大エムゾネ社により道者が身を
清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。
現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に本エムゾネ殿が古社寺保存法の下に特別
保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼門等
の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国
宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。193裏呪

66 :
に袖廊・廻廊を附した。エムゾネ1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1
988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本
殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修
理等が行われたエムゾネ(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理
等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位
置すべエムゾネき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され
るのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。
具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ
゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551
年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅
間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ
は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮エムゾネ浅間神
社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという
解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が
ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道という。道にエムゾネは1691年に
置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198
5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定されエムゾネる予定。B3.村山浅間
神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源
とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設
として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(
資産範囲には浅間神社と寺院エムゾネである大日堂が含まれる)。唇軍

67 :
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続栄駒

68 :
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者エムゾネによって再興されたとされる。法的保護、修理
・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点
在するエムゾネ小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅
間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船津胎等棋

69 :
噴火はエムゾネ2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1
200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86
6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ
゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確
認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流
出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国エムゾネ家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める
ため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として
祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国
家の宗教政策の一端に位置づけられるようになエムゾネった。また、富
士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ
うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本
最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、
数多くの和歌・物語など文学の題材とエムゾネなったほか、現存最古と
なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12
世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二
つの都市を結び富士山南麓をエムゾネ通る街道の交通量が増加したこと
で、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世
紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰
と密教・道教(神仙エムゾネ思想)が習合した「修験道」の道場ともな
り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ
と変化していった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説
)により、山頂部は仏の世界(又は仏が神の形となって現れる場所
)として認エムゾネ識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つ才晩

70 :
になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん
になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
らエムゾネ15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の
道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ
たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安がエムゾ源繭

71 :
定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周
辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった
とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「エムゾネ富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が
登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と
いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を
経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈エムゾネ祷や宗教的指導を受
け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え
る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお
いては長谷川角行ら指導者の言動エムゾネにならって周辺の風穴や湖沼
・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設
・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸エムゾネ術作品の多様化とジャポニスム芸術面
においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら
れ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(エムゾネ表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた
。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機
を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、その富士山
を含んエムゾネだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき
たのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーション
を得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴った
ものが多い。近世以前も富士山は日本一有名な山であったが、1エムソ
゙ネ9世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体制を整縫抜

72 :
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に
行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響をエムゾネ与えた
。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを
契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設
に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁
の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大エムゾネした。19世紀
末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ
せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900
年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道とエムゾネしては、1929年に北
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道
路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第
二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものエムゾネから、富士山への憧れを主な動機
とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と
して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山ス
カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m
)を起点とした登山エムゾネが主流になった。この結果富士山への登山
者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007
年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の
行動様式の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加え
て、現代的エムゾネな富士山信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう
に、新たに富士山との関わりが明らかになったことが、環境保護活
動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士
山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法に
よエムゾネり、山麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同
じ範囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部とし餓炭

73 :
。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネ富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の
祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装
飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝エムゾネが主催
した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式姉擦

74 :
(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧でエムゾネ、鎌倉画派の祖
とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟
子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本
を代表する水墨画家の作。水墨画によエムゾネる富士山の一典型作。静
岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜
)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく
した。下辺に三保松原、富士エムゾネ山の左手に日輪を描く。22富士
山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名な作家名
所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士
山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝
昼晩の三つの景色をエムゾネ造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術
館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を
開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17
世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。
琳派尾形光エムゾネ琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1
8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越
する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本
文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
しエムゾネ、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山
佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石
和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州エムゾネ藩
の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富士、
赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835
江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の藩囚

75 :
け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原エムゾネ図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応
挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17
77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。
江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡エムゾネ県立美術館薩〜山富
士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響
を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写
生的花鳥画を学び、また平賀源内エムゾネらを通じて蘭学に通じた。禅
画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅
僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派
葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な
浮世絵師。富岳三十六景エムゾネに見る象徴主義は欧米文芸に大きく影
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(
19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次
など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸エムゾネ市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世
絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章
指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高
橋由一エムゾネ金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃
五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ
゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画
を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍
三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に
存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔ともエムゾネ言住酔

