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♪邪馬台国ドンと来い!♪131


1 :2016/03/23 〜 最終レス :2017/04/27
           ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪130 [転載禁止]©2ch.sc・
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1437519074/

2 :
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身

耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に

4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる

自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか

3 :
いつ頃から大仙陵古墳なんて言い始めたんだ?

4 :
畿内説には説明できない弱点が多いのですが、
その中でも以下の3点は決定的です。

・邪馬台国のライバル国である南の狗奴国の説明
・東の海を渡った所にさらに倭種の国
・邪馬台国に属する国は30ヶ国

畿内説邪馬台国は畿内から九州までを含む全域を支配しているのに、
そのような大国に対抗できるライバル国が存在するのでしょうか。
また、東の海を渡るとはどこの海を指しているのでしょうか。
さらに、伊都国、奴国、不弥国と現代の市町村レベルサイズで
既に5-6ヶ国の記載があるのに、西日本全体で30ヶ国を想定するのは無理です。

それが九州説であれば、狗奴国は熊本の事、
東の海を渡るとは当然、豊後水道でさらに倭種の国は四国、中国。
邪馬台国が福岡県サイズとすれば、30ヶ国の数は適正。(現代の自治体数)
全てが違和感なくすっきり説明できます。

何より、当時の中国人・日本人が東も南も分からない愚か者の集まり
とするならば、そのような質の低い当時の日本人が、すでに3世紀に
西日本全域を支配している国家を形成していたと信じる方が支離滅裂なことだと思います。

5 :
>>4
伊都常駐というだけのことです(笑)

6 :
まさか512kb超えするとわ(笑)。サッサと前スレ986の続き。

Googleマップなどで地形表示すると北京の北は山が壁のように連なってる。その山あいにいたのが山戎。
あくまで私論だが、彼らは山の北からも南からも圧迫されている。元々彼らが何処にいたかだが〜。
斉の辺りにいた連中が北京にいた連中を追い出していったのが燕だろうと思う。そして、反撃に慌てて斉に援軍を求めた。
それぐらいの規模と考えなければ、地形を無視して大遠征をさせ、琵琶型銅剣の連中を半島にまで追い出す無茶苦茶を想定することになる。
これはもう絶対にない。山あいを抜けた北を制するには遼東半島側から回り込まねばならんから(笑)

つまり。この前7世紀の伝説は案外正確で、華夏の婿を得た連中が加勢を頼み、北京(燕の都の薊)とそれを保持し得る安全領域までを得る。
要は。北は敵を山あいに押し込み更に築いた砦の外に追いやる。東は遼西回廊の入口にあたる左右が狭く砦を築きやすい孤竹國(秦皇島市)を手中にし城門とする。
すると商人たちはこの門の外で商売をするようになる。琵琶型銅剣の連中との合流点は地形的に遼東半島の付け根、遼西回廊の先の大凌河河口あたり。
伸びた国境の分、経済圏も広がる。そして経済が文化を仲介する。琵琶型が華夏に従うのは前300年頃ではないかと思う。

7 :
山海經、海內北經23・24
蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。
朝鮮在列陽東,海北山南。列陽屬燕。

燕の極東は列陽。
その東に海と山に挟まれて朝鮮がある。
私論だと列陽は秦皇島市から東の何れかの川の北側の地。朝鮮は水の北側で山の南に当たる正しく陽の地。葫芦島市から大凌河あたり。

蓋國は実際に行ったことのない土地だが、斉国のある山東半島に船で流れ着くことができる土地。朝鮮半島では行き過ぎなので遼東半島だと思う。

燕の極東すら曖昧なのに燕の外縁國を含めた鉅燕が詳細な訳がない。当然この「倭」はこれまで通り倭國でなく倭人である。
倭人の居場所は曖昧だが鉅燕の南の蓋國より南に住んでいる。それでいて彼らは燕の土地まで移動して来て交易をすることがある。故に燕に属しているとなる。

