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【東夷】倭人在帯方東南大海之中..........


1 :2016/08/31 〜 最終レス :2019/03/31
さ〜、老若男女を問わず紐解けや!

ここは以前あった『倭人伝等を読む』スレを継承するために立てたスレです。

2 :
公孫氏の庇護の下女王が統治し東へ東へと侵略範囲を広げようとする国
しかしその肝心な公孫氏は魏王朝に叛きいまその歴史を閉じようとしている。
それを察知した女王は存亡をかけて魏王朝へ使者を走らせる

3 :
『倭在韓東南大海中依山嶋爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王世世傳統其大倭王居邪馬臺國』

倭と称する所は四方海に囲まれた島地で、そこには凡百餘國の国があり武帝が朝鮮を滅ぼした
頃漢人は倭の三十国と国交していた
その国にはそれぞれ王と称する者が存在し、それらを束ねるリーダー(大倭王)は邪馬臺にその居を構えてた。

4 :
この倭の三十国は光武帝から印綬を賜り漢王朝の旗下のもと大倭王をリーダーとして統治した
しかし時が経ち国内は度々リーダー争いが起き
落ち着かない統治となり
ある時クーデターが起きたそれまで王の代表となるリーダーが中心となりクニを治めていたが
倭を後漢王朝の代理支配していた公孫氏の陰謀により、それまで大倭王に占い示唆してきた大巫女と大倭王の立場を逆転させ、そこに女王を共立した。卑彌呼誕生

5 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

6 :
 【建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見】

後漢書倭伝に掲載されたこの記事は二つの対する事案を記することで当時の倭の状況を如実に表した、いわゆる范曄の筆による法

7 :
なぜ対的な記事とわかるのか

安帝永初元年に行われた奉貢による「願請見」
この記事には何を願い出たかがまったく書かれていない。小学生の作文だって目的ぐらいは書くし
つまりこれは書いてないんじゃなく、書かなくとも理解できる文章と捉えるのが最も自然な解釈。ではなぜ書かなくてもよかったのか?
その答えが先に記載された建武中元二年、ここに書かれている皇帝からの印綬。
漢の朝廷と外交の出来るお墨付きを求める為の「願請見」。
同じ地域が同じ朝廷に対し繰り返しお墨付きを受ける事は無いのが常識、それを願い出るというのは
先に印綬を授かった建武中元二年の地域と永初元年に願請見した地域はまったく別な勢力だったということ

8 :
倭という海の中に浮かぶ島地には、後に日本書紀などに書かれた天皇家vsナガスネみたいな二大勢力の存在する地域だということを
この後漢書で漢時代の認識として記録された

で、その一方の勢力と漢、後漢王朝は繋がりを持っている。

9 :
同じ地域の二つの勢力に対し王朝は間違っても両者に印綬を授けることはなかった
つまり、願を叶える事はなかた。
しかし王朝は帥升からの破格な貢ぎ物と遠路からの労をねぎらい一代限りの『倭國王』の称号だけを授けた

一方安帝以来印綬を受けてる勢力では後漢時代
リーダーが戦死するという大乱という事態に

倭國王という称号を受けた帥升の勢力と王朝のお墨付きを持つ勢力(倭奴)が戦になり倭奴のリーダーが戦死した
これが史書に書かれた『倭國大乱』の内容

10 :
倭國王の勢力に対し戦を仕掛ける倭奴はリーダーを失い当然のように退却せざるおえなくなる
が、倭國側はそれを追いかけ逆に攻め込む事はしない
当然と言えば当然で
リーダーを失ったとはいえ相手倭奴は仮にもバックに王朝がいる勢力、それに戦を仕掛けるのはいうなれば後漢王朝に戦を仕掛けるようなもの
そんな間違ってもおバカな行為はしない。
だからこの後に世が乱れた記事が記載されないのです。

一方リーダーを失った王朝の息の掛かる倭奴勢力は次期リーダーの座をめぐっての御家騒動が勃発し、遂に倭地を代理統括する公孫氏がその御家騒動を納める事に
その手品みたいな手段が「卑彌呼の共立」

11 :
よく安帝の建武中元二年に奉貢した時に賜った印綬を志賀の島で見つかった金印という人がいるが
あれは金印ではなく安帝の印鑑証明書、假金印紫綬なら記録に与えるべき者やその遣使に仮に授与することが
書かれるがその形跡は一切ない
あれは倭地から訪れた自称大夫達の国に与えた国交のためのお墨付き。

皇帝の印鑑証明書が箱に納められ封泥により封印し箱を紐で結ぶ

蛮族の自称大夫達に下賜されるほど金印は安物じゃない。

12 :
>>1
なら過去スレくらい貼れや
邪馬台厨はいくらスレを乱立させれば気がすむんだか

13 :
>>12
過去スレなんてありません。
お気に召さなければどうかこのままお引き取りくださいませ。

14 :
では続けましょう。

【金印】
江戸時代に福岡県志賀島で発見されたとされる『漢委奴國王』と刻まれたこの金印の持ち主は誰?なぜ記録にないのか?

先に結論を述べれば

この金印は後漢の時代に公孫が共立した卑彌呼
に非公式に授けたもので、後漢朝はまったく知らぬ公孫氏から卑彌呼へ授けたもの
だから一切記録にはないわけです。
でもこの後漢時代に共立された卑彌呼は、238年に難升米を郡に遣わし魏の皇帝に謁見させた卑彌呼とは別人です。
同じ人物なら今正に魏を裏切り成敗されようとしている公孫氏から擁護されてる卑彌呼に金印どころか難升米は郡で殺されています。
ただ、この卑弥呼も公孫氏に共立された卑弥呼も光武帝から印綬を賜った同じ勢力、流れで有ることは確かで、だから後漢王朝から禅譲された魏王朝もこの流れを引き継いだわけです。

15 :
>>13
じゃあ何を継承したの?
>>1に書いてあることは虚偽か?

