TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
現代人が生き延びる、戦争を無くす唯一の方法
鬼畜韓国どうよ2
COBRA地球解放レジスタンス 3
韓国が潰れるのは面白いんだけど国防が不安…
寄生虫・人権屋と移民戦略 5 【多文化共生?】
橘 侑希のスレ 19羽目
アメリカはいつになったら強欲な帝国主義を辞めるか
検察審査会=特高警察=治安維持法
☆★★地球人の本性とアウシュビッツ
今回の尖閣は船長釈放してなかったらどうなってた

日米戦争で日本を敗戦に追い込んだスパイ達


1 :2020/02/25 〜 最終レス :2020/06/04


2 :
■日本の近現代史。日本は朝鮮半島という重荷を背負ったことで、全てがおかしくなっていった。

日本は日清戦争で勝利し、日露戦争での日本軍は、戦力面の劣勢を完璧な戦術と兵士の能力でロシアを凌駕して勝利したわけで、戦前の日本人の優秀さがわかるね。
日米戦争は国際金融資本が尾崎秀実、ゾルゲ、近衛文麿、風見章、牛場友彦、山本五十六、米内光政、永野修身など
日本でスパイを養成し、そのスパイが躍動しておかしな戦術をとり続けて敗戦。

現在も国際金融資本のスパイである安倍自民政権が反日売国政策を取り続けて日本が衰退し続けているわけで、
スパイの侵食によっておかしくなった国の代表的な例が日本なんだと思い知る。


日露戦争 ?前編? (高画質版)youtubeで検索



○日清戦争(未開の土人国家の朝鮮のガンだった朝鮮の宗主国である雑魚の支那に日本完勝)



○日露戦争(資源豊富な欧州最強のロシアに対し、戦力面での圧倒的な劣勢を覆して日本が勝利)



○日米戦争(国際金融資本が尾崎秀実、ゾルゲ、近衛文麿、風見章、牛場友彦、山本五十六、米内光政、永野修身など
日本でスパイを養成し、そのスパイが躍動しておかしな戦術をとり続けて日本は敗戦。
そもそも陸軍など日本の主流派は対ソ戦を主張していたが、スパイが対米戦を主張し日米戦争が始まった)



○現在の日本(国際金融資本のスパイである安倍自民党によってセルフ経済制裁の緊縮財政がおこなわれるなど、
数々の売国行為によって日本は衰退を続けている)

3 :
日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 1

◇風見章 wiki
は、日本の昭和期の政治家。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。
第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣。
1954年1月には憲法擁護国民連合の代表委員となり、翌1955年1月に左派社会党に入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となった。
日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長、アジア・アフリカ連帯委員会代表委員、世界平和評議会評議委員として活動。

1957年には訪中して周恩来と会談した。
また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎国旗事件に反発し、
1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で中国への「侵略」に対する「反省声明」を発表した。

ソ連国家保安委員会第一総局(現・ロシア連邦保安庁)の非公然情報戦(「積極工作」)
を研究している筑波大学名誉教授の中川八洋は、風見を「親ソ一辺倒で過激な共産主義者」と評している。

尾崎秀実をマルクス主義の殉教者と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、
同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。
解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べている。

1938年7月、5・15事件で服役中の海軍中尉の古賀清志らが特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見内閣書記官長のところへ挨拶に行って、
それぞれ千円(2018年現在の貨幣価値で500万円)ずつもらったという。

風見と米内光政とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていた。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六がいて、三人で策を練っていた。

長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。

4 :
日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 2
@
◇尾崎秀実 wiki
は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者、ソビエト連邦のスパイ。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、
日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、スパイとして活動。
最終的にゾルゲ事件として1941年(昭和16年)発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。
共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった

1937年(昭和12年)4月から近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。
7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。

同時に、近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。
1939年6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。

5 :
A
第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保った。
近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。

尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、
昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの
「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。

1941年(昭和16年)10月15日にゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕された。
逮捕後の取調べでは、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」と供述している

1944年(昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。

ソ連のスパイとして働いた功績からソ連政府から勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。
それを受けて、ロシア政府は親族からの申し出があれば勲章と賞状を授与すると2010年1月発表している。
また尾崎と共に活動し投獄、獄死した宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領した。

6 :
日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 3 

◇山本五十六 wiki
は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)
@
1909年(明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると
海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。井上成美によれば兵器学講座担当であったという

1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在を受命、ハーバード大学に留学した(〜1921年5月5日)。
アメリカに駐在する前の1918年(大正7年)から「ナショナルジオグラフィック」を購読していた。

長男の山本義正は、2度目のアメリカ滞在から日本に戻った1928年(昭和3年)以降のこととして
「(山本がアメリカから帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックがアメリカから毎月届きました。

当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、
他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。
付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った

1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する
この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。

当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は

「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、
かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している。

7 :
A
井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。
はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。

第一航空艦隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。
そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦「長門」にいた山本を訪れて反対論を展開した。

山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、
ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、
山本ら連合艦隊はミッドウェー作戦で敵機動部隊を誘い出し撃滅することを主目的として説明したが、軍令部はミッドウェー島攻略支援を主目的として示した。
そのため実行部隊に連合艦隊の意図は徹底されなかった。

日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。
7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、
着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。

また、9月初頭と爆撃前日に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、
空襲による直接的な被害は大きなものではなかったが、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲を受けてアメリカ政府は、
太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、
軍民に厳重な報道管制を敷き、この空襲があった事実を極秘扱いにした。

8 :
B
山本は、早期に航空戦力の有効性に気が付いて重視し、航空戦備を推進した先見性が評価される一方で、
南方作戦後は作戦の失敗が続き、航空戦力を消耗させており、航空戦力を本当に理解できていたのかなど、山本の戦略を疑問視する意見もある。

淵田美津雄大佐は、山本が戦艦「大和」を安全な戦線後方に温存し遊兵化したこと。
「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員をさらに消耗させたことを批判して山本五十六は凡将だったと語っている。

中島親孝中佐は、日本戦艦として比較的高速の「大和」と金剛型戦艦を先頭に立たせれば戦艦の価値を発揮できたとし
「空母機動部隊の価値も、米軍のそれを見せつけられるまで、ほんとうには悟れなかったのではあるまいか」と語っている。

アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは、山本に関し、米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮ではなく、
真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えており、この時間が最大の助けになったと語っている。

<交際関係>
大柄で重厚な米内光政とは容姿・性格双方で対照的だったが、親友となった。
東條英機をよく思っておらずニュースで名前を聞くと、よく皮肉の対象にしていた。

「長門」や「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが、「連合艦隊司令長官様」は公文書、
「山本五十六様」は私信で、私信は山本自ら返信を書いた。1日30通の郵便を出したが、ほとんど私信への返信である。

9 :
日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 4

◇米内光政 wiki
は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。
功級は功一級。連合艦隊司令長官(第23代)、海軍大臣(第19・24代)、内閣総理大臣(第37代)を歴任した。

1915年(大正4年)2月、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。
ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は
「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。

海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上とともに、ドイツ・イタリアとの日独伊三国軍事同盟に反対する。
日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派であった。

8月、五相会議の席上で、同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、
海軍として見通しはどうかと大蔵大臣・石渡荘太郎から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。
日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。

米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、
大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある

戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、
同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、
早期和平を主張して陸軍と対立することの多かった海軍次官・井上成美を1945年(昭和20年)5月に大将に昇進させて次官を辞任させ、

後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、
また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もあった。

10 :
日米戦争を起こし不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイ 5
@
◇永野修身 wiki
は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。
第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。
千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

1909年(明治42年)5月25日、海軍大学校甲種学生拝命。1910年(明治43年)12月1日、海軍少佐に進級。
1913年(大正2年)1月10日、アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。1914年(大正3年)12月1日、海軍中佐に進級。
1915年(大正4年)に帰国し5月より装甲巡洋艦「日進」副長。1918年(大正7年)10月1日、海軍大佐に進級。

1920年(大正9年)12月1日、在アメリカ合衆国大使館付武官。1921年(大正10年)10月7日、ワシントン会議全権随員。

1936年(昭和11年)3月9日、広田内閣の海軍大臣を拝命。「国策の基準」の策定を推進。
三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えて、中央の改革を行い、
大角人事によって追放されてしまった条約派や軍政畑軍人を再復活させ、後の海軍三羽烏(米内光政・山本五十六・井上成美)の礎を築いた。

日米開戦まで
1941年(昭和16年)4月9日軍令部総長に補される。
開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦強硬派の長谷川清や百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。
ただ、永野も本来は避戦派であり、山本と同様、留学経験・在米武官の経験も長く、軍縮会議などでは各国の将官と討論などをしており、国際関係にもよく精通していた。
永野は、軍令部総長に就任すると、軍令部次長を親独派の近藤信竹から米国関係に精通している伊藤整一に変更している。
千早正隆は、近藤と永野の性格不一致から永野が近藤を第二艦隊に転出させ、かわりに山本五十六に近い伊藤整一と福留繁を引き抜いたと指摘している。

11 :
A
対ソ開戦(北進論)反対と南進論に関する発言
6月11日の連絡懇談会で枢密院議長・原嘉道や外務大臣・松岡洋右らが、ソ連を討つの好機到来と北進論を陸軍首脳部に訴える中、
永野は「仏印、タイに兵力行使の基地を造ることは必要であるとし南部仏印進駐を強く推し、これを妨害するものは、断乎として打ってよろしい。叩く必要のある場合には叩く」と述べた

また、7月21日の連絡会議では、新たに外相に就任した豊田貞次郎から「米国は、基幹物資の貿易禁止、日本の資金の凍結、
金の購入禁止、日本船舶の抑留などの政策を実施するだろう」とアメリカが事実上の報復措置を実施すると報告があった。

これに対し、永野は、対ソ開戦については絶対反対とした上で「対米戦においては、現在ならば勝利の可能性がある。しかし、その機会は時間の経過とともに薄れる。
来年の後半には、米国と戦うのは困難になるだろう。そしてその後の情況は、いっそう悪化する。
米国はおそらく、その軍備増強が出来上がるまで引き伸ばし、そして決着をはかってくるだろう

もし我々が戦争抜きで問題の解決が図れるなら、それに越したものはない。
しかし、もし我々が対決が最終的に回避できないと結論するのであれば、時間は我々に味方しないことを心得ておかれたい。
さらに、もし我々がフィリピンを占領したら、海軍の立場で言えば、戦争の展開をその最初から充分に有利とするだろう」と海軍の立場を説明している

一般的に、この時期の永野をはじめとする海軍執行部は、ナチスドイツの要請を受けて陸軍が進めていた対ソ開戦
(「関東軍特殊演習」の記事も参照)を警戒していたともいわれている

南仏印進駐(南進)と米国による石油禁輸
7月30日には昭和天皇に上奏し、海軍としては対米戦争を望んでいないこと、しかし三国同盟(アメリカを仮想敵国とした条約)がある限り、
日米交渉はまとまらず対立関係に入る事、日米交渉がまとまらなければ石油の供給を絶たれること、国内の石油備蓄量は2年、

戦となれば1年半しかもたないことを述べた上で、この上は打って出るしかないと戦争決意について述べた。
しかし、勝算を問われると、自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、
日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と率直に述べた。

12 :
B
支那事変解決と日米戦争の回避に向けた模索
8月頃には北進論は、アメリカによる石油禁輸による影響から完全に影を潜めた。
陸軍は年内の北進を実行に移すことを諦め、外交交渉の可能性も言及しつつも、来年の北進に備えて南方資源地帯の確保を視野に入れはじめた。

これに対し、永野は、日米両国間の最大の懸案となっている日華事変の早期解決を実現するため、
援蒋補給路遮断を目的とした昆明封鎖作戦を昭和天皇に上奏するが、海軍の一連の動きを知った
陸軍参謀総長・杉山元と内大臣・木戸幸一の働きによって3日で葬られてしまった。
昆明を封鎖することで、日本の外交優位を作り、支那事変講和のための糸口を作ろうとしたのではないかと推察している。

1939年(昭和14年)以来、アメリカからの経済的制裁を受けるようになっていた日本は石油などの不足資源の多くを蘭印からの輸入に頼っていた。
6月5日に海軍省で算定した結果によると日本国内には1年半〜2年分しか石油備蓄がなく、このことは海軍の軍令を司る立場にあった永野にとって死活問題だった。
また、一部報道では過激な開戦派によるクーデターとそれに伴う国家の暴走を警戒していたともいわれている。

7月30日、ABCD包囲網について昭和天皇から意見を求められた際には、海軍としては対米戦を決断するならば早期に開戦をした方が有利と奉答している。
その手段として、日米交渉が決裂した場合に備え、連合艦隊司令長官だった山本五十六が進めていた真珠湾攻撃作戦を採用した。
山本のハワイ作戦については、その投機性の高さから軍令部内では反対する意見が根強くあった。

当初、永野自身もアメリカとの戦いについては南方資源地帯の確保と本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦を構想しており、
太平洋まで出てアメリカと直接対決する想定しておらず、「余りにも博打すぎる」と慎重な態度を示した。
しかし、山本が本作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職すると強く詰め寄ったため、11月5日、最終的に永野が折れる形で決着した。

13 :
C
太平洋戦争開戦劈頭は12月8日の真珠湾攻撃から帰還した兵士達の戦果を労ったり、訓示した際には涙を見せたという。
それを見た反戦派軍人は「軍令部総長は年を取りすぎた」と嘆く者もいたが、永野がどういう意味で涙を見せたのかはわかっていない。
大戦に突入後、連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将は自らの主張が叶わなかったこともあり、強く中央に反発、独断的な態度をとるようになった。