8 :
それからそれから

9 :
>>http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1437519074/986
ここののリンク先のみてね
https://plus.google.com/105700467872108159773/posts/74kzxmdBjhp

10 :
>>4
妄想してないで倭人伝と基本文献読んでから書き込んだほうがいい

11 :
477 名前:日本@名無史さん [sage] :2016/03/28(月) 23:34:32.77

卑弥呼の墓が前方後円墳ということはない。絶対にない。
まず、その墓は径100余歩とされており、円墳と考えられること、
次に、倭国の墓は棺はあっても、槨はないとされていること。
郭のない前方後円墳はあるだろうか。卑弥呼の墓は粗末なものなのである。
張政は卑弥呼の死後までおり、その後に書かれた魏志倭人伝には卑弥呼の墓の記述もあるが、
倭の墓には槨がないと述べており、卑弥呼の墓だけ特別とは考えられない。

>朱丹塗其身體如中國用粉也
顔に赤い粉を塗っていること。文脈から、これは男女を問わない。
顔が赤い者は畿内では猿扱い、すなわち非人とされているが(埴輪)、宮崎県、鹿児島県では違った。

徳島県の犬山天神古墳からは、顔の赤い女酋長が見つかっている。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の東の海の向こう、すなわち四国には倭種がいた。
同じような種族であり、それはやはり顔が赤く、墓には槨がなかった。

なお、犬山天神山古墳も、油津、串間市西方同様、海に突き出る土地だったことも見逃せない。
(埋め立て前の地図による)

隼人の墓は、目ぼしい円墳、特に台与がいた油津周辺の円墳が暴かれたため、邪馬台国の有力者たち
が止むを得ず掘ったものなのである。
その時代においても、顔に朱を塗る習慣は残っていた。

地下式横穴墓が多く出る地域に★を振った。
(西都原は無視して結構。油津と串間市は台与、卑弥呼の居処として★を振った。)
http://i.imgur.com/XXMRo4Q.jpg
また、東西南北は夏至の日の出を基準としているという有力な説があるとのことで、
この地図は、それに合わせてやや傾けてある。

地下式横穴墓が、邪馬台国の軍団のいた地域であり、明らかに都城付近を中心に、熊本を攻め、
油津から串間の海岸を守る配置になっている。

12 :
>>11
>顔に赤い粉を塗っていること。文脈から、これは男女を問わない。
>徳島県の犬山天神古墳からは、顔の赤い女酋長が見つかっている。

倭人伝2
倭地溫暖,冬夏食生菜,皆徒跣。有屋室,父母兄弟卧息異處,以朱丹塗其身體,如中國用粉也。
倭地は溫暖で、冬夏も生菜を食し,皆はだしで歩く。屋室が有り,父母兄弟は異なる所で卧息し,朱丹を以ってその身体を塗ること中國でおしろい(白粉)を用いるが如し。

【コレは良い論だと思うですよ】
原文には顔ではなく身体とありますが、一般的なおしろいの塗り方から言えば顔と採っても構わない。

また、これの前の文脈には男子、婦人など男女の別を分けた箇所がある。だから男女の別がない朱丹のくだりは「皆」が略されているように見える。
しかし、実際にはこれらは各々違う報告書からの引用であり、編纂者自身はこの朱丹の主が女性か皆か、その違いがわからないままに原文のまま残した筈である。
なぜなら上の文の要旨を略して書くと↓
「(中国と違って)倭地は温暖、(中国と違って)皆はだし。」
「(中国同様に)屋室が有り、(中国同様に)おしろいのように朱丹を塗る。」
つまり、文を見ると朱丹はむしろ「(中国同様に)女性だけが塗っている」と採る方が良い。しかし、もし編纂者がそう確信しているならば、
「(中国同様に)屋室が有り、【婦人は】(中国同様に)おしろいのように朱丹を塗る。」と婦人を加えて文を整え文意を補う筈である。
だが結果としてどちらにも取れるようになっているのは編纂者が筆者の違う複数の報告書の文意を読み切れず改ざんを恐れて原文のまま残した跡に相違ないとなるからだ。

