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/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門131m(ワッチョイなし)


1 :2018/05/01 〜 最終レス :2018/05/02
標高3,776mの富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。

高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。富士山では
台風並みの強風が吹くのもざらで、夜明け前の山頂は真冬のような寒さ。体感温度は氷点下に達します。
「寒いのはがまんすればよい」というものではなく、体温を維持するためにより多くのエネルギーを消耗します。
つまり寒いとそれだけ疲労するのも早く、低体温症により真夏でも疲労凍死することがあるのです。

初心者が登れるのは、山小屋が営業する開山期間中(山梨県側7/1〜9/10、静岡県側7/10〜9/10)に
限られます。山小屋が閉まるとトイレも使えません。初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月になれば
いつでも雪が降る可能性があります。10月以降はカチカチに凍った雪の急斜面が氷の滑り台になり、一度
足を滑らせれば岩にぶつかるまで止まりません。実際に毎年多くの人が滑落事故で亡くなっています。

このスレでは「安いから」というだけで100円のペラペラ雨合羽を薦めたり、「山の天気は変わりやすい」という
常識も知らずに「天気予報が晴れのときに登れば装備は簡単でいい」などという、初心者以下の知識の
知ったかぶりもいるので騙されないように。また、「自分はこれで大丈夫だった」「みんなこうしてる」という
話も鵜呑みにせず、事前に練習登山などで自分の体力を把握した上で万全な計画を立てましょう。

2 :
このスレは2ちゃんねるから書き込みを勝手に転載して稼ぐアフィリエイト厨の立てた重複スレです
不正な目的にために立てられたので埋め立てま広諦

3 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡エムゾネ小山町)
と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山であ
る。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰
で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知ら
れている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きなエムゾネ
影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも首炊

4 :
な影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火
山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰と
され、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視
されエムゾネた。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が
祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖
とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるよう
になり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代
により多様化エムゾネし、村山修験や富士講といった一派を形成す
るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏
季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)
、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、19
36年(昭和11年)エムゾネには富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2
011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25
年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰
の対象と芸術の源泉」の名で世エムゾネ界文化遺産に登録された。
日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだ
としても、「ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲
市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。
富士山についての最も古い記録は『常陸エムゾネ国風土記』におけ
る「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼
称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。
また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い
山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称さエムゾネれたとい
う説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラー
は、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプ
リ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中
に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤エムソ血助

5 :
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説
・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山」
と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来するとする
ものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士
と名エムゾネづくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因
む命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各
地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町エムゾネ・富士川町があるほか、よくあるものとして
富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を
冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人
たちも、居住地付近のエムゾネ山を「○○富士」と呼ぶことがある
。詳細は「富士見」および「富士街道」を参照また、全国各地
には少なくとも、321座を超える数の富士と名の付く山があ
り、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお
、地名以外にも「富士」を冠しエムゾネた名称は多く存在する。詳
細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は
「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地形図富士山の
構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の
火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富エムゾネ士山の山体は、大
きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだ
と考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(こ
みたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新エムゾネ世にでき
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行った
ボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体がある
ことが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「隔患

6 :
御岳」と名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千エムゾネ
年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、
標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1〜
2kmのところにあったと考えられている。2009年10月
に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これ
は1エムゾネ996年4月の観測開始以来初めてのことである。こ
の地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市−富士
吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活
火山である)現れとされている。プレートの観点からは、ユー
ラシアプレーエムゾネト外縁部で、北アメリカプレート又はオホー
ツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構
造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交エムゾネ点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込
んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものエムゾネである。富士山の火山上の
特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であるこ
と、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出している
のに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山
が非常に多いことがある。富士山頂山頂エムゾネ火口を上空より山
頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。
これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火
口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士
山。標高3775.51m2014年4月1日改エムゾネ算)、火
口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.
23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口爵言

7 :
造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、
火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火エムゾネ
口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、
富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と
市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化
遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知
事のエムゾネ横内正明は県境を定めないことを明言している。凶股

8 :
地理院がインターネット上で公開している地形図では2013
年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標
高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合に
は近くの帰属エムゾネが確定している住所が表示されるという設定
になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富
士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これ
を受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更
された。宝永山宝永山エムゾネと宝永噴火口宝永山(ほうえいざん
)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(
寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693
mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これ
らを間近で見ることができる登エムゾネ山コースも整備されている
。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細
は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1千年
前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出し
た。この溶岩によって、現在の富士山のエムゾネ山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500〜2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こしてエムゾネ崩壊した
。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前
〜約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前〜
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山エムゾネ
頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの
噴火が散発的に発生している。延暦19年−21年(800年
−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶
岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝包遜

9 :
年(エムゾネ1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達
し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大
噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火
山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残
されている。エムゾネ噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『
続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山
より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹
取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを
窺わせる記述がある。エムゾネ平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中
期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折り
たく柴の記』をはじめとした文エムゾネ書、絵図等により多数残さ
れている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが
、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測
される。宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしてい
ないこともあり、1990年代まで小学エムゾネ校などでは富士山
は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいま
だ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区
分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、エムゾネ1999
年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士
火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年に
は修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。エムゾネ
山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑
がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に
5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされ詐麻

10 :
る。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマ
グニエムゾネチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模
(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場
周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ
流下、山体崩エムゾネ壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震
に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴
火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定するものではない
が、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて
見解を発表するが、噴エムゾネ火の日時を特定して発表することは
ない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催され
る。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、
ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの
収集・整理、監視体制の検討、エムゾネ火山情報発信の方法などが
集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣
府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザードマッ
プの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直轄砂
防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にエムゾネして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013エムゾネ年、富士
山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、こ
の登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局
がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設け
たことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防エムゾネ
災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所
)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行わ鎌服

11 :
いる。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢
測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂に
はGエムゾネPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御
殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計
(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、
望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化
システム(VエムゾネIsualizationsystem弓村

12 :
rVolcanicActivity)噴出物災害などへの対
策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕
流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討
を実施しハザードマッエムゾネプが作成されている。しかし、山体
崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である
。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類エムゾネされる。太平洋側の気候の
ため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪
トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高
気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃
を上回ることがない1日というのは北海エムゾネ道でも例がない。
富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣
ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富
士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置によ
る気象観測を行っている。詳細は「富士山測候所エムゾネ」を参照
気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体
に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の
西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の
砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えられるエムゾネ
と報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥
の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作に
なる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では山岳波が
発生エムゾネすることもあり墜落事故も起きている(英国海外航空
機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物
:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指容介

13 :
名称変更)、エムゾネ「富士風穴」(天然記念物:1929年12
月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山
に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流
れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認さ
れている例は標高16エムゾネ70m(富士宮口二合目付近)とさ
れ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水
の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以
上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例が
ある。地域名称南東麓されていエムゾネ柿田川(日本三大清流)、
小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)
、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北
麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾や富
士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出エムゾネがあるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩エムゾネ洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が
形成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静
岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、
山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山エムゾネ
梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定さ
れている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日
本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富エムゾネ士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火
が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰である
ため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。し謎碑

14 :
、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では
タデ科オンタエムゾネデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科ア
ザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯
の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例
であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ
ツ林が広がっている。エムゾネ人間史富士山本宮浅間大社古代古代
より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、
また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言わ
れるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅
間大神とコノハナノサクヤビメエムゾネを主祭神とするのが浅間神
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市に
ある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にあ
る「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っ
ている。詳細は「富士信仰」を参照古代エムゾネでは富士山は駿河
国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高
く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富
士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)
まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)エムゾネ、「駿河
の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるも
のである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国と
こちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・
甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴エムゾネ
重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属
している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とエムゾネし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われ
る村山口である。これにより富士修験が成立したとされる寒箱

15 :
第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山
頂部は仏の世エムゾネ界と考えられるようになり、特別な意味を持
つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本
尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合に
よる「富士大菩薩」やエムゾネ「浅間大菩薩」という呼称が確帆斬

16 :
れている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこ
とも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)
の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。そ
の他多くの書物で「八葉」の記エムゾネ述が確認できる。江戸時代
江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営
や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より
八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の
部分は登山道・富士山測候所を除き浅間エムゾネ大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つエムゾネようにな
っていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」
といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録
に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導エムゾネ
者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達
」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文
中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶
応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏
習合エムゾネの形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山
における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離さ
れ、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど
改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂など
が取り壊されエムゾネることとなった。仏教的な名称なども改称さ
れ、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年
)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口
が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月7祥去

17 :
国指定文化財である「エムゾネ史跡」に指定された。史跡としての
富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括さ
れている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山
町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村であ
る。このとき富士山八合目以上エムゾネの山頂部や各社寺、登拝道
(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の
一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富
士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており
、諸説存在する。富士山の登山史和暦西エムゾネ暦内容補足推古天
皇6年598年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神
馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多
献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、エムゾネ馬は天高
く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、
3日を経て都へ帰還したという。天智天皇2年663年役小角
が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、
富士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山エムゾネ
の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの
『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたもの
の「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年87
5年平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火
口のエムゾネさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ
のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなけれ
ば知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者
に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史エムゾネ最大の貞観大噴火があった。久安5年114
9年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえした
とある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多神摂