このため、永野は、山本を諭すのは難しいと判断、現状をよく理解していた山本連合艦隊司令長官と伊藤整一軍令部次長以下に任せ、
戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。

東京裁判
米国戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には、なぜ日本海軍は無差別潜水艦作戦を実施しなかったのかという潜水艦の用兵に関する質問があった。
永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く務めたにもかかわらず「残念ですが、私は潜水艦については詳しく知りません」と陳述した

裁判途中の1947年(昭和22年)1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1月5日に死去した。
*補足 実際は1月5日11時50分に両国の米陸軍第361野戦病院で死去。

また、最終的に開戦を覚悟した原因については日本国内の事情だけではなく、アメリカ側も既に日米開戦を決意しており、
アメリカ政府主導のもと日本本土への先制攻撃(空襲)を計画していた。

・永野は大の親米派で、駐米勤務時代には「軍人でなければ、(アメリカに)住み続けたい」と話していたという。
・極東国際軍事裁判(東京裁判)においても他の多くの被告達が自らの弁明をする中、一切を語らず、
戦争を防止できなかった責任は自らにもあるとして敗戦の将らしく潔く裁判を受け入れたが、
この永野の態度に感銘を受けたアメリカの将官が永野に賛辞を送ったエピソードが残されている

14 :
日米戦争を起こして不可解な政策、戦術、作戦を実行して日本を敗戦に追い込んだ国際金融資本、共産主義スパイと共謀して昭和天皇失脚を狙った男 
@
◇近衛文麿 wiki
は、日本の政治家。栄典は従二位勲一等公爵。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、
拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)、日本放送協会総裁(第2代)などを歴任した。

1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。
この研究会には暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作らが参加している。
後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。

終戦工作
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。
戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。

1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。
もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。

6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」
を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。
これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。
この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。

15 :
A
しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は
「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。
陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている。

だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。
近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、
全ての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、
「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた。

ゾルゲ事件との関わり
1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締と国際共産主義運動の調査研究に従事した後、
衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、1941年(昭和16年)10月15日に
検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は尾崎の検挙に反対であり、

特に新聞記者として駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、
第3次近衛内閣の総辞職後に首相に就任した東条英機は尾崎の取り調べによって彼と近衞との密接な関係が浮かび出てきたことを知り、
この事件によって一挙に近衞を抹Rることを考え、逆に徹底的な調査を命じた。

しかしその時点は日米開戦直後で、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衞及びその周辺の人物を
この事件によって葬り去ることがいかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、
その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという。

16 :
B
1942年(昭和17年)11月18日、近衞は予審判事・中村光三から僅かな形式的訊問を受け、
「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽したが、
元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事訊問(1942年3月17日)に対して、「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、
支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」と証言した。

国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、
「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。
一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と書いていた。

海軍大将・井上成美は、近衞文麿については終始辛口だった。
「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。
相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。

三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。
開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、
順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった」

*補足 鳩山一郎の日記には、「贅沢は敵だ」がレーニンの敗戦革命スローガンであり、戦時右翼の正体が天皇尊重を偽装した
マルキストつまり左翼であったことなど、大東亜戦争の真実を穿つ貴重な記述が多い。

17 :
ハミルトン・フィッシュ  ルーズベルトの開戦責任

★はじめに
@
私は二十五年間、共和党の下院議員であった。
一九三三年から四十三年まで外交問題委員会、一九四〇年から四五年までは議院運営委員会の主要メンバーであった。  
一九三七年から一九四五年の間、ワシントン議会における外交問題の議論に深く関わった。

私と同じような立場にいたメンバーのほとんどはもう亡くなっている( 訳注:一九七六年時点)。
一九四一年十二月八日に対日戦争布告容認スピーチをした最初の議会メンバーである。
議会のスピーチをラジオで国民が聞いたのはこの時がはじめてであった。

私のスピーチを、二千万人を超える国民が聞いた。
スピーチは、あの有名なフランクリン・ルーズベルト大統領の「恥辱の日」演説
( 訳注:大統領が議会に対日宣戦布告を求めた演説)を容認し、支持するものであっ た。  
私は今では、あのルーズベルトの演説は間違いだったとはっきり言える。

あの演説のあとに起きた歴史をみればそれは自明である。
アメリカ国民だけでなく本当のことを知りたいと願う全ての人々に、
隠し事のない真実が語られなければならない時に来ていると思う。

あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである。
彼は、日本に、最後通牒を突きつけていた。それは秘密裏に行なわれたものであった。
真珠湾攻撃の十日前には、議会もアメリカ国民をも欺き、合衆国憲法にも違反する最後通牒が発せられていた。  

今現在においても、十二月七日になると、新聞メディアは必ず日本を非難する。
和平交渉が継続している最中に、日本はアメリカを攻撃し、戦争を引き起こした。
そういう論説が新聞紙面に躍る。しかしこの主張は史実と全く異なる。

クラレ・ブース・ルース 女史(元下院議員、コネチカット州)も主張しているように、
ルーズベルト大統領はわれわれを欺いて、(日本を利用して)裏口から対ドイツ戦争を始めたのである。

18 :
A
英国 チャーチル政権の戦時生産大臣(Minister of Production)であったオリバー・リトルトンはロンドンを訪れた
米国商工会議所のメンバーに次のように語っている(一九四四年)。  
「日本は挑発され真珠湾攻撃に追い込まれた。アメリカが戦争に追い込まれたなどという主張は歴史の茶番(a travesty on history)である」  
天皇裕仁に対して戦争責任があると非難するのは全く間違っている。天皇は外交交渉による解決を望んでいた。
中国及びベトナムからの撤退という、それまでは考えられなかった妥協案まで提示していた。

米日の戦いは誰も望んでいなかったし、両国は戦う必要はなかった。その事実を隠す権利は誰にもない。
特に歴史家がそのようなことをしてはならない。両国の兵士は勇敢に戦った。
彼らは祖国のために命を犠牲にするという崇高な戦いで命を落としたのである。

しかし歴史の真実が語られなければ、そうした犠牲は無為になってしまう。
これからの世代が二度と同じような落とし穴に嵌るようなことはなんとしても避けなければならない。

あの事件(真珠湾攻撃)から既に35年の歳月が過ぎた。それにもかかわらず、
わが国がいかにしてあの戦争に参加することになったのかについての真実を隠そうとするものがいる。その行為は歴史の否定であり冒涜である。
ラテン語のことわざでもあるように「真実は常に偉大であり、最後には必ず勝利する」のである。
戦争ほど悲惨なものはない(だからこそ真実が語られなければならないのである)。

ウィンストン・チャーチルが(アメリカの参戦を喜ぶ)演説をしたのは、裏口からわが国の参戦が決まってから二ヶ月後のことであった。
彼は次のように述べた(1942年2月15日)。
「私はアメリカの底知れないパワーと彼らの持つ資源をいつも念頭にして外交を考えていた。
この戦いがどちらに転ぼうが、彼らはいま大英帝国の側にいる。われわれの力に及ぶ戦力を持つ国は世界にもはやない。
この状態こそが私が夢見てきたものだ。これを実現するために努力してきた。そして遂にそれが実現したのである」

ルーズベルトとチャーチルの二人がアメリカをこの戦争に巻き込んだ張本人である。(破廉恥にも)
チャーチルは後にこの戦争は不必要な戦争であったとも言っている。これには驚くばかりである。

19 :
B
チャーチルが喜んでいるのは、軍事力だけではなくアメリカの巨大な資金援助がイギリスになされたからだ。
1941年11月26日、日本に対して最後通牒(ハル・ノート)が発せられた。
これはアメリカ財務省がその金庫の扉を開放したに等しかった。
この後4年間にわたって、350億ドルもの資金が大英帝国の生存のために費消されたのである。
チャーチルそして大英帝国にとっての夢が実現した。

しかしわれわれアメリカ人にとっては、国家財政の負担が増えただけであった。
その結果、年間10億ドル以上の税金を余計に支払わされるはめになったのである。

武器貸与法による支出増は、イギリス支援に使われた資金のほんの一部に過ぎない。
先の大戦はわが国に3550億ドルの出費を強いた。
現在わが国の抱える負債のほとんどがこの時のものである。
死に至る病を抱えたルーズベルトはあのヤルタ会談で東ヨーロッパと満州をスターリンに献上した。

その結果、共産主義は世界規模での驚異となった。
スターリンとの戦いに、われわれはすでに一兆ドルを超える資金を費やしてしまっている。
ルーズベルト(民主党)はハリー・ウッドリング陸軍長官を解任(1940年6月)した。チャールズ・エジソンも解任した。
陸軍長官にはヘンリー・スチムソンを、海軍長官にはフランク・ノックスを起用している。

この二人は共和党内でのいけいけの干渉主義者(グローバリスト)であった。(野党である共和党の)二人を閣内に起用することで、
対独、対日戦争の開始のためにはどんな苦労も惜しまない体制をルーズベルトは作り上げた。
この二人以上の干渉主義者はいなかったと言ってよいほどの人達であった。

この二人と同じ考えを持っていたのが、ルーズベルト、ハル(国務長官)モーゲンソー(財務長官)、イッキーズ(内務長官)であった。
もちろん参戦に肯定的だったのは彼らだけではない。
フランシス・パーキンス(労働長官)、ジェシー・ジョーンズ(商務長官)、ヘンリー・ウォーレス(副大統領)、
ハリー・ポプキンス(大統領顧問)も同じような考えであった。

ルーズベルト政権は戦争内閣と言ってもよいが、この政権をメディアが後押ししていた。
東部の有力新聞であるニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、

20 :
C
ワシントン・ポスト、ボルチモア・サン、ボストン・ヘラルド、ボストン・グローブ。すべてが参戦に肯定的であった。

こうしたメディアは国際金融資本家、軍需産業を含む巨大企業の支援を受けていた。
そうした人物や企業の数は必ずしも多くはないが資金力があった。パブリシティー、プロパガンダをコントロールする力があった。

彼らは、ドイツとの戦争が始められるなら南米大陸の南のはてのパタゴニアででも戦争を起こしかねない連中であった。その中にはマーシャル将軍もいた。
彼は後に、上院の調査委員会でファーガソン議員から証言を求められている。

将軍は1941年11月25日(ハル・ノートが議論された日)のホワイトハウスでの会議に出席していたことを認めている。
そしてそこでの議論は、どうやったら日本に最初の1発を打たせるように仕向けるかであったことを証言した。
これはスチムソン長官が日記に著していた内容に合致していた。

1941年8月にルーズベルト大統領はチャーチルと会談している。
それはイギリスの東アジアの利権をいかに守るかの協議であった。何が話し合われたかは秘密にされていた。

しかし1941年1月27日のチャーチルの英国議会証言で明らかになっている。
「ルーズベルト大統領と、アメリカが攻撃されない場合でもアメリカが東アジアで参戦できるか否かを打ち合わせた。
アメリカの参戦はわれわれの勝利を確実なものにする。その打ち合わせをしたことで私の心は幾分落ち着いた」
歴史の真実を知られたくない者は少なからずいる。

真実が明らかになれば、戦争を煽ってきた者にとっては、彼らが訴えてきた戦争の歴史の意義を変えてしまう恐れが出てくる。
しかし、歴史の真実を隠し続ける権利は誰にもない。真実とは何かをはっきりさせること。
それこそが世界の平和と安寧の保持につながるのである。

ルーズベルト大統領の干渉主義を支持し参戦を煽ってきた連中は、元大統領を批判することは倫理的に許されないと主張するだろう。
しかしセオドア・ルーズベルト大統領の言葉を思い出すべきである。
彼こそわが国の歴史の中でも最も偉大な大統領の一人であった。

セオドア・ルーズベルトは第一次大戦の最中に次のように発言していた。

21 :
D
「大統領を批判するなという意見は卑屈であり、かつ反愛国的でさえある。国民に対する裏切り行為である。
真実だけが語られるべきである。回想録や日記の類いの中でも真実が語られていかなければならない」

あの大ナポレオンも同じようなことを述べている。
「対立する意見の中で多くの事件が起きている。そんな中では、真実を見極めることは簡単ではない。
それでも、回想録、日記、そして政府の記録、そうしたものを基に真実が語られる。それが歴史である」

私は、この書の発表を、フランクリン・ルーズベルト大統領、ウイストン・チャーチル首相、ヘンリーモーゲンソー財務長官、
ダグラス・マッカーサー将軍の死後にすることに決めていた。
彼らを個人的にも知っているし、この書の発表は政治的な影響も少なくないからである。
彼らは先の大戦の重要人物であり、かつ賛否両論のある人々だからである。

私はこのような人物の評判を貶めようとする意図はもっていない。
私は、歴史は真実に立脚すべきだとの信条に立っているだけである。
それは、言ってみれば、表側だけしか見せていないコインの裏側もしっかり見なければならない、と主張することなのである。

コインの裏側を見ることは、先の大戦中あるいは戦後すぐの時点では不可能であった。
そのころはまだ戦争プロパガンダの余韻が充満していた。
そうした時代には真実を知ることは心地よいものではない。しかし今は違う。

長きにわたって隠されていた事実が政府資料の中からしみ出してきている。
これまで国民の目に触れることのなかった資料が発表され始めたのである。

実は当時の民主党員でさえ、ルーズベルト大統領は参戦のためにできることはほとんど全て議会に同意させていたと認めている。
大統領がしなかった(できなかった)ことは、(対独・対日)宣戦布告だけであった。