これらから男女を問わないとしながら最終的に顔の赤い女酋長を主題にして、どちらにも対応させるこの論の流れは実に素晴らしいとか思う。

次なる論議は多分、死に際して顔を赤く塗る意味の有無となる。
それはつまり、神と一体となる役目を終えた後、かつての姫御子はどのような姿で埋められるのか?という問題である。

13 :
>>9

んと。>>7のこれ↓は悩みつつ書いてますが〜↓
>私論だと列陽は秦皇島市から東の何れかの川の北側の地。朝鮮は水の北側で山の南に当たる正しく陽の地。葫芦島市から大凌河あたり。

↑前300年前後あたりはこうではないかと(笑)

んで。前7世紀だと自分も朝陽あたりが朝鮮だったと思います。
地名がちと出来過ぎで罠かとビビる所ありますが(笑)
洛陽の由来同様に陽が川の北岸を指すなら朝水という川を想定することができる訳ですしね。

因みに2点。
@リンク先の数字は時系列とか何か規則性がありますか?
A分布は各々川沿いに住む居住者グループor文化圏が想定されますけど、伝播ルートは⑴川下→海岸沿いの水伝え、
あくまで先に居住者がいて次に伝播という感じの⑵近い所からの陸伝え、どちらだと思いますか?
個人的には⑵だと弁辰韓の雑居と似てて面白いんですが。

14 :
さて。
7のは相当面白いこと書いてるつもりなんだがスルーされてて結構寂しい(笑)))))
要は燕に属する倭人って、遼東から帯方界あたりに住んでたこと確実な海洋民てことですね。

だがまあ。ひとまず。
遼東支配の鉄則から、
秦人(しんひと)が何処へ行ったのか。
ボチボチと倭人伝に繋げていく。

15 :
大和王朝

16 :
天武天皇は、唐軍の干渉や筑紫大地震を避けて、大和朝廷を九州から畿内に遷都しました。

17 :
あっという間に夏(笑)
来週くらい続きを書けると良いんだが。


話まったく関係ないとこで。
高天原。
説話の形で元の場所も変わると思うけど。
伊邪那美のはありゃ三次(みよし)市あたりが元だね

18 :
W期の四隅突出の発生から三次をご指定ですか

19 :
>>17
「伊射奈美神社」も、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。

イザナミを神社名とする式内社は阿波国美馬郡の1社のみです。イザナギ神社にはイザナミも併せて祀られることも多かったと考えられますが、

あえて女神のイザナミを神社名とする伊射奈美神社は、特殊な意味をもつものかもしれません。

20 :
四隅突出のルーツのとこね
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1207.htm

21 :
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

22 :
まとめると、倭人の起源は遼東の北で、みんな顔に朱を塗っていた。
扶余に近いイメージですねー(棒読み)。

23 :
沿海州南部。

24 :
それは蝦夷の起源だよ

25 :
>>18 単純ですよん。ソースはひとまず省略〜

高天原をどう読むかは諸説ありますが、天を「あま」と読むことは古事記に記されてる。
また、倭人伝のみならず、隋書に記された倭人の風習にも海洋民としての性格が色濃く感じられる。
つまり、「天」は「あま」であり「海人」なのです。
そして、「高天原」は「貴き海人の住まう原」と同時に「海人の住まう高き原」です。

なぜなら、河川の下流に辿り着いた海洋民たちは本能的に防備の面から流域支配を欲して遡上し上流域に住処を求める。
特に初期の段階に於いては河川の流れを利用して一気に川下に攻め寄せることが可能な上流域を自分たちの手で確保することが必須であるから。
このことから河川の上流域は「海人の住まう高き原」と同時に「貴き海人の住まう原」となり、遂には「高天原」の元となる訳です。