18 :
った人物として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んにな
り、多くの参拝者が富エムゾネ士登山(富士詣)をした。特に江戸
後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の
代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百
軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧
計による高度測定の試みシーボエムゾネルトの弟子である二宮敬作
が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測
量では2603m−3732mとされていたが、この測定では
3794.5mと算出されている。天保3年1832年高山た
つが女性として初登頂。女人禁制が敷かエムゾネれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によるとエムゾネ、宗秀は
江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと
思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっ
ても寄り道することは許されないため、富士に登ることをエムゾネ
幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一
合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登
るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、
幕府エムゾネに内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り
始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、
近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1
860年英国公使オールコックが外国人として初登頂。『古事
類苑』にオーエムゾネルコックの登山についての記録(富士重本が
寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量俳碑

19 :
ニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大
宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊
り、廿六日快晴頂上いエムゾネたし…」とある。オールコックは7
月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した
。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代になると
信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとし
ても登られるようになり、欧米エムゾネの近代登山技術が取り霧雅

20 :
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター
・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富
士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895
年野中到が冬季初登頂。2月16日に御エムゾネ殿場口から単独で
登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大
正12年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7
月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、
8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参エムゾネ拝し金剛
棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。大正12
年1923年秩父宮雍仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口
から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年
1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口エムゾネ
から登頂、男性2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親
王(当時)の登山。8月1日−2日の登山で、須走口から八合
目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成20年2
008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後
、御エムゾネ殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役
銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には各登
山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登
山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していたエムゾネ。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、
争いを起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争い
の火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年
で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算にな
るという。内院散銭のエムゾネ権利は、大名などに与えられた権利
を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」と
「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に
村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権零装

21 :
えられている。須走は1577エムゾネ年(天正5年)に武田氏に
より薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権
が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家
康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を
得ている。浅間大社の大宮司が村山よりエムゾネ登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走エムゾネ」の登山
道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋
を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉
田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分エムゾネ
で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16年(170
3年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(
浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口
本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信
安なエムゾネど富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三
か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛
けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師
堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述がある
ことを、須走エムゾネの既得権を犯すものであるというもの、3つ
目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣
例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴
えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬
師嶽は須走村の地内でエムゾネはないこと、薬師堂の入仏について
は浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にある
こと、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主怪七

22 :
た。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済
にて「他の者に小屋掛けさせなエムゾネいこと」「薬師堂の入仏は
須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定とな
り、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772
年)に、須走村が山頂の支配権は同村のエムゾネ支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこ
れをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田
村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここ
に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着エムゾネが望まれ
ることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8
年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家
康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮が
あり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行によエムゾネ
る裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間
大社持ちとすることが決定された。この2者の争論を起因とす
る裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権
利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなっ
た。エムゾネ富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和2
7年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年1
1月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田
市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中
湖村)の範囲エムゾネが指定された。静岡県側は御中道に囲まれる
地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道
(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと
重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走
口登山道(小山町)がエムゾネ範囲となっている。富士山の眺望ウ
ィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の眺望塁貪

23 :
連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が得られる
128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富
士見百景として、2005年(エムゾネ平成17年)に選定した。
羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過す
る。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが
多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行され
る。富士山の眺望の最遠は2013年現エムゾネ在、和歌山県喝済

24 :
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919エムゾネm)と日
本地図センターにより認定された(富士山からは308kmの
距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山
からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能と
されていた京都府から2014年に撮影に成功したことにエムゾネ
より、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表
情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。
富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤
富士夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾
北斎エムゾネをはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残し
た。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いら
れる場合がある。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富
士山の光景。エムゾネD五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士
が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモ
ンド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽
が昇った時又は沈む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山
の頂上付近がダイヤモエムゾネンドのように光る現象。富士山が見
える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士
朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富
士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場合がある。
笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富エムゾネ士山の頂上に傘をかぶせた
雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になるこ
とが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口致織

25 :
「裏口」という表現がみられ、一般的にエムゾネ静岡県から見た富
士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されている
が、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作
成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記が
ある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記エムゾネ述がある
。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナ
リ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…〜〜『甲
斐国志』他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓
を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言エムゾネ
える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の
『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重
の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されて
いる例がみられる。富士山の文化美術における富士山三峰型富
士のエムゾネ例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例
(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵
画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の
成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録から
この頃には富エムゾネ士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝
物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国
立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖
徳太子が富士を駆け上エムゾネる姿を描いたもので、富士は中国山
水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二
山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描
写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など
物語文学の成立とともに舞台とエムゾネなる富士が描かれ、富士信
仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。
また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の衰発

26 :
対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認
識されていた。室町時代の作とされる『エムゾネ絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛エムゾネ飾北斎作
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富
士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世
絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受
けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図のエムゾネ
連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版し
た。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶
来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士
を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒
れ狂エムゾネう大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られ
る。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十
六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸
国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海
道五十三次』エムゾネでも、富士山を題材にした絵が多く見られる
。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好ス
ポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士
を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自
ら制作した楽焼の茶碗エムゾネに富士山の風情を見出し、「不二山
」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅
陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をは
じめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチ
ーフとして扱われている。日本エムゾネ画においては近代に殖産興
業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ克農

27 :
美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画におい
ては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通エムゾネ機関の発達により
数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在
し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景
画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田
英作などがいる。富士山をモチーフとした美術品エムゾネは当堕覇

28 :
ヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー
ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本
を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フ
ランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いエムゾネ
ている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―
―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者
などいるのだろうか〜ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸
のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれてい
るかエムゾネら、もう、わたしたちにはお馴染みだ。〜〜8月15
日付戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけら
れ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。戦後には国
体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボ
ル」として、エムゾネ日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描
いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾
向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小
細工を弄しない大きなエムゾネ単純」と評し、「幼童でも富士の絵
は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている
」という。日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨
大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げると
いう構図で、水墨画や彫金でもエムゾネ描かれている。千円札、旧
五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や
切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザイン
に用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭
政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でエムゾネる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である曖領

29 :
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河エムゾネ口湖、西
湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛
飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨
県(2005年(平成17年))文学における富士山富士山は
和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』エムゾネ
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田
子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である
。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一
節にエムゾネ「…燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…
」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る
)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)
とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえ
る。『新古今エムゾネ和歌集』から。富士の煙が歌われている。風
になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行
(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を
記録している。『竹取エムゾネ物語』は物語後半で富士が舞台とな
り、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの
岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたこと
になっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富
士山)と名付けられたとする命エムゾネ名説話を記している。なお
、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言
い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や
『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な
舞台となるケースは少ない。富士は甲駿エムゾネの国境に位置する
ことが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属し
ていたため古典文学においては駿河側の富士が題材となる粋彩

30 :
が多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れら
れている。また、「八面玲瓏」という言葉は富士エムゾネ山から生
まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表して
いる。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、
江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道
など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けてエムゾネ
、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるように
なり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした
作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。
富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の
精神エムゾネ病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武
田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記
』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であっ
た母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ご
した一族の物エムゾネ語である『火の山―山猿記』を記した。また
、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦
後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(エムゾネ1939年)に執筆した小説『富嶽
百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知
られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている
。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた
経験をもとに、富士山の強力(エムゾネごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士
にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の
沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前に
はその歌碑が建てられている。「とあるエムゾネ停車場富士の裾野
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域調駅

31 :
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。エムゾネ富士山の
利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対
し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権
問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問
題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違エムソ関漏

32 :
が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日
の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能であ
る。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されて
いるエムゾネ。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳
細は「富士登山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士
山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。箱根
−箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美
術館や各種のエムゾネ乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて
内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名であ
る。富士五湖−富士五湖は富士山周辺の観光地として著名であ
り、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の
滝−白糸の滝は上流にエムゾネ川は存在せず、富士山の雪解け水が
溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。
また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されている。朝霧
高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であ
り、その自然と広大な土地もあエムゾネり過去に第13回世界ジャ
ンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド
富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったスポット
も有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ド
ライブ−富士スバルラインや富士山スカエムゾネイラインなどを利
用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン
中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の
日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」
と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定しエムゾネている自
治体がある。2001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(
当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年)
山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村強仙

33 :
恩賜林組合が了承。2009年(平成21年)12月21エムゾネ
日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条
例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在で
ある。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などが
さまエムゾネざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身
近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰
として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺
産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込めら
れている。静エムゾネ岡県教育委員会で、各市町村に対して201
1年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよ
う要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓で
ある富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理エムゾネ由で、2011年以降休業日として
いない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供
や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会
教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。
なお、富士山の日を最初に宣言エムゾネしたのは、パソコン通信「
NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム
(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表
した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸
支局管内の1市2町4村を対象とした、エムゾネいわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所エムゾネ、静岡新
聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士
山検定協会の5者により行われている。地域間交流富士山答酬