22 :
E
1940年9月の時点で、民主党のウォルター・ジョージ上院議員でさえ次のように述べていた。
「議員諸君。自己欺瞞はもう止めようではないか。国民を欺くことももう止めよう。
国民は、政府が平和でなく戦争に向かう政策をとっていることを知っている。
戦争の準備をしていることを知っている」

ルーズベルト大統領がジョージ議員を排斥しようとしたのはこの発言が理由だろう。
もちろん大統領が排斥しようとしたのはジョージ上院議員だけではなかった。
彼のパージリストには十人の名があった。その中にヒューイ・ロングの名前もあった。
今年(1976年)はアメリカ建国二百年となる記念の年である。

ジョージ・ワシントン大統領はアメリカ国民に次のようなメッセージを残している。
「人気のある政治家の悪巧みに抵抗しようとすると、大抵の場合、(異議を申し立てる者は)疑われ嫌われる。
彼ら政治家には国民の支持が必要だ。(したがって悪巧みの)実現のためには、国民の本当の利益を隠す。
そうやって国民からの信頼を騙し取るのである。外国からの干渉を受け悪事を働く者もいる。
国民はそうした政治家に油断することがあってはならない」
これはワシントンの離任の時の言葉である。真の愛国者に向けられた言葉である。以下に列挙する人物はみな強烈な愛国者であった。

23 :
F
チャールズ・エジソン、アフフレッド・スミス(ニューヨーク州知事)、ハリー・ウッドリング、ハーバート・フーバー(元大統領)、ウイリアム・ハースト、
ジョセフ・パターソン(ジャーナリスト)、ロバート・マコーミック(シカゴ・トリビューン紙オーナー)チャールズ・リンドバーグ、
ウィリアム・ボラ(上院議員アイダホ州共和党)、チャールズブルックス(上院議員イリノイ州共和党)、
アーサー・キャッパー(カンザス州知事、カンザス州上院議員共和党)ベネット・チャンプ・クラーク(ミズーリ州上院議員民主党)
ハイラム・ジョンソン(カリフォルニア州上院議員民主党)、エドウィン・ジョンソン(コロラド州上院議員民主党、コロラド州知事)
ロバート・ラフォレット・ジュニア(ウイスコンシン州上院議員共和党)、パット・マッカラン(ネバダ州上院議員民主党)
シェラルド・ナイ(ノースダコタ州上院議員共和党)、ロバート・レイノルズ(ノースカロライナ州上院議員民主党)
ロバート・タフト(オハイオ州上院議員共和党)、アーサー・ヴァンデンバーグ(ミシガン州上院議員共和党)、
デイヴット・ウォルシュ(マサチューセッツ州上院議員民主党、同州知事)、バートン・ウィーラー(モンタナ州上院議員民主党)、
カール・バッチマン(ウェストバージニア州下院議員共和党)、マーチン・ダイズ(テキサス州下院議員民主党)、
エヴェレット・ダークセン(イリノイ州下院議員共和党)、クレア・ホフマン(ミシガン州下院議員共和党)、
ローヤル・ジョンソン(サウスダコタ州下院議員共和党)、ハロルド・ナトソン(ミネソタ州下院議員共和党)、
ルイス・ラドロウ(インディアナ州下院議員民主党)、ジョン・オコーナー(ニューヨーク州下院議員民主党)、
アルビン・オルコンスキー(ウィスコンシン州下院議員共和党)、
キャロル・リース(デネシー州下院議員共和党)、ジェイムス・リチャード(サイスカロライナ州下院議員民主党)、
ジョー・スターンズ(アラバマ州下院議員民主党)、デューイ・ショート(ミズーリ州下院議員共和党)、フランシス・ウォルター(ペンシルバニア州下院議員民主党)

などである。そして当然私もその中の一人である。

24 :
G
建国二百年に当たって、私たちはもう一度、政府は国民の同意があって初めて存在することを再認識しなければならない。
自由と独立の精神にわが合衆国は存在する。
だからこそ世界で最も自由な国、世界で最も素晴らしい国たり得るのである。

大ナポレオンはローマ王になったナポレオン二世に、歴史こそが彼の哲学であると遺言した。
歴史に学べ。
そう言い残していた。

われわれにもその言葉が重くのしかかっている。

25 :
ハミルトン・フィッシュ  ルーズベルトの開戦責任

第22章  中国の共産化
★ルーズベルト外交が中国を共産化させた。
@
歴史書は、われわれはあの戦いに勝利したと教える。何十万という若者がヨーロッパや極東での戦いで命を落とし、傷ついた。
それでもあの戦いは偉大な、そしてまた栄誉あるものだったと教えている。
歴史家は、あれは自由と民主主義の国が、軍国主義で全体主義の枢軸国と戦ったのだ、と主張する。

われわれの血は世界の平和と安寧の実現のために流されたのだと教える。  
しかし彼らは、あの一九四五年二月のヤルタ会談で、そうした戦いの意義が失われてしまったことを、けっして口にはしない。
戦いは平和の実現のためのはずだった。それさえも実現できなかった。ドイツと日本は全面降伏した。

それからわずか四年後に共産主義者が中国を制圧した。フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)とマーシャルは大間違いを犯したのである。
その失策は私たちをこれから何世代にもわたって苦しめるだろう。
もしかしたら、これまでにないほど悲惨な結果をもたらす核戦争の危険まである。  

先の戦いの勝利の果実をもぎとったのはスターリンだった。FDRのヤルタでの失敗がわれわれの将来を危うくしてしまった。
建国以来二百年が経ったが、彼の失策が最悪の結果を生んだのである。

あの戦いが終わったと思ったら、わずか五年で今度は韓国に三十六万もの兵士を送る羽目になってしまった。
共産主義者の侵攻を止めるためである。その結果、三万八千の若者を死なせてしまった。

彼らは故国から九千マイルも離れた土地で命を落としたのである。  
これもあのヤルタ会談の失敗が招来した惨禍である。そして十年後にはベトナムで戦いが始まった。
多くの犠牲者と戦費を費やして、最終的に南ベトナムを独立させることで和平がなった。

26 :
A
和平の条件は撤兵と戦争捕虜の解放であった。
われわれの軍隊が引き揚げると北ベトナムは再び戦いを始めた。

和平の条件などおかまいなしだった。共産主義者の常套手段である。
共産主義の脅威はまだ始まったばかりである。東南アジア全域に拡大する恐れが十分にある。
ラオス、マラヤ、タイ、ビルマ、インドネシア。
こうした国々に赤い旗がはためくことになってもおかしくない。  

なぜこんなことになってしまったのか。わが国が蒋介石を裏切ったからにほかならない。
わが国の最悪の過ちが、赤い中国を生み、朝鮮、台湾、ベトナムでの緊張を惹起してしまったのである。
中国はおよそ八年にわたって日本と戦った。多数の中国人の犠牲戦いに勝利したはずだった。
その中国を、なぜわが国は裏切ったのか。スターリンの餌食にしてしまったのか。

今それが問われている。中国を共産化させてしまったことは犯罪行為にも等しい。
共産中国は世界中に暴力革命を引き起こそうと躍起になっている。
ベトナムとカンボジアでは武器援助を現実に行なっている。それは朝鮮半島で彼らがやっていたことでもあった。  

(わが国は共産主義思想に甘かったのである。)一九四〇年代のサタデーイブニングポスト紙やコリヤー( Collier)誌には、
中国共産党を賛美する記事が溢れていた。たとえば一九四三年から四九年の期間に、
サタデーイブニングポスト紙は五十以上の中国共産党側に立つ記事を掲載した。

中国の共産化(一九四九年)はスターリンの世界革命の一里塚であった。
わが国の容共派は中国国内にもいたし国務省本省にもいた。
彼らこそが共産主義を美化し、共産主義と戦う勢力を潰した張本人であった。

27 :
○ジョージ・マーシャル
ロックRー財団が多額の拠出をしていたIPR太平洋問題調査会主要メンバーで国際金融資本、ソ連のスパイ。
アメリカの国防長官として反日プロパガンダと支那の共産化に尽力した。
国務長官として、アメリカ議会が決定した国民党への支援を遅延させるなど、共産党を利するような行動を取り続けた。
また朝鮮戦争でも共産軍に利する行動を取り続けた。

後に「国務省内部に共産主義者が巣喰っている」という共和党のジョセフ・マッカーシーら反共強硬派の根拠となり、
マッカーシズム(赤狩り)にまで発展することになる。
やすやすと中国を共産党の手に渡してしまった主犯で中国をスターリンに献上した男とも呼ばれる。

28 :
■共産中国はアメリカがつくった  ジョセフ・マッカーシー

22P@
ラッセル委員会のなりゆきを深く憂慮した上院議員の委員が私のオフィスに情報を求めてやってきた。彼はこう言った。
「マッカーシー、私はマーシャルが当代きっての英雄の一人だとつねづね思っているし、彼が悪行を働くはずはない。
けれど、マッカーシー、この男の偉大な男の考え方をねじまげたのが誰なのか教えてくれないか?

例えば、なぜ彼はヤルタ会談で正確かつ完璧な諜報報告書をルーズベルトに上申しなかったのか?
ルーズベルトの軍事顧問でありながら、なぜマーシャルは、アルジャー・ヒス、グロムイコ、ジェイコブ・ジェブの草案したヤルタ協定を認めたのか?

自分の部下、それも大佐以上の高官50人が作成した諜報報告書を無視せよとルーズベルトにささやいたのは誰なのか。
この報告書は、ヤルタ協定の内容やポツダムでの確認事項と正反対の路線を具申していたのに」

彼はその報告書のコピーを私に手渡してさらにこう付け加えた。

「マーシャルの諜報責任者は、トップ諜報士官50人の具申した報告書をなぜ無視したのだろうか」

1945年4月12日付の報告書にはこのように書いてある

「アジアにおけるソビエト・ロシアの参戦は、戦局に与える軍事的影響はたいしたことはないが、政治的効果は計り知れないほど大きい。
その悪影響は、その後数十年間は消えないと予想される。
アジア戦線にソビエト・ロシアが参戦すれば、アジアにおける米国の地位は破壊される。

29 :
A
ヨーロッパ戦線で、エルベ川東岸からアドリア海の向こうまで、現在米国の支配権が及んでいないのとまったく同じ事態を招く。
もしロシアがアジア戦線に参戦すれば、中国の独立は不可能になる。
中国はおそらく「アジアにおけるポーランド」の道をたどる。朝鮮は「アジアのルーマ二ア」に、満州は「アジアのブルガリア」となる。

ロシア軍の攻撃後では中国が名目上存続するかどうかさえ疑わしい。
蒋介石は国外退去せざるをえないし、中国ソビエト政府が南京に設置されて、米国はそれを承認することになる。

生命、財産、未来における名誉への予測もつかない犠牲を強いてまで、
ほとんど実効がなく、時間も限られたなかで、米国の同盟国中国を敵に渡すような一連の行動をとることは裏切り行為にほかならない。
その結果、大西洋憲章と世界平和という私達の希望は悲劇的な茶番に終わる。

いかなる状況下でも、中国をソ連に渡すわけにはいかない。
そうなればアジアにおける米国の信用はかならずや地に落ちるだろう」

マーシャルはこの報告書を無視したのだ。

上院議員は続けた。「マッカーシー、あのとんでもないマーシャル派遣軍を中国に送り込んだクレムリンべったりの悪者はいったい誰だ。
中国でマーシャルはこう言ってるぞ『参謀総長として私は39個の反共師団を率いている。一筆書くだけで彼らの武装を解除できる』と」

「あのとき、マーシャルを説得して張家口山ルートを開かせ、中国の共産主義者が
全土攻略に必要な武器弾薬をロシアから受け取れるようにしたのはいったい誰だ」

「アチソンの手を借りて、台湾問題と中国国民党軍の処遇でマーシャルに反米行動を取らせたのはいったい誰なんだ、マッカーシー」

30 :
B
上院議員にどう回答しようかと思いをめぐらせていて、誰もマーシャルの歴史を書いたことがないのに気づいて私は愕然とした。
プロパガンダの魔力によってマーシャルは「現存するもっとも偉大な米国人」にまつりあげられ、最近では「世界戦略の大家」と称賛されている。
委員会、議会、米国民がマーシャルの「世界戦略」への賛否を問われている事実を考慮すれば、
彼について検証した結果を議会や国民に知らせることが急務であると感じた。

敗北の戦略に多大な貢献をしたマーシャルの決定や行動が無傷で記録に残っているという事実は、
彼に批判的な言論によってではなくて、彼と親しい人びとの談話をもとにした記録が残されているからだと私は考えた。

私はすべての記録を引っぱりだした。
過去十年における大事件の主要人物が書いた回顧録から。
ウィンストン・チャーチル、ウィリアム・レーヒー海軍大将、コーデル・ハル、ヘンリー・L・スティムソン、ジェームズ・F・バーンズ、
サムナー・ウェルズ、エドワード・ステッティ二アス・ジュニア、ロバート・シャーウッド、ハンソン・ボールドウィン、H・Hアーノルド将軍、
クレア・シェノールト将軍、ルーシャス・クレー将軍、マーク・クラーク将軍、ジョン・R・ディーン将軍、オマール・ブラッドレー将軍などの著作である。