スレ乱立というマナー知らずの行動を取っておきながら、嫌なら来るな?
随分と身勝手ですこと。

16 :
当時の倭地には政治や軍事の実権を握るトップリーダーの他に、そのトップに助言や指導の出来るシャーマン的な巫女の存在があった。
乱でリーダーが戦死し内乱が起こるようになり、なかなか長期的に安定しない時が続いた時、
この倭奴を監督する公孫氏がこの巫女を立て男王達のリーダーとのツートップにすることで国内を沈静化させた。
その時公孫氏はこの巫女に絶対なる権力の証として非公式であり私事ではあるが、漢文字を刻んだ金印をこの巫女に授け男王リーダーの力を
抑えこれを治めた。
この時から建前上は男王リーダー政権だが、実質は公孫氏のバックアップがあり金印を下賜された卑弥呼が独裁的な政権が始まる

17 :
>>15
ならご自由に

18 :
この『卑彌呼』とは大陸側から見た職称であり日本でいうところの巫女であり大巫女、決して固有名詞なんかではない。

それが証拠に、後漢書で既に【有一女子名曰卑彌呼】と使われているのに
魏に朝貢したときには卑彌呼ではなく飽くまでも「倭女王」という扱いで、詔書で初めて卑彌
呼という文字を使われてる。
この事からもわかるように、この卑彌呼という名称は職称であり王朝からいただく称号でもあるということ、そして魏皇帝に正式に謁見してから卑彌呼の文字が出てくるので、後漢王朝から卑彌呼といわれてた人物とは別人だということもわかる。

19 :
もしこの卑彌呼が後漢時に共立された卑彌呼で同一人物で有るなら
景初二年に「倭女王」などという書き出しではなく「倭女王卑彌呼」という書き出しになる。
魏王朝は飽くまでも後漢王朝から禅譲された政権で、後漢王朝からの公式な事は一度引き継ぐのが筋
魏書の後発とはいえ国史と位置付けられる范曄の後漢書、公式な文章として記載ある卑彌呼の名称を疎かに扱わないと見るのが普通だろう
そこから考えれば、それを一度断ち切り新たに詔書で卑彌呼と使うのは別記と扱うのが自然な扱いであろうと

20 :
>>17
おまえ何しに出て来たの?

>>1に書いてある
 『倭人伝等を読む』スレを継承する
というのはなんなんだよ

http://academy4.2ch.sc/test/read.cgi/history/1145681233/
これとかの後継じゃないのかよ?

適当に立て逃げしてんじゃねーよ、クズが

21 :
>>20
はいはい、わかったから大人しくしててね。

22 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

23 :
ここまでが漢の時代から後漢の時代にかけての倭地の外交面での政治的な
流れ

早くから大陸の王朝の力を背景に勢力範囲を拡大しようと企む倭奴勢力
それを必死に食い止めようと直接大陸まで願い出て失敗に終わった帥升率いる
勢力。その国内の情勢は卑彌呼共立という流れになっても侵略という構図は変わることがなかった
そしてその侵略という構図はその後200年経過した4世紀後半に至り「神武東征」という
ことで一度完結される
これは神武vsナガスネという形で日本書紀にも刻まれる

ここで注意していただきたいのは「神武もナガスネ」も一個人を表現する固有名詞ではないということ

24 :
>>23の訂正

四世紀・・・・・×

五世紀・・・・・○

25 :
倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩(惟)堆、音之訛也。】

これは先にも掲載した范曄が編纂した後漢書倭
伝の書き出し部分ですが

ここに「邪馬臺」という文字が出てくるのでここに注目し独自の解釈解明してみます。

この「邪馬臺(國)」とはいったいなに?という疑問がまず湧きます。で前に書かれた文を読むとその地域の自称王達のリーダーが居る場所の説明みたいだとわかります。
でもいきなりリーダーは邪馬臺に居ると言われても倭地を詳しく知らない読み手は戸惑うこと必至、海外の人に安倍総理の実家はヤマグチ県だといきなり知らせるようなもの
しかも前文を読み返せば、【倭在韓東南大海中依山嶋爲居】とかなり大雑把な地勢的な説明
それならこの大倭王の所在地もそれらの説明と大差ない説明だと解釈してもいいでしょう。
つまり、邪馬臺とはその地名ではなく地勢的な位置を示す言葉ということです。

邪馬臺國って日本のどこにあったの?なんて最初からナンセンスな疑問だったのです。邪馬臺は東京とか横浜とかの地名ではなく、山の上とか川の近くとかいった地勢的な位置の説明なんだと
これだけの発見でも相当な進歩ですね。

26 :
ではここで視点を変えて邪馬臺と書かれた文字に注目してみよう
でもここでは編纂者や編纂に携わった人たちによる誤記とか誤植、誤写とかの類いには一切触れません。

多くの史書を見ると「邪馬臺」の臺の部分を嘉や堆、壹やその他入れ替え使われています。
と言うことは、「邪馬○」は編纂者の文章構成上の主旨に則した使われ方をしているとの見方も出来るわけです。
後漢書を編纂した范曄は「邪馬壹」と書かれ先行史料となる陳壽編纂の魏書や魏略、或いは後漢紀や東観漢記を見て編纂しているのだから「邪馬臺」と(臺)文字にはより注目し解析しない訳にはいきません。
ではなぜ陳壽の(壹)を使用せず(臺)文字をしようしたのか?

27 :
簡単に
「臺」という文字にはこういう成り立ちや、意味の使われ方があるようです。

http://okjiten.jp/sp/kanji380.html

前にも>>25で延べたように「邪馬臺」は大雑把な地勢的な位置付けを延べたと言いましたが、それをベースに(臺)文字を使われた意味を探れば、中心となる部分の外側に位置する根幹の部分という解釈が成り立つ事を理解捨てください。
三公=皇帝の最重要側近
台=主となる物を乗せる
文字を形成する門の上の高台。

これらはすべて中央以外な重要な部分を示し、地勢的な意味解釈をすれば「門」「入口」「正面」と言った意味に相当します。
ということは一体どういうことか?

