TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
慰安婦について論じよ
明治維新を成したのは結局徳川と英国
■■日本人の犯罪、性奴隷=従軍慰安婦問題21■■
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか3
【旧日本軍】陸軍悪玉論は本当か?
西郷隆盛【人を相手にせず、天を相手にせよ】
神風連の乱と陽明学の思想2
南北朝鮮分断は日本の責任2
「昔の日本人のほうがモラルはあった」は本当か?
■狭山事件7■

神風連の乱と陽明学の思想2


1 :2010/10/17 〜 最終レス :2018/07/13
三島由紀夫が熱心に研究していた神風連について詳しく知りたい。
太田黒伴雄とはいかなる人物?
http://mentai.2ch.sc/history/kako/992/992392537.html

2 :
王陽明

3 :
うめ

4 :
あげ

5 :
さげ

6 :
保守

7 :
保守

8 :
保守

9 :
保守

10 :
10

11 :
保守

12 :
保守

13 :
保守

14 :
保守

15 :
保守

16 :
保守

17 :
保守

18 :
保守

19 :
保守

20 :
20

21 :
21

22 :
保守

23 :
  ⊂⊃
(U´ω`)
                ┼ヽ  -|r‐、. レ |
                 d⌒) ./| _ノ  __ノ

24 :
誰にもわからぬ謎の人物ということで。

25 :
◆三島由紀夫の遺訓◆
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/rongo/1296353789/243-

26 :


27 :
熊本藩も国権派と開明派でモメまくってますなあ。

28 :
王陽明は孟子以来の傑物である。

29 :
10 日本@名無史さん New! 2001/06/13(水) 13:16
「天照す神をいはい現身の世の長人と吾は成りなむ」
太田黒伴雄の歌。
三島由紀夫の少年時代の精神上の師だった国文学者の蓮田善明が
陸軍中尉として最後の出征をする際に高吟したと伝えられている。

11 日本@名無史さん New! 2001/06/13(水) 13:49
概要はこちらを。
http://203.174.72.111/ohotaguro/shinpuren.htm

30 :
16 日本@名無史さん 2001/06/14(木) 03:01
太田黒伴雄も、加屋霽堅(神風連副将)も、幕末の頃は
肥後勤王党の中堅格として活躍していた。太田黒伴雄は
若手の中でも特に人格的に優れ、勤王党盟主の宮部鼎蔵
(池田屋事件で自刃)も太田黒だけは同格扱いにしていた。

31 :
少数で熊本城陥落させたし
実は反政府反乱者の中で一番成功し凄みのある連中だった

32 :
勤皇党の生き残りが神風連になったの?

33 :
神風連は敬神党

34 :
クソスレあげんな

35 :
あげ

36 :
138 日本@名無史さん 01/09/27 03:10
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の何巻かに神風連が詳しく出ているね。

139 日本@名無史さん 01/09/27 18:04
溝口健二に「神風連」という作品があったそうな。
当時の批評では一部の評論家が絶賛した以外はボロクソに言われたが、
本人は大のお気に入り作品だったそうな。
見てみたい・・・・

37 :
10 日本@名無史さん 2001/06/13(水) 13:16
「天照す神をいはい現身の世の長人と吾は成りなむ」
太田黒伴雄の歌。
三島由紀夫の少年時代の精神上の師だった国文学者の蓮田善明が
陸軍中尉として最後の出征をする際に高吟したと伝えられている。

11 日本@名無史さん 2001/06/13(水) 13:49
概要はこちらを。
http://203.174.72.111/ohotaguro/shinpuren.htm