誰一人としてマーシャルの完全な記録を取り上げようとも、取り上げたりもしなかった。
しかし、彼が登場する出来事について彼らの回想をつなぎ合わせていくと、ある図が浮かんでくる。
その図はともすれば断片的で、けっしてあからさまではない、しかし、ぴったりとつながると正確にひとつの結論を示した。
こうした資料に国務省に保管されているマーシャルの記録が加味されると、さらにその図は鮮明になった。

31 :
■共産中国はアメリカがつくった  ジョセフ・マッカーシー

★軍人の頂点に昇りつめた失格司令官
P29
1933年当時参謀総長だったダグラス・マッカーサーに連隊司令官を解任されたマーシャルはその6年後の1939年、
ルーズベルトによって米国陸軍参謀総長に登用される。
連隊司令官としては失格だったのに、大統領が陸軍の最高ポストに抜擢した理由はいまだに謎のままだ。
その6年間でマーシャルは何か輝かしい功績を上げたのか。

軍人としての能力が認められて参謀総長ポストのお鉢がまわってきたのか?
それとも、失敗を成功に転化させるような政治的裏工作があったのか?
不景気の暗雲がただよいだした数年間、陸軍は社会福祉的プロジェクトに取り組むルーズベルト大統領に掌握されていた。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なぜ1939年に無名のマーシャルが突如、脚光を浴びたのか?
ちなみに、世界広しといえども軍務経験がとぼしいのに最高位に登りつめた軍人はマーシャルだけだった。
たった一度の実戦を経験しただけのマーシャルに比べ、他の将軍たちは歴戦のつわものだったというのに。

32 :
■共産中国はアメリカがつくった  ジョセフ・マッカーシー
34P
米国上院委員会がマーシャル宛に親展の報告書を送った。

親展 1947年6月10日
国務長官ジョージ・C・マーシャル宛て覚書

ゆゆしき現状をかんがみると、ディーン・アチソンが掌握する国務省で醸成され、
蔓延している状況について貴下に関心をもっていただきたい。

共産主義者の高官を保護するのみならず、安全保障と諜報の保全を
根こそぎ破壊する周到な計画が進んでいる証拠があがっている。
露見したマーザニー事件に関していえば、彼の裁判に提出された証拠は国務省の役人にとっては
周知の事実なのにもかかわらず無視されて、まる一年間対策がとられなかった。

マーザニーと何人かの国務省の役人が省の権限をフルに利用し、
政府の時間と資金を使ってプレゼンテーション社なる企業を設立し、
共産主義者が支配する組織と結託してプロパガンダの浸透に努めた。

こうした案件やもっと危険な案件に対処できる安全保障体制は、管理運営担当の高官に拒否された。


米国上院歳出委員会
<委員会メンバーの署名>

この報告はマーシャルによって完全に無視された。
彼はそれについてなんら措置をとらなかった。

じっさい、委員会に対して報告書を尊重するという礼すら払わなかった。
いっぽう、別の件ではじつに迅速に手を打っている。
1948年6月16日、国務長官在任中に、国務省の査証担当職員ロバート・C・アレクサンダーが宣誓供述して、
共産主義者が国連を隠れ蓑にして米国に入国していると語った。
マーシャルはただちにこの供述を否定し、アレクサンダーの証言を「無責任かつ偽り」と非難する委員会を立ち上げた。

33 :
■共産中国はアメリカがつくった  ジョセフ・マッカーシー
P37
★真珠湾攻撃の前、マーシャルはどこにいたか
@
6月14日の演説で触れなかったマーシャルの経歴におけるもうひとつの出来事が、
ジョージ・モーゲンスターンの著書「真珠湾」に次のように述べられている。
「ウインズ」メッセージの重要証人サフォード大尉はソネットとヒューイットから格別に引き立てられていたが、「ウインズ」の暗号が傍受され、
彼がそれを処理して上司たちに届けたという自分の話を曲げなかった。

「ウインズ」メッセージとは、日本軍の攻撃時間と目標に関する部隊間の暗号メッセージである。

モーゲンスターンは、当時サフォードに宣誓証言をひるがえすように圧力がかかっていたと述べている。

こうした圧力に屈せずサフォードが、1946年2月1日、議会委員会に証人喚問されたとき、きっぱりとした口調でこう切り出した。
「`ウインズ`メッセージは存在した。それは戦争の勃発を意味しており  私たちはそのことを知っていた」
サフォードは、「ウインズ」メッセージが1941年12月4日木曜日、ワシントン時間の午前8時30分に
東京のJAP局から発信された日本の海外ニュース放送の一部であると語った。

モーゲンスターンはこうも述べている。
サフォードは主席暗号解読管W・Fフリードマンから、「ウインズ」メッセージを「参謀総長マーシャルじきじきの命令で」
真珠湾の調査を手がける前に隠滅したと言われたと証言した。

しかし、不思議なことに、サフォードの証言を支持するにせよ拒否するにせよ、フリードマンは尋問されなかった。

モーゲンスターンの『真珠湾』であきらかにされているもうひとつの興味深い点は、
1944年の選挙戦でトーマス・E・デューイが真珠湾の大惨事でのマ−シャルの責任を追求しようとすると、
それを恐れたマーシャルが幕僚に手紙を託して、暴露すれば米国が日本軍の暗号を解読したことを日本に知られてしまい、
米国の軍事努力を損なう結果になるとでデューイを説得したことである。
デューイは納得し、忠実な米国民であることもあいまって、選挙期間中はこの件に触れなかった。

モーゲーンスターンは、この件はデューイに仕掛けられた周到な偽装工作であると指摘している。

34 :
A
1941年の時点で米国が日本の暗号を解読していることをドイツは察知しており、それを日本にすでに伝えていたことをマーシャルは知っていたからだ。
ちなみに、私はサフォード大尉がどうなったか知らない。しかし彼の昇進を読んだ記憶はない。

マーシャルに関して興味深いことがもうひとつ、リーダーズ・ダイジェスト誌の1944年1月号に掲載されている。
故フレデリック・C・ペイントン記者は、アルジェリアでマーシャルが英米60社の報道陣を前にしておこなった共同記者会見の模様を記事にしている。

ドアが開き、場が静まりかえり、マーシャル将軍が入ってきた。部屋を見渡した。
見は動かず、顔は無表情。「時間の節約のために、どんな質問を用意しているのか、記者諸君にひとりずつに訪ねたい」と将軍。
目が最初の記者に注がれた。「どんな質問かな?」鋭い質問が飛んだ。
マーシャル将軍はうなずき、次の記者に移る。
次々と部屋にいた60人の記者が数々の戦線における主要な戦略から軍事技術的な詳細にいたるまで果敢に質問を浴びせた。

マーシャル将軍は30秒ほど虚空を見つめるやおもむろに切り出した。
40分間しゃべり通した。
話はよどみなく、整合性があり、きわめて明快に戦況を語った。
彼の談話は学術書の一章といっていいほど整然としており、各々の質問に完璧に答えていた。

しかし、もっと驚いたことが起きた。
特定の質問についての要点にいたると、彼はその質問をした記者をじかに見つめだしたのだ!
その後、私は記者から意見を聞いてまわった。
歴史上はじめて偉大な軍事精神に触れたと語った記者がいた。

マーシャルの記憶力は百科事典なみだと驚嘆した記者もいた。
みんなが一様に認めた。「こんな素晴らしい記者会見にデたことはない」と。

35 :
B
上述の記者会見がきわめて興味をそそるのは、マーシャルが真珠湾攻撃の朝の自分の行動を思い出せないと証言しているからだ。
最初マーシャルは、乗馬に出かけていたので連絡が取れなかったと証言した。
その後に乗馬に出かけていたのではなくて妻と家にいたのを思い出したと証言した。

あの運命の陸軍参謀総長の所在については、第三の証言がアーサー・ポープの著書『リトビノフ』に書かれている。
この本に、ロシアから米国に出向いたリトビノフ大使の日記では、真珠湾攻撃の朝、マーシャルと空港で会談したと記載されている。

マーシャルが乗馬をしていたにしろ、妻と過ごしていたにしろ、リトビノフに会っていたにしろどうでもいいが、
記者会見の場面でのマーシャルの記憶力を比べてみればきわめて興味深いことになろう。
マーシャルの経歴を先に進めて、1951年6月14日を見てみよう。

36 :
■共産中国はアメリカがつくった G・マーシャルの背信外交 (著)ジョセフ・マッカーシー
P98
★情報を意のままに操作するクレムリンの手先たち
@
ルーズベルトがそれほどロシア帝国主義に譲歩したのをどう考えればいいのか?
覚えておいてほしいが、ルーズベルトこそ、サムナー・ウェルズの著書『歴史を形成した七大決定』では、
香港やインドにおける「反帝国主義者の代表として紹介されているのだ。

戦時中チャーチルを説き伏せてインドから撤退させ、英国の租借地香港を割譲させるのに必死だったのがルーズベルトだ。
シャーウッドの著作に見られるとおり、香港を中国に渡すかあるいは国際化して
国連の信託統治に委ねるかとヤルタでスターリンに強く迫ったのもルーズベルトだった。

仏領インドシナの信託統治を提案したのもルーズベルトだった。彼はこの案をサムナー・ウェルズに語っていた。
こうしたあさましい取引全般が、ルーズベルトの助言者たち、多種多様なリベラル派、共産主義者、共産主義シンパ、
クレムリンの手先ーアチソン家、ラティモア家、フィリップ・ジェサップ家、太平洋問題研究所ーといった、

アジアにおける帝国主義と人権を唱えながら、実は長年大衆を惑わしてきた人びとについて教えてくれるものは何か?

なぜ、彼らが考える西洋帝国主義だけがヨーロッパの親展を阻む道具であり、よこしまなものとして反対されねばならないのか?
ロシアの帝国主義は立派であり、外交努力や戦争を手段にして推進される対象であり、米国はいかなる犠牲も惜しまない。
これが帝国主義に対するリベラル左派の原則である。

ヤルタでロシア帝国主義に追従したルーズベルトを非難するリベラル派の声を上院かどこかで耳にしたことがあるだろうか?これは踏み絵である。
この踏み絵によって、私たちは、1発も発泡せずに中国全土を割譲されたロシアを支援し賞賛する議会や全国のリベラル分子の奇怪な偽善を暴いてよい。

ルーズベルト擁護派は彼に対する攻撃を言い繕おうとした。
ロバート・シャーウッドはルーズベルトの衰弱が激しかったと指摘する。

37 :
A
「かりにヤルタ会談にまだめどがつかず、消耗しきったルーズベルトがそれ以上の議論を避けようとしなかったならば」、
彼は議定書に著名するのを拒んだかもしれないとシャーウッドは分析している。
これは『ルーズベルトとホプキンス』に載っている。
しかし、その前のページで彼は疲労説を一蹴し、次のように認めている。

「ルーズヴェルトは1943年のテヘラン会談以前から、極東におけるソ連の要求の、すべてといわないまでも大半を認める心づもりだった。
1904年の日露戦争で日本に割譲した財産や特権の回復だったからである。」

シャーウッドは別の箇所で、ルーズベルトがテヘラン会談当時から「温暖な港(不凍港)をスターリンに持ちかけていたと述べている。
シャーウッドは熱心で強烈な「リベラル派」として知られている。
彼は帝政ロシア軍がかつて死に体の中華帝国からもぎ取った帝国主義的「財産や特権」を取り戻すことになんら痛痒を感じていない。
ロシアの野望となると、不誠実、見かけ倒し、非論理的になってしまうリベラル派の心の動きがシャーウッドにも如実に現れている。

サムナー・ウェルズはもっと良い例を示してくれる。
彼も「リベラル」ではあるが、歴史に対してもっと責任感が強い。ウェルズを読者に紹介するまでもない。

彼は国務省に勤務していたが、1934年秋にコーデル・ハルとの長年の反目から職を辞した。
ウェルズは辞職当時、国務副長官だった。

彼の著書『歴史を形成した七大決定』は元上司ルーズヴェルトを擁護する書であり、自身の在職時に起こった出来事の正当化に終始している。
ウェルズは、ヤルタでの中国と米国に対するルーズヴェルトの背信行為はやむにやまれないものだったと主張する。
その根拠は?軍事的な必要性だそうだ。

ウェルズによると、ルーズヴェルトが行動を起こしたのは、スターリンをそそのかして
利己主義的な行動そのものの対日戦争に踏み切らせなければならないと信じ切っていたからである。

38 :
B
大統領がそう判断したのは、軍事顧問団ーすなわち統合参謀本部ーから、日本との戦況が悪化し、
ロシアの支援がなければ勝利はおぼつかないと助言されていたからだ。

ウェルズはそうした原則に立っている。マーシャルーアチソンー国務省ラインといえよう。
ウェルズが彼らと違う点は、ルーズヴェルトが拠りどころにした軍の助言を間違いだったと認めた点である。
では、こうした合理的解釈をつきつめていくとどうなるか?
マーシャルに行き着くことになる。

ヤルタでルーズヴェルトに寄り添っていたのはマーシャルだった。
彼は、スターリンを戦争にひっぱり込む餌を探して必死になっていた。
自分の意見を裏づける諜報機関の報告書を提出し、さらには、ハンソン・ボールドウィンの著書によると、
もっともらしいこじつけ情報を書き加えたのはマーシャルだった。

そのうえ、当時敗北を覚悟した日本が和平を探っていたという情報を病身のルーズヴェルトにひた隠しにした。
こうしたことは、米国の国益を求める世界戦略の大家が真摯に取り組むべきことだったか?
米国にはそれほどロシアの支援が必要だったのか?
それともクレムリンの繁栄に貢献しようとするマーシャル将軍の不可解な行動パターンの現れだったのか?