76 :
き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武
箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇
をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだエムゾネ。膠画(日本画
)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性
をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天エムゾネ心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山が描かれた
。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観
とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き
込む。〃川端龍子東京・大田エムゾネ区立龍子記念館怒る富士1944
強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士
に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928
昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現
技法を示す。〃徳岡エムゾネ神泉京都国立近代美術館富士1965福田
平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる
モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富
士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士
を描いたがエムゾネ、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術
館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立
近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ーエムゾネドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア
ながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に
託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1エムゾネ8
94文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情を写真に由腰

77 :
ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「
日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ
く物語集ものがたりしゅう」(平エムゾネ安)和歌集大伴家持おおとも
のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち
・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村
上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)
後鳥羽ごとば上皇じょうエムゾネこう「新古今和歌集しんこきんわかし
ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して
んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄
ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾
遺和しんしゅうエムゾネいわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文
都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳
(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき
こう」エムゾネ堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「
富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい
こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ
゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠
州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅
井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし
ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記エムゾネ」松尾
まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ
き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊
とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめエムゾネ(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい競竹

78 :
き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)
「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべ
にっき」永井ながい荷風かふう(江戸エムゾネ−昭和)「大窪だより」
伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものがたり」(平安)※
作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部むらさきしき
ぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤
原兼輔ふじわらのかねすけ「エムゾネ聖徳太子伝暦しょうとくたいしで
んりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語もの
がたり」「平家へいけ物語ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そが
の物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せい
すいき」(鎌倉)※エムゾネ未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅
井あさい了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿
弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣は
ごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名
草紙※作者エムゾネ不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ
っぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひ
ざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えも
んエムゾネ(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好松
洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮名か
な手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ
(明治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うエムゾネん
の厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい
白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋か
たい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−
昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさエムゾネん」永井な
がい荷風かふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい
治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂望週

79 :
おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせ
いこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこエムゾネう」北村きたむら透
谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふ
かだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざ
ん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆ
き」夏目漱石なつめそうせき(明エムゾネ治−大正)「三四郎さんしろ
う」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系
図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと
人生じんせい」(随筆)エムゾネ永井ながい荷風かふう(明治−昭和)
「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士
山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓
点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和
)「富士ふじ」エムゾネ武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士
日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ご
うりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士
ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士エムゾネふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治
−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治−
昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治
−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつもとエムソ
゙ネ清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざ
わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間に
んげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くず
れ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥エムゾネ−奈良
)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんよう
しゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「乾扱

80 :
よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平エムゾネ安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ
わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう
ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわエムゾネらの俊とし成なり(平安
−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ
百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ芳杯

81 :
った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似
の登山案内図が数多く作成された)に示されたように、雲上の神仏
の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を中心に、富士山体
・周辺にある富士山の火山活エムゾネ動によって生成され神聖な意味を
持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修
行することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消
して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と
呼ばれる行為(儀礼エムゾネ・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ
て富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大
衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然
への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特エムゾネに密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を
中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を
成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰
やエムゾネ今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山
は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)この神は
、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考
えられていた。また、この神は一つの神に限定されず、信仰エムゾネの
種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が
信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対
象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化する
ことを示す言葉であり、その後、主に修験道においエムゾネて富士山な
どの霊山に登って修行することも意味するようになった。写真「絹
本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士
曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を
物語る建築物、その集合体、科学技術の集エムゾネ合体、あるいは景観
を代表する顕著な見本である。評価基準(C)の適用富士山で米奈

82 :
富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て
山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に
かけて発達し、18〜19世紀にエムゾネかけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山によ
り生み出された芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこで
の儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持
つ景観として認知され、エムゾネこれが宗教的絵画等で表現される両送

