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後北条氏時代の江戸について語るスレ


1 :2018/04/30 〜 最終レス :2019/03/19
小田原衆所領役帳 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A1%86%E6%89%80%E9%A0%98%E5%BD%B9%E5%B8%B3
>相模の戦国大名北条氏康が作らせた、
>一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
>原題は不明で、「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。

東京市史稿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915622
この182コマ近辺に
小田原衆所領役帳の江戸の部分が大体載ってる
その他後北条氏時代の江戸の話も東京市史稿にある

2 :
https://shirobito.jp/article/徳川家康と城%20 第3回 |%20 家康入城以前の江戸はさびれた漁村だったのか

>戦国大名北条氏の重要拠点の一つで、
>城下町もそれなりに発達していたのである。
>「江戸は砦のある漁村」といったイメージはこの際払拭する必要があるのではなかろうか。
>前述岡野友彦氏が指摘されたように、
>江戸は浅草からはじまる利根川・常陸川水系と、
>品川からはじまる太平洋海運とを結ぶ結節点に位置していたわけで、
>江戸が平安時代から中世を通じてある程度発達していた点をみておく必要があるように思われる。

>家康の江戸城築城と町づくりはこうした前提の上にはじめられたのである。

小和田哲男先生はこう語る

3 :
『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』森浩一と網野善彦の共著

>品川津の繁栄ぶりは、淀と匹敵するとまではいかないにしても、
>対比は十分できるぐらいのものだったと思います。
>なにしろ瀬戸内海から淀川に入ってくるルートは、
>現在の新幹線のようなものですけれど、
>伊勢から品川、神奈川への道も在来の東海道線ぐらいの意味は持っていたと思いますよ。

4 :
江戸の範囲
http://www.viva-edo.com/image/edonohanni.gif
後北条氏時代と範囲は違うけど
江戸時代の江戸の範囲の江戸朱引

5 :
後北条氏時代の江戸の範囲は
大雑把に言うと
江戸朱引-今の隅田川東岸+牛島近辺+今の北区と練馬区と板橋区

6 :
昨夜放送されたNHKスペシャル「大江戸」を観て、 スレ立てを思いつきました。
皆さん よろしくです。

7 :
一応言っておくと>>6>>1ではない

8 :
日本の歴史 総合案内(紀元前〜2018年)
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201804090000/

9 :
http://www.youtube.com/watch?v=wd1t_RzhhPU      

10 :
https://www.uuppyy.com/zikiziki/wp-content/uploads/2016/08/10-427x500.png        

11 :
北条早雲が大河ドラマにならないのはおかしい

12 :
1420年の江戸氏名字書立に見える江戸一族
六郷殿、渋谷殿、丸子殿、中野殿、阿佐ヶ谷殿、飯倉殿、桜田殿、石浜殿、牛島殿、江戸大殿、国府方殿、芝崎殿、鵜木殿、けんとう院、金杉殿、小日向殿、原跡、蒲田殿跡

13 :
大田区・・・六郷、丸子、鵜木、原、蒲田
渋谷区・・・渋谷
中野区・・・中野
杉並区・・・阿佐ヶ谷
港区・・・飯倉、金杉(かねすき・かねそぎ)
千代田区・・・桜田、国府方、芝崎
台東区・・・石浜
墨田区・・・牛島
練馬区・・・金曽木(かねすき・かねそぎ)
文京区・・・小日向

14 :
北条早雲のテレビドラマもあると良いな

15 :
江戸氏の一族が今の東京23区の地を結構開発してるんだよな
太田道灌登場の前に

16 :
後北条氏は中原街道と大山街道の整備もしているな
当時の江戸の幹線道路でもある

17 :
本日Nスペ第2弾

18 :
北条が江戸に入ってくるのは高縄原の戦い以後なんだけど江戸城から出撃した上杉氏が高縄原(高輪)で負けた理由がよく分からない
地形は悪くないのに

19 :
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

X39

20 :
番組で浅草や赤坂や両国の話があったけど
浅草や赤坂の地は少なくとも平安時代には既にそれなりに開発されている

吾妻鏡に平安末の頃の浅草や浅草寺の話があるね
鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿を浅草の大工が建てたという
赤坂も赤坂氷川神社が平安時代からあって氏子もそれなりにいるし
今井城という城もあったという
赤坂は平安時代後期は渋谷氏の領地で郷もあった