39 :
■共産中国はアメリカがつくった G・マーシャルの背信外交 (著)ジョセフ・マッカーシー

★日本本土侵攻を熱望したマーシャル
@ P99
極東でロシアの支援を受けたいという願望の産みの親はマーシャルであり、
知ってのとおり、1943年8月の第一回ケベック会談で交わされた運命的な宥和覚書で具体化された。

その覚書は、テヘラン、ヤルタ、それ以後の米国の進路を決した文書である。
ロシアの対日参戦という願望は、前述したように、1944年9月の第二回ケベック会談で提示された連合参謀本部の基本原則として公式に具体化された。
1943年秋にさかのぼると、大統領はアベレル・ハリマンを大使としてモスクワに派遣し、マーシャルはディーン将軍を派遣し、
ふたりの「第一目標」はーーディーン自身の回顧録によればーー「ソ連の対日参戦」だった。

ソ連を参戦させる必要があったのか?極東の戦争に正式に参加すること、日本の敗北に加担して
戦利品を分配する講和交渉の席につくことはクレムリンの利益ではないのか?
1905年以降関東軍に支配されていた満州に侵攻して、戦後その地を占領することはクレムリンの利益ではないのか?

もし満州の戦略的重要性を知らない米国人がいたならば、「中国を制する者が世界を制する」というレーニンの格言に忠実なクレムリンが、
中国をつねに虎視眈々と狙っていた確証をいくらでも見せよう。
極東の殺戮に参加するというスターリンの決意にはっきりした証拠がたとえなくても、こうした疑問を発するということはそれに答えを出すということである。
しかし私は証拠を握っている。
聡明な米国人ならば、その疑問をよく考えてみると、ヤルタ会談でのルーズベルトとマーシャルの目的は、
ロシアをどうやってひっぱり込むかではなくて、どうやって追い払うかだったはずだということがわかるだろう。

この点について私は、ヤルタ以前にスターリンが米国首脳に自分の願望を伝えていた場面が4回あったという証拠を握っている。
最初は1942年8月、アベレル・ハリマンがチャーチルとともにモスクワを訪問したときである、その際彼は、
北アフリカ作戦の代わりに「第二戦線」を採用することをスターリンとマーシャルが強く望んでいると表明した。
この件についてはディーン将軍が著書で述べている。

40 :
A
「スターリンは、日本が歴史的に見てロシアの敵であり、日本の敗北がロシアの国益に不可欠であるとハリマンに伝えた。
ソ連軍の現況では参戦できないが、いずれ参戦するという含みがあった」。

ルーズヴェルトはこの事実を知っていた。おそらくマーシャルも。
スターリンが日本に宣戦布告する動機としてロシアの国益を挙げたのは注目すべきである。
次いで共産主義者の専制君主はパトリック・J・ハーリー将軍に自分の意図を伝えた。
1943年4月、ハーリーはそれをレーヒー将軍に報告した。レーヒーの著書から引用したい。

「ハーリーはスターリンと会見したーーそして大元帥は、ドイツの敗戦後、対日戦争で米国を支援すると彼に伝えたーーわが軍の懸念は、
日本攻略を進めていくうえでロシアの支援が得られるかどうかだった。
だが私の見るところ、ロシアの支援が得られなくても日本を破ることができる」。

気丈な古参の海軍軍人であるレーヒーは自説にこだわり、いつもマーシャルから頭を押さえつけられていた。
もしもレーヒーがルーズヴェルトの筆頭軍事顧問だったならば、極東の戦史も、米国が戦後中国を失い、
その結果朝鮮戦争が勃発した事実も様相を異にしていたことだろう。

しかし、そうはならなかった。マーシャルの鉄の意志はレーヒーを圧倒した。
ルーズヴェルトをも圧倒した。
イタリア侵攻後のチャーチルに対してもしかりだ。

ロシアの参戦を求めることに対するレーヒーの反論の実態を語ろう。
それこそ主題にふさわしい。
レーヒーはきわめて高潔な人物で、彼の考え方は健全な米国人そのものといえるからである。

第二次大戦の記録によると、レーヒーは軍からの尊敬を一身に集める、見るからに忠誠心のかたまりというべき軍人だった。
対日戦争終結に向けた戦術議論のなかで、マーシャルは日本本土侵攻の必要性を力説した。
本土の南から攻撃を開始して北上していく。
マーシャルの見積もりでは、200万人以上の兵士を投入すれば50万の犠牲ですむ。

レーヒーは1944年7月10日、ホワイトハウスでの会議の内容を著書に記載している。

「私の意見は、すでに統合参謀本部でも強く主張したとおり、戦争に勝つための大規模な(日本)本土攻撃などいっさい不要である」。

41 :
B
この点についてレーヒーの判断よりもはるかに強烈だったのは、マッカーサー将軍とホノルルのニミッツ提督との合意だった。
レーヒーはルーズヴェルトに同行して1944年度の民主党全国大会に合わせた視察旅行に出かけた。
彼は大統領と太平洋地域の陸海軍司令官たちが今後の対日戦を協議した会議に列席した。

ニミッツとマッカーサーは太平洋における戦い方を熟知していた。
彼らの判断とレーヒーの結論を取り上げよう。
この会議で、日本を打ち負かす基本的戦略の合意と大統領の状況認識が得られたことは、
地上軍攻撃による犠牲者を1顧だにしない参謀本部や戦争省の参謀が主張する不要な本土侵攻を阻止するうえで大きな価値があった。

マッカーサーとニミッツは、地上軍と空軍で西太平洋の要衝フィリピンを攻略すること、
本土攻撃を仕掛けなくても海軍と空軍の戦力で日本を降伏させることができることで合意していた。

つまり、マッカーサー、ニミッツ、レーヒーには太平洋戦争に勝利する戦略があった。
だが、マーシャルにはなかった。正しいのはどちらだったか。

しかし、、こうした専門家の助言にもかかわらずマーシャルは自説を曲げなかった。
第二回ケベック会議の二ヶ月前におこなわれたスタッフ会議の模様をレーヒーは著書で述べている。

「9月『1944年』のはじめには、徹底的な海と空からの攻撃で日本は敗色濃厚だった。
しかし、九州島上陸に始まる水陸両面からの本土侵攻によって日本を降伏させる計画が陸軍から提案されたーー戦略空軍の支援を受けた
海軍がすでに日本を打ち負かしていたという事実を理解できなかったようだ。
陸軍は大規模な本土上陸作戦を計画していたのみならず、対日戦勝利のためにはロシアの参戦が欠かせないと思い込んでいた」

日本本土侵攻の軋轢についてはここまでにしておこう。極東におけるロシアの思惑を示すことに戻りたい。

42 :
■共産中国はアメリカがつくった G・マーシャルの背信外交 (著)ジョセフ・マッカーシー

★日本の講話使節を無視しての原爆投下
P107
ヤルタに戻ろう。
スターリンは十分に見返りを手にし、ハンソン・ボールドウィンの記述によると、
その会談は「戦争が物語る愚かな政治の長い歴史の中でも最も悲しい一章」だった。
1945年1月の太平洋における戦況はどうだったのか?米軍はレイテ島を攻略して日本の連合艦隊を破り、
マニラはヤルタ会談時(1945年2月)にはすでに陥落し、沖縄は目前だった。

それでも空軍は連日連夜、日本の各都市を絨毯爆撃していた。
ウィリアム・J・ドノバン将軍の率いる戦略事務局(OSS)は関東軍を完全に掃討したと中国から報じていた。
OSSによると、ともかく日本は輸送船が不足して本国に物資を輸送できなかった。中国にいる日本軍も動けなかった。

その戦線も同じ状況だった。日本の商船は海の底だった。
港湾と海上の封鎖は日本の首根っこを押さえていた。レーヒー大将は著書で当時の戦局観をこう述べている。

「敗北が時間と消耗の問題にすぎないところまで日本を追いつめたと私は確信していた。
それゆえ、太平洋で敵を殲滅するのにスターリンの手など必要なかった。
陸軍は私の意見を聞こうとしないし、ルーズヴェルトはスターリンと取引する用意をしていた」。

ハンソン・ゴールドウィンも著書でその件に触れているが、レーヒーの結論を支持している。
ヤルタ会談の時点では日本の敗色は濃厚だったーーまだ未完成の原爆のせいでも、
当時開始された従来型の空爆のせいでもなく、消耗と封鎖のせいである。

43 :
■共産中国はアメリカがつくった  ジョセフ・マッカーシー
P85
★なぜ三十八度線が朝鮮半島分割線にされたのか
@
それでは朝鮮の問題に移ろう。三十八度線であの不幸な半島を分割して、ロシアがその上を、米国がその下を、日本軍から割譲すると決めたのは誰か?
当時もっとも不思議だったことのひとつはこれだ。

ヤルタ会談でスターリンは、米中露英の四強で朝鮮を信託統治することをルーズヴェルトと合意した。
1945年の晩春にハリー・ポプキンスがモスクワを訪れたとき、スターリン自身が認めた合意である。
信託統治には、半島全土を統治できる公正な選挙に基づく朝鮮人政府をはじめとする全土を統一した機構が必要だった。
それでは信託統治はどうなったのか?

日本軍撤退に際して、投降する日本兵を受け入れるという問題が生じた。
ウェルズはその状況を著書『歴史を形成した七大決定』に記載している。

国防総省の下級士官のなかに、朝鮮の三十八度線の北側でロシア軍が、南側で米軍が日本人捕虜を受け取ることにしようと早々に唱える者がいた。

便利だから、ただそれだけの理由でこの境界線が選ばれたと私は教わった。
三十八度線は、自分たちの判断の結果を考慮しない士官たちによって定められたのは確かだ。
しかも、政権の責任ある地位の人びとに相談されることもなかった。
したがって、その決定によってないがしろにされる政治的経済的な側面に考慮が払われなかった。

この問題は、メイン州選出のブルースター上院議員が「三十八度線には歴史的意義がある」という指摘をもちだすまで関心が払われなかった。
なぜ1945年8月に戦争省は、巷間言われているように、日本人捕虜を受け取る目的のために
三十八度線で朝鮮を分割することに決めたのか、私には不思議だった。
三十七度線や三十九度線ではなぜだめなのか?なぜ三十八度線にこだわったのか?

メイン州の上院議員は、国務省から定期刊行されている米国外交史をつづった『ユナイテッドステーツ・リレーションズ』を調べて、
ほぼ一世紀前にロシアが分割線として三十八度線を決めていたことを発見した。
ロシア帝国は朝鮮を二分する交渉を日本帝国とおこなっていた。

44 :
A
そしてロシア皇帝の外交家たちは日本帝国に、両国の境界を三十八度線にしようと提案していたのだ。
私は、1951年6月8日の軍備外交問題委員会での宣誓証言を参考にしている。

このときアチソン国務長官はブルースター議員からこの件を質問された。
アチソンは、「何人かの下級士官」ではなくて戦争省長官が決定し、統合参謀本部、州軍・陸軍・海軍・空軍
調整委員会、大統領によって承認されたということをあきらかにした。
これは戦争省が決定した高度な決定だった。

スティムソン長官の任期末期に戦争省長官だったのは、じっさい誰か?
国防総省と隣接したオフィスで業務に携わり、故国務長官の率直な回顧録を読んだことがあり、二人の関係をよく知る誰もが、
こうした問題ではマーシャルが決定し、スティムソンが承認したという以外に思いつかない。

マーシャルこそ、約50年前にロシア外務省と参謀幕僚が選んだ朝鮮の分割線を認めた張本人だ。
マーシャルこそ、1945年8月に、1904年以前の北朝鮮におけるロシアの領有権を復活させた張本人だ。
軍備外交問題委員会でのやりとりを特に記しておく。メイン州選出のブルースター上院議員が質問し、アチソン国務長官が答えたものだ。

ブルースター上院議員「朝鮮の三十八度線が日露戦争にまつわる逸話に付随して、45年前にロシアと日本の勢力範囲を確定する手段として
ロシアが提案したことに関して興味ありませんか?」

アチソン長官「その件についてはよく知りません、議員。」

米国人が人間的で信頼に値するアメリカらしい役割を果たしている日々に、極東をめぐる帝国主義の錯綜する野望を知らないと言ってのける
国務長官には、極東外交の専門家としての資格がないことがわかって私は満足である。
戦争は終わった。国際紛争も終わったと誤解した何百万もの米国人は24時間うかれたものの、すぐに目覚めてわかった。
私たちは膨大な血肉を費やして戦争に勝つ努力をしたのに、期待していた平和を失ったとしか思えない出来事がまかりとおっていることを。

45 :
日米戦争を策謀したのは誰だ!より (著)林千勝
@
ルーズベルトの思惑を知っていたヒトラー率いるドイツ軍は、実質上大西洋でアメリカ海軍から攻撃を受けていましたが、
耐え難きを耐え、アメリカのどんな挑発にもすべて自重していたのです。このことはルーズベルトやフーバーに関する章で述べました。  

真珠湾攻撃が亡国の道であることを、豊富な情報を持つ近衛は熟知していました。近衛と山本はしばしば密に情報交換をしています。
昭和十六年(一九四一年)九月十二日にも、近衛は山本と秘密裏に会っています。