34 :
湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十
二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けらエムゾネ
れている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶
湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注
ぐことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会
と中エムゾネ華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携
が締結されている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
他山の標高玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日
本最高峰であエムゾネった。標高3,952メートル。雪山(台湾
)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山で
あった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い
山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も
低い山。標高3メートエムゾネル。エベレスト−世界最高峰。標高
8,844メートル。文字この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富
士山のフ」という。文字コードエムゾネのUnicode6.0で
は、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その
中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が
琵琶湖になった」という伝説からであるエムゾネ。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士
山頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。20
14年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士
山と玉山の友好山提携が締結されている[84]エムゾネ。標高3
,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と疎娠

35 :
れ、日本の最高峰であった。その他[編集]他山の標高[編集
]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰
であった。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本エムゾネ
統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。
標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高
3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。
標高3メートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84紺捗

36 :
ートエムゾネル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや
閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文
字)が含まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る
際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6.
0では、携帯エムゾネ電話などで使われていた絵文字も追加された
が、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本
政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東ア
ジアの東端に当たる日エムゾネ本列島の本州島の中央部、日本の東
海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は
17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現
行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記
すとおりである。構成資産所在エムゾネ地No.所在地座標計測位
置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・
小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町
)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲をエムゾネ示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面エムゾネ積:緩衝
地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面
積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山
は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度
を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈しエムゾネ
、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火
山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面から
の実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本塀韓

37 :
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレ
ートエムゾネ、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ
らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる
特異な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおも
に海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げ
られた先小御エムゾネ岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台とし
て、古富士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成され
ている。山頂部の火口はおよそ2200年前を最後に噴火して
いないが、フィリピン海プレートが北進しユーラシアプレート
を南南東方向から押しエムゾネ続けているため割れ目が発生するこ
とによって、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に
側火山が並び、有史以降も火山活動を行ってきた。富士山が過
去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度を持つため
に美しいコニーデ型の山容を形エムゾネ成しながら、山頂を中心と
して約15〜20km(最大約30km)の範囲に広がった。
山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の
末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊富な湧水
(日量約450〜680万t、現在最大エムゾネの湧水は日量約1
00万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的
環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝
統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本エムゾネにおける
様々な宗教の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修
行のみならず、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗
教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの
宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とエムゾネ
する霊地・巡礼地が設けられ、登山のための道や施設及びそれ
を支援する包括的なシステムが作られた。標高約2500氾短

38 :
近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)
と考エムゾネえられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方から
順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草
山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという
富士登拝の区エムゾネ分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域
の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のために利用さ
れる地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山
前に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田
川をはじめ各所で「霊エムゾネ水」として取り扱われている。また
、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺
の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて
多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意
欲を掻き立てた。富士山体のうエムゾネち、標高約1500m以上
の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重な
り合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各
登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返
」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点エムゾネからも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」エムゾネと「山体
」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産
は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神
社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼エムゾネ
、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成さ戦検

39 :
。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要素が
含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富
士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人エムゾネ間との精神的な関係を生み出した景観の見本であると
ともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/
構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰
遺跡遺跡A2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺喚妄

40 :
4須走口登山エムゾネ道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨
士浅間神社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖
遺跡A9本栖湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B
3遺跡B4遺跡B5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造
物B8建造物B9遺跡エムゾネB10遺跡B11遺跡B12遺跡B
13遺跡B14遺跡B15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富
士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神
社富士浅間神社(須走浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松
原構成資産/構成要素忍野八海エムゾネ船津胎内樹型吉田胎内樹型
人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中湖673)構成
資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山には、山頂部
に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機
能してきた登山道や山小屋といった宿泊エムゾネ施設、信仰の証と
して建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間
神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は
、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やエムゾネ富士山を
描く典型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供す
る展望地点である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一
つである「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域で
もあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林エムゾネ
限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(
登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり
標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近づくほどより
強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A
1山エムゾネ頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿
入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点として山
頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご募胞

41 :
かけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大
宮・村山口登エムゾネ山道や、六合目から1384年の銘のある掛
仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士
講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者
(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1
200年の資料では、エムゾネ大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられてい
る。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小
屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上
で、登山道は欠かすことのできエムゾネない構成要素である。A2
大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉
田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住
宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くか
ら富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間エムゾネ神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火エムゾネを最後に
火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が
活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間
神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起エムゾネ
点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮
冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに
利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士
講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残
されエムゾネている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B
3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走扶排

42 :
神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神
社B7冨士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地
・巡礼地となエムゾネった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀
後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富
士山に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく
周辺の風穴や湧水地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富
士講の開祖とされる長エムゾネ谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で
修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行
を行った。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って
修行を行う者もいた。また、長谷川角行の八海修行になぞらえ
「富士御手洗(みてらし)元八エムゾネ湖」と唱えられた忍野八海
や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備さ
れた船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとって
の霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山中湖B10河
口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B1エムゾネ1忍野八海B12
船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15
白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山
体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道やエムゾネ山小屋と
いった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在す
る。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域
が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も
高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであるエムゾネ
「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、
その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方
、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10
区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約320
0〜エムゾネ3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い鍋観

43 :
性を持つと認識されてきた。八合目以上は、1779年以降、
富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理由は八合目の
標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付け
られている)エムゾネの底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づ
く。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者(
富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域
ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域矢宰

44 :
い、富士山体を一周すエムゾネる「御中道」が15〜16世紀ごろ
に富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」とい
う危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用さ
れた。構成資産範囲内には、山エムゾネ頂信仰遺跡や登山道といっ
た、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、
次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山
頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設
が所在する。富士山への信仰登山が開始エムゾネされると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)エムゾネを拝み、
内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏と
された浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつか
あるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する
「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうこエムゾネ
とが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修
行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、
その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが
最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(
13エムゾネ02年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋
納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、
大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)
が、吉田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営
された。18エムゾネ74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀
釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変苛粛

45 :
ることなく、上記の行為は現代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信エムゾネ仰の核心が現代に受け継がれている
。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点と
し、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世
紀前半から中ごろの、修行僧末代の活動により、富士山南麓に
おける登山が本格的に開始されエムゾネたとされ、14世紀初めに
は修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が
村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行うとともに所属の
修験者が登山道等を利用して修行を行っエムゾネた。また、一般人
の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始さ
れ、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初頭
の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,エムゾネ000人
前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の
外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用
した。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場
口利用者の増加により衰退し、これへの対策として190エムゾネ
6年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在
の六合目(標高2600m)までは登山道としての機能を失っ
た。この区間は一部除き登山道跡の推定は困難な状態である。
現在は1970年に標高2400m地点まで開通した自動車道
を利エムゾネ用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以
上である。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社
を起点とし、山頂南東部に至る登山道である。その起源は明確
ではないが、文字資料の中で1486年にその存在が確認でき
る。登山道おエムゾネよび山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所
在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた。ま馬肢

46 :
登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝所)
としても使用された。道者については詳しい研究が進んでいな
いが、1800年(御エムゾネ縁年:富士山出現伝説に由来する6
0年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半
は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m
)に接続する御殿場口登山道がエムゾネ開削され、1889年、東
海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者
を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至
っている。二合八勺以下の登山道で当時エムゾネの道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道エムゾネと合流し
山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六
合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資
料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも
17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村がエムゾネ
登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得てい
た。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり
、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴
火のエムゾネ際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了
し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットに
された参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御
縁年に23,エムゾネ700人とピークを迎えた。1959年遍慈

47 :
ス道路の完成により、新五合目(標高約2000m)以下の登
山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができな
い区間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以
上である。)A5.吉エムゾネ田口登山道北口本宮冨士浅間神社を
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富
士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも
広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のた尻孤

48 :
宿坊もでき始め、大勢の人々がエムゾネ登るための設備が整うよう
になった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用
して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食
行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこ
の吉田口と定めた。このため、富士講のエムゾネ信者が次第に増加
した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山口の合計
と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しか
も、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道で
ある。(推薦範囲は登山道全体である。)11法エムゾネ的保護、
修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士
箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下
に名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国がエムゾネ
大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国
・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中
)。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥
拝所エムゾネに祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源
とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀
半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。その後、15
61年に現在の東宮本殿、1594年に西宮本殿、1615年
には本殿が建エムゾネ立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が
形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の本殿に唐破風
付向背をつけた形式でエムゾネ、正面と側面に挿肘木の腰組をもっ
て支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも句移

49 :
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表エムゾネされている。北口本宮冨士
浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属
しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられ
ていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として
富士山頂まで吉田口登山道が伸びているエムゾネ。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財エムゾネ保護法制
定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿
及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。
1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜
63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜エムゾネ
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。
1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。19
97年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.
西湖エムゾネA8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角
行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
たのが、後述エムゾネの山中湖及び河口湖とこの3湖である。また
、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特
に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の
撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ
る。富士山は、プロ・エムゾネアマ問わず多くの写真家に愛され、
撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続嗣蔽