つづく〜

26 :
つづき〜

さて。この論法。つまり「特に初期の段階に於いては遡上地ほど安全で、つまるところ海人の内、高貴な者が住まう地」という論法を例えば奈良盆地に当てはめてみると…
大和川の中流域にある生駒山地や葛城山地よりもより上流にある三輪山や佐保川の上流の春日山の方が「貴き海人の住処」に相応しい、ということになる。
しかし、これらの「山」は防備的後背地であったり信仰対象として山頂には人が入らない。すると「海人の高き住処」には相応しくなく、ましてや。
【そもそもこれら全ては山であって「原」ではない】

つまり、ものすごく簡単に言うと。
【「高天原」は「高地」なのです】

更に言えば、
【複数の川を遡上した先にある交通の要所で、結果として複数の有力者(後の神々)たちが交流を深めた高地】

これら諸条件を満たすのが三次市と、市内を流れる江ノ川(ごうのがわ)の存在。【ここ(三次市)が高天原の元】
江ノ川は@江津市で日本海に達しますが、それに加え、A出雲の斐伊川、B広島の太田川、C福山の芦田川と繋がっている。
http://www.cgr.mlit.go.jp/miyoshi/river/pdf/nandemojiten.pdf

そして、三次市で流域支配が確定したあと、更なる通商と支配の利便性を求めて権力の中心地は川下に降りてくる。その地が大出雲であり、ひいては妻木晩田へと繋がっていく訳です。

27 :
昔は邪馬台国=日本だと思ってたけど、よく考えると市町村レベルの小国の一つに過ぎんな。
たまたま中国の史書に書かれてるから日本代表みたいになってるだけで。

28 :
結局高天原は三次市でOK?

29 :
高天原は海人[ama]の出発地だろうからして彌馬那=狗邪韓國のがいちおし。

30 :
>>27
金印もらってるんだから日本代表だぞ

31 :
金印は邪馬台国の前の時代に別にあった、漢委奴国王のだろ

32 :
親魏倭王印も金印だぞ

33 :
>>25
興味深い解説をありがとう。
あえて言わせて貰えば、畿内の勢力が川の上流にこだわった痕跡はあまりない。
しかし九州では、景行天皇の討伐した土蜘蛛がいちように川上にいたし、熊襲梟師の本拠地も肥前河上。
旧勢力はほとんどが九州のどこかの川の上流に陣取っていたことになる。
そもそも記紀の上代の記事はほとんどが九州が舞台だよ。
畿内に無理に当てはめてはいけない。
記紀の舞台が畿内に移るのは神武以降。
あと、原は国邑という意味。
ただし高天原は九州へも本州へも船で行き来していたから、海外のどこか。
対馬か狗邪韓国か。

34 :
>>31のは倭の国の中の奴国の王で、>>32倭の国の王だから、やはり邪馬台国の時から日本代表に昇格したのかね?

35 :
九州=倭
筑紫王=漢委奴国王
肥国王=親魏倭王

肥前肥後=女王国連合
肥後=邪馬台国
肥前代官=一大率

36 :
肥くせーんだよ

37 :
卑弥呼=肥の巫女

38 :
後世に肥の漢字が与えられたが
実態は日や火の国では?

39 :
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

40 :
>>33
>そもそも記紀の上代の記事はほとんどが九州が舞台だよ。
>畿内に無理に当てはめてはいけない。

そもそも記紀の上代の記事は、すべて四国の阿波が舞台だよ。
畿内や九州に無理に当てはめてはいけない。

41 :
狗奴国が熊本なら、邪馬台国連合は肥後を含まない。
邪馬台国は筑後にある。
ただし壹與が肥前なので、倭国は筑前から筑後、肥前までは領土としており、ほどなく肥後も征服した。
豊国は戦うことなく併合した。