28 :
>>27の訂正

延べた⇒述べた の誤りです。

29 :
地勢的な⇒位置的なに訂正

30 :
ではここでいう倭とはどんな地勢的な位置付けに有るんだろうか、今一度お復習してみよう
後漢書倭伝に【倭在韓東南大海中】と書かれ四方を海に囲まれた島地だということがわかる。そしてここで位置的には韓の東南と位置付けられています。
つまり、韓という地域を基点に倭を眺めれば、
東南のエリアに存在するということ
当然海を挟み離れたしかも地域という面を示すならばエリアという概念を用いての倭在韓東南
の記載。
韓を基点に東西南北と方法を定めれば、そこには自ずと東南、東北、西南、西北といった4つのエリアが発生する(いまでも日本には東北地方や西南諸島が)
現代の地図に照らし合わせても、その正確さには脱帽します。
で、ここに出てくる韓とは
(馬韓)の北に楽浪があり南に倭が位置する地勢に
この場合は地勢を南北だけのエリアで表現してますが、こうすることで
楽浪と韓は南北に配置された地域ということがすぐに理解できる

31 :
漢から後漢にかけて遥か東の楽浪郡の南に韓という地域があり更に海を隔てて東南のエリアには倭という地域がある。
その倭地は島地であり、把握するだけでも百余の国がありその中でも三十国は我が王朝と外交関係が続いている。国にはそれぞれ王と自称す
るものがいてまたそれらを束ねる大倭王(リーダー)が存在する
そのリーダーは「臺」の文字からもわかるように倭地の入口に相当する島地に存在し、それを現在の地理で表現すると現在でも大陸からの玄関口と言われてる九州島に

これは
【建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。】
の中の「極南界」という文言とも一致するわけです。

32 :
後漢書倭伝には「倭國」という語句がでてくるが、この「倭國」とはいったいなに?
これは

倭地の中でも倭奴とは違い中心部にあり願いは叶わなかったものの『倭国王』の称号を
得た帥升等が住む地
ここでの倭國は倭地の全てを総称しての意味ではなく、倭地の中心的な位置にある
現代の地図で表現すれば洛陽から見て九州島の奥にある本州島をいいます。
大陸からの玄関口的な存在の邪馬臺=倭奴(九州島)に対し、その奥にあり倭地の中心的な位置にある
帥升等(倭國王)が在する倭國

33 :
>>32から【倭國之極南界也】を探れば

建武中元二年に奉貢朝賀した『倭奴』とは、倭國すなわち本州の極(現在の下関)の
先にあり本州よりも緯度的に南にあると。つまり倭奴=九州島

34 :
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】度海1000里
津島国(方400里、千戸)
↓渡海1000里
一支国(方300里、三千家)
↓渡海1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】渡海1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国

◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里

35 :
当時東夷に絶対的な力を有した太守公孫氏による共立された女王卑弥呼も
世が魏王朝となり公孫氏が王朝に対し反旗を翻した時、その絶対的な女王の独裁的な権力も
その足下がぐらつき始めた
一方それまで公孫氏の力とそれを利用した独裁的な卑弥呼の家来的な位置に甘んじてた男王達は
これを好機と公孫氏の衰退とは反比例的に勢いづきクーデターの機運さえ漂わせていた
女王卑弥呼も今の地位を維持しようと難升米や牛利等を景初二年六月急きょ帯方郡に派遣した
公孫氏が滅びようとする僅か二か月前の出来事

36 :
太守劉夏は倭女王からの使者を受け入れそれらを洛陽に送り出し、戦わずして倭地を
治める方法を選んだ
司馬懿の公孫征伐片道行軍の100日から考えると使者は九州島から洛陽まで約3ヶ月〜4ヶ月の日数を
用する計算、女王の使者たちが洛陽に到着したのは景初二年の9月〜10月で明帝が病の床につき崩御する実に2ヶ月前という
実に微妙な時期の訪朝となった

37 :
ここまでが建武中元二年の倭奴國奉貢から魏王朝明帝が崩御直前までの
ざっとした流れと当時の外交内政事情

38 :
443 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 10:19:06.14
>>440>>441
周髀算経と魏志倭人伝の関係は日本測量協会でも取り上げられている

中国の古代測量術と邪馬台国
一寸千里法と行程解釈(邪馬台国所在地論)
日本測量協会
http://www.jsurvey.jp/open260129.pdf
中国の天文・測量に関する古代の教科書に周髀算経と九章算術があります.
緯度決定法、緯線間隔距離の計算、海を隔てた島(山)の高さと距離の測量法、などが述べられています.

A緯線間隔1度が 110km(伊能忠敬は1度 28.2 里と計測)であることを間縄の実測で確かめれば、1寸千里法は北緯 35 度付近では有効な方法です.
経度が異なっても、方位が 30、45、60 度などであれば、周髀算経のピタゴラスの定理から、斜め距離が計算できます.

中国の古代測量術と邪馬台国
地図がなかった古代における測量術を復元
日本測量協会
http://www.jsurvey.jp/open-kansai250703.pdf
古代の測量術と邪馬台国
魏志倭人伝の行程記事について、船や徒歩で実際に旅行しても、知ることので
きない目的地の方位をどうやって知ったか、という問題を発端にして、地図が
なかった古代における測量術を復元する.
記事にある距離は航路や道路の距離ではなく、見通せる地標間の直線距離であった(「山当て」による).
このことを根拠に倭人伝の記事を解釈し直した.
@東は N60E(夏至の日の出方向)、1000 里は約 67km である.

39 :
魏志とは後漢人の死ぬ前に書いた落書きである。

40 :
景初二年六月から始まる倭人伝、その時倭からの使者は難升米等と難升米だけが記載されるが、その後に発せられた詔書の中には難升米だけではなく「牛利」が突然のように登場する
これはどうしてか?