83 :
により、多くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固
に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人
間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信
仰の形成過程をエムゾネ通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社
会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な
見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本
富士山では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山
が開始エムゾネされ、15〜16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登
拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存
在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ば
れた)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、エムソ
゙ネ「深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、
砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことをエムゾネ背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成
立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに多様
な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる富士山
信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、エムゾネ18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての
景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対
する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神的関係を示
すものであった。、31(※3)富士エムゾネ山は神仙思想における不
老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信
仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、
女性を含め山頂への登拝がでエムゾネきない人にとっての代参施設とな
った。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行する渇法

84 :
山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行わ
れた。右「富士山のエムゾネゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(
E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想
、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい
)。評価基エムゾネ準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が醸成
する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対する信仰
の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂への遥拝と参詣
を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著である山を神聖視す
るエムゾネ文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山
(深山)草山(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くか
ら様々な芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をは
じめとする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題エムゾネと
する絵画などの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山
を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋
芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著な普
遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作エムゾネ品と直接的
・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生き
た伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では
特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道
教(神仙思想)、儒教と結びついて修行のエムゾネ場や宗教施設を設置
する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝え
られ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝など
の形態や儀式に伝えられている。エムゾネまた、富士山のみならず日本
各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山
を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行わ滝杉

85 :
いる。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と
直接的・実質的に関連がエムゾネある景観である。・顕著な普遍的意義
を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲
には湖や海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があ
り、今日に至るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これら
の富士山を題材エムゾネにした芸術作品のうち、最も海外に影響を与え
た作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半
に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され
、他の浮世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれ
た西洋エムゾネにおける日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった
印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因
となった。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝
説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズエムソ
゙ネムに影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を
題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品
は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士エムゾネ山から
インスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも
に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士
山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良く知
られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句なエムゾネどによってその
崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者(
※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをは
じめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川
沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨エムゾネ嶽三十六景」より(18
31〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍
的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結
果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値債含

86 :
つ。顕著な普遍的価値の言明エムゾネ富士山は、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として世界的
に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自
然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広
重などによる顕著なエムゾネ普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独
特の芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信
仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の避管

87 :
と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみな
らず、人間エムゾネと自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出し
た類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
である。富士山の山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動
の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風
穴エムゾネ・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。
また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤と
し、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経てエムゾネ山
頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これが発展し、18
〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による宗教的登山及びそ
の体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承さ
れている。現在でも、富士山は日本を代表し象徴すエムゾネる最高峰と
して老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山
と周辺の特徴的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観
として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎とな
り、「万葉集」をはじめとする日本固有のエムゾネ和歌や俳句、絵画な
どの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし
た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々
な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と富士山や
その景観美を紹介した外国人の著エムゾネ作を通じて、富士山が一つの
国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至
っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山
c)比較検討による証明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価
値を表す要素を特定し、エムゾネ他の同種の遺産がそれらの要素に該当
するか否かを検討することによって比較を行う。富士山の顕著な普
遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固
有の文化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山黒土

88 :
山頂への参詣なエムゾネどの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活
動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡
礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀
礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が
継承さエムゾネれている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周
辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本
における自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も
著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義エムソ
゙ネを持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代
の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」であ
る。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された
国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化エムゾネ的景観
に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において
、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され
た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的
価値の形態をとって現れるとされた。また、信エムゾネ仰の山の自然的
特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指標
を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然
的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程
度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含エムゾネむ)・水域」「火山」(
火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがある
か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道
」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかどうか
、無形的価値としては、「継エムゾネ続性」(崇拝儀礼などが今も行わ
れているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登
拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(山自体が国、
民族の象徴となっているか)、「知名度」(富士山と同程度(山頂
までの登山者が30エムゾネ万人、山麓が4,000万人)の訪問巨恵