江戸時代のは再開発であって
古代中世の浅草や赤坂の地が開発されていなかったわけではなく

21 :
江戸寒村説は『葦原があった→葦原だらけだ』とか
『家が江戸城の隣に100軒あった→江戸に家はそれくらいしかない』
みたいな誤解による

22 :
戦国時代中期や後期にもなると数十万石〜百万石の大名も続々出てきたし
そういう大名家に比べれば大分見劣りしただろうな

23 :
戦国時代の江戸が都市?

いやいやあり得ないよ。
当時は人口1万で大都会の時代だが、そのレベルの都市ですら関東には存在していない。
室町時代中期の鎌倉府ですら、人口は1万で終えていたか怪しいもんだ。

室町末期だと小田原が関東一の都会だろうね。

そもそも家康以前の江戸市域を一つの都市とみなすのは間違い。
大江戸八百八町の時代じゃあるまいし、浅草や品川などは川や森や原野に阻まれた別々の町ですよ。

24 :
小田原衆所領役帳によると
戦国時代中期の江戸における
後北条氏家臣&客将の所領の税収は合計約2000貫

貫高石高換算は時代や地域によるけど
まず所領役帳の数字は総貫高ではなく税収である点
あと後北条氏本家領や多くの寺社領は書かれてない点が重要(一部の寺社領は書かれているけど)

25 :
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
後北条氏の場合
動員兵力は(約)5貫で1人が基準
戦国時代の動員兵力は基本的に100石で数人 (天下統一後は100石で5人くらいの場合もあるが)
この事から後北条氏の場合
10貫〜20貫で総石高は約100石という事が分かる

という事は2000貫は少なく見積もって1万石
所領役帳に書かれた所領の人口は少なく見積もって約7000人という事になる

&江戸城に駐屯している『江戸衆』の貫高が1〜2万貫で
少なくとも数千人の兵が江戸に駐屯している

26 :
という事で
所領役帳から分かるだけでも
当時の江戸には1〜2万人の人がいたという事が分かるよ

あとは所領役帳に書かれていない
後北条氏本家領や寺社領の人口も考えると
2万人は少なくとも戦国時代中期の江戸にいたんじゃないかな


東京港のご紹介
https://www.kouwan.metro.tokyo.jp/yakuwari/rekishi/
>明徳3年 1392 中世品川湊が相当数の出入港船や問丸(問屋)の活動などで活況を呈していた(明徳三年品河湊船帳及び帆別銭納帳)
>長禄元年 1457 太田道灌江戸城築城、江戸前島の平川河口に江戸湊を開く
こういう記録もある

27 :
金王八幡宮
http://www.geocities.jp/ynycr674/yuisho.html
>渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので
平安後期から少なくとも鎌倉時代
多分戦国時代中期までの話

平安中期までだと一郷の人口はわりときっちり決まっていて
一郷の人口は約1250人
平安後期以降はそんなにきっちりしていないけど
同じ郷が存続している場合もあったりと人口が半数以下にはならないだろうという前提で考えると
谷盛庄(今の渋谷区港区)だけでも
平安後期〜戦国時代中期の人口は少なくとも数千人いたんじゃないかな