50 :
岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された五千円札エムゾネ及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり
一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」
に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法
的保護、修理・整備の経緯文化財保護法エムゾネの下に名勝として
指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社記によれば
806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富
士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国にエムゾネ約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建
当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛ん
になるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺
)とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺エムゾネ
に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期
をおさめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、
1604年現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った
社殿エムゾネが造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得
における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこ
の八合目以上の支配権が認められた。明治政府によりここは国
有地とされたエムゾネが、1974年の最高裁判決に基づき、20
04年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士
山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴
火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山とし
て崇める考え方から、エムゾネ豊富な湧水量(日平均14万〜軽吉

51 :
持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧
玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池で
ある。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清め
る場と位置づけられたとされ、エムゾネ同時期の絵図や旅行記でそ
の様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行
われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる
。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺岸捻

52 :
法の下に特別保護建造物に指定された。エムゾネ1923〜26年
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化エムゾネ財とされ
た。1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根
の修理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等
が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われ
た(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わエムゾネ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等
が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置
されエムゾネるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形
を止めていると推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方
向を向いている。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では
神事に使用されたと推定される12〜15世紀の土器が出土し
、文献上ではエムゾネ1551年にその存在が確認できる。また、
遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」
といわれる儀式が開始された。これは4月と11月に神の宿っ
た鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。
現時点では神が4月にエムゾネ旧跡に戻るという解釈と、山にいる
神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この行
事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた
距離を示す石碑が少なくとも四エムゾネ箇所残っているが、正確な
道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯1
985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の病訃

53 :
他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.
村山浅間神社説明12世紀前半から中ごエムゾネろの修行僧末代の
活動が創建の起源とされており、1868年の神仏分離令まで
は神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺または村山
興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である
大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中エムゾネ心地であ
り、14世紀初めには、その活動が組織化された。15〜16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制
作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。186
8年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1エムゾネ
906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、
修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山の修
験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続され
ている。法的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にエムゾネかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行
われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と
して指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の
起点として遅くとも1524年には存在していた神社である。
1707年、エムゾネ宝永噴火により社殿は登山道も含め大きな被
害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである。
神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1
940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が行われていた
。法的保護、修理・整エムゾネ備の経緯文化財保護法の下に他の文
化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富
士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造
営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。16
世紀には地元支配者(武田氏)エムゾネの保護を受け、山頂部の散
銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火及津

54 :
壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し
、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。
神社には富士講道者が多く立ち寄り、2エムゾネ0世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とエムゾネともに史
跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古く
から富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが
、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも
浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山を望エムゾネ
む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であ
る可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地
から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した
中世後半から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸にお
けるエムゾネ富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により
、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしま
った。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びつ
いた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上でエムゾネ欠かすことのできない資産である。法的保護
、修理・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史
跡富士山として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明
冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場
をしつらえたのが最初エムゾネとされ、富士山中に祀られた最初の
神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村
山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地
にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようである。
山中という厳しい条件の下に所エムゾネ在するためたびたび破泉伴

55 :
、1189、1275、1475、1525年と加修され、1
564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿
は1612年建立と認められ、その後も1698年、1867
年に修復が行われていた。1973−7エムゾネ4年には里宮の地
にそのままの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみ
や)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとさ
れる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位渦素

56 :
けられる二合目の本宮と、土地の産土神としてのエムゾネ里宮が一
体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備の
経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保エムゾネ
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝の
ための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ
とを業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道
の起エムゾネ点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御
師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設
け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。
玄関から奥へエムゾネ客室が続き、最奥部には神殿が設けられてい
る。1768年に建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住
宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御
師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。186
1年に新築された小佐エムゾネ野家住宅同様、富士講の流行に伴い
増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1860年
代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯197
6年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れた。1979年に小佐野家住エムゾネ宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた
。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される
予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によ
って形成された堰止湖である。富士山周エムゾネ辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として幼放

57 :
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行エムゾネや巡礼が
執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、
定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)も
のの、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心とし
て、周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、エムゾネ
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護
、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される
予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水
地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であ
ったエムゾネ。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、18
43年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護、
修理・整備のエムゾネ経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法
の下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説
明1617年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎
内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え
られる)を発見し、浅エムゾネ間明神を祀った。1673年には富
士講道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮
された。富士登拝の際に、樹型に入って身を清める風習があり
、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに
、奥には富士講にとっての富士エムゾネ山の祭神である木花開耶姫
などが祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年
に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。
B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道者によって整備
された「お胎内」である。富士講講徒はエムゾネ、昼までに御師の
家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した催賢

58 :
穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。法
的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保
存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人エムゾネ穴富士講
遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる
溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残る
遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容エムゾネ
は遅くとも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話
化され、その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によ
れば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行に
より浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た
場でエムゾネあり、入滅した場だとしている。また、角行は人穴を
「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な富士
講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴
への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し
た。1942エムゾネ年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周
辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在地に復興され
たが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1
964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・
整備の経緯1999年エムゾネに富士宮市の史跡となる。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の流
れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜16万〜)
の噴出が数百条の白糸が垂れてエムゾネいるように見えることをそ
の起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地
としても有名であり、和歌・絵画の題材エムゾネにもなってい康遭

59 :
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描エムゾネく際の典
型的な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等
の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を
与えた)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひと髄勾

60 :
ある。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝エムゾネ
天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発
展山容の形成富士山の原型は、40〜10万年前、周辺の火山
とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後こ
れを覆うように標高約2500mの小御岳火山が形成された。
さらエムゾネに約10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、
爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小
御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成
長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士
山(新富士火エムゾネ山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、
約5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返され
た溶岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その
先端部には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間よ
り湧出する形で各所にエムゾネ形成された。富士山北麓においては
これらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や
湿地が形成された。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩
樹型が形成された。山頂からの噴火は2200年前の噴火を最
後に起こっていないが、歴史時エムゾネ代になっても北西〜南東方
向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には
少なくとも800〜802年、864〜866年、937年、
999年、1033年、1083年、1435〜1436年、
1511年、1707年の九つの時期のエムゾネ噴火が確認されて
いる。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を
繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰りエムゾネ返す噴火
を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を
浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅蜜巣

61 :
社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるように
なった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環エムゾネ
境が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『
万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語
』(9世紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文
学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1
1世エムゾネ紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取
り上げられるようになった(表参照)。特に12世紀後半以降
、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二つの都市
を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士
山の情報は多エムゾネくの人に記録され、広く知られるようになっ
た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、1
2世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の
山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道
場ともなり、修験者がエムゾネ山中に分け入り、霊力を獲得するた
めに修行する山へと変化していった。当時一般的であった神仏
習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(又は仏が
神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至るこ
とが重要な意味を持つようになエムゾネった。この結果15〜16
世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率さ
れた武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に
開かれたとされている。このころには参エムゾネ詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し
経19済的な発展もあってより多くの人が富士山エムゾネを目指す
ようになった。このような中で18世紀後半、16世紀に出雄

62 :
山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行
から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に
「富士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになエムゾネ
り、より多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登
拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続
的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に
宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間
神社エムゾネに参拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山
小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に
整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川
角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修
行の地とされエムゾネ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊
地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした
登山を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸
術面においても、とりエムゾネわけ江戸時代(17〜19世紀半ば
)には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわ
たって取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様
な表現が追究されるようになった。(表参照)特に、葛飾北斎
の「冨嶽三十六景」に代表されエムゾネる浮世絵の数々は、西洋の
画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニ
スム」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作
品に影響を与えるとともに、その富士山を含んだ構図は海外に
おいて日本のイメージの一つとされてきエムゾネたのである。日本
を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述し
た紀行文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多
い。近世以前も富士山は日本一有名な山であったが、19世紀
後半の開国によって日本が近代国家としての体制エムゾネを整傑廊

63 :
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌し
た。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府
を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響
を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出しエムゾネ
たことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教
的施設は神道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の
山における)女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は蚊危

64 :
ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、
登山エムゾネ者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年
に東海道線が開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中
央線が開通したことによって、東京からの登山がさらに活発に
なった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨士浅間神
社から馬返(エムゾネ標高1450m)まで自動車専用道路が開削
され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第二次
大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、富士山への
登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主な動機
とするものに変化したエムゾネ。また、1964年に中腹までの自
動車道として、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南
麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(標高23
00〜2400m)を起点とした登山が主流になった。この結
果富士山への登山者は急増し、エムゾネ年平均20万〜30万人に
達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35万〜
43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への信
仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、エムゾネ新たに富士山との
関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな
がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財
としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほエムゾネぼ同じ範
囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指
定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界
大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中
道以下500mより上及び一部の登山道などが名勝としてエムゾネ
(同年、特別名勝として)指定され、1966年には指定区域
を拡大した。山梨県は1978年(のち、1999年及び札悟