41 :
牛利の突然の登場は、当時の時代背景を描く為の貴重なアイテムとして陳壽が特別に登場させた。

景初二年六月に難升米等と書かれているので牛利は当然この中のメンバーの一人で有ったこと
はまちがいない
使者が太守劉夏の案内で洛陽に到着したのが二
年の十月頃、明帝が崩御する二ヶ月ほど前の微
妙な時期
倭からの使者は郡の役人に先ずは曹爽(司馬懿
は戦の為留守)の所へ挨拶、そこで謁見の為の
準備。そこで皇帝の状態と次期皇帝齋王芳の事を知る。
そこで慌てた難升米は牛利を倭に帰還させた。これは齋王芳が明帝の次の皇帝になった時の為
の新皇帝へのお祝い謁見の使者を要請するため
だ。倭女王は公孫氏の危機に乗じた男王達のク
ーデターをおさえることと、魏の世でも女王と
して権力を維持し存続に必死だったから
牛利は急いで帰国した。洛陽から倭の往復は早くて半年〜八ヶ月、牛利が洛陽へ戻ったのが明帝が崩御した後の景初三年の夏頃、早速難升米や牛利は曹爽の取り次ぎにより新皇帝となる齋王芳に謁見し無事役目を果たし、後日皇帝より詔書を下された。

42 :
他の史書の倭伝や日本書紀にコピペされた史書には「景初三年」と書かれているが
それは魏王朝の新(次期)皇帝に謁見し、先ず任を遂行できた時の年号
景初二年は使者が帯方郡を訪れた時


次からは少し魏志倭人伝に書かれている行程記事をざっくりと弄ってみます。

43 :
この行程記事はそれほど難解な記事ではではない(なぜ皆ここで躓いているのか意味わからん?)のでザックリと

では先ずは最初に倭人の住んでるエリアの紹介。
【倭人在帶方東南大海之中】と
この時期東夷は帯方郡が機能し太守が統治管轄していたので、基点が帯方郡に
『大海之中』とは四方を海に囲まれた島地という意味
『東南』とは帯方郡を基点に方位を決めると自ずと発生する四つのエリアの一つ。南と東の間にある東南のエリア、郡を基点に東南のエリアに位置する海に囲まれた島地に倭人はすんでいるということ。
普通なら范曄の編纂した後漢書のように「倭在」で十分なんだけど、陳壽はこの伝を人物主体に描きたかったための『倭人在』

44 :
【循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里】

『循海岸水行』⇒循海岸とは海岸に沿って。海岸に沿う(平行する)という表現には二通りあり、海岸に沿う陸域と海岸に沿う水域があり、この場合は「水行」と書いてあるので
(海岸を沿うように水域を進む)

『歴韓国』⇒先に書かれた韓伝で定義された三種の住む地域を歴する(経る)


※韓国の海岸に沿うように水域を経て

45 :
【乍南乍東】

『乍』=ながら

この場合の「南や東」は、水域を移動する舟の向きや移動方向
「南」とは、進むべき方向や目的ではなく、水域に浮かぶ舟の船首の向き。何も目印のない水域で唯一頼れるのは舟の船首と方位磁石

韓国の海岸を沿い進みやがて韓の地ともお別れいよいよ大海に、大海で頼れるものは舟と方位磁石だけ
舟の船首を南に向けて進むと東へ移動する。つまり大海ではつねに潮流が西から東へ流れているということ。
それが『乍南乍東』の解釈てす。

46 :
【到其北岸狗邪韓國七千餘里】

『到』=到着で、着する為の過程とか行程
『其北』=到(行程)した結果の地点の北

つまり、循海岸水行歴韓国乍南乍東をした結果たどり着いた大海中のポイント
そのポイントに着いた舟から北を見る、するとそれまで韓国を経ているときに左手(東)側に見えてた岸は大海にで乍南乍東しているうちに岸が北側に見えるようになっていた。どうやらその岸は狗邪韓国のようだ。
で、北側に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントまでの行程は実に七千余里の距離だ

47 :
さて、郡から韓に沿っての水行7000余里も北に狗邪韓国の岸が見える大海のポイントで韓域ともいよいよお別れ、大海の中の倭の領域に入ります。

【始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴】

『始度一海』⇒「始」終わりを想定した最初で、これから三度「一海」を「度」繰り返す
つまり、千余里という海域渡海を三度(たび)繰り返す最初の千里。
後の「又南」という語句によって、この渡海が船首を南に向けて潮流に乗った渡海で有ることがわかる。

船首を南に向け潮流に乗り千里すすむと對島国に至る

48 :
何度も言いますが、ここで出てくる方位は目的地の方角を示すものではなく、方位磁石が指し示す方向。

49 :
大海の中では舟が方位磁石そのもの、船首が南を向けば船尾は北、船首を見て右手は東で左手は西
レーダーもGPSもない当時の航海は、舟で南と言えば船首の向きが南、進む方向とはまた意味が違います。

【又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國】

『始度一海』
『又南渡一海』
『又渡一海』

最初に「始」と書くことで後の二回の一海の文章に効果し、「度=たび」と書くことで二度目に書かれた「南」の文字が最初に南と書かなくても(南)は生きるわけです。そして三度目の「又」で、ここでも船首を南に向ける千里の渡海が行われたことがわかります。
編纂者として文字数をできる限り減らす工夫であり業ですね。

これで對島(対馬)、一支(壱岐)、末盧(九州島)

いよいよ九州島です。

50 :
一万里という長い船旅も終えいよいよ九州島に上陸なんですが、実は倭地への行程記事はここで99%目的は達成しました。この末盧国がある九州島こそ後漢書でいう大倭王の居する倭地の玄関に相当する邪馬臺(九州島)何です。

ここから暫く書き連ねられる伊都、奴、不彌、投馬・・・・etcは九州島内の状況説明で、これ迄の行程記事とは多少意味合いが異なります。

51 :
今のところ特に問題はないな

52 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

53 :
 「水行」とは、水面上を移動することであって、潜在的可能性としては川でも海でも湖でも良い。
ただし時代によっては慣習的制限がなかったとは言えない。

 古代中国文明は黄河中流域に発祥し、西晋時代までその中心は海から離れていた。海のことは長
く中国人の親しむところではなかった。かつては川を呼ぶのに河水・漢水・淮水などと「水」を
接尾したように、地形について「水」と言えばまずは川を指した。だから普通に「水行」とだけ
言えばそれは川を下るか上るかすることを示したはずだ。海について「水行」を使った陳寿の頃
までの例としては、《魏志・東夷伝》の