そういう前提で考えると
室町時代の江戸の人口は
2万人より多くなる感じ

28 :
ちなみに谷盛庄は江戸朱引でも江戸だけど
所領役帳でも江戸

所領役帳にはあまり記載が無いけど
金王八幡宮や芝大神宮その他寺社の領地が少なくなかったのかも

29 :
江戸市域全体で1万〜2万って・・
いくつかの集落を抱えただけのただの農村地域じゃないかね。

例えば浅草と品川でそれぞれ5000の人口を抱えてるとしたら、後はただの農民と豪族の家臣でしょ。

30 :
東は江戸前島と常盤橋近辺から将門の首塚あたり
北は江戸城平川門の北面
西は今の江戸城西の丸(西の丸になる前は紅葉山に日枝神社と近辺に村があった)
南は日比谷入江でまあ住めない
浅草に通じる鎌倉街道の支道が江戸城の西側から北側を通ってたんでそのあたりにしか実際に人はいないと考えると地方の街道筋の都市程度

31 :
家臣や有力者を大名の城下に移住させ大名の拠点を都市化する政策は全国的に始まっていたけど
江戸は徳川が移封される前はそういうの無かったからねえ

32 :
>>29 >>31
中世城下町と近世城下町の違いがあるよ

家臣を城下すぐ近くに集住させて
大規模な区画整理をしってっていうのは
安土城あるいは天正期(1573年〜1593年)以降の近世城下町の話(そのちょっと前からと言っても良いが)

所領役帳は1520年〜1555年にかけての調査を元に1559年に完成で
その頃は江戸だけじゃなく
全国的に近世城下町は無いよ
信長が尾張を本拠地にしていた頃の清洲城の城下町も
宿場町的な城下町

中世城下町っていうのは
宿場町あるいは似たような町が
一つから複数あるような城下町で
城の隣だけじゃなく
城の比較的近くの街道沿いにいくつかあったりする感じ

33 :
所領役帳の頃の
江戸の中世城下町は

江戸宿や江戸湊
隅田宿や浅草の寺町や浅草湊
品川の寺町や品川湊

といった海沿いの町の他にも

本郷の寺社町
局沢十六寺(今の麹町にあった寺町)
芝の寺社町(増上寺関係の寺がいくつかと芝大神宮等の神社が集まってる)
原宿(鎌倉街道の宿場町)
岩淵宿(荒川を渡る地点の宿場町)

等々の町が存在し
鎌倉街道や川越街道や中原街道や大山街道等々の街道が幹線道路となり
いくつもの町がネットワーク化した
結構大きな中世城下町があった

34 :
荒川って当時は入間川
ちょっと訂正
中世江戸の北の端が岩淵宿とも言える

あとは渋谷城は1524年に廃城になってしまったけど
渋谷城下の寺町は残っていて
渋谷の寺町も所領役帳期の中世城下町の一つでもある

35 :
大田道灌時代の江戸城の出城網の時点で
今の山手線くらいの広さはあった

所領役帳だけで少なくとも
当時の江戸に人口1〜2万人いる事が分かるけど
渋谷氏の領地の郷やその他の郷
あとは近世初期の現存検地帳の話から考えると
室町時代の江戸の人口はもっと多いと考えるのが妥当ではある

後北条氏は駅伝制の復活等
街道の整備にも力を入れていたな

36 :
仮に戦国時代の山手線エリアに3万の人がいたとしても、分散してるから一箇所で数千人程度
都市とはいえない

畿内なら当たり前の風景

37 :
家康が江戸に引っ越して来た時に
徳川家臣団8000人もいたんだけど
その8000人の多くは当初江戸城近隣で
家を借りて暮らしていたという記録もある

38 :
それって江戸が開発されてないことだろ。この時代、毛利元就の郡山城や朝倉氏の一乗谷のように
有力大名は家臣の屋敷を拠点に築いて中央集権を
計っていたけどそれさえ江戸は出来ていなかった

39 :
>>32
中世の城下町はただの要塞。中世の商業は寺社が担っていて武士は茅の外
それを打破したのが戦国大名。

40 :
>>38
江戸っていうか同時代で比べるなら後北条氏だな
後北条氏の本拠地は小田原なわけで
江戸が出来てなかったみたいに言うのは違うと思うぞ

あと郡山城は拡張が始まったのが1550年代で
その後も拡張が続けられているけど
いきなり最盛期の頃の城や城下町が出来たわけではないよ
一乗谷もいつ最盛期になったのかっていうのがある
所領役帳で分かる頃と比べるなら1550年代がどうだったのかって話になる