42 :
クナ国が熊曾なら、クナ国は人吉以南だな。

43 :
BC3C末、徐福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

44 :
>>33
畿内勢力も初期には上流にこだわってる筈ですよ。
ただ彼らはその時代全く目立つことができなかった。
故にまず盆地の安定を図り、そのかなり後になってやっと成り上がった。
つまり、彼らがこだわったのはまず「上流」。
次に三輪・春日・葛城・生駒の山々、つまり盆地の「4つの入口」。
果てに成り上がる孝霊頃の宮は黒田庵戸宮(くろだいおとのみや)。唐子鍵のあるあたり。大和川のほとりの平たい地。ただ盆地の「中心」近く。
他の海人同様に、初期には防備面から上流にこだわり、後に通商と支配の利便性を求めて中心地が移動する筈です。

兎も角も。畿内に無理に当てはめた訳ではなく、【三次市ほど当てはまる場所が中々ない】ということです。
九州であれば巨大2川の遡上地として太宰府があるけども、そこは高地とは言えない訳で(まあ太宰府のこの立地に面白味があるのは無論ですが)。

45 :
「国生み神話の高天原」を海外に求めるのは論理的だと思う。
なにせ国生みは大八洲の成り立ちしか説明しない。
話は天地開闢であるのに日本列島の成り立ちだけを描くのであるから、
国生みの前からある高天原は日本列島以外の海外と考えるのが自然である。

んだが〜。半島ばかりでなく沖縄などはどうか、と思ったりもする。

更に自分が思うのは、より根本的なところ。
つまり、天地開闢なのになぜ日本列島の成り立ちだけなのか?となる。
そこを展開すると、こりゃもう正に記紀はその成り立ちから既に極めて政治的だとしか言えない。
大八洲のみの天地開闢神話のメリットとは正に国土死守とおべっかと知識の間借り。
自分たちの天は世界の中心ではなく、自分たちは東夷と認めた証で、それにより華夏の人文地理科学を間借りできるメリットも得た。

46 :
卑弥呼=神武天皇って有り得る?

47 :
>>46
貴方の説明次第で

48 :
>>38
そのとおり
「日」ではなくて「火」じゃないでしょうか?

火闌降命 天火明命 彦火火出見尊 など、
この頃の名前には火を吹く火山から付けられた名前が多いような気がします。


つまり、ヒミコは「火見女」または「火見子」でしょう。

49 :
火明命や火火出見のほは稲穂の穂。
穂がたくさん出てめでたいな、という名前。
漢字だとわかりにくいが、音はほとひで全然違うから。
肥国は火山が多いので火。
卑弥呼は多分、日嗣の神子などと同じく日の意味かと。

50 :
彦火火出見の彦は日嗣の御子。
番能邇邇芸は稲穂がたくさん出て賑やかだなあ。ただし、ニギまたはネギで王位を表す意味もあるらしいです。
魏志にあるネギ、ニニギの兄のニギハヤヒなど。

51 :
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

52 :
>>49
なるほど

でもそれなら、彦穂穂出見にすればよかったのに

なぜ音の違う火の字をあてたんでしょう?

53 :
当て字としてなんとなくカッコよかった、厨二病。

54 :
BC3C末、徐福の一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

55 :
横だけど、
元々は日と火は同じ(燃え盛るもの)。漢字を使うようになった上代に使い分けるようになったと思う。
卑彌呼・卑狗と狗古智卑狗・卑彌弓呼の「卑」は同じ日&火。

56 :
日は「ひ」だけど火は「ほ」だよ
本来は違う音だ

57 :
「手」は「た」だべ。古代は

58 :
火は穂だった。

59 :
>>56
肥前肥後は「ひぜんひご」だが、火の国「ひのくに」から来てると言われてる。

火が「ほ」なら、なぜ「ほぜんほご」にならなかったの?

60 :
>>58
火は火だった!

火は阿蘇山が吹きあげる炎

神武やその先祖は今の福岡南部〜熊本北部に住んでいた為、

火が入っている名前が多いのでは?

61 :
>>59
火の国(ほのくに)→火の国(ひのくに)→肥の国(ひのくに)

62 :
>>61
>火の国(ほのくに)→火の国(ひのくに)

これ、必然性が無いじゃんw 

63 :
必然性とかじゃなくて、時代とともに発音が変わったんだよ

64 :
>>63
ソースは?