從郡至倭,循海岸水行,歷韓國
 と、裴松之が引用した《魏略》の、

澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到

 というのがあるが、どちらも海であることが明らかに分かる文脈に置いている。読者が「水行」
から川を想起することを避けようと注意したことが窺われる。単に「水行」とあれば川のことだと
思うのが普通だったとすれば、邪馬台国までの「水行」は川船に乗ったことを言っている蓋然性
が十分に高い。末廬国から邪馬台国までは地続きだということになる。

http://kodakana.hatenablog.jp/entry/2015/10/22/001623

54 :
倭人の住む地域は島地でしかも【依山島爲國邑】と書かれた環境
もしこれが行程記事として続くのであれば九州島(邪馬臺)での移動も下船することなく
舟で沿岸を移動したほうが安全だし楽だし便利。
それなのに末盧國からは

【又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒
水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國】

引き続き舟による循海岸水行ではなく陸地を意識させる『陸行』と
しかも移動するであろう道は『草木茂盛行不見』とかなりの悪路
つまりここの『東南陸行五百里到伊都國』の記事は陸路で伊都國までの行程記事ではなく
先ずは最初に辿り着いた九州島の末盧國の地勢。

『東南陸行五百里』→これは東南方向に五百里陸を歩行するのではなく、ここも最初に書かれた【倭人在帯方東南】の『東南』と同じ
解釈の仕方で、舟で辿り着いた末盧國の港を基点に南と東の方位を定めた時に発生する
エリアという概念
つまり末盧國のエリアは南へ五百里、東へ五百里の間に発生する東南のエリア、これが末盧國域
そしてその先に【郡使往來常所駐】する伊都國が末盧國とは地続きであるということ

『到伊都國』の「到」は、先にも述べたように『(到)其北岸狗邪韓國』の時と解釈は同じ

始度一海から始まる三度の千余里の渡海(三千里)と末盧國五百里エリアまでの過程の結果

55 :
>>50でも書いたように行程記事としては末盧國の港に到着した時点で99%で、残り1%が末盧國のエリア紹介
末盧國の陸域を書くことで取り敢えずの目的となる伊都國が自ずと末盧國の隣の陸続きになることがわかる。
伊都国なんて九州島にあって陸路であろうが海路で有ろうが行ける場所、それを敢えて『陸行』と記載することで単なる行程記事に味付けした編纂者の仕事

56 :
行程記事は九州島は末盧國に至り完結、この後は地続きとなる九州島内の各エリア紹介

末盧國の上陸地を基点に五百里の東南エリアの外側に伊都國。先にも述べたように九州島は沿岸航行できる島地、末盧國で東南エリアを示したことにより伊都國は自ずと末盧國から五百里離れた東方に位置するエリアだとわかる。

【東南至奴國百里】
やはりここでも末盧國と同じ東南エリア
伊都国がどのくらいの面積かは記されていないが、伊都国とは地続きの東隣に百里程度の奴國があると。
ここまで末盧國は基点から東南にエリアを設定しその他東隣に伊都國を指定、伊都國からまた東南のエリアに奴國を設定と、ここまでは常に北は大海を意識しての西から「末盧國→伊都國→奴國」の並びを紹介。

57 :
ここでちょっと寄り道。

ここでちょっと末盧國と奴國の人口密度に注目してみよう!

末盧國⇒面積は基点となる港から南に五百里、東に五百里のエリア、そこに四千余戸

奴國⇒面積は基点から南に百里、東に百里のエリア、そこに二万余戸

この人口密度の差はシンガポールとオーストラリア程の差が。この比較からも末盧國は面積ばかり広く人はまばら、後は記事にも有るようにブッシュ地帯
一方奴國は狭い土地に人が大勢暮らすまさに古代の大都市、暮らしの中心的な地域

こんなことがわかります。

58 :
そしてもう一つ。
地理記事をざっと眺めただけでもここに記載されてる方位は一度だけ「以北」があるだけで後は「南と東」だけ
「西」という方位は一度も記載がありません。

つまりどういうことかと言うと
最初に九州島に上陸した末盧國は九州島の中でも西側の地域だということ。それ以外の地域は全て末盧國よりも東側に有ることがわかります。

韓の領域から離れ倭人の領域に入ってから船首を南に向け西からの潮に流されながら千里の渡海を三度、そして九州島の末盧國に。
その末盧國は九州島のなかでは最も西側に位置するエリアだった。末盧國はブッシュが生い茂りまともな道も皆無な人も疎らな質素な土地。
末盧國の東隣には末盧國と同じく北側に海が広がる伊都國があり、大陸から来た者はこの伊都國までがビザなし入国可能な地域
そして更に伊都国の東隣には九州島内で一番の賑わいを持つ、現在でいう博多のような地域奴國が有る。しかしここには行政的な匂いを一切記載していない。政治的や行政的な匂いはどちらかと言うと伊都国がその匂いを強烈に放っており
伊都國と奴國は伊都に行政、奴に商業と色分けされた地域作りに
きゅうしゅう

59 :
【東南陸行五百里到伊都國】
【東南至奴國百里】
【東行至不彌國百里】

この三つの文章をならべるとわかるように奴國の紹介記事だけ「行」の文字がありません。
これは先ほど述べたように伊都國と奴國は役割の異なる同一地域だということ
伊都國と奴國の間に入国審査や通関を設けての
地域だから「行」を書かないことで機能の違いを記したやはり編纂者の業。

そしてもう一つ興味深い記述が、この不彌國の記述。ここは末盧國や奴國とは違って「東南」ではなく「東行」と、エリアを四分割ではなく東西だけで区分してきたこと。これまでは北に大海を意識した東南エリアとしての記載がここで急に海を意識しない東西区分に。
これは島地に於いての地勢の変化と考えられるでしょう。

60 :
ここまでの記述でこの九州島は西からの末盧國、伊都國、奴國、不彌國と地域が存在していることがわかる。そして先の三国の北には島地らしく海が広がる。
しかし不彌國の北に海は広がらず不彌國以外の地域が陸続きであることを示唆している。
これが地形の変化を文章で示す編纂者の業の一つ。

61 :
最初の上陸地点となった末盧國は九州島の西側に位置し、北と西側は海(南はこの時点でまだわからない)。伊都國や奴國の東西は陸続きで北は海(南はやはりこの時点ではわからない)
。不彌國は西側と北側は地続きで、東側と南側はこの時点ではまだ不明という設定を基に