あと開発って何も近世的な町を作る事だけが開発ではないし
中世の江戸の地が開発されてなかったという事はないよ

白川郷
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/Ogi_Shirakawa01n3200.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Sirakawa%C9%A1ou0%C9%A8.jpg
郷の一例だけど(現代ではあるが現代的な所以外は中世とそう違いは無い)
現代でもこれくらいで開発されていると言うよ
現代的なビルを建てる場合は再開発と言う

あと中世の江戸に町が無かったわけではなく
いくつもあったよ

41 :
近世と中世を比べて
中世の土地が開発されていないと言うのなら
現代に比べれば江戸時代はどの地域の土地もなんて話にもなる

42 :
白川郷はその画像の範囲だけではないんだけど
一つの郷があると合計2km四方くらいの土地は
開発されている事になるという良い例になる

一つ郷があれば
少なく見積もっても1km四方の土地は開発されていると言って良いよ

43 :
郷は今で言えば
(政令指定都市以外の)市と
市にある町の中間くらいの行政単位で
一つの郷に村がいくつか含まれる

あと中世の村は農村という意味ではなく
建物がたくさん集まってる地域という意味
(村と群の語源は同じとも)

44 :
一次史料もあるだろうけど
氷川清話で勝海舟が
大田道灌は江戸城の南に家臣を集めて住まわせた
みたいな事を書いてもいる

45 :
道灌時代の江戸城本丸は今の北の丸辺りにあったという説もあるから南側=徳川時代の江戸城本丸のことだろうね
道灌時代の江戸城は鎌倉街道に要害を構える目的で築城されてるので街道を支配する意味でもこの配置は納得できる

46 :
江戸城の南って
近代以前は
北北東から南南東に斜めに海岸線があるんだよな

江戸城の南にしばらく行った所は海なのは確か
ただ江戸城の南隣は陸だったりする

47 :
治水が出来る大名も存在せず、城下町どころか船が着ける湊さえないのが徳川が転封されるまでの江戸
人口はそれなりに居たけど室町時代の三津七湊の七湊にさえ及ばない寒村だったのが実情

48 :
来年のNHK正月時代劇「家康 江戸を建てる」
旧態依然とした江戸寒村説でいくのかな

49 :
家康、江戸を建てるのドラマ化は
原作通りだと寒村説って事になるな
原作改変すれば寒村説じゃないようにも出来るけど
どっちで行くんだろうな

50 :
>>46
前島という半島が南に突き出ていたけど日比谷入り江辺りはたしかに陸はあるけど塩水混じりの土地で誰も住もうとしなかったんじゃなかった?

51 :
>>50
汐入で〜って書いてある史料だと
その場所は十町(約100m四方×10)くらいって事だから
地形図等で確認すると江戸城の東十町分くらいのスペースの事しか言ってないんだよね
日比谷入り江周辺は
低地でもスペースは他にたくさんあって
上平河と下平河に町があって人がそれなりに住んでるね
台地の上の方が人は多く住んでるけど

あと南側は川を挟んで台地続きみたいな感じで
海のすぐ近くまで台地があるね

地形図
https://amd.c.yimg.jp/amd/20161115-00000001-corp_tokyojohodo-001-1-view.jpg
太田道灌時代の江戸を描いた古地図(右が北)
https://pbs.twimg.com/media/DTYRAsRWAAUmH0P.png

上平川(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298710
>戦国期に見える地名上平河とも書く
>豊島郡のうち平川村を上・下に分称したと推定される太田道灌築城の江戸城の北東に位置し,
>寺社や町並もあったと思われる

下平川(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7299651
>戦国期に見える地名下平河とも書く
>豊島郡のうち太田道灌が長禄年間に江戸城を築いてから城下町として家並が増え,寺社が多かったという

52 :
江戸郷(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298112
>鎌倉期から見える郷名豊島郡に属す古代末期に平川が日比谷【ひびや】の入江に流れ込み,
>その両岸に江戸郷が開かれた