38 :
まずは安岡正篤あたりから語りましょう。

39 :
「人は天地の心にあたり、天地万物はもともと自己と一体のものである」
                                  王陽明

40 :
安岡さんは本当にすごい人だったなぁ

41 :
石光真清「城下の人」中公文庫

42 :
神風連血涙史

43 :
林:それぞれの民族には十万年くらいは変わらない核心性格がある。神風連的なものは日本民族の核心性格の
発現でしょう。この核心は(中略)日本民族の意識下にひそんでいる。奈良、平安時代のシナ文化と仏教文化の
流入もこの核心を変え得なかった。(中略)十万年と、二千年または二百年の「外来文化」は勝負になりませんからね。
日本人の民族性格は、天然真珠の玉のように、十万年の核心(core)をつつんで、儒教文化、仏教文化、西洋文明が
重なっている。(中略)人間の性格の外皮は真珠のように固くないから、核心がときどき流れ出し、爆発する
ことがある。これが国粋主義で、どの民族にもそれがある。ロシアでも、西欧派のツルゲーネフに対して、
スラブ派のドストエフスキーがいたようなものだ。復古主義の形をとるが、実は、求心運動としての革命的
爆発ですね。神風連はたしかにその旋風で竜巻でしょう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

44 :
三島:僕はこの熊本敬神党、世間では、神風連と言っていますが、これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、
もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとうで、ここまでいかないのは、全部現実政治の
問題だと思いますよ。それでは、彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、
純日本以外のものはなんにもやらないということ。それもあの時代だからできたので、いまならできないが、
食うものから着物からなにからかにまで、いっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。
失敗するにきまってるのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、
非常に感動するのです。
思想の徹底性ということ、思想が一つの行動にあらわれた場合には、必ず不純なものが入ってくる。必ず戦術が
入ってきて、そこに人間の裏切りが入ってくる。それがイデオロギーというものでしょうが、そうして必ず
目的のためには手段を選ばないことになっちゃう。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

45 :
だけれども神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、
みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。
それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味で
いちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ。
その後いろいろなテロリズムが起こりました。いろいろなものがあったでしょう。しかしこれくらいの純粋実験と
いうものはないですよ。日本の歴史のなかで、こういう純粋実験があったということは、みな忘れていますが、
当時は笑うべきことだったかもしれないが、なにごとかだったと思うのですよ。それで僕はいまの(中略)
あいまいな日本精神とかなんとかを、ここでもってもう一度よくこれを振り返ってほしいのです。そういう意味で、
僕は神風連を言うのですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

46 :
三島:たしかに日本人が外国に対して徹底的に受け入れるというのは、十九世紀の全く正しい方法だったと思います。
(中略)近代化することによって、植民地から身を守るか、あるいは受け入れないことによって敗北するか、
どっちしかなかった。一つの道しかなかった。(中略)
僕は政治的に、たとえば明治維新において、もっと日本的にやるべきだったとか、外国の武器を使うべきではないと
言っているのではないし、日本の西欧化をするべきではなかったと言っているのでもなんでもない。西欧化は、
十九世紀には単なる西欧化であったが、二十世紀においては単なる西欧化ではない。(中略)西欧化という段階を
通り越していると思うのです。だけれども、その必然的結果としての大衆社会化という問題が、いまわれわれの
前にあって、それに対抗する概念を僕はさがしている。僕がさがしているものは、どうしてもその前にいかなければ
ならない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

47 :
三島:僕たちはもうハカマもはかない、ズボンをはいてる、西洋的な生活をしていますね。しかし禅は、そうで
あってはいけないという考えです。それは天皇制の考えにつながるのです。禅はそうであってはいけない。何か
究極的なものは、そうではあってはいけないという考えがあるのです。(中略)いまに(日本人は)日本酒の味も
わからなくなるでしょう。そういう一面をもっているが、精神の本質的な価値というのは、僕たちのなかにある
かもしれないが、カソリックにおける教会みたいなものがどこかにあって、精神の本質的な価値を守らなければ、
われわれにはとても生活全般で守ることはできない。われわれは電話もかけなければならない。テレビを見なければ
ならないし、自動車にも乗らなければならないから、どこかに自動車に乗らない、テレビを見ない、電話をかけない、
ガスを使わない、電気を使わないというものがなければならないと思うのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