【南至投馬國水行二十日】

どうやらこの九州島は南側にも地が続いているようで、そこには投馬國という戸数も五万という住宅地が有るようだ。
その地はこの九州島を水行すること二十日のところに有るようだ。

ここでいう『水行』とは先にも歴韓国のところで使われた循海岸のこと、九州島の海岸に沿ってのの航行、間違っても九州島内の川を上ったり下ったりのトンデモはやめてね!
しかし西も北にも陸続きの不彌には海もなければ当然港もない。ではこの水行二十日の起点となる港はどこ?
それは入国審査や通関と言った行政期間のある
伊都國の港がこの水行二十日の起点となることが容易にわかる。で、その伊都の港を出た舟はいったいどの方向へ?西か?東か?
その舟は当然のように海岸に沿って西(末盧國方面)に進みます。
既に末盧國は北も西も海で有ることがわかっているのでわかっているのでそれらの方向に
末盧國の北側から西側の海岸に沿った舟はやがて東へと進路を変え、不彌國や奴國ので『南至』に相当する位置まで東に入り込みます。
つまり、伊都国の港を発した舟は末盧國の北側、西側、南側と通り【⊂】このようなコースを経て『不彌國の南至』に相当する投馬國へ

これで不彌國の北も南も陸続きで、南にには投げ馬國が有ることがこれでわかります。

62 :
>陸行1月についてまとめ

>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日

>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日

63 :
これが往来する郡使達の旅日記なら不彌國から
南の投馬國へはわざわざ伊都国迄戻っての航行なんて間違ってもしない
不彌國から投馬國までは陸続きの隣国なんだから当然の陸行。
それを敢えて水行として記載したのは、これが旅日記ではなく倭地九州島の地勢を記録した地理誌だという一つの証明で、ここに記載されている日数も全てが換算できる距離だということです。
九州島を循海岸水行することで、その地域の地勢の変化をより詳しく表現することができるか
らです。
水行なのは舟でしか行けない場所だからではなく表現の工夫、舟でしか行けない場所なら先にも書かれた『渡海』という表現になります。
倭地が大海の中にある島地だからこそ水行(循海岸)という表現は利用するのに大変便利なんです。

64 :
ここで認識の再確認
島地の最大の特徴は、周囲を全て水域で囲まれ循海岸することで、それが水行であれ陸行であれ一周し元の位置に戻るのが島地。
単純なことなんだけど意外と無視されてるのが現状。

65 :
さて投馬國の九州島での地理的な位置もわかり
いよいよ皆が一番興味を示す文章が、しかしその前に、
伊都國の海に面した港を起点とし投馬國を終点とした循海岸によ水行二十日は九州島を半時計回りに西側を行く航行。
それを前提に

【南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月女王之所都】

これもそれほどムズイところではなくこれまでのことを十分把握さえしていれば簡単にわかります。
『南至』⇒つまり投馬國の更に南も陸続きな九州島、そこにはこの九州島を治める女王の住んでる都があるという記事
投馬國から九州島の西側を循海岸で水行十日の距離。ここで水行から陸行への突然のオペレーションの変更、これは一体何を意味するのか?

そう、これが島地を巡る特徴の一つでもある折り返しの妙味。南へ下っものは周回で必ず北へ上る行為に変化する折り返し、九州島が島地である以上これを避けて表現することは出来ません。
つまりこの水行から陸行の変化こそがこの九州島周回の折り返しポイントなのです。

伊都国から水行二十日で投馬國、更に南へ水行十日。ここまでの水行三十日が伊都国を起点に九州島の西側を半時計回りに循海岸した距離、伊都国を九州島の北とするとこの水行三十日を経たところが九州島の南端、ここからは九州島の東側を循海岸し一月ほど北上します。
これが水行から突如陸行と変化した理由です。
島を折り返すことで方向が真逆になることを、この
「水行と陸行」によって表現したまでです。実際に何でなんて関係ありません。

水行きしようが陸行しようが、一日の移動距離は同じ。

水行一日=陸行一日です。

66 :
この倭人のそしてこれらを統括する女王の都のある九州島は、伊都国の港から半時計回りで海岸に沿って三十日(一月)水行し、伊都の真逆にある南端の折り返しまでの距離と
その折り返しから今度は九州島の東側の海岸を陸行すること同じ距離で女王の都する所に
つまりこの女王の都する所は、九州島の東側にあるという証明に。
そしてこの投馬國の南のエリアもまた邪馬壹ということ。

で、女王の住む都とはいったいどの辺?

結論から先に言えば緯度的に不彌國の東側。
女王の居る所の反対側(西側)に有るから「不
彌國」
要するに、この九州島は一番西に末盧國、その東に(伊都國&奴國)そしてその東に不彌國、更にその東に女王国(女王の都)そして東側に海。という東西のライン。
そのラインの南は、西側に投馬國、東側にに女王國。更にその投馬國(狗奴國)や女王國(狗奴國)の南には『狗奴國』が狗奴國もまた邪馬壹國の一部。

なぜここで狗奴國が登場するかは後程説明。ここではあくまでも便宜上必要なために。

67 :
ということで>>66を前提に

【自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳】

『自女王國以北』とは、
女王國の中にあって女王の居する都を基点にその北側。
つまり、緯度的に不彌國と女王の住む都を結ぶ東西ラインの北側で、>>60の不彌國の北側にも
陸続きの地域があるといったその地。

『其戸數道里可得略載』→その以北の地は道里など直ぐにわかるので其部分は敢えて掲載しないで略すと

『其餘旁國遠絶不可得詳』→この部分は今扱わなくてもそれほど影響ないので後日

68 :
その戸数や道里等を記載しないでも理解できるとする、九州島の中にあって緯度的に
不彌國→女王の居する都ライン以北の地には

【次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國
次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國
次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國】

と、最後の奴國を除き二十國の諸国が列記されている。
この最後に『奴國』を記載することで、伊都国の港を基点に反時計回りに九州島をぐるりと一周した
ことが示される。

【此女王境界所盡】
そしてここに記載された(不彌國→女王の居する都)ラインの以北にある諸国二十国は
女王の支配するところであって、この九州島の一番北に位置する地域ということ