65 :
歯は、「pa→fa→ha]。 出歯は「デッパ」


>時代とともに発音が変わったんだよ

66 :
火に関することで「ほ」と発音するものといえば
・ほのお(炎)
・ほてる(火照る)
なんかがあるな

67 :
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか


日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

68 :
ひとほが同じなどと言い始めたら、なんでもありになってしまう。
番能邇邇芸という名が五穀豊穣の名前として簡単に読めるのだから、無理に音を捻じ曲げて火と解釈する必要はない。
そもそも神武がいた筑紫高千穂は現在の福岡県高祖山であり、筑前国だ。肥国は関係ない。

69 :
ひとほが同じとか言ってるバカはひとりもいないがな

70 :
BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。

71 :
肥(ひ)の國は火(ひ)の國。
元々は肥の國と筑紫の國を合わせて火(ひ)の國。
そしてこの火(ひ)は卑狗(ひく)、狗古智卑狗(くこちひく)と同じヒ。

上代仮名遣いで、
火は(ひ乙類)と(ほ)の2種類の読み方がある。肥(ひ乙類)や穂(ほ)と同じ音。
日は(ひ甲類)の音。卑や比と同じ読み方。これらはヒコのヒでヒコが日子であることを示唆するかのようである。

因みに氷は(ひ甲類)である。
ひ甲乙の違いは似ているが違う音ということになる訳だが〜
氷(ひ甲類)ー異音ー火(ひ乙類)←氷と火が違う読みなのは納得できる。実際に同じ音だったら使いにくいことこの上ない。だからこそ。
氷(ひ甲類)ー同音ー日(ひ甲類)←氷と日が同じ音となる???

そもそも天(あめ)と海人(あめ)が同音なのには作為がある訳だが、
氷(ひ甲類)と日(ひ乙類)が同音なのにも作為があるんだろう。
これらは全て水で繋がってる作為という訳なんである。

72 :
第二の青春を始めましょう!!
http://blogs.yahoo.co.jp/logdcabin

73 :
>>41
すべて完全に間違えている。基地外なのか?

74 :
>>73
どこがどう間違えている?

75 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

76 :
>>65

>出歯は「デッパ」

いやいや、デッパという音に出歯という漢字を当てただけ。
音が先で文字は後、だから歯はパじゃないんだぜ

77 :
>>71
それって焼酎の話か?芋か?麦か?

78 :
「デッパ」は「でふま」の転訛で、「デ」「ツ(ふ)」「ま」という音を
続けて発声するときに身体の構造上で止む無く発せられてしまう(pa)音
「デッパ」を(出歯)と漢字表記するのは「デッパ」と発する音の意味を漢字で表現した
結果で、後に出歯をデッパと表現するようになっただけの話
(出歯)はこの二文字がそろうことで初めて(歯)が「パ」と表記でき、単独では間違っても「pa」
という音にはならない
それが証拠に「デッパ」漢字を使って日本語表記すると(出っ歯)と三文字を一語句と使用し当てている。

歯の古代音が(pa)だなんてトンデモにも程がある

79 :
先ほど>>78で「デッパ」は(でふま)の転訛と述べたが

(でふま)

「で」   =出

「ふ(つ)」=付く

「ま」   =間

高さの揃ったもの(歯)の間に出たもの(歯)が付いた状態。それを現代はデッパと称している

80 :
>>46

>卑弥呼=神武天皇って有り得る?