48 :
三島:(僕は)文学的な目で見るといま日本とか、日本人という、みんなの言っている概念のあいまいさに
耐えられない。いったいどこを根拠にして言っているのか。(中略)日本人はたしかに、いろんなものを取り入れて、
雑然と消化してしまう国民であるけれども、日本および日本人ということは、いまこんなに問題になっているなら、
それの純粋実験ということを、どういうふうにしてやるかということを僕は考えるのです。たとえ無力であってもいい。
(中略)なにがそれでは、そういう純日本的なもの……純日本人的なものの純粋実験だろうかと考えると、結局、
神風連にいっちゃう。あすこにガンジーの糸車があって、かならず敗北するでしょう。それは勝つわけはありません。
つまり西欧化のほうが正しいに決まっている。(中略)かならず敗北するのだけれども、そこに純粋性と正当性が
あって、そういうものがつまり、われわれが日本および日本人といっているものの核になっているのではないか。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

49 :
三島:いったい日本では抵抗精神というのはどこにあったか。純日本の抵抗精神というのはどこにあったか。(中略)
僕はへそ曲りですからね、そういうものをさがす。そうすると、禅寺が電気冷蔵庫を持っていてはいかんではないか。
ガンジーは糸車を回したではないか。そうすると、神風連が電線の下を通るときに、あれでもって電報がくるのだ、
あんなものはバテレンの妖術だというと、頭の上に白扇を乗っけて、下を通ったという、あの白扇に、つまり
西欧文化というものはどういうものを日本にもたらすか、というものの予感がはっきりひらめいていたように思う。

林:大きな予言ですよ。

三島:大きな予言ですよね。いまから白扇を持ってもどうしようもないが、白扇で電線の下を通ったということは、
あの電線がただの電線ではないのだぞ、あの電線が、あれから、百年たってこういうような状態をもたらすのだぞ、
という予言としか思えない。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

50 :
三島:神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に
転倒させ、廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」
という思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な
中核として総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、
それは伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた
思想の実現です。僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとに
したという考えはむしろ逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化した
という考えが正しいと思います。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

51 :
三島:(神風連の起こった)その時代の天皇観念には、天皇を宗教的精神的中心として純粋に確保したいという
強烈な考えが、一方にあっても少しも不思議はなかった。
明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に
対する、一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が
電線に対してかざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統帥大権的天皇の
イメージのうちに、攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。
これがさっきの神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の
拠点となられるむずかしい使命を帯びられた。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

52 :
天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。二・二六事件において、まことに
残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の二の舞になったということです。
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を
辿ってきた。唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

53 :
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん
西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。そのもっとも醇乎たる悲劇意志への
共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うとアイマイに思われるでしょうが、僕は
維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」給うということを言っているのです。
そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の最後のトリデとなりつづけることによって、
西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の原理になり給うことです。イギリスのまねなんか
なさっては困るのです。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

54 :
三島:僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
(中略)
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
(中略)つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。

林:革新のシンボルにもなります。これからもかならずなります。

三島:ならなければいけないのですよ。

三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より

55 :
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに
戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹Rるに
いたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に
触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。

三島由紀夫「一貫不惑」より

56 :
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、その点、
思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。

三島由紀夫「一貫不惑」より

57 :
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

58 :
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

59 :
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

60 :
さて今まではといへば、たとへば(中略)氏(丸山真男)はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

61 :
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

62 :
ぶっちゃけ良知て何よ。自分の良心に誠ならいいの?誠ならそれが、天の意思なの?

63 :
>>62
好きな色は見た瞬間に好きになってるでしょ?
見てから、流行や他者にどう思われるか考えて好きな色に決定するわけじゃない。
前者が良知、後者が思慮分別

64 :
じゃあ格物致知の知は良知でしょ?
世の中を好きな色に塗りたくるのが、陽明学なの?
勝手じゃない?

65 :
>>64
だから「仁」や「礼」がある。
他者からの反応にも良知を発揮しなきゃ。
良いと思ってしたことで、誰か悲しんだなら、
またそこで反省するのは陽明学以前に当り前でしょ?
とりあえず伝習録、中江籐樹、二宮尊徳あたり読んでみては?

66 :
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

67 :
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

68 :
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

69 :
(中略)
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

70 :
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

71 :
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

72 :
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

73 :
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共にRなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

74 :
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

75 :
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

76 :
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

77 :
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

78 :
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

79 :
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

80 :
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

81 :
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

82 :
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より

83 :
コピペ失せろ

84 :
高杉晋作や西郷隆盛って明らかに陽明学者じゃねえのにカテゴリに何故かカテゴリに入れられてる。

85 :
>>84
ん?2人は陽明学を学んで陽明学に信奉してるぞ?