69 :
この【此女王境界所盡】の『境界』は【其餘旁國遠絶不可得詳】この一文に掛り

女王の影響が尽きる(隔てるものは海)九州島の北の先には、魏王朝と国交していない
旁國(傍ら)があるが直接的な付き合いがないのでこの地域に関しては詳細は不明。


【其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里】

『其南』とは
末盧國から東へ(伊都國・奴國)、そして不彌國、女王の住む都を結ぶ東西ラインの南側という意味
つまり、これまでに紹介してきた
「投馬國」「女王の都以南の女王国」さらにその南の「邪馬壹エリア」と記載された最南端の国

それらの地域は狗奴國だと。

【自郡至女王國萬二千餘里】とは

郡港から末盧國の港までが⇒ 一万余里
末盧国の基点となる港から東エリア⇒ 五百里(到伊都國)

(一万二千里)−(一万五百里)=(千五百里)

この千五百里が女王都〜奴國(諸国二十国が納まる)の距離

70 :
 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。

 倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。

読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg

71 :
【正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國】

新皇帝の名のもとに郡から正式に使者が送られてきた。返礼もさることながら目的は冊封する
倭地の調査。
それまでは後漢時の記録だけで知るだけで、魏王朝となってからは初の現地訪問。改めて後漢時の記録の再調査をすることに

その時の調査で様々な事がわかり
地勢として九州島の規模は、周囲(水行・陸行)で2ヶ月と千五百里。その島の中には對島と一支を除き二十七に分かれる地域の存在を確認

72 :
二十七の地域といってもこれは編纂者として編纂する上での陳壽の創り出した便宜的な世界。
しかしここでそれを述べても先に進まないので、そのことにはあまり触れないようにしよう。

そして>>69で「投馬國」「女王國」「最南端の邪馬壹エリア」に「狗奴國」をダブらせてみたが、これは地勢ではなく政治的な意味合いでの色分け、このダブりこそがこの地域の内政の根幹。とても大事なことなんです。
後に語るであろう、女王卑彌呼と男王卑彌弓呼
との確執とそれに絡む各王達の苦悩。そして宗主国魏王朝への義。
陳壽が『邪馬壹や狗奴國』と書いたのを知りながら
范曄はそれを『邪馬臺や拘奴國』とした謎

倭人伝はますます面白味を広げます。

73 :
では地理誌を続けます

【女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。】

『女王國』⇒位置的に九州島の東側にある地域で、現在の地名で大分県から宮崎県

74 :
『女王國東渡海千餘里』⇒地理的に現在の豊後水道を渡り四国へ

『復有國』⇒「復」と書いてあるので、四国へわたっても政治的に女王國と同じような地域だと。つまり、九州島と四国は同じ政治的環境のエリアだと(冊封三十国の内)

『又有』⇒四国の他に女王國と同じ政治的環境の地域が有る

『又有侏儒國在其南』⇒その女王國と同じ政治的環境の地域とは「侏儒國」といい、その侏儒國の南には四国が

75 :
【去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。】

ここで『去女王四千餘里』と締めているので、女王國と政治的に同じ(魏王朝冊封三十国)は
、四国と侏儒國まで。


『又有裸國黒齒國復在東南』

『又有』⇒この視点は侏儒國、侏儒國から見て。又有とは倭種の住む地域
『東南』⇒侏儒國を基点に東南のエリア

侏儒國(淡路島)を基点に東南のエリアにはやはり倭種の住む裸國や黒齒國がある。

76 :
【又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。】

侏儒國を基点にその東南のエリアには、四国と同じく倭種が住んでいたが、彼らは女王の支配するエリアとは異なる政治体形だった。
その先は船で一年を要し参問(探索)、遂に後漢時には探索できなかった倭地の極み『周旋』に、その地は現在でいう北海道。後漢時には探索できなかったこの地を魏時になって新たに訪れることが出来た。その規模「可五千餘里(」

77 :
新たに探索した北海道の規模は『可五千餘里』

『可』⇒この文字の意味は見ての通りで、四角の二辺に曲尺をあてる。つまり、面積の測量(範囲の把握)

北海道という新たな地域の範囲を把握すると、半分で五千餘里の数値を得る。
その突端はこれまでに把握してきた倭地(日本列島)のちょうど折り返し地点でもある。だから『周旋』

78 :
>>74に誤りが有ったので訂正します。

【又有侏儒國在其南】

『又有』とは、女王國東と皆倭種にかかる
つまり、女王國の東側には「復」とする地域と「復」としない地域が有る
そして侏儒國はその「復」としない地域の南にあった。

79 :
陳壽は【倭人在帯方東南】
陳壽の作品見ている范曄は【倭在韓東南】と書いた。
なぜ范曄は後漢時に存在した「楽浪」ではなく帯方よりも更に南を基点としたのだろうか?


その答えが、後漢時代には探索の出来ずに魏の時代になって更に北の「周旋可五千餘里」に相当する北海道の追加記事。
范曄は東南のエリアを示す基点を帯方郡よりも南へ下げることで後漢時代までの把握範囲を示したわけです。

後漢王朝は倭地域の把握は本州最北端までだが、魏の時代になって更にその範囲は北に広がり北海道もその範囲に

80 :
それまで邪馬臺組の舎弟頭だった卑弥弓呼は、本部のどさくさで動揺している卑弥呼親分を引退させ
邪馬臺組の組長になるクーデターを計画していた。それを察した組長卑弥呼は至急子分を本部へと走らせ本部の力を借りてこの危機を乗り越
えようとした。
子分が本部へと着くと本部の組長は明日をも知れぬ病に倒れ、代がかわろうとしていた。
やがて先代が亡くなり新しい組長が誕生し邪馬臺組の組長は使いの難升米や牛利共々、本部の新しい代になった芳親分から盃を受けることができた。

81 :
正始元年、本部の親分としてデビューした芳皇帝は倭に子分の太守弓遵を倭に派遣し
邪馬臺組の親分(姐)からの就任祝いの義理を新会員の内部調査を兼ねて果たした。
邪馬臺ではその義理掛けに対し親分(姐)ではなく舎弟頭がその対応にあたり、その時舎弟頭は
本部の使者になにがしかの書付を託した。
舎弟頭(男王卑弥弓呼)は正始四年に元年の返礼として魏本部に卑弥弓呼子分の伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣した
本部では組長ではなく舎弟頭からの返礼に疑問を持ち、改めてその使者たちに舎弟頭ではなく親分に忠誠することを
命じた。
掖邪狗等七人は本部からの命令に従うことを約束したが、伊聲耆はそれに了承せずそこで殺された
忠誠を了承した掖邪狗等七人は本部から役職をもらい帰還した。