江戸宿(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7298110&keyword=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%AE%BF%28%E4%B8%AD%E4%B8%96%29
>戦国期に見える宿名豊島郡のうち小田原北条氏が江戸宿の小代官・百姓中に毎年課していた正木棟別麦のうち,
>28俵を4月28日までに小田原(神奈川県)へ届けるよう命じた

53 :
江戸の始めの頃で両郡併せて6万石弱あったけど太閤検地の荏原・豊島郡の石高は?
以前見た多摩川誌のサイトだと世田谷領(多摩郡)と六郷領(荏原郡)も併せて1万石強だったかな

54 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/旧国郡別石高の変遷
正保郷帳(1644〜1651年)
豊島郡 28,972石 91村
荏原郡 21,818石 79村
武蔵国全体が慶長郷帳(1604〜1610年)の840,000石から正保郷帳の982,337石に17%増加
正保郷帳の豊島・荏原郡から17%減らすと42,155石

55 :
寒村説というか実際に寒村でしょ。室町から戦国時代にかけて関東の中心は武蔵国
江戸は房総地域への足掛かりか防衛の拠点程度の認識。戦略上は要所でありポテンシャルも高いけど
水害が多く当時の技術力では排水の困難な沼地ばかりで石高も畿内に比べて劣る発展途上国

56 :
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/shiryoshitsu/hakken_sheet/history.files/1-08.pdf
中世の江戸の隣には伊勢神宮の荘園があったけど(西3分の1は後の江戸朱引に含まれ江戸時代は江戸)
隅田川下流の低地も中世の時点で普通に開発されている
1398年の『葛西御厨田数注文』によると
この時点で1233町7段の広大な田んぼ隅田川下流にあった

57 :
土砂が堆積して出来た自然堤防があるから
洪水もそう頻繁に起きるわけではないよ

58 :
中世品川のにぎわい
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/pdf/pub/kaisetsu/cs28l.pdf
>中世の品川は、
>六浦、 神奈川(横浜市)とならぶ関東の重要な港町で、
>海陸交通と物流の拠点で、あった。
>太平洋海運による東西交易の場として繁栄し、
>湾内の交通はもとより、 西国から運ばれた物資は
>;品川を経由して武蔵野平野の各地へ届けられた。
>品川に来航する船には帆別銭が課税され、
>その税により鎌倉の円覚寺や金沢称名寺(横浜市)の堂塔が造営されるなど、
>品川は鎌倉の後背地として重要な位置を占めた。
>称名寺金沢文庫には、 南北朝時代の「湊船帳」など
>当時の港の繁栄がうかがわれる文書が残されている。

59 :
大田道灌時代には
その品川湊の役割を江戸湊も担った
当時の江戸城と品川湊の間の地区は
建物が途切れる事なく建っていたという同時代の記録もある

60 :
家康以前に江戸が発展していたか否かはともかく中世は鎌倉街道下道が現在の青山通りあたりから赤坂御苑内→上智大付近の喰違門→半蔵門→江戸城北側→平川→常盤橋→浅草寺方面に至る道が主要街道

江戸湾の物資は平川河口辺りに集まり市が立っていたというから当時の江戸の大手や町は街道筋に江戸城の西側から北側にかけての高台にあるので、低地の日比谷入江付近は街道筋から外れた場所なんでここを指して寒村というのは江戸市内からみてもまあその通りなんだと思う

ちなみにその後に移転する吉祥寺や法恩寺、平川天満宮なんかもすべて平川から現在の大手町付近にあって墓地だったようだね
大手町付近が中世江戸の南の端なんだと思うよ

品川湊は中世ではあくまで鎌倉の後背地であって江戸の表玄関という位置付けは確認できない
ここで陸揚げされても確かに江戸まで遠いし平川河口まで行ってしまう方が楽
品川湊は北条氏綱以降に中原街道の兵站で発展したんじゃないのかな
とはいえ北条時代になっても水軍の拠点になっていないし房総の里見水軍も襲撃に来ていないので軍事的価値もあまりないのかも