89 :
あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著
な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美
が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、またそれらの作品群
が海外にもエムゾネ広く知られ、世界史に大きな影響を35与えたかど
うか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資産
の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとして
は、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基
準エムゾネに関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術への
明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による研究書等
で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の
基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「Fiエムゾネl
lingtheGaps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的
景観に関する研究書の分析を行った。具体的には、Bでは、の三つ
の文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術への関
連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地エムゾネ域の土着信
仰」に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センタ
ーから刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中
で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美的資質」、「
集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地エムゾネ、神聖性」の特徴を
持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外の同
種資産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のある
ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記の無
形的側面での共通性があるもの、エムゾネ芸術面では山自体が絵画の題
材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力があるものを共通
性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示し
た比較軸である信仰の物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面
)、芸術作品との関連性エムゾネにより、同種資産を整理すると表2、
表3のとおりになる。36表1:比較対象とした海外の山岳等属竜

90 :
4件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュ
タウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバ
ラン−イラン3エムゾネスライマン−トースライマン−トー聖山キルギ
ス4プーカオ山チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プー
と関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山
、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブル
カン・エムゾネカルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6捜泉

91 :
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウ
ルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰
山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国エムソ
゙ネ11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13
武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国
15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡
山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国エムゾネ18雁
蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島
と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野
生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ
ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキーエムゾネ山脈国立公園ア
メリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー
山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、
ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナエムゾネイ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山
とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈
−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ2
9オリンポス山オリンポス山エムゾネ周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊
ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア3
2ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(
ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプ
スユングフラウ−アエムゾネレッチュスイスアジア・太平洋地域以外3
4キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2:
信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形
的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに
とって、ウエムゾネルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可
欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった架聞

92 :
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジア
随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイ
スエムゾネラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行
為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信仰形態をもたない
)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の象徴)・シバ神の
住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺エムゾネ院
群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・
同程度以上の標高(エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々
の住処として崇拝される空想的な山であるメール山(スメール山、
須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、ヒエムゾネンズー教、
ジャイナ教の聖地・ヒンズー教の聖典の一つには人間の罪はヒマラ
ヤを見れば消滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ
山ナウルホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は
文化的・宗教的な重要性を持っており、そエムゾネのコミュニティと環
境との間の精神的なつながりを象徴している。・山自体が信仰の対
象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道、寺院・
小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場所)・儒教・
仏教・道教の聖地である。・秦のエムゾネ時代より、皇帝即位の際の儀
式である「封禅の儀」を執り行っていた。・宗教施設が山頂、山中
に点在するため、参拝が登山の形態をとるが、登山行為自体に宗教
的な意義を求める登拝とは異なるものである。11廬山参詣道、寺
院・中国の近代政治上、エムゾネ重要な場所とされている。・山自体で
はなく、山に築かれた宗教施設が信仰の対象である。・仏教、道教
、儒教の聖地とされ、キリスト教、イスラム教の施設も建てられて
いる。12峨眉山・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣
道、寺院・中国エムゾネにおける仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗
教施設や日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。
宗教施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の形態をと紅土

93 :
ここ何のスレよ

94 :
、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13武夷
山・参エムゾネ詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、朱子
が生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではなく、山に築か
れた宗教施設が信仰の対象。16五台山・同程度以上の標高(葉頭
峰3058m)・参詣道、寺院、小朝台(朝台を簡略化した祈るエムソ
゙ネ場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊菩薩が悟りを開いた地と
される。・自然景観を神聖なものとしているが、5つの台頂に築か
れた寺院に参詣すること(「朝台」)が最大の願いである。20漢
拏山・独立峰、火山・参詣道・韓国の最高峰の火山で、エムゾネ聖なる
儀式の場としても使用された溶岩洞窟を多く持つ。・山自体よりも
山中の石に対する信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐
浴場・釈迦が訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏
教、ヒンドゥー教、イスラム教それぞれの聖地エムゾネとされ、巡礼者
が訪れる。25シナイ山修道院・シナイ山は、旧約聖書において、
モーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。28ア
トス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。・105
4年にギリシャ正教の中心地として定エムゾネめられ、現在も修道士た
ちの隠棲の地であり、敬虔な宗教活動が続けられている(女人禁制
)。入場者はごく少数に制限されている。34キリマンジャロ山・
同程度以上の標高(キボ峰5895m)・地域の神が住む場所と考
えられ、東アフリカの人々はエムゾネ死者を埋葬する。・チャガ族(キ
リマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としており、
彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3
:芸術関連の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの
詩や文が残る。・山エムゾネ頂の風景が紙幣の図柄になるなど、中国人
の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・絵画は数多く描かれ
、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作られ、
特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22ア駆横