82 :
【其六年、詔賜倭難升米黄幢】
正始四年の様子で倭地の現状を察した魏本部では難升米を呼び出し本部の代紋を授け倭地での安定化を命じた。


【其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和】

正始八年には本部の人事移動によって東夷統括部長に王キが就任した。王キは早速代紋を授けた邪馬臺組の現状を把握するために子分を現地に派遣した。
子分からの報告によると、邪馬臺組は現組長卑弥呼とその舎弟頭の卑弥弓呼が組を二分するよ
うな体制で、この両者の対立は今始まったわけじゃなく古くから対立関係にあった。

83 :
【遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之】

本部から授かった代紋の効果もむなしく邪馬臺組の派閥争いは益々ひどくなり、遂に邪馬臺組から若衆の二人が郡に
事態の深刻さを察した郡ではいよいよ本格的に本部から塞曹掾史張政を、張政は邪馬臺に赴き
難升米に上意を示しこの混乱を鎮めた。

【卑彌呼以死】

当然この混乱の責めは組長の卑弥呼に及び、卑弥呼とその若衆頭でもある難升米は張政からの沙汰を受けた。
卑弥呼と難升米は切腹。その他多くの子分達にも死罪が申し渡された。

84 :
【更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人】

邪馬臺組の卑弥呼組長が切腹し事は取り敢えず落ち着き、改めて組長として舎弟頭の卑弥弓呼を跡目として邪馬臺組を任せた。
しかし卑弥弓呼では組は纏まらずシマ内は乱れたので張政は本家から若干十三歳の人(壹與)を招き卑弥呼一家の跡目とし、邪馬臺組を卑弥弓呼の跡目として任せお家騒動はなんとか収まった

85 :
【壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。】

新しく邪馬臺組の組長となった壹與は役目を終え帰還する張政と共に難升米の後任に若衆頭になった掖邪狗等二十人等を洛陽の本部へ送り出した。
張政はそれらの使者を臺(時期
晋朝の祖となる司馬懿の所)へ連れ
目通りさせた。

86 :
 中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都いと国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、
国内最古級の硯すずりの破片(弥生時代中期後半〜後期=紀元前1世紀〜紀元後2世紀)が出土
した。朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡らくろうぐんから日本に渡来した使節が、筆で
文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要
な手がかりとなる。

 倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答
する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人
伝の記述を裏付けるものと評価している。

読売新聞 2016年03月02日
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160302-OYS1T50000.html
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50000-L.jpg
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160302/20160302-OYS1I50001-L.jpg

87 :
>>74
倭は東南の大海にあるから邪馬台国が南なら倭種は東にしただけだろう。じゃないと倭は東南に位置しなくなる。倭人伝の位置の記述は初めて海を渡って対馬から始まり、黒歯国が一番遠い。全て東南に沿って。

88 :
>>87
倭=日本列島(後漢書でいう倭は北海道を除く)
列島から最北の北海道を除くから
東南の基点が陳壽の帯方郡からその南に位置する韓に。
そしてここは南東じゃなく東南なのがミソだし編纂者の技ありなのよ。

邪馬台国は倭地の中にあって、その倭地の地理的に中央ではない玄関口に相当する一地域
だから邪馬(臺)

89 :
そして「臺」続きてもうひとつ

壹與が張政とともに遣使二十人を派遣し皇帝(朝廷)ではなく臺に詣でた「臺」、これも同じ玄関口という意味
皇帝(朝廷)の玄関口である三皇に先ずは目通

臺に詣でるなんてこの文章内では新しいパターン

90 :
伊都国、奴国は東南じゃない。陳寿の地理感覚はたかが知れてる。

91 :
>>90
貴殿の認識不足なだけ

確かに東南じゃなく南東と陳壽が語っているなら地理感覚を責めることもありだが
陳壽が語っているのは方位ではなくエリア。

92 :
女王国の東、海を渡って〜倭種ありとあるが、南に狗奴国があるから東にしただけだよ。南がダメなら東って事で。

93 :
もし末盧国の港から南東の方角に五百里進んだところに伊都国が有るのなら

東南陸行五百里到伊都國じゃなく

南東陸行五百里到伊都國。
これなら万人が認める伊都国南東物語だよ

東南陸行五百里は、末盧国の港を基点に東南に陸続きで広がるエリアでその範囲は五百里。
そのエリア先に伊都国のエリアが
伊都国は末盧国と同じように九州島の島内でしかも末盧国の隣国、末盧国同様北に海がある地。
つまり、伊都国は末盧国の東隣。

94 :
末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。四千戸ならこのあたりじゃないとダメだな。ここから伊都国に歩きなら北東になる。魏使の報告書は適当。

95 :
>>92
意味わからん
もう一度原文読んでミソ

女王国、現在の大分から宮崎。そこから東へ千里渡海すると現在で言うと四国があってその四国は倭種の住む地域
後漢時代には不属女王な地域だったが、魏時になると「復」と有るように、倭種では有るけど女王国と同じ政治状況に

96 :
>>94
>末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。

対馬海流に流されて、末盧国=呼子・松浦川は有り得ない。

97 :
>>95
裸国 黒歯国も復だよ。船で一年かかるけど、ここも女王国と同じ政治状況なの?

98 :
>>94
思う必要もないし想像する必要もない、ましてや末盧国の中心部なんて探る必要もない。
末盧国に必要なのは最初に上陸した基点となる
港だけ。
伊都国は末盧国の東隣。北東でも南東でもない
北に海を持つ末盧国の東隣の地域。

99 :
>>96
往路は流されることはあり得る。しかし復路もあるからね。壱岐から呼子までの間にも島がある。壱岐の南端西側から呼子に向けて出航するとたぶん大丈夫。

100 :
>>97
その「復」は先の「復」とは掛かる文が違うだろ


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