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愛知から上京して一人暮らししようと思ってんだけど
- 1 :2017/09/17 〜 最終レス :2018/12/15
- 一人暮らしってどうなの?
- 2 :
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- 3 :
- >>1
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- 14 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#14
- 15 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
15
- 16 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#16
- 17 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
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根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
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「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
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「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
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★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
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まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
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立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
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一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
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しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
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- 19 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
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入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
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オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#19
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
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根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
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「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#21
- 22 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
22
- 23 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#23
- 24 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
24
- 25 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#25
- 26 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 27 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#27
- 28 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#29
- 30 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#30
- 31 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#31
- 32 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
32
- 33 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#33
- 34 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
34
- 35 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#35
- 36 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 37 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#37
- 38 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
38
- 39 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#39
- 40 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#40
- 41 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
41
- 42 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#42
- 43 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
43
- 44 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#44
- 45 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 46 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#46
- 47 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
47
- 48 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#48
- 49 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#49
- 50 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#50
- 51 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
51
- 52 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#52
- 53 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
53
- 54 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
54
- 55 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#55
- 56 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
56
- 57 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#57
- 58 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
58
- 59 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#59
- 60 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#60
- 61 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#61
- 62 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
62
- 63 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#63
- 64 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
64
- 65 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#65
- 66 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
66
- 67 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
67
- 68 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#68
- 69 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#69
- 70 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#70
- 71 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 72 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#72
- 73 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
73
- 74 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#74
- 75 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
75
- 76 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#76
- 77 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
77
- 78 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#78
- 79 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#79
- 80 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#80
- 81 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
81
- 82 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#82
- 83 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
83
- 84 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
84
- 85 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#85
- 86 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
86
- 87 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#87
- 88 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
88
- 89 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#89
- 90 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#90
- 91 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#91
- 92 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
92
- 93 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#93
- 94 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
94
- 95 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#95
- 96 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
#97
- 98 :
- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
リーダーの決断に注目だ。
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- 大阪桐蔭の根尾昂を1位指名した4球団のうち、抽選箱に最初に右手を差し込んだのは中日の与田剛監督だった。
よく言われる「残り福」ではなくまさに引き当てたのだ。何枚かの封筒をまさぐった末につかみ取った金の卵との「交渉権」。
その右手を高々と挙げた瞬間から、与田監督に問われているのは、根尾をいかに育てるかというマネジメント術である。
根尾の才能はどんなポジションにも対応可能だということだ。ただし、この起用問題に関してはすでに結論が出されている。
根尾本人の「ショート1本で勝負したい。投手に未練はありません」という要望を球団も承諾。プロ入り後は遊撃手としてスタートを切る。
新監督のマネジメント術が問われるのはその先である。背番号7をつけ、颯爽とゴロをさばき、矢のような送球でアウトにする。
高卒であっても期待は即戦力。そんな根尾の姿を想像するファンも多いことだろう。そして、ふと気づく。
「京田はどうなるの?」そこなのである。根尾を使うにしても、使わないにしても日本中の注目が集まるのは間違いない。
「プロ野球なんだから実力の世界でしょ」
★というのはもっともな意見だが、ことはそう簡単ではない。
鳴り物入りの野手が入団したときに、現場を預かる監督はどう動いたか。中日には根尾と同じ遊撃手で2つの事例がある。
まずは1988年に入団した立浪和義(PL学園)だ。甲子園を春夏連覇したところも根尾との共通項。
ドラフト会議直前に方針を転換し、1位指名に踏み切った。南海との競合を制し、晴れて入団。
ところが当時の中日には宇野勝が正遊撃手として君臨していた。前年までに本塁打王1回、通算227本塁打を放つ中心打者。
立浪が入団する前年の1987年も全130試合に遊撃手で先発出場し、3度目のベストナインに選ばれている。
当時チームを率いたのは星野仙一。沖縄での一次キャンプでは「(立浪を)セカンドで使うことは考えていない」とコメントしている。
つまり、この段階では宇野のコンバートには触れていない。こうして始まった1988年、立浪は遊撃手として91試合に先発出場。
打率.223はリーグ最低だったが、星野は使い切った。コンバートを受け入れた宇野も全試合に出場している。
続いての例が1999年の福留孝介(日本生命)だ。このときの監督も星野だった。
前年の遊撃手の先発出場は久慈照嘉(現阪神コーチ)が最多の67試合、韓国球界のスターだった李鍾範が55試合だった。
星野監督は俊足だが遊撃守備に難のあった李の外野へのコンバートを早々と決断。
一方、守備力には定評があった久慈は、福留入団のあおりをもろに受け、出場機会が激減する。
巨人との水面下での激しい獲得争いを制し、逆指名を勝ち取ったのが福留。
入団に至る星野の情熱や闘争心を間近で見ていた久慈にとって、遊撃のポジションを明け渡すことは「そりゃわかりますよ」となる。
しかし、星野が自分のことをどう見ているかを知った瞬間から、与えられた立場を受け入れた。
宇野には直接、思いを伝えた星野だが、久慈によると「そのことについて直接、話したことはない」。
人たらしで知られる星野のことだから、間接的に思いが伝わることを計算した可能性はある。
「あいつは必要」というメッセージは、実際に久慈に伝わり、名手の心を揺さぶった。
オープン戦を本塁打0、打率.159で終えても、福留を使った星野ではあるが、シーズン19失策(遊撃手として13)の守備力は懸案だった。
勝ち試合の終盤には、必ず久慈を守備固めとして投入。それが「必要」の意味だった。
そこは徹底しており、ある試合では「単打が出ればサイクル安打」という状況でも交代を命じた。
1999年の遊撃手の先発は福留が103試合、久慈が32試合。守備固めも含め、福留1人で内野の要をまかなえないことも、星野の計算に入っていたのだ。
宇野、久慈ともに30歳を迎えるシーズンでの転機だった。来季で25歳となる京田とは実績や評価はまた違うかもしれない。
しかし、根尾を使うという決断は、今季全試合出場した京田のコンバートに直結する。
予想されるのは京田が二塁、二塁の高橋が三塁へという布陣だが、これまでの野球人生をほぼ遊撃一筋で過ごしてきた京田にとって、
すべての動きが逆になる二塁守備に適応するにはそれなりの時間が必要だ。かといって根尾のプレーを見る前に動き始めるということもあり得ない。
根尾を使うのか、使わないのか。使うのならいつ、どんな方法でチームを動かすのか。決めるのは与田監督だ。
恩師でもある星野監督が見せた一流のマネジメント術。立浪を抜擢した1988年も、福留を使った1999年もチームを優勝に導いている。
そろって名球会入りしており、育成と勝利の二兎を得た。新監督もその道に続けるのか。
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