「真珠湾をやった場合、超大国アメリカを本気で立ち上がらせてしまうのだから、結局は日本に勝ち目がない」と山本も認識していました。
「最初の一年や一年半はともかくそれ以降は見こみがない」ことを山本は近衛に正確に伝えています。
彼が「対米英蘭?戦争終末促進に関する腹案」を徹底的に壊すのですから、見込みゼロです。
現に緒戦の勝利で人々が喜びに沸いていた時、近衛や風見は冷静でした。  

十二月 八日、風見は息子に「第一撃は立派だが、いずれ日本は負ける運命にある」と話しています。風見と山本も親密な仲でした。

風見は山本への手紙を新聞記者に感づかれないようにとの理由で、秘書ではなく長男の博太郎に持って行かせていました。
山本から風見への手紙は、風見自身が終戦後すぐにすべてを焼却します。長男はのちに次のように回想しています。

「親父は終戦後三日か四日、一週間もしないうちに手紙を全部焼いてしまった。
それは徹底していて、それまでのものを全部。他人に迷惑をかけるのが一番いかんというのが、親父の考えだった。
僕が見たら近衛さんの手紙、山本さんの手紙、米内さんの手紙だとか、いろいろな人の手紙がある。

46 :
A
僕は焼くのはもったいないと思ったから、『こういう手紙は焼かずにしまっておいた方が、いいんではないか』と親父にいったらね、
『そんなことを言うな。もし万が一それがもとで迷惑をかけたらどうするんだ。米軍なんて何をやるかわからんのだから。間違いがない
ようにこういうふうにやるんだ』」

まず長男の目についたのは、近衛、山本、米内からの手紙だったのです。特に数が多かったということです。
「迷惑をかけたらどうするんだ」と言っていますが、山本は二年以上前に亡くなっています。

近衛、山本、米内からの手紙を終戦後すぐさま焼いたのは、絶対に残してはいけない真実が彼らとの手紙のやりとりに書かれているからです。  
また、山本、米内との手紙のやりとりの多さ自体も隠しておきたかったでしょう。

山本は左派の言論人や学者たちと親しい付き合いがありました。
昭和十六 年(一九四一年)四月には、なんと十二人の言論人学者グループが、
横須賀の連合艦隊旗艦長門に山本長官を艦船見学の名目で訪ねています。

東京朝日新聞論説委員で風見や尾崎と親しく昭和研究会の設立発起人であった関口泰を始め、
政治学の矢部貞治、経済学の大河内一男など昭和研究会の顔ぶれです。

47 :
日米戦争を策謀したのは誰だ! (著)林千勝
@
■1937年10月5日 ルーズベルト大統領がシカゴで唐突に行った次の演説は「隔離演説」と呼ばれています。
「世界の九〇パーセントの国々の和平や自由が、一〇パーセントの国によって脅かされている。
国際秩序、国際法は危機に瀕している。( 中略) 残念ながら世界中で法秩序が崩壊している。
これが伝染性のある病の結果であったなら、感染者は隔離しなくてはならない。
そうしなければ、共同体を病気の蔓延から守ることができないからである」ルーズベルト大統領の外交が「干渉主義」へ踏み出した瞬間です。

「隔離」すべき対象国として日本やドイツ、イタリアを念頭に置いています。
しかし何故か同じ全体主義であって和平と自由を脅かすスターリンのソビエトは除外されます。これが問題です。  

ルーズベルト大統領は一九三八年十月の日本軍による武漢攻略作戦後、対日武器輸出制限措置を発動します。
その一方で、中国による武器購入には便宜を図り、特別融資も供与します。

■1939年3月、ルーズベルトは、融通性に欠ける中立法の問題点を指摘しました。

七月、ルーズベルトは議会に対して中立法の修正を促しました。
ハル国務長官も声明を出し修正を求めます。しかしこのとき世論への迎合も忘れません。

「我が国は、他国の同盟関係のごたごたや紛争に巻き込まれてはならない。
戦争が起きても我が国は、徹底した中立の立場を取り、戦争に引きずり込まれるようなことがあってはならない」
戦争には関わらないとしっかり述べるのです。本音とは真逆です。

一方で、ルーズベルト政権は、イギリスやフランスにドイツとの戦争を起こすように焚き付けていました。
同年三月二十四日、イギリスのハリファックス卿はアメリカのケネディ大使との間で交わした会話を記録しています。

ケネディ大使は「イギリス政府もフランス政府も本当に(ポーランドの領土を)保障するのか」と確かめたのです。
ドイツの駐英大使館はケネディ大使の動きを次のように本国に伝えています。「ケネディ大使が主役のようである。
彼が、各国の使節に接触し、アメリカは(戦争一歩手前までは)いかなる援助も惜しまないとして、我が国(ドイツ)に対する強硬な姿勢を取らせているようだ」

48 :
A
ルーズベルト大統領はポーランドに対しても、ダンツィヒ問題ではドイツとの交渉を拒否し強硬姿勢を取るよう圧力をかけていました。
ポーランドの頑なな姿勢は、ルーズベルト政権の意向の反映であったのです。
ベルサイユ条約によってダンツィヒ(現・グダンスク)が分離され、そこに至るアクセスが制限されたことにドイツは当初から憤っていました。
確かにこの措置はドイツに対する復讐であり、ドイツの主張には一定の理があったと考えられるのです。

■1939年9月、ついにドイツとソビエトはポーランドに侵攻します。
このときドイツはポーランド外務省を占拠すると大量の外交文書を押収し、それを公開したのです。  

資料の中には、ブリット(駐仏)大使が一九三九年一月の段階で、
ポーランドおよびフランスに対しアメリカの軍事支援を約束したことを示すものがありました。
そのような約束はルーズベルトの指示がなければできないものです。
ブリット大使の軍事支援の約束は、各地のポーランド大使からもワルシャワの本省に報告されていました。  

他方、ルーズベルト大統領は九月五日、ヨーロッパの戦いに中立であることを宣言しました。
これによって交戦国への武器輸出は非合法となったのです。
一九三七年の中立法でルーズベルトは縛られていたのです。

「我が国民の九七パーセントは反ヒトラー感情を持っている。反スターリン感情も似たようなものだ。
しかし一方で、九七パーセントの国民は戦争に介入することに反対である」(『 裏切ら れ た 自由』)とフー バーははっきりと記しています。

49 :
日米戦争を策謀したのは誰だ! (著)林千勝
@
イギリスのウィンストン・チャーチルは最高の煽動家です。彼の最重要課題は、アメリカを参戦させることでした。
1940年5月、チャーチルが首相になって三日後の議会演説は歴史に残るものでした。
チャーチルはその見事な演説で「ドイツに屈しない」と自国民を鼓舞します。

チャーチルは、ルーズベルトと同様に、なぜかスターリンの危険性を語りません。
スターリンこそが、ヒトラーと提携した張本人であり、その結果、ドイツのイギリス攻撃が可能になったにも拘らず、です。
そしてチャーチルの演説はラジオによってアメリカ国民に届けられました。アメリカ国民の同情心に訴えたのです。
アメリカ国民を洗脳することで、アメリカからの支援を確実なものにしたかったのです。

イギリスは、ニューヨークに「英国情報サービス」なる組織を設置しました。
(イギリス支援を煽るための)雑誌を発行し、パンフレット、プレスリリースなどを作成しました。
またイギリス本国から有名人を招き、講演やディナー・パーティーを企画したのです。

1940年6月、スティムソン前国務長官(フーバー政権時代の国務長官)は、
ラジオ声明を発表し、その中で「事実上宣戦布告なしの戦争を支持する」趣旨の発言を行いました。

彼はアメリカの港をイギリス、フランスの軍艦に開放し、アメリカ自身の軍艦を護衛するために戦争水域に送ることを主張したのです。  
まさにこの発言を行ったその時に、スティムソンはルーズべルトから陸軍長官への就任を要請されたのです。
これを受託する前に、スティムソンは電話でルーズベルトに対し、自分のスピーチの原稿を読んでくれたかどうか質問をしました。
大統領は「スピーチは読んだし、その内容に賛成である」と答えました。

50 :
A
もちろん一般大衆はこの電話でのやりとりを知りませんでしたが、スティムソンが参戦を強く望んでいたことは、一般に知れ渡っていました。
「 戦争」への仕掛けが動き出しています。同じ六月、共和党はウェンデル・ウィルキーを大統領候補に選出しました。
七月、民主党は現職のルーズベルトに三選を狙わせることに決めました。

ルーズベルト大統領の「言葉以上、戦争以下」の「干渉主義」の外交方針は選挙期間中は鳴りを潜めました。
選挙はむしろ「アメリカは参戦しないことを約束する競争」になったのです。ルーズベルトは選挙期間中十一回もこの約束を繰り返しました。
選挙運動が始まる前にも同様の主張を五回しています。

対抗馬のウィルキーは選挙期間中に同様の約束を八回しました。

ルーズベルトが次々に行った平和の約束は、ルーズベルトの不誠実さと厚顔無恥なまでの不正直さを示すものでした。
これこそ空前絶後の?と偽善、アメリカ国民に対する欺瞞そのものです。大統領選挙の終盤になって、
民主党首脳は平和支持者の票が強力であることを恐れてルーズベルトに「平和への更に強いアピールを行うことでこれに対処するよう」進言しました。
選挙日(十一月五日)の迫った十月三十日のルーズベルトの主張は実にきっぱりとしたものでした。

「私は母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあたって、いま一つの保証を与える。
私は以前にもこれを述べたことがあるが、今後何度でも繰り返し言うつもりである。
『あなたがたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない』」 「われわれの外交政策の第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである」

米国津々浦々の有権者は、合衆国大統領によってなされたこれらの公然たる和平の約束を信じ、拍手喝采を送ったのです。

51 :
■日米戦争を策謀したのは誰だ! (著)林千勝
@
一方、大統領選挙期間中、アメリカ国内に戦争介入を要求する数多くの「干渉主義」の団体が作られ、
そのほとんどがニューヨークで組織されていたのです。
(ニューヨークは世界の金融センター「ウォール街」があり、ユダヤ人の最も多いアメリカの都市で国際金融資本の牙城)

なかでも有力な組織は「連合軍を支援しアメリカを防衛する委員会」でした。
他にも「社会民主連盟」「自由のための戦い委員会(のちにフリーダム・ハウス と 改称)」「民主主義を求める委員会」
「勝利を目指す市民の会(平和を勝ち取るために戦う会)」「モラルのための国民委員会」
「参戦を求める連盟」「民主主義活動提携委員会」「自由防衛組織」「女性行動委員会」などがありました。

すべての組織が「ヒトラーがやって来る」と訴え、国民の恐怖を煽りました。
こうした組織の幹部やメンバーは驚くほどに重複していました。
たとえば「連合軍を支援しアメリカを防衛する委員会」の十人の幹部は他の八組織にも関与していました。

他の十人も六組織の幹部でした。一九四〇年の七月から十一月までの選挙期間中に、こうした団体が発した声明や新聞広告は百を超えたのです。
みなヨーロッパへの介入を主張するものでした。これらの団体のうち一体いくつがロックRー財団の支援や指導を受けていたのでしょう。
結局、大統領選はルーズベルトが勝利しました。前例のない三期目です。


武器貸与法 という 策謀
1941年1月10日「武器貸与法案」という法案が連邦議会に上程されました。
驚いたことにこの法案は単純な軍需物資の供与の法案ではなく、物資の輸送にアメリカ海軍を関与させる条項が入っていたのです。
更に問題なのは、宣戦布告の権限を議会から?奪し大統領権限にできるという条項が含まれていたことです。

52 :
A
法案を一読してフーバーは急いで次のような声明を発表しました。
「まず議会が検討しなくてはならないのは、この法案では議会権限を大統領に差し出すことになるが、それでよいのかということだ。
第一次世界大戦の時でさえ、そのようなことはなされていない。
我々は国防を目的として国内生産を最大限にしたいと思っているし、独立を守ろうとしている国への支援もしたいと考える。
ところが今回提出された法案は、単純に外国を支援するだけの内容ではなくなっている」(『 裏切ら れ た 自由』)

一方、ロックRーが支援し英米協調をめざす国際主義者たちが設立した外交問題評議会は、
武器貸与法制定に向けてアメリカ世論を誘導することに全力を傾けていました。  
さっそく下院外交問題委員会で武器貸与法案の憲法上の問題点が指摘されます。

「巧妙な書き方でうまく隠そうとしているが、この法案は、開戦権限を議会から大統領に移そうとするものである。
この権限は議会にあると憲法は規定する。全体主義的思考は、我が国にまでやって来た。
ついに憲法の規定を破壊するような法案が上程されるまでになってしまった。

議会の持つ権限はひとたび壊されてしまうと、それを回復することはまず無理である」( 同右)フーバーと同意見です。
多くの上下両院の議員も同じでした。しかし、議会で証言したルーズベルト政権の幹部は法案の成立を求め、
そうでなければ「我が国はヒトラーからの攻撃に晒されることになる」と述べたのです。

武器貸与法案は、解釈によってアメリカ船舶による軍需品の輸送、
あるいはアメリカ海軍による外国船の護衛までもが大統領権限で可能となる恐れがあったのです。

53 :
■日米戦争を策謀したのは誰だ! (著)林千勝
@
1941年1月21日 記者会見での質疑で、ルーズベルトは、この法案が成立しても
「アメリカ海軍に外国船舶を護衛させるようなことは考えたことがない」と答えます。
また「軍船は売らない」とも言いました。見え透いた?です。議会は法案を次のように修正した上で成立させました。
「この法は、アメリカ海軍による護衛の権限を(大統領府に)付与するものでも、(これを)承認するものでもない。