61 :
中世の江戸は太田道灌時代以前以降で
その範囲が結構変わったかもよ

https://fujimizaka.wordpress.com/2014/03/10/fujimi_fujimizaka2-1/
同時代史料の江亭記では
>南に顧るときは則ち品川の流れ、
>溶々漾々として以て碧を染む、
>人家北南の鱗差す
と江戸城から南北に家がたくさんあるという事が記されているよ

http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.banjinyama.htm
あと港区にある
太田道灌が築城した出城の番神山城もある

62 :
所領役帳だと日比谷や大井も江戸
そしてもっと南でも江戸の範囲な場所があるよ

江戸時代に東海道沿いに
江戸朱引の外まで江戸下町文化圏が広がってたけど
室町時代も似たような感じだったのかも

63 :
そもそも太田道灌時代の江戸城の城下町は「平川」で後北条時代に始めて江戸宿と出てくるんで中世江戸城の城下町は平川なんだよ
厳密にいうと中世の町に城下町と呼ぶのもおかしいけどね
その江戸宿も現在の常盤橋付近なんでやはり江戸城の北東方面がメイン
江戸期の東海道にあたる街道ももちろんあるし町は点在していたけどこれを江戸の町に含めるのは違和感あるな
物流は平川より鎌倉や小田原方面に向いてた訳だし京都に繋がる東山道へは今の甲州街道から府中で繋がっていたんでそう考えても江戸城の北側で東西に行き来できる高台の鎌倉街道がメインになる

64 :
分散城下町とその統合原理
http://hist-geo.jp/img/archive/242_023.pdf
城下町についての論文だけど

>近世城下町の性格はその成立過程における
>空間的な都市形成の在り方において具現化される。
>松本は戦国期の城下町を、
>給人居住域と城下市町の2つの部分域が合一していない状態であるとし、
>矢守はそうした部分域の一体的結合により、
>両者がワンセットになって都市プランの中にレイアウトされることが、
>戦国期城下町から近世城下町への変容であるとした。

>中世都市の分散的性格は原田により早くから指摘がなされているが、

城下町研究では中世の城下町は基本的に分散的であるという基本があるよ
近世城下町の多くのような分散的ではない大規模な区画整理された城下町だけが
城下町なのではなく中世城下町は分散した複数の町からなるのも普通

65 :
その論文では関宿城という
近世でも中世城下町のような城下町を維持した
城下町について語られているけど

中世の関宿城は
まず後北条氏時代以前に台宿という町が街道沿いにあり
後北条氏時代に別の街道沿いに網代宿という町が作られ
複数の町で城下町が形成された

66 :
六郷殿館(東京都大田区)
http://maro32.com/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%AE%BF%E9%A4%A8/
>憲幸は関東管領・山内上杉憲政の子であったとされ、
>北条氏康により攻められ以後、
>後北条氏の傘下に入ったそうで氏康が作ったとされる「小田原衆所領役帳」に
>六郷殿の所領などが記されているそうです。

品川よりさらに南の六郷だけど
六郷も後北条氏時代重要地点だんだよね

67 :
http://www.town.kawajima.saitama.jp/1368.htm
>叔悦禅師は、江戸城を築いた太田道灌の弟で、
>のちに臨済宗の大本山鎌倉円覚寺の住職となった名僧です。

太田道灌の弟の叔悦禅師が鎌倉円覚寺の住職になったんだけど
江戸前島には円覚寺領があり
江戸湊の港湾経営にも円覚寺が関わっていたとも言われているな

太田道灌とその時代展
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/feature/1047/%e5%a4%aa%e7%94%b0%e9%81%93%e7%81%8c%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e5%b1%95/
>本展ではそのうちの2点を展示する。
>両通ともに、陣中見舞いを受けた道灌が、
>鎌倉円覚寺黄梅院の僧に出した礼状。