86 :
信奉者くらいなら誰でも居る(失笑)

87 :
考えてみると儒学や陽明学を学ばなくなってから日本にはまともな右翼がいなくなったよな
今のネトウヨ(笑)なんか全く儒学を学んでいない

88 :
おもしれ〜
コピペだけど、ついつい読み込んでしまった。

89 :
まあ陽明学の学者、では無い罠

90 :
長文コピペだけど面白かった。基本的に「どうにもならない不遇」を
前提にした思想なんだなとなんとなくおもった。病苦だとか飢餓とか
災害とか。その不遇がたまたま人間の社会が原因となっておきれば
その放出のしかたがたまたま「革命思想」になるのだろう。

91 :
アポロン的思想というのは「どうにもならない不遇などこの世には無い」という
思想が前提になってるのだろう。これは大衆の思想ではなく、奇人変人の種類の
思想なのだろう。いまでこそ常識的だけど。

92 :
陽明学って何だべ?

93 :
東洋には古来より陰陽五行説という思想があり、その五行(木、火、土、金、水)
を結ぶ相互関係の一つである「比和(ひわ)」を追求した思想。
すなわち「陽」と「明」、同じ属性の物が集まると益々盛んになることから、
わが国では倒幕派の志士らがお互いの結束を強めるために好んで修学した。

94 :
朱子学も陽明学ももともと半身は卜占術みたいなのに足つっこんでるはずなんだけど、
なぜかそういうのは取り扱わず学術的なものだけに焦点あててるのはちょっと片手落ちな気がする。

95 :
針灸とか漢方とかそういうのとも混交一体のものでしょ

96 :
在特会 ◆UH6gVGtpAYNU

97 :
test

98 :
「革命哲学としての陽明学」は大塩平八郎論だな。

99 :
仏教は外国から来たものだから本地垂迹とか我慢ならねえって、廃仏毀釈を煽った連中は外国の陽明学かぶれだったってことね。

100 :
【生死】日本陽明学 【超脱】
http://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/history/1142239107/


100〜のスレッドの続きを読む
雨ニモマケズ〜宮沢賢治を語るスレッド
【A級戦犯】近衛文麿・広田弘毅【大政翼賛会】
アジア・太平洋戦争はアメリカが仕掛けた←マジ?
明治天皇
事あるごとに血筋自慢するキモい竹田恒泰
最凶の陰謀論者は誰か
☆★☆★☆南京大虐殺を語ろう47☆★☆★☆
明治天皇
「昔の日本人のほうがモラルはあった」は本当か?
薩長=ナチス
--------------------
【浅山わさび】洗脳執事【サンデー】
ロマンシングサガ-ミンストレルソング 488曲目
【アンリパ】沼田純一【ショアジギング】
トラック運転手は最底辺【人種も】
【未遂】不幸になりそうな結婚式【予感?】
2chすっかり廃れたよな・・
元妻、元旦那に強い憎しみがある人
【関西】住所晒してラーメンとか120円【大阪】 54
NHKに代わりましてアニソン三昧2020 in なん実V★4
【ICU】国際基督教大学高等学校【其の壱】
【MT】MovableType【設置方法】
【芸能】100件以上の強姦を供述 現役ミュージシャンの極悪非道な犯行
【安倍首相】広島視察が取りやめ 「股関節周囲炎」と診断★9
【フケ】脂漏性皮膚炎64【全身の痒み】
LINEレンジャー初心者スレ
別館★羽生結弦&オタオチスレ13317
【吉報】韓国人77%が「日本嫌い」、好感度は1991年以来最低。67%が日本製品不買運動に「参加の意向」
FF7・FF8・FF9・FF10・FF12・FF13・FF15 どれが一番の神ゲー? Part33
【韓国】女性に対する褒め言葉、韓国で最近流行の表現「マンチンニョ」とは?[08/19]
【悲報】ローソンさん、ネトウヨをブチ切れさせてしまう [875850925]
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