この法は、アメリカ船籍の船舶が、一九三九年の中立法に反して、
戦争状態にある地域に入ることを認めるものでも、(これを)許可するものでもない」

これがのちに破られていくのです。最終的な議会の判断は「この法律は和平実現のためのもの」でした。
つまり軍需品の「供給」のための法律であり「アメリカ自身が戦争に巻き込まれないようにするため」であると解釈したのです。
後から振り返ればまったくの出鱈目です。『サタデー・イブニング・ポスト』誌(一九四一年二月一日号)は次のような記事を書いています。

「戦争に介入したい勢力の戦術家が、当初はその真の目的を隠していたのには理由がある。
しかし、本当の狙いを言わなくてはならない時は来る。彼らは参戦したくないと考える無垢な支持者を戦地に向かう貨車に乗せようとしている」

実は、1941年6月のドイツのソビエト攻撃によって、アメリカには永続的な和平を構築できるまたとないチャンスが到来したのです。
ヒトラーとスターリンという世界最悪の侵略国家の二人の独裁者が死に物狂いの戦いに突入したのです。

放っておいて「不干渉」の立場を貫けば、遅かれ早かれ二人の独裁者の気力は萎えドイツとソビエトの国力は衰退したはずです。
しかし、そうはならなかった。驚いたことに、ドイツのソビエト攻撃からわずか二十四時間後の一九四一年六月二十三日、サムナー・ウェルズ国務次官は記者会見の席で、
ソビエトへの武器供与の可能性を仄めかしたのです。ルーズベルト大統領も「我が国は可能なかぎりの支援をソビエトに与える」と語りました。

54 :
A
また財務省に対しては、六月十四日以来凍結されていたソビエトへの信用供与の解除を命じたことも明らかにしました。
六月二十五日の記者会見では、ウェルズ国務次官が「大統領は中立法をソビエトには適用しない」と述べました。何故なのでしょうか。  
これによってアメリカの民間船がソビエトの港に軍需品を運ぶことが可能になるのです。

このようにして武器貸与法の枠組みの中で、共産主義国家ソビエトへの支援が決められたのです。アメリカ史上最大級の汚点です。
武器貸与法案が議会で議論された時には共産主義国家に対してアメリカが支援する可能性など一切語られていませんでした。

★ドイツを挑発
「ドイツは世界征服を目指している。イギリスが落ちれば、次は南米諸国を味方につけて、アメリカを攻撃する」。
この大袈裟な叫びがハル国務長官の決まり文句でした。他のルーズベルト政権幹部たちも「我が国はヒトラーからの攻撃に晒されることになる」と絶叫しました。

1941年7月9日 ノックス海軍長官はついにドイツ潜水艦に対する攻撃命令を出したことを示唆する発言をしました。
七月十一日、上院海軍問題委員会はノックス長官とスターク海軍作戦部長に非公開の場での証言を求めました。
そこで二人はアメリカ海軍駆逐艦がドイツ潜水艦に対して機雷攻撃を仕掛けたことを認めたのです。宣戦布告 なき 戦争 の 始まり です。

同日、ジョン・D・ロックRー 三世のすぐ下の弟で、ルーズベルト大統領によってラテンアメリカ担当国務次官補に任命されたネルソン・A・ロックRーは、
ドイツなどの枢軸国と関係の深い二千もの企業名および個人名を公表したのです。
アメリカが枢軸国とは未だに戦争状態にない時にです。明らかにこれは戦争状態をつくり出そうとする意図の下に行われています。

彼は共和党員でしたが、ルーズベルト民主党政権に入ります。
「戦争」の側にいるネルソン・A・ロックRーの立ち位置がはっきり表れた行動です。彼はのちに共和党のフォード大統領の下で副大統領を務めます。

55 :
■日米戦争を策謀したのは誰だ! (著)林千勝
?
1941年10月22日、外国に対する不干渉主義に徹してアメリカ国民の利益を守ろうとする「アメリカ第一主義委員会」のロバート・E・ウッド将軍は
「ルーズベルト大統領は議会に対してはっきり戦争か平和かの議決を求めるべきである」と訴えました。決定権は議会にあるということです。
しかし大統領は議会に判断を求めようとしません。  
1941年10月27日、ルーズベルト大統領はドイツとの間で「すでに戦いは始まっている」と述べ「戦争の準備が必要だ」と叫びます。
彼は大西洋上で「ドイツからアメリカ艦船に対する明白な攻撃があった」と繰り返すのです。  
このことに関して、のちに開かれた真珠湾攻撃調査委員会で、共和党議員とスターク提督の間で次のようなやりとりがあります。  
共和党議員の質問は「( あなたがドイツと戦争状態にあると言っているのは)( ルーズベルト)大統領が
そのようにドイツに対応せよと指示している結果ではないか。だからドイツ潜水艦と交戦状態に陥った。
そしてあなたは、大西洋上では真珠湾攻撃前にすでにドイツとの戦いは始まっていると言った。そうではないですか」というものです。  
これに対して、スターク提督は「そのとおりです。ドイツとの戦いは攻撃命令が出てから始まっています。大統領の九月のスピーチがあってからです。
海軍が攻撃命令を発したのは十月に入ってからです。法律上、我々は戦争状態に入っていません。宣戦布告が出ていないからです。
しかしキング提督の指揮下にある一部の地域では、その区域に入るドイツ艦船とは戦争状態になっていました」と答えるのです。

56 :
?
幸いなことに、ルーズベルト大統領の「大西洋上でドイツからアメリカ艦船に対する明白な攻撃があった」
という主張を額面どおり受けとる者はほとんどいませんでした。あまりにも見え透いていたのです。
ヒトラーはアメリカとの戦争を避けるべく、ルーズベルトやルーズベルト指揮下のアメリカ海軍からのいかなる挑発に対しても、
我慢に我慢を重ねて忍び難きを忍んでいたことが明らかだったからです。
1941年11月5日、『 ニューヨーク・タイムズ』紙にしては珍しく「知的で正直な」ワシントン支局長が政府に対して疑念を表明しています。
「ヒトラー は、(アメリカが攻撃されたという非難に対して)そうではないと事実をもって反論するだろう。
(言葉の定義をしっかり考えろと)辞書まで投げてよこすかもしれない。なぜ我が国政府は事実を誤魔化そうとするのか」  
ドイツを挑発するルーズベルトの企ては上手く行きません。
★日本を追いつめた共産主義者たち
先述のように、ルーズベルト大統領は1938年10月の日本軍による武漢攻略作戦の後、対日武器輸出制限措置を発動しました。
その一方で中国による武器購入には便宜を図り、特別融資も供与しました。
アメリカの日中両国に対する武器輸出額は一九三八年以前にはほぼ拮抗していたのですが、その後のアメリカの対中武器輸出は対日武器輸出を圧倒しました。
「戦争」を企む側による新聞や映画ニュースでの宣伝も効果を上げていました。
アメリカ国民に、日本軍の残酷性と侵略性に対する反感、中国国民の覚醒と抵抗に対する共感、
中国政府の長期戦勝利への予感を植えつけていったのです。
日本軍の漢口空襲による悲惨な被害を報じる映画は全米で繰り返し上映されました。

57 :
■歴史モノ好きの反日工作機関の犬HKが絶対に扱わない歴史テーマ ・ヴェノナ文書 ・太平洋問題調査会(IPR)・GHQによる洗脳、報道統制、公職追放

TPR=太平洋問題調査会
@
共産主義、国際金融資本のスパイに乗っとられていた近衛政権、ルーズベルト政権が目指した
日米戦、世界の共産化の実現に向けて民間から支えていたのがこのTPR=太平洋問題調査会。
IPR=太平洋問題調査会は1925年に正式に設立。ロックRー財団が多額の拠出をし、その指示の下で政治問題を取り上げていた。
1934年に本部がニューヨークに移転し理事長にロックRー財団のジェローム・グリーンが就任。

排日移民問題による日米間の感情悪化が設立の直接な動機だったが、1933年にロックRーに近い
エドワード・カーター(のちにコミンテルン工作員であることがが判明)
が、第二代、国際事務局長に就任するとIPRは政治団体に完全に性格を変えた。

以後、満州、朝鮮半島を守りソ連の南進を阻止し対立し共産主義の防波堤になっていた日本をIPRは目の敵にし、
スターリンの侵略、粛清、大虐殺を弁護し、日本の対支那(中国)政策批判の尖兵になり、
完全な反日組織になり共産主義者の牙城になっていった

第3回の京都会議では「日本がロシアから奪った大連・満州」と記述された公式資料が使用された。

IPRはNGOの学術団体ながら、ルーズベルト政権の対日経済制裁、日米戦争、中共政権誕生に大きな影響力を発揮した。
カーターは、ルーズベルト政権の国際政治に積極的に関与する「干渉主義」(「国際主義」)の先兵として、大統領や国務省の側面支援を受ける。
IPR創設メンバーの一人であったホームベック国務省極東部長は、カーターをアメリカ政府の政策を広報する政策伝道師と位置付けた。

アメリカのルーズベルト政権は、表向きは反共、反ファシズムを掲げながらも、日本に経済制裁を加え支那に共産主義政権を誕生させ、
ソビエトを支援し共産主義を世界に拡散させるために邁進していたが、
日本を「平和を乱す侵略者」とレッテル貼りし「民間」のカーターが「私的な」活動として世界でそれをアピールしてくれることは
「不干渉主義者」たちの批判をかわす上で極めて有効であった

58 :
A
1941年、ロックRーの多額の資金が太平洋問題調査会(TPR)を通じて、東京の関連機関に多額の資金を拠出したとされており、
その資金は日本国内の共産主義、国際金融資本のスパイ、リヒャルド・ゾルゲ達に送られ、日本の真珠湾攻撃工作資金となった。

日本人も牛場友彦、蝋山政道、松本重治、西園寺公一、近衛文隆(文麿の長男)白洲次郎、などの
国際金融資本の代理人たちがこの会議に参加し反日工作を推進。

さらに山本五十六、永野修身が日米戦を実現させ日本を敗戦に追い込み、近衛文麿が「敗戦革命」で天皇を倒すために利用した
風見章、尾崎秀実(のちにゾルゲ事件で死刑)、米内光政、永野修身、山本五十六など 
共産主義、国際金融資本のスパイは政権、軍部(軍内のスパイはほぼ海軍)に侵食。

南部仏印進駐、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、
ガタルカナルと、日本が負けるための作戦を次々に実行し、日本を敗戦に導いていきました。
大本営発表していたのも彼らの仕業で、最後まで日本国民を騙し続けたのでした。

やはり独裁願望のある人間や国際金融資本などの富と権力を独占しようとする人間たちにとって、
共産主義、グローバル資本主義は相性がいいのです。

1951年から翌1952年にかけて最大の支部組織である米国IPRがマッカーシズムによる「赤狩り」の攻撃の標的となり、
中心メンバーの一部(ラティモアやノーマンなど)に個人攻撃が加えられた結果、
1952年末「赤狩り」を背景にロックRー財団はIPRの支援を終了し手を引いた。
1961年10月に国際事務局は解散声明を出しIPRは解散。

59 :
B
IPRは共産主義者、国際金融資本による世界の共産化を支え東アジア東ヨーロッパを共産化させ、
ソ連の東ヨーロッパ侵攻共産圏拡大に加え、毛沢東、金日成、ポルポトなどの
独裁者を生んで彼らによる侵略、粛清、大虐殺により膨大な数の犠牲者を出したのです。

東アジアでソ連の南侵を阻止し東アジアの平和を護っていた日本がいなくなった途端に、
東アジアは共産化し、凶悪な独裁者が支配する不安定で危険なエリアになり、それが現在まで続いています。

そして米ソ冷戦の演出による軍拡、科学技術競争によって莫大な利益を得た連中がいたわけです。

日米戦争も朝鮮戦争もベトナム戦争もイラク戦争も、全てウォール街の国際金融資本の利益のために始められ、
その結果、日本と世界は国際金融資本が望む通りの姿に変えられてしまいました。

現在も大衆を搾取管理し富と権力を独占拡大する国際金融資本を頂点にした
国内外の多国籍企業、支那共産党とその代理人政治屋のグローバリスト支配者連合の世界支配は続いています。

60 :
アメリカのマスゴミは反グローバリズムで国際金融資本の意のままには動かないトランプ叩きに相変わらず明け暮れているが、
アメリカのマスゴミもアメリカ政府も、国際金融資本の利益のためにデマ、嘘を喚き散らしてアラブで侵略戦争をやり、アラブ人の膨大な数の死傷者を出したことの責任を追求することは一切なく、
自らがその侵略戦争を煽って誘導してきたことを反省することも一切ない。
クライテリオン 2020年1月号
伊藤貫:アメリカ外交がどれだけ酷いかっていうとね、
例えば過去72年間のパレスチナ人に対するあの残酷な扱い。
国務省官僚、政治家、マスコミ人、彼らは長期間のパレスチナ人に対する虐殺と虐待を全然反省してないですよ。
ケロッとしてる。
イランに対しても、数年前にアメリカが押し付けた核合意をアメリカがさっさと破って、
苛烈な経済制裁をかけて、イランが全く石油を輸出できないようにぐいぐい追い詰めている。
今のイランの状態は、1941年の日本の状態と同じですね。
「座して死を待つか、負けを承知でフェイト・バックするか」という苦境。
イラン経済は首を締められて、通常の金融取引さえできないわけでしょ。
しかも、そもそもイランの民主体制を破壊したのはアメリカですよ。
CIAが1953年にクーデターを仕掛けて、
民主的な選挙によって選ばれたモサデク大統領を引きずり降ろして、アメリカの言いなりになる腐敗した傀儡独裁者を「パーレビ王朝だ」とか言って押し付けたのだから。
過去66年間の米政府のイラン政策に、「アメリカ外交の良心」なんて皆無ですね。
しかも現在のアメリカには、イランと戦争したがっている奴が多いのよ。
イスラエル・ロビーやネオコン族やウォール街のユダヤ系金融業者とか、ポンペオ国務長官とか、トランプの義理の息子のクシュナーとか。
彼らはイランを破壊したいのです。トランプは変な奴だから「やるぞ、やるぞ」って叫んでイランを絞めRような振る舞いをしておきながら、最近は突然怖気づいて…。」
伊藤貫:アメリカ外交に良心があるかっていうと、2003年のイラク戦争っていうのは完全にウソ話だったわけでしょ。
アメリカで誰か、責任を追求されてますか?
藤井:されてないです