95 :
チア山脈・エムゾネフレデリック・チャーチやトーマス・コールといっ
たアメリカの風景画家に描かれている。24ロッキー山脈・19世
紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッドの描く絵画は、ロ
マン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキーマウ
ンエムゾネテン画派”の指導者であった。・富士山と同程度以上の標高
(エルバート山4401m)26サント・ヴィクトワール山・20
世紀の初頭、フランス人画家、ポール・セザンヌによって、風単串

96 :
に対して根本的に異なるアプローチが始められ、西洋美術作エムゾネ品
の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活
の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸
術・文学作品が関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド
・デ・カルボニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトエムゾネル・ユゴー
等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展していく上で重要
な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印
象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等におエムゾネいて重要な役割を担
った。・レオナルド・ダ・ヴィンチはモンテ・ローザのスケッチを
モナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以上の標高(フィ
ンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の
方法で、日本国内の資産についてエムゾネ、世界遺産登録物件または暫
定リストから抽出すると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に
共通性が認められる2件について評価を行った(表5)。表4:比
較対象とした国内の山岳等(3件)39表5:信仰、芸術関連の国
内の山岳等(2件)信仰エムゾネの物証番号山名自然的要素有形的側面
無形的側面芸術作品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝
・日本古来の自然崇拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して
形成された修験道などの行場としても重視され発展した。・山自体
が修験の場であエムゾネり、山中で廻峰行という宗教行為が行われてい
る。神聖性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、信仰
の山の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様である。2瀰
山神社・古くは彌山を含む島全体を神聖視し、対岸から遙拝してい
たのでエムゾネあるが、やがて水際に社殿が成立し、彌山を含めた背後
の山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観として重要視された。
神道の施設であり、仏教との混交と分離の歴史を示す文化遺産とし
て、日本の宗教的空間の特質を理解する上で重要な根拠である。エ慌逮

97 :
゙ネ番号山名資産名評価基準信芸国名仰術1紀伊山地紀伊山地の霊場
と参詣道日本2瀰山厳島神社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文
化財日本404)結論以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連
する山と比べて、推薦資産は、以下の3つの点で顕著なエムゾネ普遍的
価値を持つ事例であると言える。(1)海外の信仰関連の山岳との
比較富士山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建
てられた。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜1
6世紀には修験者に引率され、登拝を中心としエムゾネた宗教的な活動
が盛んとなった。山体につくられた宗教施設だけでなく、溶岩洞穴
・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果、登拝の行為
を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成された。このように
、富士山は、今日まで継承された山にエムゾネ対する固有の文化的伝統
を顕著に表す物証であるとともに、人間と山との精神的な関係を表
す景観であり、18〜19世紀は既に年平均1〜2万人という世界
的にも類例のない大衆による高山への登拝が行われるようになった
。富士山は、(ケニア山やキエムゾネリマンジャロ山、トンガリロやウ
ルル等に代表されるような)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰
山等の中国の山々やアトス山やシナイ山等に代表されるような)多
様な宗教の介入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいず
れも失うことなく現エムゾネ在エムゾネに至るまで継承している。信仰に
関連する山の多くは、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や
石仏が信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道
が整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設があるた
め、参拝が登山の形エムゾネ態をとるが、富士山のように登山行為自体
に宗教的な意義を求める登拝とは異なるものである。アダムス・ピ
ークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の聖なる足跡とさ
れる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態と類似するものであ
り、富士山エムゾネとは異なると考える。また、一部の山岳はその翻具