65 :
06年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の
保存管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺
の浅エムゾネ間神社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2
bで述べたところだが、それらを含めた富士山に関わる記念工
作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1
897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年〜195
0年))、史エムゾネ蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜19
50年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指
定され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞ
れの価値が最もよく表エムゾネれる時代の状態が保たれるように細
心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化
財は、「包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統
一的な保存・管理が行われている。21表富士山の美術(1)
日本古来の伝統様式によるものエムゾネ(国宝重要文化財)指定所
在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏
風1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山を越える
物語の状景。神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全
国遍歴の途中、富士川に入水する往生者エムゾネを見送る背後に富
士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人が全
国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山
。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語
現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓をエムゾネ進む場面
。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風俗
図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする
。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であ
る富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。エムゾネ
狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀知界

66 :
野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富
士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉
将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟によ
る仇エムゾネ討ちを題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画によ
るもの指定所在作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館
富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水墨による富士山図
。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる。東京国立博物館
富岳図祥啓筆エムゾネ掛軸1490仲安真康の弟子、建長寺の書記
を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。東京永青文庫
富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本を代表す
る水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作。静岡県立美
術館富士八景図式部輝エムゾネ忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人
(〜)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、
画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪を描く。
22富士山の美術(3)江戸時エムゾネ代諸派の作家と富士山指定
流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京
・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名な京
焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する。狩
野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1エムゾネ670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし
て京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良
・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世エムゾネ紀)世界
的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文
人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人
図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山
し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村エムソ彰確

67 :
富山佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画
の第一人者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人
画派野呂介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1
821紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱
に染エムゾネまった富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美
術館富士山図屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景
を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・丼雇

68 :
美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し
、独自の画境エムゾネを開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画
派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日
本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折
の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩〜山富士遠望図18
04平賀源内らと蘭学エムゾネを研鑚、後に小田野直武の影響を受
けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた
。禅画白隠慧鶴大分・自性寺富エムゾネ士見大名行列図日本臨済禅
を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者として
も著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1
831世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義
は欧米文芸に大きく影響した。23浮世エムゾネ絵派歌川広重山梨
県立博物館版画不二三十六景(19世紀)北斎とともに世界的
に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風景画に新境地を開き
、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博
物館三国第一山之図1849幕末の浮世絵師。自エムゾネら富士山
に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多くの作品を残し
た。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章指定ジャ
ンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高橋由
一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降エムゾネ
、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作
。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と
共に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作
。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926
日本エムゾネ近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確
かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945砂像

69 :
アールに学び、日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立し
た。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助長野・田崎美術館
箱根朱富士1エムゾネ975日本独特の平面的装飾に新しい一頁を
開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤
富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリードした。豪
快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富岡鉄斎兵庫・
清荒神清澄寺富士山及エムゾネび山頂全図屏風1898最後の文人
画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダ
イナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日
の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画壇を復興
した巨匠。日本の象徴と意識しエムゾネて多くのテーマに富士山が
描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風19
19横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テ
ーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記念館
怒る富士1944強烈な個性で大作に挑エムゾネんだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共にエムゾネ昭和の日
本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に
立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第
二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いた
が、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白エムゾネ
富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地
を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川
県立近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本
画界をリードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シ
リーエムゾネズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富盛愛

70 :
894アマチュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成
婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真
美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真家。富士山の
あらゆる表情エムゾネを写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨
県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する木版
画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史書
「六りっ国史こくし」(奈良−平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほエムゾネん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわら
のみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円
えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡
あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこ
う年表ねんぴょう」(江戸)風エムゾネ土記元明天皇げんめいてん
のう詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょ
うかい「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「
今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴
家持おおとものやかもち「万葉集まんよエムゾネうしゅう」(奈良
)紀淑望きのよしもち・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こき
んわかしゅう」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後撰和ご
せんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「
新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後エムゾネ鳥羽院ご
とばいん「最勝さいしょう四天王院してんのういん障子しょう
じ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼくわかしょう
」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅ
ういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みエムゾネ
やこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(鎌
倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふ
じきこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき締肘

71 :
恵ぎエムゾネょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不
詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(
室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東
国とうごく紀行きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ
道記みちのきエムゾネ」小堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海
道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)
「東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵成宵

72 :
たべえ(江戸)「迴国道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸
)「野ざらし紀行」香エムゾネ川景樹かがわかげき(江戸)「中空
の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記
ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅
原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平安)「更級さらしな
日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)エムゾネ「十六夜日記いざよいにっ
き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌
倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日
記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸−昭和)「大窪
だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たエムゾネけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安
)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わ
かむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太
子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※エムゾネ作者不詳
(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語
ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(
鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)
※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りエムゾネ
ょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ
原作(室町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろ
も」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名
草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ
っぺエムゾネんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどう
ちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)
「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつ
もん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出
雲いずも・三エムゾネ好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせ
んりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしん戸庶

73 :
」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治−大正)「富士山ふじさ
ん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治−昭和)「背
せいくらべ」随想・随エムゾネ筆新井あらい白石はくせき(江戸)
「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治−昭和
)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治−昭和)「すた
れ行く富士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふ
う(明治−昭和)「日和ひよりエムゾネ下駄げた」太宰だざい治お
さむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月お
おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむ
らせいこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこう」北村きたむ
ら透谷とうこく(明治)「富嶽ふがくのエムゾネ詩し神しんを思お
もふ」深田ふかだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百
名山ひゃくめいざん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−
明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石なつめそうせき(明治−大
正)「三四郎さんしろう」「虞美人草ぐびじんそエムゾネう」泉鏡
花(明治−昭和)「婦おんな系図けいず」「春しゅん昼ちゅう
」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくとみ蘆花ろか(明
治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じんせい」(随筆
)永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「新帰朝者日記」エムゾネ
橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士山頂ふじさん
ちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓点描がく
ろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士日記
ふじエムゾネにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力
伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと
」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやま
の掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたや
すなり(明治エムゾネ−昭和)「東海道とうかいどう」白井喬睦稿

74 :
らいきょうじ(明治−昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝
くにえだ史郎しろう(明治−昭和)「神州纐纈城しんしゅうこ
うけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明治−昭和)「
波なみの塔とう」芹沢エムゾネ光せりざわこう治じ良ろう(明治−
平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命うんめい
」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿
本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥−奈良)「柿本集」山部
赤人やまべのあかひと(奈良)エムゾネ「万葉集まんようしゅう」
高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たかはし
のむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清き
よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「エムゾネ公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安−鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安−鎌倉)「(藤原兼ふじわらのエムゾネかね実ざ
ね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安−鎌倉)「拾玉集」西
行さいぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」
源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいエムゾネ
わかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんい
んの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅう
きゅう(室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和
歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸)「水無瀬
殿富エムゾネ士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たや
すむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん
(江戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(
江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけらが花」賀茂布種

75 :
かものまぶちエムゾネ(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり
長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」
契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むらた春海
はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ(明
治−大正)土井どい晩エムゾネ翠ばんすい(明治−昭和)「大敵迫
る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治−昭和)「赤光」「箱根路
」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和)「富士を歌ふ」洋説

76 :
わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)「海の声」北原きたはら
白秋はくしゅう(明治−昭和)エムゾネ「雲母集」「不尽抄」金子
かねこ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの湖」草野
心平くさのしんぺい(明治−昭和)「富士山」小野おの十とお
三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳
句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥エムゾネの細道」与謝蕪村
よさぶそん(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょ
うむ(江戸)「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明
治)高浜虚子たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ蛇笏だ
こつ(明治−昭和)「山りょ集」富安風生とみやエムゾネすふうせ
い(明治−昭和)水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭
和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治−昭和)「名所方角
集」西東さいとう三鬼さんき(明治−昭和)「旗」「変身」渡
辺わたなべ水すい巴は(明治−昭和)「富士」加藤楸邨かエムゾネ
とうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「
雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合性証
明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条及
び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』とエムゾネいう。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建
造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証
明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表
への記載のための評価基準のうち(B)、(C)、(E)が適
用できる。評エムゾネ価基準(B)現存するか消滅しているかにか
かわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証とし
て無二の存在(少なくとも希有な存在)である。評価基準(B
)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自然環境を背景
とし、山頂への参詣なエムゾネどの特徴を持った山に対する宗教的
な儀礼・活動が成立し、18〜19世紀にかけて大規模な浪虐

77 :
による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその周辺の地
域には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、登山道、
及びその沿道に分布する関連遺エムゾネ跡群、霊地・巡礼地となっ
た風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活
動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継
承されている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴する
最高峰として老若男女を問わず憧れ親しエムゾネむ「名山」である
。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、
時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における
山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証エムゾネ富士山の
山頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び
10世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界
、あるいは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山で
は富士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥エムゾネ
拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成
された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に
従って参詣する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士
山の火山活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴
・溶エムゾネ岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行するこ
とで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して
生まれ変わる(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と
呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ
て富士山は体エムゾネ系化された登拝のための宗教施設も含め、大
規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。こ
のような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、
神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日本独特
の山岳信仰を代表するエムゾネ遥拝及び登拝・登山の様式は今謡拒