61 :
伊藤貫:イラク戦争を企画したイスラエル・ロビーとネオコン族にしても、パウエル国務長官にしても、
ブッシュやチェイニーにしても、ライス安全保障補佐官にしても、「米政府は、イラクが核兵器と化学兵器を作っているという確実な証拠を握っている」と言って、
連日、嘘八百を並べたてていた。パウエルなんか、「イラクが大量破壊兵器を製造している証拠」とかいうものを幾つも国連安保理の議場でみせびらかして‥‥‥。
あれは結局、全部、ウソだったでしょ。
藤井:全部ウソですね。
伊藤貫:それで、誰か責任を追求された?誰も処罰されていない!
あれが原因でイラクは内戦状態になり、民間人が百数十万人も死んでるわけ。
でも、アメリカで誰か責任取ったかっていうと、誰も責任取っていない。
民主党支持のアメリカのマスコミ人も、共和党政権がウソをつきまくって始めた国際法違反の侵略戦争の責任を追求しない。
藤井:とてつもない話です。
伊藤貫:パレスチナでも、イランでも、イラクでも、イエメンでも、米政府は平気で残忍なことをやって、ケロっとしてる。
リビアのカダフィだって、2011年にオバマとヒラリーが殺したけど‥‥‥。
藤井:そうですね。

62 :
伊藤貫:2003年に米政府とカダフィが取引して、「リビアが盛っている核兵器の材料を全部アメリカに渡す。その代わり、アメリカはカダフィ政権を攻撃しない」と約束したんです。
それでカダフィは、核を全部ギブアップした。
ところが次のオバマ政権はこの約束をあっさりチャラにして、2011年、リビアを空爆してカダフィを殺した。
その結果リビアは現在まで苛烈な内戦状態となり、すでに60万人以上の民間人が死んでいる。
僕がワシントンで観察していて、こういう残酷で無責任な軍事介入を誰か反省しているかっていうと、誰も反省していないのです。
要するに米政府の態度は、「サダム・フセインは悪いやつだ。何でもいいから理由をこじつけて、やっちまえ」、「カダフィも悪いやつだ、やっちまえ」と。
その結果、イラクで民間人が百数十万人死のうが、リビアで民間人が60万人死のうが、それがどうした?っていう態度。
藤井:ホントそうですね。
伊藤貫:CIAで主席中東情報分析官を務めたグラハム・フラーによると、ブッシュ・オバマ政権の愚劣で残酷な中東軍事介入のせいで、すでに二百数十万人の民間人が死んでいる。
アメリカの政治屋と官僚で、誰か責任取りましたが?誰も取ってない!
藤井:要するにアメリカにしてみれば、アラブ人がどんだけ死のうが、知ったこっちゃないってことですね。

63 :
伊藤貫
1953年東京都生まれ。東京大学経済学部卒業。
国際政治・米国金融アナリストとしてワシントンのコンサルタント会社に勤務。ワシントン在住。
「シカゴ・トリビューン」「フォーリンポリシー」「Voice」「正論」
などに外交・金融分析を執筆。
CNN・CBS・BBCなどで外交と経済問題を解説。

64 :
https://www.youtube.com/watch?v=iv-q1cJxY6M

65 :
「近衛文麿の野望」が潰え、敗戦後日本の政治体制を構築したカラクリ。|ゲスト:林 千勝(近現代史研究家)|山岡鉄秀(@jcn92977110 )のTSJ1

66 :
スッパイが居たから負けたのではない
戦争が始まる前から
戦争の打ち合わせの時点で
天皇は負ける戦争を請け負った
国は負けるが、天皇らはガッツリ儲かる取り引きに乗った

白頭山の朝鮮猿天皇がだ

それを裏付ける話が、側近の木戸日記に出てくる

67 :
藤林丈司

68 :
【朗報】日本人の89% 他国に侵略されても国のために戦うつもりはない [527893826]
http://leia.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1584159864/

69 :
朝鮮人ヒロヒト

70 :
『4月2日以降中国人3000人の入国を認めた責任者に「外患誘致罪」を適用せよ!』第50回【水間条項TV】フリー動画

https://www.youtube.com/channel/UC1xoN0okRvNJeUa5ZU4DbuA

71 :
C国入国解禁はまずい

https://www.youtube.com/watch?v=TBW_Vl-7Y9o

72 :
新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか


https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1246907715139407873
(deleted an unsolicited ad)

73 :
金子勝も国民寄りの振りして本質逸らすゴキブリだから気つけやあああwwww

74 :
児玉先生の放送 金子ちゃう

75 :
日本のコロナ対策。東大先端科学技術研究センターのがん・代謝プロジェクトの


リーダー #児玉龍彦 氏にコロナウィルスの特徴と科学的対処の基本をうかがい、あるべき対策を提言します。


https://twitter.com/dtimes17/status/1241227357995692039


インパール作戦2020   日本病
(deleted an unsolicited ad)

76 :
https://toro.op
en2ch.sc/test/read.cgi/occult/1576862916/l10
427: ↓名無しさん@おーぷん:20/04/16(木)06:30:59 ID:Cyy ×
彼らは資本主義モデルの代替として成功例となりそうな社会の誕生を阻止するのです。             
ウィリアム・ブルム(米国の歴史家)
現在の日本の社会状況は崩壊前のソビエトと酷似している。
すなわち特権官僚(ノーメンクラトゥーラ)が税金を私物化し、政治家が公営企業やインフラを外資に売りとばし、
経済も財政もメチャクチャになったところで原発事故が起きるという(ソ連邦の崩壊と)同じプロセスを辿っているのだ。
貴方はこの相似(シミラリティ)を否定できるだろうか?
略奪者のロジック 秋嶋亮 白馬社
チェルノブイリ原発事故の直接原因は地震だった!
【ドキュメンタリー『チェルノブイリ原発 隠されていた事実』】 1986年のチェルノブイリ原発事故は地震によるものだった。デンマークで1997年に制作されたドキュメンタリー番組の書き起こし
 1990年にウクライナで制作された報告書には、あの晩作業していた20人の証言が記録されている。
それによると、原子炉の緊急停止前に振動が始まった。興味深い証言を含む報告書の重要性は、なぜか全く認識されていない。
「雷のような音がして、天井からタイルが落ちてきました。」「床が波打ち、電気が消え、非常灯がつきました。
その30秒後、耳をつんざく音がしたのです。」「7号基の近くで屋根が抜け落ち、突然機械室の電気が消えました。」(報告書に記載された作業員の証言より)
核物理学者K・チェチェロフ:「地震を体験したことがない人なら分からないでしょう。しかしこの場合は、
地震動が床を揺さぶっています。その振動の後に激しい揺れと衝撃が走り、電気が消えています。
電気が再び点いた時、原子炉の停止が決定されました。これが重要なポイントです。最初に激しい揺れと強い衝撃が走り、その後で原子炉の停止が起こったのです。」

77 :
国の支配層の全員がスパイだった
この状態をなんと言うでしょうか?
八百長戦争と言うんだよーだ

78 :
https://www.youtube.com/watch?v=xHllkah8N4A

79 :
https://twitter.com/ChSakura217/status/1251423083799310336
(deleted an unsolicited ad)

80 :
食料買い占めは何がいいんだ? [659060378]
http://leia.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1587179674/

81 :
7 名無しさん@1周年 ▼ New!2020/04/19(日)

マスクじゃなくてアビガン配れよ
熱続いたら各自で飲むから
検査も入院も不要
全て解決

82 :
https://www.youtube.com/watch?v=KMVcD1S8l90

83 :
https://www.youtube.com/watch?v=1vmlCFwGdOg

84 :
https://www.youtube.com/channel/UC1xoN0okRvNJeUa5ZU4DbuA

85 :
【国内感染者数9,795例中、国籍確認中5,285人ってなんですか?】厚労省「未確認全て国籍確認中です。」★2
http://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1587504421/


医療崩壊を仕掛けた工作員

86 :
【国内感染者数9,795例中、国籍確認中5,285人ってなんですか?】厚労省「未確認全て国籍確認中です。」★3
http://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1587518919/

87 :
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=236443

88 :
https://www.youtube.com/watch?v=vcPHAmNvutk

89 :
聖地エルサレムを奪還するという大義名分で、実際は戦闘・略奪集団であり、一方で聖地巡礼にいく人々の金銀財産を預かり証書を渡し、これが現在の紙幣と金融システムの基礎となったテンプル騎士団。
テンプル騎士団は莫大な資金を元手に王様たちに金貸しを行い、借金返済が出来なくなったフランスのフィリップ4世による借金踏み倒し作戦でテンプル騎士団は潰されました。
しかし、スペイン・ポルトガルは、イスラム勢力を追い出したレコンキスタに貢献したという理由で、テンプル騎士団は解散されましたが、その代わりにキリスト騎士団として存続。
そしてテンプル騎士団のユーグ・ド・パイヤンがサン・クレア家のカテリーヌと結婚して以来強い繋がりがあったスコットランドにも逃れます。
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-364.html

90 :
https://www.youtube.com/watch?v=SdNxGKm8y6g

91 :
孫崎享の「日米開戦へのスパイ」思い出した。買ったけどまだ全部読んでないwww

【イントロ】日米開戦の隠された真実に迫る!新刊『日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件』著者・孫崎享氏 に
(元外務省国際情報局長)岩上安身が訊く!第一弾 17.8.12
https://www.youtube.com/watch?v=q1t0-dhvGRk

92 :
コミンテルン暗躍の歴史!米NSAヴェノナ文書で進む歴史の見直し!マスコミ・労組・教組・軍・政府に入り込んだ影響工作!【百田尚樹×江崎道朗

https://www.youtube.com/watch?v=xCh1GBRRDLM

93 :
https://www.youtube.com/watch?v=kaKLE64Ei_Y

94 :
【10月9日配信】特別番組「日本人が教えたい新しい世界史:続編

https://www.youtube.com/watch?v=kaKLE64Ei_Y

95 :
おい、低能コピペバカ
日米戦争の真実を語ってみろよ

96 :
https://www.youtube.com/watch?v=x9D-IN2h93Y

97 :
https://www.youtube.com/watch?v=-px6qLw9vjE

98 :
特別番組「マスコミが報じないトランプ台頭の秘密 第2弾」

https://www.youtube.com/watch?v=AMXYDqz56T4

99 :
https://www.youtube.com/watch?v=Cy9d1tM1NQE
https://www.youtube.com/watch?v=r8HsiMq9UfQ

100 :
https://www.youtube.com/watch?v=iIZaYYmR3qw


100〜のスレッドの続きを読む
日本はもはや先進国ではない!
リチャード・コシミズ〜世界の構造52
【イベント】光の勢力による地球革命を待つ人★19
米大統領選 ヒラリー危うし
さゆふらっとまうんど2020 Part1
【2018年中間選挙】アメリカ情勢総合スレ88
反中運動
ベンジャミン・フルフォード 61
尖閣衝突映像流出疑惑の海保職員をまもなく逮捕へ
(生長の家)リチャード・コシミズ〜世界の構造-45 (疑惑)
--------------------
あおり運転で免許取り消し→再取得は2~10年後
【キモアゴ】福岡釣り 四平スレ 4【仕込み】
憎しみを込めて呪うスレッド 247呪殺目
【破壊神ビルス】 ねこの集会 【立て子募集 & CAP復帰】★4
☆所沢周辺のおいしい店★
【HDD】ハードディスク復旧業者選び 13
【アナヲタ】ヤパーリ何と逝ってもフジテレビPart191【ラウンジ】
【ヤフオクで】常識だよな?【定形外で詐欺?】
〜 スタジアムでおやつが食べたいな 2〜
【画像】男さん、電車でオッサンに痴漢され号泣 [593285311]
yt.com [Cyber Trading Co.]
98期生 その5
張本勲(在日チョン)「俺が若い頃は、素手で何人もヤクザを半殺しにした」 へー、かっこいいw
メタル同人って臭い中年らしいけど
【シーズン8】ドキュメンタル FREEZE part50【配信延期】
≠1.FSV Mainz 05≠ 武藤嘉紀 Part21
【時論】韓国のG11加入、米国の招待だけで可能になるわけではない [6/11] [新種のホケモン★]
【んー】山梨県でOFF会!part2【にゃー】
【ドミノピザ】Domino's Pizza Part148
アルバム1枚出して消えたバンド総合スレ
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