98 :
るがゆえに登山を制限しており、登拝はなく、遙拝という信仰形態
しか持たない山もある。信仰の山の自然的要素である標高について
は、自然遺産を中心に富士山よりも高い山も存在するが、その標高
にエムゾネ比した登頂者の多さ(年約30万人)は他に例がなく、山頂
部への道路や軌道によるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6
時間以上かけて、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は
、日本では20世紀前半に開花する近代アルピニズムに起源エムゾネす
るものではなく、17世紀以降の江戸(現在の東京)を中心に数多
く組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。この
ことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承され、
今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰としエムゾネて老若男女
を問わず憧れ親しむ「名山」であることを示している。また、富士
山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山者が多いことにも特
徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝むためであるが、17世
紀以降、道者が山頂周辺において「御来迎エムゾネ(仏の来迎と見なさ
れたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝んだこ
とに由来する。こうした自然現象に宗教的な意義を見出す傾向は、
比較対象の中では峨眉山以外には見あたらない。IUCNが200
9年に行ったテーマ別研究であるエムゾネ「世界遺産の火山」では、世
界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含ま
れていないことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ
火山や富士山などを挙げている。とくに富士山は、火山とその周辺
地域に訪れる年間の観光エムゾネ客が地球上のどの火山よりも多い点で
重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名度、科
学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべき
としている。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であ
り、高い標高をエムゾネ持つ富士山の秀麗な姿は、四方の広い範囲から
眺めることができ、古くから芸術活動の対象となった。これら彼液

99 :
山を題材にした芸術作品のうち、最も海外に影響を与えた作品は、
葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。この一連の作品は、ジ
ャポニエムゾネスムと呼ばれた西洋における日本芸術の流行を生み、モ
ネ、ドガなどの西欧の印象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォ
ルメ、平面的な表現技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発
生する一因ともなった。芸術的作品との関連性では、比較対象資エムソ
゙ネ産の関連する多くの芸術作品が、周囲の山々や景観を合わせ庸隊

100 :
いたものである。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、
アメリカの山々のように芸術史の上で一つの流派を形成したものも
あるが、その作品の影響は国内に留まる。また、中国のエムゾネ山水画
は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降で美術史に影響をもた
らす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山しかない。山と芸
術作品との密接な関連を持つ代表例は、セザンヌが描いたサント・
ビクトワール山があり、これはその作品の多さエムゾネからも西洋美術
で最も著名な山とされるが、富士山を題材とした浮世絵がセザンヌ
の出自である印象派にも大きな影響を及ぼしたことを考慮すると、
そうした浮世絵の制作を喚起した富士山の優位性は揺るがない。(
3)国内同種資産との比較信仰との関エムゾネ連性では、比較対象の資
産では、古くは山自体が神聖視されたが、その後は宗教施設が発展
し、山は背景となっていった。紀伊山地では、修験道の道場として
山々をめぐる行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期に
おいてはこうした修験者によエムゾネる登山が中心であったが、富士山
については、その後、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、1
8世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山へと発
展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による富士山の登
山を体験しており、エムゾネこうした信仰の核心が多くの人々に継承さ
れている点において富士山の優位性は明らかである。芸術作品との
関連性では、比較対象の資産では、評価基準(E)は信仰の空間と
の関連性で用いられており、関連する芸術作品等も宗教的な題材と
する作品がエムゾネ多い。富士山は、和歌や俳句、絵画、文学の多くの
分野においても、数多くの作品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮
世絵「冨嶽三十六景」のように西洋の美術史に大きな影響を与えた
作品もある。その多様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面
でエムゾネも富士山の優位性は明らかである。(4)結語このように、
富士山においては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの段苛


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