道灌と鎌倉円覚寺も色々協力していたり
太田道灌時代の江戸湊も鎌倉関係で色々あるよ

68 :
鈴木道胤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%81%93%E8%83%A4
>武蔵品川馬場地(現南馬場町周辺)に拠点を構えて品川湊を支配し、
>自身も廻船業や土倉などの貸金業を営む商人として活動した。
>太田道灌とも交流があり、連歌の名手としても知られていた。

太田道灌時代に品川湊で商売をしていた豪商とも言える鈴木道胤は
太田道灌とも交流がある

69 :
後北条氏時代の関宿城の中世城下町が
2つの街道と2つの町から成る事と対比出来るけど
後北条氏時代の江戸の中世城下町は
5つ以上の街道と10以上の町から成る
結構大規模な中世城下町が形成されている

70 :
所領役帳にストレートに当時江戸だった場所が
江戸と書いてあるとも言える

71 :
芝村新宿(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7299475&keyword=%BC%C7%C2%BC%BF%B7%BD%C9%28%C3%E6%C0%A4%29
>戦国期に見える宿名
>荏原【えばら】郡のうち天正16年7年24日付の世田谷城将の吉良氏朝の制札に
>「右,柴村新宿,為不入立之候間

江戸城と品川の中間地点の芝にも
中世に宿場町があったよ

72 :
新井宿(中世)
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7297739&keyword=%BF%B7%B0%E6%BD%C9%28%C3%E6%C0%A4%29
>室町・戦国期に見える地名

品川の南の大田区新井にも
室町時代に宿場町があった

73 :
所領役帳における江戸の範囲は
中世の豊島郡の大部分+中原街道沿いの多摩川付近までという感じかな

江戸城や本郷、湯島、平河、芝とか
その辺が一大中心地でありつつ
その周辺にもいくつもの町がある感じ

結構広いけど葛西は江戸ではなく
江戸時代の江戸朱引の外側の荏原郡も江戸ではない感じ

74 :
>>73
自己レスだけど
江戸時代の江戸朱引の外側の荏原郡も
中原街道沿いは江戸な感じ

75 :
>>54
正保郷帳の1村平均出してみた
武蔵
豊島郡 28,972.7849石 91村  318.3822石  34,325.382(377.202石×91村)
荏原郡 21,818.5058石 79村  276.1836石  29,798.958
橘樹郡 44,555.98795石 113村  394.3007石
久良岐郡 13,949.833石 43村  324.4147石
都筑郡 21,005.69788石 62村  338.8015石
多摩郡 73,782.9869石 320村  230.5718石
新座郡 7,683.555石 18村  426.8641石
入間郡 61,754.411石 185村  333.8076石
足立郡 130,252.6876石 361村  360.8107石
葛飾郡 103,689.487石 192村  540.0494石
相模
三浦郡 21,142.742石 59村  358.3515石
鎌倉郡 23,735.815石 81村  293.0347石
高座郡 38,150.593石 95村  401.5851石

豊島・荏原と山間部を多く含む多摩郡を除いた10郡の1村平均は377.202石
江戸(豊島・荏原)は都市化したことで農業生産力が落ちてるんだろうね
戦国末期でも山の手線エリアに5万人くらいの人口はあったんじゃないかな

76 :
確かに今の山手線圏内に
室町時代5万人くらいの人が住んでいただろうね

77 :
後北条時代の江戸は四谷の喰違門のある貝塚村から大橋(常盤橋付近)にかけての街道沿いが江戸の範囲
あとは別の町だな

78 :
江戸時代と室町、戦国じゃあ大きく異なる
生産高は飛躍的に伸びている

79 :
慶長から正保で17%増>>54

80 :
後北条氏公式の史料で江戸の範囲がある程度はっきりと定義されているわけで
それに一つの町だけが江戸という考え方自体が違い
江戸という領域は複数の町に広がっている

81 :
江戸湊や品川湊は
何もそこで品物を売る為だけに商船が来たわけじゃなく
そこで荷物を大船から小船に積み替えて
北武蔵や北下総
さらに上野の方まで荷物を運ぶ為の中継基地でもあった