99%有り得ない

卑弥呼も神武天皇も共に漢語で、卑弥呼という言葉が用いられた時には既に「神武」も「天皇」も漢語として
存在していた。
それを同一人物として後世また別けて表現することなんてあり得ないし、それをする
理由もない

81 :
神武=崇神説と崇神=卑弥呼説があるから
一応はあり得るのかもな

82 :
注意  以下のスレ主は自分以外のスレ荒らすから
    すでにこのスレもターゲットにされている

http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1473345401/

83 :
注意  以下のスレ主は自分以外のスレ荒らすから
    すでにこのスレもターゲットにされている

http://mint.2ch.sc/test/read.cgi/history/1473345401/

84 :
日本海よ
そろそろまじめに日本海ルート論やれよ

85 :
>>84
日本海ルートなんて邪馬台国スレとは関係ないからスレ違いだろ

86 :
持論展開も久々すぎだが(笑)
まあでも全く知らない人もいるだろうからね。

日本海ルート論の基本は、「交易ルートは1つじゃない」ってこと。

伊都國に常駐を止む無くされ、沿岸沿いに北東へ消えて行く邪馬壹國行きの船を博多湾から見守る魏使たちは、
船旅に絶対方位を使わぬ倭人たちから邪馬壹國までの旅程を聞き出す。
この時点で判明しているのは太陽と入り組んだ海岸線や山道を基準にした方位のみ。このような曖昧なものは無論なんの役にも立たない。
しかし、邪馬壹からの返使はなぜか博多湾の南から陸路で伊都國に戻って来た。聞けば伊都津から遠く眺めることのできる奴國を経由して来たと言う。
だから、「邪馬壹國は南にある。投馬國もまた南にある」という魏使の錯誤が生まれた。

畿内を船で目指すとき、日本海の潮流を利用して丹波まで進んだ方が早い。
投馬まで水行20日、邪馬壹まで水行10日と陸行1月とこれだけで2月。すると往復に最低4月。これでは日本海の荒れる冬場にかかる。
荒れる日本海を避ければ瀬戸内海ルートを使うのが一番早く、更に博多湾のある玄界灘をも避けて豊前から陸路で博多湾を目指すというルートが見えてくる。

87 :
それからそれから

88 :
南は東の間違い
畿内説の定番

89 :
この時代はまだ沿岸航行のみで、渡海航行は確立していない。つまり水行日程が問題になってくる。

@魏使は伊都に留まっている。
A邪馬壹へ向かう使者は、博多湾から船で出発した(魏使はそれを見送っている)。
B邪馬壹からの使者は、博多湾の南から奴國を経由して陸路で戻って来た。

C投馬國経由邪馬壹行きの日程情報を倭人から得た。
D更に(奴國を除く)旁國20の情報も倭人から得た。
Eこれら女王連合の南に狗奴國があるという情報も得た。

  →→→→→→→→→→→→
〜↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓
伊都〜(博多湾)〜〜 〜↓
  〜〜〜〜〜〜〜〜 〜↓
      奴國  不彌 〜↓
        ↑       〜↓
      旁國   投馬←↓
        ↑        〜↓
        ←←←邪馬壹←←
狗奴國

「邪馬壹からの使者が南から来た」を論拠にして出した理論上の解なので、当然ながら邪馬壹だけでなく投馬國の方位まで南となる。
理論上の解である故にどれだけ東寄りかは問題にならず、ただ南とだけ記すことになる。

90 :
>>89
伊都国は小城市、奴国は佐賀市、不弥国は久留米市辺りではないの?
また投馬国5万戸、邪馬台国8万戸の人口を養うには、米作のための
広い平野がいる。有明海を南に水行して広い平野は熊本市の投馬国。
陸行に一月掛かるといえば、九州を横断した西都辺りが邪馬台国になる
のではないか?魏志倭人伝には、大雑把にそう書いているように思える。

91 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

92 :
>>90

伊都有明海説は自分も好きな論です。
正直、書かれた内容に沿えば非常に論理的で強力な説だと思う。
更に、論理的に否定できないものを否定するのは非論理的だから、当然否定できない。