78 :
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登
山客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心
部分は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼
・活動によって受け継がれ、富エムゾネ士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神
仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた
。また、この神は一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ご
とに異なる性格と名称を持ついくつかのエムゾネ神または仏が信仰
されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対
象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化
することを示す言葉であり、その後、主に修験道において富士
山などの霊山に登って修行することも意味するよエムゾネうになっ
た。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)3
0「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の
集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価エムゾネ
基準(C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等
の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系化され
た宗教的儀礼・活動が15〜16世紀にかけて発達し、18〜
19世紀にかけて完成された。この過程において、日本におけ
る山エムゾネに対する固有の文化的伝統や富士山により生み出され
た芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・
活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持つ景
観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることによ
り、多くの人エムゾネ々に富士山が神聖な山であるとの認識がより
強固に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場におけ
る山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、
富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観軽刑

79 :
は近代工業社会以前のエムゾネ段階における山と人間との精神的関
係を表す景観の顕著な見本である。・山と人間との精神的な関
係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化した12世
紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15〜16世紀に
は「富士山禅定」と呼ばれた登エムゾネ拝様式が整い、大衆にも拡
大した。この過程で富士山は、矮小な存在である人間が山麓の
草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある験鯨

80 :
・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」などと
呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経エムゾネながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰エムゾネ上の景観
認識が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に
、さらに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」
と呼ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより
、18世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人にエムゾネ
富士山の神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この
認識は近代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の
山と人間との良好な精神的関係を示すものであった。、31(
※3)富士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱
山」エムゾネや仏教における世界の中心である「須弥山」に見立て
られた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認
識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含
め山頂への登拝ができない人にとっての代参施設となった。(
※4)登拝者エムゾネには登山口の浅間神社や御師の発行する富士
山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、
縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めるこ
とが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評
価基準(E)顕著な普エムゾネ遍的意義を有する出来事(行事)、
生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて
用いられることが望ましい)。評価基準(E)の適用富士山と
周辺の特徴的な自然が醸成するエムゾネ優秀な景観美や火山として
の活動は、日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、拒杯

81 :
まで継承されている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝
統は、アジア地域に顕著である山を神聖視する文化と深い関り
を有している。写真写真焼山(ハゲ山)エムゾネ木山(深山)草山
(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くから様々な
芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をはじめ
とする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題とする
絵画などの対象として日本人に良く知られていたエムゾネ。特に富
士山を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現
代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山
は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的
作品と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著なエムゾネ
普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関連アジア地
域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の空間を神
聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と結びつ
いて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝統は
6世エムゾネ紀〜8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の山岳
信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生んだ。現在の富士
山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝などの形態や儀式
に伝えられている。また、富士山のみならず日本各地の山岳や
アジア地域のエムゾネ山岳においても形態は異なるとはいえ山を神
聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行われて
いる。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝
統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的
意義を持つ芸術作品とエムゾネの直接的・実質的関連独立峰である
富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優れた景観
を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品を創造す
る場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品のうち、
最も海外に影響を与えた作品はエムゾネ葛飾北斎の浮世絵「冨旺残

82 :
十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作品は
、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともにその
構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日本芸
術の流行を生み、モネ、ゴッホといったエムゾネ印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半からエムゾネ20世紀
初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士
山を題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本
の輸出品は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富
士山からインスピレーションを得て記述した紀行文の文学エムゾネ
的表現などとともに多くの世界の人々に他の世界の著名な山と
明確に区別される富士山の景観イメージを広めることに貢献し
た。文学では海外に良く知られた「万葉集」以来、数多くの和
歌や俳句などによってその崇高さや美しさが称えられ、近代以
降もエムゾネ海外にも知られた文学者(※夏目漱石「三四郎」・太
宰治「富岳百景」など)によるものをはじめ富士山を舞台とし
た作品が生み出された。写真写真左「神奈川沖浪裏」右「凱風
快晴」葛飾北斎「冨嶽三十六景」より(1831〜36年)3
3写真ゴッホエムゾネ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍的価値の
証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結果と
して、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値を持
つ。顕著な普遍的価値の言明富士山は、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高37エムゾネ76m)の秀麗な独立した火山とし
て世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤とし
て日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた
葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「楼冗

83 :
絵」などの日本独特の芸術文化エムゾネを育んだ「名山」である。
富士山は、山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、
時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生
きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好
で継続的な関係を示す景観の傑出した類エムゾネ型として、世界的
にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。富士山の
山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動の場とな魚哲

84 :
神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水
地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通エムゾネじて、人
々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。
また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基
盤とし、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経
て山頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これがエムゾネ
発展し、18〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による
宗教的登山及びその体系の典型的存在となり、この体系の核心
は現代の登山に継承されている。現在でも、富士山は日本を代
表し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山
」でエムゾネある。加えて、富士山と周辺の特徴的な自然が醸成す
る美しさと崇高さは、信仰上の景観として捉えられただけでな
く、古くから様々な芸術活動の母胎となり、「万葉集」をはじ
めとする日本固有の和歌や俳句、絵画などの対象として日本人
に良く知られエムゾネていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」
などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を
与えてきたものである。さらに、これらの芸術と富士山やその
景観美を紹介した外国人の著作を通じて、富士山が一つの国の
文化を代表する「名山エムゾネ」であることは国際的に認知される
に至っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原から
の富士山c)比較検討による証明1)比較軸の特定富士山の顕
著な普遍的価値を表す要素を特定し、他の同種の遺産がそれら
の要素に該当するか否かを検討エムゾネすることによって比較を行
う。富士山の顕著な普遍的価値は、以下の3つの要素に整理で
きる。(1)山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証
として稀有な存在:富士山では山頂への参詣などの特徴を持っ
た山に対する宗教的な儀礼・活動が成立エムゾネし、山体とその周
辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡礼地となった風穴覆照

85 :
水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼や活動を通じて
、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されてい
る。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周エムゾネ辺の景観
は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本にお
ける自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も
著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意
義を持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美はエムゾネ
、近現代の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連す
る景観」である。信仰の山については、2001年9月に和歌
山県で開催された国際会議「アジア・太平洋地域における信仰
の山の文化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会
議」エムゾネという)において、信仰の山の認定及び保護に関する
様々なテーマと問題が討議された。ここで、信仰の山の遺産と
しての価値は、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れる
とされた。また、信仰の山の自然的特性についても評価が可能
とされた。信エムゾネ仰の山会議で示された指標を参考に、富士山
の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然的要素として
は、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高
か)、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であ
ることに由来する特徴エムゾネ的な風穴・湧水地・湖沼などがある
か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参
詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在する
かどうか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが
今も行われているか)、「存在エムゾネ」(山自体が信仰の対象か
)、「慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティ
ティ」(山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度
」(富士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4
,000万人)の訪問者があるか)、とエムゾネいった観点か賭刊

86 :
評価することとする。同様に、顕著な普遍的意義を持つ芸術的
作品との関連性については、山の景観美が芸術作品を産み出す
母胎となったかどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知
られ、世界史に大きな影響を35与えたかどうかエムゾネ、といっ
た観点から、評価することとする。2)海外同種資産の特定同
種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとしては、
@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基
準に関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術エムゾネ
への明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による
研究書等で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。
また、両方の基準に関するものとしては、Cイコモスによる研
究書「FillingtheGaps」の類型別分析・テーマ
別分エムゾネ析、D文化的景観に関する研究書の分析を行った。具
体的には、Bでは、の三つの文献を対象として資産を抽出した
。Cでは、「文学・芸術への関連性、演劇」、「聖なる山」、
「アジア・太平洋地域の土着信仰」に関する山岳等を抽出した
。Dでは、ユエムゾネネスコ世界遺産センターから刊行されたPe
terJ.Fowler氏による研究書の中で、山が特徴とし
て挙げられている資産のうち、「美的資質」、「集団のアイデ
ンティティ」、「信仰、聖地、神聖性」の特徴を持つ資産を抽
出した。以上より、富エムゾネ士山の比較対象とする海外の同種資
産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のある
ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記
の無形的側面での共通性があるもの、芸術面では山自体が絵画
の題材とされ、画派等を生むなエムゾネど、美術史への影響力があ
るものを共通性が大きいとしている。が付された比較対象につ
いて、1)で示した比較軸である信仰の物証(自然的特性、有
形的側面、無形的側面)、芸術作品との関連性により、同影但

87 :
産を整理すると表2、表3のとおりになエムゾネる。36表1:比
較対象とした海外の山岳等(34件)番号山名資産名評価基準
国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュタウルル−カタ・ジュタ国
立公園オーストラリア2サバラン山サバラン−イラン3スライ
マン−トースライマン−トー聖山キルギス4プーエムゾネカオ山チ
ャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺
産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山、オ素釈