あと湊から陸上輸送で品物を売るにせよ
江戸に複数の湊があったって何の問題もないどころか
その方が便利なわけで

82 :
江戸を一つの町だけで考えるなら
それこそ平川河口の両岸だけになってしまう
麹町も吹上庭の場所も江戸ではなくなる

83 :
広域に広がる複数の町が江戸というのは
一度に複数の事を理解出来ないと理解しにくいかもしれない

84 :
江戸時代を通して
大雑把に言えば農業生産は倍になったけど
という事は江戸時代以前に既にそれなりに農地の開発があったという事でもある

85 :
後北条氏の公式史料である小田原衆所領役帳だと
貝塚村は『一木貝塚』と赤坂と同じ地域として記述されている

86 :
朱引墨引以降の江戸の話でも
江戸の範囲を下町だけとか
大木戸の内側だけみたいに言って
墨引の内側でもそういう場所じゃなければ江戸じゃないみたいな事言う人もいるけど
それは血液型性格判断のような発想とも言える
江戸と言えば特定のこういう所だけみたいな
実際は江戸と言っても多様

87 :
後北条氏時代の江戸城の南は日比谷入り江ではなく
日比谷入り江は江戸城の東
江戸前島も江戸城の東

地形図
https://amd.c.yimg.jp/amd/20161115-00000001-corp_tokyojohodo-001-1-view.jpg
このグリーンの所は海抜4〜10mくらいの所で
後北条氏時代もほとんどの所は陸

後北条氏時代の江戸城の南隣も
日比谷で所領役帳に記載があって陸
そのさらに南は芝で台地
当時は貝塚にあった増上寺関係の寺が芝にあったりするし
宿場町もある

88 :
勝海舟の『氷川清話』 

太田道灌

>それから桜田門外より霞ヶ関へかけても、
>ずっと諸屋敷があったらしいが、
>ともかくずいぶん規模が大きかったに相違ない。

89 :
江戸城の南隣は小川はあっても基本陸続き
江戸城の陸続きの南隣が江戸ではないという事はないだろう
それに桜田門の名前の桜田郷から
江戸郷は分割して出来たわけで

90 :
江戸城の北の丸が当時江戸城だったって言ってる人もいるけど
北の丸は神社

91 :
>>90
国立近代美術館から太田道灌時代の遺跡が出てるけど

92 :
大江戸と江戸は明確に違うよ

93 :
>>91
その北ね
その遺跡は空堀だけど
国立近代美術館の所まで本丸の側から城があったって事
中間の水堀は家康時代以降だと思うよ
水堀空堀で二重には通常しないだろうし

94 :
大江戸っていうのは江戸時代の話だけど
江戸朱引は大江戸とか関係なく江戸の範囲は?
という事で描かれたもの
朱引で大江戸でも江戸を大江戸と言っただけで
江戸の周辺含めてとかそういう事じゃないよ

後北条氏時代の江戸はなおさら大江戸とかそういう事じゃなく
所領役帳の江戸が江戸

95 :
太田道灌時代の江戸城の大手門は
江戸時代の江戸城の百人番所あたりにあったと言われているよ
本丸の西側

96 :
>>95
自己レス

本丸の東側だった
訂正

97 :
北の丸が太田道灌時代も江戸城だった説だと
本丸も北の丸も江戸城だったという感じになる

98 :
北の丸公園
https://ja.wikipedia.org/wiki/北の丸公園
>もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)の旧地であり
北の丸に筑土神社があったようだけど
その場所含めて江戸城なら
江戸城の規模は今よくある再現イラストより結構大きくなる

99 :
>>70>>80
台東区、中央区、荒川区、文京区、千代田区、港区、品川区、北区、新宿区、中野区、渋谷区、目黒区

100 :
>>23
足利義氏が1560年に鶴岡参詣した際
北条氏が江戸〜川崎〜神奈川〜鎌倉の路地の掃除と伝馬の用意を街道筋の家臣に命じている


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