ただ、漢倭奴國(57年)から親魏倭國(邪馬壹國を含む女王連合)(238年)までに発展する通商連合体としての倭國を説明し切れるか。
更に、銅矛銅剣銅鐸などの分布や、高地性集落の傾向、そしてその衰退と巨大墓の進展などのダイナミックな時代のうねりの中にある。
こうした中で九州というコップの中に留まっていられるか。
勿論留まれる理由が提示できればソレで問題無し。しかしそれでも自分は日本海ルート論を採る。

なぜなら、日本海ルート論はこれらを説明できるからです。

93 :
概論の続き。大雑把な比定地から。

對海國(千 戸)→対馬
一大國(三千家)→壱岐及び博多湾の領海権
末盧國(四千戸)→東松浦半島を含む肥前全域
伊都國(千 戸)→福岡県糸島市と志賀島
奴 國(二萬戸)→春日市と福岡市、大野城市
不彌國(千 家)→宇美町を含む福岡県糟屋郡全域

狗奴國(不 明)→筑後全域及び熊本県菊池市周辺

投馬國(五萬戸)→豊前宗像から山陰と兵庫県美方郡までの日本海沿岸

邪馬壹(七萬戸)→奈良&隣接4県(但し兵庫県美方郡を除く)及び淡路

旁 國(不 明)→瀬戸内海及び豊前、更に邪馬壹國に隣接、内包される諸國

94 :
93は後漢の光武帝から漢倭奴国王印を貰った時代の伊都国で
魏志倭人伝の卑弥呼の時代まで200年経っている。
倭奴国(イト国)か奴国連合の中の伊都国かは分からないが、
漢も滅んで魏の時代になっている。
魏志倭人伝に書いているので、伊都国が小城市に在って何もおかしくない。

95 :
自分が奴國を福岡平野に比定するのは金印の存在だけではありません。

まず日本海ルート論の考え方としては、
【倭國の最小単位は、対馬壱岐の渡海可能な海人國と、彼らに食糧を供給できる穀倉國の3國である】というのがあります。

更に自分の考えで言えば、この【最小構成の倭國】は、
秦が滅び更に漢が遼東の秦の旧領を破棄した際に行き場を失ったこの地にいた秦の地方官僚との混血を一部に持つ秦韓(辰韓)と、
前3世紀の昔から貿易をしています。
コレを仮に倭國にとってのファーストインパクトとするなら、次のセカンドインパクトはコレとは比較にならない。

秦韓との接触はなぜか漢人には見つからなかった。
しかし、王莽の頃になって見つかりそうになり、光武のときには完全に接触を果たす。

(ここ面白いので後で補足しますが)(ひとまず端的にまとめます)

大内乱を終えて数十年、名君光武の晩年という超本気右肩上がりの華夏帝国との初接触。
秦韓とは経済規模も文明も珍物や技術の質量もまるで比較にならない。その上で蛮夷扱いがあったにせよ、吉祥としての国賓待遇は間違いない。

だから、倭國が大きく変わっていくのはココから。
逆に言えばココまでは、最小構成に近い博多湾沿岸国家が倭國であっただろうと思う訳です。
無論、この漢倭奴國は漢との貿易で更に栄えますから、3世紀中頃の卑彌呼の時代で分裂してもなお現役として活躍する力を残している。

96 :
福岡県(筑紫)というのは奇妙なことに玄界灘・博多湾から有明海まで
ヒョウタンのように続いている。
魏志倭人伝の有明海の奴国は、博多湾(漢倭奴国王)の分家ではないか?
博多の奴国は出雲国と一時的に連合して,宮崎の邪馬台国と対立していた。

97 :
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、
或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」

これが四国でなくてなんなんだよ

98 :
>>96
福岡の奴国と佐賀の奴国か。
折衷案だな。
でも、卑弥呼の時代の倭国の範囲としては適当だな。

99 :
後漢鏡どころか前漢鏡ですら洛陽晋墓に副葬されている

つまり漢鏡の供給元の年代は
晋が成立する265年より以降まで下ることになる

そこから伝来する漢鏡の出土をもって年代を決めるのは慎重さが求められる

100 :
>>97
丹も橘もね。


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