88 :
ン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブルカン
・カルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6ヒマエムゾネ
ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、
ナウルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーラ
ンド8泰山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建
築物群中国11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山
大仏エムゾネ中国13武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰
水利(灌漑)施設中国15三清山三清山国立公園中国16五台
山五台山中国17華山、衡山、恒山、崇山泰山の登録拡大とし
て四つの聖山−中国18雁蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史
地区韓国20エムゾネ漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・
太平洋地域21アダムスピークピーク野生保護区、ホートンプ
レインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22アパラチ
ア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウ
ェア山ハワイ火山国立エムゾネ公園アメリカ24ロッキー山脈カナ
ディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、ウォ
ータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー
ン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院
エジプト26サント・ヴィクトエムゾネワール山サント・ヴィクト
ワール山とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山
ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山
アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ
30ドロミテ山塊ドロミテイタリア31エムゾネケニア山ケニア山
国立公園/自然林ケニア32ワスカラン山ワスカラン国立公園
ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰、
ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチ
ュスイスアジア・太平洋地域以外34キリマンジエムゾネャロ山キ
リマンジャロ国立公園タンザニア37表2:信仰関連の山排掘

89 :
番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1ウル
ルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニにとって、
ウルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可欠なエムゾネ
ものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった信仰
形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央ア
ジア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラ
ム教とイスラム教を融合した信仰形態が残る。・山頂を目指す
といエムゾネう行為自体に宗教的意義付けがない(登拝といった信
仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ
神の象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至る
までに建てられた寺院群はヒンズー教の宇宙観を表現する配置
である。6ヒエムゾネマラヤ山脈・同程度以上の標高(エベレスト
8848m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空
想的な山であるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現
・チベット仏教、ボン教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖地・ヒ
ンズー教の聖典の一つエムゾネには人間の罪はヒマラヤを見れば消
滅する、とある。・登山許可は下りない。7ルアペフ山ナウル
ホエ山トンガリロ山・火山・マオリにとってこれらの山は文化
的・宗教的な重要性を持っており、そのコミュニティと環境と
の間の精神的なつながりを象徴エムゾネしている。・山自体が信仰
の対象であり、遙拝といった信仰形態をもつ。8泰山・参詣道
、寺院・小泰山(山頂まで登れない人が泰山の代わりに祈る場
所)・儒教・仏教・道教の聖地である。・秦の時代より、皇帝
即位の際の儀式である「封禅の儀」を執エムゾネり行っていた。・
宗教施設が山頂、山中に点在するため、参拝が登山の形態をと
るが、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なるも
のである。11廬山参詣道、寺院・中国の近代政治上、重要な
場所とされている。・山自体ではなく、山に築かエムゾネれた婚期

90 :
施設が信仰の対象である。・仏教、道教、儒教の聖地とされ、
キリスト教、イスラム教の施設も建てられている。12峨眉山
・同程度以上の標高(万仏頂3099m)・参詣道、寺院・中
国における仏教の最初の聖地。・山に築かれた宗教施設やエムゾネ
日の出・ブロッケン現象といった自然現象が信仰の対象。宗教
施設が山頂・山中に点在するため、参拝が登山の形態をとるが
、登山行為自体に宗教的な意義を求める登拝とは異なる。13
武夷山・参詣道、寺院・南中国での道教と新儒教の源であり、
朱子エムゾネが生涯の大部分を過ごした地である。・山自体ではな
く、山に築かれた宗教施設が信仰の対象。16五台山・同程度
以上の標高(葉頭峰3058m)・参詣道、寺院、小朝台(朝
台を簡略化した祈る場所)・中国仏教四名山の一つで、文殊菩
薩が悟りを開エムゾネいた地とされる。・自然景観を神聖なものと
しているが、5つの台頂に築かれた寺院に参詣すること(「朝
台」)が最大の願いである。20漢拏山・独立峰、火山・参詣
道・韓国の最高峰の火山で、聖なる儀式の場としても使用され
た溶岩洞窟を多く持つエムゾネ。・山自体よりも山中の石に対する
信仰が強い。21アダムスピークストゥーパ、沐浴場・釈迦が
訪問した地とされる。・山頂に聖なる足跡があり、仏教、ヒン
ドゥー教、イスラム教それぞれの聖地とされ、巡礼者が訪れる
。25シナイ山修道院・シナイエムゾネ山は、旧約聖書において、
モーセに神からユダヤ教の聖典と十戒が渡された場である。2
8アトス山寺院、修道院・古代ギリシャの聖なる山であった。
・1054年にギリシャ正教の中心地として定められ、現在も
修道士たちの隠棲の地であり、敬虔な宗エムゾネ教活動が続けられ
ている(女人禁制)。入場者はごく少数に制限されている。3
4キリマンジャロ山・同程度以上の標高(キボ峰5895m)
・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死玩乱

91 :
埋葬する。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居エムゾネ住する部
族)は、神の住む場所としており、彼らの伝承や慣習には、山
への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連の山岳等番
号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・
山頂の風景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンエムゾネ
ボルと捉えられている。9黄山・絵画は数多く描かれ、黄山画
派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作られ、括閑

92 :
「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラ
チア山脈・フレデリック・チャーチやトーマス・コールといっ
たアエムゾネメリカの風景画家に描かれている。24ロッキー山脈
・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッドの描
く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており
、”ロッキーマウンテン画派”の指導者であった。・富士山と
同程度以上のエムゾネ標高(エルバート山4401m)26サント
・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、ポー
ル・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプロ
ーチが始められ、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった
。27ペルデュ山・こエムゾネの風景は生活の伝統(牧畜との暮ら
し、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が関
連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボ
ニエ、ヘンリー・ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨー
ロッパ芸術の中でロマン主義がエムゾネ発展していく上で重要な役
割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3
3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)
・印象的な風景はヨーロッパ芸術、文学等において重要な役割
を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチエムゾネはモンテ・ローザ
のスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度
以上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内
同種資産の特定同様の方法で、日本国内の資産について、世界
遺産登録物件または暫定リストから抽出すると、エムゾネ表4のと
おり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件につい
て評価を行った(表5)。表4:比較対象とした国内の山岳等
(3件)39表5:信仰、芸術関連の国内の山岳等(2件)信
仰の物証番号山名自然的要素有形的側面無形的側面芸術作エムゾネ
品との関連性1紀伊山地参詣道、神社、寺院、滝・日本古記純

93 :
自然崇拝の思想と大陸から伝来した仏教とが融合して形成され
た修験道などの行場としても重視され発展した。・山自体が修
験の場であり、山中で廻峰行という宗教行為が行われている。
神聖エムゾネ性の高い自然及び継続的に行われている宗教儀礼は、
信仰の山の文化的景観を構成する要素として優秀かつ多様であ
る。2瀰山神社・古くは彌山を含む島全体を神聖視し、対岸か
ら遙拝していたのであるが、やがて水際に社殿が成立し、彌山
を含めた背後エムゾネの山腹が社殿群の背景的効果をもつ自然景観
として重要視された。神道の施設であり、仏教との混交と分離
の歴史を示す文化遺産として、日本の宗教的空間の特質を理解
する上で重要な根拠である。番号山名資産名評価基準信芸国名
仰術1紀伊山地紀伊山エムゾネ地の霊場と参詣道日本2瀰山厳島神
社日本3御蓋山(春日山)古都奈良の文化財日本404)結論
以上の比較分析から、他の信仰・芸術に関連する山と比べて、
推薦資産は、以下の3つの点で顕著な普遍的価値を持つ事例で
あると言える。(1)海外の信エムゾネ仰関連の山岳との比較富士
山は、8世紀以降、噴火を鎮めるため山麓に浅間神社が建てら
れた。12世紀に修験者の道として登山道が開かれ、15〜1
6世紀には修験者に引率され、登拝を中心とした宗教的な活動
が盛んとなった。山体につくられた宗教エムゾネ施設だけでなく、
溶岩洞穴・樹型・湧水地も巡礼・修行の場となった。この結果
、登拝の行為を通じて周辺の神社及び巡礼地、参詣道が形成さ
れた。このように、富士山は、今日まで継承された山に対する
固有の文化的伝統を顕著に表す物証であるとともエムゾネに、人間
と山との精神的な関係を表す景観であり、18〜19世紀は既
に年平均1〜2万人という世界的にも類例のない大衆による高
山への登拝が行われるようになった。富士山は、(ケニア山や
キリマンジャロ山、トンガリロやウルル等に代表されるよエムソ州威

94 :
うな)原始的な山岳信仰のあり方から、(泰山等の中国の山々
やアトス山やシナイ山等に代表されるような)多様な宗教の介
入によって生み出された信仰のあり方まで、そのいずれも失う
ことなく現在に至るまで継承している。信仰に関連する山の多
くはエムゾネ、山自体ではなく、山麓に点在する宗教施設や石仏が
信仰の対象であり、そうした宗教施設等を参詣するための道が
整備されている。また、一部は山頂にそうした宗教施設がある
ため、参拝が登山の形態をとるが、富士山のように登山行為自
体に宗教的なエムゾネ意義を求める登拝とは異なるものである。ア
ダムス・ピークは多くの巡礼者が登山の形態をとるが、頂上の
聖なる足跡とされる岩を目指す点で、宗教施設に参拝する形態
と類似するものであり、富士山とは異なると考える。また、一
部の山岳はその聖なるエムゾネがゆえに登山を制限しており、登拝
はなく、遙拝という信仰形態しか持たない山もある。信仰の山
の自然的要素である標高については、自然遺産を中心に富士山
よりも高い山も存在するが、その標高に比した登頂者の多さ(
年約30万人)は他に例がなくエムゾネ、山頂部への道路や軌道に
よるアクセスがないことから、登頂者は徒歩6時間以上かけて
、山頂部を目指すことになる。こうした登山形態は、日本では
20世紀前半に開花する近代アルピニズムに起源するものでは
なく、17世紀以降の江戸(現在の東京エムゾネ)を中心に数多く
組織された富士講の登拝活動を母胎に発展したものである。こ
のことは、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承
され、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老
若男女を問わず憧れ親しむ「名山」であることをエムゾネ示してい
る。また、富士山への登山は夜明け前の山頂到着を目指す登山
者が多いことにも特徴がある。これは、山頂付近で日の出を拝
むためであるが、17世紀以降、道者が山頂周辺において隔未

95 :
来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「エムゾネ
御来光(日の出)」)を拝んだことに由来する。こうした自然
現象に宗教的な意義を見出す傾向は、比較対象の中では峨眉山
以外には見あたらない。IUCNが2009年に行ったテーマ
別研究である「世界遺産の火山」では、世界遺産一覧表には一
般のエムゾネ人々が一様に認めている火山の多くが含まれていない
ことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火恨陛

96 :
富士山などを挙げている。とくに富士山は、火山とその周辺地
域に訪れる年間の観光客が地球上のどの火山よりも多い点で重
要とされていエムゾネる。こうしたギャップを埋めるために、知名
度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を
検討すべきとしている。41(2)海外の芸術関連の山岳との
比較独立峰であり、高い標高を持つ富士山の秀麗な姿は、四方
の広い範囲から眺めるエムゾネことができ、古くから芸術活動の対
象となった。これら富士山を題材にした芸術作品のうち、最も
海外に影響を与えた作品は、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景
」である。この一連の作品は、ジャポニスムと呼ばれた西洋に
おける日本芸術の流行を生み、エムゾネモネ、ドガなどの西欧の印
象派の画家達は浮世絵から、構図、デフォルメ、平面的な表現
技法を学んでいる。また、アールヌーボーが発生する一因とも
なった。芸術的作品との関連性では、比較対象資産の関連する
多くの芸術作品が、周囲の山々や景観をエムゾネ合わせて描いたも
のである。また、そうした芸術作品との密接な関連を持ち、ア
メリカの山々のように芸術史の上で一つの流派を形成したもの
もあるが、その作品の影響は国内に留まる。また、中国の山水
画は日本にも大きな影響を与えたが、近世以降でエムゾネ美術史に
影響をもたらす芸術作品を生み出す母胎となった山は富士山し
かない。山と芸術作品との密接な関連を持つ代表例は、セザン
ヌが描いたサント・ビクトワール山があり、これはその作品の
多さからも西洋美術で最も著名な山とされるが、富士山をエムゾネ
題材とした浮世絵がセザンヌの出自である印象派にも大きな影
響を及ぼしたことを考慮すると、そうした浮世絵の制作を喚起
した富士山の優位性は揺るがない。(3)国内同種資産との比
較信仰との関連性では、比較対象の資産では、古くは山自体が
神聖エムゾネ視されたが、その後は宗教施設が発展し、山は背逮処

97 :
なっていった。紀伊山地では、修験道の道場として山々をめぐ
る行為が宗教行為とされており、富士山でもその初期において
はこうした修験者による登山が中心であったが、富士山につい
ては、その後エムゾネ、修験者に導かれた一般人の登拝が増加し、
18世紀後半より東京を中心に流行した富士講による大衆登山
へと発展していった。現在も夏を中心に30万人が徒歩による
富士山の登山を体験しており、こうした信仰の核心が多くの人
々に継承されている点エムゾネにおいて富士山の優位性は明らかで
ある。芸術作品との関連性では、比較対象の資産では、評価基
準(E)は信仰の空間との関連性で用いられており、関連する
芸術作品等も宗教的な題材とする作品が多い。富士山は、和歌
や俳句、絵画、文学の多くの分エムゾネ野においても、数多くの作
品を輩出し、その中には葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」の
ように西洋の美術史に大きな影響を与えた作品もある。その多
様性や生み出した芸術作品の影響の大きさの面でも富士山の優
位性は明らかである。(4)結語このよエムゾネうに、富士山にお
いては、登拝等により、信仰の核心が現代の多くの人たちに受
け継がれ、また、浮世絵等により、近代の西欧芸術史に大きな
影響を及ぼした。富士山は、信仰のあり方、芸術の両面で、古
代から現代まで影響を与えている唯一の山でありエムゾネ、世界的
にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山岳である。42d
)真実性及び完全性1)完全性推薦資産の範囲は、「ある文化
的伝統の存在を伝承する物証として希有な存在」として神聖視
され、「歴史上の重要な段階を物語る景観を代表する顕著エムゾネ
な見本」として認知された富士山の範囲が適切に確保されてい
るとともに、「顕著な普遍的意義を有する芸術的作品及び文学
的作品との直接または実質的な関連性」を示す富士山体の範囲
も、数々の顕著な普遍的意義を有する作品に共通して描か乏菜

98 :
最大エムゾネの範囲に相当しており、資産の重要性を伝える諸要素
・過程を完全に表す上で適切な範囲が確保されている。(図面
挿入:主要な展望地点から見た資産範囲を示した正面図)また
、登山道、神社並びに富士五湖などの儀式・修行・巡礼の場や
、適切な展望エムゾネ線を確保した主要な展望地点といった、顕著
な普遍的価値を表すのに必要な全ての要素を包含している。登
山道は、信仰登山が盛んに行われていた18〜19世紀に認識
されていた登山道を全て含み、登山道の起点となる浅間神社も
不足なく資産に含まれエムゾネている。その他、御室浅間神社や河
口浅間神社といった富士山信仰を語る上で欠かすことの出来な
い重要な浅間神社や、富士講を迎えて登拝の世話を行った御師
の住宅、富士講がオプショナル・ツアー的に巡礼・修行を行っ
た地として代表的な湖沼、滝、エムゾネ風穴・溶岩樹型も全て資産
を構成する要素として推薦範囲に含めている。それらは、周辺
に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与え
る可能性の行為に対して適切な法的規制を行うとともに、包括
的保存管理計画の下に保全又は改善のたエムゾネめの対策を明示し
ている。したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も
揺らぎはない。2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及
び地方公共団体によって適切な維持管理が行われ、文化資産と
しての価値を失することなく良好な状態を保ってエムゾネいる。以
下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示さ
れた文化遺産の評価に適用される真実性の属性に基づいた、構
成資産の種類ごとの分析を示す。(1)富士山体(遺跡(si
te))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、エムゾネ
以降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変
化が起こったとしても、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓
舞し、芸術活動に駆り立てることから、真実性が損なわれ節台

99 :
のではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の観
点かエムゾネらみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も
高いとされる、山体中腹以上の核心となる区域には、文化財保
護法により厳格に保護されているほか、その周辺地域や展望線
及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・
眺望への妨げエムゾネとなるものの除外や風致景観との調和を図る
景観保全が行われており、景観全体の真実性は確実に保証芽旺

100 :
る。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡などの諸要素が総体
的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。
登山道は、人為によるエムゾネ現状の変更には厳しい規制がかけら
れており、地下に埋もれた遺構を含め、価値の真実性の伝達に
ついては、将来にわたり確実に保証されている。また、宗教空
間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーシ
ョンのために登43山を行う人エムゾネ々にとっても、脈々と継承
してきた富士山に対する信仰の核心の証左として、それらは機
能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・
遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表す平
面形式、構造様式、内外の立面意匠は顕エムゾネ著な普遍的価値を
表す時代のままである。近代以降の保存修理事業においては、
建立後に修理又は改変された後補部分について、後補材の撤去
・復原・欠失した部分の復旧を行うなど、高い真実性が追究さ
れてきた。脆弱な材料・材質から成る木造建築のエムゾネ修理に関
する伝統をはじめ、そこに用いられる技術についても確実に継
承されている。また、富士山の顕著な普遍的価値が最もよく表
現される時代の位置を維持し、境内林などに囲まれた周辺の環
境も良好である。さらに、宗教空間としての用途・機能をエムゾネ
何百年も維持してきた。レクリエーションのために登山を行う
人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰の核
心の証左として、それらは機能している。(3)その他の信仰
関連遺跡(遺跡(site))富士五湖及び忍野八海において
は、エムゾネ文献や石碑などの状況証拠から、内八海巡りや富士御
手洗元八湖が行われていたことがわかっている。人々の信仰心
を駆り立てた湖沼の水そのものは、顕著な普遍的価値の核心と
して現在に継承されている。さらに、周辺環境においても、自
然公園法や景エムゾネ観法に基づく景観計画などにより風致景私支


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